Thursday, July 25, 2019

Challenge

「みんな笑ってるけど、普段の練習ではそこまでやってないだけやで」
周囲で見学していたメンバーから失笑が漏れた瞬間、大西さんが発した言葉の中に、東大ラグビー部が本当の意味で気づかなければいけない本質的な課題の1つが凝縮されていた。そして、俺自身も痛感させられた。このチームにヘッドコーチとして携わることの意味を、あの一言で改めて突きつけられたのだと。

俺が社会人ラグビーで挑戦していた頃のヘッドコーチだった大西一平さん。
この日は朝から駒場まで足を運んでくれて、一通りチームの練習が終わった後で、いくつかの練習をセッション形式で行っていただいたのだけれど、その1つがセッター/ランナーのコンビネーションでDFを突破する練習だった。といっても構成自体は極めてシンプルで、ボールキャリアーが2人のDFプレーヤーの間のスペースに接近する。相手がゲートを埋めてきた瞬間、接近した状況の中でペネトレーターにパスを放る。要するに、オーソドックスな接近プレーのベーシックだ。パスで抜くには接近する。その際の接近の仕方や間合いの取り方には色々なスタイルはあるにせよ、「DFラインにどこまで接近できるか」がラインブレイクの成否を分けるのは、時代を問わず変わらない。そして、接近を単純なクラッシュにせず、接近しながらも判断とプレーオプションをキープする。これが鉄則だ。

大西さんの指示の下、このシンプルなドリルを実際にやってみる。4つのDFユニットを用意して、1つずつ連続で破っていくのだけれど、パスが1つも繋がらない。キャッチミスの前に、パスがランナーに渡らないシーンが続く。その時、周囲からそれとなく漏れた失笑を、大西さんは決して見逃すことなく、メンバーのマインドを本質に引き戻した。

あの瞬間、選手たちは何を感じただろうか。その時の自分の心の動きを正確に再現して、振り返ってみることは、きっと大きな意義があるはずだ。なぜなら、多くの場合、目に見える形で具体的に表現される人間の言動の奥底には、もっと繊細な心の働きや揺れ動きがあり、そういう自分自身の心の反応に自覚的でない限り、本当の意味で自分を変えていくのは難しいからだ。

シチュエーション自体には、伏線になる要素が複数存在していたのも事実だ。
例えば、計画外の練習だった。あるいは、多少なりともコンタクトの側面が入ってくることを事前に聞かされていなかった。 こういう部分は、往々にして心の動きを左右する。思わぬ瞬間に、突かれたくない部分を見逃さない鋭い言葉が飛んできて、ハッとした瞬間、心が揺れる。「いや、聞いてなかったんですけど」みたいな、例えばそういう感じで。あの時、グラウンドでそう感じていた選手がいたかどうかは分からないが、一般論として、こういう心の反応というのは、はっきり言ってしまえばどこにでもある。でも、そういう「自分に対する小さな言い訳」に対して自覚的であろうと努める人間は、極めて少ない。人間というのは、それほど強い生き物ではないからだ。

本当の意味でラグビーというゲームに必要なスキルを獲得するために、必要なチャレンジとは何なのか。今やっている練習は、練習のための練習になっていないか。今できることをベースに考えるのではなく、すべきことをベースに構成できているか。よくラグビーの世界で言われる「チャレンジした結果としてのミス」を重ねていると胸を張って言い切れるだけのチャレンジを、日々の練習の中で続けられているか。

そういう本質的な問いかけが、あの言葉だったのだと、俺は捉えている。そして 、同時にそれは俺自身に与えられた宿題でもある。本気のチャレンジに魅力を感じて駒場のグラウンドに足を運び続けているという意味では、選手/スタッフだけでなく、俺自身も同じだからだ。そのことを決して忘れずに、自戒の念を込めて。

でも、すべきことは変わらない。突き進むだけだ。

Friday, May 24, 2019

勝手に事業部通信 Vol.11 (5/24/19)

You are not the code you write.
(あなたが書いたコードへの批判は、あなた自身への批判ではない。)
ー プログラマーの格言

先日、ラインマネージャー研修で3時間ほどの講義と簡単なワークショップに参加してきました。
"Positive Leadership Edge"というコースで、リーダーシップ自体はコア・コンピテンシーの1つだと思うのですが、リーダーシップを具体的なアクションに落とし込む上で必要とされる指針やマインドセット、コミュニケーションにおいて意識すべき基本的なポイントなどをざっと流していくもので、率直な感想としては、比較的面白い研修でした。

この3時間のコンテンツの中で、色々なキーワードが紹介されていたのですが、その中に"5 Positive, 1 Negative"というのがあったんです。要するに、組織運営においては時に厳しいメッセージも必要であり、5:1程度のバランスでネガティブにも触れるのがリーダーシップの要諦だということですね。この研修に参加されていた複数のラインの方が「このように分かりやすく『理想のメッセージ比率』をガイドされたことはなく、非常に参考になった」といったコメントをされていました。

でも、私としては、心に多少の引っ掛かりがあるんです。
というのも、この言葉を聞いた直後の1st Impressionが頭から離れないんですよね。
"1 Negative"って、本当に必要なのか。別に"Full Positive"でいいんじゃないかなと。

