Sunday, August 31, 2014

コーディングレス、そしてコーダー。

Fujitsu Software Interdevelop Designerに関する日経記事がきっかけで、という訳でもないのだけれど、コーディングという行為について、コードを書いたことがない素人が思うことを。

基幹業務を対象に、一定の日本語書式で作成された設計書からプログラムを自動生成するソフトウェアで、システム開発費の4割を占めるプログラミング費用が不要になるという日経記事は、様々な意味で反響があったようで、ざっと検索した限り、概ねネガティブな評価が多いようだ。テストデータの生成も可能といった点をポジティブに捉えたコメントも一部あるものの、「設計書作成が実質的にプログラミングと変わらない」、「この怪しいツールの後始末で大量のSEが泣かされる」といった酷評が総じて目立っている印象だ。まあでも、それ自体はどうでもいい。考えたいのは、このツールの実用性ではないからだ。そんなものは、1年もすれば歴史が証明することになるのだから。

俺が思うのは、それでも「コーディングレス」というのは1つの志向性であり続けるのかなということだ。イノベーションは、往々にして非効率や不便、あるいは素人からみた困難や分かりづらさが起点となって生まれる訳で、現在のシステム開発における「コーディング」という行為に、イノベーションの種がないとは思えない。一方で、コードがビジネスをある程度まで規定するようになっている昨今、業務ニーズと戦略さえあれば、コーディングレスでアプリケーションを作成できる世界というのは、ITの理想郷として、ずっと存在するのかなという気がする。その実現が、数年後なのか、十数年後なのか、あるいは数十年後なのかは分からないけれど。

でも、ここでもう1つの観点が頭をもたげてくる。
日経のヘッドラインは、プログラマーという職種の今後にどこか消耗戦の雰囲気を想起させたけれど、どちらかというと、プログラマーの重要性は今後むしろ高まっていくのではないだろうか。いや、こう書くとやや誤解を招くかもしれない。より正確には、ハイスキルなごく一部のプログラマーの存在感が、(この世界における)他の職種を圧倒していくのかなというのが、なんとなく感じていることだ。

コーディングレスといっても、バックエンドでコードを自動生成する訳で、誰かがコードを書いているという事実は変わらない。コードを自動生成するためのコードを、より高い次元で、より生産的かつ効率的な方式で、より美しく、より汎用的に書ける人間がどうしても必要になってくる。宇宙の果てを考えると、果ての先が分からなくなるのと同じように、コーディングレスの世界を考えていくと、バックエンドに不可知の領域が横たわっているのは当然で、あまりにこの志向性が強くなりすぎると、最終的にはバックエンドを司る人間が、かなりのパワーを持つことになるような気がしないでもない。

そういえば先日、ある業界イベントで"Infrastructure as a Code"という考え方について、40分ほどの講演を聴いてきた。オープンソースの構成管理ツールであるShefを活用して、システム基盤をソフトウェア的に管理するというものだ。Shefでは、Recipeと呼ばれる基盤の構成情報をRubyプログラムで記述して、サーバーに自動実行させるのだけれど、プログラムに管理させるということは、プログラムの品質が管理品質に直結するということだ。まあ、俺自身はエンジニアでもないので、そこに求められるプログラムのレベルもよく分からないけれど、Shefに限らず、ソフトウェアで諸々の挙動が制御されていく世界では、機能的に(そしておそらくは、それ自体としても)美しいコードを書ける本物の職人が、極めて重要になっていくはずだ。

Fujitsuの取り組みがどう転ぶかは、静かに見守っていればいい。
でも、コーダーは大切にした方がいい。少なくとも、世界を握るかもしれない特別なコーダーと、その卵のことは。

Wednesday, August 20, 2014

『The DevOps』、水天宮前を歩きながら。

The DevOps 逆転だ!究極の継続的デリバリー
  • 作者: ジーン キム,ケビン ベア,ジョージ スパッフォード,長尾 高弘,榊原 彰
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2014-08-18

  • 朝。地下鉄に揺られて会社に向かい、水天宮前で降りるといつもの光景が待っている。
    改札を出て比較的長めの動く歩道を越えると、必ずぶつかるのが渋滞だ。そこから先、4B出口までの階段が狭すぎてボトルネックになっている。そんな訳で駅員さんは毎朝、動く歩道の終端で通勤者を誘導している。「申し訳ありませんが、左側に大きく迂回ください」って。終端付近で渋滞してしまうと、動く歩道から降りられず危ないからだ。

    でも、ダメなんだよ。毎朝、心の中でひとり呟いてしまう。
    出口では解決しないんだ。動く歩道の入口をコントロールして、流量制限しないと。階段幅は、急には広がらないのだから。

