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Saturday, March 12, 2022

聞かれない言葉。語られない言葉。

Stories can break the dignity of people, but stories can also repair that broken dignity. 物語は時に人間の尊厳を傷つけるが、それを修復できるのもまた物語である。)

 Chimamanda Ngozi Adichie(作家)

 

翻訳家の村井理子さんが連載されているブログ『村井さんちの生活』を知ったのは、今は休刊となってしまった雑誌『考える人』の編集長だった河野通和さんのメールマガジンがきっかけでした。河野さんが発行されていたメールマガジンは驚くほどのクオリティと深い洞察に満ちていて、20173月末に新潮社を退社されてメルマガ編集長も交代となった時のショックは今でも覚えています。

 

それはともかく、このメルマガの中では「考える人Web」上の連載記事のアクセスランキングが掲載されていて、村井さんのブログはいつも上位にランクされているのですが、その中でも特に印象深く記憶に刻まれているのが「言ってくれればよかったのに」というもので、当時小学校4年生だった息子さん(双子の弟)との日常の一幕が綴られた本当に素敵なエッセイです。

 

いつの頃からか、どことなく元気がない感じの日々が増えてきた息子さん。担任の先生からも日頃の様子を聞いて、想像よりも深刻な状況なのだと思い悩んだ末に、村井さんは作業療法士の方に相談することになるのですが、その時の面談を通じて、息子さんが抱えていた悩みに気づくんです。


その日のことを、おそらく今も心のどこかで少し後悔されているであろう著者の村井さんのことを思えば、安易に「素敵なエッセイ」と表現してしまうのも若干憚られるのですが、それでもやはり、村井さんの優しさが沁みるように伝わってきて、何度読み返しても心を打つものがあります。私も今、中学1年生の娘、小学3年生の息子と共に暮らしているので、同じような感覚がいつも心の片隅にあったりするんですよね。きちんと聞けなかったことへの悔いとでもいうようなものが。

 

聞くという行為は、本当に難しいのだと思います。

村井さんのエピソードが示唆するのは、レセプターが開かれていなければ、言葉は聞かれることなく通り過ぎていくのだということです。誤解のないように断っておくと、私自身は「聞けなかった自身」への悔恨を率直に綴る村井さんの姿勢に非常に惹かれますし、成長期の双子を必死に育てる親(特に母親)の苦労と苦悩は想像に難くないので、育児の過程である種のサインを掬い取れずに見落としてしまうことなど、誰にとっても日常茶飯事なのだと思っています。そして、このエピソードを読んでなお、というよりもこのブログを通じてより一層、村井さんのことを素敵な方だなと感じます。むしろ、生きるという行為は、こういう小さな(そして時には決して小さくもない)掬い落としの連続でしかないのかもしれないと思うだけで。


ただ、そういう瞬間に自覚的であるか否かというのは、大きな違いなのかもしれません。教育学者であり作家の上間陽子さんは著書『海をあげる』の中で「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」と書いていますが、この言葉が問いかけるコミュニケーションの本質は、本当に繊細で、また時に残酷なまでに真実なのだと思います。上間さんは非常に辛い境遇を生きる多くの若い女性へのインタビュー形式での社会調査を重ねられてきた方で、著書を読めば「深く聞く」ということの意味と意義に誰もが圧倒されます。その上間さんでさえ、「あの頃の自分には聞くことができなかった」と思うような幾多の過去があるのだというほどに、きちんと聞くこと、そして「聞くべきことを聞く」ということは、決して容易ではないのだと思います。


仕事でも同じですよね。法人営業として社内外の多くの方と接する毎日ですが、日々思わずにはいられません。「今日の自分は、相手のストーリーをどこまで深く聞くことが出来たのだろうか」と。

Wednesday, January 26, 2022

「問い」が変える景色

きっかけは、実はLinkedInでした。
 
昨年秋に何気なくWallを流し読みしていたら、どなたか忘れましたがある社員がシェアしていたWebinarの案内がふと目に留まったんです。 『不動産ビッグデータをAutoAIでお手軽分析してみた』という1時間のイベントで、不動産ビッグデータを取り扱っているTORUS社に協力いただいて、AutoAIで簡易的にデータ分析の導入を紹介するものだったのですが、AutoAIをお客様にも紹介していながら、どの程度のことが実際に可能なのかをクリアに理解できていなかった私は、個人的に興味が沸々と湧いてきて、すぐに参加登録をしたんです。
 
そうしたら、これがもう本当に面白くて。
 
TORUSが扱う不動産謄本というのはオープンデータで、取得には多少のコストを要するものの、誰でもアクセスできる情報なのですが、それを網羅的かつヒストリカルに蓄積していくと、想像も及ばないほど幅広いコンテキストで、極めて具体的かつ多様なインサイトを導出できるのだという事実を知って、わずか1時間のWebinarが驚きの連続だったんです。このイベントでは、TORUSの創業者でもある木村社長が自ら登記簿謄本のリアルな活用シーンをデモで紹介されていて、Startupの機動力とダイナミズムも伝わってくるんですよね。やはり刺激を受けずにはいられない。
 
その頃の私は、担当するお客様との間で、「データビジネス」という切り口でのディスカッションにまさに着手していました。断っておきますが、これはお客様が自らの言葉で検討テーマとして挙げられたもので、私が仕掛けたものではありません。こちらがプロアクティブにコンセプト・セリングをかけていって、お客様が明確には意識されていなかった潜在的なニーズを喚起できたのであれば格好良いのですが、現実は正反対です。私には特段の知見もなく、ただ何かご提案できないかなと思いながら社内のSMEを頼って、何度か通っていた程度でしかないんですよね。
 
そうした中で、年の瀬も迫った頃のお客様コール終了後、ふと思い当たります。
TORUS様を引き合わせてみたいなと。
 
金融業におけるデータ利活用のビジネス的な見識もなければ、不動産という全くの別業界にあるBAUの課題やニーズ、あるいは潜在的なポテンシャルについても、自分自身では理解が及ばないことばかりで、 次の一手を見出すのに苦慮していた私は、TORUS様の専門性と業界理解を頼りながら、金融×不動産という文脈でなにかが生まれたりしないかなと、ある意味では無責任に考えていました。オチを明確にイメージできないままで・・・。
 
というのは、ちょっと長すぎる導入なのですが、本当に書きたいことはその先なんです。つい先日、TORUS木村社長に実際に登壇いただいて、お客様とのディスカッションを行ったのですが、非常にフランクかつ闊達な議論が展開する中で、お客様がふとした拍子におっしゃったんです。
 
「私たちは決済データを持っているが、顧客の資産の全貌は見られないんです。」
 
直後、1拍ほどの小さな間を置いて、木村社長が応じます。
その言葉に私は感銘を受けました。
 
「もし、それが見られたら・・・?」
 
木村社長はTORUSを創業された実業家としての知識と経験を振りかざすこともなければ、目の前のお客様の言葉を大上段の立場から論評することもなく、わずか一言の「問い」で返したんです。 その後のお客様との会話がより一層の広がりを見せたのは、言うまでもありません。
 
誰もチャレンジしたことのない不動産ビッグデータという事業に打って出て、自ら潜在マーケットを開拓された木村社長にとって、それは極めて自然なことだったのかもしれません。 従来は存在さえしなかった、少なくとも可視化されていなかったマーケットニーズを掘り起こしたのは、必ずしも謄本データというキラーコンテンツだけではなく、可能性に目を向ける「問い」の力もあったのではないでしょうか。
 