人はそれぞれバックグラウンドも価値観も違うので、チームで仕事をしていれば様々なギャップが生じるもので、それ自体は自然なことだと思います。そして、単純に依拠する価値観の違いによって生じるギャップで、それ自体に優劣など存在しないといった類のものもあれば、スキルや経験の蓄積によって生じるギャップで、ある程度まで補正するのが正しいケースもあると思います。

例えば、私が大学ラグビー部のコーチをする時に、選手たち自身の胸の内に、チャレンジしてみたい戦略や戦術なんかがある程度まで浮かんでいるとします。やってみたいという思い自体を「正しいか、否か」という視点で批評することなどできないので、私が語りかける言葉は「うん、やってみようか」しかありません。プレーするのは、選手たち自身ですから。でも、やりたいことに対して、実際にやっていることや、あるいは選手が取っているアプローチが明らかに乖離してしまっていると感じれば、修正をかけていく。明らかに間違ったプレーというのも、確かに存在しますからね。

ただ、これを"Negative"にする必要はあるのでしょうか。
ライン/非ラインなど関係なく、仕事をしていて生じるギャップへの向き合い方として、あるいはチーム・ビルディングというプロセスにおいて、ネガティブを全部まとめてポジティブに変換できないものでしょうか。子どもにオセロを教える時に、取られてしまった黒石のことではなく、どこに白石を置いてあげれば色が反転するかを伝えるのと同じように。

いつもラグビーの話になってしまって、自分の抽斗の少なさに我ながら呆れてしまうのですが、ラグビーのコーチングにおいては、ボールをよく落とす特定の選手に対して「落とすな」とも「ボールを落としすぎだ」とも言いません。少なくとも、私は言わないようにしています。理由は単純で、本人が一番分かっているからです。(チーム全体に対しては、ムードを引き締めるために伝えることはあります。)
そうではなくて、「ハンズアップして構えておくと、キャッチ率が上がるよ」に変えていく。あるいは「ランニングはいいから、あれが取れるようになると相手には脅威だね」にしていくんです。
私の中では勝手に「可能性トーク」と命名しているのですが、要するに「今、目の前にある課題」をそのまま語るのではなく、「それがちょっとでもプラスに改善した時に見えてくるはずの明日」を語るようにしたいなと。まあ、こんなふうに書いておきながら、実際の自分はそうやって生きられない瞬間の連続だったりもして、いつになったら人として成熟できるのかなあと途方に暮れる毎日ですけど。

チームで活動していて、お互いが本気になれば、厳しい指摘が飛んできたり、時に激しいぶつかり合いになったりというのも普通のことです。馴れ合いで仕事するのはプロフェッショナルではないと思います。でも、一通り厳しさと本音の衝突があった次の瞬間に、オセロの黒石を反転させるような言葉が自然と続いていくような組織の方が、やっぱりいいんじゃないかなという気がします。なにより、その方が心地よいですしね。

大型連休で溜まっていた業務の波が押し寄せてきて、誰もが疲労を溜め込んでいる頃かなと思いますが、週末はゆっくりリフレッシュして、この1週間に生じたあらゆるコミュニケーションを振り返りながら、本当は打てたかもしれない「起死回生の一手」を探してみるのも面白いかな、なんて個人的には考えています。良い一手には、たった1つの石だけで盤面を埋めていた黒石を一気に白くしてしまうパワーがある訳ですから。

残念ながら、オセロの名手には到底なれませんけど。

Friday, April 05, 2019

勝手に事業部通信 Vol.10 (4/5/19)

早く着きたいなら1人で行きなさい。遠くまで行きたいなら、みんなで行きなさい。
ー アフリカの諺

慌ただしかった1Qもあっという間に終わり、もう4月。新元号も発表されて、日本全体がフレッシュな心で新たな日常へと向かっていく中で、もはやタイムリーな話ではないのですが、遡ること2週間ほど前の3月下旬、6歳になるうちの子が幼稚園を卒園したんです。もちろん休暇を取って卒園式に参加したのですが、なかなか楽しい幼稚園で、子ども達からの歌の発表があったり、保護者と先生方で一緒に作り上げた劇があったりとコンテンツの充実度は驚きのレベルでした。
ただ、個人的に心に沁みたのは、式次第を一通り終えて、子ども達が自分の教室に戻ってから、担任の先生がプレゼントしてくれた「最後の読み聞かせ」だったんですよね。
『そらのいろって』(ピーター・レイノルズ作画、なかがわちひろ訳)という絵本、皆さんはご存知ですか。クラスのみんなで図書館の壁に絵を描くことになって、どうしても「空を描きたい」と思ったマリソルが絵の具箱を見ると、青がなかったというお話です。

良質の絵本を教訓で読んでしまったら本当につまらないのですが、空の色はもっと自由に見てもいいんだよ、というのが当然ながらよく語られるメッセージで。
でも、本当にいいなと思うのは、その後なんですよね。
「マリソルは絵の具を筆でかきまぜて、全く新しい色を作った。」という一節が、もう本当に堪らない。思わず感じ入ってしまった私は、「いつか書かなければ」と勝手に思っていました。

自由に考えよう。固定観念に囚われず、大胆に発想しよう。
どことなく閉塞感がないとも言えない時代にあって、テクノロジーに求められるものも堅牢性と信頼性から変革/改革 (Disruption / Transformation) へとシフトする中で、こういうメッセージが声高に語られることが増えてきています。IBMらしい言葉だと、"Think Big, Think Bold" といった感じですよね。

