Monday, February 25, 2013
『良いことに上限はないんだ』
東京理科大ソフトボール部の丸山総監督による著作。
体育推薦もなく、学業との両立が非常に厳しい理科系大学ながら、全国大会にも再三登場するような強豪チームへと成長した東京理科大。その秘訣として本書で語られているのは、ものすごく基本的なことだった。例えば、無遅刻、無欠席。あるいは、全力疾走。礼儀やマナー。そして仲間と自分に対する責任。基本というのは「人としての基本」であって、それこそが最も重要なのだというスタンスが貫かれている。(ちなみにラグビーでも、昨今の帝京大がまさに同じアプローチでチーム作りをしていて、見事なまでの結果を残している。)
本書には、技術を極めるためのグラウンドレベルの工夫であったり、ソフトボールという競技に対する戦略的なアプローチであったり、そういった類の記述は殆どない。でも、きっと現場には様々あるはずなんだ。スポーツの世界でチャンピオンシップを目指す上で、「人としての基本」は絶対的な必要条件だというのはおそらく間違いないけれど、ただ十分条件ではないと思う。技術がないと、やはり勝てない。その意味では、東京理科大という「限られたリソースでの戦い」が宿命づけられたチームにおける技術へのこだわりなども、本当は興味をそそられるところだ。
ただ、「必要条件」に対するこだわりは、もう半端なレベルではない。言葉はあっても実行が伴っていない組織、ちょっとした逸脱を見過ごしてしまう甘さを残した組織が多々ある中で、丸山総監督は一切妥協しない。本当に、言葉通りの意味で「一切」妥協しないのだ。特に大学スポーツだと、これが完遂できるだけでチームは大化けするのだなあと、素直に思える1冊だ。
チームマネジメントの観点で興味深かったのは、練習の運営方式。全体練習は週2回。それ以外は、授業がない空きのコマを利用して、3人程度のメンバーで、少人数の個別練習を計画的に組んでいるそうだ。それ以外にも、完全な個人練習もあるので、練習自体が3つのパターンに分けて捉えられていることになる。更に、これらを「権利練習A/B/C」と呼んでいるそうだ。練習は義務ではなくて、権利。まさにその通りだと、心から納得してしまった。ちなみに、こうした独創的な取り組みも、学部別キャンパスや実験・レポートの負荷といった(ソフトボール部からすれば)「リソースの制約」があって、必要に迫られて生まれたものだというのも面白い。そして、この点にこそ、多くの人にとって、貴重なヒントが隠されているのかもしれない。ごく一部のトップレベルを除けば、日本国内に存在するほぼ全てのスポーツチームはリソースに制約を抱えながら活動しているのだから。
Sunday, February 17, 2013
『最後のロッカールーム』 に込められた明日への思い。
ロッカールームには、本当にあらゆるものがある。
夢。希望。挫折。苦悩。汗。涙。友情。信頼。時に怒号。そして感謝。
青春を彩るものたちは、いつだってそこに。
本書は、全国高校サッカー選手権で惜しくも敗れ去っていったチームの監督が、試合終了後のロッカールームで選手たちに語りかけたメッセージを集めたものだ。1971年(第41回大会)から中継を行っている日本テレビの企画がきっかけで、通常は関係者以外が立ち入ることを許されないロッカールームにカメラが入り、監督と選手たちとの心の交流が映像に収められた。それらは番組となって放送されると共に、DVDとしても発売されているが、本書は「監督の言葉」にフォーカスして、過去の取材映像の中から珠玉のメッセージを集めて編修されている。
サッカーに限らず、高校スポーツというのは特別な世界だ。青春の真っ只中にある高校生が、3年間という大切な時間のほぼ全てを捧げて生きる世界。その中でも、全国大会まで勝ち上がってくるチームの選手たちともなれば、本当に全てをサッカーに賭けて生きている。そんな彼らが、ようやく辿り着いた全国大会の舞台。この場所で、俺たちの最高の輝きを。最高のシュート、最高のパス、そして最高のランを。最高のチームワークをみせて、そして最後はチーム全員が一丸となった最高の勝利を。誰もがきっと、同じ思いを抱いているだろう。でも、勝負の世界は残酷だ。大会を通じて、最後まで負けることなく戦い抜くことを許されるのは、日本中でわずか1校しかない。その他の全てのチームは、「敗北」という形でそのシーズンを終えることになるのだから。
ただ、それゆえに高校サッカーは見る者の心を揺さぶるのかもしれない。暁星高校の林義規監督も、インタビューで以下のように語っている。
「高校サッカーは、プロを育てるJリーグアカデミーや、海外のクラブチームを中心としたサッカーとは全くの別モノ。卒業後にプロになるのはほんの一握りで、ほとんどの選手は3年でサッカー人生を終えることになる。だからこそ、そこにはサッカーの専門集団にはない「熱い思い」が生まれるんだよ。(中略)『選手権大会は、負けた選手と負けた監督で成り立っている』という名言があるけど、まさにその通りだと思う。優勝校以外のチームはすべて負けちまうんだ。でも、彼らの思いは、勝ったチームに引き継がれていく。『俺たちの分までがんばってくれ』ってね。」試合終了のホイッスルが鳴り響く。勝者と敗者が確定する瞬間。そこから先、スコアボードはもう動かない。勝利に歓喜するチームの隣には、敗者の姿が常にある。青春の全てを賭けてきた純粋な本気の戦いに、終焉を突きつけられた高校生フットボーラーたちの姿が。もうそれ以上、夢を追うことを許されないという冷徹な現実。泣き叫ぶ選手もいれば、呆然自失の選手もいる。そうやって悲しみに暮れながらメンバーが引き上げてきたロッカールームで、監督は何を語るのだろうか。
本書に集められたメッセージは、本当に様々だ。監督の人柄や選手たちの個性。過去の先輩たちが営々と築いてきたチームカラー。ラストゲームを迎えるまでに過ごした日々と、その過程でおそらく確立されたであろう選手たちと監督との信頼関係。そういった様々な要素が凝縮されて、最後の言葉が紡ぎ出される。それは計算されたものではなくて、きっとその瞬間、自然と絞り出されるようにして生まれた言葉たちだ。
中でも、私が最も心を打たれたメッセージを引用したい。第85回大会の準決勝。岩手県立盛岡商業高校に惜しくも0-1で敗れた千葉県立八千代高校の砂金伸監督の言葉だ。
