Saturday, September 01, 2012

『OPEN』 - 悲痛で、そして甘美な英雄アガシの半生



OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝





  • 作者: アンドレ アガシ、Andre Agassi、川口 由紀子


  • 出版社: ベースボールマガジン社 (2012/05)


  • 発売日: 2012/05




  • 想像してみてほしい。

    産まれて間もない息子が眠るベビーベッドの上からテニスボールのモビールを吊るし、息子の右手に卓球のラケットをくくりつけて「ボールを打ってごらん」と語りかけたというテニス狂の父親に育てられ、テニスをしたいかと誰からも問われることのないままに、テニスが人生そのものとなっていった少年のことを。

    わずか7歳にして、「ドラゴン」と名づけられた改造ボールマシーンが放つ剛球をひたすらに打ち返す日々を強要され、リターンをネットにかけようものなら、元ボクサーで暴力気質の父親から割れんばかりの怒声を浴びせられるという極限状態を生き抜くしかなかった悲しき天才のことを。

    その後、若干16歳にしてプロのテニスプレーヤーに転向すると、本人にとって必ずしも順風満帆と言える戦績ではなかったとしても、世界のトップランカーであり続け、そのキャリアにおいて全米・全豪・全仏・ウィンブルドンの4大大会を全て制覇。1995年のアトランタ五輪でも金メダルに輝き、男子シングルス史上初の「ゴールデンスラム」を達成したプレーヤーとなりながら、一度として心の底からテニスを好きだと言うことができず、誰にも明かすことのない本心では、常にテニスを嫌悪しなければならかった英雄のことを。

    それが、アンドレ・アガシだ。

    彼には、天賦の才能があった。そして、本人が望むと望まざるとに拘らず、その才能を開花させるための土壌があった。彼の父親は、7歳の少年アンドレに平然と言ってのけたのだ。
    「毎日2500個のボールを打てば、1週間で1万7500個、そして1年の終わりには100万個近くのボールを打つことになる。年に100万個のボールを打つ子は無敵の子となるだろう。」

    そして彼は、本当に打った。その半生において、何百万、何千万個ものボールを。

    本書『OPEN』は、そんなアガシの自叙伝だ。

    1986年にプロとしてデビューしたアガシの戦績は華々しい。ATPツアー(シングルス)通算60勝。ATPランキング1位に101週に渡り君臨。4大大会通算8勝(全豪4回、全米2回、全仏・ウィンブルドン各1回)は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルと並んで世界8位タイだ。一時は極度の不調に陥り、ランキングを141位まで落としたこともあったが、その後見事な復活を果たし、2006年9月の全米オープン3回戦敗退をもって36歳で引退するまで、同世代のプレーヤーの中で最も長い間、現役としてプレーを続けた。男子プロテニス界の英雄だった彼は、そのプレーのみならず、独創的なファッションやヘアスタイルでも話題を集め、カリスマ的な存在でもあった。27歳にして美人女優ブルック・シールズと結婚。悲しいかな2人の関係はわずか2年間で破綻を迎えるものの、後には女子プロテニス界のスーパースターであり、当時、世界中の誰もかもを(おそらくはテニスに興味がない人達さえも)魅了したシュテファニー・グラフと再婚を果たしている。

    こう書いてしまえば、本書は「英雄譚」ということになるのかもしれない。
    でも、そうではない。決して本書は英雄がその英雄性を綴ったものではないのだ。

    むしろその人生の物語は、読む側の胸を裂くほどにナイーブで痛々しく、繊細で悲しく、アガシ自身の言葉を借りれば「矛盾に満ちて」いる。そして本書の表題通りに、彼はその人生を「OPEN」に、赤裸々に綴っている。自らが抱え続けた苦しみ、葛藤、さらけ出すことなく人生を終えることもできたであろう一人間としての弱み、そうしたものを隠すことなく、ストレートに吐露している。それゆえに、本書は多くのスーパースターの自叙伝とは一線を画しており、紛れもなく傑作だと言えるだろう。

    それでも、不思議なことに、やはり本書を「ピースの片側」だけで読むことはできない。それはおそらく、アガシ自身にとっても本意ではないだろう。本書のエンディングにおいて、アガシはこう語っている。
    「僕は矛盾したことを言っているって?それはいい。では僕は矛盾したことを言おう。(中略)人生は両極の間のテニスの試合である。勝つことと負けること、愛と嫌悪、開くと閉じる。それは早い段階で、その痛々しい事実を認識する助けとなる。それから自分の中に正反対のものである両極を認識する。そしてもしそれらを受け入れることができないとしても、あるいはそれらに甘んじることができないとしても、少なくともそれらを受け入れて、前に進むことだ。してはいけないことは、それを無視することである。


    本書はアガシの悲痛な心の叫びであり、それは間違いなく読む側の胸に迫るのだけれど、一方でアガシの半生は、どこか甘美なのだ。

    アガシの周囲には、素晴らしい仲間が常にいた。例えば、専属トレーナーとしてアガシの傷ついた心身を誰よりもやさしく癒したギル・レイエス。(後にアガシは、グラフとの間に授かった息子ジェイデンに「ギル」というミドルネームをつけることになる。)あるいは、ツアー転戦中も常にアガシの心の支えであり続けた牧師、J.P.ことジョン・パレンティ。アガシをプロテニスプレーヤーとしての栄光へと導いた名コーチ、ブラッド・ギルバート。同時代に生き、同じコートの上に立つことでお互いの輝きを高めあった最高のライバル、ピート・サンプラス。そして、アガシにとって最高のパートナーであり人生の伴侶となったシュテファニー・グラフ。

    そういう魅力的な人間達に囲まれて、お互いに心を通わせあいながら、アガシはスーパースターとしての日々を生きる。その過程で多くのことを学び、愛情の意味を知る。そう、本書は愛情の物語でもあるのだ。心から嫌ったテニスの世界で、誰よりも長い21年間もの現役生活を送ることになったのはある種の皮肉かもしれないが、やはりテニスは彼の人生の中核であり、テニスこそが彼の大切な「チーム」との出会いを与えてくれた。アンドレ・アガシという1人の人間を優しく受け入れ、常に愛情をもって応じてくれたかけがえのない仲間達は、紛れもなく最高のものだった。だからこそ、本書の甘美さに偽りはないのだ。

    読んでみてほしい。そして、追体験してみてほしい。
    テニス界の英雄アンドレ・アガシの人間性に満ち溢れた、「ピースの両側」を備えた人生を。