帆南を連れて、パートナーと3人でおでかけに。
向かった先は、愛・地球博記念公園。通称モリコロパークだ。
http://www.aichi-toshi.or.jp/park/park(HP)/morikoro/index.html
2005年の愛・地球博以来なので、訪れるのは5年振りになる。
訪れてみて、特に万博を思い出すこともなかったけれど、とても楽しかった。
公園内に、愛知県児童総合センターという施設がある。
http://www.acc-aichi.org/
リニモの愛・地球博記念公園駅を降りて、最初に向かった先がここなのだけれど、かなり遊べる場所で、もう満喫してしまった。 床下に潜れる穴があったり、中2階をぐるりと囲んだトンネルへと繋がるタワーがあったりして、子供にはもう堪らない。ようやく1歳6ヶ月の帆南には少しばかり難しいものが多いけれど、大人が一緒ならば十分遊べるし、そもそも大人にとっても楽しい。ラクダのこぶのように盛り上がった黄色の小さなスペースがあるのだけど、帆南と同じくらいの年齢から小学生未満くらいまでの子供が、本当にたくさんいて、それぞれに走り廻ったり、すべり台のようにして滑って遊んでいた。ただそれだけのことなのだけれど、子供達は本当に楽しそうで、見ているだけで微笑ましくなるね。
パートナーとも話したのだけれど、子供が産まれてから今日までに訪れた場所の中で、最も遊びやすくて楽しいスペースの1つだ。大人の発想でできた電気の「オモチャ」で無理に子供を遊ばせようとするのではなくて、子供がただ自然に走って、潜って、隠れて、滑って、ごろんと横になって、そういったことをそっとお手伝いしてくれるような造りが、とても気持ちいいなぁと。特別企画のようなプログラムもかなり豊富にあるようなので、また日を改めて遊びに来るつもりだ。
さっと昼食を食べた後、今度は児童総合センターのすぐ傍にある愛知国際児童記念館へ。家を出た時には知らなかったのだけれど、ちょうど今日から「借りぐらしのアリエッティー展」が開催されていて、折角の機会なので見に行ったんだ。遊び疲れた帆南はベビーカーで眠ってくれていたので、落ち着いてゆっくりと見ることができた。
全体としては小さな展示なのだけれど、本当に良かった。
製作資料として展示されていた何点かのラフスケッチが素晴らしかったんだ。
クロッキーかなぁ。すっと引かれた線が本当に美しい。そして、添えられたメモがまた魅力的で、人間味に溢れた温かい思いが感じられる。繊細な年頃の少女の表情を、とても丁寧に、心の動き方のディテールまで注意を向けながら、1つひとつ描いているというのが、ある意味ではラフスケッチゆえに伝わってくるのかもしれない。
綺麗なスケッチだったなぁ。
ちょうどタイミングも良かったけれど、本当に良い公園です。
1日では廻り切れないので、もう一度、公園の魅力発掘に行かないと。
Saturday, July 17, 2010
Wednesday, July 07, 2010
ENGLISH
最近、英語の社内公用語化が話題になっている。
楽天やファーストリテイリングといった企業の事例が報じられているが、企業活動の全面的な英語化については賛否両論あるようだ。
今日、担当しているお客様の常務を訪問する機会があった。
サービス事業を担当しているアメリカ人の専務自らが、お客様先を訪れた。
外国人役員との同行コールは、営業職としての8年間で初めての経験だった。
お客様も最初はやや緊張気味だったが、既に馴染みのある日本人の執行役員が同席していたことに加え、通訳の方の丁寧な対応もあり、お客様コールそのものは穏当に流れ、申し分のないものとなった。英語そのものを極めて慎重かつ緩やかに話してもらったことも大きかったと思う。ただ、こうして実際にコールに同行してみて、自分自身の置かれた状況が明確に変化してきていることを改めて実感した。大きな潮流としては随分前からはっきりしていたことで、今更気づくようなことでもないのだけれど、ドメスティックにビジネスを展開されている企業の役員に対して、このようなコールをセットする機会は極めて稀なのが正直なところだ。それゆえに、ある意味では「保護されていた」にすぎないのだけれど。
要するに、お客様へのサービスを組成する上で、重要な決定権限を持つ人間が、外国人役員にシフトしている訳だ。ほぼ国内市場に閉じたビジネスを展開されているお客様であっても、外国人役員が総責任者として「お客様のダイレクトな声」を聞こうとするのは、会社が提供する「サービス」自体がグローバルの枠組みの中で組成されているからに他ならない。システム開発の世界では、中国やインドの技術者を活用したオフショア開発が既に一般的になっているが、こうしたデリバリー・スキームのグローバル化に留まらず、プライシングやマネジメントそのものがグローバル化している。
