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Saturday, March 12, 2022

聞かれない言葉。語られない言葉。

Stories can break the dignity of people, but stories can also repair that broken dignity. 物語は時に人間の尊厳を傷つけるが、それを修復できるのもまた物語である。)

 Chimamanda Ngozi Adichie(作家)

 

翻訳家の村井理子さんが連載されているブログ『村井さんちの生活』を知ったのは、今は休刊となってしまった雑誌『考える人』の編集長だった河野通和さんのメールマガジンがきっかけでした。河野さんが発行されていたメールマガジンは驚くほどのクオリティと深い洞察に満ちていて、20173月末に新潮社を退社されてメルマガ編集長も交代となった時のショックは今でも覚えています。

 

それはともかく、このメルマガの中では「考える人Web」上の連載記事のアクセスランキングが掲載されていて、村井さんのブログはいつも上位にランクされているのですが、その中でも特に印象深く記憶に刻まれているのが「言ってくれればよかったのに」というもので、当時小学校4年生だった息子さん(双子の弟)との日常の一幕が綴られた本当に素敵なエッセイです。

 

いつの頃からか、どことなく元気がない感じの日々が増えてきた息子さん。担任の先生からも日頃の様子を聞いて、想像よりも深刻な状況なのだと思い悩んだ末に、村井さんは作業療法士の方に相談することになるのですが、その時の面談を通じて、息子さんが抱えていた悩みに気づくんです。


その日のことを、おそらく今も心のどこかで少し後悔されているであろう著者の村井さんのことを思えば、安易に「素敵なエッセイ」と表現してしまうのも若干憚られるのですが、それでもやはり、村井さんの優しさが沁みるように伝わってきて、何度読み返しても心を打つものがあります。私も今、中学1年生の娘、小学3年生の息子と共に暮らしているので、同じような感覚がいつも心の片隅にあったりするんですよね。きちんと聞けなかったことへの悔いとでもいうようなものが。

 

聞くという行為は、本当に難しいのだと思います。

村井さんのエピソードが示唆するのは、レセプターが開かれていなければ、言葉は聞かれることなく通り過ぎていくのだということです。誤解のないように断っておくと、私自身は「聞けなかった自身」への悔恨を率直に綴る村井さんの姿勢に非常に惹かれますし、成長期の双子を必死に育てる親(特に母親)の苦労と苦悩は想像に難くないので、育児の過程である種のサインを掬い取れずに見落としてしまうことなど、誰にとっても日常茶飯事なのだと思っています。そして、このエピソードを読んでなお、というよりもこのブログを通じてより一層、村井さんのことを素敵な方だなと感じます。むしろ、生きるという行為は、こういう小さな(そして時には決して小さくもない)掬い落としの連続でしかないのかもしれないと思うだけで。


ただ、そういう瞬間に自覚的であるか否かというのは、大きな違いなのかもしれません。教育学者であり作家の上間陽子さんは著書『海をあげる』の中で「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」と書いていますが、この言葉が問いかけるコミュニケーションの本質は、本当に繊細で、また時に残酷なまでに真実なのだと思います。上間さんは非常に辛い境遇を生きる多くの若い女性へのインタビュー形式での社会調査を重ねられてきた方で、著書を読めば「深く聞く」ということの意味と意義に誰もが圧倒されます。その上間さんでさえ、「あの頃の自分には聞くことができなかった」と思うような幾多の過去があるのだというほどに、きちんと聞くこと、そして「聞くべきことを聞く」ということは、決して容易ではないのだと思います。


仕事でも同じですよね。法人営業として社内外の多くの方と接する毎日ですが、日々思わずにはいられません。「今日の自分は、相手のストーリーをどこまで深く聞くことが出来たのだろうか」と。

Wednesday, October 02, 2019

『国境を越えたスクラム』



今回のW杯に合わせて、ラグビー関連書籍が空前の出版ラッシュに沸いている。私は大型書店に足を運ぶと必ずスポーツ棚をチェックするのだが、ラグビーの新刊が続々と増えていくのを目にする度にいつも嬉しい気持ちになり、そして何かしら買って帰っている。本格的なノンフィクションに限らず、いわゆる入門書の類もチェックは怠らない。自分では知っているつもりのことでも、簡潔に整理されたものを読んでいるうちに、ふとした気づきが生まれることもあるものだ。

そんな訳で、とにかくラグビー本はここ最近で急増しているのだけれど、その中でも特に素晴らしいのが本書だ。HONZでも取り上げられるとは思っていなかったが、それだけの価値は十分にあると断言できる。本書を手に取る理由が目下のW杯に乗じた話題性だったとしても、読後感として残るものは間違いなく、「単なるW杯ブームの彩りの1つ」というレベルを超越したものになっているはずだ。

本書で紹介されている多くのエピソードは、長らく日本ラグビーを応援してきたファンでさえも知らないものが少なくないだろう。まさに今、W杯を戦っているジャパンにおいても外国出身選手の存在は非常に大きいが、ここに至るまでには歴史の蓄積があり、野茂や中田英寿ではないかもしれないけれど、同じように「日本という未踏の地」を切り開いてきた先人の存在がある。本書でも冒頭に登場するノフォムリラトゥは今でも語り継がれる伝説的な存在だが、彼らはただ自身の未来のためだけに戦っていた訳ではなかった。パイオニアとしてのプライドと誇りを胸に日本で戦い、そしていつしか彼らの誇りは、「日本代表としての誇り」へと昇華していった。

俺が最も感銘を受けたのはホラニ龍コリニアシの物語だ。コリーの愛称で親しまれたパワフルなNo.8。彼が日本への帰化を決断した際、高校生で初めて日本に留学してきた頃からお世話になっていたある方のもとを訪れて、帰化することを伝えると共に、「龍」の一字を受けることになる。コリーが何を思い、何を背負ってきたのか。詳しくは本書を読んでもらいたいが、電車の中では到底読めないエピソードだ。

ラグビーの大きな魅力の1つが多様性にあるのは疑う余地もない。
ただ、例えば日本ラグビーを、そして今のジャパンを支える外国出身選手たちは、おそらく「多様性のために」ラグビーをしている訳ではないはずだ。日本という地で必死にラグビーに挑んできた結果が認められ、ジャパンに選出された時、そこには多様性があったというだけで。

どこの生まれだろうと、国籍や育ってきた環境がどうであろうと、同じ時代、同じ場所でラグビーに本気になった仲間がいた。ラグビーを通じて、人として繋がった。打算などでは到底越えられない壁がきっとあり、でも仲間の信頼と自分自身へのプライドが、いつだって彼らを奮い立たせた。きっと、ライブではそんな感覚だったんじゃないかと思う。いや、俺としてはそう確信している。

何故ならば、俺がラグビーを続ける理由も同じだからだ。

Saturday, August 03, 2019

勝手に事業部通信 Vol.12(8/2/19)

「誰も興味なさそうな曲を今日も爆音で流すわ」
ー チャラン・ポ・ランタン『最高』(アルバム『ドロン・ド・ロンド』収録)

初めてチャラン・ポ・ランタンの曲を聴いたのは、ほんの2ヶ月ほど前のことです。子どもが通っている小学校のチャリティーコンサート。小さな体育館でのライブという、ある意味で特別感に包まれた感じで。
素晴らしく伸びやかな歌声の妹/ももと、アコーディオン弾きの姉/小春による姉妹ユニットで、非常に独特な世界観で幅広く活動されている、ということも2ヶ月前までは全く知りませんでした。
皆さんは、聴いたことがありますか。

ライブなので合間にMCがあるのですが、なかなか激しい幼少期だったそうで、子ども達に冗談めかして話してくれた自分たちの小学生時代の思い出が、まあワイルドなんです。特にアコーディオンを担当する姉の小春さんは、子どもの頃はとにかく「先に足が出るタイプ」で、学校の友達を毎日のように蹴り飛ばして、学校の先生たちにも悪態ばかりついていたそうです。当時、小春さんの最初の担任だったのが今の校長先生なのですが、カガセン(香川先生)の愛称で誰からも愛されているような優しい先生で、小春さんも言ってました。「カガセン、正直大変だったでしょ」って(笑)。

ただ、彼女には救いがありました。
小学校1年生の頃、親に連れられて見に行ったサーカスで初めて目にした蛇腹の楽器に魅了された小春さんは、お母さんにお願いしたそうです。「あの楽器が欲しい」って。
そして、その年のクリスマス。憧れのアコーディオンは、本当に彼女の元に届きます。
「7歳のクリスマスにサンタさんが(アコーディオンを)届けてくれて、その日から今日まで、本当に毎日弾いてます。」
トークタイムにそう語っていたのが、ものすごく印象的でした。本当に好きなことに、心の向くまま思い切り没頭する時間というのは、きっと自分を安心して解放できる大切なひとときでもあったんですね。
ちなみに、7歳のクリスマスから1日も欠かさず弾き続けた日々が奏でるアコーディオンの音色は、もう本当に素晴らしいものでした。

とはいえ、荒れまくって友達を蹴り飛ばしていた少女がアコーディオンに救われたとして、「それって美談なのか」という声も聞こえてきそうです。当時蹴られた友達にしてみれば、迷惑でしかなかったはずでしょ、と。心の葛藤を誰彼構わずぶつけた日々を受け入れてくれた学校や家庭があって、彼女は初めて生かされたのかもしれないけれど、1人の個性のために「周囲の我慢」を前提とするような考え方には、違和感を持つ人も少なくないと思います。