    さて、本書だ。
    書評を書くのは随分久しぶりだが、個人的になかなか興味深かったので紹介したい。
    パーツ・インターナショナル社の社運を賭けた新システム開発、「フェニックス・プロジェクト」をめぐる幾多の困難を、新任VP(Vice President)としてIT運用を担うビルが乗り越えていく物語。有名な『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著)のシステム開発版と思ってもらえば、ほぼ問題ない。ITプロジェクトにまつわる典型的な問題を、小説という形式の中でデフォルメすることで、分かりやすい形で提示した著作だ。それでもIT特有の用語が多く、業界関係者でなければ読みづらい部分はあるかもしれないが、一方で、システム開発に携わった経験がある人間にとっては、楽しく読める内容になっていると思う。ちなみに、書店で見かけて購入を決めた理由の1つは監修者だ。個人的にもお世話になっている榊原彰さんと来れば、買わない訳にはいかない。それにしても、こうした著作の監修までされているのには少々驚いた。

    この形式の先駆的著作といえば、やはりなんといっても『ザ・ゴール』なのだが、本書のストーリー自体においても、『ザ・ゴール』でエリヤフ・ゴールドラットが提示した制約条件理論が、その中核となっている。主人公のビルにとっての事実上のメンターとして、彼を成功へと導くエリックは、「4つの仕事」、「3つの道」というフレームワークを道標として、プロジェクトにおけるボトルネックを見極め、適切にコントロールすることで、スループットを最大化させるために示唆を与えていく。詳細は本書を読んでもらいたいが、極めて合理的な考え方だと思う。『ザ・ゴール』の制約条件理論が、必ずしも工場の製造工程だけに該当するものではないのは、まったくもって自然なことだ。システム開発を工場とのアナロジーで考えるのも、目新しいアプローチでは決してなく、極めてオーソドックスなものだと思っている。その意味で本書の価値は、理論的な側面からの斬新性にある訳ではない。どちらかというと、エンターテイメント性と分かりやすさだろう。

    ただ、本書を読んでいて、改めて考えてしまった。
    ゴールドラットの制約条件理論がシステム開発にも十分に適用できるように、システム開発における改善アプローチは組織運営全般にも適用できるのではないかと。
    この物語が提示する課題認識に共通するものは、日常の中にいくらでも感じ取ることができる。ボトルネックに手をつけなければ、それ以外の部分をどれほど改善してもスループットは上がらない。一方で、特定のワークセンター(あるいはキーパーソン)がボトルネックとなる理由の一端は、「自分がいなければ廻らない状況」を彼ら自身が(意図的かどうかは別として)作り出してしまっているからだ。ボトルネックのリソースは、徹底してスループットを最大化するための活動に費やされなければならない。どれも、至るところに転がっている話じゃないか。開発じゃなくても、たとえば営業活動でも同じように。

    本書の主題はシステム開発プロジェクトであり、この流れの中でキーワードとなるのがDevOpsだ。Dev(elopment)Op(eration)s、つまり「開発と運用の一体化」だ。もちろん、曲がりなりにもこの業界で仕事をしている1人として、DevOpsというコンセプトには非常に興味を持っている。「IT業界ではお馴染みのバズワードじゃないのか」といった向きもあるのもしれないが、とやかく御託を並べるのは一旦先送りにして、素直に乗っかってみたいと個人的には感じている。理由はシンプル。それが本質的にはプロダクトでもテクノロジーでもなく、「人間のふるまい」にフォーカスしたコンセプトなのかなと思うからだ。結局のところ、人間が一番面白い。いつだって、中心にあるのは人間そのものだ。

    ただ、本当に考えたいのはDevOpsというよりも、"Something like DevOps"なのかもしれない。
    組織で生きている以上、組織を考えない訳にはいかないからね。水天宮前の階段のように、解消できないボトルネックばかりではないはずだ。


    ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
  • 作者: エリヤフ・ゴールドラット,三本木 亮
  • 出版社: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2001-05-18

  • 継続的デリバリー 信頼できるソフトウェアリリースのためのビルド・テスト・デプロイメントの自動化
  • 作者: David Farley,Jez Humble,和智 右桂,高木 正弘
  • 出版社: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2012-03-14


  • Saturday, April 19, 2014

    到達する場所は、きっと違う。

    アーティストになれる人、なれない人 (magazinehouse pocket)

  • 作者: 宮島 達男
  • 出版社: マガジンハウス
  • 発売日: 2013/9/24

  • 書店をふらついていたら、偶然目に留まった1冊。
    宮島達男×大竹伸朗とあったら、やっぱり買ってしまう。ほとんど知らない現代アートの世界にあって、以前からどことなく好きなんです。この2人の作品が。

