最近、歴史を意識させられることが多い。竹島でも尖閣でも、結局のところ歴史的経緯から紐解いていく必要が生じている。尖閣問題では中国国内で大規模な反日暴動が発生し、多くの日本人が心を痛めたのは記憶に新しいが、日本側が「領土問題など存在しない」と主張したところで、中国や台湾にとっては歴史問題であって、最後はどうしても同じ場所、つまり「日本の近現代史」に行き着いてしまう。
でもここで、ふと思ったりもする。「日本」の歴史というけれど、それだけが歴史ではないんじゃないか。歴史というのは多くの場合、国史、それも政治・経済史を中心に語られることが多いけれど、国家を主語に歴史が語られるようになったのは国民国家が生まれてからのことで、それ以前の歴史の主役は、いつだって個人だったんじゃないか。
日本は戦争に敗れた。これは歴史の記述だけれど、戦地に赴いたのは「日本」などという概念的なものではなくて、1人ひとりの日本人、血の通った生身の人間だ。日本の国策にしても、政府、軍部といった中枢を構成するリアルな人間達が、権謀術数と錯綜する思惑の中で舵取りをしていった結果であって、ある意味では「個人史の集積」としての側面もあるのではないだろうか。
そんなことを思った理由は、本書の中にある。
本書の中心となるのは、日本の近現代史、それも戦史だ。
対中戦争が泥沼化の様相を呈していた1941年、迫りくる対米英戦争を想定していた日本は、対英戦線を有利に進めるための戦略として、インドにおける対英独立闘争の支援工作を画策していた。英国にとって最重要拠点の1つであったインドにおいて、人民の民族意識を焚きつける。そして、自主自由の独立に向けたムーブメントを支援することで、東南アジア戦線から英国を駆逐すると共に、援蒋ルートを遮断する。それは日本の存亡を左右する極めて重大なミッションであり、1941年9月、そのための特務機関が組成された。それが本書の表題となっている「F機関」だ。機関長に任命されたのは、当時若干33歳の陸軍少佐、藤原岩市。機関の頭文字となったFは、フリーダム(Freedom)、フレンドシップ(Friendship)、フジワラ(Fujiwara)から取ったそうだ。本書は、そのF機関を率いたリーダーの藤原岩市が、当時の活動の詳細を綴った手記であり、そこに収められたストーリーの全てが、まさしく日本の近現代史そのものになっている。
それでも、誤解を恐れずに言えば、本書の核心は日本の近現代史ではない。
核心となっているのは間違いなく、藤原岩市という傑出したリーダーの個人史だ。
F機関の活動は、藤原岩市だからこそ出来た。藤原岩市という個人の血流が作り上げたのだ。もちろん本書が藤原本人の手記であるという点は割り引いて読む必要があるが、それでも本書が内包している強烈なエネルギーは間違いなく本物だ。英語さえ話せず、諜報活動に関する一切の訓練も受けていない状態でアジアの地に赴いた若き少佐が、わずか10名のFメンバーを見事に統率し、やがてインドの独立へとつながっていくことになる確かな軌跡を残したのだ。そして、そのエネルギーの源泉は、藤原岩市という男の魂そのものだった。
1941年10月、バンコク。インド独立を目指す秘密結社「IIL」の書記長プリタムシン氏との接触から、F機関の工作は動き出す。藤原とプリタムシンの2人は幾度となく深夜に密会し、お互いの理念と理想、その実現に向けた構想を語り合う中で、揺るぎない信頼関係を築き上げていく。そして日本軍とIILとの協力関係のもとで、マレー戦線へと進出すると、現地に暮らす一般のインド人、そして英軍内のインド人将校に対して対英独立闘争を宣撫していった。その後、日本軍が占拠したアロルスターの地で、インド兵捕虜だったモハンシン大尉との運命の出会いが訪れる。藤原の掲げる理念に共鳴したモハンシンは、藤原と共にINA(インド国民軍)を創設すると、F機関を通じて、快進撃を続けていた日本軍と連携。捕虜として捕らえられたインド人将兵たちは、F機関とIILによる宣伝工作のもと、INAへと接収されていった。こうして拡大の一途を辿ったINAとモハンシンはその後、インド史を大きく変えていくことになる。
