Friday, November 23, 2012

いちばん泣き言をいいたい人が、明るい。 - 『督促OL修行日記』

督促OL 修行日記


  • 作者: 榎本 まみ
  • 出版社: 文藝春秋
  • 発売日: 2012/9/22



  • 督促という言葉を聞いて、良い印象を持つ人はいないだろう。
    督促って、要するに借金の取り立てだ。借金をしている人は督促なんてされたくもないだろうけれど、督促する方だって、しなくて済むなら本当はしたくない。貸したお金を返してもらうために、仕方なくやっているだけ。返さない方が悪いわけで、何も悪いことはしていない。それなのに、むしろ逆切れされて文句を言われたり、聞きたくもない身の上話に延々と付き合わされたり、時には「もう死にます」なんていきなり絶望されてしまったり。理不尽な思いばかりして、でも誰からも喜んでもらえなくて。いいことなんて何もないように思えてくる。

    そんな督促が、N本さんの仕事だ。
    N本さんというのは本書の主人公。毎日コールセンターで督促電話をかけている20代OLだ。実際は著者の榎本まみさん自身のことなのだけれど、本書ではN本としてキャラクター化されている。

    もちろんN本さんだって、最初から督促がしたかった訳じゃない。就職氷河期にやっとのことで内定をもらえたのがクレジットカード会社で、そこでの最初の配属先が、新入社員の間で人気ワースト1位のコールセンターだったのだ。会社説明会で出会った先輩は支店のカード営業ばかりで、漠然と営業をすると思っていたN本さんは、入社初日にして「だまされた!」と思ったそうだ。しかも所属は、キャッシング専用カードのお客さまを担当するチーム。クレジットショッピングとは違い、そのものずばりの借金だ。多重債務者も当然いる。コールセンターの中でもタフな部門で、それまで女性社員はチームに1人もいなかった。そんな訳で、課長から最初に言われた挨拶は「男子校へようこそ」だったそうだ。つくづく、ついてない。

    これだけでも可哀想な話だが、N本さんの場合は更についてない。配属されたコールセンターはまだ出来たばかりで、システム化も全くされておらず、電話と紙だけで債権回収をしなければならなかった。前日の入金チェックも、電話がつながらないお客様への督促状の送付も、全てが手作業。法律上、督促電話をかけられるのは8時から21時までと決まっているので、入金チェックは朝の7時から、督促状を書くのは21時から終電までだった。そして日中は、食事の時間を除いてほぼ休みなく電話をかけ続ける。なにせ、1時間に最低60本は電話しなければならないのだ。電話をかける回数が少なくなると、当然ながら回収金額も減ってくる。個々人の回収金額は壁に貼り出されるので、成績低下もプレッシャーだ。1日に何本の電話をかけられるかは、オペレーターの生命線。これっぽっちも楽じゃない。

    そんな辛い思いをしながら、とにかく電話をかけ続けるN本さん。でも、電話の先にいるお客さまは、お客さまという名の「債務者」だ。誰ひとりとして、N本さんの電話なんて期待していない。それどころか、むしろあからさまな敵意を持っていたりする。そもそも貸主はクレジット会社であって、N本さんじゃないのに。ちなみに、オペレーターとして初めてかけた電話の相手は、いきなり耳をつんざくような大声で言い放ったそうだ。

    「テメェ!今度電話してきたらぶっ殺す!!」

    デビュー戦から衝撃的な展開だが、その後も脅迫やら罵詈雑言やらのオンパレードだ。借金をしている人間はすべからく弱い立場かと思っていたけれど、実際にはそうでもないらしい。まあよくもそこまでと言いたくなるような債務者のヒドイ言葉は、毎日のようにオペレーターを傷つけているのだ。(カッコ内は、レビュアー註だ。)

    「そこまで言うなら、直接会って話そうじゃねぇか。N本とかいったな。今から高速飛ばして行くから待ってろよ!」
    (来なかったらしいけど。)
    「お前の会社に爆弾を送った」
    (ある日、机に届いた段ボールの中身はキャベツだったそうだ。)
    「今日入金しようと思ってたんだよ!あーもー、お前が電話してきたからやる気なくなったわー、頭に来たからもう絶対入金しないから」
    (ここは笑うところだけど、言われた当人はなかなか笑えないよね。)
    「こんな人を不愉快にするような仕事、しない方がいいと思いますよ!!まじめに働きなさい、まじめに働くことだけを考えなさい!」
    (いいからマジメに返しなさい。)

    要するに、そこはストレスフルで超過酷労働の「ブラック部署」だったのだ。当然ながら離職率も高くて、そのたびに使い捨てのような採用が繰り返されていく。そんな職場の必然か、入社半年で体重は10キロ減。10円ハゲが出来たり、顔中にやけどのようなニキビが出来たりと、もうボロボロの状態。痛くてファンデーションを塗ることもできず、心で泣いてすっぴん勤務。長時間勤務の連続で洗濯の時間も取れず、下着はコンビニの紙パンツ。「もう女じゃない」と、自らを慰めることもできない毎日。それなのに、そんなに辛いのに、回収金額の成績はチーム最下位で。


    でも―。

    それでも辞めない。辞めないどころか、彼女はそんな日常さえも、エネルギーに変えていく。
    すごく魅力的だ。いちばん泣き言をいいたいはずなのに、どこか明るいのだから。


    大切な同期の女性、A子ちゃんが会社を去ることになった日、人が次々と傷ついていくコールセンターの世界に悔しさを覚えながら、N本さんは考える。

    よしじゃあ、いっちょ、実験しよう、と思った。
    幸いなことに(?)私は督促が苦手だった。自分で言うのもなんだけど、心も体もボロボロだった。
    私が督促できるようになれば、(中略)そのノウハウはきっと使える。
    私の実験結果で、A子ちゃんみたいに、督促のようなストレスフルな仕事で人生を狂わされてしまう人を1人でもなくすことができたら・・・・・・。

    そしてN本さんは、「実験」の中から生まれた小さな気づきを積み重ねて、辛い経験もネタにして、いつしかコールセンターの仕事に意味を見出していく。

    その1つひとつは、とても小さなことだ。例えば、電話の切り出し方。自分のことを「コミュ力が低い」と思っていたN本さんは、まずは人よりもたくさん電話をかけようと考える。でも、朝の8時から早速かけてみると、「朝っぱらから電話してくるんじゃねえ!」と怒られてしまう。クレームになってしまうと今度はなかなか切れなくて、結局は電話の回数が増えてこない。それで悩んでいた時に、隣の先輩の電話を聞いていると、まず初めに「朝早くから申し訳ございません」と謝っていることに気づく。そうかあ、先に謝っちゃえばいいのか。そう思えただけで、朝の電話が少しだけ楽になり、電話の回数も増えていく。
    あるいは、どうしても苦手なお客さまは、他の人の担当している別のお客さまとトレードしてしまうとか、お客さまの性格を4つのタイプに分類して、ある程度の交渉パターンを決めておくとか、言葉につまった時のために、お決まりのフレーズを付箋に書いて、PCのディスプレイに貼っておくとか。こうして書いてしまえば、それぞれは本当に小さなこと。もしかすると、世の中に腐るほどある退屈なビジネス書のあちこちに、同じようなことが書かれているかもしれない。「知っているだけでうまくいく100のTips」みたいな。

    でも、違うんだ。
    N本さんが気づいて、身につけたのはTipsなんかじゃない。そこが、とてもいい。
    毎日悩んで、もがいて、苦しんで。でもそんな環境に愚痴を言うのではなくて、「具体的に変えられる何か」を探して、実際にやってみて、ちょっとずつ自信と経験を積み重ねていく。そうやってN本さんが掴み取ったものはTipsなんて言葉では語れない。それはきっとN本さんのバリューであり、人間的な魅力であり、「N本さんでなければいけない理由」だったのだから。

    とはいえ、お客さまがいきなり変わるわけじゃない。ストレスフルな職場だって相変わらずだ。でも、督促という辛い仕事のなかに生きる場所を見つけたN本さんは、どんどんパワフルになっていく。お客さまに言われた悪口の数々を日記にまとめて遊んでいる先輩のことを知ると、N本さんもEXCELで悪口を集めるようになり、今ではグラフ表示できるようにして楽しんでいるそうだ。「あ~あ、あと1回で10ポイント達成なのに、昨日も今日も全然怒鳴られなかったなあ・・・・・・」みたいな。(10回怒鳴られたら、自分へのご褒美としてお菓子を買ったりするそうだ。)最初の頃からすると、すごい変化だ。一度は消えかけて、でも取り戻した明るさは、もう決して消えることがない。環境は変えられなくても、自分は変えられる。本書に綴られたN本さんの日常は、そういうとても本質的なことを、改めて教えてくれる。

    そしてラスト。N本さんは、大袈裟に言えば境地に至るのだ。
    長くなるけれど、引用しておきたい。

    私は、ある時気がついた。

    古戦場のようなコールセンターで働くうちに、いつの間にか自分の体にはたくさんの言葉の刃が突き刺さっていた。でも、その1本を引き抜くと、それは自分を傷つける凶器ではなく剣になった。その剣を振り回すと、また私を突き刺そうと飛んでくるお客さまの言葉の矢を今度は撥ね返すことができた。それから、仲間を狙って振り下ろされる刃からも仲間を守ることができるようになった。そうか、武器は私の身の中に刺さっていたのだ。

    良くも悪くも人間の性がつまった「督促」という世界の、そんな物語。
    素直に、素敵です。


    ちなみに。
    そんなN本さんが、瞬殺で回収に成功した債権があるそうだ。
    誰が督促しても、ほぼノートラブルで即回収できるといわれるその明細は、包茎手術の医療費だった。そんな訳で、キャッシングの使いみちがデリケートな時は、ちゃんと返した方がいい。

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    困ってるひと


  • 作者: 大野 更紗
  • 出版社: ポプラ社
  • 発売日: 2011/6/16


  • 本書を読み終えてみて、なぜかふと思い出したのは大野更紗。原因不明の難病に犯されてしまった彼女は、それはもう痛々しいばかりの闘病生活を続けることになるのだけれど、そんな不遇の中にあっても圧巻の行動力で突き進む。そんな彼女の闘病記も、誤解を恐れずにいえば、どこか明るかったりする。N本さんとは立場も環境も、苦しみの質も違うけれど、2人の逞しさはどこか似ていなくもない。

    Wednesday, November 21, 2012

    『世界で勝たなければ意味がない』

    世界で勝たなければ意味がない―日本ラグビー再燃のシナリオ (NHK出版新書 392)


  • 作者: 岩渕 健輔
  • 出版社: NHK出版
  • 発売日: 2012/11/7



  • 私は心の中で、7年後の長期休暇を予約している。
    理由はもちろん、オリンピック、サッカーW杯に続いて世界で3番目に規模の大きい国際的なスポーツイベントが、ここ日本で開催されるからだ。

    そう、2019年はラグビーワールドカップ日本大会なのだ。

    日本ではあまり知られていないが、ラグビーにもワールドカップがある。1987年の第1回大会に始まって、昨年(2011年)のニュージーランド大会まで計7回の歴史を持つこの名誉ある大会は、世界でもトップクラスの集客力と注目度を兼ねた最高の舞台だ。そして日本代表(ジャパン)は、この7大会すべてに出場しており、IRB(国際ラグビーボード)が発表する世界ランキングでも16位に名を連ねている。(2012年10月1日現在)

    こうしてみると、サッカー日本代表よりも国際的にはステータスが高いような気もしてしまうが、残念ながらそうではない。ワールドカップ7大会連続出場といっても、日本の通算成績は1勝2分21敗。1991年の第2回大会で格下のジンバブエに勝利して以来、もう20年間ワールドカップでは勝利していない。第3回大会では、世界最強集団ニュージーランド代表(通称オールブラックス)を相手に17-145の歴史的惨敗も喫している。IRB世界ランキング16位といっても、現実はとてつもなく厳しい。

    そんな日本が2019年、世界の強豪国をホームに招聘して戦う。それは日本ラグビー再生のためのラストチャンス。でも現時点では、残念ながら日本国内のラグビー熱が高まってきているとは言い難い。国内リーグのレベルは年々向上しており、世界的なスター選手の来日も増えてきた。インターナショナルのプレーを生で観られる最高の環境が揃ってきたのに、ラグビーの注目度は思うように上がってきていない。要するに、日本ラグビーは今、崖っぷちの状況に立たされているのだ。

    本書の著者である岩渕健輔は、そんなラグビー日本代表のGMだ。現場を監督するヘッドコーチとは異なり、日本代表の強化に向けた組織のマネジメント全般を、彼が担っている。岩渕といえば、現役時代はセンス溢れるパスワークとランニングで何度もスタジアムを沸かせた名選手だ。青山学院大学を卒業後、オックスフォード大学留学を経て、イングランドのプロリーグでもプレーした国際派としても知られている。今、日本ラグビーの未来を託すべきGMとして、彼ほどの適任者はいないだろう。

    本書の中で岩渕は、多くの問題提起をしている。選手自身のスピリットや国際経験もそうだが、例えば科学的トレーニング手法の導入、(大学ラグビーを含む)国内リーグの変革、さらには代表を支えるスタッフの能力向上や、草の根レベルの底上げに向けた普及活動まで、日本ラグビー界が変えていかなければならないことは、本当に多岐に渡っている。GMの担うべき責任は、極めて大きい。本書からは、岩渕のそんな危機感が読み取れるはずだ。