    書籍としてのクオリティは、それほどでもないかもしれない。対談集というのは、基本的にやや散らかってしまうもので、致し方ない部分もあるかなと。
    ただ、大竹伸朗の素晴らしい言葉に出会えただけで、俺としては満足している。わずか1つのフレーズにこそ価値があるような書籍があっても、いいじゃないか。
     俺、そんな場所を目指してます。 

    人から何か言われてやめてしまうとしたら、そこまでだということです。(中略)ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。(中略)だけど、大事なことは、その『持って生まれたもの』がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。『持って生まれたもの』がなかったとしても、もしそれを50年間弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。

    Sunday, March 16, 2014

    お勧めの本を。

    久しぶりに、本のことでも。
    2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
    まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。

    そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。

    まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。

    クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実
  • 作者: リンダ ポルマン, Linda Polman, 大平 剛
  • 出版社: 東洋経済新報社 (2012/12)
  • 発売日: 2012/12

  • 人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。

    フェアトレードのおかしな真実――僕は本当に良いビジネスを探す旅に出た
  • 作者: コナー・ウッドマン, 松本 裕
  • 出版社: 英治出版
  • 発売日: 2013/8/20

  • 本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。

    トップ・シークレット・アメリカ: 最高機密に覆われる国家
  • 作者: デイナ プリースト, ウィリアム アーキン, Dana Priest, William M. Arkin, 玉置 悟
  • 出版社: 草思社
  • 発売日: 2013/10/23

  • 9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。

    Monday, January 13, 2014

    大学ラグビー決勝。

    ラグビー大学選手権決勝。
    帝京大 41―34 早稲田大(13:00K.O. @国立競技場)

    タマリバ時代の仲間3人と久しぶりに再会して、皆でTVでの観戦となった。
    個人的な印象だけでいえば、帝京大の完勝だと思う。最終スコアは7点差といっても、実際には危なげない勝利だった。早稲田大の関係者には申し訳ないけれど、底力の差はもっとあるのではないだろうか。ただ、これが選手権決勝だ。きっとそれは、"One of them"では語れないゲームなのだと思う。「それでも帝京大は終始落ち着いていた」とか、「慌てる様子もなかった」といった論評が既に多々見られているけれど、このゲームが特別だというのは、帝京大にとっても変わらない。彼らもきっと死に物狂いだったと思う。でも、それでいいじゃないか。冷静と狂気は、必ずしも相反しないのだから。

    ただ思うのは、そういうアンビバレントな状態を上手にマネージする術として、帝京大は1つひとつのプレーと戦術から入っていくアプローチを明確に志向しているような気がする。「狂えよ」という思想がまずあって、その先に「コントロールされた狂気とは、どのようなプレーなのか」というように発想が展開していくのではなくて、とにかくまずは執拗にプレーのクオリティを追求する。ヒット、そしてブレイクダウン。1mの戦いに、フィジカルと技術の双方から具体的にこだわっていく。そこが自分たちの寄って立つ場所だと分かっているからこそ、譲らない。その「譲らなさ」がいつしか冷静と狂気のアンビバレンツを超えていく。帝京大のチーム作りでは、その根幹において、こうした展開が志向されているような気がする。

    早稲田大にとっては、やはり中盤でのペナルティが痛かった。前半の反則数は、両チーム共に5つと変わらない。後半に至っては、帝京大の方が明らかに反則数が多かった。ただ、問題は数ではなくてフェーズ、そしてエリアだ。早稲田大が前半に犯した5つの反則のうち、3つくらいは中盤エリアでのもので、これだけで自陣22mラインの内側でプレーせざるを得ない時間帯が大幅に増えてしまった。スクラムの反則についてはちょっとコメントできないが、このあたりがもう少しコントロールされていれば、もっと面白いゲーム展開になっていたような気がする。

    アタックに関して言えば、準決勝の筑波大戦よりも遥かによかったと思う。筑波大戦を観た時には、正直に言って、「早稲田大からは、もはやストレートランは消えたのか」と思ってしまうほど、ライン展開に魅力を感じなかったのだが、今回の決勝では、例えばWTBの荻野選手が見せたようなプレー、つまりラインの展開力というよりも、小さなダミーと積極性でどんどん切りに行くようなアタックが見えてきて、これが奏功していたような感じがする。WTBを大外で使うというのはある意味では定型化されたラグビー観でしかなくて、結局のところ、「個が活きる場所がどこにあるのか」をベースに構成されたアタックの方が、相手にとっては遥かに脅威なのだと思う。1人のラグビーファンとして素直な気持ちを語るならば、来シーズンはそんなアタックをもっと見せてもらいたいなあと思っている。