でも、自由に考えればいいと言われても、どこから考えればいいか分からない。固定観念を捨てようと言われても、どこまでが固定観念でどこから社会常識なのか、実は自分自身でもよく分かっていない。
それが人間だったりするんじゃないかと思うこと、ないでしょうか。斬新なアイデアとか、誰も思いつかなかったようなコンセプトとか、そんなの近くに転がってないよって。
もっと身近なところでも、日常の営業活動や1つひとつのご提案、Account Planningのような場面を思い返してみても、「自由な発想で」なんて言われることの方がむしろ重荷だったりすることも、あったりなかったりで。

なんて、どのみち行き場のない思いだと分かっていながら、とりとめもなくそんなことを考えている金曜日の夜に、もしかするとあの絵本はヒントをくれるのかなと思ったりもするんです。
新しい色を作るには、かきまぜてみるのがいいのかなと。
自分の色は変わってなくても、出来上がりの色は新しい色になっている訳ですから。
1人で考えていたら、誰にブレーキを踏まれることもなくどこか自由なように感じるけれど、本当は他者の意見や性格、こだわりや執着のような一見すると「制約」に見えてしまうものをブレンドした方が、アウトプットはむしろ自由なのかなと。

これだけ多様なメンバーが揃ったチームなので、週明けからもまた続いていく日常業務の至る場面で「混ざる機会」は溢れているのだと思います。そう言いながら、私自身さほど社交的でもなくて、無駄に気を使って声をかけられないとかも(一応)あったりで、何かを大上段から言える訳でも、言うつもりもないのですが、いつもよりもう一歩だけ、自分から混ざってみたり、小さな瞬間にメールではなくて電話で声のやり取りをしたり、そんなところからも「チーム全体の発想力」は少しずつ変わっていくのかもしれないですよね。

4月。新たな仲間として、新入社員の内田さんも事業部メンバーに加わってくれたので、皆でやり取りをして、混ざっていけるといいかなと思います。
絵の具箱に今までなかった色が、1つ増えたのですから。

Saturday, February 09, 2019

勝手に事業部通信 Vol.9 (2/9/19)

成功は必ずしも約束されていないが、成長は必ず約束されている。
ー アルベルト・ザッケローニ(サッカー監督、1953-)

「そういえば、ブロックチェーンって最近あまり聞かないね。」
日頃からビジネスの現場でお客様と向き合って次世代のITを提案し続けている私たちでさえ、ふとそんな雑感を抱くことはあるのではないでしょうか。
私自身はデジタル部という立場上、ブロックチェーン関連の案件であったり、あるいは案件のタネのようなものに今でも複数携わっていますが、革命的なテクノロジーとしてIT業界全体が一斉に乗り出したブロックチェーンが、リアルなお客様の業務変革へと繋がった事例となると、今もって殆ど思い当たらないという人が大半ではないかと思います。
Cognitive/AIも、残念ながらこれと同じような構造に陥っている印象は否めないのかもしれません。「新たなユースケース、あるんですか」といった呟き声が、どこからか聞こえてきそうです。

でも一方で、エストニアのような事例もあります。
バルト三国の1つで、人口わずか134万人という北欧の小国ですが、世界で最もブロックチェーン・フレンドリーな国家としてその名を轟かせているIT先進国でもあります。

エストニアといえば電子政府(e-Goverment, e-Estonia)が有名で、行政サービスの実に99%が24/365で稼働するオンラインシステムで完結するといいます。
(ちなみにオンラインで処理できない手続きは結婚/離婚/不動産売却の3つのみで、これらに対応していない理由は「人生の一大事を早まってはいけないから」とのこと。人間的ですよね。)
これを可能にする仕組みの1つが国民IDです。すべての国民に11桁のID番号が付与され、このIDをキーとしてあらゆる行政サービス、更には民間サービスも繋がっていくのですが、エストニアでは赤ちゃんが産まれると病院がオンラインシステムで国民登録手続きを申請し、生後10分でその子に紐づくID番号が生成されます。そして、この国民IDをベースにしながら、様々な官民の分散データベースをセキュアに連携させるプラットフォームとして開発された"X-Road"を導入することで、出生に限らず選挙から納税に至るまでのあらゆる手続き、あるいは学校でのテスト記録やあらゆる医療情報の参照、更には民間銀行のオンラインバンキングとの連携まで、この国民IDのみで可能な世界が実現されています。

ここまで来ると、今度は情報セキュリティが気になりますよね。国民IDに紐づけられたあらゆるパーソナルデータは、本当にセキュアに管理されるのかと。ここで登場するのが2007年に設立されたGuardtime社という民間企業が開発した「KSI (Keyless Signature Infrastructure)ブロックチェーン」と呼ばれるテクノロジーです。実はエストニアは、2007年に大規模なサイバーアタックを浴びて多くのサービスが機能不全に陥ったことがあり、これを契機としてKSIが導入されると共に、国家レベルでのブロックチェーン採用の動きが加速していくんです。

エストニアの話は非常に面白くて、詳しくはここ最近読んだ久々のお勧め本『ブロックチェーン、AIで先を行くエストニアで見つけたつまらなくない未来』(小島健志 著、孫泰蔵 監修、 ダイヤモンド社)を読んでみてほしいのですが、要するに、「もう未来ではなくなっている場所」も実際に存在するんです。