    本書の副題には「日本ラグビー再燃のシナリオ」とあるが、実際にはそこまで体系的な記述でもないのが正直なところだ。でも、それは決して本書の問題ではない。体系的でなくても、とにかく可能性のあることは全て挑戦してみるしかないというのが、きっと日本ラグビーの現状なのだ。岩渕健輔は今、その事実を捉えているからこそ、本書が必ずしも体系的なシナリオではないのかもしれない。

    まずは2015年のワールドカップに向けて。日本ラグビーの躍進を、心から応援したい。

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    そんな日本ラグビー界においても、過去には世界にその名を轟かせた名将達がいた。
    彼らの言葉には、もはやラグビーを超えた真実がある。そんな人間の物語を、2つ紹介しておきたい。

    知と熱―日本ラグビーの変革者・大西鐵之祐 文春文庫


  • 作者: 藤島 大
  • 出版社: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/11/8


  • まずは大西鐵之祐。日本ラグビーを世界に知らしめた大なる名監督だ。類稀なる慧眼。徹頭徹尾、勝負師であり続ける胆力。巧みな人心掌握術。今読み返しても、大西鐵之祐が残したものは新しい。藤島大の文章も、相変わらず美しい。

    勝つことのみが善である - 宿澤広朗 全戦全勝の哲学


  • 作者: 永田 洋光
  • 出版社: ぴあ; 四六版
  • 発売日: 2007/7/7


  • もう1人の天才、宿沢広朗。ラグビー日本代表監督として、強豪スコットランドを破ったその手腕も見事だが、勤務先の住友銀行(現三井住友銀行)でも頭取候補に名を連ねるほどのバンカーだった。今、日本ラグビーはあの日の宿沢を追いかけているのかもしれない。

    Friday, November 09, 2012

    『スターリンのジェノサイド』のことを、知っておきたい。

    スターリンのジェノサイド


  • 作者: ノーマン・M・ネイマーク, 根岸 隆夫
  • 出版社: みすず書房
  • 発売日: 2012/09/11



  • こういう著作を、良書というのかなと思う。
    名著や傑作ではないかもしれない。HONZで紹介される多くのノンフィクションのように、キャッチーでもない。みすず書房らしい至ってシンプルな装丁は、版を重ねることを戦略的に狙っているとも思えない。原文で176ページとテキストも短く、ハードカバーにしては物足りないと感じる向きもあるかもしれない。

    でも、そういった諸々が裏返しの魅力になっている。特段飾ることなく、シンプルかつ明瞭に記述された本題。入手できる資料を読み込んで、具体的事実を丹念に追いかける姿勢はまさしく学者の本懐。決して難解な表現を用いることなく、非常に分かりやすく整理された論点。最後に1つの独立した章としてまとめられた「結論」は、これだけでも十分に知的好奇心を刺激する濃密なものとなっている。
    スターリン、そしてジェノサイドを学びたい人にとって、本書は格好の入門書になるだろう。派手さはないかもしれないが、長く読まれてほしい。

    少なくとも私は、本書を読んで、2つの意味で心を動かされた。
    1つは、「スターリンのジェノサイド」そのものに。
    そして、「スターリンのジェノサイド」が必ずしもジェノサイドとされていないことに。

    著者のノーマン・M・ネイマークが本書を記した理由は、とてもシンプルだ。序論の冒頭、本書のまさに1行目に、著者は書いている。
    長めの論文と言ったほうがふさわしいこの小冊子で、わたしは、1930年代のスターリンによる大量殺人を「ジェノサイド」と定義すべきだとする自分の立場を明らかにしたい。

    いきなり1行目で、頭を捻ってしまった。スターリンの虐殺について踏み込んだ知識は持っていないまでも、最低限のことは知っているつもりだった。富農(クラーク)の大量殺戮、そして大粛清といった歴史的事実は教科書にも載っている。ジェノサイドに決まっているじゃないか。そんな感じだった。

    ネイマークによれば、問題はこうだ。ジェノサイドには定義がある。それは1948年12月9日、国連総会において満場一致で採択された「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(以下「ジェノサイド条約」)によるもので、この条約では、さまざまな「国民、人種、民族、あるいは宗教集団の全部あるいは一部を破壊する意図をもっておこなわれた行為」をジェノサイドと定めている。しかし、この定義には伏線があった。1947年7月に国連事務局が起草した当初のジェノサイド条約案は、「人種的、民族的、言語的、宗教的あるいは政治的人間集団の破壊を防止する」ことを求めるものだった。これに対して、ソ連とその同盟国が、「政治集団」を条約から排除することを強硬に主張した。これらの国は、社会・政治集団を定義することは流動的で困難だと訴え、条約の重要なエッセンスを骨抜きにしたのだ。ネイマークはそれを「満場一致採択を達成するための妥協の産物だった」としている。そして、この問題を複雑にしているのは、「この条約から除かれた社会・政治集団こそが、スターリンの残虐な作戦のおもな犠牲者だった」ということだ。

    こうした経緯もあって、スターリンによる大量殺戮をジェノサイドと捉えることには、様々な反対論もあるそうだ。ジェノサイドの概念を政治集団にまで広げてしまうことで、ある意味でジェノサイドの本質が「薄っぺら」になってしまうのを懸念する学書も少なくないという。「社会主義と人類進歩の高邁な理想の名において殺した」スターリンの行為は、その動機からも、他のジェノサイド行為と同列に論じることはできないとする歴史家もいた。もちろんジェノサイドには、ナチスによるホロコーストを定義する言葉としての側面があったのも事実であり、スターリンの犯罪にこれと同じ言葉を用いることへの遠慮もあった。

    しかし、それでもなおネイマークの立場は明快だ。
    スターリン体制の下で行われた大量殺戮はジェノサイドであり、スターリンはその実行を主導した。これが、彼の結論である。

    ネイマークはこの問題を論じるために、4つの章を割いて、スターリンが行った主要な犯罪の実情を明らかにしている。取り上げられている4つとは、富農(クラーク)撲滅、ウクライナ大飢饉(ホロドモル)、「カチンの森の虐殺」に代表される民族強制移住と迫害、そして大粛清だ。そのいずれもが凄惨を極めた虐殺であり、本書はそのような悲劇が展開された歴史的経緯や背景、そして虐殺の実態を明らかにしている。決して長くない章立ての中で、不要な修飾語を伴うこともなく。

    1928年から始まった第一次五ヵ年計画では、農業の集団化・工業化が進められるが、クラークと呼ばれた富農(とはいえ、実際には「たかだか数頭の牛を所有している」程度だったという)が反対分子とみなされ弾圧された。集団化の過程で殺されたクラークは約3万人、極北とシベリアに強制移住させられたのは200万人にも及んだ。特別移住地に移送され、まともに食糧も与えられない極寒の収容所で、50万人ともいわれる人々が死んだか、逃亡したという。

    1931年、当時のウクライナと北コーカサスは小麦の全収穫量の45パーセント程度を占めていた。しかし、農業集団化に反発し、民族主義的な傾向をみせるウクライナ農民が「癇にさわった」スターリンは、彼らが翌年の収穫用に備蓄していた穀物種子まで徹底的に徴発する。これによって大飢饉が発生すると、食料を求めて農場からの逃亡を図った22万人のウクライナ農民を逮捕。19万人を村に送り返した挙句、ロシアとウクライナの国境を閉鎖。これは事実上、死刑を意味していた。

    ポーランド人に対する虐殺も無残極まりない。ソ連の領土保全において「明白な脅威」とみなされたポーランド人は、1930年代から弾圧の標的とされてきたが、1940~41年には30万人以上のポーランド人がソ連占領下の母国を追い出され、シベリアへと強制移住させられた。1940年4月には、約22,000人ものポーランド人将校たちがグニェズドヴォ近郊の森に運び込まれ、銃殺された。「カチンの森の虐殺」と呼ばれるこの事件を、ネイマークは「20世紀史におけるもっとも明快なジェノサイド事件の1つとみなされるべきである」と主張している。

    そして大粛清。「本人、つまりスターリンを除いてソヴィエト市民のだれもが逮捕され、拷問され、流刑あるいは処刑される可能性のあった」恐怖政治の時代。トロツキストへの徹底的な弾圧。古参ボルシェヴィキへの熾烈な直接攻撃。いや、それだけではない。1937~38年の2年間だけで、約157万5,000人を逮捕。そのうち68万1,692人が処刑され、残りは流刑に処されて収容所に送り込まれたという。

    本書においてネイマークは、こうした惨劇の中心がどこまでもスターリンだったことを強く主張している。いずれもが組織的であり、計画的だった。スターリン自身の明確な意図に基づいており、スターリンがいなければ同様の悲劇は生じなかった。スターリンは、「つまるところジェノサイド実行者だった」のだ。こう明確に言い切っている。

    「スターリンのジェノサイド」のことを、私は本当の意味で、ほとんど知らなかった。概念というものはどこまでも相対的であり、時に作為的であると頭では理解していたつもりだったが、ジェノサイドという概念が内包する複合的な問題を理解していなかった。教科書ではわずか数行ばかりの無機質な記述で終わってしまうこの歴史的事実が突きつけてくるものは、とても重い。ジェノサイドは現代の問題でもあるのだ。

    「知らないということは、時として罪である」と言ったのは、誰だったろうか。
    ナチスと比べると、文献量も多くないスターリンのジェノサイド。でも、知っておきたい。

    最後に、ネイマークの言葉を。
    ジェノサイド問題はあらためて率直に見直すことができるし、また見直されるべきなのだ。(中略)ジェノサイドの輪郭をはっきり描くことは、国の自己認識と未来のために決定的に重要だ。(中略)ソヴィエトの過去を研究する学者はどこにいようとも、ジェノサイドとその結果に真正面からとりくむ義務があるのだ。

    本人非公認自伝がリークするもの - 『ジュリアン・アサンジ自伝』

    ジュリアン・アサンジ自伝: ウィキリークス創設者の告白


  • 作者: ジュリアン アサンジ、Julian Paul Assange、片桐 晶
  • 出版社: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2012/9/25



  • ある意味、とびきりのリークだ。
    「公開こそ正義」という強烈な信念を持った異端児の姿を、剥き出しにしたのだから。
    この自伝が「本人非公認」、つまりリークとして刊行されることになったのは、運命の皮肉だろうか。

    ジュリアン・アサンジ。言わずと知れたウィキリークスの創設者は今、ロンドンのエクアドル大使館に滞在している。2010年12月、スウェーデンでの婦女暴行容疑でロンドン警視庁に逮捕されたアサンジは、エクアドルへの政治亡命を申請。2012年8月に認められたものの、大使館の外に一歩出れば身柄を拘束する方針を崩さないイギリス政府を前にして、身動きの取れない状況に置かれている。

    2010年12月20日、アサンジは自伝の出版についてキャノンゲート・ブックスとの契約を取り交わした。本書訳者のあとがきによると、アサンジ本人は自伝の執筆に当初から乗り気でなく、「スウェーデンへの移送撤回を求める訴訟費用を捻出するために仕方なく契約した」そうだ。それでも、当時アサンジが軟禁生活を送っていたノーフォークのエリンガム・ホールで、50時間以上にも及ぶ濃密なインタビューが行われ、アサンジ自身の生い立ちや世界観、育ってきた環境、ウィキリークス創設から世界を揺るがす数々のリークに至るまでの活動といった諸々が、予定稿の中で描き出されていった。ところが、次第に自伝の出版に難色を示すようになったアサンジは、2011年6月には出版契約の破棄を要求する。自身の半生が綴られた原稿を読んだ後、アサンジはこう語ったそうだ。
    「自伝なんて体を売るのと変わらないな」

    しかしながら、アサンジとの間で前払い金に関する契約を締結していた出版社は、その有効性に基づいて出版に踏み切った。こうした経緯により、本書は「(本人)非公認の自伝」ということになっているのだ。さすがにジュリアン・アサンジは只者ではない。自伝の出版経緯ひとつを取っても、型に嵌まるようなところがまるでないのだから。


    本書を読んで強烈に感じたことがある。

    ジュリアン・アサンジは、おそらく天才だ。それは「秀才ではない」という意味で。

    そして同時に、原理主義的だ。それは「原理にしか関心がない」という意味で。

    アサンジの天才性を証明するエピソードは、本書がつまびらかにしたその半生を辿っていけば、もう枚挙にいとまがないが、最も分かりやすいのは、やはり16歳の頃から始めたハッキングだろう。「メンダックス」のハンドルネームで活動していたアサンジは、トラックス、プライム・サスペクトという2人の優秀なハッカー仲間と共に、「国際破壊分子(International Subversives)」というグループを結成し、ハッキングの世界に没入していく。夜になると、カナダの通信会社ノーテルやNASA、そしてペンタゴン第八司令部のコンピューターに侵入するのが「いつものパターン」だったそうだ。ブエノスアイレスの2万軒の電話回線を切ってみせることも、ニューヨーク市民のために午後の電話代をタダにしてやることも、当時の彼らにとっては、その気になれば「お安いご用」だったという。