これに対して、興味深いアプローチをされている先生がいます。
木村泰子さん。いわゆるインクルーシブ教育を掲げる大阪市立大空小学校の初代校長先生です。
大空小学校の取り組みには非常に心を打たれるものが多々あるのですが、例えば教室の中でじっとしていられず、机をガタガタと揺らして騒ぐ子どもがいたとして、その子は何かに困っているからガタガタと机を揺らすのだと、木村さんは考えるそうです。周囲の子にとっては授業の邪魔だからと排除するのではなく、その子の「困りごと」をどうすれば取り除いてあげられるかを考える。
更には、そうして友達の困りごとに想像力を働かせるという行為こそが、周囲の子ども達を成長させるのだと、木村さんは言います。ワガママでも身勝手でもなくて、困ってるんだよと。その困りごとの背景は、時に本人も自覚していなかったり、学校以外の社会や家庭にrootがあったりして、周囲の人間には理解しづらいからこそ、想像力が大切なんだよと。

そんな学校で育った子ども達は、その子のガタガタが始まると、皆がさっと机を離して距離を取るんだそうです。それに対して、木村先生が「そんなふうにして距離を取ってその子から離れたら、かわいそうじゃないの?」と問いかけると、子ども達は即座にこう切り返してきたといいます。
「先生、全然分かってないな。アイツ、困ってんねん。困って暴れてモノ投げて、それが俺らに当たって誰かが怪我でもしたら、アイツ、余計に困るやろ。だから、離れてやらなあかんねん。」


なんか仕事と全く関係ない話になってしまいましたが、最近そんなことばかり考えています。
優しさというのは、結局何なのかなとか。好きなことに思い切りチャレンジして、自分の意思を全力で表現するのがワガママだとしたら、ワガママのない社会って面白いのかなとか。
もう2019年も8月に入って、いよいよ本格的に夏休みシーズンですが、心身はゆっくり休めながら、個人的にはこのあたりが夏休みの宿題になりそうです。会社組織であっても、やっぱり優しさがベースにあってほしいなと思いますしね。

Tuesday, December 11, 2018

勝手に事業部通信 Vol.7 (12/11/18)

何かをして何も起こらなかった時、飛ぶ可能性は上がっている。
ー 若林正恭(オードリー)『完全版 社会人大学 人見知り学部卒業見込』(角川文庫)

数年前のこと。Sales Learning(営業研修担当)部門が企画して、JMAC(日本能率協会コンサルティング)主催の異業種交流型研修にIBMとして参加していた時期があったそうです。
つい昨日、この企画に携わっていた(私にとっての)大先輩とお会いした際に伺ったエピソードは、非常に興味深く、そして考えさせられるものでした。

この研修は1社5名のチームで、5社合計25名が参加する形式だったそうです。IBMでは、Sales Learningから営業組織のリーダーにノミネーションを依頼して、クロスインダストリーのチーム構成で臨んでいました。
研修の中では複数のワークショップを行うのですが、各社のメンバー5人で行うものもあれば、各社1名ずつ分かれて、5社5名のチームを5つ作って行うアクティビティもあったりと、内容を伺っているだけでも非常に工夫に富んだプログラム構成となっているのがよく分かるのですが、最後にA社からB社へ、B社からC社へ、といった形で、各社チームが他の参加企業向けに具体的な提案を行うのだそうです。

IBMの提案はどうだったか。
この最終提案ワークショップを通じて、IBMメンバーはどのように動いていたのか。
言葉を変えれば、他企業と比較した際のIBM営業チームのカラーが、こういう活動の中で浮き彫りになっていく訳です。私は俄然、興味が湧いてきました。自分たち自身も、同じカルチャーの中で育った同じ営業の仲間ですから。

当時を振り返って、IBMチームはいつも研修の講師陣に褒められていたと、その方は教えてくれました。
「IBMの方は、関連資料の収集や検索に始まって、準備がすごく早いですね。それから、すぐに役割分担をしてパッと作業着手される手際は本当に素晴らしいですね」と。
でも一方で、IBMチームが参加5社の中でNo.1を取ることは、数年間の参加を通じて一度もなかったといいます。常に2番か3番だったと。プレゼンテーションは上手いのに。

「魂が入ってないんだよ」

常にうまくやる。綺麗に、効率的に捌く。でも、心を打たない。残念ながらそれがIBMの姿だったと。今はもう会社を退かれた尊敬すべき先輩のメッセージは、私の胸に突き刺さるものでした。
もし事業部メンバーや、関連チームの皆様の中にこの研修に参加した方がいらっしゃったとしたら、現場に直接関わっていた訳でもない私が、このように勝手に書き連ねることの非礼をお詫びしなければと思っています。でも、どこかに自覚症状があったりするんです。自分自身も含めて、日々に忙殺される中で、こういう傾向にきちんと抗えないでいる部分がどこかあるのかなと。
効率ばかりが優先されて、「知見の横展開」という耳障りの良い謳い文句の下、自ら考え抜くことが疎かになってしまった提案書の行く末を、私たちはよく知っているはずなのに。

本当に追求すべきは、クオリティ。効率よくつまらないものを大量生産するくらいなら、魂の入った1枚を徹底的に考え抜きたいです。たとえそれが、思い切り非効率な形でしか作れなかったとしても。

オードリーの若林さんは、ブレイクしたばかりの頃、プレゼントで「黒ひげ危機一発」をもらったことがあるそうです。(著書を読む限り)さほど社交的でもなかった彼は、自宅で1人、剣を刺していた。でも、黒ひげのおっさんが飛び出しても、1人なので盛り上がらない。しばらく続けていると、ゲームの趣旨が変わってきて「如何に早く黒ひげを飛ばすか」を考えながら、ひたすら剣を刺す若林さん。その瞬間、彼が気づいたのが冒頭の言葉だったそうです。漫才が受けなくて、何度もスタイルを変えて新たな挑戦を繰り返しながら、オードリーは1つ目の樽に必死で剣を刺し続けていたのだと。そうやって穴を1つずつ埋めていって、今の漫才の原型が形成された時、初めて最初のおっさんが飛んだのだと。

キャラクターも性格も、住む世界も違うけれど、同じように生きたいとは思います。
樽があるならば、剣を刺し続けないと。たとえ非効率に見えたとしても。

Thursday, September 27, 2018

勝手に事業部通信 Vol.5 (9/21/18)

「ブルース・リーになる試験はない。」
ー 山田玲司『非属の才能』(光文社新書)

先日、NHKである聾学校を取り扱ったドキュメンタリーを見る機会がありました。
聾学校という存在は当然知っていながら、これまで聾唖の方と接する機会は殆どないまま生きてきた私にとって、実際の聾学校での日常は全てのシーンが驚きの連続でした。
番組の中で描き出されていたのは、耳の不自由な子ども達にとっては「ごくありふれた日常」なのかもしれません。でも、ありふれた日常を安心して生きるためには、居場所が必要なんですよね。
子ども達を教える先生も、彼らと同じように音のない世界を生きてきた人生の先輩。きっと、子ども達にとって必要なのが「居場所」なのだということを、誰よりもよく分かってあげられる先生なのだと思います。
そんな素晴らしい先生に支えられ、「安心して、そこにいていいんだよ」と言ってもらえる場所があることで、子ども達は逞しく成長していきます。もちろん、ドキュメンタリーで映像化されるのは生活のほんの1コマで、映像の外側にある日常に想いを馳せる時に、軽々しく安易な言葉でまとめてしまってはいけないのだと思っていますが・・・。

「もし音が聞こえるようになる薬を神様がくれるとしたら、あなたは飲みたいですか」

子ども達に問いかけられた質問です。興味深いことに、半数の子は「飲みたくない」と答えたそうです。今の自分でいい。今の自分が好きだから、と。
飲みたいと答えた子の言葉も、心に響きます。「自分は音のない世界のことを知っている。だから次は、音のある世界のことも知ってみたい。」

飾り気のない素直な自己肯定。聾唖の子ども達のように、ある意味で明確なハンディキャップを抱えて生きる人にとって、安心して「所属」できることの意味と価値はどれほど大きいだろうと感じずにはいられませんでした。
でも、ふと思うんです。それって聾唖の子ども達だけでなく、誰にとっても言えることなんじゃないかなと。老若男女を問わず、学生/社会人の別を問わず、所属への安心は、自分を生きるための出発点なのかもしれません。

一方で、「非属」という考え方もあります。実はここ最近、個人的にずっと考え続けていることです。(元々属すのは苦手なタイプなので・・・。)
山田玲司さんは有名な漫画家ですが、漫画家の言葉は基本的に面白いものが多いんです。それは多くの場合、「自分たちはマイノリティである」という意識から来ているように感じます。
要するに、同調圧力への抵抗なんですよね。人と同じである必要はないと。誰も分かってくれなくても、自分が本当にやりたいことに忠実に生きればいいんだよと。
才能があるから非属が許されるのではなく、非属そのものが才能を作るのだと、山田さんは言います。より正確には、誰もが持っている自分自身の能力/個性を削り落さないための姿勢こそが非属である、ということかもしれません。

所属と非属。一見すると、相反する概念ですよね。
聾学校という場所に所属することで、小さな瞬間の中に「受け入れられる喜び」を抱きながら日常を過ごす子ども達。
学校なんて同調圧力の塊のような場所であって、その狭い世界で受け入れられるために自分を削る必要はないという漫画家。
2つの全く異なるタイプの心の叫びから、私たちは何を見出していけばいいのかなと、そんなことをこの1ヶ月近くぼんやりと考えています。まあ、考えてどうなる訳でもないんですけど。