「あと2日間、このチームを解散させずにやりたかったけど、全国大会っていいよなあ。国立競技場、気持ちよかったろう。お前ら日頃から一生懸命やったからこれがあるんじゃねぇか、なあ。プロセスが大事なんだから。適当なことやってるやつにこういう思いはできないんだよ。そうだろ。だから胸を張んなきゃいけないの。でも、今日はね、いいサッカーしてたよ、このピッチの状態で、あの雨の状態で、みんなのいいとこ満載だったよ。でもサッカーだから点取らねぇと勝てねぇんだよな。いい経験したじゃねぇかよ。だからこの経験をした人は、いい大人にならなきゃダメ。たくさんの子供たちに夢を与えられるような大人になれ‥‥‥なってください‥‥‥なってほしいです」細やかなパスワークを武器に勝ち上がってきた八千代高校にとって、ようやく辿り着いた国立での準決勝は過酷なものとなった。降りしきる大粒の雨で、グラウンドコンディションは最悪の状態。水たまりでボールが止まってしまい、得意のパスワークが機能しない。なかなか得点できず苦しい展開が続く中、ゴールキーパーの植田峻佑がファインセーブを連発。チームのピンチを何度も救い、0-0のままで後半ロスタイムへと突入する。しかし、運命は残酷だった。盛岡商業の右コーナーキック。植田は雨でボールが滑ることを考えて、パンチングで弾き返そうとしたのだが、そのボールは無常にも真下に落ちて、自身の左膝に当たってそのまま痛恨のオウンゴールとなってしまうのだ。
部外者の私には想像する他ないのだけれど、砂金監督はきっと、誰よりも確信していたのだと思う。チーム全員が持てる力の全てを出し切ってくれたことを。誰のせいでもなく、八千代は最高のサッカーをしたのだということを。オウンゴールというあまりに辛い運命も、八千代のメンバーはいつかきっと、新たな夢へのエネルギーへと変えていってくれるはずだということを。そのメッセージのラストにおいて、まさしく絞り出すようにして、選手たちへの指示から願望、そして監督自身の願いへとつながっていく流れが、砂金監督の思いの全てを物語っているといっても過言ではないだろう。心から、素敵な言葉だと思う。選手たちを愛していたことが、言葉の端々から伝わってくる。
本書で紹介されている約80のメッセージを読んでいて興味深いのは、全ての言葉にどこか通底する本質のようなものが感じられることだ。表現の仕方や、選手たちとの距離感は人それぞれでも、心からの愛情と信頼をもってぶつかり合ってきた選手たちに、最後のロッカールームで名監督たちが伝えようとすることは、どこかで普遍的なものへと至るのかもしれない。私なりに読み解くならば、それは「前を見よう」ということだ。高校生たちにとっては一度きりの敗戦でも、監督たちは違う。昨年も、その前も、ずっとチームを率いて全国大会の舞台を戦ってきた強豪校の監督たちは、敗北の意味を誰よりもよく知っているのだ。来年も、再来年も、監督たちは新たなメンバーを引き連れて全国制覇を目指し、そして優勝校以外の監督は、その年の選手たちの涙を受け止めていくことになるのだから。
「今はとことん泣けばいい」という監督もいる。「一生懸命やったんだ、泣くことないじゃねえか」と語りかける監督もいる。「5分間だけ泣いたら、笑顔でロッカールームを出ようぜ」と鼓舞する監督もいる。どの言葉にも真実が詰まっていると、私は思う。「勝負の世界は結果が全てなんだぜ、勝利にこだわれよ」と日々叱咤し続けた監督が、最後のロッカールームで「結果が全てじゃないんだよ」と涙交じりの笑顔で選手たちを称える。矛盾していないと、私は思う。それこそが、スポーツだ。矛盾を内包しながら、それを越えていく。負けてもいいゲームなんて存在しない。敗北を簡単に受け入れてしまったら、チャンピオンシップ・スポーツはその意義を失ってしまう。でも、敗北しないアスリートなどいない。敗北しても前を向いて、前進し続ける人間が育っていくならば、それは素晴らしいことじゃないか。
選手たちには、いつだって明日を見ていてほしい。 そんな監督たちの心が凝縮されたラストメッセージとして、この言葉を書き残しておきたい。
「負けることは恥じゃない、負けることは。恥なのは、負けて立たんこと。負けて立たんこと。次もう1回、お前らの次の道、行くんぞ、ほんまに‥‥‥。もうひとつ、明日は味方だ。誠実に生きよったら、みんな味方してくれる。気分は切り替えな。もう宿舎に帰った時は笑おう。いつものとおりな‥‥‥。次、明日、明日な」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(徳島県立鳴門高校、香留和雄監督(第85回大会))
レビューでも触れたように、『最後のロッカールーム』はDVD化もされている。神聖なる空間にカメラが入ることの是非について議論があるのは承知しているつもりだが、同じような世界をくぐり抜けてきた人間以外には、なかなか想像の及ばない魅力的な空間なのは確かだろう。
熱い男の代表格といえば、やはり松岡修造だろう。彼が本書で語っていることも、突き詰めれば同じなのかもしれない。ただ、松岡修造の本当の凄さは、挫折に至るまでの本気度ではないかと、私は思っている。恐ろしいほどの熱気ゆえに、彼は本気の挫折をして、そしてそれを乗り越えていくのではないだろうか。
ラグビーの世界で純粋に「極み」を目指した男たちの物語として、本書は外せない。現在は絶版のようだが、一刻も早い復刊が待たれるところだ。1996年度、中竹主将が率いた早稲田大学ラグビー部の軌跡。その熱い魂に、思わず胸が熱くなる。純粋なる本気とは、時に狂気でもあるのだということを、本書は教えてくれるはずだ。
アベノミクスを考えてみる。 - 『リフレはヤバい』
2012年12月26日。
その日は今後の日本史において、どのように語り継がれていくことになるのだろうか。
その日から遡ること10日前の12月16日。この日行われた第46回衆議院議員選挙において、安倍晋三総裁率いる自民党は圧勝。過半数を大きく超える議席を獲得し、民主党を与党の座から引き摺り下ろすと、その後、安倍氏が第96代内閣総理大臣に就任。政権交代が果たされる。
そう、2012年12月26日とは安倍総理の就任日なのだ。
そして、それはつまり「アベノミクス」が発動された日ということになる。
いまや毎日のように新聞紙上を賑わしている、この円安誘導型の金融政策は、おそらく今後の日本経済、更に言えば日本という国家全体の命運を大きく左右することになるだろう。成功するとしても、哀しい運命になるとしても。
本書はその「アベノミクス」の中心に据えられている考え方、いわゆる「リフレ政策」の危険性を考察し、その理論的な誤りを徹底的に批判したものだ。リフレ派と反リフレ派は、アベノミクスの登場を待つまでもなく、様々なメディアで喧しく論争を繰り広げているが、本書は反リフレ派の先鋭ということになるだろう。正直に言って、この場で経済論争をする気など全くない私としては、思わぬ記述がある一定層の琴線に触れて、炎上したりしないだろうかとやや不安でもあるのだが、それでも本書は紹介したい。なぜならば、昨年8月に新メンバーとしてHONZに参加した頃から、「絶対にこの人の新著だけは譲ってはいけない」と心に秘めていた1人が、本書の著者である小幡績氏だったからだ。実はずっと待っていたのだ、彼の新著を。(とはいえ、ここまで直截的なタイトルで来るとは思ってもいなかったけれど。)
