Saturday, November 25, 2006

重工戦

11月25日(土)
タマリバ vs 三菱重工相模原(11:00 K.O. @三菱重工相模原グラウンド)

前半のみの出場。その前半のスコアは12-14、1ゴール差で敗れた。
自分自身、上手くいかないけれど、なんとかするしかない。
主将が試合後に言っていたように、もっと泥臭いプレーしないと。精神論ではなくて。

Friday, November 17, 2006

無力感のキープ

11月12日(日)東日本トップクラブリーグ決勝。
タマリバ 28-24 北海道バーバリアンズ(12:00K.O. @秩父宮ラグビー場)

酷いゲームだった。
後半ロスタイムに辛うじて逆転して勝利を拾ったものの、内容は完全に負けていた。北海道バーバリアンズが終始ゲームを支配し、「タマリバのラグビー」なんてものは、80分間の何処にも存在しなかった。「結果的に負けなかった」というだけで、負ける時の典型的なパターンだった。

タマリバの現時点での実力は、このラインだということだね。
それ以上でも以下でもなく、このゲームのパフォーマンスが全てだ。
単純に実力が足りないんだ。意識の問題だけではないと、おれは思う。
勿論、まずは自分自身を変えていくしかないのだけれど。


そういえば、村上龍さんの小説『ラブ&ポップ』の中に、印象的な言葉があったんだ。

「何かが欲しい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、それはとても難しい」
(村上龍『ラブ&ポップ』、幻冬社文庫、221頁)

小説の主人公である裕美は、15万の指輪を欲しいと強く思い、援助交際をする。結果的に指輪を手に入れることは出来ないのだけれど、お金さえ準備できれば、すぐにでもその指輪を買うことが出来たんだよね。
もしそれが「スキル」や「フィットネス」だったら、或いは更に踏み込んで「地力」や「タフネス」だったとしたら・・。
そういうことを考えながら、1月の全国大会に向けて、練習がまた始まります。

Tuesday, November 07, 2006

東京人生

11月4日(土)、ある写真展を観に行ってきた。
江戸東京博物館で開催されている荒木経惟さんの回顧展『東京人生』ね。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/about/josetsu/dai2/2006/1017/1017.html

感動した。
「シャッターを切る」という単純で誰にでも出来る行為の結末が、何故これほど違うのだろうと、何度となく息を呑んでしまった。持っている幾つかの写真集に収められている作品も何点かあったけれど、回顧展という全体のなかに位置づけられることによって、それぞれの作品がまた違った面持ちを浮かべていて、新鮮であり、作品の魅力を再発見したような感覚だった。

以前にも書いたけれど、荒木経惟という人は、とてもやさしいのだと思う。
写真を観ていると、対象との抜群の距離感が伝わってくるんだ。
ぬくもりとやさしさ、そして生まれ持った親近感をもって、すっと相手との心の距離をすり寄せていくような、アラーキーの人間的な暖かさを、どの写真からも感じ取ることが出来る。当然会ったことも話したこともないわけで、全ては作品からの勝手な想像にすぎないけれど、それでもどうしたってそう思ってしまう。そして、魅力的な写真の数々を観ているうちに、やがて自分自身の内面にベクトルが向いていく。すぐに自分の殻に閉じこもって、相手との距離感をつめていけない自分の弱さに対して、強烈なメッセージというか、変わるための最初の一歩への励ましをもらっているような気がして、うれしさと、人のあたたかさと、むずがゆさとが織り混ざったような気持ちになるんだ。

紛れもなく天才。
自らを「写神」といって憚らないそのバイタリティと想像力は、感動的です。

Sunday, October 29, 2006

瑞々しさをつかむ

村上龍さんの小説『ラブ&ポップ』読了。

龍さんの小説を読むのは久しぶりだったけれど、相変わらず素晴らしかった。
援助交際を扱った小説で、発表当時はセンセーショナルな作品として話題になったような記憶がある。庵野秀明監督作品として映画化もされていて、龍さんの数多い著作のなかでも認知度の特に高い作品のひとつではないかと思うけれど、そういったことではなくて、この作品は純粋に魅力的であり、繊細で瑞々しく、丁寧で構成力に富んでいて、つまりは単純に良い小説だった。

自分が高校生の頃は、どうだっただろう。
がちがちに頭が固くて、意固地で、青くて、今以上に何も知らなくて、この小説に登場する4人の女子高生たちのような繊細で研ぎ澄まされた感性に対する眼差しは持っていなかったのだろうと思う。ラグビー部の仲間と過ごす毎日が楽しくて、ただそのことばかりを考えていたからね。

同じ制服を着て、似たような化粧と髪型で街を歩く女子高生の集団を眺めているうちに、「女子高生」という言葉だけでは語れない多様な感性が、ひとつの象徴的なイメージとなって自分の中で固定化され、収斂されていく。それはきっと、殆ど全ての人間にとって、ある程度は避けられない無自覚的な意識の作用なのだと思うけれど、それだけでは、やっぱりどこか寂しい。例えばこの小説に描かれた4人の女子高生の瑞々しさやデリカシー、自分を取り囲む世界への眼差しのようなものを、勝手な解釈で一般化して、固定的な概念に埋没させてしまうのは、想像力の怠慢だよね。結局は、自分自身の無自覚的な認識に対して、はっきりと自覚的に、意識的に抗い続けていくしかないのだと思う。

村上龍さんという人はたぶん、ずっとそうして日々を生きているんだろう。

Monday, October 23, 2006

誰も知らない

柳楽優弥少年がカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したことで話題となった、是枝裕和監督の映画『誰も知らない』をDVDで観た。

ありきたりな感想になってしまうけれど、切ない映画だった。
「情」に飢え、渇望する4人の子供達の姿が痛ましく、そして切ない。
親の愛情、仲間の友情、街の人情。情にも様々な形があると思うけれど、最も身近な存在であるはずの母親の愛情が、ニグレクトによって奪われてしまった4人の子供達は、決定的に情に飢えていた。
彼らが降り注がれる情にもっと恵まれていたならば、と思う。
ラストカットにささやかな希望の一端が垣間見えるのかもしれないけれど。

それから。
この映画も観ていて、もうひとつ感じたことがある。
それは、とても写真的だということ。
静かに流れるスライドショーに、物語を載せたような印象だった。
ひとつひとつのカットの構図と対象の配置、或いはフレームに注がれる光と画面の色調、そういった様々な要素が極めて写真に近いと感じた。繊細で美しいカットが幾つもあって、そのやさしさが物語の切なさと相まって、独特の作品世界を創り出していた。写真もそうだけれど、すべてのベースは光なのだなあと、映像に魅入りながら、光の美しさに思った。

三鷹戦

10月22日(日)東日本トップクラブリーグ第4戦
タマリバ 46-7 三鷹オールカマーズ(12:00K.O. @岩崎電気グラウンド)

リーグ戦の最終戦、まずはきちんと白星をつかんだ。
次は11月12日、秩父宮での決勝戦。相手はもちろん北海道バーバリアンズだ。
やるべきことは2つだけ。
まずはレギュラーをつかむこと。そして、試合で圧倒すること。

日曜のゲームでも、やはり課題が残った。
ずっと分かっていながら修正できない点があるんだ。プレーしていて、「違う」ということは明確に意識できるのだけれど、身体が反応しない。今の自分にとっての最大の課題は、そのギャップを埋めることだね。残っているチャンスは今週末のYC&AC戦を残すのみだけれど、少しでも自分のイメージに近づけるように、目的意識を持ってゲームに臨みたい。大西さんが昔よく言っていたように、動物的に。

Saturday, October 21, 2006

空中庭園

角田光代さんの小説が原作の映画『空中庭園』を観た。
つい最近、小説を読み終えた後輩が連絡をくれたのをきっかけに、どうしても観たくなって。ちょうど今の気分にもマッチしていたからね。

原作となった小説『空中庭園』が、おれはとても好きだ。
この小説のよさは、距離感と温度。京橋家というひとつの家族を構成する人間たちの距離感と、そこに見えたり隠れたり、あるいは隠し切れなかったりする心の温度が、とても丁寧に描かれている。とてもやさしい小説だと思う。

それで、映画について。
おれ個人の感想としては、映像が語り過ぎている気がするかな。制作者側の意図が透けてみえてしまう部分が、逆にノイズになっているように感じた。それでも小泉今日子、鈴木杏、大楠道代といった女優が肝となるシーンを見事に演じ切っていることで、特に後段は見応えのある作品になっていると思う。
作品のなかに登場するコウという少年がおれは好きで、映画の中での描かれ方に期待を持っていたのだけれど、若干イメージが違ったのは残念だった。もう少し乾いた雰囲気があって、モノクロームの写真のようなイメージだったんだけどね。ミーナから建築物の写真を大量に譲り受けるシーンがなかったのも、ちょっと残念だった。映画全体の中では脇のストーリーかもしれないけれど、コウの建築物への志向のなかに、彼のやさしさと切なさが垣間見えるような、そんな印象を持っていたからね。

もういちど、小説読み返してみようかな。

Thursday, October 19, 2006

記憶

今日はなんだかしんみりしてしまう1日だった。
随分久しぶりに「いつかのメリークリスマス」なんかをかけてしまったりしてね。

そんな時に、実家の母から連絡があった。
昨日、叔父さんが亡くなったそうだ。
恥ずかしながら顔も思い出すことが出来ないけれど、刃物職人だった。
「信光」と銘打たれた包丁。
実家で使っていたことが朧気に、でも確かな感覚を伴って思い出されます。

滅多にないくらい早く帰宅して、近所を歩いた。
カメラを首にぶら下げて、すっかり日が暮れた後の街を数枚撮った。
シャッターを切るたびに、少しだけ自分の内側が洗われていくような気がするんだ。
パレットの、絵の具が乗っていないスペースが、ちょっとだけ増えていくように。
いくら洗っても、混ざってぐちゃぐちゃになって、固まった絵の具は取れなくて、綺麗さっぱりとはいかないけれど。

おれは基本的に、昔のことを覚えていない。
保育園や小学校の記憶はほとんど皆無に等しく、高校の卒業旅行でさえ断片的な記憶しかない。幼少期の記憶の欠落は異常なほどで、本当に何も覚えていない。唯一覚えているのは、保育園の頃に、マーチングバンドの練習で先生に怒られて、3時のおやつが無しになってしまったことくらいだ。それ以外に覚えている数少ない記憶も、実際には物心がついた後、親や友達との会話をベースに自我が再構成した部分が少なくないのではないかと思っている。

きっとこれからも、今までと同じように多くのものが記憶からこぼれ落ちていくだろう。
そのことが哀しい訳ではないんだ。勿論全く哀しみがないといえば嘘になるけれど、失うことのない記憶だってあるはずだし、失いながら、別のなにかを記憶に留めて、そうやってしか生きられないからね。
おれが撮った写真の中には、何かが残ってくれるのかな。

Monday, October 09, 2006

豪徳寺

タマリバの練習を終えた後、豪徳寺を訪ねた。
学生時代の5年間を過ごしたこの街も、訪れるのは5年振りだ。

小田急線のホームに降り立って、駅の改札を出た途端、驚いてしまった。
駅前の一角が、当時とまったく違う街並になってしまっていたんだ。
マクドナルド。タリーズ。サンマルクカフェ。デニーズ。当時はなかったチェーン店が駅前に乱立していた。その一方で、当時よく晩飯を食べたキッチン南海は潰れてしまっていた。自転車の駐輪場が経堂へと向かう線路沿いに整備されて、路面の舗装も大幅に進んでいて、総じて綺麗になっていたように思う。
ただ、なんだか匂いがなくなってしまった。
どの街も同じような風景になっていく。経堂でなく、梅が丘でない豪徳寺があってもいいじゃないかと、おれなんかは思うのだけれど、時代の必然なのだろうか。路地を少し分け入っていけば、当時とそれほど変わらない懐かしい街並が残っているのだけれど、プラスチックのような質感の覆いかぶさるエリアは、時間の経過とともに、今後もっと広がっていくことだろう。少し寂しかったりもするけれど。