「ブロックチェーンもAIも、まだどこまで行っても眉唾だ」というのも、1つのポジショニングではあると思います。もっと言ってしまえば、こういう先進テクロノジーに限らずとも、IBMとして実績の裏付けが十分に蓄積されていない最新ソリューションやミドルウェア、最近ではAWSやOpenShift、Containarizationからマイクロサービスに至るまで、先端技術と呼ばれるものの多くが、どこか同じようなコンテクストのもとで、多少斜めに見られることも少なくないですよね。そして、そういう冷静かつリアリスティックな視座というのは、私たちにとって間違いなく必要なものでもあると思います。バズワードに踊るのは、お客様をバスワードで踊らせてしまうことでもありますので。

でも、BAUから解放されてリラックスできる週末の昼下がりなどは、そういうクールな視点を一旦頭の片隅に追いやって、例えばビル・ゲイツのこんな言葉に耳を傾けてみてもいいのかもしれません。
「人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された」

ザックが成長を約束している人間というのは、どういう人だと思いますか。
そう問われることがあれば、私なら迷わずこう答えます。
不可能を受け入れないという選択から目を逸らさなかった人なのかもしれないですね、と。

でも本当は、そこまで大袈裟な話でなくても、新しいチャレンジに向き合って、結果的に成功ばかりではなかったり、トラブルに苦しんだりすることも少なかったりしたとして、そこから目を背けないというだけで、きっと成長は約束されているような気がします。
そして、苦しみの渦中にいる人にとって「成長の約束」だけで心が洗われる訳でもないのかもしれないけれど、それでもきっと未来には繋がっていると思います。

Monday, December 31, 2018

勝手に事業部通信 Vol.8 (12/31/18)

「人はね 向かい合ってる人からは本当は身につくものは学べないのよ 本当に教えたいなら うしろから」 ー 末次由紀『ちはやふる (40) 』(講談社 BE LOVE KC)

最近、スポーツの世界では選手の自主性を重視した効率的な練習運営がフォーカスされているのをご存知でしょうか。

例えば、静岡聖光学院ラグビー部。1日60分の練習を週3回しかできない制約条件のもとで花園(全国高校ラグビー)への切符を勝ち取ると、12/28に行われた1回戦も突破して話題を集めています。彼らのアプローチは、徹底的な密度の追求。すべきことだけにフォーカスして、不要なものを削ぎ落としていくことによって、60分を凝縮させていくんです。

あるいは、帝京大学ラグビー部も近年非常に注目されているチームです。今シーズンは3年ぶりに公式戦での黒星を喫しましたが、未踏の大学選手権V10に向けて着々とチームを進化させています。
チームを率いる岩出雅之監督のアプローチは、楽しさへのこだわりと、上下関係を再構築したフラットな組織運営の2つです。新入部員として初めて入寮した1年生をあらゆる雑用から解放し、4年生に雑用を担ってもらうのと併せて、練習の合間には3人トークというスモールミーティングを学年縦割りで頻繁に行って、相互理解を深めていきます。
もちろん、こうした分かりやすいカルチャー変革だけが常勝軍団を作った訳ではないですが、チームの躍進を支える大きな原動力となっていたのは間違いありません。

いわゆる体育会的な上意下達モードの硬直的組織から、新たな世代の選手たちにフィットした柔軟な組織へ。誰かに与えられた課題を精神論でこなすだけのチームから、自分たちで主体的に考える選手を育てるためにコーチが支え、見守るチームへ。
こうした流れは、ラグビーに限らず多くのスポーツで注目されていて、実際に各レベルのトップチームが明確な成果を挙げてきています。箱根駅伝で有名な青山学院大の陸上競技部なども、その1つですね。

とはいえ、体育会的なものが全否定されている訳でもありません。理由は単純で、効率的に成長しても、成長の量が足りなければ結局勝てないからです。
結果へのコミットや勝利への徹底的なこだわりは、単に「心地よい組織」だと決して持ち得ないもので、そして、勝利する者たちは唯一つの例外もなく、勝利に対して徹底的にこだわっています。

でも、間違いなく言えるのは「『部活』ではもう勝てない」ということです。自発性が中心になければ、強いチームは生まれない。そしてもう一点、強い個人が集まったチームが必ずしも強いとは限らないというのも興味深いポイントです。組織のフラット化、上意下達からの脱却を通じて、世代を超えたメンバーがOne Teamとなって初めて、トップレベルを生き抜く戦闘集団になります。

--

2018年も大晦日を迎えて、今年1年間をゆっくりと振り返っている方も多いことと思いますが、自分自身だけでなくチーム全体、あるいは事業部全体という視点に立つと、やはり思うんです。
「チームで強くなる」という部分で、スポーツの世界で起きていることがヒントになるのではないかと。明日から始まる2019年には、更にレベルアップできることが沢山あるような気がするんです。

IBMは「個の成長」に積極的にコミットしてきた会社だと思います。
研修やe-learningに限らず、メンタリングや各種の社内プログラムも含めて、会社が用意してきたコンテンツの充実度は、おそらく世の大半の企業を凌駕しているのではないでしょうか。
一方で、チームを育てること、あるいは強いチームへと成長させることは、ほぼ現場に一任されてきているように感じます。"IBM Experience"を通じて逞しく生き残ったヤツが集まれば、それこそが強いチームでしょ、みたいな。

