「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
ー ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)
ダイバーシティやLGBTといった言葉を耳にする機会は、社内でも明らかに増えてきた感じがするここ最近ですが、ラグビー日本代表の活躍で"ONE TEAM"が一躍流行語になったりと、様々な個性が1つに結束するチームワークの大切さが毎日どこかのメディアで謳われている今だからこそ、考えてみたいことがあります。多様性って、そもそも何なのかなと。
人種的にも社会的・文化的にも多様な背景を持つ人間が同じ場所に集まり、年齢や性別を超えて活動していれば、お互いが分かり合うための時間がどうしても必要です。誰もが暗黙のうちに共有している「常識」というのが、そもそもないのだから当然ですよね。自分の常識を相手は共有していない。そして、相手が何を常識と考えているかも分からない。そのことをお互いが理解して、「常識」ではなく「違い」を前提としたコミュニケーションを重ねていくことでしか本来の相互理解が成立しないのが、つまりは「多様な社会」なのではないでしょうか。
本音のところでは面倒だなと感じる人もいると思います。空気で会話しないスタイルですから。
でも、多様性を認めるというのは、ある部分では「そういうのが面倒な人たち」の存在も前提にする、ということだと思います。
要するに、多様性ってオーバーヘッドなんです。ただ違う人が集まることではなくて、相互理解のためにオーバーヘッドをかけていく。そこが本質ではないでしょうか。ちなみにこれがラグビー日本代表だと「今年だけでも240日間にも及んだ合宿」ということになるのですが、結局のところ「多様な人間たちが集まれば、自然と多様性が強みになる」なんて都合の良い話はないんですよね。
ところで、会社の多様性って何なのでしょうか。人種や性差だけではないはずですよね。というよりも、実際には自分の周りには「小さな違いばかり」というのがリアルなんじゃないかと思ってしまいます。例えば私が所属するチームには「担当しているお客様」の違いがあります。メガバンクと地銀、あるいはノンバンクでは当然ながら全く違います。あるいはシステム部とユーザー部のどちらを担当しているかによって、すべきこともできることも大きく違ってきます。
それだけではありません。エグゼクティブ/ライン/スタッフの違い。これまでの業務経験の違い。アクセスしている情報の違い。どれもが人それぞれで異なるのに、多様性という言葉の中でこうした小さな違いが意識されることは、必ずしも多くありません。むしろ、ダイバーシティを声高に叫び、"ONE TEAM"の重要性を喧伝する中で、(社会という)誰かが決めたフォーカスポイントに縛られて、本当に大切にすべき多様性がどこかに置き去りにされていくような。
もうすぐ2019年も終わって、新たな1年へと向かっていく訳ですけど、2020年は面倒がらずに話したいですね。多様性が本当の意味でパワーになる瞬間というのはきっと、オーバーヘッドのちょっと先なんだと思います。ビジネスの現場にいれば、短期的な目標に追われることも、ゴールへの最短距離を走るしかないことも当然ありますが、それでも常に「違い」を受け入れて、時間を惜しまずに向き合っていく空気を作っていきたいですね。
ちなみに、"AKY(あえて空気読まず)"という隠れた名曲を持つトモフスキーという(おそらく職場の誰も知らないような)ミュージシャンのことが好きだというのは、ちょっとした私の違いです。
皆様、良いお年をお迎えください。