Cafe Djangoにも立ち寄った。学生時代に何度か足を運んだ喫茶店。
ここは変わっていなかった。マスターの表情も5年前と変わりなく、昔からの空気が店内に上手に閉じ込められているような感覚だった。豪徳寺が誇るお洒落な喫茶店だと勝手に思っているのだけれど、相変わらず上品で居心地の良い空間だった。
昔はバニラリキュールをほんの少し加えたエスプレッソがあったんだ。初めて飲んだ時の感激が忘れられず、メニューを探したのだけれど、今はもう扱っていなかった。絶妙な香りとほのかな甘みがあって、本当に美味しい珈琲だったので、楽しみにしていたのだが、ちょっと残念。マスターにその話をしたら、「よく覚えてますね」と懐かしそうな笑顔で応じてくれた。人柄の伝わる優しい表情。とても嬉しかった。
またいつか、立ち寄ろう。数ヵ月後かもしれないし、数年後かもしれないけれど。
http://www3.ocn.ne.jp/~flower/django.html

Sunday, October 08, 2006

公式戦 #2

10月8日(日)東日本トップクラブリーグ第2戦
タマリバ 74-23 高麗クラブ(13:00K.O. @水戸ツインフィールド)

後半からの出場。ベンチスタートは久しぶりだけれど、居心地が悪いね。
まだCTBとして信頼感がないということだと肝に銘じて、今後も練習していきたい。
グラウンドの外側から観たあの前半を忘れずに。

Tuesday, October 03, 2006

スナップ

スナップ写真を少しずつ撮り溜めている。
今はスナップを撮ることが単純に楽しくて、写真のことが頭から離れない。


毎週末、タマリバの練習を終えた後は、カメラを持って街に出るようにしている。
Nikonの一眼レフを肩から下げて、中古のLeicaをジーンズのポケットに突っ込んで。
撮りたいと思った瞬間にシャッターを切るのは思った以上に難しい。技術的な問題も当然ながら多々あるのだけれど、それ以上に、どこかで自分自身にブレーキをかけてしまっているのだと思う。
自分を護りながら撮っているような感覚。何を護っているのかは分からないけれど。
その先に行けたらきっと、写真を撮ることがもっと楽しくなるような気がします。

次はどこに行こうかな。

http://app.tabblo.com/studio/person/fukatsus/
既に気づいてくれた人も幾人かいるけれど、Linkにも追加したので是非。

Wednesday, September 27, 2006

Monday, September 25, 2006

Profitではなくて

村上龍さん編集長のメールマガジン「JMM」を読んでいるのだけれど、9/25(月)の連載のあとがきに、興味深いコメントがあった。JMMというメディアの運営が利益を生まない状況を語った龍さんに対して、龍さんと共著も出版している伊藤穣一さんが語った言葉だ。ちょっと長くなるけれど、JMMから引用してみたい。

『「インターネットはあまりに民主的なメディアなので儲からないし、儲けようと思うのは間違いだ。儲からなくても、つまりprofitがなくても、JMMによって、村上さんは、またJMMそのものも、valueを獲得している。それが大事なんじゃないかな」というようなニュアンスのことを言われて、目が覚めたような気がしました。』
(JMM [Japan Mail Media] No.394 Monday Editionより)

Value, not Profit.
この違いに敏感でいたい。伊藤穣一さんがこの言葉を発する時に、あるいは村上龍さんがこの言葉を受け止めた時に、きっと彼らには”value"に対する自身の軸があったはずだ。valueはとても個人的で、プライベートで、それゆえにアイデンティティの根幹に関わってくるものだと思う。「なにをvalueと位置づけるのか」という問いそのものが既に、その人間の本質を内包しており、更に言えば、その問いに対する姿勢こそが「生き方」と言われるものだろう。

valueは時に、profitへと還元される。"profitable value"として、そこから派生するprofitの総量をもって、valueが計測されていく。
でも、どこかでprofitに落とし込めない地平があるはずだ。
どこまでいってもprofitに還元できない最後の上澄みのようなvalue、きっとそれは、今のおれが最も切実に追いかけているものなんだ。

Sunday, September 24, 2006

レンジファインダー

いつものようにタマリバの練習を終えた後、新宿に向かった。
中古カメラを探しに行こうと思って。

最初に買った一眼レフカメラ「Nikon FM10」はとても使い易く、初心者のおれにとって全く不自由のないカメラなので、気に入って毎週末鞄に入れて持ち歩いている。なんだか照れ臭くてなかなか出来ないのだけれど、自分にとって気になる風景や街並に出遭った時に、いつでもシャッターを切るようにしたいと思って。レンズは35-70/F3.5の安価なズームレンズ一本しかないけれど、今のおれにはこれだけで十分だ。

ただ、一眼レフカメラは、どうしても本体が大きいんだ。FM10は一眼レフの中ではかなりコンパクトな部類だと思うけれど、それでも例えば通勤鞄に忍ばせておいて、移動時間や帰り道に写真を撮ろうと思っても、さすがに通勤鞄に入るサイズではない。それから、シャッター音が少し大きい。音自体はとても気に入っているのだけれど、街中や電車で他人を撮ったりすると、結構目立ってしまうと思う。
そんな訳で、もっと気軽に携行出来て、シャッター音の小さなカメラが欲しくて、新宿駅西口側にある中古カメラショップに初めて行ってみたんだ。

求めるものを考えると、コンパクトカメラが適切だったのかもしれない。
カメラを持って街に繰り出して、気に向いた瞬間にシャッターを切っていくには、最も向いているような気もしていた。高性能なコンパクトカメラだと、おれには十分すぎるくらいの機能を備えているし、影響されやすいおれは、森山大道さんが主に利用しているというRicoh GR21なんかが気になったりもしてね。

でも、実際に店頭にずらっと並んだ中古カメラを見較べて、色々な機種を実際に触らせてもらって、販売員の方の説明を詳しく聞いているうちに、どうしようもなくレンジファインダーカメラというものに心を奪われてしまった。

コンパクトなデザインと手頃な価格で最初に目に留まったのは、Zolkyというロシア製のカメラだった。ショーケースから出してもらって、説明を受けながら実際にシャッターを切ってみる。二重像を重ねていくレンジファインダー独特の焦点の合わせ方が面白く、また戦後間もない頃に作られた機械式のカメラで、電池なしで全て動かせる精緻な設計に、思わず虜になってしまった。
ただ、Zolkyは二重像が薄くて焦点が合わせづらく、若干難ありだったので、販売員の方に他の手頃なカメラをリストアップしてもらい、とにかく触って、覗いて、シャッターを切ってみた。ショップの方には随分手間をかけさせてしまったけれど、実際に幾つものカメラを手に持ってみると、ショーケースの向こうに眺めている時とは印象が全く違って、それが純粋に楽しかった。

それで、随分考えた末に、1台のカメラを買ったんだ。
Leica ⅡCというレンジファインダー、それから50mm/F3.5の標準レンズね。
中古品のなかでも極めて安価なものを選択したとはいえ、決して安い買い物ではなかったけれど、本当に嬉しかった。なにせ1948年に製造されたカメラなので、当然傷も多いし、スローシャッター機能もなければ露出計もない、本当にベーシックなものだけれど、とにかく愛着の沸くカメラだったんだ。外観の傷などはむしろ「戦後」を生き抜いた格好良さに見えてしまうくらいだ。

操作はちょっと難しそうだけれど、少しずつ慣れていきたい。
きちんと使いこなせるようにして、モノクロームの写真を沢山撮ってみたい。

Saturday, September 23, 2006

欲望, リアリティ, 感動

森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』読了。
写真を学ぶ学生に向けて行われた森山さんの4回の講義、そして学生との質疑応答を纏めた作品。森山大道という写真家の飾らない姿が垣間見えて、非常に読み応えのある内容だった。

写真に興味がなくても、きっと感じるものがあると思う。
写真というひとつの表現の枠組みを越えて、心を揺すぶる魅力と迫力があった。
おれなんてまだ何もしていないのだなあと、写真を生きてきた森山さんの語る言葉が迫ってくる。刺激的に、でもどこか焦燥感と悔しさのような感触を伴って。

印象に残った言葉がある。

『オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね。個人の勝手な欲望から生まれたものにリアリティを見たときに、初めて人は感動してくれるんだよ。そこがなくて作ったものは結局伝わらないと思う。』
(森山大道『昼の学校 夜の学校』、184頁)

他者の感性を否定するのではない。
あくまで自分自身の感性に対する、ぶれることのない自信と信頼。
自分が惹かれる世界の姿にストレートに対峙していく、ある種の誠実。
それが、非常に印象的だった。

そして読み終えた時には、無性に写真を撮りたくなってしまうんだ。

Saturday, September 16, 2006

『瞬間の記憶』

いつものようにラグビーの練習を終えた後、映画を観に行った。
『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』
http://www.longride.jp/hcb/
ロバート・キャパらと共にフォト・ジャーナリスト集団「マグナム・フォト」を創設したメンバーであり、20世紀を代表する天才写真家のひとりであるアンリ・カルティエ=ブレッソンが、自らの写真を語ったドキュメンタリーだ。

素晴らしかった。
いや、むしろ現在形で書いた方がしっくりくるかもしれない。
素晴らしい。
スクリーンに映し出される写真のひとつひとつが、すべてにおいて狂いなく、乱れなく、完全に構成されている。ほんのわずかな瞬間にしか表出することのない世界、それは裏返せば、その瞬間には確かに存在していた世界の姿であって、ブレッソンによって切り取られたその「瞬間」の姿は、観る人間の心の中に様々な「響き」を残していく。響きを静謐のなかに確かなダイナミズムが息づいていて、その美しいイメージは、まだ頭を離れない。

様々な写真のなかでも、特にポートレートの数々には改めて心を奪われた。
デュシャン、マン・レイ、カミュ、トルーマン・カポーティ、サルトルといった蒼々たる人間たちの持つ本質的な魅力、ふとした表情のなかにこそ浮かび上がってくるようなものが見事なまでに捉えられていて、どれも素晴らしかったのだけれど、敢えて特筆するとすれば、マリリン・モンローのポートレート。うまく言葉にできないけれど、スクリーンの世界とは違ったマリリン・モンローの魅力、隠すことの出来ないオーラのようなものが、その1枚に確かに閉じ込められていた。マリリン・モンローという人は紛れもなく「スター」だったのだなあと、その美しさに感動してしまった。

観てよかった。
同時代の空気を吸ってみたかったと、ちょっとだけ思ってしまったけれど。


『写真は、短刀の一刺し。絵画は瞑想だ。』
アンリ・カルティエ=ブレッソン

Wednesday, September 13, 2006

詩について

寺山修司さんの『詩的自叙伝 行為としての詩学』ほぼ読了。
ちょっと飛ばし読みしちゃったけれど。
詩というものに対する造詣のまったくないおれにとって、その意味するところをイメージできない部分も少なからずあったけれど、総じて読み応えのある作品だった。

「行為としての詩」といい、「印刷された文字の世界から詩を取り戻す」という時に、おれは「グラウンドにおける詩」ということを思ってしまった。ある時代の、ある瞬間において、例えばトイレの落書きが詩になり得るとするならば、今までおれがいたグラウンドにも、詩と呼んでいい言葉があったのではないか。もう少し厳密に言えば、グラウンドにおいて発せられた言葉や、あるいは言葉にならないなにかが、その発現の瞬間においては詩的でさえあったのではないか。
学生時代のラグビーを思い返すと、そんな瞬間は、きっとあったのだと思う。学生時代だけではないのかもしれないけれど、特に学生時代のラグビーには、そんな匂いがあったような気がする。詩を読もうなんてこれっぽっちも考えない人間の集団が醸し出していた泥臭さであったり、弱さであったり、せこさであったり、ずるさであったり、あるいはそういう自分に対する悔しさであったり、強さへのあこがれであったり、必死さや愚直さであったり、そういった諸々の混ざり合った瞬間が、たとえほんのわずかであったとしても「詩」として存在したことがあったと思うんだ。