でも、本当はこの2つは矛盾しないんだと思うんです。
会社での生活においても、いや、もっと身近に所属する事業部や営業部、更には担当チームといった単位で、まずは所属への安心感があってほしい。
その上で、こういう大きな組織/チームであっても、自分のスタイルを持って、自分らしく仕事ができて、「まあ、あれがあいつのスタンスなんだよな」みたいな小さな居場所があって。
表現を変えると、非属のままで属すことの許される場所。そういうのも悪くないんじゃないかなと、個人的には思うんです。

所属を支えるのは、きっと関心です。
「誰かは見てくれている」というのが、つまりは安心感ですから。

非属を支えるのは、きっと寛容です。
非属な人たちはマイノリティであり、寛容がなければ時に潰れてしまいます。

でも、もう一歩踏み込んでみると、寛容は関心から始まるような気がするんです。自分とは異なる価値観への興味があって初めて、人は寛容になれるのではないかなと。

隣の人の仕事に、関心を。
実はそういう小さな一歩から、何かが変わっていくのかもしれないですよね。

Tuesday, September 25, 2018

勝手に事業部通信 Vol.4 (6/30/18)

「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい
ー 森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)
 
発端は、1990年9月15日付の朝日新聞(地方版)に掲載された興味深い記事だったそうです。
< 老人の自殺、17年間ゼロ ここが違う徳島・海部町 >
この記事に注目したのが、当時慶應大学大学院修士課程で自殺予防因子の研究をしていた岡檀さん。彼女は実際に海部町を訪れてフィールドワークを行い、海部町の何が違うのか、自分自身の目で調査を始めます。その後、彼女の研究成果は『生き心地の良い町』(講談社)という名著となって世に知られることになり、これに感銘を受けた精神科医の森川すいめいさんが、改めて岡さんの足跡を辿るように海部町へと向かいます。

日本全国の自殺率を市区町村別に見ると、最も自殺率の低い上位10地区のうち、9つは「島」なのだそうです。物理的に海に囲まれた、ある意味では閉じた空間ですよね。
そして、トップ10で唯一の島ではない地域というのが、実は徳島県の海部町なんです。これだけでも、好奇心がくすぐられてたまらない。
森川さんは精神科医として「生きやすさ」ということをずっと考えていたそうです。自殺率の低さがすなわち生きやすさかどうかは分からないけれど、ひとが自殺まで追い込まれない町にはきっと、何かヒントがあるのでは。
こうして始まった学術的にもあまり類例のない自殺希少地域のフィールドワーク。岡さん、森川さんという2人がそこで見たものは、何だったのか。ちょっと興味、沸いてきませんか。

全てをこの場で紹介できないのですが、海部町には興味深い特徴が幾つもあるんです。
例えば、人口の決して多くない小さな町ゆえに、隣近所はほとんど皆が知ったもの同士。噂はすぐに町中に広がります。でも、実は皆が非常に緊密に繋がっているかというとそうではなくて、挨拶程度の間柄が大半なのだそうです。
逆に言えば、誰にでも挨拶はするんです。挨拶程度の緩いつながりが多方面に広がっていて、誰かが何かで困ったときに、どこかには助けてくれる人がいるんです。

海部町の人は、困っている人がいたら、相手がどう思うかを考える前に助けます。大切なのは、自分がどうしたいかなのだと。そして、見返りなど誰も考えていない。「助けっぱなし、助けられっぱなし」なのだそうです。
また、「できることは助ける、できないことは相談する」「困っていることが解決するまでかかわる」という2つの考え方も町中に根付いているといいます。
つまり「それ、私の仕事じゃないんで」という考え方は海部町にはないんですよね。人間関係は「密ではなく疎」なのに、困っているひとは決して放置しないんです。

第2四半期も終わって、週明けから2018年も下半期に突入ですが、ここで一度仕切り直して、組織やチームの形をもう一度考え直してみる時に、海部町には大切なヒントが詰まっているような気が(個人的には)しています。
コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、多様な考え方があるのが自然なことなので、一概に正解がある訳ではないのだと思うのですが、例えば、挨拶程度の緩やかなつながりでも、人は孤独感から救われたり、助けられるのだいうことは知っておいても良いのかなと思います。ベタな繋がりじゃなくても、まずは挨拶からでもいいのかもしれないですね。

Wednesday, August 20, 2014

『The DevOps』、水天宮前を歩きながら。

The DevOps 逆転だ!究極の継続的デリバリー
  • 作者: ジーン キム,ケビン ベア,ジョージ スパッフォード,長尾 高弘,榊原 彰
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2014-08-18

  • 朝。地下鉄に揺られて会社に向かい、水天宮前で降りるといつもの光景が待っている。
    改札を出て比較的長めの動く歩道を越えると、必ずぶつかるのが渋滞だ。そこから先、4B出口までの階段が狭すぎてボトルネックになっている。そんな訳で駅員さんは毎朝、動く歩道の終端で通勤者を誘導している。「申し訳ありませんが、左側に大きく迂回ください」って。終端付近で渋滞してしまうと、動く歩道から降りられず危ないからだ。

    でも、ダメなんだよ。毎朝、心の中でひとり呟いてしまう。
    出口では解決しないんだ。動く歩道の入口をコントロールして、流量制限しないと。階段幅は、急には広がらないのだから。

    さて、本書だ。
    書評を書くのは随分久しぶりだが、個人的になかなか興味深かったので紹介したい。
    パーツ・インターナショナル社の社運を賭けた新システム開発、「フェニックス・プロジェクト」をめぐる幾多の困難を、新任VP(Vice President)としてIT運用を担うビルが乗り越えていく物語。有名な『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著)のシステム開発版と思ってもらえば、ほぼ問題ない。ITプロジェクトにまつわる典型的な問題を、小説という形式の中でデフォルメすることで、分かりやすい形で提示した著作だ。それでもIT特有の用語が多く、業界関係者でなければ読みづらい部分はあるかもしれないが、一方で、システム開発に携わった経験がある人間にとっては、楽しく読める内容になっていると思う。ちなみに、書店で見かけて購入を決めた理由の1つは監修者だ。個人的にもお世話になっている榊原彰さんと来れば、買わない訳にはいかない。それにしても、こうした著作の監修までされているのには少々驚いた。

    この形式の先駆的著作といえば、やはりなんといっても『ザ・ゴール』なのだが、本書のストーリー自体においても、『ザ・ゴール』でエリヤフ・ゴールドラットが提示した制約条件理論が、その中核となっている。主人公のビルにとっての事実上のメンターとして、彼を成功へと導くエリックは、「4つの仕事」、「3つの道」というフレームワークを道標として、プロジェクトにおけるボトルネックを見極め、適切にコントロールすることで、スループットを最大化させるために示唆を与えていく。詳細は本書を読んでもらいたいが、極めて合理的な考え方だと思う。『ザ・ゴール』の制約条件理論が、必ずしも工場の製造工程だけに該当するものではないのは、まったくもって自然なことだ。システム開発を工場とのアナロジーで考えるのも、目新しいアプローチでは決してなく、極めてオーソドックスなものだと思っている。その意味で本書の価値は、理論的な側面からの斬新性にある訳ではない。どちらかというと、エンターテイメント性と分かりやすさだろう。

    ただ、本書を読んでいて、改めて考えてしまった。
    ゴールドラットの制約条件理論がシステム開発にも十分に適用できるように、システム開発における改善アプローチは組織運営全般にも適用できるのではないかと。
    この物語が提示する課題認識に共通するものは、日常の中にいくらでも感じ取ることができる。ボトルネックに手をつけなければ、それ以外の部分をどれほど改善してもスループットは上がらない。一方で、特定のワークセンター(あるいはキーパーソン)がボトルネックとなる理由の一端は、「自分がいなければ廻らない状況」を彼ら自身が(意図的かどうかは別として)作り出してしまっているからだ。ボトルネックのリソースは、徹底してスループットを最大化するための活動に費やされなければならない。どれも、至るところに転がっている話じゃないか。開発じゃなくても、たとえば営業活動でも同じように。

    本書の主題はシステム開発プロジェクトであり、この流れの中でキーワードとなるのがDevOpsだ。Dev(elopment)Op(eration)s、つまり「開発と運用の一体化」だ。もちろん、曲がりなりにもこの業界で仕事をしている1人として、DevOpsというコンセプトには非常に興味を持っている。「IT業界ではお馴染みのバズワードじゃないのか」といった向きもあるのもしれないが、とやかく御託を並べるのは一旦先送りにして、素直に乗っかってみたいと個人的には感じている。理由はシンプル。それが本質的にはプロダクトでもテクノロジーでもなく、「人間のふるまい」にフォーカスしたコンセプトなのかなと思うからだ。結局のところ、人間が一番面白い。いつだって、中心にあるのは人間そのものだ。

    ただ、本当に考えたいのはDevOpsというよりも、"Something like DevOps"なのかもしれない。
    組織で生きている以上、組織を考えない訳にはいかないからね。水天宮前の階段のように、解消できないボトルネックばかりではないはずだ。


    ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
  • 作者: エリヤフ・ゴールドラット,三本木 亮
  • 出版社: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2001-05-18

  • 継続的デリバリー 信頼できるソフトウェアリリースのためのビルド・テスト・デプロイメントの自動化
  • 作者: David Farley,Jez Humble,和智 右桂,高木 正弘
  • 出版社: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2012-03-14


  • Saturday, April 19, 2014

    到達する場所は、きっと違う。

    アーティストになれる人、なれない人 (magazinehouse pocket)