さて、リフレ論争だ。
まずは「リフレ政策」とは何であるかについて、著者の言葉を引用してみよう。
リフレとは、意図的にインフレーションを起こすことです。
至ってシンプルだ。要するに、物価を上昇させる政策と考えればいい。ただ、著者はこのシンプルな定義の中に重要なメッセージを持たせている。まず、「円安誘導=リフレ」ではないということだ。物価の上昇とは通貨価値の下落を意味するので、結果的にインフレと円安は同義かもしれないが、本書が想定する「リフレ派」の核心はあくまで物価の上昇だ。アベノミクスに関する昨今の報道をみても円安にフォーカスしたものが多いが、リフレ派にとって、円安はインフレを実現するための手段であって、それ自体が目的ではない。ややクドイかもしれないが、本書においてこの関係性は重要なポイントだ。その上で、リフレ派の主張は「物価が上昇してデフレから脱却できれば、日本の景気は回復する」という点が暗黙の前提になっている。
整理してみよう。本書によれば、リフレ派のポイントは以下のように要約できる。
①デフレが不況の原因である。
②円安になればインフレが起こる。つまり、デフレからの脱却は可能である。
③よって、円安インフレ政策によって、景気は回復する。
本書の記述に沿ってごく単純化して捉えるならば、これがリフレ派の主張ということになる。インフレターゲットや大胆な金融緩和、日銀法改正といったリフレ派の中心的な施策は、①~③の基本認識のもとで、円安とインフレを実現するための具体的な手段ということになる。とはいえ、実際に各種メディアを賑わせているのは、多くの場合、こうした具体的トピックに関するものが大半だ。安倍総理の就任後、明らかな円安トレンドになってきていることもあり、どうしても近視眼的な報道が多くなる。その時、①~③のようなリフレ派の前提は、暗黙のうちに了解されていることが多い。しかしながら、本書のスタンスは全く異なる。その主張の本質は、こうした具体的な政策の是非とは別のところにあり、要するに著者からすれば、①~③の前提がそもそも誤っているのだ。
それならば、著者の立場とはどのようなものか。
私の理解では、その中心的なポイントは2つある。1つは、そもそもインフレは起こせないということ。そしてもう1つは、円安は日本経済を崩壊させる危険性がある、ということだ。
最初のポイントについては、もう少し厳密に記述する必要がある。著者が主張しているのは、「通常の意味での物価の上昇」は起きないということだ。理由は単純で、今の日本においては、売り手が値上げをしないからだ。物価上昇の前に、景気回復があれば話は別だ。景気の回復に伴って給料が増えて、その結果として国内総需要が増加すれば、お店は商品・サービスを値上げするかもしれない。でも実際は、このご時世、一時的に企業の業績が多少改善した程度で、給料はすぐに上がらない。値上げすれば、更なる売上の低迷を招くだけだ。著者はこう言っている。
景気をよくするためにインフレを起こすこと、それは無理なのです。通常の意味でのインフレは、起きない。ただし著者は、それでも日本がインフレになる場合として、2つのパターンを挙げており、そのいずれもが円安と密接に結びついている。まずは輸入インフレだ。輸入品の値上がり、あるいは原油や資源の輸入コスト増大によって、製品価格を引き上げざるを得ないケースだ。もう1つは資産インフレだ。これには日銀による量的緩和政策が影響してくる。現在行われている量的緩和とは、要するに、中央銀行がマーケットから金融資産(主に国債)を直接購入することで、マネーサプライを増大させる政策なので、当然ながら対象となる金融資産には買い注文が入っている訳だ。当然、金融資産の価格は上がる。ただしこれは、実体経済の流れとは独立して引き起こされる一種のバブルだ。その副作用も十分に意識されなければならない、ということになるだろう。いずれにせよ、著者の主張しているのは、「リフレ派が言っているような形でのインフレは、起きない」ということだ。
つまり、因果関係が逆なのです。
そして2つめのポイント、円安だ。
こちらの方が、より重要な問題として位置づけられている。インフレが起きないだけならば、まだ構わない。でも円安はマズイと著者は言う。なぜならば、国債価格を暴落させる可能性があるからだ。
既に書いたように、日銀は量的緩和政策を行い、大量の日本国債を購入している。これは当然ながら円建ての金融資産なので、円安になれば、例えばドル建ての米国債と比較した場合、日本国債の価値そのものが下落することになる。日本国債を大量に保有しているのは、主に国内の金融機関(特に銀行)だが、彼らにとっては保有資産価値が減損するリスクがあるということだ。円安ドル高という為替リスクをヘッジするためには、先物でドルを買っておけばいいという考え方もあるが、ヘッジには当然コストが発生する。将来、日本国債の価格が下がると分かっているならば、最初から米国債に投資した方が合理的だ。ただ、本質的な問題は、もう一歩先にある。ちょっと長くなってしまうが、引用しておこう。
自分のことだけ考えれば、ヘッジすればすみますが、現実にはそうはいきません。なぜなら、みな同じことを考えているからです。これが、従来の議論と全く異なるポイントだ。「円安」というファクターがなければ、機関投資家にとって日本国債は、大量のマネーを安定的に吸収できて、流動性も高い魅力的な商品だ。しかし、そこに「意図された円安」というコンセンサスが加味された時に、日本国債というものの性格は大きく変わってしまう。国債が本当に値崩れを起こすようなことになれば、発行済国債を大量に抱える多くの国内銀行(特に地方銀行)はひとたまりもないだろう。著者によれば、日本の銀行セクターは全体で約200兆円もの長期国債を保有しているのだ。これが暴落すれば、幾つか潰れる銀行も出てくるはずだ。貸しはがしも避けられない。バブル崩壊の頃を凌駕するような金融危機となるだろう。
国債はみんなが投資しています。それが、円安が進む可能性が高いことがコンセンサスになったのです。(中略)為替のヘッジをするという方法と、日本国債を売って、米国債に乗り換える方法とあることもみながわかっています。
どちらでもいいのですが、この「どちらでもいい」というのは最も危険なのです。