そのことが、ちょっと懐かしかった。

最後に、この作品から拾った名言を。
『想像力の欠如、それは欠如を想像しないことである。』(67頁)

Sunday, September 10, 2006

バーバ戦

9月10日(日)、東日本トップクラブリーグ緒戦。
タマリバ 27-18 北海道バーバリアンズ

まずは勝てて良かった。
負けなかったことだけが、このゲームの収穫。
自分自身のパフォーマンスは全然で、課題が幾つも浮き彫りになってしまった。
また、やり直します。次は9月17日(日)、香港クラブだね。

それから。
長井さんと宗一郎さんが観に来てくれたことがすごく嬉しかった。
また一緒にやりましょう。楽しみにしてますので。

Saturday, September 09, 2006

開幕戦

2006-2007のシーズンがいよいよ始まる。
9月10日(日) vs 北海道バーバリアンズ(14:00K.O. @三ツ沢公園球技場)
東日本クラブトップリーグの開幕戦だ。

難敵。でも、絶対に勝たないといけないゲーム。
今出来ることをすべてやる。ただそれだけが、明日の目標です。

ふまじめなやさしさ

昨日ちらっと書いたアラーキーこと荒木経惟さんの写真集のことを書いておきたい。
『さっちん』
タイトルの通り、さっちんという少年を撮った写真集。
第1回太陽賞受賞作「さっちん」を一部含めて再編集したものだそうだ。

とにかく見てみてほしい。本当に素晴らしい作品ばかりだ。
パワフルで、生き生きしていて、エネルギーが満ち溢れていて。生きた少年の匂いがつまっているじゃないか。その瑞々しい感性が、写真から飛び出してきそうだ。
それだけじゃない。
さっちんという1人の少年に向けられた眼差しに込められた、そのやさしさ。人間性や生きることへの全肯定の眼差しが、びしびしと伝わってくるんだ。

荒木経惟さんという写真家のことを、おれは尊敬してやまない。
本当にやさしい人なのだと思う。子供だけじゃない。ソープ嬢を撮っても、裸の妊婦を撮っても、疲れたサラリーマンを撮っても、エキゾチックに、刺激的に撮られた作品であったとしても、アラーキーの写真は、やっぱりどこかやさしい。
そのことをおれは、「ふまじめなやさしさ」と呼んでいる。
アラーキーの写真には、ふまじめなやさしさが溢れているね。
そのやさしさもふまじめさも、おれは大好きだし、本当に素晴らしいと思います。

最後に、心に残ったあとがきの言葉を引用しておきたい。

『生きるっていうのはね、やっぱり、跳ねるとか、ヴィヴィッドであるとか、声が大きいとかってことだから。少年たちがさ、フレームから画面からはみ出てるでしょう、飛び出てるでしょう、そういうことなんだよね。』
(『のぶちんが「さっちん」を語る―あとがきにかえて』より)

Friday, September 01, 2006

アンチテーゼ

随分書いていなかったので、書き方を忘れてしまった。
なんでもそうかもしれないけれど、日々続けていないことはすぐに出来なくなるね。

銀座の本屋で写真集のコーナーをふらついていたら、一冊の本が目に留まった。
写真家の森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』という対話集。
森山大道という写真家に興味を持っていたことあって、何気なく手にとってみたのだけれど、その帯に書かれた言葉がとても印象的だったんだ。

『量のない質はない、ただもうそれだけです。』

どきっとした。同時に、なんだか嬉しかった。そしてなにより、凄いと思った。
写真だけじゃない。洪水のように押し寄せる情報の波を受けて、方法論と効率ばかりが語られる世界そのものへのアンチテーゼのようで、言葉の迫力に思わず息を呑んでしまった。自分の身体で、眼で、手足で、とにかく世界にぶつかってきたのだというその静かな気概が、その言葉を通しておれ自身に飛び込んでくるような感覚だった。
あー、おれも撮ろう。もっとたくさん。
撮りたいと思った瞬間に必ずシャッターを切れるように。

そして今度本屋さんに行く時は、あの本を絶対に買おう。
今日はアラーキーの写真集を買ってしまったので。

Wednesday, July 26, 2006

アフォリズム

辺見庸さんの『いま、抗暴のときに』(講談社文庫)から。

闇を撃つのは光じゃなくて、もっと濃い闇なんだよ。心はそうつぶやく。闇に分け入るか、闇に肉薄する言葉をもつことだ、と自分にいいきかせる。(94頁)


辺見庸さんは、ここ数年間ずっと頭の片隅で存在が揺らめいていた作家だ。
『もの食う人びと』というノンフィクション作品のことを新聞の書評かなにかで知って、以来いつか読もうとずっと思っていたのだけれど、書店で著作を見掛けると、何故だかいつも手に取るのが憚られてしまう、そんな作家だった。
数年を経た今、このタイミングで手に取ったのも、なにかの縁かもしれない。
最初に手にしたのは『もの食う人びと』ではなかったけれど。

『永遠の不服従のために』をつい先日読了し、今はその続編『いま、抗暴のときに』を読んでいる。辺見庸さんは、言葉に「質感」のある作家だ。乾ききった言葉ではなく、あるいは清流のような澄み切った言葉でもなく、血潮のような独特の「濃度」を持った言葉を重ねてくる。その思想信条に対する賛否は別として、言葉に凄みを感じさせる作家であり、読む側の心をざわつかせるような何かがある。

一連の著作を読み終えた時には、改めて所感を書いてみたい。

Sunday, July 23, 2006

photograph #3

想像力の絶望的なまでの怠慢-
「世界報道写真展2006」を見た直後の正直な感想だ。

滅多にないオフの日曜日、どう過ごそうかパートナーと相談しながら、2人でインターネットをうろついていたら、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催されているこの写真展が目に留まった。
いいタイミングで出会うものだね。
見つけた瞬間に、今の自分にとって見ておくべき写真展だと思った。

ひとつは、純粋に写真に対する興味が尽きないこと。
ある場所のある瞬間に世界に確かにあった風景というものが、シャッターを通して様々な切り取られ方で提示されるそのことに、非常に興味があった。興味があった、という書き方は(実際に展示された写真の中の世界を考えるならば)不謹慎かもしれないけれど、突き放した言い方をすれば、写真はどこまで行っても写真でしかない。現実そのものではあり得ないのだと思う。しかし、むしろそれ故に、写真が描き出す世界が心を強く揺すぶる、ということもあるんじゃないか。
そういう写真に対する渇望のようなものが、心のどこかにあったのだと思う。

もうひとつは、それが報道写真だということ。
戦争。テロ。ゲリラ。ハリケーン。津波。飢餓。そういった紛れもない世界の「現実」に対して、「自分がどう認識しているのか」ということを自己認識しておきたかった。
レバノンが空爆されている。誰もが知っている事実だ。新聞に書いてある。
ただ、中近東の小国で、今この瞬間も爆撃が行われている、というその事実を、自分自身がどのように考え、自己の内側に落とし込んでいるのか。それは必ずしも明晰ではなく、むしろ、自分と世界との距離感は曖昧模糊としているんじゃないか。
辺見庸さんの『永遠の不服従のために』をつい最近読んで、強い衝撃を受けたことも手伝って、そんな気持ちが拭えなかったというのも大きかったけれど。

実際に展示された数々の報道写真の感想は、ちょっと表現し難い。
凄まじいばかりの写真に、何度も声を失った。個々の写真が切り出す凄絶な世界の表情について、今の自分にはとても書けそうにない。
ただひとつ、正直な感想として胸に浮かんだのが「想像力の怠慢」ということだった。

辺見庸さんの指摘する通りかもしれない。
あの写真を前にして、初めて衝撃を受けるのだから。
今この瞬間にも、世界のどこかで実際に起こっている事実に対して、「人間」としての想像力さえあったならば、その場に生きる人間を、肌感覚を持った生身の存在としてイメージすることが出来たならば、どれほど違っていただろう。
想像力が絶望的なまでに貧困であることを知って、今更ながらショックだった。

両手を失った父親が着るシャツのボタンを閉じる少年の姿が忘れられない。

Sunday, June 25, 2006

photograph #2

随分遅くなってしまったけれど、撮る方ね。

もう1ヶ月近く前になるけれど、2つのカメラを買ったんだ。
ひとつは、マニュアルフォーカス一眼レフのフィルムカメラ「Nikon FM10」。
比較的安価な一眼レフの入門機で、一眼レフ特有の物々しさがないのがいいね。
そしてもうひとつは、実はポラロイドカメラ。
日本ポラロイド(株)の「One600 Pro」というやつで、一応Series最上位のモデルだ。

これがどちらも、ものすごく楽しいんだ。
自分でも驚いてしまうくらい、撮ることが楽しくて堪らない。

量販店の店員はもしかすると、「何故今更この2台なのか」と思ったかもしれない。
でもね、実際に撮ってみると、フィルムカメラには、デジタルカメラでは絶対に味わうことの出来ない魅力がたくさん詰まっているんだ。そして、フルマニュアルというのがまた味わい深い。自分の手でひとつひとつ焦点を合わせ、絞りとシャッタースピードで露光を調節して、丁寧にシャッターを切っていく感覚がたまらない。ひとつひとつの写真を自分自身の手で産み落としていくようで、デジタルカメラの写真では感じることのない「愛着」が湧き上がってくるね。

つい昨日のことだけれど、初めて撮った36枚のフィルムが現像されてきたんだ。
部屋の中、パートナー、神田のスタバ、小伝馬町、いろいろなものを撮った。
当然思うような仕上がりのものばかりではなくて、焦点の合っていない写真や手ブレした写真もたくさんあったけれど、それでもすごく嬉しかった。
現像代はちょっと痛いけれど、ファインダーを通して覗いた「自分にとっての世界」がアナログの写真となって像を結ぶ、というその魅力は、ちょっと代えがたいものだね。

また、写真を撮りに行こう。
タマリバの練習が終わった後の、土曜日の昼下がりに。

Friday, June 23, 2006

photograph

久しぶりの更新。

最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。

まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。

ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。

もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。

そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。

アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。

長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。

Sunday, June 04, 2006

写真という表現

昨日のことだけれど、TV東京の『美の巨人たち』に衝撃を受けた。
写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソン。その写真が本当に素晴らしかったんだ。

TVディスプレイを通してさえ心を打たれた写真が幾つもあった。
流れる時間の中では上手くつかまえることの出来ない、或いは気づくことさえもない「瞬間の」美しさを、シャッターで切り取ることで、繊細かつ洗練されたイメージとして表現してみせたような彼の写真には、とにかく心を打つものがあった。

写真という表現にこれほど惹かれたのは初めてかもしれない。
放送終了後に、思わずアマゾンで彼の写真集を買ってしまった。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson

届くのが楽しみで仕方がないね。
そして今は、自分でも写真を撮りたくて堪らないです。

途方に暮れる思想

保坂和志さんのエッセイ集『途方に暮れて、人生論』読了。

保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。

読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。

読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。

Sunday, May 28, 2006

最悪のゲーム

タマリバクラブの今シーズン2試合目となる練習試合があった。
5月28日(日)vs高麗クラブ(14:00 K.O. @三鷹大沢グラウンド)

昨日の雨もあって最悪のグランドコンディションだったけれど、多くのメンバーが意識を高く持ってプレーしていて、53-12での勝利となった。
そんな中で、自分自身のプレーの出来は、本当に最悪だった。
あまりに酷い。居ない方がましなくらいだった。メンバーの皆に申し訳ない。