今、IBMは変革の只中にあって、Technology Skillの重要性がより一層高まってきていますよね。「所属や立場によらず、誰もがテクノロジーを語れ」と。 一方で、私自身の個人的な思いを素直に吐露するならば、語る能力、プレゼンテーションのスキルばかりに意識が傾倒している嫌いもあるのではないかなと、常々感じてもいます。 本当に大切なのは、むしろ聴くことなのかもしれないのに。良い「問い」をお客様に投げかけることができた瞬間に、初めてお客様は本当の意味で「自らの言葉」を語ってくれるのかもしれないのに、と。
 
そんな訳で、ここ最近、私が最も大切にしているキラークエスチョンはただ1つです。
「自分はきちんと問えているだろうか」 
 
幼い頃から各方面で「口から産まれてきた男」と呼ばれて育ったようなAKYの人間の戯言ではあるんですけどね。

Monday, July 20, 2020

勝手に事業部通信 Vol.20(20/07/20)

"No grand idea was ever born in a conference, but a lot of foolish ideas have died there."
(素晴らしいアイデアが会議で生まれたことなどないが、数多のくだらないアイデアは会議で死滅していった。ー スコット・フィッツジェラルド(作家、1896-1940))

新型コロナウィルス感染症の危機が全世界的に拡大する中で、社会のあり方そのものが変革を迫られている今日この頃。"New Normal"という言葉がバズワードのように語られ、その流れの中でテクノロジーへの期待がより一層強まっていく傾向を肌で感じる瞬間は、日々明らかに増えてきています。IT業界を牽引すべき立場に身を置くものとして、私たちがすべきことも、出来ることも、今まで以上に大きくなっていくのは間違いないと思います。

そのような大きな時代の変化にライブで向き合いながら、ふと思う瞬間はないでしょうか。テクノロジーは、どこまで人間を変えていけるのだろうかと。レイ・カーツワイルが2045年のシンギュラリティ到来を予測したのは2005年ですが、あれから15年を経た今、New Normalへと向かっていく私たちの社会において、技術と人間はどのように関わっていくのでしょうか。

そんなことを書いてみたくなったきっかけは、2つの興味深いストーリーです。

稲盛和夫が創業した日本を代表する優良企業の1つ、京セラ。ご存知の方もいるかもしれませんが、IBMがCloud Pak for Data(CP4D)を活用したデータ分析基盤の提供を通じて、AIの積極的な活用を支援しています。京セラでは2017年から「生産性倍増プロジェクト」を立ち上げ、データを活用した大幅な業務変革へのチャレンジを推進されているのですが、その中でAIの本格活用に踏み出す契機となったのは、ファインセラミックの製造工程改革だったそうです。

この分野で生産性を大きく引き上げるための最大のチャレンジは、不良品の発生率でした。ファインセラミックは焼成の過程で2割ほど縮んでしまうため、収縮率を正確に予測することが歩留まり改善のキーファクターで、従来は熟練工が40年の歴史の中で積み上げてきた勘と経験に依拠していました。形式知にならないような匠の技をベースに、チューニングを重ねることで、確かな品質を作り上げてきた訳です。

ところがこうした暗黙知を、匙加減のようなものまで含めて徹底的にデータ化して、新たに構築した予測モデルに分析させてみると、いきなり6%も歩留まり率が改善したといいます。40年の歴史でも成し得なかったレベルを、データは汗ひとつ見せることなく揚々と飛び越えていったんです。データの持つ本当の力に圧倒された京セラ社内では、次なるAIのユースケースのアイデアが続々と湧き上がってくるようになります。

その一方で、これと全く正反対の発想に活路を見出す人たちもいます。つまり、テクノロジーでは到達し得ない地平ですね。その代表格は、大村達郎という人かもしれません。決して有名人ではないですが、緊急事態宣言下の不自由な社会環境の中にあった5月、UberEats配達員として月収100万円を達成した「知られざるプロフェッショナル」です。彼は元々バイク便を手掛けるT-servのメッセンジャーだったのですが、彼が入社した頃のT-servではGoogle Mapの利用が禁止されていて、ボロボロになるまで紙の地図を使ったそうです。その理由が、シンプルながら非常に面白い。「自分の頭の中で地図を描けるヤツが、一番荷物を届けるのが早い」のだと。つまり、Google Mapなんか使っていたら、最速で荷物は届けられないというんです。テクノロジーでBetterにはなれるかもしれない。でも、テクノロジーなんかに頼っていては、Very Bestには決してなれないと。大村さんのインタビューを読んでいけば、それも当然だと思います。Google Mapに配送先の住所入力を行っているメッセンジャーを横目に、彼はもうバイクのエンジンをふかして走り出しているのですから。頭の中の最短ルートを取るために。

シンギュラリティの文脈においては、よく「人間 vs AI」といった対立軸で物事が語られたりします。AIは人間の仕事を奪うのかとか、所詮はソフトウェアでしかないAIに真の思考などないのだとか。でも、現実の世界には2つの異なる表情があるんです。
まだAIの技術がMaturity Carveの頂点に達したとは決して言えない今この瞬間においてさえ、AIは、あるいはデータは、ある場面では人間を容易に超えていく。そしてその隣で、AIに助けを乞う愚か者を嘲笑うように、熟練のメッセンジャーは誰よりも速く23区という現代の迷宮を駆け抜けていく。

そんなことを取り止めもなく考えていると、ふとした瞬間に、次の質問が脳裏に浮かんできます。私たちは、そのどちらに向かおうとしているのだろうか。例えば営業は、本当に後者だと言い切れるのだろうかと。テクノロジーが決して超えることのないレベルを維持するプロフェッショナルとして。

テクロノジーの真価と価値をきちんと見つめて、その意味と本質をお客様にお届けする活動を通じて、社会全体に貢献していくのが本来求められる営業の姿なのだとしたら、私たちが忘れてはいけないのは、結局のところ考え続けることなのかもしれないですね。大村達郎というメッセンジャーが、最高のルートをいつだって自分の頭で考え抜いているように。ただ、私たちの仕事はメッセンジャーではないので、「何を届けるか」を考えることから全てが始まっていくような気がします。

Monday, December 30, 2019

改めて、多様性のことを。 (勝手に事業部通信 Vol.19)

「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)

ダイバーシティやLGBTといった言葉を耳にする機会は、社内でも明らかに増えてきた感じがするここ最近ですが、ラグビー日本代表の活躍で"ONE TEAM"が一躍流行語になったりと、様々な個性が1つに結束するチームワークの大切さが毎日どこかのメディアで謳われている今だからこそ、考えてみたいことがあります。多様性って、そもそも何なのかなと。

人種的にも社会的・文化的にも多様な背景を持つ人間が同じ場所に集まり、年齢や性別を超えて活動していれば、お互いが分かり合うための時間がどうしても必要です。誰もが暗黙のうちに共有している「常識」というのが、そもそもないのだから当然ですよね。自分の常識を相手は共有していない。そして、相手が何を常識と考えているかも分からない。そのことをお互いが理解して、「常識」ではなく「違い」を前提としたコミュニケーションを重ねていくことでしか本来の相互理解が成立しないのが、つまりは「多様な社会」なのではないでしょうか。

本音のところでは面倒だなと感じる人もいると思います。空気で会話しないスタイルですから。
でも、多様性を認めるというのは、ある部分では「そういうのが面倒な人たち」の存在も前提にする、ということだと思います。

要するに、多様性ってオーバーヘッドなんです。ただ違う人が集まることではなくて、相互理解のためにオーバーヘッドをかけていく。そこが本質ではないでしょうか。ちなみにこれがラグビー日本代表だと「今年だけでも240日間にも及んだ合宿」ということになるのですが、結局のところ「多様な人間たちが集まれば、自然と多様性が強みになる」なんて都合の良い話はないんですよね。

