昨年10月以来となる、人生2度目のタップダンス鑑賞。
セヴィアン・グローバーというタップダンサーのソロ公演だ。
Savion Glover in CLASSICAL SAVION @東京国際フォーラム Hall C
タップダンスの世界については、恥ずかしながら全く知らない。
パートナーの薦めのもと、生まれて初めてライブ・ステージに足を運んだ前回。あの時の熊谷和徳のタップ "TAP ME CRAZY" が、タップダンスについておれの知っているほぼ全てだ。そんな訳で、恥ずかしながらセヴィアン・グローバーというタップダンサーのことも、実は何ひとつ知らなかった。
セヴィアン・グローバーは、1996年のブロードウェイ・ミュージカル「ノイズ&ファンク(Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk)」でのトニー賞受賞以降、数々の賞を獲得してタップ界の頂点に君臨しており、「タップの神」と呼ばれているそうだ。そのセヴィアン・グローバーによる今回の日本公演 "Savion Glover in CLASSICAL SAVION" は、クラシック音楽とタップダンスとのコラボレーション・ステージで、13人で編成されたオーケストラの奏でるクラシックの名曲に、彼が踏むタップのリズムを融合させていく形式で構成されている。2005年1月のNY公演においてこの新作が演じられた際に、観衆から大絶賛を浴びたそうだ。
さて、東京国際フォーラムで行われた日本公演。
2時間弱のパフォーマンスが終わると、大多数の観衆が立ち上がり、スタンディング・オベーションが起こった。アンコールはなかったけれど、最前列の観客と握手を交わすセヴィアンの姿には悲鳴のような声も降り注いでいた。
でも、隣で一緒に鑑賞していたパートナーは席を立たなかった。
そしておれ自身も、どこか満たされない感覚を残したまま2時間を終えてしまった。
ちなみに、社会人ラグビー時代の後輩とその彼女も一緒だったのだけれど、彼ら2人も同じような感想を口にしていた。その意味では、必ずしもおれの個人的な感覚だけの問題ではないような気がしている。
たった2回のタップ鑑賞だけれど、これほど違うとは思わなかった。
熊谷和徳とセヴィアン・グローバー、2人のタップの方向性は明らかに違うと感じた。
セヴィアン・グローバーは「召喚」のタップだ。
彼の中には、自分が演じるべきタップが確立している。観衆の前で彼が踏むべきステップは、彼の自我の世界の中で完成し、完結しているように感じる。洗練され、磨き上げられた技術と彼自身の感性をベースに、セヴィアンとして「セヴィアン」たることを表現する為のパフォーマンスは、すべてセヴィアン・グローバーという人間の自我の中で構成され、それが観衆に対して突きつけられるような感覚だ。
彼にとっての音楽は、自身のパフォーマンスを最大限に高める触媒のようであり、音楽に溶け合っていくというよりも、ステップを踏む上で彼の求める音楽を、彼自身が呼び出していくイメージの方が近い。無音の状態のもとにあって、セヴィアンの自我の中で演じるべきタップのリズムが決められていく。そして彼が小さくステップを踏み始めると、そのリズムはオーケストラへと波及していく。「分かるだろう、このリズムが呼び出す音の世界が」といった具合に、彼によって音が「召喚」される。
だから彼は、ステージにおいて決して自分をゼロにしない。常に「1」だ。そして、その「1」の世界は、きっとセヴィアン・グローバーという人間にしか創り上げることの出来ない「極み」の世界なのだと思う。残念ながら、今のおれにはそれを感じ取る感性はなかったけれど。
対照的に、熊谷のタップは「憑依」のタップだ。
熊谷は時に、ステージにおいて自分をゼロにする。少なくとも彼の表情は、そういう世界観を見事なまでに体現している。熊谷のタップには、セヴィアン・グローバーのように強烈に自我を突きつけてくる感覚はない。そうではなくて、何かが彼の中に降りてきて、取り憑いて、そしてその憑依した何かが彼の身体を借りてステップを創り出していくような、そういう独特の雰囲気が漂っている。
だから、熊谷のアウトプットはきっと定まらない。緻密なレッスンによる定められた公演であったとしても、少なくとも観衆の前で繰り広げられる世界には、定まらない感覚がどこかに潜んでいる。熊谷にとっての音楽はきっと、ある種のインプットだ。音楽だけではない。その場の空気、観衆の表情や気配。ちょっとした囁きや小さな雑音。そういったあらゆるものが、ゼロになった熊谷に取り憑いて、憑依することで新しい何かが創り出される。ある瞬間に存在する、オンリーワンの世界をインプットに、熊谷和徳というタップダンサー自身が触媒となって、新しいひとつの表現が構成される。
それこそが、たった1度しか観たことはないけれど、おれにとっての熊谷和徳の魅力であり、直感的には、彼以外のタップダンサーが持ち得ない、彼ゆえの世界なのだと思っている。セヴィアンのタップとは、まさしく正反対の志向だろう。
セヴィアン・グローバーの公演は、残念ながら満ち足りないものが残った。
しかし、セヴィアン・グローバーという、ひとつの方向性で頂点に君臨する人間のパフォーマンスを観たことで、自分がタップに求めていたものが明確になった。
もう一度、改めて熊谷和徳のタップを観たいです。そして、突き抜けてほしい。