ラグビーのことをこのブログで書くのは、当分やめようと思う。
書いている場合じゃないということが、今日のゲームではっきりしたので。

Saturday, May 27, 2006

ただそこに在る

随分遅くなってしまったけれど、八丈島でのことを書き残しておきたい。

八丈島には、2つの山がある。
瓢箪型の島の北に八丈富士、そして南には三原山。
南北にそびえるこの2つの山によって、八丈島は型作られているんだ。
どちらも標高700m~800m程度で、決して高い山ではないけれど、独特の魅力を持った味わい深い山だね。2日間をかけてパートナーと山道を歩き廻ったのだけれど、八丈という島の魅力がそこには凝縮されていたように思う。2日間でかなりの距離を歩いたので、パートナーは持ってきた靴を履き潰してしまうほどだったけれど。

三原山登山道の入り口を左に折れて、そこから唐滝川に沿って山道を登っていくと、奥まった緑の中に綺麗な沼がある。硫黄沼という名の小さな沼だ。
エメラルドグリーンの見事な水面。沼の奥には硫黄滝というささやかな滝があって、硫黄沼へと澱みなく流れ落ちているのだけれど、その空間には水音ひとつしない。緑に囲まれたほんのわずかな空間は、凛として静かで、水面に広がるエメラルドグリーンの透明感を際立たせている。登山道からほんの少しだけ左に外れたところにあるのだけれど、この硫黄沼一帯だけは、全体の空間から独立して、それとして存在しているような感じで、気持ちをすごく落ち着かせてくれる。
登山道の本筋に戻ってさらに登っていくと、もうひとつの見処がある。それが、唐滝という八丈島で最も大きな滝だ。
40m弱の岩壁を降り落ちてくる滝の流れは、力強さよりもむしろ繊細さを醸している。滝壷に至るまでに、流れは小さな飛沫となって飛散して、霧吹きのように岩壁にやさしく広がっていく。そうして絶えることのないシャワーを浴びて、岩壁には苔が繁茂し、その苔の緑が唐滝の美しさの大切な一要素になっている。
硫黄沼にも言えることだけれど、唐滝も「静か」だ。流れが、というよりも、空間そのものが、と言った方が近いと思うけれど、唐滝の流れを含むその一帯がどこか静かで、落ち着いていて、自然の優しさが浮き上がっている。

翌日、今度は八丈富士に登る。標高は854mと三原山よりも若干高く、思っていた以上に登り甲斐のある山だった。山頂からは八丈島を一望でき、豊かな緑に包まれた山道には八丈島の魅力が詰まっていて、純粋に登山として楽しめる。そういう意味でもやはり、八丈富士は島のいちばんの名所と言っていいだろう。
八丈富士の最大の魅力は、なんと言っても緑生い茂る火口だ。山頂まで辿り着くと、そこからお鉢巡りをするのだけれど、眼下の火口は、青々とした草木で一面覆い尽くされている。この日の山頂はガスで霞がかっていて、視界は開けていなかったけれど、むしろそのガスの白みがどこか神々しくもあり、「山神様」とでもいうものがいたとするならば、きっとそれはこういうことなのかもしれない、なんて思ったりもする。うまく表現できないけれど、山の神というのはひとつの人格のようなものではなくて、「山」という空間そのものなんじゃないかと。大袈裟に言ってしまうと、そんな感じだね。
八丈富士のお鉢にはちゃんとルートもあって、中を探索していくことが出来る。特に行き着く先もなく、火口の中心に辿り着く前に、途中でルートは途絶えてしまうのだけれど、そこに広がる植物はとても力強く、生命力に満ちている感じだ。緑で埋め尽くされた火口を見たのは初めてだったけれど、遠くから望む限りは見ることのない場所に、これほどの自然が息づいているというのは、新鮮な驚きだった。

硫黄沼、そして唐滝を廻った時には、パートナーとおれ以外に誰もいなかった。
さすがに八丈富士にはそれなりの数の登山者がいたけれど、もしも登る人間がいなければ、火口に広がる樹木の緑は誰にも見られることがない。
そのことが、おれにはすごく印象的だった。
自然というのは「ただそこに在る」のだなあ、と。誰の承認を求めることもなく。
美しいと云う誰かがそこに居なかったとしても、自然はただそこに在って、美しい。

それはきっと、自然の強さなのだろう。

Tuesday, May 16, 2006

やさしさに包まれたなら

植村花菜さんというシンガーのことが、とても好きになりました。

初めて聴いたのは、八丈島から羽田へと戻るANAの飛行機。
ほんの1時間ばかりのフライトで、何気なく耳に当てたヘッドホンのラジオから流れてきたのが、荒井由美の名曲「やさしさに包まれたなら」のカバーだったんだ。

素晴らしかった。本当に素敵な歌声だと思いました。
上手いとか力強いとかテクニカルだとか、そういうことではなくてね、歌声そのものが良いです。声そのものが既に表現であるような、そんな歌声。
目にうっすらと涙が溜まる時のように、じんわりと心に沁み入ってきて。

荒井由美さんのこの曲をカバーすることになったのはきっと、彼女の天運だと思う。
勝手にそう思ってしまうくらいに、その声と曲がうまく溶け合っているね。
そして関係ないけれど、とても可愛い。
シングル、買ってみようかな。

http://www.uemurakana.com/index2.html

Friday, April 28, 2006

八丈の海に潜る

随分久しぶりに、プライベートでの旅行に行ってきたんだ。
ちょっとした休暇を取って、3泊4日での小旅行。行き先は、八丈島。
今回の旅行の中で自分なりに感じたことを、この場に書き綴ることにします。

4月28日(金)
10時30分羽田発の飛行機に乗り込み、11時40分くらいには八丈島に到着していた。もっと遠い印象があったのだけれど、実際にはわずか1時間程度で辿り着ける訳で、移動は本当にあっという間だった。機内で軽く眠っていたら、起きた時にはもう島に到着している感じだ。
八丈島空港に降り立つ。最初に感じたのは、気候的には、普段暮らしている東京の街とさほど変わらないということ。若干暖かい程度で、特段の差はないように感じた。ただし、あくまでそれは初日の印象だ。実際には4日間の旅を通じて、気候的な違いをはっきりと感じることが出来た。
パンフレットの言葉を借りるならば「亜熱帯」。八丈は、やっぱり亜熱帯の島なんだ。
単純に、植物が違う。椰子の木が至るところに生い茂っており、他にも名前を知らない植物が数多く見られ、ちょっとした南国の心地がする。全般的な印象として、非常にカラフルな植生だ。また、空気の張りつめ具合や透明感といったものも、所謂「都内」とは明らかに違う。(八丈島も東京都なので、書き方は正確ではないけれど。)

12時頃にホテルに到着すると、まずはダイビングが出来るところを探すことにした。翌日から天気は下り坂という予報だったので、初日の午後に潜るのが一番楽しめるのではないかと思ったんだ。フロントにお願いして、午後で受付可能な体験ダイビングのツアーを紹介してもらい、なんとか14時からのツアーに予約を取ることが出来た。ツアーの時間は全体で約1時間半ということで、さすがに短いような気もしたけれど、折角の機会なので、お願いすることにしたんだ。
14時までの空いた時間で、昼飯を食べに行く。ホテルから15分ほど歩いて向かった先は、「一休庵」という蕎麦屋。八丈島では「明日葉蕎麦」が名物と聞いて、この機会に食べてみようと思ったんだ。明日葉を練り込んだ細麺の蕎麦で、特別美味いということもなかったけれど、きちんと葉の味を感じる麺で、悪くはなかったかな。

昼飯を済ませると、いよいよ体験ダイビング。"Project Wave"という会社のツアーで、迎えに来てくれたインストラクターの2人に連れられて、早速八丈島の海に向かった。実際に始まってみると、午後に潜るのはパートナーとおれの2人だけだったので、自分達のペースで動くことが出来て、その意味では非常に気楽で良かったね。
パートナーは過去に2度ダイビングの経験があるが、おれは今回が初めてだった。彼女はAUS、沖縄と潜ってきた経験から「初めて潜る場所はとても重要」といつも口にしていたけれど、八丈島が選択として良かったのかどうかは、おれには分からない。

インストラクターの指示のもと、ウェットスーツに着替えると、早速水に浸かって簡単に説明を受けていく。マスク、フィン、タンクといった装備を身に付けた後、呼吸の仕方や耳抜きといった基本的なガイドを受けると、いよいよインストラクターに寄り添いながら、八丈島の海に潜っていった。事前の説明は本当にラフなもので、若干心配ではあったけれど、実際に潜ってみると特に問題なく楽しむことが出来た。
海の中ではマンツーマンでインストラクターが寄り添って、進行方向や深さをコントロールしていく。自分ですることは呼吸と耳抜き、あとは顔の向きを変えることくらいだ。珊瑚やイソギンチャク、様々な熱帯魚を見ながらおよそ30分、八丈の海を味わっていく。熱帯魚の数はそれほど多くなかったけれど、カラフルで綺麗だった。

さて、所感。
陸からは見ることの出来ない海の景色は悪くなかった。
ただ、おれが最も強く感じたのは「不自由感」とでもいうものだった。
せいぜい5m程度の深さまで潜る為に、人間はあれほどの装備を必要としてしまういう事実。それでもなお海中を見たいという人間の好奇心にも驚くけれど、実際に装備を身に付けてみて初めて体感したあの不自由さには、少し思うところがあった。
単純にスーツの窮屈さや呼吸の問題もあると思う。また、インストラクターに自分の身の全てを預けるような体験コースだったことで、自分の意思で動くことの出来ない不自由もあった。加えて、言葉を発することが出来ないコミュニケーションの制約。海ゆえの不自由は非常に多く、それは当然のことだと思う。でも、その不自由を背負ってさえ、人間が辿り着けるのは、大海原の中の、本当に手の届きそうなところにある、わずかばかりのエリアだったりするのだからね。

ダイビングは五感の制約がとても大きい。聴覚、嗅覚、触覚といった比較的身体に対してダイレクトな感覚が閉じられていて、楽しみのほぼ全てが視覚に依拠している。
だからこそ、潜る海で決してしまう部分は強いのかもしれない。その意味では、八丈の海の表情は、それほど強い魅力を持って迫っては来なかったのかな、とも思う。
体験ダイビングではなく、きちんとライセンスを取得して、経験を重ねていけば違うのかもしれない。自分の意思で動き、自分の意思で海を堪能する。海の美しさを自分から探していく過程というのは、きっと楽しいだろうと思うけれど。
なにぶん初めての体験で、新鮮な楽しさは勿論あったけれど、今回のツアーに関して言うと、個人的には微妙な感じが残ってしまったね。本格的にライセンスを取得するとなると、現段階ではちょっと悩んでしまうかな。

ダイビングの後は、ホテルに戻って夕食。島寿司やお刺身といった海の幸中心の晩飯を食べると、食後は翌日のプランを決めたりしながら、部屋でゆっくりと過ごした。
そして翌日以降は、八丈島のもうひとつの自然、山を廻っていくことになります。


八丈島の景色を、おれの視点から。(海の写真はないけれど。)
http://www.23hq.com/Fukatsu/album/637324

Monday, April 24, 2006

失敗について

私は実験において失敗など一度たりともしていない。
これでは電球は光らないという発見を、今までに2万回してきたのだ。
トーマス・アルヴァ・エジソン


成功するまで続けず、途中で諦めてしまえば、それで失敗である。
松下幸之助


学生時代、買った文庫本の栞に松下幸之助のこの言葉が書かれていたんだ。
当時、豪徳寺に借りていた木造アパートの柱にセロハンテープで貼ってました。
今でも素晴らしい言葉だと思う。そう生きていきたいよね。