国内をメインとする「現場」では、 英語への抵抗は依然として強い。
「英語はできても、仕事ができない人間」というのが、格好の標的にされている。
でも、もう今後は逆が成立しなくなるかもしれない。つまり、「英語ができなくても、仕事ができる」という状態が想定しづらくなるかもしれない。
英語ができないということは、ドメスティックなビジネスを展開されているお客様に対してさえ、必要な「サービス」を組成するための直接交渉力を、社内で持っていないということだ。自分の担当するお客様にとってのベストを纏め上げるために、英語ができる人間による代理交渉が必要になる。正直、これでは仕事の醍醐味も、更には「仕事力」そのものさえ、大きく毀損してしまうだろう。
英語公用語化の是非は知らない。
ただ、安易な批判の前に、個人としての準備が必須かもしれない。
なかなか巧くならないけれど。
楽天やファーストリテイリングといった企業の事例が報じられているが、企業活動の全面的な英語化については賛否両論あるようだ。
今日、担当しているお客様の常務を訪問する機会があった。
サービス事業を担当しているアメリカ人の専務自らが、お客様先を訪れた。
外国人役員との同行コールは、営業職としての8年間で初めての経験だった。
お客様も最初はやや緊張気味だったが、既に馴染みのある日本人の執行役員が同席していたことに加え、通訳の方の丁寧な対応もあり、お客様コールそのものは穏当に流れ、申し分のないものとなった。英語そのものを極めて慎重かつ緩やかに話してもらったことも大きかったと思う。ただ、こうして実際にコールに同行してみて、自分自身の置かれた状況が明確に変化してきていることを改めて実感した。大きな潮流としては随分前からはっきりしていたことで、今更気づくようなことでもないのだけれど、ドメスティックにビジネスを展開されている企業の役員に対して、このようなコールをセットする機会は極めて稀なのが正直なところだ。それゆえに、ある意味では「保護されていた」にすぎないのだけれど。
要するに、お客様へのサービスを組成する上で、重要な決定権限を持つ人間が、外国人役員にシフトしている訳だ。ほぼ国内市場に閉じたビジネスを展開されているお客様であっても、外国人役員が総責任者として「お客様のダイレクトな声」を聞こうとするのは、会社が提供する「サービス」自体がグローバルの枠組みの中で組成されているからに他ならない。システム開発の世界では、中国やインドの技術者を活用したオフショア開発が既に一般的になっているが、こうしたデリバリー・スキームのグローバル化に留まらず、プライシングやマネジメントそのものがグローバル化している。
国内をメインとする「現場」では、 英語への抵抗は依然として強い。
「英語はできても、仕事ができない人間」というのが、格好の標的にされている。
でも、もう今後は逆が成立しなくなるかもしれない。つまり、「英語ができなくても、仕事ができる」という状態が想定しづらくなるかもしれない。
英語ができないということは、ドメスティックなビジネスを展開されているお客様に対してさえ、必要な「サービス」を組成するための直接交渉力を、社内で持っていないということだ。自分の担当するお客様にとってのベストを纏め上げるために、英語ができる人間による代理交渉が必要になる。正直、これでは仕事の醍醐味も、更には「仕事力」そのものさえ、大きく毀損してしまうだろう。
英語公用語化の是非は知らない。
ただ、安易な批判の前に、個人としての準備が必須かもしれない。
なかなか巧くならないけれど。
Saturday, July 03, 2010
ALL
7月3日、土曜日。
オール東大 32-7 Imperial College London(16:00K.O@駒場ラグビー場)
ずっと楽しみにしていたゲーム。きちんと勝利できて、まずは良かった。
怪我人が出たこともあって、CTBで80分間フル出場となったが、フルでプレーするのは本当に久しぶりで、さすがにかなり疲れた。ノックオン2回、イージーなタックルミスもあって、個人的な出来は散々だったけれど、最低限の仕事はできたかなとも思う。
こういう体験を、東大ラグビー部として大切にしていきたい。
一昨年のエジンバラ大戦に続いての国際交流マッチ。まさにラグビーの醍醐味だ。