  • 作者: 宮島 達男
  • 出版社: マガジンハウス
  • 発売日: 2013/9/24

  • 書店をふらついていたら、偶然目に留まった1冊。
    宮島達男×大竹伸朗とあったら、やっぱり買ってしまう。ほとんど知らない現代アートの世界にあって、以前からどことなく好きなんです。この2人の作品が。

    書籍としてのクオリティは、それほどでもないかもしれない。対談集というのは、基本的にやや散らかってしまうもので、致し方ない部分もあるかなと。
    ただ、大竹伸朗の素晴らしい言葉に出会えただけで、俺としては満足している。わずか1つのフレーズにこそ価値があるような書籍があっても、いいじゃないか。
     俺、そんな場所を目指してます。 

    人から何か言われてやめてしまうとしたら、そこまでだということです。(中略)ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。(中略)だけど、大事なことは、その『持って生まれたもの』がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。『持って生まれたもの』がなかったとしても、もしそれを50年間弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。

    Sunday, March 16, 2014

    お勧めの本を。

    久しぶりに、本のことでも。
    2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
    まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。

    そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。

    まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。

    クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実
  • 作者: リンダ ポルマン, Linda Polman, 大平 剛
  • 出版社: 東洋経済新報社 (2012/12)
  • 発売日: 2012/12

  • 人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。

    フェアトレードのおかしな真実――僕は本当に良いビジネスを探す旅に出た
  • 作者: コナー・ウッドマン, 松本 裕
  • 出版社: 英治出版
  • 発売日: 2013/8/20

  • 本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。

    トップ・シークレット・アメリカ: 最高機密に覆われる国家
  • 作者: デイナ プリースト, ウィリアム アーキン, Dana Priest, William M. Arkin, 玉置 悟
  • 出版社: 草思社
  • 発売日: 2013/10/23

  • 9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。

    Sunday, January 05, 2014

    『コンテナ物語』

    昨年7月に勤務先で異動になってから、激減したものがある。
    それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
    そのことは、ちょっと後悔している。

    そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。

    元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。

    コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

  • 作者: マルク・レビンソン, 村井 章子
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2007/1/18

  • さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。

    本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。

    イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
    それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。

    Thursday, August 15, 2013

    子ども靴業界のプロジェクトX。『開発チームは、なぜ最強ブランド「瞬足」を生み出せたのか?』

    開発チームは、なぜ最強ブランド「瞬足」を生み出せたのか?―苦境からの大逆転! 子どもの2人に1人が履く奇跡のシューズ誕生物語

  • 作者: アキレス株式会社「瞬足」開発チーム
  • 出版社: U-CAN
  • 発売日: 2013/7/12

  • イノベーションの必要性が叫ばれて久しい昨今の産業界だが、この言葉を耳にすると、ITのように最先端のテクノロジーを駆使した業界ばかりを思い浮かべてしまうものだ。でも実際には、思いもよらないほど身近なところにも、その種は眠っているらしい。なにせ、テクノロジーの匂いもしなければ、新たな潜在ニーズが喚起されることも一見なさそうな「子ども靴」というプロダクトに、業界地図を大きく塗り替えるような見事なイノベーションがあったのだから。

    本書は、幼い子どもを持つ親御さんには言わずと知れた子ども靴の人気ブランド「瞬足」が生まれ、そして大きく育っていく軌跡を綴ったビジネス書だ。製造したのは、株式会社アキレス。社名を聞いてもピンと来ないかもしれないが、スポーツ靴ブランド「SPALDING」を展開している企業だと聞けば、身近に感じるのではないだろうか。実際にはシューズ専門メーカーという訳ではなくて、創業以来のプラスチック加工技術をコアとして、車輌内装用資材や建築資材といった産業資材を幅広く取り扱っている。シューズ事業においても、インジェクション(射出成型法)と呼ばれる世界トップレベルの技術力を武器として成長してきた企業だ。

    そのアキレスが、2003年に発売を開始した子ども靴ブランドが「瞬足」だ。これがジリ貧状態の続いていた子ども靴業界において、異例の大ヒットとなった。その凄さは、この10年間で瞬足ブランドが達成した数字をみれば一目瞭然。これまでの販売累計はなんと4,000万足、発売後10年を経た今でも年間販売数600万足を誇っている。2012年時点で、瞬足のメインターゲットである子ども(3~12歳)の数は、日本全国でおよそ1,000万人強なので、およそ2人に1人の子どもが瞬足を履いていることになる。「通学履きでは年間150万足が限界」という業界の常識を大きく越えて、今なお子供たちから絶大な支持を集めているのだ。

    「瞬足」の特徴といえば、なんといっても「左右非対称ソール」だろう。実際のソールを見ていただきたいのだが、左右どちらの靴も、履いた時の左側部分(ソール画像でみると向かって右側)にスパイクが埋め込まれているのが分かるはずだ。運動会のかけっこで子供たちが走るトラックは、ほぼ全て左回りだということに着目した開発チームが、コーナーリングの際に体重がかかるソールの左側にグリップを効かせてはどうかと発案した。運動会という年に一度の晴れ舞台で、子供たちがコーナーをスムーズに転ばず走れるように。そんな想いから生まれた常識破りの構造が、業界を大きく変革するイノベーションになった。

    ただし、「瞬足」はあくまで「通学履き」だ。特別な日だけ履くようなモノじゃない。毎日履いて、学校に通ってもらうための靴として開発されている。それなのに、左右非対称。ビジネスという観点でみれば、ここが面白いポイントだと思う。日常的にはごく普通のソールとして機能しながら、運動会の日だけは特別なグリップが助けてくれる魔法のシューズ。その柔軟な発想力には驚かされる。

    それにしても、「瞬足」の誕生秘話は味わい深い。
    少子化の波や製造工程のオフショア化に揺れる業界。苦境に立ち向かうために組織横断的に選ばれた「七人の侍」と、起死回生のアイデア。しかし、製造工程はコストとの戦い。作ってくれる工場探しに苦戦する中で、侍の想いに応えてくれた1人の中国人社長。そして、成長へ。
    こうして書いてみると、まさに子ども靴業界の「プロジェクトX」だ。中島みゆきの歌声が、そして田口トモロヲの特徴的なナレーションが今にも聴こえてきそうな感じがする。非常に読みやすい本なのに、心の中で思わず田口トモロヲ風に読んでしまい、読書のペースが上がらないことだけが難点だ。

    ビジネスパーソンにとって、本書には様々な示唆があるはずだ。売上の低迷は、マーケットのせいではないかもしれない。モノを本当の意味でコモディティに貶めてしまうのは、「所詮は差別化できる類のモノじゃない」という先入観そのものかもしれない。高度なマーケティング理論を駆使する専門部隊がいなくても、革新的なテクノロジーに積極投資できるような会社でなかったとしても、身近な世界を変えるイノベーションは可能であり、本当はそれこそが、ビジネスの醍醐味なのかもしれない。

    Saturday, August 10, 2013

    『ねこ背は治る!』(reborn)

    ねこ背は治る! ──知るだけで体が改善する「4つの意識」
    ねこ背は治る! ──知るだけで体が改善する「4つの意識」

  • 作者: 小池 義孝, , 小池 義孝のAmazon著者ページを見る, 検索結果, 著者セントラルはこちら, さわたり しげお
  • 出版社: 自由国民社
  • 発売日: 2011/10/28

  • 本は基本的に何でも読むけれど、今日は軽めのものを。
    私、今晩をもって生まれ変わります。rebornです。酷い猫背に別れを告げて。
    これまでプロフェッショナルのトレーナーに支えていただいたこともあったのに、今更このレベルかよと言われそうだけれど(苦笑)、今日からでも身体の基本的なことを意識できた方がいいからね。

    Tuesday, July 02, 2013

    『歩く人。』

    歩く人。 長生きするには理由がある
    • 作者: 土井龍雄, 佐藤真治, 大西一平
    • 出版社: 創英社/三省堂書店
    • 発売日: 2013/6/20

    本日読了。
    2011年、あの3.11の3日後に設立された一般社団法人「OVAL HEART JAPAN」の活動として始まったウォーキング・プログラムを紹介した1冊だ。ちなみに、OVAL HEART JAPAN設立をリードされたのは、私が社会人ラグビー時代に所属していたチームのヘッドコーチだった大西一平さんだ。

    3.11以降の大西さんの動きは、本当に早かった。
    OVAL HEART JAPANは、大西さんが中心となって復興支援の想いに賛同した多くのラグビー関係者(プレーヤーのみでなく、ラグビーを愛する人達すべてが含まれているのだと思う)によって立ち上がったプロジェクトで、東北被災の直後から、Facebookやメール等で拡散していった。

    そのOVAL HEART JAPANの活動の中で、仮設住宅での暮らしを余儀なくされて、運動もままならない被災者の方々のための健康促進プログラムとしてスタートしたのが、本書のタイトルにもなっている『歩く人。』だったそうだ。そう言われてみると、確かに「歩く」という行為は、人間生活において、すごく基本的かつコアな要素を担っていると思う。私自身、普段はずっとオフィスワークをしているので、座っている時間が多いのだけれど、誰だったかに「そもそも、人間がこれほど長い時間を座って過ごしているのは、歴史上、現代だけだ」というようなことを言われて、妙に納得した記憶がある。実際、オフィスワークといってもじっとしていられない私は、電話1本かけるのにも、すぐに席を立ってぶらつきながらになってしまうのだけれど、その方がなんとなく気持ちよかったりもする。なんて、ちょっと話が逸れてしまったけれど、「歩く」というのは、被災者の方々に限らず、ごく当たり前の日常を過ごしている多くの人にとっても、改めて見つめ直してみていいものなのだと思う。