ところで、会社の多様性って何なのでしょうか。人種や性差だけではないはずですよね。というよりも、実際には自分の周りには「小さな違いばかり」というのがリアルなんじゃないかと思ってしまいます。例えば私が所属するチームには「担当しているお客様」の違いがあります。メガバンクと地銀、あるいはノンバンクでは当然ながら全く違います。あるいはシステム部とユーザー部のどちらを担当しているかによって、すべきこともできることも大きく違ってきます。

それだけではありません。エグゼクティブ/ライン/スタッフの違い。これまでの業務経験の違い。アクセスしている情報の違い。どれもが人それぞれで異なるのに、多様性という言葉の中でこうした小さな違いが意識されることは、必ずしも多くありません。むしろ、ダイバーシティを声高に叫び、"ONE TEAM"の重要性を喧伝する中で、(社会という)誰かが決めたフォーカスポイントに縛られて、本当に大切にすべき多様性がどこかに置き去りにされていくような。

もうすぐ2019年も終わって、新たな1年へと向かっていく訳ですけど、2020年は面倒がらずに話したいですね。多様性が本当の意味でパワーになる瞬間というのはきっと、オーバーヘッドのちょっと先なんだと思います。ビジネスの現場にいれば、短期的な目標に追われることも、ゴールへの最短距離を走るしかないことも当然ありますが、それでも常に「違い」を受け入れて、時間を惜しまずに向き合っていく空気を作っていきたいですね。

ちなみに、"AKY(あえて空気読まず)"という隠れた名曲を持つトモフスキーという(おそらく職場の誰も知らないような)ミュージシャンのことが好きだというのは、ちょっとした私の違いです。

皆様、良いお年をお迎えください。

Saturday, August 03, 2019

勝手に事業部通信 Vol.12(8/2/19)

「誰も興味なさそうな曲を今日も爆音で流すわ」
ー チャラン・ポ・ランタン『最高』(アルバム『ドロン・ド・ロンド』収録)

初めてチャラン・ポ・ランタンの曲を聴いたのは、ほんの2ヶ月ほど前のことです。子どもが通っている小学校のチャリティーコンサート。小さな体育館でのライブという、ある意味で特別感に包まれた感じで。
素晴らしく伸びやかな歌声の妹/ももと、アコーディオン弾きの姉/小春による姉妹ユニットで、非常に独特な世界観で幅広く活動されている、ということも2ヶ月前までは全く知りませんでした。
皆さんは、聴いたことがありますか。

ライブなので合間にMCがあるのですが、なかなか激しい幼少期だったそうで、子ども達に冗談めかして話してくれた自分たちの小学生時代の思い出が、まあワイルドなんです。特にアコーディオンを担当する姉の小春さんは、子どもの頃はとにかく「先に足が出るタイプ」で、学校の友達を毎日のように蹴り飛ばして、学校の先生たちにも悪態ばかりついていたそうです。当時、小春さんの最初の担任だったのが今の校長先生なのですが、カガセン(香川先生)の愛称で誰からも愛されているような優しい先生で、小春さんも言ってました。「カガセン、正直大変だったでしょ」って(笑)。

ただ、彼女には救いがありました。
小学校1年生の頃、親に連れられて見に行ったサーカスで初めて目にした蛇腹の楽器に魅了された小春さんは、お母さんにお願いしたそうです。「あの楽器が欲しい」って。
そして、その年のクリスマス。憧れのアコーディオンは、本当に彼女の元に届きます。
「7歳のクリスマスにサンタさんが(アコーディオンを)届けてくれて、その日から今日まで、本当に毎日弾いてます。」
トークタイムにそう語っていたのが、ものすごく印象的でした。本当に好きなことに、心の向くまま思い切り没頭する時間というのは、きっと自分を安心して解放できる大切なひとときでもあったんですね。
ちなみに、7歳のクリスマスから1日も欠かさず弾き続けた日々が奏でるアコーディオンの音色は、もう本当に素晴らしいものでした。

とはいえ、荒れまくって友達を蹴り飛ばしていた少女がアコーディオンに救われたとして、「それって美談なのか」という声も聞こえてきそうです。当時蹴られた友達にしてみれば、迷惑でしかなかったはずでしょ、と。心の葛藤を誰彼構わずぶつけた日々を受け入れてくれた学校や家庭があって、彼女は初めて生かされたのかもしれないけれど、1人の個性のために「周囲の我慢」を前提とするような考え方には、違和感を持つ人も少なくないと思います。

これに対して、興味深いアプローチをされている先生がいます。
木村泰子さん。いわゆるインクルーシブ教育を掲げる大阪市立大空小学校の初代校長先生です。
大空小学校の取り組みには非常に心を打たれるものが多々あるのですが、例えば教室の中でじっとしていられず、机をガタガタと揺らして騒ぐ子どもがいたとして、その子は何かに困っているからガタガタと机を揺らすのだと、木村さんは考えるそうです。周囲の子にとっては授業の邪魔だからと排除するのではなく、その子の「困りごと」をどうすれば取り除いてあげられるかを考える。
更には、そうして友達の困りごとに想像力を働かせるという行為こそが、周囲の子ども達を成長させるのだと、木村さんは言います。ワガママでも身勝手でもなくて、困ってるんだよと。その困りごとの背景は、時に本人も自覚していなかったり、学校以外の社会や家庭にrootがあったりして、周囲の人間には理解しづらいからこそ、想像力が大切なんだよと。

そんな学校で育った子ども達は、その子のガタガタが始まると、皆がさっと机を離して距離を取るんだそうです。それに対して、木村先生が「そんなふうにして距離を取ってその子から離れたら、かわいそうじゃないの?」と問いかけると、子ども達は即座にこう切り返してきたといいます。
「先生、全然分かってないな。アイツ、困ってんねん。困って暴れてモノ投げて、それが俺らに当たって誰かが怪我でもしたら、アイツ、余計に困るやろ。だから、離れてやらなあかんねん。」


なんか仕事と全く関係ない話になってしまいましたが、最近そんなことばかり考えています。
優しさというのは、結局何なのかなとか。好きなことに思い切りチャレンジして、自分の意思を全力で表現するのがワガママだとしたら、ワガママのない社会って面白いのかなとか。
もう2019年も8月に入って、いよいよ本格的に夏休みシーズンですが、心身はゆっくり休めながら、個人的にはこのあたりが夏休みの宿題になりそうです。会社組織であっても、やっぱり優しさがベースにあってほしいなと思いますしね。

Friday, May 24, 2019

勝手に事業部通信 Vol.11 (5/24/19)

You are not the code you write.
(あなたが書いたコードへの批判は、あなた自身への批判ではない。)
ー プログラマーの格言

先日、ラインマネージャー研修で3時間ほどの講義と簡単なワークショップに参加してきました。
"Positive Leadership Edge"というコースで、リーダーシップ自体はコア・コンピテンシーの1つだと思うのですが、リーダーシップを具体的なアクションに落とし込む上で必要とされる指針やマインドセット、コミュニケーションにおいて意識すべき基本的なポイントなどをざっと流していくもので、率直な感想としては、比較的面白い研修でした。

この3時間のコンテンツの中で、色々なキーワードが紹介されていたのですが、その中に"5 Positive, 1 Negative"というのがあったんです。要するに、組織運営においては時に厳しいメッセージも必要であり、5:1程度のバランスでネガティブにも触れるのがリーダーシップの要諦だということですね。この研修に参加されていた複数のラインの方が「このように分かりやすく『理想のメッセージ比率』をガイドされたことはなく、非常に参考になった」といったコメントをされていました。