なぜなら、米国債に乗り換えるほうを多くの人が選んだ場合は、この二つは同じではなくなるからです。
多くの人が米国債に乗り換えたならば、日本国債は値下がりします。みんなが売るから当然です。今度は、円安になる分、実質的に値下がりするのではなく、円でみても値下がりする、ふつうに値下がりするのです。
そうなれば、政府は公的資金を注入して銀行救済に乗り出すはずだ。でも、肝心の公的資金はどのように捻出されるのか。言うまでもなく国債発行だ。だが、忘れてはいけない。このシナリオの震源となっているのは「国債暴落」なのだ。更なる国債の増発となれば、当然ながら暴落に拍車がかかってしまう。そうなれば、危機の渦中にある銀行も、暴落する国債をマーケットで売り抜くことができず、資本の劣化を食い止めることさえできない状況に陥るだろう。銀行危機は深刻化し、そして連鎖する。政府の財政危機も引き起こされて、絶望的な危機のスパイラルが訪れることになるのかもしれない。
もちろん、このような日本崩壊のシナリオを誰も望んでいる訳ではない。それは、本書の著者も同じだ。実際、本書の冒頭において、こう綴っている。
本書が、リフレ政策による目先の円安、株高に浮かれる人々に対する警鐘となり、そして、安倍首相が、名目金利上昇のリスクに気づき、リフレ政策を修正することを望む。
そして、本書の予言が実現せず、小幡の言うことは当たらなかったと、私が批判を受けるというシナリオ。そちらのほうのシナリオが実現すること。それを強く願って、本書を、安倍首相とかれの愛する日本に捧げることにしたい。
日本経済の未来は、結局のところ誰にも分からない。アベノミクスが今後どのような展開を迎えるにしても、個々人として出来るのは、自分なりに考えてみるということしかないのかもしれない。そのための材料として、本書は格好の1冊になるだろう。非常にクリアな論理と平易な説明で、リフレ政策に対する反証が展開されているからだ。「輸出産業を守るためにも円安は重要」、「マネーを増やせば円安は実現する」、「世界中の中央銀行の中で、日銀だけが特殊な対応を取っている」といった巷でよく聞く話についても、とても丁寧に反駁を行っている。本書の論理が腹に落ちるかどうかは別として、リフレ派、反リフレ派といった色眼鏡を一旦置いて、お互いの依拠するロジックを知っておくのは重要だ。その意味で、リフレ派も反リフレ派も、リフレの何たるかに興味のなかった人も、読んでみてほしい。きっと面白い気づきがあるはずだ。
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やはり併記しておかない訳にはいかないだろう。アベノミクスの理論的支柱とされる浜田宏一氏の最新刊。リフレ派の考え方を知るために。
マネーというものの本質を正面から扱った重厚な1冊。「紙幣とは本質的に負債である」という著者の指摘は重いものがある。紙の約束とはつまり、「いつでも破られうる約束」ということでもあるのだから。
予習のつもりがどっぷりと。 - 『八重と会津落城』
正月三が日も終わり、昨日が仕事始めだった方も多いだろう。いよいよ本格的に幕を開けた2013年だが、そのイントロを飾りそうなのが1月6日(日)スタートの大河ドラマ「八重の桜」だ。HONZを読まれている方は書店を訪れる頻度も多いと思うが、書店の棚は昨年の暮れから見事なまでの「八重ブーム」だ。日本史のコーナーは勿論のこと、新書にも「八重の桜」に関連した新刊書が数点並んでいる。そんな訳で、予習も兼ねてと思いながら手に取ったのが本書なのだが、これが想定していたものとは多少異なる面白さだった。(ただ、とても面白かったのは間違いない。)
というのは、表題から想像するほど(山本)八重の人生が主題になっていないのだ。あくまで「会津落城」が本書のメインテーマになっている。もちろん八重は登場するのだが、あくまで若松城(鶴ヶ城)での籠城戦における獅子奮迅の活躍と、そこに至るまでの八重および山本家の境遇が多少添えられている程度だ。本書の表題からすると当然かもしれないが、戊辰戦争の後、新島襄と結婚した「新島八重」としてのエピソードは皆無であり、「八重の桜」の事前テキストとしてはやや王道から逸れている。でも、それで構わない。本書において著者が描き出そうとしたのは、あくまで幕末期における会津藩の歴史であり、そしてそれは激動の連続でとても興味深く、ドラマチックであり、そして現代を生きる私たちにとっても気づきと学びに満ちているからだ。
文久2(1862)年、会津藩の第9代藩主である松平容保が京都守護職に就任するところから物語は始まる。当時の京都は薩長の藩士らによる尊王攘夷運動が巻き起こっていた動乱の地。幕府の威信が大きく低下していた状況で、荒れる京都の治安を守り抜き、幕府に忠義を尽くす困難な責務を負ったのが、京都守護職だ。あまりにもリスキーであり、誰もが就任を躊躇せざるをえない火中の栗のようなポジション。八重の兄であり、会津藩の砲術師範だった山本覚馬は、松平容保に対して幕府から就任の依頼があったと知り、絶句したという。しかし、藩士たちの反対を押し切って、容保は京都への赴任を決意する。ここが、会津藩の悲劇の始まりとなった。
慶応2(1866)年には薩長同盟が結ばれ、いよいよ倒幕の動きが加速する。第2次長州征討に敗れた幕府の権力は弱体化の一途を辿り、その後、倒幕を好まず公武合体論を取っていた孝明天皇が急死すると、いよいよ幕府は窮地に立たされる。15代将軍の徳川慶喜は大政奉還によって事態の打開を図ろうとしたが、同じ頃、薩長は岩倉具視の側近だった玉松操が起草した「討幕の密勅」をもってクーデターを決行し、王政復古の大号令を発し、新政府を樹立する。その後、鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍の惨敗を経て、1年半あまりにわたる戊辰戦争の末に、明治維新へと展開していくのは、誰もが知るところだ。
こうした幕府崩壊の流れにあって、会津藩は常に幕府側だった。実は松平容保は、慶応3(1867)年2月に京都守護職の辞任を申し出ている。藩財政の窮乏、そして肝心の幕府の衰退。このままでは会津藩が滅亡してしまうとの危機感があった。しかしながら、幕府の説得もあり辞任は叶わず、容保と会津藩士は京都に残留。その後、討幕の密勅を手に官軍を名乗った薩長の前に、会津は賊軍とされてしまうのだから、歴史の悲劇としか言いようがない。それでも会津藩は、最後まで幕府への忠義を貫き、絶望的な状況の中、自らの信じるもののために薩長連合軍との死闘を繰り広げた。八重が大車輪の活躍をみせた若松城での1ヶ月に及ぶ籠城戦では、会津の女性達が凄まじいばかりの団結力と行動力で、戦況を支えている。誰よりも巧みにスペンサー銃を操り、百発百中の命中率で敵軍を狙撃し続けたという八重も凄いが、他の女性も炊事や食糧調達、怪我人の看護、そして銃を持っての戦闘に至るまで、男共を越える強さと逞しさだったという。こうした会津藩のドラマには、やはり心を打つものがあるだろう。