    まあでも言えるのは、大西さんは完全に「走る人」です。
    ラグビーのグラウンドにおいても、グラウンドの外においても。
    それも、並外れたスピードで。

    Tuesday, June 11, 2013

    『SHARED VISION』

    SHARED VISION
    • 作者: 廣田 周作
    • 出版社: 宣伝会議
    • 発売日: 2013/6/4

    更新が遅くなってしまったけれど、昨晩おおよそ読了。

    著者の廣田さんとは特に面識もないのだけれど、ちょっとした縁があって。 広告業界は全くの門外漢なので、本来想定されている読者層ではないような気がするけれど、まあいいかな。 TwitterやFacebookといったSNSの広がりによって、企業と消費者とのコミュニケーションも変化している昨今の状況において、今後のコミュニケーション設計、あるいは運用といったものがどうあるべきなのかを、「シェアードビジョン(Shared Vision)」というキーワードから整理した1冊だ。

    コンテンツに入る前に、本書は装丁がいい。
    著者を直接知らないとはいえ、想像するに、おそらく表紙の挿画は相当似ている(笑)。
    ブックカバーを外すと眼鏡が取れるという作りも、なかなかおしゃれだ。ちなみに、ブックカバーの素材感もいいんだよね。うまく書けないけれど。

    シェアードビジョン。端的に言えば、企業の経営者、社員、そして消費者(生活者)のそれぞれが共有できる理想像といった感じだろうか。「理想像」という言葉だと実際にはちょっと硬くて、もう少しフランクに表現すれば「ワクワク感」といったようなものかもしれない。企業として消費者に伝えたい思いもあれば、消費者として企業に求める期待値もあるけれど、どちらの立場から見ても、「楽しみを共有したい」という変わらない根幹がきっとある。それをコミュニケーションの中に上手に設計してあげることで、ソーシャルな時代における戦略の1つとして活用していくための方法論が、本書では具体的に紹介されている。このあたりは、企業風土も絡み合って、これから巧拙がはっきり出てきそうなエリアかもしれない。

    ただ俺としては、ビジョンをシェアするコミュニケーション設計の前に、そもそも(特に企業における)ビジョンをビジョンとして成立させるフェーズの方に、より興味があるかな。ビジョンの輪郭を定めるというか、余計なものを削ぎ落としてクリアにしていくプロセス。組織内でも、組織間でも、あるいはB2Cの領域においても、ビジョンが共有されない理由の一端は、コミュニケーション・マネジメントではなくて、ビジョンそのものが内包している課題なのかもしれないからね。

    Tuesday, May 21, 2013

    『ランドセル俳人の五・七・五』


    本日読了。素晴らしい1冊だった。
    本書については、まずは成毛さんのレビューを。きっと、心を掴まれるはずなので。
    そして、もちろん本書そのものを。きっと、心に何かを残してくれるはずなので。
    http://honz.jp/26182

    凛くんがこれまでに小学校で受けてきたいじめには、本当に胸が痛む。教師が現実を見ない学校は、地獄だ。小さな身体につまった決して小さくない魂が受けた傷を思うと、言葉が出てこない。わずか11歳で消せない想いを幾つも背負わなければならなかったのだから。

    それでも、凛くんに俳句があって、その感性を閉じ込めずにいてくれる人がいて、本当に良かった。実際は、そう簡単に言ってしまえるようなものではないのだろうけれど。

    ちなみに俺は、本書を読んでいて、ハンナのことを思った。

    まだ4歳。遠くない将来、彼女も小学校に入学する。そこがどんな世界か、どんな友達がいて、どういう関係が生まれていくのか、今は誰にも分からない。でも、いつだって最後は、彼女を肯定してあげたいと思う。彼女の表情も、言葉も、まっすぐに受け止めてあげたいと思う。親にできることなんて、突き詰めればきっと、ただそれだけなのかもしれないんだ。

    Monday, April 22, 2013

    村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を、村上春樹風に綴ってみる。

    色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
    • 作者:村上 春樹
    • 出版社:文藝春秋
    • 発売日: 2013-04-12

    その読後感は、どこか不思議なものだった。
    静かに流れていく物語。その流れは、無数の点によって織り成されていて、そしてそれぞれの点にはそれぞれの意味が与えられている。いや、正確には「意味を内包している」といった方がいいのかもしれない。意味とは、形而上的な何かによって付与される訳ではない。ただそこには「現実」という名の幾多の点が存在し、それらが「そこにある」という事実そのものが、つまりは意味そのものなのだ。概念的な存在としての数直線を構成する無数の点が、その位置そのものを意味として内包しているように。

    流れの中心に、多崎つくるという風変わりな名前の男がいた。彼は、色彩を持つものたちに囲まれ、色彩を持つものたちに裏切られ、そういう流れの中で自らの色彩を失っていった。いや、これも正確ではないかもしれない。おそらく正確には、見失ったのだ。失った訳でも、あるいはそもそも色彩を持っていなかったという訳でもなく。

    静かな流れは、必ずしも穏やかな流れを意味しない。そして、一見穏やかな流れがあったとして、そこにある種の暴力性や、あるいは攻撃性がないとは言い切れない。多崎つくるの人生には、少なくとも物語として紡ぎ出された彼の16年間には、ある種のドラマがあり、精神の葛藤としか形容できないものが存在した。どこか神秘的な出会いがあり、象徴的な挿話がそこに小さな輝きを添えていた。何もなく、ただ静かに流れる河ではなかったといった方が、おそらくはしっくりくるのかもしれない。それでも、どこか静かなる趣をもって、彼の人生は紡ぎ出されている。少なくとも私にとって、全体を支配するトーンは「静」だ。そして重要なのは、それが実際に静かであるか否かではない。そんなことは、どちらでもいい。この場に書き留めておきたいのは、私がこの物語に「静」を感じたということであり、私にとって、そう感じさせる何かがあったということだ。

    数直線の話に戻ろう。
    数直線には、始点も終点もない。コクヨのA4ノートの上に引かれた1本の具体的な線ではなく、概念的な存在としての数直線にとって。そしてそれは、多崎つくるという男の物語とどこか似ていなくもない。そこにもないのだ。始点、そして終点が。ただ線だけがある。ハッピーエンドでもなく、哀しい結末でもない。当然だ。結末そのものがないのだから。この先も伸びていくはずの線だけが、静かに横たわっていて。

    描かれているのは、線だ。
    点は、線の構成要素にすぎない。
    そして点は、線を終わらせることもない。
    点とは「ある位置」であり、「ある位置」でしかない。面積を持たない概念的な存在なのだから。

    Monday, February 25, 2013

    『良いことに上限はないんだ』

    良いことに上限はないんだ
    • 作者:丸山 克俊,東京理科大学出版センター
    • 出版社:ダイヤモンド社
    • 発売日: 2012-12-14

    東京理科大ソフトボール部の丸山総監督による著作。

    体育推薦もなく、学業との両立が非常に厳しい理科系大学ながら、全国大会にも再三登場するような強豪チームへと成長した東京理科大。その秘訣として本書で語られているのは、ものすごく基本的なことだった。例えば、無遅刻、無欠席。あるいは、全力疾走。礼儀やマナー。そして仲間と自分に対する責任。基本というのは「人としての基本」であって、それこそが最も重要なのだというスタンスが貫かれている。(ちなみにラグビーでも、昨今の帝京大がまさに同じアプローチでチーム作りをしていて、見事なまでの結果を残している。)

    本書には、技術を極めるためのグラウンドレベルの工夫であったり、ソフトボールという競技に対する戦略的なアプローチであったり、そういった類の記述は殆どない。でも、きっと現場には様々あるはずなんだ。スポーツの世界でチャンピオンシップを目指す上で、「人としての基本」は絶対的な必要条件だというのはおそらく間違いないけれど、ただ十分条件ではないと思う。技術がないと、やはり勝てない。その意味では、東京理科大という「限られたリソースでの戦い」が宿命づけられたチームにおける技術へのこだわりなども、本当は興味をそそられるところだ。

    ただ、「必要条件」に対するこだわりは、もう半端なレベルではない。言葉はあっても実行が伴っていない組織、ちょっとした逸脱を見過ごしてしまう甘さを残した組織が多々ある中で、丸山総監督は一切妥協しない。本当に、言葉通りの意味で「一切」妥協しないのだ。特に大学スポーツだと、これが完遂できるだけでチームは大化けするのだなあと、素直に思える1冊だ。

    チームマネジメントの観点で興味深かったのは、練習の運営方式。全体練習は週2回。それ以外は、授業がない空きのコマを利用して、3人程度のメンバーで、少人数の個別練習を計画的に組んでいるそうだ。それ以外にも、完全な個人練習もあるので、練習自体が3つのパターンに分けて捉えられていることになる。更に、これらを「権利練習A/B/C」と呼んでいるそうだ。練習は義務ではなくて、権利。まさにその通りだと、心から納得してしまった。ちなみに、こうした独創的な取り組みも、学部別キャンパスや実験・レポートの負荷といった(ソフトボール部からすれば)「リソースの制約」があって、必要に迫られて生まれたものだというのも面白い。そして、この点にこそ、多くの人にとって、貴重なヒントが隠されているのかもしれない。ごく一部のトップレベルを除けば、日本国内に存在するほぼ全てのスポーツチームはリソースに制約を抱えながら活動しているのだから。

