Saturday, March 12, 2022

聞かれない言葉。語られない言葉。

Stories can break the dignity of people, but stories can also repair that broken dignity. 物語は時に人間の尊厳を傷つけるが、それを修復できるのもまた物語である。)

 Chimamanda Ngozi Adichie(作家)

 

翻訳家の村井理子さんが連載されているブログ『村井さんちの生活』を知ったのは、今は休刊となってしまった雑誌『考える人』の編集長だった河野通和さんのメールマガジンがきっかけでした。河野さんが発行されていたメールマガジンは驚くほどのクオリティと深い洞察に満ちていて、20173月末に新潮社を退社されてメルマガ編集長も交代となった時のショックは今でも覚えています。

 

それはともかく、このメルマガの中では「考える人Web」上の連載記事のアクセスランキングが掲載されていて、村井さんのブログはいつも上位にランクされているのですが、その中でも特に印象深く記憶に刻まれているのが「言ってくれればよかったのに」というもので、当時小学校4年生だった息子さん(双子の弟)との日常の一幕が綴られた本当に素敵なエッセイです。

 

いつの頃からか、どことなく元気がない感じの日々が増えてきた息子さん。担任の先生からも日頃の様子を聞いて、想像よりも深刻な状況なのだと思い悩んだ末に、村井さんは作業療法士の方に相談することになるのですが、その時の面談を通じて、息子さんが抱えていた悩みに気づくんです。


その日のことを、おそらく今も心のどこかで少し後悔されているであろう著者の村井さんのことを思えば、安易に「素敵なエッセイ」と表現してしまうのも若干憚られるのですが、それでもやはり、村井さんの優しさが沁みるように伝わってきて、何度読み返しても心を打つものがあります。私も今、中学1年生の娘、小学3年生の息子と共に暮らしているので、同じような感覚がいつも心の片隅にあったりするんですよね。きちんと聞けなかったことへの悔いとでもいうようなものが。

 

聞くという行為は、本当に難しいのだと思います。

村井さんのエピソードが示唆するのは、レセプターが開かれていなければ、言葉は聞かれることなく通り過ぎていくのだということです。誤解のないように断っておくと、私自身は「聞けなかった自身」への悔恨を率直に綴る村井さんの姿勢に非常に惹かれますし、成長期の双子を必死に育てる親(特に母親)の苦労と苦悩は想像に難くないので、育児の過程である種のサインを掬い取れずに見落としてしまうことなど、誰にとっても日常茶飯事なのだと思っています。そして、このエピソードを読んでなお、というよりもこのブログを通じてより一層、村井さんのことを素敵な方だなと感じます。むしろ、生きるという行為は、こういう小さな(そして時には決して小さくもない)掬い落としの連続でしかないのかもしれないと思うだけで。


ただ、そういう瞬間に自覚的であるか否かというのは、大きな違いなのかもしれません。教育学者であり作家の上間陽子さんは著書『海をあげる』の中で「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」と書いていますが、この言葉が問いかけるコミュニケーションの本質は、本当に繊細で、また時に残酷なまでに真実なのだと思います。上間さんは非常に辛い境遇を生きる多くの若い女性へのインタビュー形式での社会調査を重ねられてきた方で、著書を読めば「深く聞く」ということの意味と意義に誰もが圧倒されます。その上間さんでさえ、「あの頃の自分には聞くことができなかった」と思うような幾多の過去があるのだというほどに、きちんと聞くこと、そして「聞くべきことを聞く」ということは、決して容易ではないのだと思います。


仕事でも同じですよね。法人営業として社内外の多くの方と接する毎日ですが、日々思わずにはいられません。「今日の自分は、相手のストーリーをどこまで深く聞くことが出来たのだろうか」と。