本当にそうなんでしょうか。チーム力って、もっと引き上げていけないんでしょうか。
全員が自発性を持っていて、上意下達でない形で「 1人ひとりの思い」がきちんと表現されるような。あるいは、「目標に対するこだわり」と「自分たちがやりがいを感じる仕事に向かう楽しさ」が同居するような。そういうチームって、会社という組織の中にあっても、目指していくための道筋がきっとあるのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、1月2日は全国大学ラグビー選手権の準決勝を毎年見ています。
巷に溢れるコンテンツの中で、1月2日に最高の彩りを与えてくれるのは、昔からラグビーと決まっていますので。

いずれにしても、まずは自発性ですよね。
誰かに依存せずに、誰もが自発的に考えて行動することをチーム全体が受け入れていくような風通しの良いチームを、皆で一緒に作りたいですよね。

皆さま、良いお年を。

Tuesday, December 11, 2018

勝手に事業部通信 Vol.7 (12/11/18)

何かをして何も起こらなかった時、飛ぶ可能性は上がっている。
ー 若林正恭(オードリー)『完全版 社会人大学 人見知り学部卒業見込』(角川文庫)

数年前のこと。Sales Learning(営業研修担当)部門が企画して、JMAC(日本能率協会コンサルティング)主催の異業種交流型研修にIBMとして参加していた時期があったそうです。
つい昨日、この企画に携わっていた(私にとっての)大先輩とお会いした際に伺ったエピソードは、非常に興味深く、そして考えさせられるものでした。

この研修は1社5名のチームで、5社合計25名が参加する形式だったそうです。IBMでは、Sales Learningから営業組織のリーダーにノミネーションを依頼して、クロスインダストリーのチーム構成で臨んでいました。
研修の中では複数のワークショップを行うのですが、各社のメンバー5人で行うものもあれば、各社1名ずつ分かれて、5社5名のチームを5つ作って行うアクティビティもあったりと、内容を伺っているだけでも非常に工夫に富んだプログラム構成となっているのがよく分かるのですが、最後にA社からB社へ、B社からC社へ、といった形で、各社チームが他の参加企業向けに具体的な提案を行うのだそうです。

IBMの提案はどうだったか。
この最終提案ワークショップを通じて、IBMメンバーはどのように動いていたのか。
言葉を変えれば、他企業と比較した際のIBM営業チームのカラーが、こういう活動の中で浮き彫りになっていく訳です。私は俄然、興味が湧いてきました。自分たち自身も、同じカルチャーの中で育った同じ営業の仲間ですから。

当時を振り返って、IBMチームはいつも研修の講師陣に褒められていたと、その方は教えてくれました。
「IBMの方は、関連資料の収集や検索に始まって、準備がすごく早いですね。それから、すぐに役割分担をしてパッと作業着手される手際は本当に素晴らしいですね」と。
でも一方で、IBMチームが参加5社の中でNo.1を取ることは、数年間の参加を通じて一度もなかったといいます。常に2番か3番だったと。プレゼンテーションは上手いのに。

「魂が入ってないんだよ」

常にうまくやる。綺麗に、効率的に捌く。でも、心を打たない。残念ながらそれがIBMの姿だったと。今はもう会社を退かれた尊敬すべき先輩のメッセージは、私の胸に突き刺さるものでした。
もし事業部メンバーや、関連チームの皆様の中にこの研修に参加した方がいらっしゃったとしたら、現場に直接関わっていた訳でもない私が、このように勝手に書き連ねることの非礼をお詫びしなければと思っています。でも、どこかに自覚症状があったりするんです。自分自身も含めて、日々に忙殺される中で、こういう傾向にきちんと抗えないでいる部分がどこかあるのかなと。
効率ばかりが優先されて、「知見の横展開」という耳障りの良い謳い文句の下、自ら考え抜くことが疎かになってしまった提案書の行く末を、私たちはよく知っているはずなのに。

本当に追求すべきは、クオリティ。効率よくつまらないものを大量生産するくらいなら、魂の入った1枚を徹底的に考え抜きたいです。たとえそれが、思い切り非効率な形でしか作れなかったとしても。

オードリーの若林さんは、ブレイクしたばかりの頃、プレゼントで「黒ひげ危機一発」をもらったことがあるそうです。(著書を読む限り)さほど社交的でもなかった彼は、自宅で1人、剣を刺していた。でも、黒ひげのおっさんが飛び出しても、1人なので盛り上がらない。しばらく続けていると、ゲームの趣旨が変わってきて「如何に早く黒ひげを飛ばすか」を考えながら、ひたすら剣を刺す若林さん。その瞬間、彼が気づいたのが冒頭の言葉だったそうです。漫才が受けなくて、何度もスタイルを変えて新たな挑戦を繰り返しながら、オードリーは1つ目の樽に必死で剣を刺し続けていたのだと。そうやって穴を1つずつ埋めていって、今の漫才の原型が形成された時、初めて最初のおっさんが飛んだのだと。

キャラクターも性格も、住む世界も違うけれど、同じように生きたいとは思います。
樽があるならば、剣を刺し続けないと。たとえ非効率に見えたとしても。

Thursday, September 27, 2018

勝手に事業部通信 Vol.5 (9/21/18)

「ブルース・リーになる試験はない。」
ー 山田玲司『非属の才能』(光文社新書)