    これだけでも十分に天才的ではあるのだが、アサンジにはなんとも形容しがたい「天才特有の欠落感」のようなものがある。常識の延長線上にいて、努力で欠落を埋めていく秀才とは、そもそもタイプが異なる気がするのだ。例えばアサンジには、人間が通常備えているようなバランス感覚、あるいは「ブレーキを踏む感覚」といったものが全く感じられない。
    不思議なことに、何かを盗んでいるとか、何らかの犯罪や反乱に関わっているといった感覚はなかった。
    僕たちはある時点で、コミュニケーションの世界を支配したいと考えるようになった。

    こうした台詞が、一切の躊躇なく発せられるのだ。積み重ねた秀才が越えることのない一線を、易々と越えていく。まさしく天才的ではないか。(誤解のないように書いておくと、アサンジの行為自体をこの場で云々するつもりはない。価値の問題ではなく、端的な事実として「天才的」だと思うだけだ。また一方で、「それでも欠落は欠落である」というのも、やはり変わらない事実だと思っている。)


    それでは、アサンジの原理主義とは何か。

    これはもう明らかだ。「正義原理主義」、この一言に尽きる。
    情報の公開こそ正義。本書を読んでいると、特にウィキリークス創設以降のアサンジにとって、依拠する行動指針はこれしかない。自身の思想信条に則って、正義のためにその情報を公開すべきであると判断したならば、もはやアサンジを思いとどまらせるものは何もない。そして、ここがアサンジという人間を考える上で決定的に重要なポイントだと思うのだが、おそらくアサンジには「正義も相対的なものだ」という意識がほぼ存在しない。アサンジにとって、正義はまさしく原理であり、それが全てなのだ。アサンジのそうした性格は、本書の中でも随所に垣間見ることができる。例えば、こうした言葉の中に。
    僕は金銭への関心が薄く、合法性についてはまったく関心がないからだ。
    情報開示を求める活動は、単なる行為ではなくひとつの生き方だ。僕に言わせれば、それが分別と多感の両方をもたらしてくれる。つまり、人間というのは何を知っているかで決まるものであり、どのような国家にも知識を蓄える機会を奪う権利はないということだ。
    当時のアフターグッド(注:米科学者連盟(FAS)政府機密プロジェクト代表)が言うところの「人々のプライバシーを侵害すること」は、僕の基準からすればたいした罪ではなかったし、ある人々が犯罪に関与している可能性がきわめて高く、その犯罪が闇に覆われている場合は、彼らのプライバシーを侵害しても罪にはならないと考えていた。

    そんな本物の天才が、原理主義と手を結んで突き進むと―。

    その帰結は、ウィキリークスの活動が物語っているだろう。アメリカ軍のイラク戦争に関する機密文書の流出では、総額130億ドルという、当時の物価に換算するとマンハッタン計画以上のカネがつぎ込まれていることを暴露。グアンタナモ湾収容所の職員用マニュアルの公開によって、収容者に対する「容赦のない残酷さ、非人間的な扱い、誇大妄想、芝居がかった過剰さ」を世に知らしめた。その後も、ファルージャでアメリカ軍が行った凄惨極まりない戦闘、ケニアで起きた虐殺と巨額のマネーロンダリングといった衝撃的な機密を次々と公開。『付随的殺人(Collateral Murder)』と名づけられ、YouTubeで1,100万回以上も再生されたというビデオでは、バグダッド上空からイラク人を爆撃した米軍の姿を暴きだした。更には、アフガニスタン紛争関連で約75,000点以上、イラク戦争に関しては約40万点にも及ぶアメリカ軍機密資料をリークする。

    アサンジとウィキリークスの活動は、センセーショナルだった。強烈であり、世界を震撼させた。熱情的で、暴力的だった。挑戦的で、常にギリギリだった。そしてこの自伝を読む限り、やはり人を魅了する何かがあり、一方で否応なしに心をざわつかせる何かがあった。

    面白くない訳がない。

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    煉獄のなかで 上巻 (新潮文庫 ソ 2-4)


  • 作者: アレクサンドル・ソルジェニーツィン、木村 浩、松永 緑彌
  • 出版社: 新潮社
  • 発売日: 1972/6/25


  • 煉獄のなかで 下巻 (新潮文庫 ソ 2-5)


  • 作者: アレクサンドル・ソルジェニーツィン、木村 浩、松永 緑彌
  • 出版社: 新潮社
  • 発売日: 1972/6/30


  • アサンジはハッカー時代に一度逮捕されているのだが、その頃に本書を読んでいる。「共感というものの意味を理解させてくれるものであり、僕に力を与えてくれるものだった」というその読書体験を通じて、アサンジは「闘いというのは、常に自分自身でいつづけるためのものなんだ」という境地に至っていく。

    テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈上〉

    テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈上〉

  • 作者: 下村 努、ジョン マーコフ、John Markoff、近藤 純夫、、近藤 純夫のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
  • 出版社: 徳間書店 (1996/05)
  • 発売日: 1996/05


  • テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈下〉


  • 作者: 下村 努、ジョン マーコフ、John Markoff、近藤 純夫、、近藤 純夫のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
  • 出版社: 徳間書店 (1996/05)
  • 発売日: 1996/05


  • 本書の中でアサンジが言及している1冊。アメリカ人ハッカーのケビン・ミトニックを「アメリカが誰よりも逮捕を望んだ無法者」と書いた下村に対して、アサンジは「ツトムに尋ねたい。おまえは、ミトニックがくたばったら、彼の墓を掘り返して、両手を灰皿代わりにして貸し出すつもりなのか?」と強烈な不快感を吐露している。

    日本語訳ウィキリークス文書―流失アメリカ外交文書


  • 作者: チーム21C
  • 出版社: バジリコ
  • 発売日: 2011/3/19


  • ウィキリークスが公開したアメリカ外交公電の日本語訳。東京発の公電も幾つか登場する。

    問題は何も終わっていない。 – 『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』

    ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った (日経プレミアシリーズ)



  • 作者: 竹森 俊平
  • 出版社: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2012/10/10


  • Things which cannot go on forever will stop. (いつまでも続けられないものはストップする)

    かつてニクソン大統領の経済顧問を務めたハーバート・スタインの言葉だ。アメリカが抱える双子の赤字が急増しているのは問題だとする論者達への返答として発せられたこの言葉は、現在でも語り草になっているそうだ。どのみちストップするのは分かりきっている。問題はどのようにストップさせるかだ。スタインがこの短い一節をもって示唆したのは、そういうことだった。

    著者はこのエピソードを、本書の前半かつ全体骨子の中ではやや傍流的な箇所で、さらりと引いている。非常に憎い演出だ。
    この言葉こそが、まさに本書の主張そのものでもあるのだから。

    一般的に、ユーロの問題はギリシャ財政との関係で論じられることが多い。事の発端となったギリシャ債務危機が勃発したのは2010年。巨額の財政赤字が発覚したことでギリシャの信用不安が拡大すると、問題の火はGIIPSと呼ばれる各国にも波及していった。スペインやイタリアといった大国さえもが崖っぷちの状況に立たされ、世界経済全体を揺るがしかねない本物の「ユーロ危機」がすぐそこに迫っていた。ヨーロッパはまさに追い込まれていたのだ。その後、紆余曲折を経て2012年9月6日、欧州中央銀行(ECB)のマリオ・ドラギ総裁が、ユーロ圏加盟国の1年物から3年物までの国債を対象とした「無制限の買い入れ」を発表。重債務国の支援に道筋がついたことで、表面的には小康状態となっている。

    でも、スタインの言葉を思い出してほしい。
    もしそれが「いつまでも続けられないもの」だとするならば、いつかはストップするのだ。
    そして著者は、本書において論じている。どのようにストップさせることになるのかを。

    ただし、この点を明確にしておかないといけない。
    著者がおそらく続けられないだろうと考えているのは、ECBによる支援ではない。
    ユーロそのものだ。


    よく知られているように、欧州共通通貨としてのユーロが問題を孕んでいることは、ユーロ導入以前から、多くの経済学者の間で十分に認識されていた。本書の記述を辿るならば、その根本的な問題点は2つだった。

    1点目は、ユーロが導入された地域内に生産性格差(南北格差)が存在していたことだ。ドイツやフランスといった生産性の高い国と、ギリシャのような生産性の低い国が、共にユーロの傘に入ったことで、本来は為替レートの変動によって調整されるはずだった様々な歪みが固定化されてしまった。端的に言うと、南の国々は総じてインフレ率が高かった。それは生産コストを増大させ、国際競争力は低下傾向にあることを意味していた。それでも各国の通貨が異なっていた時代であれば、為替レートの大幅な減価によるコントロールが働いたのだが、ユーロという共通通貨の採用によって、この機能が失われてしまった。要するに、南はますます競争力を失ったのだ。しかし一方で、ユーロ圏内のマネーは南へのシフトを強めていった。なぜならば、高金利国への投資もユーロ建てであり、ドイツやフランスからすれば、為替リスクなしにある種のキャリートレードが成立していたからだ。勿論これは、今となってみれば危険な賭けだった。どこまでいっても、リスクカントリーへの投資だったことに変わりはなかったのだから。

    もう1点は、政治および財政の統合を行わずに、通貨と金融政策だけを統合してしまったことだ。加盟各国の財政を監視する仕組みを持たないままにユーロが導入されたため、「ギリシャのような財政規律を守らない国が現れ、ユーロの国際通貨としての価値をおとしめた」というのが一般的な理解だろう。ただ、この点について著者はやや踏み込んだ論述をしていて、これが非常に興味深い。

    議論の前提として、本書ではまず「不可能性の三角形」を挙げている。通常は「国際金融のトリレンマ」として知られているもので、①為替の安定、②自由な資本移動、③独立した金融政策という3つのうち、2つまでしか同時に実現することができないというものだが、著者はこれを下敷きとして、更に議論を発展させていく。つまり、ユーロ圏においてはもう1つの「不可能性の三角形」があるというのだ。
    ①ユーロ圏をトランスファー(所得移転)同盟に転化させたくないリーダー国(ドイツ)の願望。
    ②共通通貨(ユーロ)を存続させたいという願望。
    ③北に比べて競争力の弱い南の産業が崩壊する結果、南から北への大量移民が発生し、北に移民のスラムが形成されるといった事態を避けたい欧州全体の願望。

    上述したとおり、ユーロのもとでは北のマネーはインフレ率の高い南にシフトする。そして南の産業は競争力を失って、崩壊への道を辿ることになる。この時、共通通貨(ユーロ)を破綻させれば、欧州全体のダメージは計り知れない。ユーロを守ろうとすれば、産業崩壊で失業率が高まった南の住人は、北への移住を余儀なくされるだろう。しかし、ヒトの移動は現時的には難しく、ドイツもそれを望んでいない。その時、ドイツによる南へのトランスファー(所得移転)、つまり長期的かつ大規模の財政支援をこれからも続けていく以外に選択肢はあるのだろうか。そして、その結末をドイツ国民は受け入れるのだろうか。
    この展開が、本書の真骨頂だ。ここに至って、ようやく本書のタイトルが『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』となっている理由が見えてくる。

    ドイツは今、何を考えているのか。
    ユーロが、おそらくは決して遠くない未来に迎えようとしている運命とは。
    「ドイツだけが残った」という言葉は、何を意味するのか。
    簡潔にして明瞭なスタインの言葉が、今、重くのしかかる。

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    すべての経済はバブルに通じる (光文社新書 363)


    すべての経済はバブルに通じる (光文社新書 363)



  • 作者: 小幡 績、、小幡 績のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
  • 出版社: 光文社
  • 発売日: 2008/8/12


  • 竹森俊平氏の著作を読み終えて、ふと頭をよぎったのが本書のタイトルだ。竹森氏とは全く異なる観点でマクロ経済を論じたものだが、「いつかはじけるもの」というのがバブルの定義だとすれば、国際金融市場で買い手のつかないギリシャ国債をECBが買い支え続けるというのも、見方によってはある種のバブルなのかもしれない。

    ユーロ・リスク (日経プレミアシリーズ)

    ユーロ・リスク (日経プレミアシリーズ)



  • 作者: 白井 さゆり
  • 出版社: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2011/6/16


  • ユーロ加盟各国の置かれた状況と課題について、非常に分かりやすく整理した1冊。高リスク国(ギリシャ・アイルランド・ポルトガル・スペイン)、中リスク国(イタリア・ベルギー等)、低リスク国(ドイツ・フランス・ルクセンブルク・オランダ・オーストリア・フィンランド)という3つのグループに分類し、それぞれの特徴を明らかにしていく。ちなみに本書の結論は、高リスク国/低リスク国の別を問わず、ユーロを崩壊させることにプラスのモチベーションを見出せる国家はない、ということだ。たとえギリシャに足を引っ張られたとしても、ドイツは足を洗えない。それがユーロだと。

    Thursday, October 11, 2012

    『オタクの息子に悩んでます』

    オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)