    Sunday, February 17, 2013

    『最後のロッカールーム』 に込められた明日への思い。

    最後のロッカールーム (日テレBOOKS)
    • 作者:
    • 出版社:日本テレビ放送網
    • 発売日: 2012-12-21

    ロッカールームには、本当にあらゆるものがある。
    夢。希望。挫折。苦悩。汗。涙。友情。信頼。時に怒号。そして感謝。
    青春を彩るものたちは、いつだってそこに。

    本書は、全国高校サッカー選手権で惜しくも敗れ去っていったチームの監督が、試合終了後のロッカールームで選手たちに語りかけたメッセージを集めたものだ。1971年(第41回大会)から中継を行っている日本テレビの企画がきっかけで、通常は関係者以外が立ち入ることを許されないロッカールームにカメラが入り、監督と選手たちとの心の交流が映像に収められた。それらは番組となって放送されると共に、DVDとしても発売されているが、本書は「監督の言葉」にフォーカスして、過去の取材映像の中から珠玉のメッセージを集めて編修されている。

    サッカーに限らず、高校スポーツというのは特別な世界だ。青春の真っ只中にある高校生が、3年間という大切な時間のほぼ全てを捧げて生きる世界。その中でも、全国大会まで勝ち上がってくるチームの選手たちともなれば、本当に全てをサッカーに賭けて生きている。そんな彼らが、ようやく辿り着いた全国大会の舞台。この場所で、俺たちの最高の輝きを。最高のシュート、最高のパス、そして最高のランを。最高のチームワークをみせて、そして最後はチーム全員が一丸となった最高の勝利を。誰もがきっと、同じ思いを抱いているだろう。でも、勝負の世界は残酷だ。大会を通じて、最後まで負けることなく戦い抜くことを許されるのは、日本中でわずか1校しかない。その他の全てのチームは、「敗北」という形でそのシーズンを終えることになるのだから。

    ただ、それゆえに高校サッカーは見る者の心を揺さぶるのかもしれない。暁星高校の林義規監督も、インタビューで以下のように語っている。
    「高校サッカーは、プロを育てるJリーグアカデミーや、海外のクラブチームを中心としたサッカーとは全くの別モノ。卒業後にプロになるのはほんの一握りで、ほとんどの選手は3年でサッカー人生を終えることになる。だからこそ、そこにはサッカーの専門集団にはない「熱い思い」が生まれるんだよ。(中略)『選手権大会は、負けた選手と負けた監督で成り立っている』という名言があるけど、まさにその通りだと思う。優勝校以外のチームはすべて負けちまうんだ。でも、彼らの思いは、勝ったチームに引き継がれていく。『俺たちの分までがんばってくれ』ってね。」
      試合終了のホイッスルが鳴り響く。勝者と敗者が確定する瞬間。そこから先、スコアボードはもう動かない。勝利に歓喜するチームの隣には、敗者の姿が常にある。青春の全てを賭けてきた純粋な本気の戦いに、終焉を突きつけられた高校生フットボーラーたちの姿が。もうそれ以上、夢を追うことを許されないという冷徹な現実。泣き叫ぶ選手もいれば、呆然自失の選手もいる。そうやって悲しみに暮れながらメンバーが引き上げてきたロッカールームで、監督は何を語るのだろうか。

    本書に集められたメッセージは、本当に様々だ。監督の人柄や選手たちの個性。過去の先輩たちが営々と築いてきたチームカラー。ラストゲームを迎えるまでに過ごした日々と、その過程でおそらく確立されたであろう選手たちと監督との信頼関係。そういった様々な要素が凝縮されて、最後の言葉が紡ぎ出される。それは計算されたものではなくて、きっとその瞬間、自然と絞り出されるようにして生まれた言葉たちだ。

    中でも、私が最も心を打たれたメッセージを引用したい。第85回大会の準決勝。岩手県立盛岡商業高校に惜しくも0-1で敗れた千葉県立八千代高校の砂金伸監督の言葉だ。
    「あと2日間、このチームを解散させずにやりたかったけど、全国大会っていいよなあ。国立競技場、気持ちよかったろう。お前ら日頃から一生懸命やったからこれがあるんじゃねぇか、なあ。プロセスが大事なんだから。適当なことやってるやつにこういう思いはできないんだよ。そうだろ。だから胸を張んなきゃいけないの。でも、今日はね、いいサッカーしてたよ、このピッチの状態で、あの雨の状態で、みんなのいいとこ満載だったよ。でもサッカーだから点取らねぇと勝てねぇんだよな。いい経験したじゃねぇかよ。だからこの経験をした人は、いい大人にならなきゃダメ。たくさんの子供たちに夢を与えられるような大人になれ‥‥‥なってください‥‥‥なってほしいです」
    細やかなパスワークを武器に勝ち上がってきた八千代高校にとって、ようやく辿り着いた国立での準決勝は過酷なものとなった。降りしきる大粒の雨で、グラウンドコンディションは最悪の状態。水たまりでボールが止まってしまい、得意のパスワークが機能しない。なかなか得点できず苦しい展開が続く中、ゴールキーパーの植田峻佑がファインセーブを連発。チームのピンチを何度も救い、0-0のままで後半ロスタイムへと突入する。しかし、運命は残酷だった。盛岡商業の右コーナーキック。植田は雨でボールが滑ることを考えて、パンチングで弾き返そうとしたのだが、そのボールは無常にも真下に落ちて、自身の左膝に当たってそのまま痛恨のオウンゴールとなってしまうのだ。

    部外者の私には想像する他ないのだけれど、砂金監督はきっと、誰よりも確信していたのだと思う。チーム全員が持てる力の全てを出し切ってくれたことを。誰のせいでもなく、八千代は最高のサッカーをしたのだということを。オウンゴールというあまりに辛い運命も、八千代のメンバーはいつかきっと、新たな夢へのエネルギーへと変えていってくれるはずだということを。そのメッセージのラストにおいて、まさしく絞り出すようにして、選手たちへの指示から願望、そして監督自身の願いへとつながっていく流れが、砂金監督の思いの全てを物語っているといっても過言ではないだろう。心から、素敵な言葉だと思う。選手たちを愛していたことが、言葉の端々から伝わってくる。

    本書で紹介されている約80のメッセージを読んでいて興味深いのは、全ての言葉にどこか通底する本質のようなものが感じられることだ。表現の仕方や、選手たちとの距離感は人それぞれでも、心からの愛情と信頼をもってぶつかり合ってきた選手たちに、最後のロッカールームで名監督たちが伝えようとすることは、どこかで普遍的なものへと至るのかもしれない。私なりに読み解くならば、それは「前を見よう」ということだ。高校生たちにとっては一度きりの敗戦でも、監督たちは違う。昨年も、その前も、ずっとチームを率いて全国大会の舞台を戦ってきた強豪校の監督たちは、敗北の意味を誰よりもよく知っているのだ。来年も、再来年も、監督たちは新たなメンバーを引き連れて全国制覇を目指し、そして優勝校以外の監督は、その年の選手たちの涙を受け止めていくことになるのだから。

    「今はとことん泣けばいい」という監督もいる。「一生懸命やったんだ、泣くことないじゃねえか」と語りかける監督もいる。「5分間だけ泣いたら、笑顔でロッカールームを出ようぜ」と鼓舞する監督もいる。どの言葉にも真実が詰まっていると、私は思う。「勝負の世界は結果が全てなんだぜ、勝利にこだわれよ」と日々叱咤し続けた監督が、最後のロッカールームで「結果が全てじゃないんだよ」と涙交じりの笑顔で選手たちを称える。矛盾していないと、私は思う。それこそが、スポーツだ。矛盾を内包しながら、それを越えていく。負けてもいいゲームなんて存在しない。敗北を簡単に受け入れてしまったら、チャンピオンシップ・スポーツはその意義を失ってしまう。でも、敗北しないアスリートなどいない。敗北しても前を向いて、前進し続ける人間が育っていくならば、それは素晴らしいことじゃないか。

    選手たちには、いつだって明日を見ていてほしい。 そんな監督たちの心が凝縮されたラストメッセージとして、この言葉を書き残しておきたい。
    「負けることは恥じゃない、負けることは。恥なのは、負けて立たんこと。負けて立たんこと。次もう1回、お前らの次の道、行くんぞ、ほんまに‥‥‥。もうひとつ、明日は味方だ。誠実に生きよったら、みんな味方してくれる。気分は切り替えな。もう宿舎に帰った時は笑おう。いつものとおりな‥‥‥。次、明日、明日な」
    (徳島県立鳴門高校、香留和雄監督(第85回大会))
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    レビューでも触れたように、『最後のロッカールーム』はDVD化もされている。神聖なる空間にカメラが入ることの是非について議論があるのは承知しているつもりだが、同じような世界をくぐり抜けてきた人間以外には、なかなか想像の及ばない魅力的な空間なのは確かだろう。

    挫折を愛する (角川oneテーマ21)
    • 作者:松岡 修造
    • 出版社:角川書店(角川グループパブリッシング)
    • 発売日: 2012-12-10

    熱い男の代表格といえば、やはり松岡修造だろう。彼が本書で語っていることも、突き詰めれば同じなのかもしれない。ただ、松岡修造の本当の凄さは、挫折に至るまでの本気度ではないかと、私は思っている。恐ろしいほどの熱気ゆえに、彼は本気の挫折をして、そしてそれを乗り越えていくのではないだろうか。