Sunday, April 23, 2006

自分の今を知る

4/23(日)練習 16:00-18:00 @酒井スポーツ広場
小田急線の本厚木駅からバスで5分。相模川の河川敷に広がる芝生のグラウンドに10数名のメンバーが集まって、約2時間の練習を行った。今日の練習場所は本当に直前まで確保できていなかったのだけれど、よく見つかったと思う。確かにアクセスは不便な場所だけれど、クラブチームにとってグラウンドは死活問題だからね。こうしてグラウンド確保に奔走してくれる人達の存在があって、初めてラグビーできます。

ありがとう。
これからも、神様がいるからきっと大丈夫。(これは私信だけれど。)

今日の練習は、個人的には楽しかった。
参加人数が少なく、ほぼタッチフット主体の練習になったけれど、少ない人数ゆえに考えざるを得ない要素が沢山あって、そのことが練習の価値を高めてくれた。
この日の練習でも、少なくない数のミスをした。下手だなーと自分でも思う。
悔しいけれど、仕方ないね。それが今の自分のレベルだから。

今日感じたのは、自分のスキルや判断力のレベルを、自分自身できちんと把握してプレーするということ。例えば、タイトなプレッシャーの中でのパススキルは、プレーにゆとりを与え、判断する時間をより長く確保できる。パススキルに自信がある人間は、より相手DFに近い間合いまでパスの判断を猶予できる。それはつまり、プレーの選択肢を幅広く残しておけるということで、ゆえに相手DFは狙いを絞れない。
しかし、その前提はスキルだ。
ぎりぎりの間合いでもパスをつなげるという自信がどうしても必要になる。
自分のスキルを把握するということはつまり、パスの判断を猶予できるデッドラインを自覚してプレーすることだと思う。自分のスキルをベースに、確実な判断をすることで、プレーの精度は上がっていくはずだ。逆に自分自身の判断のラインを認識しない人間は、それゆえにミスをしてしまう。
もちろん、この判断のラインをより相手DFの懐に近い位置に持つ為に、日々の練習の中でチャレンジしていくことは重要なことだと思う。でも、前提となる「今」のレベルを知らなければ、ミスはきっと繰り返されるだろうし、自分が「何に」チャレンジしているのかさえも、きっと分からないだろう。

とにかく、ミスをしない。
とてもシンプルで、でも非常に難しいこの目標に、少しずつ近づいていきたい。
その為に、ミスの原因を自分で突き詰めるというのは、きっとそういうことなんだね。

春の目標

4月22日(土)練習 9:00-11:00 @辰巳の森ラグビー場

相変わらず自分のプレーの精度が低い。ミス、そしてミス。いつも同じだ。
練習に参加する人数。周囲のプレーヤーのレベル。チーム全体としての練習の質。今シーズンから新加入のメンバーとの意思疎通。すべて関係ない。
ただ、自分が下手くそなだけだ。

自分にとっての春の目標を、2つに絞ります。
この場に書き残すことで、自分の意識に刻み込みたい。
この2つを決して忘れずに、残された春シーズンの練習に臨みたいと思います。

1.ミスをしない
集中力、あるいは意識の持ち方をちょっと変えるだけで防げるミスが幾つもある。
決して高度な練習をしている訳ではなく、今起きているミスの殆どは、自分の内側に理由を含んでいるものだと思う。とにかく、そいつをゼロにしたい。
ゼロにしようと常に意識する。そして、それでも起きるミスの原因を徹底的に反省し、練習の中で消していく。そのプロセスを、グラウンドにおける自分の標準にする。
これが出来なければ、今のおれを誰も信用しないと思うんだ。
もともと上手くないんだから。

2.タックルを踏み込む
学生の頃、タックル練習でよく「飛び込め」と言われた。
今考えれば、全く違う。タックルは飛び込んだら終わりだ。踏み込まないといけない。
タマリバでは「Up, Watch, Up」を合言葉にしている。まず相手との間合いを詰める。そこでウォッチして、相手の動きに反応する。そして、相手が自分のタックルレンジに入ったところで、前に踏み込んで倒す。基本的なことだけれど、タマリバではこれをチームの決めごととして、全体練習のメニューの中で常に意識づけが図られている。
Upは出来る。Watchも出来ると思う。でも、最後のUpが出来ない。
この最後の踏み込みこそが、昨年から持ち越している、おれの最大の課題です。
春はとにかく前に出たい。
目的を持った失敗を重ねて、何度も繰り返して、自分のタックルを身に付けたい。

たった2つだけです。
目的意識を持ち、自分の課題を常に意識して、上手くなる為の練習をしていきたい。

Sunday, April 16, 2006

召喚と憑依

昨年10月以来となる、人生2度目のタップダンス鑑賞。
セヴィアン・グローバーというタップダンサーのソロ公演だ。
Savion Glover in CLASSICAL SAVION @東京国際フォーラム Hall C

タップダンスの世界については、恥ずかしながら全く知らない。
パートナーの薦めのもと、生まれて初めてライブ・ステージに足を運んだ前回。あの時の熊谷和徳のタップ "TAP ME CRAZY" が、タップダンスについておれの知っているほぼ全てだ。そんな訳で、恥ずかしながらセヴィアン・グローバーというタップダンサーのことも、実は何ひとつ知らなかった。

セヴィアン・グローバーは、1996年のブロードウェイ・ミュージカル「ノイズ&ファンク(Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk)」でのトニー賞受賞以降、数々の賞を獲得してタップ界の頂点に君臨しており、「タップの神」と呼ばれているそうだ。そのセヴィアン・グローバーによる今回の日本公演 "Savion Glover in CLASSICAL SAVION" は、クラシック音楽とタップダンスとのコラボレーション・ステージで、13人で編成されたオーケストラの奏でるクラシックの名曲に、彼が踏むタップのリズムを融合させていく形式で構成されている。2005年1月のNY公演においてこの新作が演じられた際に、観衆から大絶賛を浴びたそうだ。

さて、東京国際フォーラムで行われた日本公演。
2時間弱のパフォーマンスが終わると、大多数の観衆が立ち上がり、スタンディング・オベーションが起こった。アンコールはなかったけれど、最前列の観客と握手を交わすセヴィアンの姿には悲鳴のような声も降り注いでいた。
でも、隣で一緒に鑑賞していたパートナーは席を立たなかった。
そしておれ自身も、どこか満たされない感覚を残したまま2時間を終えてしまった。
ちなみに、社会人ラグビー時代の後輩とその彼女も一緒だったのだけれど、彼ら2人も同じような感想を口にしていた。その意味では、必ずしもおれの個人的な感覚だけの問題ではないような気がしている。

たった2回のタップ鑑賞だけれど、これほど違うとは思わなかった。
熊谷和徳とセヴィアン・グローバー、2人のタップの方向性は明らかに違うと感じた。

セヴィアン・グローバーは「召喚」のタップだ。
彼の中には、自分が演じるべきタップが確立している。観衆の前で彼が踏むべきステップは、彼の自我の世界の中で完成し、完結しているように感じる。洗練され、磨き上げられた技術と彼自身の感性をベースに、セヴィアンとして「セヴィアン」たることを表現する為のパフォーマンスは、すべてセヴィアン・グローバーという人間の自我の中で構成され、それが観衆に対して突きつけられるような感覚だ。
彼にとっての音楽は、自身のパフォーマンスを最大限に高める触媒のようであり、音楽に溶け合っていくというよりも、ステップを踏む上で彼の求める音楽を、彼自身が呼び出していくイメージの方が近い。無音の状態のもとにあって、セヴィアンの自我の中で演じるべきタップのリズムが決められていく。そして彼が小さくステップを踏み始めると、そのリズムはオーケストラへと波及していく。「分かるだろう、このリズムが呼び出す音の世界が」といった具合に、彼によって音が「召喚」される。
だから彼は、ステージにおいて決して自分をゼロにしない。常に「1」だ。そして、その「1」の世界は、きっとセヴィアン・グローバーという人間にしか創り上げることの出来ない「極み」の世界なのだと思う。残念ながら、今のおれにはそれを感じ取る感性はなかったけれど。

対照的に、熊谷のタップは「憑依」のタップだ。
熊谷は時に、ステージにおいて自分をゼロにする。少なくとも彼の表情は、そういう世界観を見事なまでに体現している。熊谷のタップには、セヴィアン・グローバーのように強烈に自我を突きつけてくる感覚はない。そうではなくて、何かが彼の中に降りてきて、取り憑いて、そしてその憑依した何かが彼の身体を借りてステップを創り出していくような、そういう独特の雰囲気が漂っている。
だから、熊谷のアウトプットはきっと定まらない。緻密なレッスンによる定められた公演であったとしても、少なくとも観衆の前で繰り広げられる世界には、定まらない感覚がどこかに潜んでいる。熊谷にとっての音楽はきっと、ある種のインプットだ。音楽だけではない。その場の空気、観衆の表情や気配。ちょっとした囁きや小さな雑音。そういったあらゆるものが、ゼロになった熊谷に取り憑いて、憑依することで新しい何かが創り出される。ある瞬間に存在する、オンリーワンの世界をインプットに、熊谷和徳というタップダンサー自身が触媒となって、新しいひとつの表現が構成される。
それこそが、たった1度しか観たことはないけれど、おれにとっての熊谷和徳の魅力であり、直感的には、彼以外のタップダンサーが持ち得ない、彼ゆえの世界なのだと思っている。セヴィアンのタップとは、まさしく正反対の志向だろう。

セヴィアン・グローバーの公演は、残念ながら満ち足りないものが残った。
しかし、セヴィアン・グローバーという、ひとつの方向性で頂点に君臨する人間のパフォーマンスを観たことで、自分がタップに求めていたものが明確になった。
もう一度、改めて熊谷和徳のタップを観たいです。そして、突き抜けてほしい。

Sunday, April 09, 2006

背伸びしない

久しぶりに劇場で映画を観た。
三谷幸喜監督の最新作『THE有頂天ホテル』ね。

大晦日の夜、あるホテルで繰り広げられる様々な人間模様をコメディタッチで描いた作品。それぞれの事情やバックグラウンドを持つ人間達が、「ホテル」という舞台の中で、意図せざる奇妙な偶然の流れに翻弄されながら複雑に絡み合っていく。誰かの行為が、本人の与り知らないところで別の誰かの救いとなったり、あるいは他人の心の葛藤に向き合うことで、自分自身の心の葛藤が浮き彫りにされたり、そうやって織り成されていく小さなドラマが全編に渡ってうまく散りばめられている。

信頼できる後輩の評価とはちょっと違うのだけれど、個人的には良い映画だと思う。
この映画のメッセージは極めてシンプルなもので、つまりは「自分に嘘をつかない」ということが全てだ。「嘘」と言うと言い過ぎかも知れないけれど、自分自身の思いに正面から向き合おうとしない、ということがある種の嘘であるならば、概ねこのフレーズにエッセンスは集約されると思う。

それぞれの登場人物が抱える思いや葛藤は異なるけれど、皆どこかで自分を押し隠している。背伸びをしている人間もいれば、着飾る人間もいる。卑屈になるやつや、自分の弱さを認められないやつもいる。事情は皆違う。当然ながら、それぞれにとっての救いは個人的なもので、誰しもに共通する救いが提示される訳ではない。夢に向かう自信を取り戻して救いを得る人間がいれば、夢の次に向かった世界で真摯に生きてきたその生き方を素直に認められることで救いを得る人間もいる。
そういう世界観は、悪くないと思うんだ。

ホテルという舞台設定。
日常の生活空間とは違う、ちょっと背伸びした世界。それでいて、家という日常空間にいる時のように安らげる場所であって欲しいと願うホテルマンの「おかえりなさいませ」という一言が、背伸びのない世界への肯定へと導いていく。
そして、コメディ。
他人の背伸びは、傍から見れば思わず笑ってしまうな滑稽なものだったりもする。各人各様の思いの中から生まれる「背伸びした自分」というものを、コメディの形式で優しく笑い飛ばすことで、人間らしさを演出していくような感覚。