  • 作者: 岡田 斗司夫 FREEex
  • 出版社: 幻冬舎
  • 発売日: 2012/9/28


  • HONZで仲野先生がレビュー済の1冊。
    いやこれは、もう完全に面白かった。超おすすめです。
    朝日新聞「悩みのるつぼ」に寄せられた様々な悩みごとに、回答者の1人である岡田斗司夫が実際に答えた内容と、そこに至るまでの思考プロセスをまとめたものなのだけれど、単純な面白さを越えて、その凄さに唸ってしまうほどだ。

    自身の思考プロセスをここまで自覚的に捉えて、意識的に構築し、その上で熟成させ、ふとした瞬間に訪れる思いつき(ある意味プロセスに落とし込まれない偶発的要素)までを考慮に入れておくというのは、かなり凄いレベルの作業だと思う。その面白さは、「なんとなく」生まれてきているわけではなくて、90%の計算された思考と、10%の計算で落とし込まれないエッセンスとの絶妙なブレンドなのかなという感じだ。

    ただ、そんな堅苦しいものばかりが本書の魅力ではない。 というよりも、全ての回答が、とにかくシンプルに面白い。そして、そもそも寄せられた悩みそのものも、(投稿した当事者は本気で悩んでいるわけで、失礼な話ではあるけれど)かなり面白かったりする。モノによっては、「それでも本気なんだよなあ」なんて想像するだけでも、ちょっと人生というものが味わい深くなってくるんじゃないか。

    そんな訳で、岡田斗司夫が運営している風変わりなSNS「クラウドシティ」にも、俄然興味が湧いてきてしまった。『すべての「理屈っぽい人」のために・・・』って(笑)。まるでプライベートに呼びかけられているような気がしてきます。

    Monday, October 08, 2012

    血の通った熱い男、藤原岩市の紡いだ歴史の一頁 - 『F機関』

    F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐
    • 作者: 藤原岩市
    • 出版社: バジリコ
    • 発売日: 2012/6/29

    最近、歴史を意識させられることが多い。竹島でも尖閣でも、結局のところ歴史的経緯から紐解いていく必要が生じている。尖閣問題では中国国内で大規模な反日暴動が発生し、多くの日本人が心を痛めたのは記憶に新しいが、日本側が「領土問題など存在しない」と主張したところで、中国や台湾にとっては歴史問題であって、最後はどうしても同じ場所、つまり「日本の近現代史」に行き着いてしまう。 

    でもここで、ふと思ったりもする。「日本」の歴史というけれど、それだけが歴史ではないんじゃないか。歴史というのは多くの場合、国史、それも政治・経済史を中心に語られることが多いけれど、国家を主語に歴史が語られるようになったのは国民国家が生まれてからのことで、それ以前の歴史の主役は、いつだって個人だったんじゃないか。 

    日本は戦争に敗れた。これは歴史の記述だけれど、戦地に赴いたのは「日本」などという概念的なものではなくて、1人ひとりの日本人、血の通った生身の人間だ。日本の国策にしても、政府、軍部といった中枢を構成するリアルな人間達が、権謀術数と錯綜する思惑の中で舵取りをしていった結果であって、ある意味では「個人史の集積」としての側面もあるのではないだろうか。 

    そんなことを思った理由は、本書の中にある。

    本書の中心となるのは、日本の近現代史、それも戦史だ。
    対中戦争が泥沼化の様相を呈していた1941年、迫りくる対米英戦争を想定していた日本は、対英戦線を有利に進めるための戦略として、インドにおける対英独立闘争の支援工作を画策していた。英国にとって最重要拠点の1つであったインドにおいて、人民の民族意識を焚きつける。そして、自主自由の独立に向けたムーブメントを支援することで、東南アジア戦線から英国を駆逐すると共に、援蒋ルートを遮断する。それは日本の存亡を左右する極めて重大なミッションであり、1941年9月、そのための特務機関が組成された。それが本書の表題となっている「F機関」だ。機関長に任命されたのは、当時若干33歳の陸軍少佐、藤原岩市。機関の頭文字となったFは、フリーダム(Freedom)、フレンドシップ(Friendship)、フジワラ(Fujiwara)から取ったそうだ。本書は、そのF機関を率いたリーダーの藤原岩市が、当時の活動の詳細を綴った手記であり、そこに収められたストーリーの全てが、まさしく日本の近現代史そのものになっている。

    それでも、誤解を恐れずに言えば、本書の核心は日本の近現代史ではない。
    核心となっているのは間違いなく、藤原岩市という傑出したリーダーの個人史だ。
    F機関の活動は、藤原岩市だからこそ出来た。藤原岩市という個人の血流が作り上げたのだ。もちろん本書が藤原本人の手記であるという点は割り引いて読む必要があるが、それでも本書が内包している強烈なエネルギーは間違いなく本物だ。英語さえ話せず、諜報活動に関する一切の訓練も受けていない状態でアジアの地に赴いた若き少佐が、わずか10名のFメンバーを見事に統率し、やがてインドの独立へとつながっていくことになる確かな軌跡を残したのだ。そして、そのエネルギーの源泉は、藤原岩市という男の魂そのものだった。

    1941年10月、バンコク。インド独立を目指す秘密結社「IIL」の書記長プリタムシン氏との接触から、F機関の工作は動き出す。藤原とプリタムシンの2人は幾度となく深夜に密会し、お互いの理念と理想、その実現に向けた構想を語り合う中で、揺るぎない信頼関係を築き上げていく。そして日本軍とIILとの協力関係のもとで、マレー戦線へと進出すると、現地に暮らす一般のインド人、そして英軍内のインド人将校に対して対英独立闘争を宣撫していった。その後、日本軍が占拠したアロルスターの地で、インド兵捕虜だったモハンシン大尉との運命の出会いが訪れる。藤原の掲げる理念に共鳴したモハンシンは、藤原と共にINA(インド国民軍)を創設すると、F機関を通じて、快進撃を続けていた日本軍と連携。捕虜として捕らえられたインド人将兵たちは、F機関とIILによる宣伝工作のもと、INAへと接収されていった。こうして拡大の一途を辿ったINAとモハンシンはその後、インド史を大きく変えていくことになる。

    藤原率いるF機関が、こうして対インド工作を推進できた理由は、どこにあったのだろうか。プリタムシン、そしてモハンシンは藤原の何に共鳴したのか。
    藤原が熱心に、魂を込めて語ったビジョンは、今、後世の人間が語るならば「大東亜新秩序」という理想ということになってしまうのかもしれない。ただそれは、おそらくはこの言葉から想像される以上に、もっと純化されたものだった。藤原は、アジア世界において、文字通りの意味において「敵味方を超越した」世界を志していた。そのことは、F機関長を拝命した直後、運命を共にすることになったFメンバー達に語った言葉に集約されている。
    日本の戦いは住民と捕虜を真に自由にし、幸福にし、また民族の念願を達成させる正義の戦いであることを感得させ、彼らの共鳴を得るものでなくてはならぬ。(中略)諸民族の独立運動者以上にその運動に情熱と信念とをもたねばならぬ。そしてお互いはつつましやかでなくてはならぬ。(中略)われわれは武器をもって戦う代りに、高い道義をもって闘うのである。われわれに大切なものは、力ではなくて信念と至誠と情熱と仁愛とである。
    F機関長としての藤原の人生は、まさにこの言葉通りのものだった。
    そしてその生き様は、インドの独立に命を懸ける人間たちの魂を揺さぶった。


    1942年4月、藤原はサイゴン総司令部から帰任の電命を受け、F機関長としての活動は一旦幕を閉じることになる。F機関による対インド工作活動は、岩畔大佐のもと組成された岩畔機関へと引き継がれていった。藤原を心から慕っていたモハンシンは、INA本部において送別の宴を催し、藤原に感謝状を贈呈したそうだ。藤原はこう綴っている。
    感謝状には、私をINAの慈母と讃え、幾万の印度人将兵、幾十万の現地印度人の生命を救い、その名誉を保護し、そして大印度の自由と独立とを支援するために、私がINAに捧げた熱情と誠心と親切を、INA全将校こぞって感謝する旨強調されていた。そして私の名と功績とは、印度独立運動史の一頁に、金文字をもって飾られるであろうと述べられてあった。

    その後の日本が辿った歴史は誰もが知るとおりだ。戦線は日々悪化の一途を辿り、INAと共にインド解放に先鞭をつけるはずだったインパールでは、地獄絵のごとき無残な敗北を遂げる。1945年夏、終戦。日本軍と「大東亜新秩序」がアジアに残した傷跡は、今も消えることはない。こうした極めてセンシティブな歴史的経緯、そして思想的背景のもとで、F機関の活動そのものも、盲目的な肯定は難しく、おそらくは正しくもないのだろう。 

    それでも。
    インド独立という偉大なる歴史の一頁を、藤原とF機関が飾っていることは間違いない。
    INAが贈呈した感謝状にあったように。

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    昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
    • 作者: 猪瀬 直樹、、猪瀬 直樹のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
    • 出版社: 中央公論新社 (2010/06)
    • 発売日: 2010/06
    猪瀬直樹氏の名作。昭和16年、つまり1941年だ。F機関がバンコクでインド対英独立支援工作をスタートさせたまさにその時、「総力戦研究所」に召集された若きエリート達は、日本が対英米開戦に踏み切った場合の展開をシミュレーションしていた。F機関が歴史の一頁であるように、本書に綴られた現実もまた、歴史の一頁だ。


    それでも、日本人は「戦争」を選んだ
    • 作者: 加藤 陽子、、加藤 陽子のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
    • 出版社: 朝日出版社
    • 発売日: 2009/7/29
    東大文学部で近現代史を教える著者が、栄光学園の男子中高生に対して行った5日間の特別講義をベースにした著作。日本人が「戦争」という外交手段を選択するに至った軌跡とその背景が、非常に鋭く語られている。大袈裟に言ってしまえば、全ての日本人が読んだ方がいい1冊だと、個人的には思っている。

    Tuesday, October 02, 2012

    HONZ

    今、完全にハマリつつある。
    自他共に認める超負けず嫌いの俺としては、色々と考えることも多くて。

    人に読んでもらうというのは、そうそう簡単ではないね。
    本のチョイス。レビュー。推敲。関連トピック。核心と周辺。スタイル。
    好き勝手に書いていた頃と比較して、自分の中で少しずつ変化が生まれてきた。
    かなりラフではあるけれど、レビューのためにメモを取るようになったりもして。
    そういうプロセスは、意外と楽しいものです。

    ちなみに、1人の読者としてみたHONZの面白さは、やはり選書かなと思ったりもする。
    先月の朝会は、本当に刺激的だった。
    翌日から、書店を巡っては朝会で紹介された本の置かれた棚を探し回ってみたりして。
    気がつくと、今まで自分が足を向けていたコーナーは、書店の中でもかなり限られたエリアでしかなかったということが分かって、それがとても新鮮だった。
    Wikipediaを活用して、紹介された本のテーマや、知らなかった言葉を拾ってみる。
    これがまた面白い。つまらない本を読んでいるよりも、知的好奇心の幅が広がったりもする。
    色々な人がいて、色々な視点があって、引っかかるポイントは本当に人それぞれだなあと。
    そういう幅が、自分にはまだないんだよね。


    今月は、もうちょっと納得感のあるものが書けるといいなあ。
    ちょっとずつ、先月よりもいいものを。もうちょっと、幅のあるものを。

    Sunday, September 30, 2012

    リーダーシップの中核は、いつだって人間。 - 『コカ・コーラ 叩き上げの復活経営』

    コカ・コーラ 叩き上げの復活経営 (ハヤカワ・ノンフィクション)




  • 作者: ネビル イズデル、デイビッド ビーズリー、Neville Isdell、David Beasley、関 美和
  • 出版社: 早川書房
  • 発売日: 2012/9/7


  • リーダーとは、つまり何だろうか。本書を読みながら、そんなことを考えてみた。
    そして、私なりに辿り着いた(暫定的な)答えを、この場に書きとめてみたい。


    人によって中心に据えられ、人を中心に据えることでそれに報いる存在。
    それこそが、リーダーではないかと。


    ネビル・イズデル。2004年6月、当時泥沼に喘いでいたコカ・コーラのCEOに就任し、5年間の在任期間中に見事な再建を果たした経営者だ。当初から5年限定を明言していた彼は、2009年にその言葉どおり引退し、ムーター・ケントにCEOの座を引き継いでいる。
    本書はそんな彼が、自身の半生を綴った物語だ。彼は約40年間に及ぶビジネスキャリアを、常にコカ・コーラと共に歩んだ生え抜きの存在であり、その半生はコカ・コーラの歴史そのものと密接にリンクしている。彼が活躍した時代とは、コカ・コーラにとっても、そして世界史においても大きな変革が重なった激動の時代であり、奇しくも彼はその最前線に常にいた。それゆえ本書はコカ・コーラと世界のストーリーでもあり、それ自体も極めて刺激的なのだが、やはり本書の一番の醍醐味は、ネビル・イズデルという1人の人間そのものに、そして彼がコカ・コーラと世界に対して果たした誇り高きコミットメントの数々にこそ求められるべきだろう。彼自身が、本書の冒頭でこう語っているように。
    この本はよくあるビジネス本とも自伝とも違う。個人的なストーリー、と言った方がいいだろう。あなたの知らない(インサイド)コカ・コーラの旅へようこそ。わたしの人生の物語と、危機と希望と興奮に満ちたグローバルビジネスの未来を楽しんでいただければ幸いである。