ただ、こうしたドラマの裏側こそが、本書が明らかにしている最も重要なポイントだ。こうした会津藩の悲劇の歴史には、実は幾つかのターニングポイントがあったのだが、後世の目から見ると、会津藩はその時々における重要な判断を悉く誤っているのだ。また、形勢不利の戦いを強いられた戊辰戦争でも、決定的な戦略ミスを幾つも犯している。これは奥州他藩との交渉戦略のミスもあれば、合戦における戦術的判断のミスもあるが、これらがなければ、会津藩はもっと戦えたのかもしれない。結局のところ、悲劇のドラマを演出してしまった決定的要因には、戦略の不在があったのだ。
そして興味深いのは、そうしたミスの多くが「人事」と「旧弊」に起因しているように感じられることだ。例えば、「奥羽の咽喉」といわれた白河での戦いで、会津藩が総督に選んだのは戦闘経験が皆無の西郷頼母だった。情報収集も戦略もなく臨んだ戦いは、無残なまでの即日陥落。挙句の果てに、惨敗を喫した西郷へのお咎めは一切なかったそうだ。また、会津藩の軍備は薩長に大きく出遅れていたのだが、先見の明をもった逸材、山本覚馬は早くから西洋の新式銃を購入するように進言していた。しかし、旧弊に縛られた家老達はなかなか納得せず、ようやく外国から納入の目処がついた頃には幕府が崩壊していたため、注文した1,300挺は薩長に押さえられてしまった。こうしたミスは、もう枚挙に暇がないほどだが、ドライに評価してしまえば、藩主たる松平容保が、大胆かつ戦略的な人事で、旧弊を打開できなかったということなのかもしれない。
本書の醍醐味は、まさにこうした敗因の分析にある。時間軸に沿って具体的なエピソードを幾つも織り交ぜながら、会津落城の背景を丹念に追っていく展開は、非常に刺激的で、読む側を全く飽きさせない。心揺さぶるドラマから学べる歴史も勿論大切だが、「歴史に学ぶ」ということの重要性は、こうした「史実の背景部分」にこそ隠れているのかなという気がする。戦略や戦術が求められるのは、現代でも同じなのだから。
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本書を読み終えて、最初に思い出したのが名著『失敗の本質』だ。会津藩の敗戦は、太平洋戦争における日本軍の敗戦とどこか重複する。人事のミス。旧弊に縛られた意思決定。そして、長期的なビジョンを見据えた戦略の不在。やはり歴史に学ぶことの意義は大きいと、つくづく思う。
会津藩の悲劇はなぜ起こったのか。鳥羽・伏見の戦いにおいて、会津藩と共に幕府軍の先鋒を務めた桑名藩と比較しながら読み解いていく。
『IKEAモデル』 - それはモデル演繹型の経営。
低価格の北欧風デザイン家具販売店として、グローバルで成功を続けるIKEA。本書『IKEAモデル』は、2009年までCEOを務めた著者が、その経営モデルを網羅的に綴ったものだが、読んでみて非常によく分かった。「IKEAモデル」とは、要するにコスト削減の王道を極めることなのだと。
王道は、極論すればつまらない。でも、王道の完遂は決して容易ではない。IKEAはそれを、一切ぶれることなく完遂してみせた。そして、いまやその王道は「IKEAモデル」というイノベーションにまで昇華した。それこそがきっと、IKEAの真の凄みなのだ。
具体的にみていこう。
出発点はIKEAの理念だ。それはシンプルなワンフレーズに、見事に集約されている。
「より快適な毎日を、より多くの方々に」
この短いフレーズから、IKEAを特徴づける多くのポイントが導かれる。
まず、目指すのは「快適な毎日」だ。それゆえに、商品ラインアップは生活家具を原則とする。キッチン、寝室、リビングといった日常の時間を支える空間を心地よくするための製品だけが、IKEAの売り場に並ぶ。そして快適を支えるのは、デザインと機能だ。IKEAは小売業なので、ここでの差別化には徹底的にこだわる。
「より多くの方々に」届けるために、IKEAはなによりも価格競争力を優先する。そのために、バリューチェーンのあらゆる局面において、徹底的なコスト削減を目指す。ただし、商品の品質劣化を招くコスト削減ではなく、あくまで合理的に、ムダを排除していく。コスト削減の結果は、販売価格を下げることで顧客に還元する。その上で、あくまで多くの人にリーチするために、まずは顧客の目線にあった価格設定から入り、そこから商品開発を進めるという通常とは逆のアプローチを採用する。
ここで、時として2つの理念がバッティングする。例えば、ローカライズだ。アメリカ人のために、ベッドのサイズを多少カスタマイズすれば、商品規格の違いによって、バリューチェーンの修正が必要になる。それは結局コストの増加を招き、商品価格に跳ね返っていく。こうしたケースにおいて、IKEAは常にぶれることなく、「モデル」に回帰していく。商品には自信を持っている。コストはいつだって最優先だ。そこから演繹的に、IKEAは「カスタマイズしない」という選択をする。ただし、例えば市民が狭い住環境を強いられている国の場合、サイズを調整しなければ「快適」が実現されないため、理念のためのローカライズを許容する。
あるいは、上述した商品ラインアップだ。小売業における差別化要素は、価格だけではない。IKEAは「充実した買い物体験」を重要なポイントと捉えて、1箇所で必要なものが全て揃うように商品を充実させている。(ちなみにこれは、本当に素晴らしいレベルだ。)しかし同時に、商品数の増大は物流効率の悪化を招く。ここでもIKEAは、モデルに立ち戻る。つまり原則として、理念のためにコストが優先される。
こうした判断の分岐に、IKEAのIKEA性を感じるのだ。いつも理念に戻って、モデルから演繹する。必ず、「常に」そうするのが非常にIKEAらしい。
ビジネスモデルの話になると、「集中か、分散か」といった議論が展開されることも多いが、こういった問題もモデル演繹方式のIKEAには無縁だ。IKEAのスタンスは非常に明快で、要するに「理念のために集中が必要であれば集中し、分散が必要であれば分散する」ということになる。IKEAは現在、世界26ヵ国で290のIKEAストアを展開しているが、生産体制は地域(リージョナル)拠点へのシフトを進めているそうだ。長期的にみた輸送コストの上昇、生産リードタイムの短縮、為替変動リスクの回避といった要素を加味して、低価格商品を提供しつづけるには拠点分散の方がベターだと考えているようだ。