というとちょっと言い過ぎではあるけれど、人間味ある良い映画だと思います。

Monday, April 03, 2006

神奈川セブンス

4月2日(日)神奈川セブンス@保土ヶ谷ラグビー場

香港10'sを終えて帰国したメンバーも合流して、タマリバクラブとしては今シーズン最初となる公式戦に参加した。毎年この時期に行われる神奈川セブンスだ。
三菱重工相模原、栗田工業、キヤノンといった社会人チームに加え、学生からは関東学院大学、クラブチームからは湘南フジクラブも参加して、全16チームで行われる7人制のトーナメント。タマリバからはA、Bの2チームがエントリーしたのだけれど、おれ自身はBチームのゲームキャプテンを務めることになった。

試合の結果としては、残念なものになってしまった。
Bチームは1回戦で三菱重工相模原に負けてしまった。先制トライを奪い、僅差で前半を折り返したものの、後半に入ると開いてしまった。その後に行われた三菱重工横浜との敗者戦には圧勝したけれど、1回戦敗退というのは変わらないからね。なんとかもう少し重工相模原に喰い下がってみせたかった。
Aチームは、1回戦こそ三菱重工横浜相手に60点近くを奪って完封したものの、2回戦で三菱重工相模原に逆転負けを喫してしまった。チームとしての練習不足は否めないけれど、なんとなく歯車が噛み合わないままゲームが終わってしまった。来週にはYCACセブンスという由緒ある大会が控えているので、限られた時間の中で各自が修正点を考えて、チームとしてのコンディションを高めていくしかないね。

さて、Bチーム。
この大会をBチームでプレーしたことは、結果的には自分にとってよかった。
Aチームには司令塔としてゲームをコントロールできる人間がいる。黙っていても豊富な運動量でチームを支えてくれるFWの選手がいる。それを考えると、Aチームの方が圧倒的にプレーしやすい。でも一方で、そういう選手に頼り切ってしまう部分があることも事実なんだ。ゲームメーカーの動きを感じてさえいれば、彼らが相手のDFを崩してくれる。フィットネスが落ちて苦しい状況でも、彼らが指示を出してチームを引っ張ってくれる。存在感のある選手に対してのそうした「依存」は、程度の差こそあれ、Aチームの選手にも少なくない割合で見られるものだと思う。
Bにはないからね。依存する先がそもそもない。
むしろゲームキャプテンとして、自分がチームを鼓舞していかなければならない。
それは今の自分にとって、いい経験となったと思う。
もちろん、納得できるレベルまで出来た訳では全然ないのだけれど、Bチームのメンバー10人が、それぞれに現在置かれている状況の中で一生懸命にプレーしてくれたことが、ゲームキャプテンとして嬉しかった。

それにしても、今日改めて思ったけれど、セブンスは苦手です。

Friday, March 31, 2006

パワーが出ない

何故だか分からないけれど、左半身の筋力が突然落ちてしまった。
特段思い当たるふしは何もないのに、右半身の半分くらいしかパワーが出ない。
アームカールもショルダープレスも、本当に半分しか上がらなくなってしまった。
そんな訳で、ちょっと困っています。

Saturday, March 25, 2006

色を塗る

パートナーに触発されて、カンバスに色を塗ってみた。

画廊で働くうちのパートナーは、自分でも絵を描き溜めている。自宅の一室をアトリエにして、ケントパネルにアクリル絵の具でイメージを描いていくのだけれど、仕事帰りの疲れた身体でも、驚くほどの集中力でいつも机に向かっている。この1年間ほどで、100枚近くの絵を描いているのだから、絵を描くことが本当に好きなのだと思う。
描き続ける中で、彼女の好奇心であったり、描くことへのこだわりは日に日に高まっていて、最近では遂にカンバスに絵を描くようになった。そして、ずっと欲しがっていたイーゼルもようやく買い揃えることが出来て、アトリエとして使っている4畳半の小部屋は、今では完全にアーティスティックな空間となった。

カンバスとイーゼル。
この2つが揃うと、絵筆を持ったことのない人間でも、描いてみたくなるよね。
だから、真っ白なカンバスを1枚だけもらって、やってみることにしたんだ。

断っておくけれど、絵を描いた訳ではないんだ。
真っ白なカンバス全体に、青のアクリル絵の具で色を塗っていっただけだ。
カンバスに絵を描く時には、まず下塗りをして、その上に色を重ねていくそうなのだけれど、おれがやってみたのはその「下塗り」にあたる作業だ。パレットに青の絵の具を落とし、メディウムと少量の水を混ぜ合わせて適度な軟らかさにする。そして、平刷毛で丁寧に延ばしながら、カンバスを塗っていくんだ。

そしたら、思った以上におもしろかった。

カンバスの上で刷毛を滑らせていくだけの作業がこれほど楽しいとは思わなかった。
不思議と心が落ち着いていく。ちょっと大仰な言い方をすると、ある種のカタルシスのような感覚があって非常に心地よく、同時に新鮮な驚きがあった。
やってみるものだね。
ただの下塗りの青だけれど、上手くは描けない。平刷毛を思うように扱うことはとても難しいし、青一色であっても、その濃淡や深みはイメージ通りに作り出せない。それでも、刷毛の動かし方や絵の具の延び具合が生み出す「1点もの」のムラにどこか愛着さえ沸いてきて、自分の気持ちがクリアになっていくような感覚があるんだ。

ただそれだけのことが楽しいのだから、数多くの色を自在に重ね併せて、自分の中のイメージを具現化していく作業というのは、きっとどこか特別な感覚なのだろう。
残念ながらおれにその能力はないけれど、また「下塗り」はしてみたい。

Sunday, March 12, 2006

岩盤浴

生まれて初めて岩盤浴なるものを体験した。
六本木ロアビル5階にあるストーンスパ「磊の温泉」というところね。
http://www.i-ismspa.com/top.html

低温のサウナに敷き詰められた温かい石の上で寝そべっているだけなのだけれど、非常に気持ちよいです。15分程度入ったら、水分補給をしながら10分ほど休憩して、また15分の入浴。これを2~3回繰り返すと、身体中から汗が噴き出してくる。
室内にはリラクゼーション音楽が耳障りでない音量で静かに流れていて、心地よい寛ぎ空間となっているので、大量の汗を噴き出しながらも、思わず眠ってしまいそうになる。石のベッドは寝心地が悪そうだと最初は思ったけれど、実際に寝転がってみると、多少ごつごつするくらいで、すぐに慣れてしまう。
疲れも取れそうです。
流れ出る汗を感じながら、「疲労というのは物質かもしれない」なんて考えたりして。
練習や試合の後に、ゆっくり時間をかけて行くのもいいかもしれないね。

ちなみに、今日の練習はいまひとつだった。
昨年からずっと同じことだけれど、単純なミスが多かったね。
香港10'sのメンバーがYCACとのゲームで不参加だったので、人数も少なかったのだけれど、主力の彼らがいないだけで、途端に練習のクオリティが下がってしまう。裏を返せば、普段の練習の質を高めるという点において、キーマンとなる数人の選手のパフォーマンスにどれほど依存しているか、ということだよね。
自分自身のパフォーマンスは、自分自身の自覚で持っていかないと。

Saturday, March 11, 2006

逃げない

WMMの先輩に教えてもらった言葉に心をとられてしまった。
『スラムダンク勝利学』の辻秀一さんによるメンタル・トレーニングの講義の中で語られたものだそうだ。とても興味深い内容なので、以下に転載させていただこうかと。


達成したい「目標」に向けて頑張るプロセスには、
カラダにも、ココロにも「負荷」がかかるのが常。
筋トレにしたって、勉強にしたって、
結果を出す為には苦しいプロセスを踏まなきゃならない。

でも、中にはどうしても「逃げて」しまう人がいる。
特に「ココロ」の負荷から逃げることって実は多い。
だって、他人にはバレないから。
何も実行できていなくたって、頑張るフリをしていれば良いから。
一生懸命な素振りをしてれば良いから。
筋トレや練習をサボったら、すぐにバレる。
でも、ちょっと他の事を考えて集中していなくても、
外側の態度に出なければ、他人にはバレにくい。

このココロのサボり=「逃げ」には4つのタイプがある。
①「今」やることから逃げる
明日からやるさ。そうさ、僕はやらなきゃいけないってことは分かってる。
でも今日はどうしてもできない事情があるのさ。明日から絶対やるって。
②「目標」自体を無くす
あんなの目指して頑張ってどうするのさ?意味無いっしょ。
そんなことよりもっとタメになることがあるはずさ!
③考えない
とにかく目の前のことを集中して、ツライことも、楽しいことも忘れて、
無我夢中でやればいいんでしょ。筋トレだって、練習だって、勉強だって、
意味なんかよく分からないけど、こなせば良いんでしょ。
④我慢する
やっぱり世の中根性っすよ。耐えればいいんでしょ。苦しいけど。
でも、何でこんなことやり始めたんだっけな~?ま、あとちょっとで終わるし、いいか。

もうお分かりのように、以上のような「逃げ」をしていたら、
成長は無いし、結果(パフォーマンス)も伴わない。


はっとした。心のど真ん中を射抜かれてしまった。
今まで自分はどれほど逃げてきただろう。「逃げている」という事実にどれほど自覚的であっただろうかと考えた時、本当に恥ずかしくなってしまった。
逃げてちゃ駄目だね。せっかく生きているのだから。自分の可能性に挑戦できる環境でラグビーを続けることを選択したのは、他ならぬ自分自身なのだから。

3月12日(土)、明日からタマリバの新しいシーズンが本格的に始まる。
新主将によって語られた今年度のシーズン・テーマは「こだわり」。
グラウンドの上では勿論のこと、日常生活を含めて細部まで徹底的に拘り抜こうと。
それはつまり、「逃げない」ということだと思うんだ。
限られた時間の中でもっと自分を成長させる為に、自分の気持ちにきちんと正面切って向き合うことをテーマとして、新たな1年間をスタートさせたいと思います。

Monday, March 06, 2006

長谷川潔

長谷川潔という銅版画家がいる。
ちょっとした経緯があって気になっていた作家なのだけれど、タイミングよくNHKの「日曜美術館」で取り上げてくれたので、20:00からの再放送を自宅で見たんだ。

おれの感想を一言で言うなら「静謐」。静かすぎるほどに静かだ。
静物画と呼ばれる作品は巷に多数あるけれど、これほどまでに静かな作品世界を創り上げた作家は少ないのではないかと思う。そしてその世界観は、どこかはかない。
例えば、ひとつの林檎を描くとする。林檎の表面には艶やかさがあり、自然が創り出すカーブには生命力が溢れており、きっと表皮の内側には瑞々しさがある。
長谷川潔の作品は、違う。
生命を泥臭く捉えるのではなくて、ひとつの「理」と捉える独特の感覚に満ちている。
洗練され研ぎ澄まされた感性で、理をひとつずつ切り抜いていくような、その独特の雰囲気がとても興味深く、魅力的だと感じた。

横浜美術館で「長谷川潔展」が行われているそうなので、行ってみようかな。
http://www.yma.city.yokohama.jp/

Monday, February 27, 2006

プラネタリウム

作ってみたんだ。
http://shop.gakken.co.jp/otonanokagaku/magazine/vol09.html

大人の科学マガジンの付録なのだけれど、かなり良いです。
思った以上に綺麗な星空が投影されます。
彼女のいない大学生が部屋にひとつ置いておいたらいいかもしれない。
いや、それだとちょっと作為的かなー。