    そして彼は、その「個人的なストーリー」において、彼のために献身を惜しまない仲間との出会いにいつも恵まれていた。人が活きる場所を整えることで、いつでも人を守ろうとした。組織における自身の立場を問わず、いつだって毅然としたリーダーであり続けた。コカ・コーラを復活へと導いた舵取りはもちろん素晴らしいが、ある意味ではストーリーの集大成にすぎない。ストーリーの中核は、人間の魅力であり、魅力的な人間だ。ネビルを支え、導いた人間。共に戦い、争った人間。豪胆をもって試した先達。時には陥れようとした人間。偶然、同じ場所で同じ空気を吸った人間。本書のストーリーを彩るこれらの共演者達は、誰もがとても魅力的だけれど、舞台の中心にいつもいた肝心の主演を忘れることはできない。


    そう、ネビル・イズデルは人間として魅力的だった。
    それはきっと、彼が人間を信頼していたからだ。
    本書には、そうした彼のスタンスを示す印象的なエピソードが溢れている。


    たとえば、ゲイリー・フェイヤード。ネビルがCEOに就任した2004年、コカ・コーラは売上水増問題で米証券取引委員会(SEC)の捜査を受けていた。この問題を内部告発した社員が直前の人員整理で解雇され、その後コカ・コーラに対して訴訟を起こしたのが発端だった。当時CFOだったゲイリーは解雇を止めようとしたが間に合わず、捜査が進むにつれて、SECがゲイリー個人に対して民事訴訟を起こす可能性が高まっていく。辞めざるをえないと判断したゲイリーは辞表を提出するが、ネビルはゲイリーを終始守り抜いた。立場や組織のために、罪なきものに罪を着せない。完全に正しい会計開示をもってSECと和解した後、ゲイリーは今もCFOとして活躍している。

    あるいは、東欧でビジネスを共にしたかけがえのない右腕、ムーター・ケント。1996年、財務アドバイザーによる勝手な自社株の空売りによって、彼はインサイダー取引疑惑で当局の捜査を受けていた。ネビルはそれを、単純なミスだったと信じていたが、ムーターは将来有望だったはずのキャリアを閉ざされた。その彼の人間性とポテンシャルを信頼し、自身の後継者として呼び戻したのもネビルだった。つまらないキャリアの傷などではなく、本質を見抜いて、人を信じ抜く彼の姿勢は、この言葉に表れているだろう。
    コカ・コーラ社の全権をムーターに引き継いだとき、よくこう訊かれた。「あなたの功績はなんですか?」と。
    わたしの答えは簡単なものだった。
    「後継者が成功しなければ、功績などありません」
    それから二年たったいま、この本を執筆しながら、わたしは自信を持ってこう言える。「ミッション完了」と。
    他にも紹介したいエピソードは尽きることがない。
    ヨハネスブルグで雇い入れた初の黒人販売マネージャー、アーネスト・ムチュニュの才能を見抜き、茨の道と知りつつも「挑戦の機会を得よ」と諭したその思い。フィリピン時代、現地のカルチャーへの深い洞察をもってビジネスを支えたキング・キングとの信頼関係。元CEOドナルド・キーオに対しても、大胆かつ毅然と意見を戦わせるタフネス。何人かの役員達を冷静に見極め、様々な周辺環境に配慮しながらも譲ることなくシビアに切っていく度胸と覚悟。どれもがとても魅力的であり、それぞれのエピソードの中に、ネビル・イズデルという傑出したリーダーの人間性を垣間見ることができるはずだ。

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    本物のリーダーとは何か



  • 作者: ウォレン・ベニス、Warren Bennis、バート・ナナス、Bart Nanus、伊東奈美子
  • 出版社: 海と月社
  • 発売日: 2011/5/26


  • リーダーシップを考える上で、個人的に外せない1冊。「マネジャーはものごとを正しく行い、リーダーは正しいことをする」というウォレン・ベニスの名言は、端的にして、リーダーシップの核心を鋭く衝いている。常に「正しいこと」をしようとしたネビル・イズデルは、やはり本質的な意味において、真のリーダーだったのではないだろうか。


    逆境を生き抜くリーダーシップ



  • 作者: ケン・アイバーソン、Ken Iverson、(序文)ウォレン・ベニス、Warren Bennis、近藤隆文
  • 出版社: 海と月社
  • 発売日: 2011/7/26


  • 1965年、倒産寸前だったアメリカの小さな製鉄所ニューコアの社長に就任し、全米2位の鉄鋼メーカーへと押し上げた稀代の名経営者、ケン・アイバーソン。リーダーシップというものに対する彼の哲学と行動が、惜しみなく綴られている。前掲のウォレン・ベニスも序文を寄せており、非常に読み応えのある1冊だ。

    Wednesday, September 26, 2012

    バレエシューズ



    昨日のこと。

    バレエを習いたいと言っていたハンナ。
    パートナーが、近くのバレエ教室に連れていってあげた。体験コースに参加させてあげようと。

    体験コースとはいえ、最低限の服装を用意する必要があって。
    幼稚園の体操服だったり、普段着のワンピースという訳にもいかないようで、色々考えた末、手軽な値段のバレエ服とシューズ、それからバッグを買ってあげることにした。
    まだ入会前ではあったけれど、ハンナを連れて一緒に見学もしてあって、その後もハンナは「バレエやりたい!」と繰り返していたので、その言葉を信じて、ささやかなプレゼントとして。

    でも、ダメだった。

    初めての体験コース。ずっと頑張って、一生懸命に初めてのバレエをしていたハンナは、その日のコースが終わる間際になって、突然、ぽろぽろと泣き出してしまったそうだ。
    「もうやだ・・・。帰りたい」って。
    その場にいなかった俺は想像する他ないのだけれど、何かきっかけがあったのかもしれない。
    ずっと我慢していたけれど、最後の最後になって、何かが溢れ出してしまったのかも。
    そして泣きじゃくって、母親に気持ちをぶつけて。

    パートナーもショックだったようで、とても落ち込んでいた。
    下見もして、ハンナの意志も確認していたのに、って。
    仕方のないことだし、誰のせいでもないのだけれど、それでも落ち込んだりするのがヒトだよね。


    きっとそれは、子供と一緒に生きていれば、普通にあることなんだと思うんだ。
    小さなことなのかもしれない。
    やってみたら、やっぱりイヤだった。起きたのは、ただ、それだけのことだから。

    でも、そうじゃないんだ。
    やっぱりそれは、小さなことではないんだよね。
    パートナーは、ハンナのことを一生懸命に考えてくれたのだから。
    そしてハンナもきっと、一生懸命に泣いたのだから。
    小さな身体と、まだ小さなキャパの心を振り絞って、一生懸命に泣いたんだよね。


    同じようなことが、今後もあるかもしれない。
    ハンナの人生を決めるのはハンナ自身で、どこまでいっても親ではないはずだから。
    最後は、本人が決めればいい。
    でも、パートナーがハンナのことを思ってくれているという事実は、大切にしてあげたい。
    結果として、ハンナの選択が親の思いとは違っていったとしても、そこにパートナーのやさしさがあったということを、きちんと家族で受け止めていってあげたい。


    またどこかで、バレエシューズを履きたくなるかもしれないよね。

    『本人伝説』

    本人伝説
    • 作者: 南 伸坊、南 文子
    • 出版社: 文藝春秋
    • 発売日: 2012/9/7

    先日のHONZ朝会で紹介された1冊。
    日本橋丸善で見つけて、思わず衝動買いしてしまった。

    オススメ。ほんと陽気で楽しい本です。
    特徴をよく捉えてるんだよね。かなりムリなものもあるけど、それがまた面白い。ダルビッシュや浅田真央あたりは完全にムリな感じで、なぜそこで<本人術>を駆使しようとしてしまったのか全く理解できないレベルだ。そういうどうでもいいことを100%本気でやり切ってしまうのが素敵だよね。 

    森村泰昌さんのアートを思い出すけれど、趣向は全く異なっている。
    同じようなことをしていても、全くぶつからないのは、南伸坊にムリがないからだろう。
    ムリもなにも、完全に遊んでいるからね。

    Thursday, September 20, 2012

    マチを考える2冊。『都市と消費とディズニーの夢』、そして『町の忘れもの』

    都市と消費とディズニーの夢  ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)



  • 作者: 速水 健朗
  • 出版社: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/8/10

  • 町の忘れもの (ちくま新書)



  • 作者: なぎら 健壱
  • 出版社: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/9/5



  • 街と町は、違う。
    私とあたしも、違う。
    そして空地と空き地も、きっとどこか違う。

    最初の1冊が取り扱うのは、「(公ではない)私が変えていく街」だ。
    そこでは、空地は地価と収益性でシビアに評価され、市場の論理に翻弄される。

    2冊目は「あたしがぶらつき、シャッターを切った町」の物語だ。
    そこには、そもそも空き地がほとんど残っていないけれど、残された数少ない空き地の中に、あたしは郷愁を見出していく。



    さて、まずは街の話をしよう。

    ショッピングモーライゼーション。『都市と消費とディズニーの夢』の著者、速水健郎の造語だ。彼は本書の中で、ショッピングモールが生まれた歴史的背景と現代に至るまでの変遷を辿りながら、一般的には郊外都市型の商業施設として認知されているショッピングモールが、単なる消費の拠点に留まらないという事実を明らかにしている。それは現代において、都市計画そのものとも密接に結びついており、著者はそうした一連のムーブメントを「ショッピングモーライゼーション」と定義することで、都市・消費・そして住生活といったものの「今」を探ろうとしている。

    ただ、その全体像を捉えるためには、まずはショッピングモールが生まれた背景を押さえておく必要がある。キーとなるのは「モータリゼーション」、つまり自動車の普及による社会の変容だ。

    アメリカでモータリゼーションが始まったのは1920年代といわれるが、自動車の普及率が急増したのは1950年代だ。この頃、アメリカ社会には2つの意味で大きな変化が生じていた。

    1つは、都心の荒廃だ。地方から大量に流入してきた労働者、そして第二次世界大戦中になされた政策転換によって大幅に増えた移民労働者で溢れかえる都市の中心部。失業の憂き目にあった者たちは路上生活者として住みつき、移民達は都心近くにスラムを形成していった。こうした流れの中で、都心の治安は急速に悪化し、従来そこにあったコミュニティとしての機能が失われていった。

    そしてもう1つが、都市のスプロール化だ。自動車の普及とフリーウェイ/ハイウェイといった道路インフラの発展によって、都市は郊外へと拡散していき、中流階級の住民たちは、都心を離れた場所に新しく生まれた市街地へと移っていった。これは同時に、都心の空洞化をもたらすと共に、中央なき無秩序な拡散は、結果として経済活動全体の非効率を増長させていくことになった。

    ショッピングモールとは、こうした2つの問題を抱えていた当時のアメリカ社会で生まれた新たな商業施設だった。1950年代という時代の産物であるショッピングモールは、その後、現代世界における都市のあり方を大きく変えていくことになるのだが、その構想における思想的背景や目的、あるいは成立と成長の軌跡を知るために、本書では主に2人の天才の足跡を辿っている。



    まずは「ショッピングモールの生みの親」とされる建築家、ビクター・グルーエンだ。
    上述したとおり、まさしく社会の変容の渦中にあった1954年、ミシガン州のサウスフィールド郊外に「ノースランド・センター」がオープンする。この施設を設計したのがグルーエンなのだが、彼は敷地の周囲を7,500台収容の巨大駐車場で取り囲むと、博物館や美術館を思わせる建造物に様々なオブジェや噴水、花壇などを配した総合的な環境づくりを行っていく。そして、施設の中核には運営元となったハドソン百貨店が据えられ、周囲の遊歩道には各種の専門店が軒を連ねていく。そして、エリア内にはBGMを流すことで、快適で楽しい環境を演出していくのだ。これはまさに、現代のショッピングモールの原型と言えるものだろう。

    グルーエンは、単なる郊外型の商業施設を志向した訳ではなかった。彼は、かつての都心で失われた公共性、人間の交流を取り戻そうとしていた。大型駐車場を配したのは、エリア内で歩車分離を実現することで、モータリゼーション以前にあった人間的なコミュニティを再現するためだった。彼にとってショッピングモールとは、「郊外の新たなダウンタウン」だったのだ。



    もう1人は、長きにわたって世界最大の入場者数を誇るテーマパーク「ディズニーパーク」を生んだ男。言わずと知れたウォルト・ディズニーだ。

    ロサンゼルス近郊のアナハイム市南西部において、彼がディズニーランドをオープンさせたのが1955年。奇しくもグルーエン設計のノースランド・センターがオープンした翌年だ。ディズニーランドは遊園地とは区別され、「テーマパーク」と呼ばれるが、ウォルトはディズニーランドというテーマパーク事業の展開において、明確なビジョンを持っていた。外部世界の建物が極力視界に入らないように配慮された設計。ストリートの道幅も奥側をわずかに狭め、アーケードショップの2階部分を小さくすることで郷愁を誘う「強化遠近法」の活用。ファンタジーランドやフロンティアランド、トゥモローランドといった「物語(ナラティブ)」の導入による「現在」の排除。こうした様々な仕掛けが徹底されて、ディズニーはひとつの大きな世界観を形成しているが、その核心にあったウォルトの問題意識は、実はビクター・グルーエンのそれと極めて近いものだった。