IKEAを考える際には、その企業形態も重要だ。IKEAは非公開企業であり、より正確に言えば、創業者イングヴァル・カンプラードによって1982年に設立されたオランダの財団なのだ。本書の著者アンダッシュ・ダルヴィッグは、1999年から2009年までの10年間、CEOとしてIKEAの経営を担ったのだが、就任直後に「10年で10の取り組み(10/10)」という戦略を打ち立て、「IKEAモデル」の確立に向けた施策を10年かけてきちんと実行していった。これは素晴らしいことだが、常に株主のプレッシャーを負いながら経営せざるを得ない多くの株式会社にとって、10年計画の実行は難しいだろう。もちろん、それは公開/非公開という形態の違いであって、必ずしも価値の優劣を意味しない。株式会社にもメリットはあり、財団のリスクも当然あるはずだ。しかし、10年スパンの実行力こそが生み出せるモデルが存在するのは、間違いないだろう。
本書はこうした「IKEAモデル」の本質を、極めて冷静に分析している。さすがに元CEOの著者による整理には深みがあり、読み応えも十分だ。ただ、そのスタンスはあくまでクールだ。時にはIKEAの失敗もオープンに書いており、ただの成功譚ではないのも非常に興味深い。全体を通低する淡々とした筆致は、いかにも王道の「IKEAモデル」にふさわしい感じがする。
ちなみに余談だが、コスト削減のためのIKEAの工夫を紹介しておきたい。
通常の組み立て家具だと、ネジのような部品はスペアが付いているが、IKEAでは必要数しか付いていない。その代わり、IKEAストアのレジ前にパーツコーナーがあり、カタログから必要なパーツ番号を調べれば、いくつでも持ち帰ることができる仕組みになっている。うまい工夫だ。99.9%の顧客にとっては、きちんと組み立てればスペアパーツは必要ない。そういう小さなムダの削減も、全世界290のIKEAショップに並ぶ全商品から削減されれば、期待効果は十分に見込めるはずだ。
ただ、これで終わらないのが面白いところだ。実はIKEAの店舗は、顧客を一方通行で、順路に沿って移動させるレイアウトになっている。多少歩かされるが、そうすることで、充実した商品レンジをアピールする仕組みなのだが、パーツコーナーが併設されたレジは、常にその終点だ。そう、ただスペアをもらうだけのつもりが、思わず購買意欲を掻き立てられるといった副次効果も見据えている。コスト削減を進める一方で、年間6億人が訪れる「店舗」を、重要なマーケティング拠点として有効活用するのも忘れない。そのしたたかさも、IKEAモデルから演繹される必然ということかもしれない。
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IKEAの創業者イングヴァル・カンプラードを正面から扱った1冊。IKEAという企業を考えるには、やはりこの創業者の思いを外すことはできないのだろう。オーナー企業というのは、すべからくそういうものかもしれないけれど。
IKEAとスターバックスはどこか似ているような気が、ずっとしていた。今、その理由は少し分かったような気がする。つまり、どちらも「経営においては理念を、現場においては顧客の快適を」重視しているということなのではないか。シュルツの著作はより人間味があり、具体的なエピソードに溢れた名著だが、著作のスタイルは違えども、行き着く先は、やはりどこか似ている。
もう、辞めたい・・・。心優しき『戦国の貧乏天皇』
なかなか刺激的なタイトルだ。
わずか7文字の中に、知的好奇心を刺激してやまない「違和感」が内包されている。
まず「戦国」と「天皇」がうまく結びつかない。日本史で習った天皇を思いつくままに挙げてみても、古代であれば神武、推古、聖武、桓武といった有名ドコロがすぐに浮かぶし、中世になると、後に院政を敷いたことで知られる白河、鳥羽といったあたりが思い出される。しかし、その後となると、多くの人にとって耳馴染みがあるのは後醍醐天皇くらいで、建武の新政が崩壊して室町時代に入ってくると、その頃の天皇の名前はほとんど知らないのではないだろうか。
そして「貧乏」と「天皇」も、同じように結びつかない。鎌倉幕府の誕生以降、武家統治の時代が長かったのは事実としても、やはり天皇は一貫して日本史の中心にいたはずだ。武家の時代にあっても、たとえば征夷大将軍の任命権限を持っていたのは天皇だ。要するに、武家にとっても天皇の権威が重要だったということであり、その天皇が「貧乏」だと言われても、なかなかピンと来ない。
これだけでも十分に興味深いのだが、さらに本書の帯は追い討ちをかける。なにせ、目に飛び込んでくるのは「もう、朕は天皇を辞めたい!!」という衝撃的なフレーズだ。歴史上、壬申の乱のように皇位継承を争った例はあるにせよ、辞めたいって・・・。宿命を持って生まれた人間のみに許された最高の名誉ある権威。それが天皇ではないのか。
そんな違和感の根源を、本書はひとつずつ丁寧に解きほぐしていく。
戦国時代の天皇については、いまだ研究が十分に尽くされてはいない状態にあるようだが、著者は豊富な史料や参考文献に基づいて、当時の天皇が直面していた窮乏の実態を明らかにしている。
本書が主に取り扱うのは、後土御門天皇(103代、1464-1500)、後柏原天皇(104代、1500-1526)、後奈良天皇(105代、1526-1557)の3人だ。それぞれの天皇に1章ずつ割かれていて、どれも非常に面白いのだが、中でも郡を抜いて衝撃的なのは、やはり後土御門天皇だ。後土御門が在位した36年間はまさに驚きのエピソード満載なのだが、ここではその即位が1464年であることに注目してほしい。即位から3年後の1467年には、京の町を一面火の海にしたとされる「応仁・文明の乱」が勃発しているのだ。1477年に収束を迎えるまで、11年にもわたって繰り広げられたこの悲惨な戦乱は、室町幕府の統治体制を決定的に弱体化させ、これをもって戦国時代の幕が開けることになる。後土御門天皇の時代というのは、まさにこの戦乱期に見事に符号していたのだ。
父、後花園天皇から帝王学を授かり、和漢の学問に通じていた後土御門は、寛永6(1465)年12月27日、24歳にして天皇に即位する。政治に対する意識も高く、戦乱に苦しむ民衆の姿には常に心を痛めていた。疫病が流行すると、四大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)に祈祷を命じ、各地に官宣旨を下して般若心経を読誦させて国家の平安を祈願した。神仏にすがることしかできないとしても、天皇として常に国を想い、民に心を砕いたその姿は、時代さえ違えば、名君として永く語り継がれたのかもしれない。そう考えると運命の皮肉としか言いようがないのだが、あまりにも時代が悪かった。結局、天皇という存在の無力さに絶望した後土御門は、幾度も「辞めたい」と口にするようになる。著者も書いているが、歴史上、天皇自身が繰り返し辞意を表明したという例は、後土御門以外に聞いたことがない。
