Thursday, October 22, 2015

私的オールブラックス戦プレビュー

昨日久しぶりにblogをアップしたことで、自分だけの淡い記憶としてそっと残しておくつもりだった「私的スコットランド戦プレビュー」にもアクセスが流れていたようだ。結果的には予想と全く異なる展開になってしまい、非常に恥ずかしい限りだが、もう一度やってみることにしよう。南アの視点を想像しながら、「私的オールブラックス戦プレビュー」を。

スタート地点は、スプリングボクスの「今」だ。ゲームプランの出発点は、常に「自分たち」だと思っている。相手から入ってしまった時点で、既に相手の土俵なのだから。

南アのチーム状態は確実に上がってきている。最大の要因はもちろんジャパン戦に違いないのだけれど、ジャパン戦とそれ以降で南アが変えたのは何だろうか。
もちろん、デュプレアだ。SHのスターターにデュプレアが入ることで、ゲーム全体の構成力が格段に高まった。構成力というのは、ゲームプランの遂行能力というよりも、大局的な洞察力と局面での判断力の総和といったイメージで俺としては捉えている。ゲームプランは大切だが、どこまで行ってもプランでしかない。グラウンドにおけるベスト・チョイスは、必ずしもプランと一致しなかったりもする。そういう意味では、やや抽象的な表現になってしまうが、デュプレアがリードすることで、タフ・ファイトの南アに「老獪」という新たな武器が加わった。ウェールズ戦を見ても、チームのデュプレアに対する信頼感が伝わってくる。タイトなディフェンスも戻ってきている。またいつもの妄想で申し訳ないが、俺がコーチだったらミーティングでのメッセージは決まっている。
「ジャパン戦とそれ以降では、もう別のチームだ。あの日以降、君たちは4試合でわずか2トライしか奪われていない。平均失点はわずか10点。誇るべきタイトファイトだ。それでもメディアの誰ひとりとして、日本に敗れたチームが王者に勝つとは思っていないだろう。でも、NZはまだ厳しい試合を1つもしていない。俺たちは負けて失うものはないのに、勝てる流れも、勝つ準備も出来ている。歴史に名を刻めるお前たちがうらやましいよ。」
いやまあ、HCのメイヤーはもっと直球で檄を飛ばすのかもしれないけれど。

こういう流れの時は、自分に立ち返るのが鉄則だ。自分たちがすべきことに、ただ集中する。
南アにとってそれは、相手に恐怖心とフィジカルな痛みを徹底的に植えつけるディフェンスと、デュプレアに対するあくなき信頼ということになるだろう。ゲームメイクなんて、デュプレアに任せてしまえばいい。SOのポラードとのコンビで、この2人がすべてリードしてくれる。あとの13人はただ野獣であればいい。こう書いてしまうと、これほどまでに複雑化したラグビーにおける戦略の重要性を無視した議論だと怒られてしまいそうだが、戦略面での緻密な分析と準備など、当然してくるに決まっている。このレベルの選手たちは、忘れたくても忘れられないほどに、戦略の意味も、個々のプレーに対するアジャストの仕方も、身体が覚えているから大丈夫だ。

とはいえ、本音を言うと、オールブラックスを分析できるほどの蓄積が残念ながら俺の中にないだけだったりもする。そもそも、オールブラックスのゲームも2試合(ジョージア戦、そしてフランス戦)しか観ていないので、イメージも具体的なソースも限られてくる。それでもなんとか考えてみると、NZはどことなく、ブレイクダウンにあまり人を割かないイメージがある。非常に良い意味で、スマートなラグビーだと思う。一方の南アは、アタックもディフェンスも、ブレイクダウンでは思い切り勝負してしまうのがいいんじゃないか。アタックはPick&Goのようなプレーも積極的に織り交ぜながら、「密集近辺」というよりも「密集そのものでの戦い」を執拗に繰り返していくのが効果的ではないかと思う。マイボールでもカウンターラックのように押し込んで、ラックの真上というかど真ん中をピックしていくような。まあ、あくまでイメージだけど。最近では「リサイクルベース」というのがアタックの主流になってきているが、もうそういう言葉はどうでもいい。俺たちは「パンチベース」だと。そういう開き直ったアタックを見せてほしい。ディフェンスも同様で、絡めると思ったら絡みにいこうぜと。アライメントもパンチもどちらも重要だが、悩んだらパンチを優先しようぜと。こういう匙加減でゲームを組んでいくのが、南アにとってはよいのかなという気がする。