    それは端的に言えば、ノスタルジーだ。彼は保守主義者であり、大量生産・大量消費時代のアメリカが失ったものを取り戻そうとしていたのだ。都心の崩壊に心を痛めていたウォルトは、「テーマパーク」という形で新たな「都市」そのものを作ろうとした。最終的に実現こそしなかったものの、ウォルトは理想都市の構想を「EPCOT(Experimental Prototype Community of Tommorow)」というコードでまとめていて、それはディズニーランドの思想的バックボーンとなっていた。そして彼が、EPCOTの中核に据えるコア施設として熱心に研究していたのは、あのグルーエンによるショッピングモールだったのだ。



    その後、ショッピングモールとテーマパークは、その底流にある問題意識をブレンドさせ、相互に影響を与え合いながら共に発展していくことになる。ショッピングモールは、物語(ナラティブ)の導入によって「テーマパーク性」を帯びていった。最近の事例で言えば、東京スカイツリーのショッピングモール「ソラマチ」が浅草仲見世通りを模しているのが典型だろう。強化遠近法のようなテーマパーク的手法を用いた視覚的演出も、モールにおいて一般化してきている。一方で、テーマパークもショッピングモールとの融合が進んでいった。これは付言するまでもないことだと思う。

    この流れは日々加速して、現代では都市計画そのものにショッピングモール的な手法が導入されている。そう、これこそが「ショッピングモーライゼーション」の本質なのだ。大量消費社会の到来と市場競争の激化によって、都市の機能を官だけで担っていくことはもはや困難な時代となった。収益性を度外視した都市計画は成立し得ない。いまや官公庁の庁舎や病院にスターバックスがあり、主要駅や空港がショッピングモール化しているのが、現代という時代なのだ。


    ===
    その時、街にあった「空地」はコインパーキングとなり、収益性の波に飲まれていくだろう。
    でもあたしは、違う目でその景色を見ていた。その目が追っていたのは、今のコインパーキングではなくて、昔の「空き地」だった。あたしというのは、勿論レビュアーのことではない。『町の忘れもの』の著者、なぎら健壱だ。

    本書は、前掲書とは全く異なるタイプの1冊だ。
    なぎら健壱が、目的もなくただ自由に町を歩き、目に留まった懐かしいモノや場所をシャッターに収めていく。そう、いわゆるスナップだ。モノクロでプリントされた静かで温かい写真の数々に添えられた著者のエッセイは、何を論じるでもなく、何を主張するでもなく、ただノスタルジックで、温かい。硬めの本ばかりを読んでいると、ふとした瞬間、なぜだか急に手に取ってみたくなる。そういう類の本だと、個人的には感じている。

    私自身は、当然ながら著者と同時代を生きてきた訳ではないが、本書を読み進めていく中で改めて思った。私が生まれ育った当時の豊橋の町には、色々な古いものがまだ残っていたのだと。

    ざっとリストしてみよう。
    ドブ。蝿帳。ハエ取り紙。コンクリートの滑り台。宅配ヤクルトの箱。リヤカー。木製の雨戸と戸袋。チンチン電車。どれもがとても懐かしい。

    今でこそドブは使われていないが、子供の頃はドブだらけだった。道路でサッカーボールを蹴っていて、よくコンクリートの蓋がされていないドブに落としたものだ。蝿帳は、実家では今も使っている。学校から帰ってくると、最初に開けるのは蝿帳だった。母がそっと中に置いてくれていたおやつがいつも楽しみだった。ハエ取り紙もまだキッチンに吊り下げられていた気がする。私はあのベタベタする感じが嫌いで、できればやめてほしいと思っているけれど。宅配ヤクルトこそ取っていなかったが、牛乳は宅配をお願いしていた。牛乳瓶を入れる小さな赤い箱が懐かしい。リヤカーは実家の倉庫に眠っている。先日帰省した時に、当時2歳の娘を乗せてあげたら喜んでいた。木製の雨戸はなかなかの曲者だ。台風が来ても、戸袋から出すだけで一苦労なのだから。チンチン電車は、今日も豊橋の市街を元気に走っている。どこまで乗っても大人150円だ。

    あなたの周囲に、まだ残っているものはあるだろうか。

    何もかもが、「ショッピングモーライゼーション」の余波にあって消えかけている。
    それは仕方がないことかもしれない。いずれにせよ、都市の変貌は明日も続いていき、老朽化したものや、今では使途がなくなってしまったものたちは、時代と共に駆逐されていく他ないのかもしれない。

    ただ、本書を読んでひとつ言えることがあるとするならば、まだ町には残っている。決して多くはないかもしれないけれど、確実に。少なくとも、なぎら健壱が構えたシャッターの先には、そういったノスタルジックなもの達が存在しているのだから。



    もしかすると、私達には見えていないだけなのかもしれない。
    町の郷愁というものが。古さの中にある価値というものが。時代の残り香とでもいうものが。

    改めて、町をゆっくりふらついてみるのも悪くなさそうだ。
    降りたことのない駅で降りて、スマホの電源をオフにして、ショッピングモーライゼーションと都市の将来に思いを馳せながら、町を歩いてみたくなる。
    そう、あのグルーエンとウォルトの根底にあったものも、結局のところ、ノスタルジーだったのだから。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    商店街は、ある意味でショッピングモールの対極と捉えられているものだ。日本の多くの商店街がシャッター通りと化している一方で、地域住民の努力もあって復活を遂げようとしている商店街もある。本書は日本において商店街が形成された社会的背景から把握するための良書だろう。山本尚毅が以前HONZでレビューしている。

    商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)




  • 作者: 新 雅史
  • 出版社: 光文社
  • 発売日: 2012/5/17


  • 高松丸亀町商店街の再興に携わった都市計画家、西郷真理子氏の著作。この分野で活躍する女性は多くないというが、彼女はそのコミュニケーション能力を如何なく発揮しながら、商店街の再生を担っていく。非常に平易な言葉で綴られているが、とても興味深い1冊だ。

    まちづくりマネジメントはこう行え 2011年10月 (仕事学のすすめ)




  • 作者: 西郷 真理子、勝間 和代
  • 出版社: NHK出版
  • 発売日: 2011/9/23
  • Thursday, September 13, 2012

    今月読む本(私版)

    ちなみに、朝会に持っていった本を。

    まずは、一巡目で紹介した3冊だ。 
    藤島大さんの新刊。 既出のエッセイも多いけれど、もう一度きちんと読み返すつもりだ。
    ちょっと斜め読みしてみたけれど、相変わらず1行目は素晴らしい。

    ラグビーの情景
    • 作者: 藤島 大
    • 出版社: ベースボールマガジン社 (2012/09)
    • 発売日: 2012/09

    これは取られたくないなあ。
    必ずレビューを書こうと思っている1冊です。なるべく近いうちに。

    コカ・コーラ 叩き上げの復活経営 (ハヤカワ・ノンフィクション)
    • 作者: ネビル・イズデル、ビーズリー デイビッド、関 美和
    • 出版社: 早川書房
    • 発売日: 2012/9/7

    これが当然のように(しかも7月の朝会本と)かぶってくるのがHONZなのかと。
    ただ、レビューは上がってないと思うんだよなあ。装丁からも、面白い匂いが漂っています。

    F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐
    • 作者: 藤原岩市
    • 出版社: バジリコ
    • 発売日: 2012/6/29

    二巡目で紹介した追加の1冊。
    麻木久仁子さんの鞄にも同じものが入っていた。
    ノンフィクションというよりもエセー。こういう本は一定の頻度で読みたくなるものです。

    町の忘れもの (ちくま新書)
    • 作者: なぎら 健壱
    • 出版社: 筑摩書房
    • 発売日: 2012/9/5

    なぎら健壱さんの著作との対比が、自分の中でちょっと面白くなってきている1冊。
    読んでみないと評価はできないけれど、なんとなく頭の中でいいブレンドが起きるかも。

    都市と消費とディズニーの夢  ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)
    • 作者: 速水 健朗
    • 出版社: 角川書店(角川グループパブリッシング)
    • 発売日: 2012/8/10

    新刊というにはちょっと古いかな。そもそも単行本の初版刊行は1997年なので。
    高度成長。生まれる前の時代。そして今、個人的には「腹に落とさないといけない時代」なのかなという気が、ちょっとしている今日この頃だ。

    高度成長 (中公文庫)
    • 作者: 吉川 洋
    • 出版社: 中央公論新社
    • 発売日: 2012/4/21

    ベタかなと思って、HONZでは紹介しなかった1冊。
    映画化されて話題になっているが、素直に面白そうだなあと思った。
    帯がまた素敵なんだよね。父親が車椅子で生活している俺としては、ぐっと来るものがあった。

    A Second Wind
    • 作者: フィリップ・ポッツォ・ディ・ボルゴ、田内 志文
    • 出版社: アチーブメント出版
    • 発売日: 2012/8/30

    買うことも、読むことも、紹介すべきか否かも悩んだ1冊。
    結局、紹介はしなかったけれど、もう読み終えてしまった。ちょっと日を措いて、考えてみたい。

    生きぞこない …… エリートビジネスマンの「どん底」からの脱出記
    • 作者: 北嶋一郎
    • 出版社: ポプラ社
    • 発売日: 2012/6/5

    山本直毅さんが紹介されていた1冊。
    朝会でも話したのだけれど、プーチンを扱ったところは物凄く面白い。

    混乱の本質 叛逆するリアル 民主主義・移民・宗教・債務危機 (プロジェクト・シンジケート叢書1) (PROJECT・SYNDICATE)
    • 作者: ジョージ ソロス、ジョセフ E スティグリッツ、クリスティーヌ ラガルド、ジャン=クロード トリシェ、トニー ブレア、徳川 家広
    • 出版社: 土曜社; 初版
    • 発売日: 2012/8/25

    HONZ公開朝会


    HONZ公開朝会@下北沢。
    http://honz.jp/14605

    HONZ参加が決まってから初の朝会で、そもそも何をする場なのかも正確には分からないまま臨んだのだけれど、凄かった。率直に言って、かなり面白かった。
    ほぼ全メンバーと顔を合わせてのご挨拶ができたのも、初参加の俺にとっては嬉しかった。ちなみに、総勢17人が1つのテーブルを囲んで座っていくのだけれど、目の前に座っていたのは麻木久仁子さん。ふつうに座っていたことに、そして持ち込んだ本が1冊かぶったことに、今更ながらちょっとびっくり。大阪から参戦の仲野先生にお会いできたのも嬉しかった。HONZ加入前に読んだ仲野先生の著書はかなり面白かったのだけれど、どうやらそれ以上に本人が面白いという可能性大みたいで。

    ラグビーの縁もある。大学ラグビー部の先輩が内藤さんの会社の同期だったり、俺がコーチした選手の1人が今年入社した会社で久保さんの近くにいたりして。色々なところで、知らないところで、ラグビーが小さなきっかけを連鎖させてくれることがある。ほんと感謝です。

    さて、選書。
    メンバーの「今月読む本」だ。
    今日の感想はこれに尽きるのだけれど、ちょっと尋常じゃないレベルだった。「選書にレベルなんてあるのか」と思うかもしれないけれど、もう明確にあるんです。「狙った」選書も勿論あるのだけれど、その狙い方にも作法がある感じがするんだよね。作法というのは形式的制約のことではなくて、クオリティ・スタンダードとでもいうようなことなのだけれど。

    まあいいや。とにかく、単純に楽しかっただけではなくて、かなり驚いた。
    自分のチョイスもそこそこに、また他の本に手が伸びてしまいそうです。
    比較的オーソドックスな(笑)俺の選書は、今後どうなっていくのかなあ。

    Monday, September 10, 2012

    『「銀行マン」のいない銀行が4年連続顧客満足度1位になる理由』



    本書の表題を一目見て、ふと思わなかっただろうか。

    そういえば、最後に銀行マンと会ったのはいつのことだったろうか、と。

    そしてそれは、おそらく極めて普通の感覚だ。
    事業家でもなければ企業で財務部門に勤務している訳でもなく、個人として住宅の購入も特に考えていないとすると、日常生活において銀行マンと会うことなどまずないだろう。特別な事情がないのに銀行マンと頻繁に会う人間となると、思いつくケースは1つしかない。つまりあなた自身か、もしくはあなたの家族が銀行マンというケースだ。

    そう、多くの一般人にとって銀行マンというのは、ある意味で「そもそも、レアな存在」なのだ。

    それはつまり、銀行にとってリテールビジネスはずっと中核ではなかったということを示している。個人顧客から預金を募り、集めた資金で企業に融資する。これが銀行のメインビジネスだ。預金には金利がつくことからも明らかなように、銀行のバランスシートでは「預金=負債」だ。貸し手がない資金余りの状況であれば、個人顧客など必要ない。極論してしまえば、そういうモデルだった。今でこそ個人向けの様々な金融サービスが存在し、銀行窓口でも投信や保険が買える時代になったが、それでもなお、明確なリテール戦略を掲げている銀行はいまだ少数派というのが偽らざる現実だろう。