    オールアウト―1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組
    • 作者:時見 宗和
    • 出版社:スキージャーナル
    • 発売日: 1999-01

    ラグビーの世界で純粋に「極み」を目指した男たちの物語として、本書は外せない。現在は絶版のようだが、一刻も早い復刊が待たれるところだ。1996年度、中竹主将が率いた早稲田大学ラグビー部の軌跡。その熱い魂に、思わず胸が熱くなる。純粋なる本気とは、時に狂気でもあるのだということを、本書は教えてくれるはずだ。

    アベノミクスを考えてみる。 - 『リフレはヤバい』

    リフレはヤバい (ディスカヴァー携書)
    • 作者:小幡 績
    • 出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン
    • 発売日: 2013-01-31

    2012年12月26日。
    その日は今後の日本史において、どのように語り継がれていくことになるのだろうか。

    その日から遡ること10日前の12月16日。この日行われた第46回衆議院議員選挙において、安倍晋三総裁率いる自民党は圧勝。過半数を大きく超える議席を獲得し、民主党を与党の座から引き摺り下ろすと、その後、安倍氏が第96代内閣総理大臣に就任。政権交代が果たされる。

    そう、2012年12月26日とは安倍総理の就任日なのだ。
    そして、それはつまり「アベノミクス」が発動された日ということになる。
    いまや毎日のように新聞紙上を賑わしている、この円安誘導型の金融政策は、おそらく今後の日本経済、更に言えば日本という国家全体の命運を大きく左右することになるだろう。成功するとしても、哀しい運命になるとしても。

    本書はその「アベノミクス」の中心に据えられている考え方、いわゆる「リフレ政策」の危険性を考察し、その理論的な誤りを徹底的に批判したものだ。リフレ派と反リフレ派は、アベノミクスの登場を待つまでもなく、様々なメディアで喧しく論争を繰り広げているが、本書は反リフレ派の先鋭ということになるだろう。正直に言って、この場で経済論争をする気など全くない私としては、思わぬ記述がある一定層の琴線に触れて、炎上したりしないだろうかとやや不安でもあるのだが、それでも本書は紹介したい。なぜならば、昨年8月に新メンバーとしてHONZに参加した頃から、「絶対にこの人の新著だけは譲ってはいけない」と心に秘めていた1人が、本書の著者である小幡績氏だったからだ。実はずっと待っていたのだ、彼の新著を。(とはいえ、ここまで直截的なタイトルで来るとは思ってもいなかったけれど。)

    さて、リフレ論争だ。
    まずは「リフレ政策」とは何であるかについて、著者の言葉を引用してみよう。
    リフレとは、意図的にインフレーションを起こすことです。

    至ってシンプルだ。要するに、物価を上昇させる政策と考えればいい。ただ、著者はこのシンプルな定義の中に重要なメッセージを持たせている。まず、「円安誘導=リフレ」ではないということだ。物価の上昇とは通貨価値の下落を意味するので、結果的にインフレと円安は同義かもしれないが、本書が想定する「リフレ派」の核心はあくまで物価の上昇だ。アベノミクスに関する昨今の報道をみても円安にフォーカスしたものが多いが、リフレ派にとって、円安はインフレを実現するための手段であって、それ自体が目的ではない。ややクドイかもしれないが、本書においてこの関係性は重要なポイントだ。その上で、リフレ派の主張は「物価が上昇してデフレから脱却できれば、日本の景気は回復する」という点が暗黙の前提になっている。

    整理してみよう。本書によれば、リフレ派のポイントは以下のように要約できる。
    ①デフレが不況の原因である。
    ②円安になればインフレが起こる。つまり、デフレからの脱却は可能である。
    ③よって、円安インフレ政策によって、景気は回復する。

    本書の記述に沿ってごく単純化して捉えるならば、これがリフレ派の主張ということになる。インフレターゲットや大胆な金融緩和、日銀法改正といったリフレ派の中心的な施策は、①~③の基本認識のもとで、円安とインフレを実現するための具体的な手段ということになる。とはいえ、実際に各種メディアを賑わせているのは、多くの場合、こうした具体的トピックに関するものが大半だ。安倍総理の就任後、明らかな円安トレンドになってきていることもあり、どうしても近視眼的な報道が多くなる。その時、①~③のようなリフレ派の前提は、暗黙のうちに了解されていることが多い。しかしながら、本書のスタンスは全く異なる。その主張の本質は、こうした具体的な政策の是非とは別のところにあり、要するに著者からすれば、①~③の前提がそもそも誤っているのだ。

    それならば、著者の立場とはどのようなものか。
    私の理解では、その中心的なポイントは2つある。1つは、そもそもインフレは起こせないということ。そしてもう1つは、円安は日本経済を崩壊させる危険性がある、ということだ。

    最初のポイントについては、もう少し厳密に記述する必要がある。著者が主張しているのは、「通常の意味での物価の上昇」は起きないということだ。理由は単純で、今の日本においては、売り手が値上げをしないからだ。物価上昇の前に、景気回復があれば話は別だ。景気の回復に伴って給料が増えて、その結果として国内総需要が増加すれば、お店は商品・サービスを値上げするかもしれない。でも実際は、このご時世、一時的に企業の業績が多少改善した程度で、給料はすぐに上がらない。値上げすれば、更なる売上の低迷を招くだけだ。著者はこう言っている。
    景気をよくするためにインフレを起こすこと、それは無理なのです。
    つまり、因果関係が逆なのです。
    通常の意味でのインフレは、起きない。ただし著者は、それでも日本がインフレになる場合として、2つのパターンを挙げており、そのいずれもが円安と密接に結びついている。まずは輸入インフレだ。輸入品の値上がり、あるいは原油や資源の輸入コスト増大によって、製品価格を引き上げざるを得ないケースだ。もう1つは資産インフレだ。これには日銀による量的緩和政策が影響してくる。現在行われている量的緩和とは、要するに、中央銀行がマーケットから金融資産(主に国債)を直接購入することで、マネーサプライを増大させる政策なので、当然ながら対象となる金融資産には買い注文が入っている訳だ。当然、金融資産の価格は上がる。ただしこれは、実体経済の流れとは独立して引き起こされる一種のバブルだ。その副作用も十分に意識されなければならない、ということになるだろう。いずれにせよ、著者の主張しているのは、「リフレ派が言っているような形でのインフレは、起きない」ということだ。

    そして2つめのポイント、円安だ。
    こちらの方が、より重要な問題として位置づけられている。インフレが起きないだけならば、まだ構わない。でも円安はマズイと著者は言う。なぜならば、国債価格を暴落させる可能性があるからだ。

    既に書いたように、日銀は量的緩和政策を行い、大量の日本国債を購入している。これは当然ながら円建ての金融資産なので、円安になれば、例えばドル建ての米国債と比較した場合、日本国債の価値そのものが下落することになる。日本国債を大量に保有しているのは、主に国内の金融機関(特に銀行)だが、彼らにとっては保有資産価値が減損するリスクがあるということだ。円安ドル高という為替リスクをヘッジするためには、先物でドルを買っておけばいいという考え方もあるが、ヘッジには当然コストが発生する。将来、日本国債の価格が下がると分かっているならば、最初から米国債に投資した方が合理的だ。ただ、本質的な問題は、もう一歩先にある。ちょっと長くなってしまうが、引用しておこう。
    自分のことだけ考えれば、ヘッジすればすみますが、現実にはそうはいきません。なぜなら、みな同じことを考えているからです。
    国債はみんなが投資しています。それが、円安が進む可能性が高いことがコンセンサスになったのです。(中略)為替のヘッジをするという方法と、日本国債を売って、米国債に乗り換える方法とあることもみながわかっています。
    どちらでもいいのですが、この「どちらでもいい」というのは最も危険なのです。
    なぜなら、米国債に乗り換えるほうを多くの人が選んだ場合は、この二つは同じではなくなるからです。
    多くの人が米国債に乗り換えたならば、日本国債は値下がりします。みんなが売るから当然です。今度は、円安になる分、実質的に値下がりするのではなく、円でみても値下がりする、ふつうに値下がりするのです。
    これが、従来の議論と全く異なるポイントだ。「円安」というファクターがなければ、機関投資家にとって日本国債は、大量のマネーを安定的に吸収できて、流動性も高い魅力的な商品だ。しかし、そこに「意図された円安」というコンセンサスが加味された時に、日本国債というものの性格は大きく変わってしまう。国債が本当に値崩れを起こすようなことになれば、発行済国債を大量に抱える多くの国内銀行(特に地方銀行)はひとたまりもないだろう。著者によれば、日本の銀行セクターは全体で約200兆円もの長期国債を保有しているのだ。これが暴落すれば、幾つか潰れる銀行も出てくるはずだ。貸しはがしも避けられない。バブル崩壊の頃を凌駕するような金融危機となるだろう。

    そうなれば、政府は公的資金を注入して銀行救済に乗り出すはずだ。でも、肝心の公的資金はどのように捻出されるのか。言うまでもなく国債発行だ。だが、忘れてはいけない。このシナリオの震源となっているのは「国債暴落」なのだ。更なる国債の増発となれば、当然ながら暴落に拍車がかかってしまう。そうなれば、危機の渦中にある銀行も、暴落する国債をマーケットで売り抜くことができず、資本の劣化を食い止めることさえできない状況に陥るだろう。銀行危機は深刻化し、そして連鎖する。政府の財政危機も引き起こされて、絶望的な危機のスパイラルが訪れることになるのかもしれない。