書いているうちに、もはやプレビューでも何でもない個人的かつ希望的観測になってきてしまった。
まあでも、それでいいかな。こうして想像を膨らませながら観るラグビーもまた格別だ。

オールブラックスは本当に素晴らしく、圧倒的な強さを持っていると思う。
でも、2011年W杯の決勝だって、誰がもフランスでは歯が立たないと予想していたんだ。
最後にメイヤーに代わって、届くことのないメッセージを勝手に書き残しておこう。
「W杯の歴史にアップセットは存在する。でも、一度も苦しまずに優勝したチームは存在しない。」

Wednesday, October 21, 2015

rugby respects people, people respects rugby.

ちょっと煮え切らないものがあるので、書いてみたい。
オーストラリアvsスコットランド戦における「誤審」のことを。

まずはシンプルに、事実だけを整理してみよう。
34-32でスコットランドがリードしたまま迎えた後半38分。最後までゲームの行方が分からないぎりぎりの状況の中、スコットランドが不遇にもノックオンオフサイドを取られてしまう。結果的にこれがオーストラリアの逆転PGとなって勝負は決したのだけれど、映像による事後検証の結果、オーストラリアの選手が事前にボールに触れていたことが明らかになった。つまり、ファクトベースではミスジャッジだった。スコットランドの選手たちは、笛の直後にグラウンド上でTMOを要求したが、トライに至るような場面ではなかったために、レフリーのジュベールは要求を受け入れなかった。スコットランドにとっては悲劇的だったノーサイドの直後、ジュベールは足早にグラウンドを去り、その姿勢も多くの批判を浴びた。そして最終的に、World Rugbyはジュベールの判断がミスジャッジだったと公式に認める声明を発表した。これが一連の顛末だ。

その上で、俺のポジションも明確にしておきたい。
確かにミスジャッジだった。これは映像が残っている以上、否定しがたい事実だ。でも、あくまでミスジャッジであり、アンフェアなジャッジではなかったと思う。それでも「プアなジャッジだった」という批判はあるかもしれないが、仮にそうだとしても、この日のグラウンドはジュベールに委ねられていた。この事実は変わらない。また、スコットランドのTMO要求を受け入れなかったのも、ルールに即った対応として正当に認められるべきスタンスだと思う。ジュベールにグラウンドで両軍の奮闘を讃えてもらいたかった、というのは俺も多くの人と同じ感覚だ。ただ、World Rugbyの公式声明については、正直に言って、なくてもよかったのかなと思っている。理由はシンプルで、ジュベールはもう既に十分な辱め(制裁)を受けていたと思うからだ。

ラグビージャーナリストの村上晃一さんは、Blogの中で書いている。
http://www.jsports.co.jp/rugby/loverugby/post-2314/

「おそらく、この問題を長引かせないために早めに発表したと思われる。それはレフリーを守る意味も含まれているだろう。(中略)今回の発表は良かったと感じている。間違いは認め、今後のレフリング技術のレベルアップに生かすべきだと思うからだ。」

断言するが、レフリング技術の向上と今回の声明は関係ない。あの声明がなくても、ジュベールは心に消せない傷を負ったんだ。誰も裁定をせず、永遠の闇として白黒がつけられないままにあの瞬間が葬られたとしても、ジュベール自身の心には、「彼にとっての真実」がいつまでも残るはずだ。実際にボールに触れてしまったオーストラリアのSHフィップスが、一切を語らなかったとしても指に残る感触を消すことができないのと同じように。