    そこで本書だ。ソニー銀行。「銀行マンのいない銀行」、つまりネット銀行。その中でも唯一のメーカー系銀行だ。
    そんなソニー銀行が、4年連続で顧客満足度1位になっているというのだ。

    本来はその驚きの理由を書かなければならないのだけれど、正直に白状しておこう。

    全くもって、驚くことじゃない。

    なぜならば、ソニー銀行のサイトが他行のそれを凌駕しているのは、誰が見ても明らかだからだ。本当に良く出来ている。そして、店舗を持たない彼らにとっては、サイトこそが主戦場。要するに、彼らは主戦場で勝ち名乗りをきちんと上げているのだ。

    例えば、人生通帳というサービスがある。私自身も日々愛用しているが、本当に使い勝手がいい。いわゆる「アカウント・アグリゲーション」というもので、他行口座も含めた全口座残高や保有外貨の状況、各種クレジットカードの引落し額までワンページで簡単に把握することができる。メイン口座については、カレンダー形式で資金移動(引き出しや入金)が表示される仕組みで、日々の口座の動きを直感的に掴みやすい。ソニー銀行の提供するサービスは他にもあるが、個人的な感想だけでいえば、これだけで十分に「顧客満足度1位」の価値があると思っている。

    もちろん、ネット銀行としての制約は多々存在する。公共料金の引き落としは、今でも対応していない。ローン商品も限定的だ。投信や保険を購入する際の相談窓口もなければ、貸金庫もない。そもそも店舗がないのだ。それでも、主戦場では決して負けない。徹底された顧客視点で、上手にユーザーの気持ちに寄り添ったサービスを展開している。

    なぜそれが可能だったのか。それが本書のテーマだ。

    答えをここで書いてしまっては、つまらないだろう。ただ言えるのは、結局は「ヒト」だということだ。破綻した山一證券の元社員で、創業以来社長を務めている石井茂氏の思いがコアとなって、そこにノウハウを持った人間達が集い、「フェアな銀行を作る」という理念のもとに、彼らのスキルと思いがブレンドされていく。本書を読んでいると、その時の現場はきっと充実感に満ち溢れていたのだろうと、素直に思うのだ。

    Sunday, September 09, 2012

    『ナビゲーション』

    ナビゲーション 「位置情報」が世界を変える (集英社新書)
    • 作者: 山本 昇
    • 出版社: 集英社
    • 発売日: 2012/8/17


    こちらもなかなか面白かった。

    大航海時代以降、現代に至るまでの「ナビゲーション」に関するイノベーションの変遷を平易にまとめた1冊。今では当たり前の日常を生きていくうえでの前提技術になってしまっているGPSについても、その基本的な方式と課題のさわりといったあたりが分かりやすく整理されていて、有意義な内容になっている。

    それにしても、この手のトピックを齧ってみるきっかけとしては、新書というコンテンツはかなりフィット感があるよね。最近は新書レーベルの乱立もあって、好奇心の芽というのが、すごく育てやすくなっているような気がするなあ。

    『宋文洲猛語録』

    宋文洲猛語録
    • 作者: 宋 文洲
    • 出版社: ダイヤモンド社
    • 発売日: 2012/8/31


    実はずっと悩んでいる1冊。
    この本を書く時のイメージはもう明確にあって、書き方で遊べそうな感じがしているのだけれど、まあどこまでいっても語録なので、ちょっと考えてしまうかな。ただ、悪くない語録です。 

    宋文洲さんというのは、とても面白い方だと思います。なんというのかな、エッジの効いた小気味良い言葉がたくさんあって。本書はあっという間に読めてしまうけれど、決して退屈はしないかなと。twitterや過去の著作等で宋文洲さんの言説に触れたことがない人だと、ハッとさせられる言葉も多々あるはずです。

    『人はお金だけでは動かない』 - 人間に立ち返る経済学の現在


    人はお金だけでは動かない―経済学で学ぶビジネスと人生




    • 作者: ノルベルト・ヘーリング、オラフ・シュトルベック、大竹 文雄、熊谷 淳子
    • 出版社: エヌティティ出版
    • 発売日: 2012/8/27


    「ところで―」
    男が問いかけてくる。「君は1日に、どのくらいテレビを見るのかね。」
    そして、諭すような口調で続ける。「30分未満がいい。長いことテレビを見ていると不幸になる。2時間半も見ようものなら、もはや両脚をどっぷりと不幸に埋めているようなものだ。」

    すると、別の男が横から口を挟む。
    「それでも、仮に君が左利きだったとするならば、運命は変わってくるかもしれないね。君に学位があるならば尚更だ。なにせ学位がある左利きの男は、同じ条件の右利きよりも15パーセント多く稼ぐというのだから。」

     本当にそうだろうか、という疑問が頭をもたげてくる。
    人の幸せは、必ずしもカネじゃない。たとえ俺の年収が倍になったとしても、他の皆が3倍になっていたら、きっと俺は惨めな思いをするだろう。絶対額の多寡だけで、幸せなんて本当に語れるのか。

    そんなことをぼんやりと考えていると、隣に座っていた紳士がつぶやく。
     「そういえば君はオランダで育ったんだったね。君のその高い身長もお国柄というわけか。最近のアメリカ人は横に大きいばかりで、身も心も小さいヤツばかりさ。」

     さて、ここで質問だ。決まった答えなどないのだから、自由に考えてみてほしい。
     彼らは何者で、今、どこにいるのだろうか。

    この問いに、本書は1つの回答を提示している。
    つまり、彼らは経済学者であり、そして実験室で語り合っている、ということだ。

    本書の原題は『Ökonomie 2.0(英訳はEconomics 2.0)』、つまり新たな経済学だ。ではその特徴、つまり経済学における「2.0性」とは何だろうか。この点については、アクセル・オッケンフェルが寄せた端的にしてクリアな序章「ドグマからデータへ」の一節に、見事に凝縮されている。


    この二○年、経済学はめざましい進化を遂げた。経済学者は、人間や人間がかかえる問題にだんだん歩み寄っている。(中略)ドグマではなくデータこそ現代経済学の共通項だ。こうした進歩の原動力は、ゲーム理論と、それを検証する実験経済学という、ふたつの新しい科学的方法が見いだされ、用いられるようになったことだ。

    人間というものを、経済合理性に基づいて、常に自己利益の最大化を目指して合理的に行動する「ホモ・エコノミクス」として捉えることを暗黙の前提としていた従来型の経済学から、もはや経済学は大きな変貌を遂げている。今、経済学は「人間」に立ち返ろうとしている。必ずしも合理的でもなければ公正でもなく、社交的で、いつだって隣人のことが気になって仕方がない、そんなごく当たり前の人間というものに。ただし、彼らは心理学者でもなければ、文学者でも、社会学者でもない。あくまで経済学者だ。そんな彼らにとっての「人間」、あるいは「人間性」というのは、結局のところ、膨大なデータと高度な数学的手法の先に差し込む一筋の光のようなものなのかもしれない。

    こうして「人間」をその研究の中心に据えることになった現代経済学が取り扱うテーマは、極めて多岐に渡っている。最低賃金と失業、グローバル化、金融市場、企業経営、人事評価といったお決まりのテーマは勿論のこと、文化、宗教、スポーツ、あるいは身長や容姿、男女の性差に至るまで、あらゆる物事が「経済学的に」研究されている。こうなってくると、いまや経済学が問題にしない問題を探す方が困難なのかもしれない。

    ここでようやく、冒頭の男達のことをもう一度振り返ってみよう。

    スイスの経済学者ブルーノ・フライの研究チームによると、テレビの視聴時間と幸福感には相関性があるそうだ。誰しもが、自分にとってちょうどいいと思う程度にテレビを見ているつもりかもしれないが、実際には多くの人はテレビの視聴時間をうまく管理できず、やや見すぎてしまうそうだ。彼らの研究結果は、1日の視聴時間が30分未満の人は、もっと長い時間をテレビに費やしている人たちよりも幸福度が高いことを示している。ただし、退職者や失業者といった自由な時間の持ち主達だと、テレビの視聴時間と生活満足度に相関関係はないようだ。

    『ジャーナル・オブ・ファイナンス』という著名誌に掲載された3人の研究者による論文「利き手と稼ぎ(Handedness and Earnings)」によると、左利きの人は、対等の右利きの人よりも平均して15パーセント多く稼ぐ。ただ、本書では「少なくとも(そして唯一)、男性で学位がある場合の結果だ」という紹介になっている。この胡散臭さはなかなかのものだ。

    「幸福の経済学」には様々な系譜があるようだ。リチャード・レイヤードはその信奉者として、現代の成果主義社会は人を幸せにしないと主張している。オーソドックスな学説とは異なるのかもしれないが、限界所得税率の引き上げによって、幸福を蝕む過度の競争をなくすべきだというポジションを取っている。その一方で、満足や幸福に関する人の認知などあてにならず、アンケートで幸せだと回答した人間が本当に幸せとは限らないと考えるアマルティア・センのような学者もいる。これはただ1つの正解に収斂していく類の問題ではないとは思うけれど、少なくとも、カネだけが全てではないというのは、実感としても真実なのだろう。

    1人あたりの国民所得でみれば、アメリカはヨーロッパ諸国を凌駕している。それでも、アメリカ人の生活水準がヨーロッパ人よりも本当に高いのか、という点について言えば、大いに疑問の余地がありそうだ。人体測定学者による研究が進んだ結果、20世紀初頭には世界で最も背が高かったアメリカ人は、1960年以降その成長をストップさせてしまい、女性に至っては平均身長が縮んできているということが明らかになった。現在、世界一の高身長を誇るのはオランダ人だが、わずか140年前には、彼らの平均身長はアメリカ人と比較して7cmも低かったという。今ではアメリカ人よりも6cm高いというのだから、生活水準というのもなかなか捉えがたい代物だ。

    本書では、他にも豊富な実験例が紹介されている。経済学という言葉の響きに構えずに、所詮はカネの話だという偏見に縛られずに、気軽に読んでみてほしい。人間という原点に立ち返ろうとする経済学の地平が、平易な言葉の端々からきっと垣間見えてくるはずだ。

    ただし、1日のテレビ視聴時間が30分未満で左利きのオランダ人がハッピーかどうかは、私には分からない。


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    本書にも解説を寄せている大竹文雄氏の好著。
    経済学を身近なものにしてくれるという点で、本書は外すことができない。

    競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)




    • 作者: 大竹 文雄、、大竹 文雄のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
    • 出版社: 中央公論新社 (2010/03)
    • 発売日: 2010/03


    日本のビジネスマンにとって、行動経済学というものを知るきっかけを作ってくれた1冊。『予想どおりに不合理』というのも言い得て妙なタイトルだ。読者の興味を巧みに引き寄せながら、常識的な感覚というものを裏返してみせてくれる。

    予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」




    • 作者: ダン アリエリー、、ダン アリエリーのAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら、Dan Ariely、熊谷 淳子
    • 出版社: 早川書房
    • 発売日: 2008/11/21


    一方で、正反対のタイトルでもベストセラーに名を連ねてくるのが経済学らしいところだ。「経済学は、ふたりの研究者がまったく正反対の結論に達してノーベル賞を受賞した唯一の学問である」というのも頷ける。

    人は意外に合理的 新しい経済学で日常生活を読み解く




    • 作者: ティム ハーフォード、、ティム ハーフォードのAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら、遠藤 真美
    • 出版社: 武田ランダムハウスジャパン
    • 発売日: 2008/11/20

    Saturday, September 08, 2012

    『おもかげ復元師』

    おもかげ復元師 (一般書)
    • 作者: 笹原留似子
    • 出版社: ポプラ社
    • 発売日: 2012/8/7


    本を読んで泣くことなんて、1年間でどれほどあるだろうか。
    本では泣けないという人もいるかもしれない。

    私は本書のページを繰り始めてすぐに、目蓋を湿らせてしまうことになった。
    不覚にも、滅多にない偶然が重なって座ることができた朝7時台の田園都市線で。

    でも、それでも読み進めるのを止めることができなかった。
    通勤電車はミスチョイスだったと思いながら、心が釘付けになってしまった。

    本書の著者である笹原留似子さんをご存知だろうか。
    彼女の職業は、納棺師。最近では「復元納棺師」と名乗ることもあるそうだ。亡くなった人を棺へと納める時に、その人の顔を、出来る限り生前の状態に近づけるように復元させていく。遺体の状態も様々で、痛ましく悲惨な最期を遂げられたような場合だと、親族でさえ目を当てることさえできないようなこともある。ウジ虫がわいてしまい、腐臭が漂っているような酷い状態の遺体もある。それでも笹原さんは、心を尽くして、1人ひとりの遺体を、丁寧に復元させていく。生前の姿を教えてくれる写真さえなかったとしても、顔面に刻まれた皺を1本ずつ辿りながら、深い傷跡を綿花で埋めて、ファンデーションをして、髪を丁寧に洗い流して。

