寺山修司さんの『詩的自叙伝 行為としての詩学』ほぼ読了。
ちょっと飛ばし読みしちゃったけれど。
詩というものに対する造詣のまったくないおれにとって、その意味するところをイメージできない部分も少なからずあったけれど、総じて読み応えのある作品だった。
「行為としての詩」といい、「印刷された文字の世界から詩を取り戻す」という時に、おれは「グラウンドにおける詩」ということを思ってしまった。ある時代の、ある瞬間において、例えばトイレの落書きが詩になり得るとするならば、今までおれがいたグラウンドにも、詩と呼んでいい言葉があったのではないか。もう少し厳密に言えば、グラウンドにおいて発せられた言葉や、あるいは言葉にならないなにかが、その発現の瞬間においては詩的でさえあったのではないか。
学生時代のラグビーを思い返すと、そんな瞬間は、きっとあったのだと思う。学生時代だけではないのかもしれないけれど、特に学生時代のラグビーには、そんな匂いがあったような気がする。詩を読もうなんてこれっぽっちも考えない人間の集団が醸し出していた泥臭さであったり、弱さであったり、せこさであったり、ずるさであったり、あるいはそういう自分に対する悔しさであったり、強さへのあこがれであったり、必死さや愚直さであったり、そういった諸々の混ざり合った瞬間が、たとえほんのわずかであったとしても「詩」として存在したことがあったと思うんだ。
そのことが、ちょっと懐かしかった。
最後に、この作品から拾った名言を。
『想像力の欠如、それは欠如を想像しないことである。』(67頁)