でも、私としては、心に多少の引っ掛かりがあるんです。
というのも、この言葉を聞いた直後の1st Impressionが頭から離れないんですよね。
"1 Negative"って、本当に必要なのか。別に"Full Positive"でいいんじゃないかなと。

人はそれぞれバックグラウンドも価値観も違うので、チームで仕事をしていれば様々なギャップが生じるもので、それ自体は自然なことだと思います。そして、単純に依拠する価値観の違いによって生じるギャップで、それ自体に優劣など存在しないといった類のものもあれば、スキルや経験の蓄積によって生じるギャップで、ある程度まで補正するのが正しいケースもあると思います。

例えば、私が大学ラグビー部のコーチをする時に、選手たち自身の胸の内に、チャレンジしてみたい戦略や戦術なんかがある程度まで浮かんでいるとします。やってみたいという思い自体を「正しいか、否か」という視点で批評することなどできないので、私が語りかける言葉は「うん、やってみようか」しかありません。プレーするのは、選手たち自身ですから。でも、やりたいことに対して、実際にやっていることや、あるいは選手が取っているアプローチが明らかに乖離してしまっていると感じれば、修正をかけていく。明らかに間違ったプレーというのも、確かに存在しますからね。

ただ、これを"Negative"にする必要はあるのでしょうか。
ライン/非ラインなど関係なく、仕事をしていて生じるギャップへの向き合い方として、あるいはチーム・ビルディングというプロセスにおいて、ネガティブを全部まとめてポジティブに変換できないものでしょうか。子どもにオセロを教える時に、取られてしまった黒石のことではなく、どこに白石を置いてあげれば色が反転するかを伝えるのと同じように。

いつもラグビーの話になってしまって、自分の抽斗の少なさに我ながら呆れてしまうのですが、ラグビーのコーチングにおいては、ボールをよく落とす特定の選手に対して「落とすな」とも「ボールを落としすぎだ」とも言いません。少なくとも、私は言わないようにしています。理由は単純で、本人が一番分かっているからです。(チーム全体に対しては、ムードを引き締めるために伝えることはあります。)
そうではなくて、「ハンズアップして構えておくと、キャッチ率が上がるよ」に変えていく。あるいは「ランニングはいいから、あれが取れるようになると相手には脅威だね」にしていくんです。
私の中では勝手に「可能性トーク」と命名しているのですが、要するに「今、目の前にある課題」をそのまま語るのではなく、「それがちょっとでもプラスに改善した時に見えてくるはずの明日」を語るようにしたいなと。まあ、こんなふうに書いておきながら、実際の自分はそうやって生きられない瞬間の連続だったりもして、いつになったら人として成熟できるのかなあと途方に暮れる毎日ですけど。

チームで活動していて、お互いが本気になれば、厳しい指摘が飛んできたり、時に激しいぶつかり合いになったりというのも普通のことです。馴れ合いで仕事するのはプロフェッショナルではないと思います。でも、一通り厳しさと本音の衝突があった次の瞬間に、オセロの黒石を反転させるような言葉が自然と続いていくような組織の方が、やっぱりいいんじゃないかなという気がします。なにより、その方が心地よいですしね。

大型連休で溜まっていた業務の波が押し寄せてきて、誰もが疲労を溜め込んでいる頃かなと思いますが、週末はゆっくりリフレッシュして、この1週間に生じたあらゆるコミュニケーションを振り返りながら、本当は打てたかもしれない「起死回生の一手」を探してみるのも面白いかな、なんて個人的には考えています。良い一手には、たった1つの石だけで盤面を埋めていた黒石を一気に白くしてしまうパワーがある訳ですから。

残念ながら、オセロの名手には到底なれませんけど。

Friday, April 05, 2019

勝手に事業部通信 Vol.10 (4/5/19)

早く着きたいなら1人で行きなさい。遠くまで行きたいなら、みんなで行きなさい。
ー アフリカの諺

慌ただしかった1Qもあっという間に終わり、もう4月。新元号も発表されて、日本全体がフレッシュな心で新たな日常へと向かっていく中で、もはやタイムリーな話ではないのですが、遡ること2週間ほど前の3月下旬、6歳になるうちの子が幼稚園を卒園したんです。もちろん休暇を取って卒園式に参加したのですが、なかなか楽しい幼稚園で、子ども達からの歌の発表があったり、保護者と先生方で一緒に作り上げた劇があったりとコンテンツの充実度は驚きのレベルでした。
ただ、個人的に心に沁みたのは、式次第を一通り終えて、子ども達が自分の教室に戻ってから、担任の先生がプレゼントしてくれた「最後の読み聞かせ」だったんですよね。
『そらのいろって』(ピーター・レイノルズ作画、なかがわちひろ訳)という絵本、皆さんはご存知ですか。クラスのみんなで図書館の壁に絵を描くことになって、どうしても「空を描きたい」と思ったマリソルが絵の具箱を見ると、青がなかったというお話です。

良質の絵本を教訓で読んでしまったら本当につまらないのですが、空の色はもっと自由に見てもいいんだよ、というのが当然ながらよく語られるメッセージで。
でも、本当にいいなと思うのは、その後なんですよね。
「マリソルは絵の具を筆でかきまぜて、全く新しい色を作った。」という一節が、もう本当に堪らない。思わず感じ入ってしまった私は、「いつか書かなければ」と勝手に思っていました。

自由に考えよう。固定観念に囚われず、大胆に発想しよう。
どことなく閉塞感がないとも言えない時代にあって、テクノロジーに求められるものも堅牢性と信頼性から変革/改革 (Disruption / Transformation) へとシフトする中で、こういうメッセージが声高に語られることが増えてきています。IBMらしい言葉だと、"Think Big, Think Bold" といった感じですよね。

でも、自由に考えればいいと言われても、どこから考えればいいか分からない。固定観念を捨てようと言われても、どこまでが固定観念でどこから社会常識なのか、実は自分自身でもよく分かっていない。
それが人間だったりするんじゃないかと思うこと、ないでしょうか。斬新なアイデアとか、誰も思いつかなかったようなコンセプトとか、そんなの近くに転がってないよって。
もっと身近なところでも、日常の営業活動や1つひとつのご提案、Account Planningのような場面を思い返してみても、「自由な発想で」なんて言われることの方がむしろ重荷だったりすることも、あったりなかったりで。

なんて、どのみち行き場のない思いだと分かっていながら、とりとめもなくそんなことを考えている金曜日の夜に、もしかするとあの絵本はヒントをくれるのかなと思ったりもするんです。
新しい色を作るには、かきまぜてみるのがいいのかなと。
自分の色は変わってなくても、出来上がりの色は新しい色になっている訳ですから。
1人で考えていたら、誰にブレーキを踏まれることもなくどこか自由なように感じるけれど、本当は他者の意見や性格、こだわりや執着のような一見すると「制約」に見えてしまうものをブレンドした方が、アウトプットはむしろ自由なのかなと。

これだけ多様なメンバーが揃ったチームなので、週明けからもまた続いていく日常業務の至る場面で「混ざる機会」は溢れているのだと思います。そう言いながら、私自身さほど社交的でもなくて、無駄に気を使って声をかけられないとかも(一応)あったりで、何かを大上段から言える訳でも、言うつもりもないのですが、いつもよりもう一歩だけ、自分から混ざってみたり、小さな瞬間にメールではなくて電話で声のやり取りをしたり、そんなところからも「チーム全体の発想力」は少しずつ変わっていくのかもしれないですよね。