これだけでも衝撃的だが、ポイントは「幾度も」というところだ。そう、実際には退位できなかった。より正確に言えば、退位させてもらえなかったのだ。文明3(1471)年に後土御門が初めて退位を表明すると、公家、武家の双方に衝撃が走り、公武をあげての説得工作が展開された。そして哀しいことに、その大きな理由の1つは、危機的な状況に陥っていた皇室財政にあったのだ。
もちろん、そもそも天皇が突如として退位を表明するなど尋常ではない。まだ皇太子も決まっておらず、退任となれば大混乱が生じるのは誰の目にも明らかだった。ただ、よりシビアな問題として立ち上がってきたのは財政事情だった。退位となれば、後継者の即位式が必要となる。当時、即位式には五十万疋(約5億円)が必要だったという。最高権威たる天皇の即位と思えば、さほど高い費用でもない印象もあるが、この捻出にさえも苦慮するほど、当時の皇室は財政的に追い詰められていた。この流れを決定づけたのは、やはり「応仁・文明の乱」だろう。この戦乱によって室町幕府による地方支配の体制は致命的なレベルにまで弱体化し、守護を通じた地方荘園からの収入は大幅に落ち込んだ。何とか維持してきた禁裏領所(皇室領)からの年貢納入も、必ずしも安定的ではない中で、朝廷は幕府に資金援助を求めるが、幕府の懐事情も同様に苦しかったのだ。
皇室財政の危機を象徴するエピソードは、他にも多々ある。例えば、朝儀の停滞だ。財政面だけではなく、戦乱を避けた公家衆が地方に散っていたことも要因ではあるが、節会や歯固の儀式は長きにわたって中止されることになった。大嘗会も当時は行われていない。戦乱で荒廃した内裏の修復もままならない状態だった。通常は朝廷に主導権がある改元も容易ではなく、幕府の財政支援を仰がなければならなかった。そして挙句の果てには、葬儀さえも遅延したというのだ。後土御門天皇は明応9(1500)年9月28日に亡くなったのだが、その葬儀が執り行われたのは、なんと死後43日目のことだった。11月8日、武家方から一万疋(約1000万円)の支給を得て、ようやく最小限の費用で葬儀を行う目処が立ったそうだ。当然ながら、天皇の崩御から43日もの遅延というのは異例中の異例だ。水銀による遺体の防腐処理などを行い、最善は尽くしていたようだが、それにしてもあまりに哀れではないか。
こうした不憫な状況に拍車をかけた要因の1つには、公家社会の「先例主義」もある。古代より脈々と継承されてきた伝統は極めて重要なものだったため、財政難の状況下においても「簡素化」は難しい問題だったのかなと思う。伝統というのは、一度断絶してしまうと、そう簡単には元に戻せない。先例を伝え知る人間を結集し、過去を知らない者たちに訓練を施し、何度も試行を重ねることで歴史を取り戻すことが必要になってくる。朝儀ひとつを取っても、節会を復活させるために公家たちは多大なる労力を割かなければならなかったのだから、伝統の維持コストというのは馬鹿にならないものだとつくづく思い知らされる。
ちなみに、公家の先例主義にまつわるエピソードにも驚かされるものが多い。
後花園上皇(後土御門の父)と後土御門天皇は、応仁・文明の乱が勃発した当初、難を避けるために、御所を離れて室町邸へと移ろうとした。その際、いつも使っている輿ではなくて乗物を使おうとしたところ、「稀代の例」ではないかと問題視されたそうだ。調査の結果、嘉吉の乱で先例が確認されたため、無事に乗物で避難することができたというが、全くもってその感性が理解できない。更に、室町邸に2人が同宿していると、「過去にこのような例はあるのか」という指摘が入ったという。これも、舟橋宗賢が先例を見出して「問題ない」との結論に導いたというが、著者もいうように、もはや滑稽でしかない。長享から延徳への改元に際しては、8月21日に行う旨が将軍の足利義政にも伝えられていたにもかかわらず、「近年8月に改元が行われたことはない。9月まで引き延ばしてはどうか」という横槍が入ってくる始末だ。改元絡みだと、室町邸に避難していた頃の改元作業に対しては「皇居以外の場で政務を行うことに差し支えはないのか」といったことも、真剣に議論されていたというのだから、トホホな話である。
このように、本書は戦国期における天皇という存在の「実像」を、豊富なエピソードを交えながら、可能な限りの史料を読み込んで、とても丁寧に描写している。歴史上の「天皇」というのは、ある意味では概念的な理解に終始しかねない存在だが、こうして本書を読んでみると、財政面の困窮、そして社会の荒廃を前に胸を痛める極めて人間的な姿が浮かび上がってくる。歴史に対するアプローチとして、こうした人間的な側面を、単なる想像に任せるのではなく、具体的な史料と研究で詳らかにしていく方法論というのは、非常に面白く、読み応えがある。
最後に余談だが、本書を読んでみて、つくづく思ってしまった。
「危機」と「先例」ほど相性の悪いものはない。そして日本社会の先例踏襲主義は、決して今に始まったものではなく、これ自体が過去から営々と受け継がれてきた社会構造だったりもするのだ。現代の日本が、ある種の危機に面しているとするならば、退位表明する前にしなければいけないことがあるのかもしれない。結局のところ大半の日本人は、日本から逃避することなく生き続けるのだから。
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群雄割拠の戦国時代を経て、日本は徳川幕府による江戸時代へと突入していくが、その頃の天皇というものを描いた本書は、麻木久仁子がレビューしている。こうして繋げてみると、歴史の中の天皇というものが、より立体的かつ人間的に見えてきて面白い。
きちんと悲しんで、そして忘れてもらうために。 - 『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』
誰もがいつかは、死を迎える。
あなた自身も、そしてあなたの愛する人も。
もちろん私も、そして辛いことだけれど、私の愛する人もいつか。
死とは何だろうか。
死に行く人にとってそれは、命の終わり。現世という旅路のいちばん奥にそっと置かれたベッド。
ならば、残された人にとって、死とは何だろうか。
