久しぶりの更新。
最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。
まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。
ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。
もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。
そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。
アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。
長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。