4月。新たな仲間として、新入社員の内田さんも事業部メンバーに加わってくれたので、皆でやり取りをして、混ざっていけるといいかなと思います。
絵の具箱に今までなかった色が、1つ増えたのですから。

Saturday, February 09, 2019

勝手に事業部通信 Vol.9 (2/9/19)

成功は必ずしも約束されていないが、成長は必ず約束されている。
ー アルベルト・ザッケローニ(サッカー監督、1953-)

「そういえば、ブロックチェーンって最近あまり聞かないね。」
日頃からビジネスの現場でお客様と向き合って次世代のITを提案し続けている私たちでさえ、ふとそんな雑感を抱くことはあるのではないでしょうか。
私自身はデジタル部という立場上、ブロックチェーン関連の案件であったり、あるいは案件のタネのようなものに今でも複数携わっていますが、革命的なテクノロジーとしてIT業界全体が一斉に乗り出したブロックチェーンが、リアルなお客様の業務変革へと繋がった事例となると、今もって殆ど思い当たらないという人が大半ではないかと思います。
Cognitive/AIも、残念ながらこれと同じような構造に陥っている印象は否めないのかもしれません。「新たなユースケース、あるんですか」といった呟き声が、どこからか聞こえてきそうです。

でも一方で、エストニアのような事例もあります。
バルト三国の1つで、人口わずか134万人という北欧の小国ですが、世界で最もブロックチェーン・フレンドリーな国家としてその名を轟かせているIT先進国でもあります。

エストニアといえば電子政府(e-Goverment, e-Estonia)が有名で、行政サービスの実に99%が24/365で稼働するオンラインシステムで完結するといいます。
(ちなみにオンラインで処理できない手続きは結婚/離婚/不動産売却の3つのみで、これらに対応していない理由は「人生の一大事を早まってはいけないから」とのこと。人間的ですよね。)
これを可能にする仕組みの1つが国民IDです。すべての国民に11桁のID番号が付与され、このIDをキーとしてあらゆる行政サービス、更には民間サービスも繋がっていくのですが、エストニアでは赤ちゃんが産まれると病院がオンラインシステムで国民登録手続きを申請し、生後10分でその子に紐づくID番号が生成されます。そして、この国民IDをベースにしながら、様々な官民の分散データベースをセキュアに連携させるプラットフォームとして開発された"X-Road"を導入することで、出生に限らず選挙から納税に至るまでのあらゆる手続き、あるいは学校でのテスト記録やあらゆる医療情報の参照、更には民間銀行のオンラインバンキングとの連携まで、この国民IDのみで可能な世界が実現されています。

ここまで来ると、今度は情報セキュリティが気になりますよね。国民IDに紐づけられたあらゆるパーソナルデータは、本当にセキュアに管理されるのかと。ここで登場するのが2007年に設立されたGuardtime社という民間企業が開発した「KSI (Keyless Signature Infrastructure)ブロックチェーン」と呼ばれるテクノロジーです。実はエストニアは、2007年に大規模なサイバーアタックを浴びて多くのサービスが機能不全に陥ったことがあり、これを契機としてKSIが導入されると共に、国家レベルでのブロックチェーン採用の動きが加速していくんです。

エストニアの話は非常に面白くて、詳しくはここ最近読んだ久々のお勧め本『ブロックチェーン、AIで先を行くエストニアで見つけたつまらなくない未来』(小島健志 著、孫泰蔵 監修、 ダイヤモンド社)を読んでみてほしいのですが、要するに、「もう未来ではなくなっている場所」も実際に存在するんです。

「ブロックチェーンもAIも、まだどこまで行っても眉唾だ」というのも、1つのポジショニングではあると思います。もっと言ってしまえば、こういう先進テクロノジーに限らずとも、IBMとして実績の裏付けが十分に蓄積されていない最新ソリューションやミドルウェア、最近ではAWSやOpenShift、Containarizationからマイクロサービスに至るまで、先端技術と呼ばれるものの多くが、どこか同じようなコンテクストのもとで、多少斜めに見られることも少なくないですよね。そして、そういう冷静かつリアリスティックな視座というのは、私たちにとって間違いなく必要なものでもあると思います。バズワードに踊るのは、お客様をバスワードで踊らせてしまうことでもありますので。

でも、BAUから解放されてリラックスできる週末の昼下がりなどは、そういうクールな視点を一旦頭の片隅に追いやって、例えばビル・ゲイツのこんな言葉に耳を傾けてみてもいいのかもしれません。
「人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された」

ザックが成長を約束している人間というのは、どういう人だと思いますか。
そう問われることがあれば、私なら迷わずこう答えます。
不可能を受け入れないという選択から目を逸らさなかった人なのかもしれないですね、と。

でも本当は、そこまで大袈裟な話でなくても、新しいチャレンジに向き合って、結果的に成功ばかりではなかったり、トラブルに苦しんだりすることも少なかったりしたとして、そこから目を背けないというだけで、きっと成長は約束されているような気がします。
そして、苦しみの渦中にいる人にとって「成長の約束」だけで心が洗われる訳でもないのかもしれないけれど、それでもきっと未来には繋がっていると思います。

Monday, December 31, 2018

勝手に事業部通信 Vol.8 (12/31/18)

「人はね 向かい合ってる人からは本当は身につくものは学べないのよ 本当に教えたいなら うしろから」 ー 末次由紀『ちはやふる (40) 』(講談社 BE LOVE KC)

最近、スポーツの世界では選手の自主性を重視した効率的な練習運営がフォーカスされているのをご存知でしょうか。

例えば、静岡聖光学院ラグビー部。1日60分の練習を週3回しかできない制約条件のもとで花園(全国高校ラグビー)への切符を勝ち取ると、12/28に行われた1回戦も突破して話題を集めています。彼らのアプローチは、徹底的な密度の追求。すべきことだけにフォーカスして、不要なものを削ぎ落としていくことによって、60分を凝縮させていくんです。

あるいは、帝京大学ラグビー部も近年非常に注目されているチームです。今シーズンは3年ぶりに公式戦での黒星を喫しましたが、未踏の大学選手権V10に向けて着々とチームを進化させています。
チームを率いる岩出雅之監督のアプローチは、楽しさへのこだわりと、上下関係を再構築したフラットな組織運営の2つです。新入部員として初めて入寮した1年生をあらゆる雑用から解放し、4年生に雑用を担ってもらうのと併せて、練習の合間には3人トークというスモールミーティングを学年縦割りで頻繁に行って、相互理解を深めていきます。
もちろん、こうした分かりやすいカルチャー変革だけが常勝軍団を作った訳ではないですが、チームの躍進を支える大きな原動力となっていたのは間違いありません。

いわゆる体育会的な上意下達モードの硬直的組織から、新たな世代の選手たちにフィットした柔軟な組織へ。誰かに与えられた課題を精神論でこなすだけのチームから、自分たちで主体的に考える選手を育てるためにコーチが支え、見守るチームへ。
こうした流れは、ラグビーに限らず多くのスポーツで注目されていて、実際に各レベルのトップチームが明確な成果を挙げてきています。箱根駅伝で有名な青山学院大の陸上競技部なども、その1つですね。

とはいえ、体育会的なものが全否定されている訳でもありません。理由は単純で、効率的に成長しても、成長の量が足りなければ結局勝てないからです。
結果へのコミットや勝利への徹底的なこだわりは、単に「心地よい組織」だと決して持ち得ないもので、そして、勝利する者たちは唯一つの例外もなく、勝利に対して徹底的にこだわっています。