    もちろん、このような日本崩壊のシナリオを誰も望んでいる訳ではない。それは、本書の著者も同じだ。実際、本書の冒頭において、こう綴っている。
    本書が、リフレ政策による目先の円安、株高に浮かれる人々に対する警鐘となり、そして、安倍首相が、名目金利上昇のリスクに気づき、リフレ政策を修正することを望む。
    そして、本書の予言が実現せず、小幡の言うことは当たらなかったと、私が批判を受けるというシナリオ。そちらのほうのシナリオが実現すること。それを強く願って、本書を、安倍首相とかれの愛する日本に捧げることにしたい。


    日本経済の未来は、結局のところ誰にも分からない。アベノミクスが今後どのような展開を迎えるにしても、個々人として出来るのは、自分なりに考えてみるということしかないのかもしれない。そのための材料として、本書は格好の1冊になるだろう。非常にクリアな論理と平易な説明で、リフレ政策に対する反証が展開されているからだ。「輸出産業を守るためにも円安は重要」、「マネーを増やせば円安は実現する」、「世界中の中央銀行の中で、日銀だけが特殊な対応を取っている」といった巷でよく聞く話についても、とても丁寧に反駁を行っている。本書の論理が腹に落ちるかどうかは別として、リフレ派、反リフレ派といった色眼鏡を一旦置いて、お互いの依拠するロジックを知っておくのは重要だ。その意味で、リフレ派も反リフレ派も、リフレの何たるかに興味のなかった人も、読んでみてほしい。きっと面白い気づきがあるはずだ。

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    アメリカは日本経済の復活を知っている
    • 作者:浜田 宏一
    • 出版社:講談社
    • 発売日: 2012-12-19

    やはり併記しておかない訳にはいかないだろう。アベノミクスの理論的支柱とされる浜田宏一氏の最新刊。リフレ派の考え方を知るために。

    紙の約束―マネー、債務、新世界秩序
    • 作者:フィリップ・コガン
    • 出版社:日本経済新聞出版社
    • 発売日: 2012-11-23

    マネーというものの本質を正面から扱った重厚な1冊。「紙幣とは本質的に負債である」という著者の指摘は重いものがある。紙の約束とはつまり、「いつでも破られうる約束」ということでもあるのだから。

    予習のつもりがどっぷりと。 - 『八重と会津落城』

    八重と会津落城 (PHP新書)
    • 作者:星 亮一
    • 出版社:PHP研究所
    • 発売日: 2012-12-16

    正月三が日も終わり、昨日が仕事始めだった方も多いだろう。いよいよ本格的に幕を開けた2013年だが、そのイントロを飾りそうなのが1月6日(日)スタートの大河ドラマ「八重の桜」だ。HONZを読まれている方は書店を訪れる頻度も多いと思うが、書店の棚は昨年の暮れから見事なまでの「八重ブーム」だ。日本史のコーナーは勿論のこと、新書にも「八重の桜」に関連した新刊書が数点並んでいる。そんな訳で、予習も兼ねてと思いながら手に取ったのが本書なのだが、これが想定していたものとは多少異なる面白さだった。(ただ、とても面白かったのは間違いない。)

    というのは、表題から想像するほど(山本)八重の人生が主題になっていないのだ。あくまで「会津落城」が本書のメインテーマになっている。もちろん八重は登場するのだが、あくまで若松城(鶴ヶ城)での籠城戦における獅子奮迅の活躍と、そこに至るまでの八重および山本家の境遇が多少添えられている程度だ。本書の表題からすると当然かもしれないが、戊辰戦争の後、新島襄と結婚した「新島八重」としてのエピソードは皆無であり、「八重の桜」の事前テキストとしてはやや王道から逸れている。でも、それで構わない。本書において著者が描き出そうとしたのは、あくまで幕末期における会津藩の歴史であり、そしてそれは激動の連続でとても興味深く、ドラマチックであり、そして現代を生きる私たちにとっても気づきと学びに満ちているからだ。

    文久2(1862)年、会津藩の第9代藩主である松平容保が京都守護職に就任するところから物語は始まる。当時の京都は薩長の藩士らによる尊王攘夷運動が巻き起こっていた動乱の地。幕府の威信が大きく低下していた状況で、荒れる京都の治安を守り抜き、幕府に忠義を尽くす困難な責務を負ったのが、京都守護職だ。あまりにもリスキーであり、誰もが就任を躊躇せざるをえない火中の栗のようなポジション。八重の兄であり、会津藩の砲術師範だった山本覚馬は、松平容保に対して幕府から就任の依頼があったと知り、絶句したという。しかし、藩士たちの反対を押し切って、容保は京都への赴任を決意する。ここが、会津藩の悲劇の始まりとなった。

    慶応2(1866)年には薩長同盟が結ばれ、いよいよ倒幕の動きが加速する。第2次長州征討に敗れた幕府の権力は弱体化の一途を辿り、その後、倒幕を好まず公武合体論を取っていた孝明天皇が急死すると、いよいよ幕府は窮地に立たされる。15代将軍の徳川慶喜は大政奉還によって事態の打開を図ろうとしたが、同じ頃、薩長は岩倉具視の側近だった玉松操が起草した「討幕の密勅」をもってクーデターを決行し、王政復古の大号令を発し、新政府を樹立する。その後、鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍の惨敗を経て、1年半あまりにわたる戊辰戦争の末に、明治維新へと展開していくのは、誰もが知るところだ。

    こうした幕府崩壊の流れにあって、会津藩は常に幕府側だった。実は松平容保は、慶応3(1867)年2月に京都守護職の辞任を申し出ている。藩財政の窮乏、そして肝心の幕府の衰退。このままでは会津藩が滅亡してしまうとの危機感があった。しかしながら、幕府の説得もあり辞任は叶わず、容保と会津藩士は京都に残留。その後、討幕の密勅を手に官軍を名乗った薩長の前に、会津は賊軍とされてしまうのだから、歴史の悲劇としか言いようがない。それでも会津藩は、最後まで幕府への忠義を貫き、絶望的な状況の中、自らの信じるもののために薩長連合軍との死闘を繰り広げた。八重が大車輪の活躍をみせた若松城での1ヶ月に及ぶ籠城戦では、会津の女性達が凄まじいばかりの団結力と行動力で、戦況を支えている。誰よりも巧みにスペンサー銃を操り、百発百中の命中率で敵軍を狙撃し続けたという八重も凄いが、他の女性も炊事や食糧調達、怪我人の看護、そして銃を持っての戦闘に至るまで、男共を越える強さと逞しさだったという。こうした会津藩のドラマには、やはり心を打つものがあるだろう。

    ただ、こうしたドラマの裏側こそが、本書が明らかにしている最も重要なポイントだ。こうした会津藩の悲劇の歴史には、実は幾つかのターニングポイントがあったのだが、後世の目から見ると、会津藩はその時々における重要な判断を悉く誤っているのだ。また、形勢不利の戦いを強いられた戊辰戦争でも、決定的な戦略ミスを幾つも犯している。これは奥州他藩との交渉戦略のミスもあれば、合戦における戦術的判断のミスもあるが、これらがなければ、会津藩はもっと戦えたのかもしれない。結局のところ、悲劇のドラマを演出してしまった決定的要因には、戦略の不在があったのだ。

    そして興味深いのは、そうしたミスの多くが「人事」と「旧弊」に起因しているように感じられることだ。例えば、「奥羽の咽喉」といわれた白河での戦いで、会津藩が総督に選んだのは戦闘経験が皆無の西郷頼母だった。情報収集も戦略もなく臨んだ戦いは、無残なまでの即日陥落。挙句の果てに、惨敗を喫した西郷へのお咎めは一切なかったそうだ。また、会津藩の軍備は薩長に大きく出遅れていたのだが、先見の明をもった逸材、山本覚馬は早くから西洋の新式銃を購入するように進言していた。しかし、旧弊に縛られた家老達はなかなか納得せず、ようやく外国から納入の目処がついた頃には幕府が崩壊していたため、注文した1,300挺は薩長に押さえられてしまった。こうしたミスは、もう枚挙に暇がないほどだが、ドライに評価してしまえば、藩主たる松平容保が、大胆かつ戦略的な人事で、旧弊を打開できなかったということなのかもしれない。

    本書の醍醐味は、まさにこうした敗因の分析にある。時間軸に沿って具体的なエピソードを幾つも織り交ぜながら、会津落城の背景を丹念に追っていく展開は、非常に刺激的で、読む側を全く飽きさせない。心揺さぶるドラマから学べる歴史も勿論大切だが、「歴史に学ぶ」ということの重要性は、こうした「史実の背景部分」にこそ隠れているのかなという気がする。戦略や戦術が求められるのは、現代でも同じなのだから。

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    失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇
    • 作者:野中 郁次郎
    • 出版社:ダイヤモンド社
    • 発売日: 2012-07-27

    本書を読み終えて、最初に思い出したのが名著『失敗の本質』だ。会津藩の敗戦は、太平洋戦争における日本軍の敗戦とどこか重複する。人事のミス。旧弊に縛られた意思決定。そして、長期的なビジョンを見据えた戦略の不在。やはり歴史に学ぶことの意義は大きいと、つくづく思う。

    「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択 (歴史新書y)
    • 作者:水谷 憲二
    • 出版社:洋泉社
    • 発売日: 2012-12-06

    会津藩の悲劇はなぜ起こったのか。鳥羽・伏見の戦いにおいて、会津藩と共に幕府軍の先鋒を務めた桑名藩と比較しながら読み解いていく。