Sunday, February 26, 2006

壷光る

書きたいことは沢山あったはずなのに、機を逃すと書けないものだね。

もう1週間も前になるけれど、ある美術展に足を向けた。
東京美術倶楽部創立100周年記念「大いなる遺産 美の伝統展」というやつだ。
御成門の駅から歩いてすぐのところにある東京美術倶楽部。恥ずかしながら、おれはその存在すら知らなかったのだけれど、明治40年4月に設立された由緒ある会社のようで、日本の優れた美術品の保存・活用を通じて日本美術の発展に貢献すべく活動してきたそうだ。その東京美術倶楽部が、創立100周年を記念して、国宝を中心とする古美術品や、近代日本絵画の名作を数多く集めた展覧会を開催しているということで、会期終了間際に出掛けていったんだ。

様々な作品があった。
富岡鉄斎、横山大観、上村松園、青木繁、竹久夢二、奥村土牛、岸田劉生。
近代絵画の大御所の名前がずらっと並んでいた。
展示作品はどれも質が高く、内容の濃いものになっていた。正直に言うと、近代日本画というのは、観ていてそれほどおもしろいものだとは思わないけれど、その仕事の繊細さや丁寧さ、あるいは色彩や構図の巧みさといったものが明確に感じ取れる作品が多く、極めて良質の展示内容だったと思う。
印象に残っているものを挙げるならば、三岸好太郎と中川一政。どちらの作家も、その作品を直接目にするのは今回が初めてだった。三岸好太郎の作品「雲の上を飛ぶ蝶」では、そのタイトルの通り、雲海の上に広がる青い空を、色とりどりの蝶が舞っている。絶妙な拡がりを持ったその構成と、舞い飛ぶ蝶々の姿は、どこか人間の想像力の拡がりと自由を暗示しているようでもあった。中川一政の作品は、大胆な筆遣いと色彩で荒々しく描かれた「駒ケ岳」。ごつごつとした駒ケ岳の山肌が力強く描かれ、自然の持つパワーが伝わってくる良い作品だった。

絵画の他にも、多くの展示品が並んでいた。
国宝の絵巻物や陶器、書や屏風も多数あり、全体として見応えのある内容だった。
でもね、その中でも一際輝くものがあったんだ。
ただその作品の為だけに、この展覧会はあったのだと思えるような、そんな作品。

それが「花魚扁壷」と名づけられた河合寛次郎の作品だ。

生まれて初めて自分の目で実際に観た寛次郎の作品は、衝撃的だった。
作品の佇まい、フォルム、釉薬の質感、どれもが素晴らしかった。一目見た瞬間に寛次郎の作品と分かるような独特の雰囲気と洗練された美しさを併せ持つその壷は、本当に黄金色に光っていた。少なくともおれにはそう見えた。
壷にあれほど感動したのは初めてだった。繊細にして素朴。河合寛次郎という人間の魅力が詰まっているようで、その作品を観られたことが本当に嬉しかった。

また寛次郎の作品を観たい。
寛次郎自らが建築・設計し、殆どの家具をデザインし、生涯を終えるまでそこで数々の作品の製作に携わったという建物が京都に今も残され、河合寛次郎記念館として一般に公開されている。
いつか行ってみたい。出来れば近いうちに。

Monday, February 20, 2006

早稲田の挑戦

タマリバの同期を誘って、秩父宮ラグビー場に足を運んだ。
日本選手権準決勝、東芝府中 vs 早稲田大学。

先週末の2回戦で、トップリーグ4位のトヨタ自動車を28-24で破り、学生チームによる18年振りの社会人チーム撃破という快挙を果たした早稲田の更なる挑戦。対する東芝府中は、トップリーグ、マイクロソフトカップを制した社会人の王者であり、特にFWを中心とした激しさと破壊力は圧倒的だ。間違いなく国内最強のチームだろう。

秩父宮のスタンドは満員の観客で埋め尽くされた。
そして、圧倒的多数のファンの声援が早稲田に向けられた。
早稲田のプレーのひとつひとつに歓声とどよめきが起こり、随所に見られた好プレーに対して惜しみない拍手が送られた。
でも、きっと多くの人間は、どこかで早稲田の敗北を予感していた。早稲田の可能性に期待しながら、それでも最後は東芝府中が圧倒するだろうと思っていた。
そして、実際に東芝府中は43-0で早稲田を零封してみせた。
東芝府中は勝つべくして勝った。完勝だった、と言っていいだろう。


ここからは、あくまでおれの私論だ。
異論は当然あると思うけれど、おれの所感を書き残しておきたい。

東芝府中に挑みかかった早稲田の姿には、強く心を打つものがあった。
トヨタ自動車を撃破してみせた先週のゲームとは比較にならない感動があった。

前半の40分間、東芝府中の猛攻を12点に抑えてみせたディフェンス。
サイズ・パワーで劣る集団が、次々に湧き出るように必死のタックルを繰り返す。
鍛え抜かれた狂気のタックル、と言えばいいのか。積み重ねた練習に裏付けられたスキルと能力に自信を持って、そこに、勝利への執念と、ゴールラインを絶対に割らせないという魂が取り憑いたような、凄まじいタックルだった。
中でも特筆すべき選手を挙げるとすれば、内橋、後藤の両LOとWTBの菅野。
内橋、後藤の両LOの仕事量は、本当に凄まじいばかりだった。
あらゆるポイントに彼らの姿があり、仲間が抜かれた時に常にカバーリングしていたのも、やはり彼らだった。上に入るべき時は上に、下に入るべき時は下に、判断力と技術を持ってタックルを使い分け、鍛え上げられたフィジカルの強さを生かして激しいプレーを繰り返していた。そしてWTBの菅野。自分自身の「間合い」を持つ人間の、切れのあるタックル。瞬間的なスピードをもって相手の懐に突き刺さり、幾度となく東芝府中の攻撃を寸断した。

それでも、後半に入ると崩れた。
結果的に43点を奪われ、明日の新聞には「東芝府中、圧勝」の文字が並ぶだろう。
東芝府中、完勝。その通りだ。既に書いた通り、東芝は勝つべくして勝った。
東芝府中には早稲田を上回るフィジカルの強さと自信があり、経験があった。分厚い壁のようなディフェンスラインは大きく崩れることなく、終始ゲームの主導権を握って離さなかった。彼らには社会人王者のプライドと意地があり、なにより自信があった。
それは、紛れもなく、チームとしての「実力の差」だったと思う。

それでも、おれは思うわけです。
それは真実の一端ではあるけれど、もう一端の真実もあるだろうって。

トヨタ自動車に対しては、勝つべくして勝った。
あのゲームは、互角に戦えるだけの実力を備えたチームが、「洗練と徹底」で勝利を掴んだゲームだった。計算され尽くした「挑戦」であり、その体現だった。
今日のゲームは違う。
明確な格上への挑戦であり、計算を越えたところでの勝負だった。その結果が43-0というスコアであり、それが全てかも知れないけれど、そこには確かな光明があった。計算の先に向かう確かな意志に満ちていた。

それは確かに強く心を打つものだったと、おれは思います。
本当に素晴らしいゲームだった。

Sunday, February 12, 2006

感動について

パートナーと一緒に上野に出掛ける。
彼女が勤める画廊のオーナーに薦められて向かったのは、東京国立博物館で開催されている『書の至宝展』だ。王羲之に始まり、聖徳太子、空海、良寛といった書家の作品が多数展示されており、平日でも大勢が列を成していると聞いていたので、少し早めの時間から出掛けることにした。

正直に言うと、書には全く興味がなかったんだ。
彼女が無料招待券を持っていなかったら、間違いなく行かなかった。
それでも、足りない自分の分のチケットを買って一緒に観ようと思ったのは、もしかすると新たな発見があるかもしれないと思ったから、ではなくて、単純に彼女にひとりで行かせるのは可哀想かなと思ったからだった。

それで感想はというと、残念ながらつまらなかった。
ただ、必ずしも展示された書がつまらなかったという訳ではないんだ。
正確に言うと、つまらなかったのかどうかすらもよく分からない。
というのは、実は殆ど作品が見えなかったんだよね。人混みに囲まれてしまって。

誰もがお金を払って観に来ているのだから、じっくり鑑賞したい気持ちは分かる。
それでも、この展覧会の人混みは異常だったと思う。
あれほど混んでいるのに、誰も先に進もうとしない。他の人間のことを誰も考えない。それに加えて、大多数の作品が目線よりも低い位置に展示されているので、間近を取り囲んでいる人間にしか作品が届かない。甲骨文字のような、少なくともおれからすれば、繁々と見るようなものではないと思ってしまうものの前にさえ、二重三重に人が連なっていたのだから、王羲之や空海など殆ど観られたものではなかった。

ああなってしまうと、もう駄目だね。心が閉じてしまう。
「日々是感動」こそがスタートだったはずなのに、その想いとは正反対だよね。
展示されていた多くの作品に対する印象が、ほとんど皆無です。
もう一度、静かな部屋で観ることが出来たら違うのかも知れないけれど。


その後は、西洋美術館の中にある「すいれん」でランチを食べて、上野の街を適当に散策して歩き、みはしで餡蜜を食べて帰ってきた。みはしの餡蜜は美味しいけれど、杏餡蜜は酸味がちょっと強いので、あまりお薦めじゃないね。


夕方。
自宅に戻ってまず珈琲を入れると、録画してあったVHSのビデオテープを巻き戻す。
録画したのはもちろん、ラグビー日本選手権大会の2回戦。
早稲田大学 vs トヨタ自動車(14:00K.O. @秩父宮ラグビー場)

実際に観に行った人も多いと思う。注目されたゲームだったからね。
結果は早稲田 28-24 トヨタ自動車。学生による18年振りの社会人撃破となった。

試合の詳細には敢えて触れないけれど、素晴らしいゲームだった。
スコアを見れば苦しみながら捥ぎ取った勝利だけれど、早稲田は勝つべくして勝ったように見えた。彼等は周到な準備を重ね、戦略と意志統一を徹底し、目標を最後まで忘れなかった。あのチームが、次のシーズンのタマリバの目標になるんだね。

最後に、この試合を観て思い出されたイチロー選手の言葉と、学生時代にラグビーを通じて知り合ったある方がくれたメールを、ここに書いておきます。


特別なことをするために特別なことをするのではない。
特別なことをするために普段どおりの当たり前のことをする。

三年前、学生王者が社会人に勝つと思った人がいただろうか。でも彼らは本気で信じ続けた。正直今はクラブチームが勝つと思ってる人はいない。でも目標を持ち続けることで真実は覆る。来年の健闘を祈る!