でも、間違いなく言えるのは「『部活』ではもう勝てない」ということです。自発性が中心になければ、強いチームは生まれない。そしてもう一点、強い個人が集まったチームが必ずしも強いとは限らないというのも興味深いポイントです。組織のフラット化、上意下達からの脱却を通じて、世代を超えたメンバーがOne Teamとなって初めて、トップレベルを生き抜く戦闘集団になります。

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2018年も大晦日を迎えて、今年1年間をゆっくりと振り返っている方も多いことと思いますが、自分自身だけでなくチーム全体、あるいは事業部全体という視点に立つと、やはり思うんです。
「チームで強くなる」という部分で、スポーツの世界で起きていることがヒントになるのではないかと。明日から始まる2019年には、更にレベルアップできることが沢山あるような気がするんです。

IBMは「個の成長」に積極的にコミットしてきた会社だと思います。
研修やe-learningに限らず、メンタリングや各種の社内プログラムも含めて、会社が用意してきたコンテンツの充実度は、おそらく世の大半の企業を凌駕しているのではないでしょうか。
一方で、チームを育てること、あるいは強いチームへと成長させることは、ほぼ現場に一任されてきているように感じます。"IBM Experience"を通じて逞しく生き残ったヤツが集まれば、それこそが強いチームでしょ、みたいな。

本当にそうなんでしょうか。チーム力って、もっと引き上げていけないんでしょうか。
全員が自発性を持っていて、上意下達でない形で「 1人ひとりの思い」がきちんと表現されるような。あるいは、「目標に対するこだわり」と「自分たちがやりがいを感じる仕事に向かう楽しさ」が同居するような。そういうチームって、会社という組織の中にあっても、目指していくための道筋がきっとあるのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、1月2日は全国大学ラグビー選手権の準決勝を毎年見ています。
巷に溢れるコンテンツの中で、1月2日に最高の彩りを与えてくれるのは、昔からラグビーと決まっていますので。

いずれにしても、まずは自発性ですよね。
誰かに依存せずに、誰もが自発的に考えて行動することをチーム全体が受け入れていくような風通しの良いチームを、皆で一緒に作りたいですよね。

皆さま、良いお年を。

Tuesday, December 11, 2018

勝手に事業部通信 Vol.7 (12/11/18)

何かをして何も起こらなかった時、飛ぶ可能性は上がっている。
ー 若林正恭(オードリー)『完全版 社会人大学 人見知り学部卒業見込』(角川文庫)

数年前のこと。Sales Learning(営業研修担当)部門が企画して、JMAC(日本能率協会コンサルティング)主催の異業種交流型研修にIBMとして参加していた時期があったそうです。
つい昨日、この企画に携わっていた(私にとっての)大先輩とお会いした際に伺ったエピソードは、非常に興味深く、そして考えさせられるものでした。

この研修は1社5名のチームで、5社合計25名が参加する形式だったそうです。IBMでは、Sales Learningから営業組織のリーダーにノミネーションを依頼して、クロスインダストリーのチーム構成で臨んでいました。
研修の中では複数のワークショップを行うのですが、各社のメンバー5人で行うものもあれば、各社1名ずつ分かれて、5社5名のチームを5つ作って行うアクティビティもあったりと、内容を伺っているだけでも非常に工夫に富んだプログラム構成となっているのがよく分かるのですが、最後にA社からB社へ、B社からC社へ、といった形で、各社チームが他の参加企業向けに具体的な提案を行うのだそうです。

IBMの提案はどうだったか。
この最終提案ワークショップを通じて、IBMメンバーはどのように動いていたのか。
言葉を変えれば、他企業と比較した際のIBM営業チームのカラーが、こういう活動の中で浮き彫りになっていく訳です。私は俄然、興味が湧いてきました。自分たち自身も、同じカルチャーの中で育った同じ営業の仲間ですから。

当時を振り返って、IBMチームはいつも研修の講師陣に褒められていたと、その方は教えてくれました。
「IBMの方は、関連資料の収集や検索に始まって、準備がすごく早いですね。それから、すぐに役割分担をしてパッと作業着手される手際は本当に素晴らしいですね」と。
でも一方で、IBMチームが参加5社の中でNo.1を取ることは、数年間の参加を通じて一度もなかったといいます。常に2番か3番だったと。プレゼンテーションは上手いのに。

「魂が入ってないんだよ」

常にうまくやる。綺麗に、効率的に捌く。でも、心を打たない。残念ながらそれがIBMの姿だったと。今はもう会社を退かれた尊敬すべき先輩のメッセージは、私の胸に突き刺さるものでした。
もし事業部メンバーや、関連チームの皆様の中にこの研修に参加した方がいらっしゃったとしたら、現場に直接関わっていた訳でもない私が、このように勝手に書き連ねることの非礼をお詫びしなければと思っています。でも、どこかに自覚症状があったりするんです。自分自身も含めて、日々に忙殺される中で、こういう傾向にきちんと抗えないでいる部分がどこかあるのかなと。
効率ばかりが優先されて、「知見の横展開」という耳障りの良い謳い文句の下、自ら考え抜くことが疎かになってしまった提案書の行く末を、私たちはよく知っているはずなのに。

本当に追求すべきは、クオリティ。効率よくつまらないものを大量生産するくらいなら、魂の入った1枚を徹底的に考え抜きたいです。たとえそれが、思い切り非効率な形でしか作れなかったとしても。

オードリーの若林さんは、ブレイクしたばかりの頃、プレゼントで「黒ひげ危機一発」をもらったことがあるそうです。(著書を読む限り)さほど社交的でもなかった彼は、自宅で1人、剣を刺していた。でも、黒ひげのおっさんが飛び出しても、1人なので盛り上がらない。しばらく続けていると、ゲームの趣旨が変わってきて「如何に早く黒ひげを飛ばすか」を考えながら、ひたすら剣を刺す若林さん。その瞬間、彼が気づいたのが冒頭の言葉だったそうです。漫才が受けなくて、何度もスタイルを変えて新たな挑戦を繰り返しながら、オードリーは1つ目の樽に必死で剣を刺し続けていたのだと。そうやって穴を1つずつ埋めていって、今の漫才の原型が形成された時、初めて最初のおっさんが飛んだのだと。

キャラクターも性格も、住む世界も違うけれど、同じように生きたいとは思います。
樽があるならば、剣を刺し続けないと。たとえ非効率に見えたとしても。

Thursday, September 27, 2018

勝手に事業部通信 Vol.5 (9/21/18)

「ブルース・リーになる試験はない。」
ー 山田玲司『非属の才能』(光文社新書)

先日、NHKである聾学校を取り扱ったドキュメンタリーを見る機会がありました。
聾学校という存在は当然知っていながら、これまで聾唖の方と接する機会は殆どないまま生きてきた私にとって、実際の聾学校での日常は全てのシーンが驚きの連続でした。
番組の中で描き出されていたのは、耳の不自由な子ども達にとっては「ごくありふれた日常」なのかもしれません。でも、ありふれた日常を安心して生きるためには、居場所が必要なんですよね。
子ども達を教える先生も、彼らと同じように音のない世界を生きてきた人生の先輩。きっと、子ども達にとって必要なのが「居場所」なのだということを、誰よりもよく分かってあげられる先生なのだと思います。
そんな素晴らしい先生に支えられ、「安心して、そこにいていいんだよ」と言ってもらえる場所があることで、子ども達は逞しく成長していきます。もちろん、ドキュメンタリーで映像化されるのは生活のほんの1コマで、映像の外側にある日常に想いを馳せる時に、軽々しく安易な言葉でまとめてしまってはいけないのだと思っていますが・・・。