先日、NHKである聾学校を取り扱ったドキュメンタリーを見る機会がありました。
聾学校という存在は当然知っていながら、これまで聾唖の方と接する機会は殆どないまま生きてきた私にとって、実際の聾学校での日常は全てのシーンが驚きの連続でした。
番組の中で描き出されていたのは、耳の不自由な子ども達にとっては「ごくありふれた日常」なのかもしれません。でも、ありふれた日常を安心して生きるためには、居場所が必要なんですよね。
子ども達を教える先生も、彼らと同じように音のない世界を生きてきた人生の先輩。きっと、子ども達にとって必要なのが「居場所」なのだということを、誰よりもよく分かってあげられる先生なのだと思います。
そんな素晴らしい先生に支えられ、「安心して、そこにいていいんだよ」と言ってもらえる場所があることで、子ども達は逞しく成長していきます。もちろん、ドキュメンタリーで映像化されるのは生活のほんの1コマで、映像の外側にある日常に想いを馳せる時に、軽々しく安易な言葉でまとめてしまってはいけないのだと思っていますが・・・。

「もし音が聞こえるようになる薬を神様がくれるとしたら、あなたは飲みたいですか」

子ども達に問いかけられた質問です。興味深いことに、半数の子は「飲みたくない」と答えたそうです。今の自分でいい。今の自分が好きだから、と。
飲みたいと答えた子の言葉も、心に響きます。「自分は音のない世界のことを知っている。だから次は、音のある世界のことも知ってみたい。」

飾り気のない素直な自己肯定。聾唖の子ども達のように、ある意味で明確なハンディキャップを抱えて生きる人にとって、安心して「所属」できることの意味と価値はどれほど大きいだろうと感じずにはいられませんでした。
でも、ふと思うんです。それって聾唖の子ども達だけでなく、誰にとっても言えることなんじゃないかなと。老若男女を問わず、学生/社会人の別を問わず、所属への安心は、自分を生きるための出発点なのかもしれません。

一方で、「非属」という考え方もあります。実はここ最近、個人的にずっと考え続けていることです。(元々属すのは苦手なタイプなので・・・。)
山田玲司さんは有名な漫画家ですが、漫画家の言葉は基本的に面白いものが多いんです。それは多くの場合、「自分たちはマイノリティである」という意識から来ているように感じます。
要するに、同調圧力への抵抗なんですよね。人と同じである必要はないと。誰も分かってくれなくても、自分が本当にやりたいことに忠実に生きればいいんだよと。
才能があるから非属が許されるのではなく、非属そのものが才能を作るのだと、山田さんは言います。より正確には、誰もが持っている自分自身の能力/個性を削り落さないための姿勢こそが非属である、ということかもしれません。

所属と非属。一見すると、相反する概念ですよね。
聾学校という場所に所属することで、小さな瞬間の中に「受け入れられる喜び」を抱きながら日常を過ごす子ども達。
学校なんて同調圧力の塊のような場所であって、その狭い世界で受け入れられるために自分を削る必要はないという漫画家。
2つの全く異なるタイプの心の叫びから、私たちは何を見出していけばいいのかなと、そんなことをこの1ヶ月近くぼんやりと考えています。まあ、考えてどうなる訳でもないんですけど。

でも、本当はこの2つは矛盾しないんだと思うんです。
会社での生活においても、いや、もっと身近に所属する事業部や営業部、更には担当チームといった単位で、まずは所属への安心感があってほしい。
その上で、こういう大きな組織/チームであっても、自分のスタイルを持って、自分らしく仕事ができて、「まあ、あれがあいつのスタンスなんだよな」みたいな小さな居場所があって。
表現を変えると、非属のままで属すことの許される場所。そういうのも悪くないんじゃないかなと、個人的には思うんです。

所属を支えるのは、きっと関心です。
「誰かは見てくれている」というのが、つまりは安心感ですから。

非属を支えるのは、きっと寛容です。
非属な人たちはマイノリティであり、寛容がなければ時に潰れてしまいます。

でも、もう一歩踏み込んでみると、寛容は関心から始まるような気がするんです。自分とは異なる価値観への興味があって初めて、人は寛容になれるのではないかなと。

隣の人の仕事に、関心を。
実はそういう小さな一歩から、何かが変わっていくのかもしれないですよね。

Tuesday, September 25, 2018

勝手に事業部通信 Vol.4 (6/30/18)

「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい
ー 森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)
 
発端は、1990年9月15日付の朝日新聞(地方版)に掲載された興味深い記事だったそうです。
< 老人の自殺、17年間ゼロ ここが違う徳島・海部町 >
この記事に注目したのが、当時慶應大学大学院修士課程で自殺予防因子の研究をしていた岡檀さん。彼女は実際に海部町を訪れてフィールドワークを行い、海部町の何が違うのか、自分自身の目で調査を始めます。その後、彼女の研究成果は『生き心地の良い町』(講談社)という名著となって世に知られることになり、これに感銘を受けた精神科医の森川すいめいさんが、改めて岡さんの足跡を辿るように海部町へと向かいます。