そして、現役・OB混成チームで戦うということ。これも極めてラグビーらしい、素晴らしいことだ。急造メンバーでも本気で勝ちに行く。難しいことはできないけれど、低いタックルと素早い出足で止める。OBはフィットネスに不安があろうとも、自分達が学生の頃に練習してきたプレーに拘って、今できることをする。今の東大にとって、様々な意味で経験値を積むきっかけになったのではないかと思う。
スターター15人の中で、現役のメンバーは4人。留年組を含めると7人になる。最近は現役のレベルが落ちてきていると言われているけれど、今日のゲームでは皆、良いプレーをしていた。周囲のプレーヤーが変わると、発揮される個性・パフォーマンスも変わってくる。OB側にとっても、普段は共にゲームに出ることのない現役メンバーとプレーすることで、彼等からエネルギーをもらうことができる。現役の選手と一緒に本気でゲームをできるのは、おれたちにとっても嬉しく、そして単純にとても楽しいことだ。
同期では、宋が前半のFLで出場した。
開始早々のキックオフであまりに美しいアーリータックルを決め、即座にシンビンを喰らっていたけれど、グラウンド内外での存在感は相変わらずだった。今でもプレーを続けている最後の同期。一緒に試合をする機会はめっきり減ってしまったが、そういう意味でも今日は楽しかった。
また次の機会のために、トレーニングしないと。
こういう貴重なゲームに召集してもらえることを幸運と思って。
高校時代
昨晩は、久しぶりに高校時代のラグビー部の仲間数人が集まって、東京駅構内の蕎麦屋で軽く呑んだ。おれは少々遅れて参加したのだが、ラグビー部時代の思い出話が次々に飛び出して、かなり楽しかった。感傷ではなくて、高校ラグビーというのは、何度聞いても笑いが止まらない逸話が本当にたくさんあるものなんです。これは母校時習館だけではなくて、多くの高校チームには、似たようなエピソードが幾つも転がっているだろうと思う。
初めての試合でチャンスにふとボールが渡ってしまい、どうすれば良いのか分からず、まだディフェンダーは誰も来ていないのに、何を血迷ったかいきなり地面に倒れ込み、「ラック」と叫んで綺麗なダウンボールをした後輩がいた。「1人ラック」というこの伝説のプレーは、今でも語り草になっている。ラックドリルに忠実にプレーするのは、如何にも真面目な時習館らしい。
モールサイドを突破しようと、ボールを持ち出してサイドアタックを仕掛けようとした瞬間、先輩の発した「行くな」の声に気圧されてすごすごとモールに戻り、アクシデンタル・オフサイドを取られた同期がいる。彼は、意図的に笑いを取るのは全くもって不得手だが、行動そのものが誘う笑いには素晴らしいものがある。とある練習試合で彼は、ポスト正面からの相手コンバージョンをチャージしようと果敢に走り出した。次の瞬間、相手キッカーの明らかなミスキックが超低弾道で彼の頭を撃ち抜き、どう考えても入るはずのなかったキックが、見事に上方へと弾道を変化させて入ってしまった。この奇跡は「ラグビー界初の自殺点」と呼ばれ、おそらくギネスブックにも申請できるだろう。
自分でも忘れていたエピソードも出てきた。当時おれはチームのキャプテンをしていたのだけれど、ある時、試合中の「チャンス」コールについて、みんなに提案をしたんだ。俺達は、相手がミスすると「チャンス」と言うが、実際にはほとんどチャンスになっていない。俺達レベルのチームにとって、相手のミスは本当は"Chance"ではない。"Opportunity"でしかないんだ。「オポチュ」なんだ、と。それで俺達は、暫くの間、練習の時にミスが起きると「オポチュ」と叫んでいた。今聞いても本当に馬鹿らしくて、また当時のおれがいかにも言いそうなことで笑えてくる。
東大ラグビー部に入ってから宋に聞いた灘高のエピソードも面白い。
当時はショートラインアウトが流行り出した頃で、4menや5menといった配置をどこのチームも取り入れていたのだが、灘高では、それならば2men(ツーメン)でもいいじゃないかという話になったそうだ。そこから議論は更に発展し、極論すれば1men(ワンメン)でもいいのではないか、と言い出す奴が現れた。すると「いや、ワンはメンじゃねえよ」という適切な突っ込みが入り、一旦「ワンマン」となったところで、「その場合はa man(アマン)じゃないのか」という灘高らしい知的な突っ込みが続いて、最終的に「アマン」というサインが生まれたそうだ。ラインアウトはルール上、1人では成立しないので、ゲームでは勿論レフリーに止められたという。
他にも次から次へとエピソードが溢れてくる。