「もし音が聞こえるようになる薬を神様がくれるとしたら、あなたは飲みたいですか」

子ども達に問いかけられた質問です。興味深いことに、半数の子は「飲みたくない」と答えたそうです。今の自分でいい。今の自分が好きだから、と。
飲みたいと答えた子の言葉も、心に響きます。「自分は音のない世界のことを知っている。だから次は、音のある世界のことも知ってみたい。」

飾り気のない素直な自己肯定。聾唖の子ども達のように、ある意味で明確なハンディキャップを抱えて生きる人にとって、安心して「所属」できることの意味と価値はどれほど大きいだろうと感じずにはいられませんでした。
でも、ふと思うんです。それって聾唖の子ども達だけでなく、誰にとっても言えることなんじゃないかなと。老若男女を問わず、学生/社会人の別を問わず、所属への安心は、自分を生きるための出発点なのかもしれません。

一方で、「非属」という考え方もあります。実はここ最近、個人的にずっと考え続けていることです。(元々属すのは苦手なタイプなので・・・。)
山田玲司さんは有名な漫画家ですが、漫画家の言葉は基本的に面白いものが多いんです。それは多くの場合、「自分たちはマイノリティである」という意識から来ているように感じます。
要するに、同調圧力への抵抗なんですよね。人と同じである必要はないと。誰も分かってくれなくても、自分が本当にやりたいことに忠実に生きればいいんだよと。
才能があるから非属が許されるのではなく、非属そのものが才能を作るのだと、山田さんは言います。より正確には、誰もが持っている自分自身の能力/個性を削り落さないための姿勢こそが非属である、ということかもしれません。

所属と非属。一見すると、相反する概念ですよね。
聾学校という場所に所属することで、小さな瞬間の中に「受け入れられる喜び」を抱きながら日常を過ごす子ども達。
学校なんて同調圧力の塊のような場所であって、その狭い世界で受け入れられるために自分を削る必要はないという漫画家。
2つの全く異なるタイプの心の叫びから、私たちは何を見出していけばいいのかなと、そんなことをこの1ヶ月近くぼんやりと考えています。まあ、考えてどうなる訳でもないんですけど。

でも、本当はこの2つは矛盾しないんだと思うんです。
会社での生活においても、いや、もっと身近に所属する事業部や営業部、更には担当チームといった単位で、まずは所属への安心感があってほしい。
その上で、こういう大きな組織/チームであっても、自分のスタイルを持って、自分らしく仕事ができて、「まあ、あれがあいつのスタンスなんだよな」みたいな小さな居場所があって。
表現を変えると、非属のままで属すことの許される場所。そういうのも悪くないんじゃないかなと、個人的には思うんです。

所属を支えるのは、きっと関心です。
「誰かは見てくれている」というのが、つまりは安心感ですから。

非属を支えるのは、きっと寛容です。
非属な人たちはマイノリティであり、寛容がなければ時に潰れてしまいます。

でも、もう一歩踏み込んでみると、寛容は関心から始まるような気がするんです。自分とは異なる価値観への興味があって初めて、人は寛容になれるのではないかなと。

隣の人の仕事に、関心を。
実はそういう小さな一歩から、何かが変わっていくのかもしれないですよね。

Tuesday, September 25, 2018

勝手に事業部通信 Vol.4 (6/30/18)

「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい
ー 森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)
 
発端は、1990年9月15日付の朝日新聞(地方版)に掲載された興味深い記事だったそうです。
< 老人の自殺、17年間ゼロ ここが違う徳島・海部町 >
この記事に注目したのが、当時慶應大学大学院修士課程で自殺予防因子の研究をしていた岡檀さん。彼女は実際に海部町を訪れてフィールドワークを行い、海部町の何が違うのか、自分自身の目で調査を始めます。その後、彼女の研究成果は『生き心地の良い町』(講談社)という名著となって世に知られることになり、これに感銘を受けた精神科医の森川すいめいさんが、改めて岡さんの足跡を辿るように海部町へと向かいます。

日本全国の自殺率を市区町村別に見ると、最も自殺率の低い上位10地区のうち、9つは「島」なのだそうです。物理的に海に囲まれた、ある意味では閉じた空間ですよね。
そして、トップ10で唯一の島ではない地域というのが、実は徳島県の海部町なんです。これだけでも、好奇心がくすぐられてたまらない。
森川さんは精神科医として「生きやすさ」ということをずっと考えていたそうです。自殺率の低さがすなわち生きやすさかどうかは分からないけれど、ひとが自殺まで追い込まれない町にはきっと、何かヒントがあるのでは。
こうして始まった学術的にもあまり類例のない自殺希少地域のフィールドワーク。岡さん、森川さんという2人がそこで見たものは、何だったのか。ちょっと興味、沸いてきませんか。

全てをこの場で紹介できないのですが、海部町には興味深い特徴が幾つもあるんです。
例えば、人口の決して多くない小さな町ゆえに、隣近所はほとんど皆が知ったもの同士。噂はすぐに町中に広がります。でも、実は皆が非常に緊密に繋がっているかというとそうではなくて、挨拶程度の間柄が大半なのだそうです。
逆に言えば、誰にでも挨拶はするんです。挨拶程度の緩いつながりが多方面に広がっていて、誰かが何かで困ったときに、どこかには助けてくれる人がいるんです。

海部町の人は、困っている人がいたら、相手がどう思うかを考える前に助けます。大切なのは、自分がどうしたいかなのだと。そして、見返りなど誰も考えていない。「助けっぱなし、助けられっぱなし」なのだそうです。
また、「できることは助ける、できないことは相談する」「困っていることが解決するまでかかわる」という2つの考え方も町中に根付いているといいます。
つまり「それ、私の仕事じゃないんで」という考え方は海部町にはないんですよね。人間関係は「密ではなく疎」なのに、困っているひとは決して放置しないんです。

第2四半期も終わって、週明けから2018年も下半期に突入ですが、ここで一度仕切り直して、組織やチームの形をもう一度考え直してみる時に、海部町には大切なヒントが詰まっているような気が(個人的には)しています。
コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、多様な考え方があるのが自然なことなので、一概に正解がある訳ではないのだと思うのですが、例えば、挨拶程度の緩やかなつながりでも、人は孤独感から救われたり、助けられるのだいうことは知っておいても良いのかなと思います。ベタな繋がりじゃなくても、まずは挨拶からでもいいのかもしれないですね。

Monday, September 24, 2018

勝手に事業部通信 Vol.3 (5/26/18)

「ルールに従っとるのがフェアだという人がありますが、そんなもんフェアじゃありません。ルールは人間が作ったものであります。だからそれによって善悪を決めるのはジャスティスのジャストであります。」 ー 大西鐵之祐(元ラグビー日本代表監督/早稲田大学最終講義より)

コンプライアンスなんて、本当につまらない概念だ。
そう思ったことがある人は、実際には少なくないのではないでしょうか。正直に白状すると、私もその1人です。ただ、コンプライアンスを軽視している訳ではありません。私が思うのは、「コンプライアンスを遵守していれば、それで事足りている」という発想のつまらなさです。