ウェイト

寝過ぎてしまった。
昨晩1:30にベッドに入り、今日の12:30に起きる。朝飯とも昼飯ともつかない食事を摂って、14:30くらいに再びベッドに潜り込むと、起きた時にはもう17:30だった。
14時間も寝てしまうとは、自分が思っている以上に疲れていたのかなー。

身体の疲れも取れたところで、久しぶりに東京武道館へ行ってウェイトをした。
本当に長い間ウェイトをしていなかった気がする。身体がこれ以上痩せ細っていくのには耐えられないので、今年はなんとかウェイトの時間を確保するようにしたい。
平日にどの程度トレーニングできるかがポイントなんだよね。

ちなみに。
今更ながらジャイログリップを買ってしまった。(知ってますか?)
パートナーはすぐに廻せるようになったけれど、おれは半日くらいかかった。
最初はそのことが悔しかったのだけれど、今ではおれの方が高速で回転させるので、結局のところおれの勝利のようです。

Sunday, February 05, 2006

40点の差

2006年2月4日(土)
第43回日本ラグビーフットボール選手権大会、1回戦。
タマリバクラブ 7-47 早稲田大学(14:00 K.O. @秩父宮ラグビー場)

ずっと目標にしてきた試合は、あっという間に終わってしまった。
試合後に残ったものは、40点という点差と、自分への悔しさだった。

早稲田戦を迎えるまでの1週間は、素晴らしいものだった。
何人かの先輩や仲間がメッセージをくれた。
それまで個人的なメールをもらったことなどなかった人達が、メールをくれた。
社会人ラグビーで共にプレーした先輩も、激励の言葉をくれた。
一緒に1年間を戦ったメンバーからの決意表明が次々とメールボックスを埋めていき、業務時間中にも関わらず、何度も泣きそうになった。

決意表明。
考える必要もなく、書くことは決まった。
日本選手権の舞台にタマリバが辿り着いたのは、今シーズンの公式戦を勝ち抜いたメンバーだけの力ではない。チーム創設以来の数年間を支え続けた人達の存在と、日々の練習を共にした多くの仲間の存在があって初めて、この場所は用意されたのだという当然の事実へと、自然に気持ちが向かっていった。
だから、そういう人達の思いに恥じないプレーをしなければいけない。
自分に与えられた責任を果たして、最高のパフォーマンスをしてみせる。
12番での出場が決まった時、最初に思ったのは、そういうことだった。


後半34分。交替が告げられ、ベンチに戻った。
先輩が渡してくれたベンチウォーマーに袖を通しながら、グラウンドを眺める。
既に40点差がついていた。
そして暫くして試合終了の笛が鳴り、今シーズンのタマリバの挑戦は終わった。

悔しかった。
単純なことで、まだ自分自身が足りていないことを思い知らされた。
パスもタックルも、スピードもフィットネスも、自分に対する自信もきっと、まだ足りていなかったのだと思う。先輩に教えてもらった「プレー責任」というやつを、日本選手権の舞台で完遂するだけの土台が、現時点のおれには、まだ足りなかった。
もっと練習するしかないね。自分自身が、もっと成長するしかない。

タマリバクラブとしても、次のシーズンはこの40点がターゲットになるのだと思う。
これからまた1年間かけて、この差を一歩ずつ埋めていくしかないね。
決して小さくはない40点の差を埋める為の日々を、これからまた始めます。



以下、追伸。

試合を終えた翌日、パートナーが録画していたTV東京の『美の巨人たち』という番組を観た。河合寛次郎という陶工を扱った内容で、相変わらず寛次郎の作品は素晴らしいものばかりだったのだけれど、それ以上におれの心に留まったのは、寛次郎の美への態度そのものだった。

寛次郎が若い頃に目指していたのは、中国古来の陶磁器の美だった。寛次郎は、目標とする中国や朝鮮の陶磁の手法に独自の感性を織り込み、斬新な作品を創り上げていく。それは陶芸界に大きな衝撃を与え、結果的に寛次郎は若くして天才の評価を得ることになる。

しかし、その一方で寛次郎自身は、奇妙な思いに駆られていくことになる。結局は先達の模倣ではないのか、中国の古典美をどこまで追い求めても、それを越える作品には辿り着かないのではないか、と。
そして葛藤の末に3年を経た寛次郎は、別の地平へと行き着くことになる。

きっかけは、どこかの展覧会で見かけた茶碗だった。生活の中で使う為に、機能的に形を整えただけのものが、なお美しい。そのことに衝撃を受けた寛次郎は、生活の中に深く根を張った美、即ち「民藝」の世界へと傾倒していったんだ。
美を追い求めず、それでいて美しい、という境地。有名の美を求めず、無名の美を追求し続け、生涯に渡って無名であろうとしたが、その才能ゆえに無名たりえなかった天才。それが、河合寛次郎という人間だったそうだ。


何故こんなことを書いているのか。
それは、タマリバの今後のことを、少しだけ重ね合わせてしまったからだ。
思いつきの域を出ないレベルだけれど。

タマリバは、どのような方向性で今後「強さ」を目指していくのだろう。
例えば、経験と才能の豊かな選手に声を掛けて、良い人材を集める。
あるいは、全体での練習時間をもっと増やしていく。
そういった努力は惜しむべきではないと思うし、強くなる為には不可欠だと思う。
ただ、その方向性だけで突き進んだ時に待っているのは、人材と練習量では、どこまで行っても大学や社会人の強豪には勝てない、という事実かもしれない。大学ラグビーや社会人のトップリーグは、全国から選ばれた才能ある選手達が、ラグビーの為に生活の全ての時間を捧げる世界だからね。

クラブチームの可能性を、どこに見出していけばいいのだろう。
どこかにあるはずなんだ。
寛次郎が「美」の地平を変えてしまったようなことを、「強さ」でも出来ないだろうか。
もちろん簡単には出来ないだろうけれど、それでも、クラブチームゆえの「強さ」というエッセンスは、どこかに成立し得る地平があると思うんだよね。

その具体的なビジョンは全然ないので、あくまで希望に過ぎないけれど。

Monday, January 30, 2006

試合結果

全国クラブ選手権大会、決勝。
タマリバ 10-3 北海道バーバリアンズ

クラブ日本一、勝ち取りました。
秩父宮に足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
残念ながらゲームのクオリティは到底納得できるレベルのものではなく、退屈な思いをさせてしまったかもしれないけれど、とにかく勝ってほっとしています。

本当は書きたいことが山ほどあるけれど、今はしまっておきます。
次は2月4日、秩父宮ラグビー場で行われる日本選手権。
戦う相手は、早稲田大。
ようやくここまで辿り着きました。
スターティングメンバーとして秩父宮に立てることを信じます。


内部さん、中原さん、小寺さん、建太。
応援ありがとうございました。
次も頑張ります。
社会人での3年間に自信を持って、日本選手権の舞台で暴れてみせます。
CTBとして激しく、そしてFLのようにしつこく。どっちが本業か忘れちゃいましたけど。

Saturday, January 28, 2006

決勝前夜

1月29日(日)全国クラブ選手権大会、決勝。
タマリバvs北海道バーバリアンズ(12:00 K.O. @秩父宮ラグビー場)
ラグビーを始めて13年、明日は「日本一」という舞台への初めてチャレンジです。
なんとしても勝ちたい。
トップリーグや大学ラグビーのような華やかなものではないけれど、クラブラグビーの世界こそが今のおれの居場所だからね。

残念ながら、おれ自身はリザーブからのスタート。
6月にタマリバに加入してからずっと目標にしてきた大切なゲームで、スターティングメンバーから漏れたことは本当に残念だけれど、出番はあると信じている。
この悔しさを、試合にぶつけるしかないね。

Sunday, January 15, 2006

アートオフィス

昨日のことだけれど、パートナーの再就職が決まった。
これまでも様々な分野を転々としてきたけれど、今度の職場は銀座のとある画廊。
いいよね。
画廊で働くということが、おれには上手くイメージできないけれど、楽しそうです。
近代日本画を中心に取り扱う画廊のようで、今は隣の部屋で、その画廊で取り扱いのある作家の名前を100人近く暗記しようとしている。明日から勤務が始まるのだけれど、お客様から電話が掛かってきた時に、作家の名前も知らないようでは仕事にならないので、事前に覚えておくように指示があったそうだ。

なんかさ、画廊のパンフレットを見ると、ジャンル毎に分かれて作家名が記載されているわけ。例えば書画、日本画、工芸、彫刻といった具合に。
それぞれのジャンルで、15名から20名くらいの作家名が列記されているのだけれど、うちのパートナーはどうやら学校の先生になったつもりで暗記しているらしい。
書画組の尾形光琳君、みたいな感じで。

なんだかよく分からないけれど、画廊での仕事というのは誰もが経験できることではないので、とにかく楽しんでくれればいいなと思っています。

ミスをしない

久しぶりのラグビー。
バスで片道5時間の日帰り遠征で向かった先は、トヨタスポーツセンターだ。
トヨタ自動車B、三洋電機B、タマリバの3つ巴でのゲーム。マイクロソフトカップ、そして日本選手権を控えたこの時期に、Bとはいえゲームを組んでもらえたことに本当に感謝している。クラブラグビーでは、このレベルと出来るチャンスは殆どないからね。

14時40分、まずはトヨタBと40分間1ハーフ。
正確なスコアは知らないけれど、トライ数2-1で負けた。
チームとしては、悪くない出来だったと思う。課題も多く出たけれど、同様に収穫も多かった。随所に通用するプレーがあった。試合開始早々に先制トライを奪われて、立ち上がりは良くなかったけれど、40分全体を通してみれば、タマリバの時間帯を創り出して、自分達の強みを生かした勝負をすることが、一定程度は出来たと思う。
個人的な出来としては、ミスが多かったね。ディフェンスミス、ハンドリングミス、プレーの選択のミス。そういったものが、たった40分間の中に幾つも出てしまった。
課題はいつも同じだ。社会人ラグビーの頃に、大西さんにいつも指摘されていたことだけれど、ミスをする選手はチームから信頼されない。大切なのは、自分の責任を80分間ミスなく徹底すること。ミスをするチームは、絶対に勝てないからね。

大西さんに聞いた象徴的な話がある。
オーストラリアのクラブチームでは、1stから5thくらいまでGradeが分かれていて、それぞれのレベルでプレーを楽しんでいるのだけれど、Grade1つの差というのは、結局のところ10分間の差なのだという話だった。
例えば、1st Gradeと2nd Gradeがゲームをしたとする。すると、前後半合わせて80分間のゲームの中で、70分間くらいはほぼ互角の内容で競り合うのだそうだ。そして、後半30分を越えてラスト10分の戦いになった辺りで、1stと2ndの差が出てくる。その差というのが、つまりはミスなのだと、大西さんは言っていた。70分間タイトなゲームを続けた後の、ラスト10分間。そこで最後までタイトなプレーを継続できるのが1stであり、対照的に2ndは、集中力を切らさない1stの激しいプレッシャーを受けて、最後にミスが出てしまう。ラグビーの強さというのはそういうものであり、それが3rdになれば、2ndよりも更に10分早く切れてしまう。ラグビーにおける勝敗を分かつのは、つまりはそういうことなんだ、って。

いい話だと思う。
10分間のADであれば互角以上の戦いが出来るけれど、ゲームになると全く歯が立たない、といったことが実際にあるけれど、ラグビーの本質をよく捉えていると思う。
タマリバのメンバーとして日本選手権に出場して、格上のワセダに勝利することを目標にするならば、最もしてはいけないのがミスだ。ミスをしたら、絶対に勝てない。
残された練習時間は少ないけれど、そのことを改めて肝に銘じないといけないよね。

話題が逸れてしまったけれど、トヨタ戦に続いて、三洋電機とのゲーム。
三洋はCチームだったようだ。おれは交替を命じられて、ベンチに下がっての観戦。
三洋は、フィジカルが強かったね。FW、BK共にCチームとは思えないサイズだった。球際にも強く、タマリバは再三ターンオーバーをされてしまった。結果的にはトライ数で3-0の敗戦。得点できるチャンスが殆どなく、厳しいゲームにはなったけれど、それでも粘り強いDFが何度も見られて、決して悪くはないゲームだったと思う。

残念ながら勝利は出来なかったけれど、タマリバとしては自信になったと思う。
でも、このくらいはやらないと駄目だね。これをベースラインにしなければいけない。
今度は晴れた日に試合をしたい。そして、なんとか勝利してみせたい。

それにしても、寒くて死にそうだった。

Sunday, January 08, 2006

近況

1月8日・9日と全国クラブ選手権大会が行われる。
おれは2回戦のメンバーに選ばれていたのに、残念ながら試合に出場できない状況になってしまった。仲間に迷惑をかけてしまい、本当に申し訳なく思っています。
タマリバの快勝を期待しています。

それから、最近は全然書けていないけれど、今思っていることを。
元旦の朝日新聞に、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクのインタビュー記事が掲載されていたのだけれど、非常に興味深いものだった。現代社会に対する眼差しは非常に鋭く、アメリカ型消費社会に対するカウンターパートとしての思想は、社会を考える上での新たなきっかけとなった。
近いうちに一度、スラヴォイ・ジジェクの著作に挑戦してみたいと思っています。