Sunday, June 04, 2006

途方に暮れる思想

保坂和志さんのエッセイ集『途方に暮れて、人生論』読了。

保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。

読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。

読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。