ここ最近、巷間を騒がせている日大アメフト部の問題。fbなどを眺めていても、様々な批判や論評、コメントで溢れ返っています。
あまりにもスポーツの原点から乖離した悪質なタックルであり、その後の(タックルをした)当事者による謝罪、また監督・コーチの記者会見に至るまで、どこまでも哀しい顛末に誰もが胸を痛めているように思います。将来を嘱望された若きアスリートをあれほどまでに追い込んでしまう組織。たとえ指示があったとしても、最後の一線で踏み止まることができなかった選手。そして、自らの非を公の場で謝罪した選手さえ守ってあげられない指導陣。今でも競技スポーツの世界に携わっている身としては、この悲しい問題そのものを、これ以上語りたくありません。

ただ、私としては思うんです。ちょっとだけ視点を変えてみると、これと同じような構図は世間の至るところに蔓延しているのではないかと。
誰かの指示があったから、その通りに行動する。そういうルールだから、単純に従う。本当に大切にすべき価値観よりも、空気が優先される。どれもrootは同じですよね。「自分の頭で考えずに、誰かに判断を依存する」という意味で。
国内トップクラスのアメフトのゲームで起きてしまった不幸な事故だったから、世間からの批判を集中砲火のように浴びているだけで、自分自身の日常の小さな瞬間に、同じようなrootが全くないと言い切れる人間が、一体どれほどいるのだろうかと思わずにはいられません。人なんて、究極、そんなに強くないですからね。

往年の日本ラグビー黄金期にあって名将と呼ばれた大西鐵之祐さんは、その著書の中でも語っています。ジャストとフェアは違うと。
本当のフェアネスは、ルールに従うこと(合法性/just)ではない。
たとえ合法であったとしても、人間への尊厳に照らして自ら考え、魂が「No」だと言えば踏み止まる。ルールのような誰かの価値観ではなく、自分の責任と判断で、人間性を常に優先する姿勢こそがフェアネスだというんです。

コンプライアンスを遵守することは、合法性という観点で決して軽視されてはいけないと思います。でも一方で、コンプライアンスを遵守していれば良いというのは、思考の放棄ではないかとも思うんです。
そして、思考を止めてしまった先にあるのは、あの不幸な事件にあるものと相似形なのかもしれないと。
思考と判断は決して止めない。そして、決して誰かに委ねない。(よくアメフトと混同される)ラグビー人の1人として、そんなことを思う毎日です。

Sunday, September 23, 2018

勝手に事業部通信 Vol.2 (5/2/18)

2003年度 Jリーグ2nd Stage 第10節。
ジェフ市原 ○ 2-1 ● ベガルタ仙台 @仙台スタジアム
(得点者/ 仙台: 岩本 輝雄 (55分), 市原: 佐藤 勇人 (60分, 87分))

このシーズンのJ1 2nd Stageは歴史に残る激闘で、最終第15節はWikipediaにも残されているほどなのですが、それに先立っての第10節、ジェフ市原vsベガルタ仙台の試合終了後に、忘れられない名言が生まれていたことを、皆さんはご存知でしょうか。

「2点を取ったのは佐藤でも勇人でもなく、ジェフというチームが挙げたものだ。私はそう考えている。」 ー イビチャ・オシム

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私たちの事業部でも3月末に組織変更があり、4月から新たな体制がスタートしています。
これから日々を積み重ねていく中で、事業部全体としてもそうですが、組織の中でこういうサブチームが次々に生まれてきたら、きっと仕事は楽しいんじゃないかなと個人的には思ったりします。
想像ですが、きっと佐藤選手はチームで然るべき祝福を受けていたと思うんです。「ナイスゴール!お前の決定力がチームを救ったよ」と。個人としてのスキルとパフォーマンスなくして、チームの成長も、成功もないですから。
でも、その上で2点を挙げたのはジェフだとオシムは言うんです。つまり、個人を讃える文化と本物のチームワークは矛盾しないんですよね。

来週からGWが始まりますが、連休中に頭を巡らせてみたい個人的なテーマになりそうです。こういうチームというのは、どうすれば作っていけるのかなと。
結局のところ、事業部のカルチャーであれ、チームの雰囲気であれ、組織の空気を作っていくのはそこにいる個人でしかないので、まずは一個人としての自分を見つめ直してみようと思います。
まあ、半分くらいは今年から携わっているラグビー部のカルチャーをどうやって醸成していけるかな、という問題意識だったりもするのですが・・・。

GWでゆっくり休めそうな人もいれば、業務の都合上カレンダー通りの方もいると思いますので、勝手なことは言えませんが、日々チームで仕事をしている私たちが、一旦日常を離れて「一個人」としてリフレッシュして、普段とはちょっと違う視点で日常を振り返ってみたりして、また改めてチームとしての日常が始まった時に、すっきりした気持ちで「個人が個人を讃えつつ、チームとしてプロセスと成果を共有できる空気」が箱崎の22Fを満たしていたら、やっぱりいいなあと思います。

それでは皆様、良い連休を。

Saturday, September 22, 2018

勝手に事業部通信 Vol.1 (4/10/18)

ふりむくな、ふりむくな、後ろには夢がない。 ー 寺山修司『さらばハイセイコー』より

4月4日、水曜日。
遠くIBM Germanyから来てくれたSalvatore Romeoというイタリア生まれのSMEと一緒に、丸の内のお客様をコールしてきました。
時刻は午前11時。有意義なコールを終えたばかりの、JPタワーの車寄せ。この後、箱崎で予定しているお客様とのワークショップは13時スタート。
まずはランチでも、なんて考えていると、ふと聞かれたんです。「日本に行くなら桜を見てきなよって友達に言われてさ。どこか良い場所あるかな」って。"Sakura"は9,000kmも彼方のドイツでもやはり有名なんですね。

さてと、桜のシーズン。今年は寂しい別れも多くありました。
でも、一方で新たな出会いもあって、もう後ろを振り向くことも、その必要性も、私の中ではなくなっています。
私たちの事業部にも、2人の新入社員が来てくれました。もう覚えてもらえましたか。4/1から、私たちの仲間です。22Fで見かけたら、気軽に声をかけてあげてください。
2人のアドバイザーと共に、私も一緒になって5人で成長していきたいと思っています。一緒に輪に加わってくれる方がいるなら、いつでも大歓迎です。
後ろには夢がないけれど、この5人には前しかありませんので。

そういえば、最近こんなことがありました。
私は今年から大学ラグビーのヘッドコーチをしているのですが、キャプテンを中心とした首脳陣が課していたウェイト・トレーニングの目標値を3月末までに達成できなかった選手が、5人いたんです。
主将は2月にシーズンインした際、「目標に届かなければ、一定期間の練習参加を禁止する」とチームに宣言していました。でも、本当にノルマ未達成の選手が5人も出るとはおそらく考えていなかった。
貴重な戦力を5人失う。本当は一緒にグラウンドに立ってほしい。でも、俺たちは簡単な気持ちでこの宣言をした訳じゃない。深い葛藤が、首脳陣メンバーを苦しめて。
その後、チームはどうなったと思いますか。
あるいは、皆さんならこの状況でどうすべきだと思いますか。

決めたことを安易に撤回すれば、リーダーの言葉は重みを失う。そうかもしれません。
一方で、結果はともかく一生懸命やってきたヤツらだったのだとしたら、過去の宣言にこだわらなくてもいいんじゃないか。当然、そんなアプローチもあるかもしれません。

でも、私としては思うんです。どちらにしても過去のことだと。
5人に改めて伝えるメッセージは、「達成できなかった過去」ではなくて「達成できれば叶うかもしれない明日」なんじゃないかなと。ペナルティを課すにしても、あるいは撤回するにしても。

新入社員の2人とは、「前にあるもの」を共有したいと思います。
事業部の皆さんからも、2人が明日きっと経験することを話してもらえれば嬉しいです。後ろには、夢がありません。