ジュベールは今後、ノックオンのたびに胸のどこかに疼きを覚えることになるのかもしれない。ナショナルマッチ、それも4年に一度のW杯で、ラスト2分をわずか2点差で迎えたQuarter Finalの笛を吹く人間の矜持というのは、きっとそういうものだと思う。それで十分じゃないか。もうカタはついた。これ以上、ジュベールに何を期待しようというのか。レフリング全体の向上を語るのであれば、ジュベールという一個人をスケープゴートにする必要はないはずだ。

「レフリーも人間であり、人間はミスをするものだ。」
よく耳にする台詞だ。でも、レフリーの人間性に人間的な眼差しを向けて、「ラグビーに人間の笛を」というのであれば、当事者であるジュベール自身の心に、もっと思いを巡らせてもいいはずだ。

今回のミスジャッジは非常にセンシティブな状況下だったこともあり、多くのコメントや論評が目に入ってくるが、ジュベールの内面にフォーカスした議論は全く見られない。

人間性へのあくなき尊厳をベースに考えるならば、最も大切なのは「徹底的に潰さない」ことだと思うんだ。結論をつけて、オフィシャルにミスだったという烙印まで与えることに、どうしても意味を見出せない。プレーヤーも、ファンも、協会関係者なども含めた全ての人間が、自分の心に問いかけて、自分の中でカタをつければいいじゃないか。

俺は人間的にラグビーを楽しみたいので、例えばあの瞬間、ファンが「バカヤロウ、ジュベール!」と野次を投げ飛ばしても、「それがラグビー」というスタンスだ。むしろ、そんな光景を味わい深いとさえ思う。右手に掴んだビール缶を握りつぶして、誰にともなく怒りをぶちまける。そんなファンだって、ラグビーのことは大好きだ。スコットランドを心から愛する人たちだからこそ、沸々と燃え上がる怒りを止められない。それで、いいと思うんだ。

でも、パブに流れついて仲間としこたま飲んで、思いつく限りの文句を吐いた後、ふと考える。
もっと辛いのは、スコットランド代表として戦ったメンバー自身なんだよな、と。
誇るべきスコットランドの英雄たちは、ラグビーに携わる人間を心から愛していて、ラグビーの文化を大切にする集団だからこそ、この辛い現実を黙って受け入れていくことになるんだよな、と。
その時には、もう仕方ないじゃないか。そうして、ファンも自分自身の中で、カタをつけていく。いつまでも引き摺って正解に頓着するのは、野暮だと思うんだ。


その上で、もう1つの人間性についても触れてみたい。

今回のケースで、TMOを求める心理はよく分かる。なぜなら、テクニカルに可能だからだ。「映像があって、実際にTMOという制度が存在するのに、なぜ適用しないのか」、そう考えるのは人間の性そのもので、十分に予想された反応だと思っている。それでも、ジュベールがこのシーンでTMOを採用しなかったのは、ルールに則っている以上、議論の対象外だろう。本当の問題は、こうしたケースを鑑みて、ラグビーは今後TMOをどのように位置づけるのか、ということだ。

俺の率直な感覚でいえば、TMOなきラグビーへの回帰は、もう世界が受け入れないと思う。つまりは、ミニマムで現状維持であって、その適用領域を拡大するか否かという議論になってくるような気がする。TMOの頻発によってゲーム全体のテンポが奪われているとの指摘もあるが、TMOが「公平性の担保」のみでなく、いまやエンターテイメントの側面を持っているのも紛れもない事実だろう。それに、事実を知りたいという「人間の性」を封じ込められるとも思えない。本質的にパンドラの箱のようなものなんだ。今回のノックオンオフサイドの特徴は、映像があれば「解釈を介さずに、ほぼ一意に判定される」という点にあるが、こういう類のプレーは、基本的にTMOとの相性がいいはずだ。この手のプレーを対象とするか否かが焦点の1つで、自分自身のスタンスはまだ明確に決めかねているが、いずれにせよ難しい議論だと思う。

でも、それでも、2019年に日本で笛を吹いてくれるのは、やっぱり人間だ。
ラグビーに、そしてグラウンドに立っている全ての人たちに、心からリスペクトを。