「みんな笑ってるけど、普段の練習ではそこまでやってないだけやで」
周囲で見学していたメンバーから失笑が漏れた瞬間、大西さんが発した言葉の中に、東大ラグビー部が本当の意味で気づかなければいけない本質的な課題の1つが凝縮されていた。そして、俺自身も痛感させられた。このチームにヘッドコーチとして携わることの意味を、あの一言で改めて突きつけられたのだと。
俺が社会人ラグビーで挑戦していた頃のヘッドコーチだった大西一平さん。
この日は朝から駒場まで足を運んでくれて、一通りチームの練習が終わった後で、いくつかの練習をセッション形式で行っていただいたのだけれど、その1つがセッター/ランナーのコンビネーションでDFを突破する練習だった。といっても構成自体は極めてシンプルで、ボールキャリアーが2人のDFプレーヤーの間のスペースに接近する。相手がゲートを埋めてきた瞬間、接近した状況の中でペネトレーターにパスを放る。要するに、オーソドックスな接近プレーのベーシックだ。パスで抜くには接近する。その際の接近の仕方や間合いの取り方には色々なスタイルはあるにせよ、「DFラインにどこまで接近できるか」がラインブレイクの成否を分けるのは、時代を問わず変わらない。そして、接近を単純なクラッシュにせず、接近しながらも判断とプレーオプションをキープする。これが鉄則だ。
大西さんの指示の下、このシンプルなドリルを実際にやってみる。4つのDFユニットを用意して、1つずつ連続で破っていくのだけれど、パスが1つも繋がらない。キャッチミスの前に、パスがランナーに渡らないシーンが続く。その時、周囲からそれとなく漏れた失笑を、大西さんは決して見逃すことなく、メンバーのマインドを本質に引き戻した。
あの瞬間、選手たちは何を感じただろうか。その時の自分の心の動きを正確に再現して、振り返ってみることは、きっと大きな意義があるはずだ。なぜなら、多くの場合、目に見える形で具体的に表現される人間の言動の奥底には、もっと繊細な心の働きや揺れ動きがあり、そういう自分自身の心の反応に自覚的でない限り、本当の意味で自分を変えていくのは難しいからだ。
シチュエーション自体には、伏線になる要素が複数存在していたのも事実だ。
例えば、計画外の練習だった。あるいは、多少なりともコンタクトの側面が入ってくることを事前に聞かされていなかった。 こういう部分は、往々にして心の動きを左右する。思わぬ瞬間に、突かれたくない部分を見逃さない鋭い言葉が飛んできて、ハッとした瞬間、心が揺れる。「いや、聞いてなかったんですけど」みたいな、例えばそういう感じで。あの時、グラウンドでそう感じていた選手がいたかどうかは分からないが、一般論として、こういう心の反応というのは、はっきり言ってしまえばどこにでもある。でも、そういう「自分に対する小さな言い訳」に対して自覚的であろうと努める人間は、極めて少ない。人間というのは、それほど強い生き物ではないからだ。
本当の意味でラグビーというゲームに必要なスキルを獲得するために、必要なチャレンジとは何なのか。今やっている練習は、練習のための練習になっていないか。今できることをベースに考えるのではなく、すべきことをベースに構成できているか。よくラグビーの世界で言われる「チャレンジした結果としてのミス」を重ねていると胸を張って言い切れるだけのチャレンジを、日々の練習の中で続けられているか。
そういう本質的な問いかけが、あの言葉だったのだと、俺は捉えている。そして 、同時にそれは俺自身に与えられた宿題でもある。本気のチャレンジに魅力を感じて駒場のグラウンドに足を運び続けているという意味では、選手/スタッフだけでなく、俺自身も同じだからだ。そのことを決して忘れずに、自戒の念を込めて。
でも、すべきことは変わらない。突き進むだけだ。