日本全国の自殺率を市区町村別に見ると、最も自殺率の低い上位10地区のうち、9つは「島」なのだそうです。物理的に海に囲まれた、ある意味では閉じた空間ですよね。
そして、トップ10で唯一の島ではない地域というのが、実は徳島県の海部町なんです。これだけでも、好奇心がくすぐられてたまらない。
森川さんは精神科医として「生きやすさ」ということをずっと考えていたそうです。自殺率の低さがすなわち生きやすさかどうかは分からないけれど、ひとが自殺まで追い込まれない町にはきっと、何かヒントがあるのでは。
こうして始まった学術的にもあまり類例のない自殺希少地域のフィールドワーク。岡さん、森川さんという2人がそこで見たものは、何だったのか。ちょっと興味、沸いてきませんか。

全てをこの場で紹介できないのですが、海部町には興味深い特徴が幾つもあるんです。
例えば、人口の決して多くない小さな町ゆえに、隣近所はほとんど皆が知ったもの同士。噂はすぐに町中に広がります。でも、実は皆が非常に緊密に繋がっているかというとそうではなくて、挨拶程度の間柄が大半なのだそうです。
逆に言えば、誰にでも挨拶はするんです。挨拶程度の緩いつながりが多方面に広がっていて、誰かが何かで困ったときに、どこかには助けてくれる人がいるんです。

海部町の人は、困っている人がいたら、相手がどう思うかを考える前に助けます。大切なのは、自分がどうしたいかなのだと。そして、見返りなど誰も考えていない。「助けっぱなし、助けられっぱなし」なのだそうです。
また、「できることは助ける、できないことは相談する」「困っていることが解決するまでかかわる」という2つの考え方も町中に根付いているといいます。
つまり「それ、私の仕事じゃないんで」という考え方は海部町にはないんですよね。人間関係は「密ではなく疎」なのに、困っているひとは決して放置しないんです。

第2四半期も終わって、週明けから2018年も下半期に突入ですが、ここで一度仕切り直して、組織やチームの形をもう一度考え直してみる時に、海部町には大切なヒントが詰まっているような気が(個人的には)しています。
コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、多様な考え方があるのが自然なことなので、一概に正解がある訳ではないのだと思うのですが、例えば、挨拶程度の緩やかなつながりでも、人は孤独感から救われたり、助けられるのだいうことは知っておいても良いのかなと思います。ベタな繋がりじゃなくても、まずは挨拶からでもいいのかもしれないですね。

Monday, September 24, 2018

勝手に事業部通信 Vol.3 (5/26/18)

「ルールに従っとるのがフェアだという人がありますが、そんなもんフェアじゃありません。ルールは人間が作ったものであります。だからそれによって善悪を決めるのはジャスティスのジャストであります。」 ー 大西鐵之祐(元ラグビー日本代表監督/早稲田大学最終講義より)

コンプライアンスなんて、本当につまらない概念だ。
そう思ったことがある人は、実際には少なくないのではないでしょうか。正直に白状すると、私もその1人です。ただ、コンプライアンスを軽視している訳ではありません。私が思うのは、「コンプライアンスを遵守していれば、それで事足りている」という発想のつまらなさです。

ここ最近、巷間を騒がせている日大アメフト部の問題。fbなどを眺めていても、様々な批判や論評、コメントで溢れ返っています。
あまりにもスポーツの原点から乖離した悪質なタックルであり、その後の(タックルをした)当事者による謝罪、また監督・コーチの記者会見に至るまで、どこまでも哀しい顛末に誰もが胸を痛めているように思います。将来を嘱望された若きアスリートをあれほどまでに追い込んでしまう組織。たとえ指示があったとしても、最後の一線で踏み止まることができなかった選手。そして、自らの非を公の場で謝罪した選手さえ守ってあげられない指導陣。今でも競技スポーツの世界に携わっている身としては、この悲しい問題そのものを、これ以上語りたくありません。

ただ、私としては思うんです。ちょっとだけ視点を変えてみると、これと同じような構図は世間の至るところに蔓延しているのではないかと。
誰かの指示があったから、その通りに行動する。そういうルールだから、単純に従う。本当に大切にすべき価値観よりも、空気が優先される。どれもrootは同じですよね。「自分の頭で考えずに、誰かに判断を依存する」という意味で。
国内トップクラスのアメフトのゲームで起きてしまった不幸な事故だったから、世間からの批判を集中砲火のように浴びているだけで、自分自身の日常の小さな瞬間に、同じようなrootが全くないと言い切れる人間が、一体どれほどいるのだろうかと思わずにはいられません。人なんて、究極、そんなに強くないですからね。

往年の日本ラグビー黄金期にあって名将と呼ばれた大西鐵之祐さんは、その著書の中でも語っています。ジャストとフェアは違うと。
本当のフェアネスは、ルールに従うこと(合法性/just)ではない。
たとえ合法であったとしても、人間への尊厳に照らして自ら考え、魂が「No」だと言えば踏み止まる。ルールのような誰かの価値観ではなく、自分の責任と判断で、人間性を常に優先する姿勢こそがフェアネスだというんです。

コンプライアンスを遵守することは、合法性という観点で決して軽視されてはいけないと思います。でも一方で、コンプライアンスを遵守していれば良いというのは、思考の放棄ではないかとも思うんです。
そして、思考を止めてしまった先にあるのは、あの不幸な事件にあるものと相似形なのかもしれないと。
思考と判断は決して止めない。そして、決して誰かに委ねない。(よくアメフトと混同される)ラグビー人の1人として、そんなことを思う毎日です。

Sunday, September 23, 2018

勝手に事業部通信 Vol.2 (5/2/18)