    まあでも、やはり決勝戦だ。総じていいゲームだった。
    タマリバ時代の仲間で、今は日本ラグビー協会の仕事をしている勝田から、色々な視点でゲームに対するコメントを聴かせてもらえたのも、個人的にはすごく楽しかった。ラグビーの見方や着眼点も人それぞれで、様々なバックボーンを持った人間とラグビーを話していると、それだけで新たな気づきがあるものだ。タマリバ時代の出会いに、改めて感謝しないと。

    うん、やっぱりラグビーは面白い。
    間違いなく、世界で最も面白いスポーツだ。

    Sunday, January 05, 2014

    『コンテナ物語』

    昨年7月に勤務先で異動になってから、激減したものがある。
    それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
    そのことは、ちょっと後悔している。

    そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。

    元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。

    コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

  • 作者: マルク・レビンソン, 村井 章子
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2007/1/18

  • さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。

    本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。

    イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
    それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。

    Saturday, January 04, 2014

    Our year

    三が日が終わろうとしている。
    新たな1年も既に3日が過ぎ去ってしまったということだけれど、そもそもベースの価値観として、「特別でない毎日を、特別なものにするために、毎日を過ごす」ことが大切だと考えている俺としては、突き詰めて言ってしまうと、三が日さえ特別なものという訳でもなくて。この3日間に限らず、2014年という1年間を、「365回の今日の連続」と捉えて、今日を大切にしていきたいと思っている。

    まあでも、そうは言いながらも、今年の抱負というか、「今、思うこと」を言葉にしてみようかなと。

    昨年の暮れ、ある親友に宛てた年賀状を書いていてふと浮かんだ言葉がある。
    "Our year"、「俺たちの年」というやつだ。
    昨年末に突然浮かんできたというよりも、実際にはここ1~2年間はずっと頭の片隅にあったことなのだけれど、一個人としての自分自身をもっと成長させることもさることながら、ここ最近、「俺たち」で何かをしていきたい、という思いが少しずつ強くなってきている。俺たち、というのは言葉を変えると「世代」だ。この世代で、動かしていきたい。最も身近には仕事(更には、その延長としての会社)を、ということなのだけれど、それだけではなくて、プライベートの活動であったり、コミュニティであったり、様々な場所でそう感じることが増えてきた。

    昔は、「世代」という意識が全くなかった。もう10年以上も昔のことなので記憶が曖昧だが、「若者には、もはや『世代』という感覚がない。なぜならば、世代で(「別世代」という)共通敵と戦う時代ではなくなったからだ」といったような主旨のエッセイを読んだことがある。おそらくは村上龍のエッセイだったと思うのだけれど、当時の俺は、その言葉を比較的素直に受け入れていた。いや、受け入れていたというよりも、実際には「熱病」に近かったのかもしれない。世代という概念そのものを否定する感性に、どこか魅力を感じていたのだと思う。

    それなのに今、当時から10数年の月日を経て、30代後半に差し掛かってきた俺は、親友に宛てた年賀状に書いている。"Our year"だと。俺たちの1年にしようぜと。それって何なのかなと、久しぶりに帰省した愛知の実家で、家族との年末年始をゆっくりと過ごしながら、自分なりにつらつらと考えていた。

    そして一旦の着地点として行き着いた結論は、ごく当然のことだった。
    「世代」というのは、共通敵との対峙によって確立されるものではなくて、仲間の延長概念なのだと。同じ頃に産まれて、同じような場所で過ごしてきた仲間であったり、まさに今、同じ場所で生きている仲間がいて、そういう仲間への意識を敷衍していくと、自分の知らない別の場所にも、自分と同じ頃に産まれて、大きな意味では自分と同じような葛藤を抱いている人がいるのだという当たり前の事実に行き着いていって、そうして気づいた時には、小さな仲間意識だったものが、世代という意識の種とでもいうようなものになっていくのではないだろうか。

    共通敵は、いなくてもいい。
    社会学者がよく言うような「大きな物語」なんて、なくてもいい。
    同じ頃に、同じような場所で、同じように自分自身と向き合ってきた仲間がいて、そういう仲間と"Our year"を積み重ねていくことが出来たならば、それだけでいいじゃないか。たとえ今の居場所が人それぞれであっても、そういう仲間は間違いなくいるのだから。

    そして、そういう仲間に恵まれただけでも、すごく幸せなことなのだから。