高校ラグビーほど愉快な場所はないかもしれない。本当に楽しい思い出ばかりだ。
当時は「本気で勝負する」ということの意味を、まだ知らなかった。勝利に対して本気で拘っていたとは言い難く、気づきさえあれば、本当はもっと違うラグビーが出来たのかもしれない。でも、自分達で創っていったチームは、とても楽しかった。自由だったし、(自分自身を含めて)脇道が好きなちょっと独特なキャラクターが多かった。そして、少なくとも一生懸命ではあった。
あの自由気儘な学校で偶然始めたラグビーを、今でも続けているのだから、人生は分からない。「オポチュ」コールを採り入れていたような人間が、大学・社会人での決定的な体験を通して、一廻り下の学生と今でも一緒にグラウンドにいられるのだから、ラッキーだったなあと思う。
いつか機会があれば、高校ラグビーの世界もいいかもしれない。
今度はコーチとして。
初めての試合でチャンスにふとボールが渡ってしまい、どうすれば良いのか分からず、まだディフェンダーは誰も来ていないのに、何を血迷ったかいきなり地面に倒れ込み、「ラック」と叫んで綺麗なダウンボールをした後輩がいた。「1人ラック」というこの伝説のプレーは、今でも語り草になっている。ラックドリルに忠実にプレーするのは、如何にも真面目な時習館らしい。
モールサイドを突破しようと、ボールを持ち出してサイドアタックを仕掛けようとした瞬間、先輩の発した「行くな」の声に気圧されてすごすごとモールに戻り、アクシデンタル・オフサイドを取られた同期がいる。彼は、意図的に笑いを取るのは全くもって不得手だが、行動そのものが誘う笑いには素晴らしいものがある。とある練習試合で彼は、ポスト正面からの相手コンバージョンをチャージしようと果敢に走り出した。次の瞬間、相手キッカーの明らかなミスキックが超低弾道で彼の頭を撃ち抜き、どう考えても入るはずのなかったキックが、見事に上方へと弾道を変化させて入ってしまった。この奇跡は「ラグビー界初の自殺点」と呼ばれ、おそらくギネスブックにも申請できるだろう。
自分でも忘れていたエピソードも出てきた。当時おれはチームのキャプテンをしていたのだけれど、ある時、試合中の「チャンス」コールについて、みんなに提案をしたんだ。俺達は、相手がミスすると「チャンス」と言うが、実際にはほとんどチャンスになっていない。俺達レベルのチームにとって、相手のミスは本当は"Chance"ではない。"Opportunity"でしかないんだ。「オポチュ」なんだ、と。それで俺達は、暫くの間、練習の時にミスが起きると「オポチュ」と叫んでいた。今聞いても本当に馬鹿らしくて、また当時のおれがいかにも言いそうなことで笑えてくる。
東大ラグビー部に入ってから宋に聞いた灘高のエピソードも面白い。
当時はショートラインアウトが流行り出した頃で、4menや5menといった配置をどこのチームも取り入れていたのだが、灘高では、それならば2men(ツーメン)でもいいじゃないかという話になったそうだ。そこから議論は更に発展し、極論すれば1men(ワンメン)でもいいのではないか、と言い出す奴が現れた。すると「いや、ワンはメンじゃねえよ」という適切な突っ込みが入り、一旦「ワンマン」となったところで、「その場合はa man(アマン)じゃないのか」という灘高らしい知的な突っ込みが続いて、最終的に「アマン」というサインが生まれたそうだ。ラインアウトはルール上、1人では成立しないので、ゲームでは勿論レフリーに止められたという。
他にも次から次へとエピソードが溢れてくる。
高校ラグビーほど愉快な場所はないかもしれない。本当に楽しい思い出ばかりだ。
当時は「本気で勝負する」ということの意味を、まだ知らなかった。勝利に対して本気で拘っていたとは言い難く、気づきさえあれば、本当はもっと違うラグビーが出来たのかもしれない。でも、自分達で創っていったチームは、とても楽しかった。自由だったし、(自分自身を含めて)脇道が好きなちょっと独特なキャラクターが多かった。そして、少なくとも一生懸命ではあった。
あの自由気儘な学校で偶然始めたラグビーを、今でも続けているのだから、人生は分からない。「オポチュ」コールを採り入れていたような人間が、大学・社会人での決定的な体験を通して、一廻り下の学生と今でも一緒にグラウンドにいられるのだから、ラッキーだったなあと思う。
いつか機会があれば、高校ラグビーの世界もいいかもしれない。
今度はコーチとして。
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