愛する人の命は、もうそこにない。でも、そこに残ってしまうもの。もう二度と戻ることのない究極の「喪失」でありながら、それでもそこに厳然と「存在」してしまう現実。残されたものたちが向き合う死というものが、そんな絶望的な矛盾の中にしかないものだというならば、その時、人には何ができるというのだろうか。
大切な、かけがえのない人の遺体と向き合う。
遺体。もうそこに時を刻む生命は宿っていない。でも、遺体は時を刻む。葬儀を終えて、火葬場に運ばれて。遺体と向き合うことのできる時間は、それまでのとても限られた、わずかばかりの時間。
でも、もしかすると、それでいいのかもしれない。
わずかばかりの時間が、きちんとそこにあるならば。
ずっとその時間が続いてしまったら、悲しすぎるじゃないか。
もう戻ってこないあの人が、戻ってくることのないままに、ずっとそこにいるなんて。
でも、たとえ限られたものだったとしても、お別れの時間がなかったとしたら、あまりにも辛すぎるじゃないか。あの人とも、あの人を失った悲しみとも、ずっとお別れができないなんて。
だからこそ、きちんと悲しんでもらいたい。
きちんと悲しんで、ちゃんとお別れをする時間のために、心を尽くしたい。
そして、最後は忘れていってほしい。その悲しみと一緒に。
本書はそんな人間達の物語。
遺族を悲しませないためではなくて、きちんと悲しんでもらうために生きる人達の物語だ。
エアハース・インターナショナルという会社がある。「国際霊柩送還」を専門として設立された、日本で最初の会社だ。「国際霊柩送還」という概念は聞き慣れないものだが、無理もない。そもそも、この言葉自体がエアハースの登録商標であり、必ずしも一般的な用語ではないそうだ。また、エアハースが設立されたのは2003年のことなので、まだ日本に持ち込まれて日の浅い概念でもある。
国際霊柩送還とは、外国と日本との間で遺体の搬送を行い、遺族のもとに届ける業務だ。人はいつか死ぬものだが、いつどこで死を迎えるかは分からない。海の向こうに暮らす在留邦人や日本人の海外旅行者が現地で命を落とすこともあれば、日本国内で外国人が亡くなることもある。当然ながら、死因も様々だ。事故や病気によるものもあれば、自然災害やテロに巻き込まれることもある。自殺もあれば、他殺もある。死はいつだって、一様ではない。それでも、遺体を外国から日本へ、あるいは日本から外国へ送り届ける必要があるならば、そこには常に国際霊柩送還という任務が存在している。死因が何であっても、遺族が誰であっても、エアハースの国際霊柩送還士たちは、遺族のもとへ遺体を運ぶ。ちなみにエアハースは、スマトラ沖地震やアフガニスタン邦人教職員殺害事件、クライストチャーチ地震といった悲劇の現場においても、多くの遺体の搬送を担っているそうだ。
国際霊柩送還は、とても辛い仕事だ。現場はいつも過酷で、辛く厳しい。もちろん「死」を扱うというだけでも生半可なものではないが、国家間での搬送業務となると、その業務はさらに困難を極める。現地確認もままならない外国に安置された遺体。いや、時によっては「安置」されているとも限らない。現地の専門業者と連絡を取り合いながら、搬出の準備をひとつずつ進めていくのも容易ではない。一方で、残された遺族とのコミュニケーションも欠かせない。悲劇の当事者である遺族たちの心に寄り添い、状況を適切に伝えながら、全ての仕事が進められなければならない。また、遺体は貨物として運ばれるため、当然ながら相応の手続きも必要だ。プロフェッショナルでなければ、動揺し、憔悴する遺族だけでは、現実的には不可能だ。
それだけではない。時間というもう1つのファクターが、現実をより過酷なものとする。遺体は時を刻む。そう、時を経るごとに遺体は腐敗するのだ。これを防ぐために、エンバーミング(防腐処理)を施す必要があるのだが、国際霊柩送還の場合、現地でのエンバーミングが杜撰なこともある。時に彼らは、日本に届いた遺体の惨状を前に怒りを覚えながら、必死で腐蝕の進む遺体と対峙する。
時間が蝕むのは、遺体だけではない。遺体と向き合うことさえできず、ただ待ち続けなければならない遺族の心も、時間の経過とともに苦しみを溜め込んでいく。状況次第では、身体の疲労も深刻だ。おそらくは一睡もできず、まさに身を削って待っている遺族。彼らはそのことを心底分かっている。だからこそ、一刻も早く遺体を遺族のもとへ届けたい。国際霊柩送還とは、常に時間との勝負だ。
でも一方で、エアハースは本当に心を込めて、遺体に時間をかけて向き合っていく。
彼らのもう1つのミッション。それは遺体を出来る限り、生前の表情に戻してあげることだ。傷があれば隠し、顔色や唇の赤みを化粧で整えて、身体を綺麗に拭いて。全てを丁寧に、時間をかけて、心を尽くして。遺族が悲しい再会を果たす時に、生前のその人をきちんと思い起こせるように。きちんと、悲しめるように。その瞬間が、本当の意味で「最後の再会」になるように。そこには、彼らが何よりも大切にしている思いが詰まっている。
エアハースはそこまで全身全霊を捧げて、国際霊柩送還の現場に立っている。
それでも、いや、それだからこそ、彼らは忘れ去られていくのだ。
社長の木村理恵は、いつか言ったそうだ。
「私の顔を見ると悲しかった時のことを思い出しちゃうじゃん。だから忘れてもらったほうがいいんだよ」
人間の死に、誰よりも深く関わってきた人だからこそ、そこまで悟れるのかもしれない。
切なくて、胸に迫る思いが止まらないけれど、自分達は「忘れ去られるべき人」なのだと。
そういう諸々を経て、遺体は遺族のもとへと運ばれていくのだ。
海の向こうから。あるいは、海の向こうへ。
本書を読み終えてみて、今、私は思う。本当にエアハースのことを忘れずにいなければならないのは、本質的に、常に死と隣り合わせの現在を生きている私たちなのかもしれないと。
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この本を思い出さない訳にはいかない。忘れられない大切な1冊だ。東日本大震災で命を失った方々のおもかげを復元していった笹原留似子さん。彼女が向き合ってきた物語はとても切ないけれど、読み終えた時にはきっと、心のどこかを綺麗に洗い流してくれるはずだ。ただし、まちがっても電車で読んではいけない。目蓋を湿らせてもいい場所で。
本書と出会った頃は、まだHONZに加入していなかった。東えりかのレビューを読んで、書店に向かったことを今でも覚えている。大切な人との死別というのは、本当に辛いことなのだと思う。きちんと忘れることができたなら、どれだけ楽だろうか。涙が止まらない珠玉の1冊だ。
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