    大切な人を失って、それでも生き続けなければならない遺族にとって、それが最期の面会なのだから。

    おもかげを復元させてあげることで、生前のあの人と、最後にもう一度、向き合える。
    そして遺された人達は、様々な形で閉じ込めていた思い、伝えられなかった思いを心から溢れさせ、涙を流して、故人との大切な時間を甦らせながら、「死」という辛い現実を少しずつ受け入れていく。
    死に直面するのは誰しもが辛い。でも、おもかげに救われることだってある。いや、おもかげこそが、と言った方がいいかもしれない。笹原さんは「死に向き合う」ということの意味を誰よりも深く受け止めているからこそ、「おもかげ復元師」として携わることになった全ての瞬間に、自らの心の全てを注ぎ込む。

    東日本大震災の傷跡も生々しい3月20日、彼女は陸前高田市にある遺体安置所に向かう。そこで彼女の目に飛び込んできたのは、3歳くらいの少女の遺体。小さな納体袋には「身元不明」の文字。既に死後変化が始まっていたその小さな遺体を前にして、彼女は「戻してあげたい」と心から願う。復元させてあげることはできる。技術も、そして道具もある。でも、叶わない。運命は残酷だ。身元不明の遺体に触れることは、法律で禁じられていたからだ。何もしてあげることができないまま、彼女は現場を後にせざるを得なかった。

    その後、彼女は「復元ボランティア」として、数多くの遺族達のために、数多くの遺体を復元していく。
    彼女自身よりも残された遺族の方がよく知っている、「生前のあの人の笑顔」を取り戻すために。

    大切な人の死を受け入れるのは、とても辛く悲しいことだ。
    でも、大切な人の死を受け入れていくことで、遺された人はきっと心に刻み込む。
    あの人と過ごした最高の時間を。
    決して忘れることのない素晴らしい思い出を。
    そして、今も自分が生きているということが、紛れもなく奇跡だということを。


    本書が多くの人に読まれることを願ってやまない。
    切ない物語だけれど、読み終えた時に、きっと心のどこかを綺麗に洗い流してくれるはずだから。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    こちらも読んでみてほしい。笹原さんが現場で描かれた絵日記だ。
    こうして復元された笑顔は、遺された人達が笑顔を取り戻すきっかけなのだ。

    おもかげ復元師の震災絵日記 (一般書)
    • 作者: 笹原留似子
    • 出版社: ポプラ社
    • 発売日: 2012/8/7

    Sunday, September 02, 2012

    『僕は写真の楽しさを全力で伝えたい!』

    ややHONZ的ではない本のことを。



    実は、写真はとても好きだ。昔はそうでもなかったけれど、最近は写真を見ることも、撮ることも、アルバムにすることも、とても楽しいものだと常々思っている。ただ、撮ってプリントする量は、ここのところかなり減ってしまったけれど。iphoneは良くも悪くも気軽すぎるので。 さて、青山裕企。『ソラリーマン』や『スクールガール・コンプレックス』で話題になった若手写真家だ。本書は、そんな著者が肩肘張らずに友達感覚で語った「写真へのいざない」といったところだろうか。新書だけれど、カラー写真が幾つも散りばめられていて、パラパラと眺めているだけでもそれなりに楽しめるのは、結構うれしい。

    著者自身が書いているように、写真は、撮る人が違えば決して同じものにはならない。
    それは「写真には『視点』が写るからだ」という著者の指摘は、極めてオーソドックスな写真観で、全くその通りだと思う。なので、ちょっと俗っぽい書き方になってしまうけれど、例えば「スクールガール」を撮る時に、ここだよなあと思うポイントなんかも当然違うんだよね。
    そう考えた時に、俺、ちょっとポイントが違うかも、とか思ってみたりして。
    まあ、これ以上色々書いても仕方ないかな(笑)。

    Saturday, September 01, 2012

    『OPEN』 - 悲痛で、そして甘美な英雄アガシの半生



    OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝





    • 作者: アンドレ アガシ、Andre Agassi、川口 由紀子


    • 出版社: ベースボールマガジン社 (2012/05)


    • 発売日: 2012/05




    • 想像してみてほしい。

      産まれて間もない息子が眠るベビーベッドの上からテニスボールのモビールを吊るし、息子の右手に卓球のラケットをくくりつけて「ボールを打ってごらん」と語りかけたというテニス狂の父親に育てられ、テニスをしたいかと誰からも問われることのないままに、テニスが人生そのものとなっていった少年のことを。

      わずか7歳にして、「ドラゴン」と名づけられた改造ボールマシーンが放つ剛球をひたすらに打ち返す日々を強要され、リターンをネットにかけようものなら、元ボクサーで暴力気質の父親から割れんばかりの怒声を浴びせられるという極限状態を生き抜くしかなかった悲しき天才のことを。

      その後、若干16歳にしてプロのテニスプレーヤーに転向すると、本人にとって必ずしも順風満帆と言える戦績ではなかったとしても、世界のトップランカーであり続け、そのキャリアにおいて全米・全豪・全仏・ウィンブルドンの4大大会を全て制覇。1995年のアトランタ五輪でも金メダルに輝き、男子シングルス史上初の「ゴールデンスラム」を達成したプレーヤーとなりながら、一度として心の底からテニスを好きだと言うことができず、誰にも明かすことのない本心では、常にテニスを嫌悪しなければならかった英雄のことを。

      それが、アンドレ・アガシだ。

      彼には、天賦の才能があった。そして、本人が望むと望まざるとに拘らず、その才能を開花させるための土壌があった。彼の父親は、7歳の少年アンドレに平然と言ってのけたのだ。
      「毎日2500個のボールを打てば、1週間で1万7500個、そして1年の終わりには100万個近くのボールを打つことになる。年に100万個のボールを打つ子は無敵の子となるだろう。」

      そして彼は、本当に打った。その半生において、何百万、何千万個ものボールを。

      本書『OPEN』は、そんなアガシの自叙伝だ。

      1986年にプロとしてデビューしたアガシの戦績は華々しい。ATPツアー(シングルス)通算60勝。ATPランキング1位に101週に渡り君臨。4大大会通算8勝(全豪4回、全米2回、全仏・ウィンブルドン各1回)は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルと並んで世界8位タイだ。一時は極度の不調に陥り、ランキングを141位まで落としたこともあったが、その後見事な復活を果たし、2006年9月の全米オープン3回戦敗退をもって36歳で引退するまで、同世代のプレーヤーの中で最も長い間、現役としてプレーを続けた。男子プロテニス界の英雄だった彼は、そのプレーのみならず、独創的なファッションやヘアスタイルでも話題を集め、カリスマ的な存在でもあった。27歳にして美人女優ブルック・シールズと結婚。悲しいかな2人の関係はわずか2年間で破綻を迎えるものの、後には女子プロテニス界のスーパースターであり、当時、世界中の誰もかもを(おそらくはテニスに興味がない人達さえも)魅了したシュテファニー・グラフと再婚を果たしている。

      こう書いてしまえば、本書は「英雄譚」ということになるのかもしれない。
      でも、そうではない。決して本書は英雄がその英雄性を綴ったものではないのだ。

      むしろその人生の物語は、読む側の胸を裂くほどにナイーブで痛々しく、繊細で悲しく、アガシ自身の言葉を借りれば「矛盾に満ちて」いる。そして本書の表題通りに、彼はその人生を「OPEN」に、赤裸々に綴っている。自らが抱え続けた苦しみ、葛藤、さらけ出すことなく人生を終えることもできたであろう一人間としての弱み、そうしたものを隠すことなく、ストレートに吐露している。それゆえに、本書は多くのスーパースターの自叙伝とは一線を画しており、紛れもなく傑作だと言えるだろう。

      それでも、不思議なことに、やはり本書を「ピースの片側」だけで読むことはできない。それはおそらく、アガシ自身にとっても本意ではないだろう。本書のエンディングにおいて、アガシはこう語っている。
      「僕は矛盾したことを言っているって?それはいい。では僕は矛盾したことを言おう。(中略)人生は両極の間のテニスの試合である。勝つことと負けること、愛と嫌悪、開くと閉じる。それは早い段階で、その痛々しい事実を認識する助けとなる。それから自分の中に正反対のものである両極を認識する。そしてもしそれらを受け入れることができないとしても、あるいはそれらに甘んじることができないとしても、少なくともそれらを受け入れて、前に進むことだ。してはいけないことは、それを無視することである。


      本書はアガシの悲痛な心の叫びであり、それは間違いなく読む側の胸に迫るのだけれど、一方でアガシの半生は、どこか甘美なのだ。

      アガシの周囲には、素晴らしい仲間が常にいた。例えば、専属トレーナーとしてアガシの傷ついた心身を誰よりもやさしく癒したギル・レイエス。(後にアガシは、グラフとの間に授かった息子ジェイデンに「ギル」というミドルネームをつけることになる。)あるいは、ツアー転戦中も常にアガシの心の支えであり続けた牧師、J.P.ことジョン・パレンティ。アガシをプロテニスプレーヤーとしての栄光へと導いた名コーチ、ブラッド・ギルバート。同時代に生き、同じコートの上に立つことでお互いの輝きを高めあった最高のライバル、ピート・サンプラス。そして、アガシにとって最高のパートナーであり人生の伴侶となったシュテファニー・グラフ。

      そういう魅力的な人間達に囲まれて、お互いに心を通わせあいながら、アガシはスーパースターとしての日々を生きる。その過程で多くのことを学び、愛情の意味を知る。そう、本書は愛情の物語でもあるのだ。心から嫌ったテニスの世界で、誰よりも長い21年間もの現役生活を送ることになったのはある種の皮肉かもしれないが、やはりテニスは彼の人生の中核であり、テニスこそが彼の大切な「チーム」との出会いを与えてくれた。アンドレ・アガシという1人の人間を優しく受け入れ、常に愛情をもって応じてくれたかけがえのない仲間達は、紛れもなく最高のものだった。だからこそ、本書の甘美さに偽りはないのだ。

      読んでみてほしい。そして、追体験してみてほしい。
      テニス界の英雄アンドレ・アガシの人間性に満ち溢れた、「ピースの両側」を備えた人生を。

      Thursday, August 16, 2012

      『昭和16年夏の敗戦』


      昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)


      • 作者: 猪瀬 直樹、undefined、猪瀬 直樹のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
      • 出版社: 中央公論新社 (2010/06)
      • 発売日: 2010/06


      ずっと気になっていながら、なぜだか手に取っていなかった。
      そういう本が、数え切れないほどある。
      昨日、日本橋丸善をふらついていて、ふと思い立った。ちょうど『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』を読了した直後だったのが影響したのかもしれない。そう、今こそ読まなければいけない。そう直感して、2Fの文庫本コーナーに向かった。
      そして、レジで支払いを済ませた頃にふと気づいた。
      そういえば8月15日じゃないか、って。

      それが本書。猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』だ。
      本との出会いも、人との出会いのように不思議なものがあると、つくづく思う。
      その意味でも本来は昨晩読了したかったのだけれど、残念ながら1日遅れとなってしまった。ただ、間違いなく言えることがある。
      読んでよかった。

      昭和16年夏の敗戦。つまり、1941年だ。
      玉音放送が流れた昭和20年夏、その4年前の敗戦ということになる。

      昭和15年9月30日、勅令により内閣総理大臣直轄の組織として「総力戦研究所」が開設される。翌16年4月、第一期研究生として召集されたのは、官僚27名(文官22名、武官5名)、民間8名、皇族1名の総勢36名。全員が30代半ばまでの若手、各分野で10年近い現場経験を持った一線級のエリートだった。
      7月12日。研究生に「第一回総力戦机上演習第二期演習情況及課題」が提示される。この「机上演習」こそが画期的だった。つまり、シミュレーション。具体的な事実、当時の機密資料も含む本物のデータに基づいて、与えられたシナリオから想定される展開を予測する。36名の研究生は、<模擬内閣>を組閣して各々の役職を定め、<閣議>の場で徹底的に議論を戦わせる。そして、<模擬内閣>として導いた政策判断を所員(つまり教官)にぶつける。
      重要なのは、この第一回机上演習で与えられたテーマだ。
      「英米の対青国(日本)輸出禁止という経済封鎖に直面した場合、南方(オランダの植民地であるインドネシアのボルネオ、スマトラ島など)の資源を武力で確保するという方向で切り抜けたら、どうなるか」
      石油に代表される資源を輸入に依存していた日本の南進政策、それは必然的に「日米開戦」を意味していた。つまり36名の若き研究員は、日本の運命を決することになる12月8日を前にして、日米が開戦すればどうなるのかを、ひたすらに考え、シミュレーションしていたということだ。そして、その結論は明らかだった。
      8月27日、<模擬内閣>は第三次近衛内閣の閣僚を前に、これまでの机上演習から導いた結論を報告する。そして、その報告が終わると、当時陸軍相だった東條英機は立ち上がり、彼らに語りかけた。
      「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。(中略)なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」

      その後の現実は、誰もが知るとおりだ。
      ただ、驚くべきことにその現実は、総力戦研究所で展開されたシミュレーションの結果とあまりにも酷似していた。そう、昭和16年夏の敗戦と。

      それが何を意味しているのか。
      日米開戦とは、そして東條英機とは何だったのか。
      昭和16年夏の敗戦をもって、昭和20年夏の敗戦を回避できなかった日本とは。

      そういうことが、非常に鋭く、綿密な取材に基づいた厚みを持って綴られている。
      やはり、今、読んでよかった。