藤原率いるF機関が、こうして対インド工作を推進できた理由は、どこにあったのだろうか。プリタムシン、そしてモハンシンは藤原の何に共鳴したのか。
藤原が熱心に、魂を込めて語ったビジョンは、今、後世の人間が語るならば「大東亜新秩序」という理想ということになってしまうのかもしれない。ただそれは、おそらくはこの言葉から想像される以上に、もっと純化されたものだった。藤原は、アジア世界において、文字通りの意味において「敵味方を超越した」世界を志していた。そのことは、F機関長を拝命した直後、運命を共にすることになったFメンバー達に語った言葉に集約されている。
日本の戦いは住民と捕虜を真に自由にし、幸福にし、また民族の念願を達成させる正義の戦いであることを感得させ、彼らの共鳴を得るものでなくてはならぬ。(中略)諸民族の独立運動者以上にその運動に情熱と信念とをもたねばならぬ。そしてお互いはつつましやかでなくてはならぬ。(中略)われわれは武器をもって戦う代りに、高い道義をもって闘うのである。われわれに大切なものは、力ではなくて信念と至誠と情熱と仁愛とである。F機関長としての藤原の人生は、まさにこの言葉通りのものだった。
そしてその生き様は、インドの独立に命を懸ける人間たちの魂を揺さぶった。
1942年4月、藤原はサイゴン総司令部から帰任の電命を受け、F機関長としての活動は一旦幕を閉じることになる。F機関による対インド工作活動は、岩畔大佐のもと組成された岩畔機関へと引き継がれていった。藤原を心から慕っていたモハンシンは、INA本部において送別の宴を催し、藤原に感謝状を贈呈したそうだ。藤原はこう綴っている。
感謝状には、私をINAの慈母と讃え、幾万の印度人将兵、幾十万の現地印度人の生命を救い、その名誉を保護し、そして大印度の自由と独立とを支援するために、私がINAに捧げた熱情と誠心と親切を、INA全将校こぞって感謝する旨強調されていた。そして私の名と功績とは、印度独立運動史の一頁に、金文字をもって飾られるであろうと述べられてあった。
その後の日本が辿った歴史は誰もが知るとおりだ。戦線は日々悪化の一途を辿り、INAと共にインド解放に先鞭をつけるはずだったインパールでは、地獄絵のごとき無残な敗北を遂げる。1945年夏、終戦。日本軍と「大東亜新秩序」がアジアに残した傷跡は、今も消えることはない。こうした極めてセンシティブな歴史的経緯、そして思想的背景のもとで、F機関の活動そのものも、盲目的な肯定は難しく、おそらくは正しくもないのだろう。
それでも。
インド独立という偉大なる歴史の一頁を、藤原とF機関が飾っていることは間違いない。
INAが贈呈した感謝状にあったように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
猪瀬直樹氏の名作。昭和16年、つまり1941年だ。F機関がバンコクでインド対英独立支援工作をスタートさせたまさにその時、「総力戦研究所」に召集された若きエリート達は、日本が対英米開戦に踏み切った場合の展開をシミュレーションしていた。F機関が歴史の一頁であるように、本書に綴られた現実もまた、歴史の一頁だ。
東大文学部で近現代史を教える著者が、栄光学園の男子中高生に対して行った5日間の特別講義をベースにした著作。日本人が「戦争」という外交手段を選択するに至った軌跡とその背景が、非常に鋭く語られている。大袈裟に言ってしまえば、全ての日本人が読んだ方がいい1冊だと、個人的には思っている。