2003年度 Jリーグ2nd Stage 第10節。
ジェフ市原 ○ 2-1 ● ベガルタ仙台 @仙台スタジアム
(得点者/ 仙台: 岩本 輝雄 (55分), 市原: 佐藤 勇人 (60分, 87分))

このシーズンのJ1 2nd Stageは歴史に残る激闘で、最終第15節はWikipediaにも残されているほどなのですが、それに先立っての第10節、ジェフ市原vsベガルタ仙台の試合終了後に、忘れられない名言が生まれていたことを、皆さんはご存知でしょうか。

「2点を取ったのは佐藤でも勇人でもなく、ジェフというチームが挙げたものだ。私はそう考えている。」 ー イビチャ・オシム

--

私たちの事業部でも3月末に組織変更があり、4月から新たな体制がスタートしています。
これから日々を積み重ねていく中で、事業部全体としてもそうですが、組織の中でこういうサブチームが次々に生まれてきたら、きっと仕事は楽しいんじゃないかなと個人的には思ったりします。
想像ですが、きっと佐藤選手はチームで然るべき祝福を受けていたと思うんです。「ナイスゴール!お前の決定力がチームを救ったよ」と。個人としてのスキルとパフォーマンスなくして、チームの成長も、成功もないですから。
でも、その上で2点を挙げたのはジェフだとオシムは言うんです。つまり、個人を讃える文化と本物のチームワークは矛盾しないんですよね。

来週からGWが始まりますが、連休中に頭を巡らせてみたい個人的なテーマになりそうです。こういうチームというのは、どうすれば作っていけるのかなと。
結局のところ、事業部のカルチャーであれ、チームの雰囲気であれ、組織の空気を作っていくのはそこにいる個人でしかないので、まずは一個人としての自分を見つめ直してみようと思います。
まあ、半分くらいは今年から携わっているラグビー部のカルチャーをどうやって醸成していけるかな、という問題意識だったりもするのですが・・・。

GWでゆっくり休めそうな人もいれば、業務の都合上カレンダー通りの方もいると思いますので、勝手なことは言えませんが、日々チームで仕事をしている私たちが、一旦日常を離れて「一個人」としてリフレッシュして、普段とはちょっと違う視点で日常を振り返ってみたりして、また改めてチームとしての日常が始まった時に、すっきりした気持ちで「個人が個人を讃えつつ、チームとしてプロセスと成果を共有できる空気」が箱崎の22Fを満たしていたら、やっぱりいいなあと思います。

それでは皆様、良い連休を。

Saturday, September 22, 2018

勝手に事業部通信 Vol.1 (4/10/18)

ふりむくな、ふりむくな、後ろには夢がない。 ー 寺山修司『さらばハイセイコー』より

4月4日、水曜日。
遠くIBM Germanyから来てくれたSalvatore Romeoというイタリア生まれのSMEと一緒に、丸の内のお客様をコールしてきました。
時刻は午前11時。有意義なコールを終えたばかりの、JPタワーの車寄せ。この後、箱崎で予定しているお客様とのワークショップは13時スタート。
まずはランチでも、なんて考えていると、ふと聞かれたんです。「日本に行くなら桜を見てきなよって友達に言われてさ。どこか良い場所あるかな」って。"Sakura"は9,000kmも彼方のドイツでもやはり有名なんですね。

さてと、桜のシーズン。今年は寂しい別れも多くありました。
でも、一方で新たな出会いもあって、もう後ろを振り向くことも、その必要性も、私の中ではなくなっています。
私たちの事業部にも、2人の新入社員が来てくれました。もう覚えてもらえましたか。4/1から、私たちの仲間です。22Fで見かけたら、気軽に声をかけてあげてください。
2人のアドバイザーと共に、私も一緒になって5人で成長していきたいと思っています。一緒に輪に加わってくれる方がいるなら、いつでも大歓迎です。
後ろには夢がないけれど、この5人には前しかありませんので。

そういえば、最近こんなことがありました。
私は今年から大学ラグビーのヘッドコーチをしているのですが、キャプテンを中心とした首脳陣が課していたウェイト・トレーニングの目標値を3月末までに達成できなかった選手が、5人いたんです。
主将は2月にシーズンインした際、「目標に届かなければ、一定期間の練習参加を禁止する」とチームに宣言していました。でも、本当にノルマ未達成の選手が5人も出るとはおそらく考えていなかった。
貴重な戦力を5人失う。本当は一緒にグラウンドに立ってほしい。でも、俺たちは簡単な気持ちでこの宣言をした訳じゃない。深い葛藤が、首脳陣メンバーを苦しめて。
その後、チームはどうなったと思いますか。
あるいは、皆さんならこの状況でどうすべきだと思いますか。

決めたことを安易に撤回すれば、リーダーの言葉は重みを失う。そうかもしれません。
一方で、結果はともかく一生懸命やってきたヤツらだったのだとしたら、過去の宣言にこだわらなくてもいいんじゃないか。当然、そんなアプローチもあるかもしれません。

でも、私としては思うんです。どちらにしても過去のことだと。
5人に改めて伝えるメッセージは、「達成できなかった過去」ではなくて「達成できれば叶うかもしれない明日」なんじゃないかなと。ペナルティを課すにしても、あるいは撤回するにしても。

新入社員の2人とは、「前にあるもの」を共有したいと思います。
事業部の皆さんからも、2人が明日きっと経験することを話してもらえれば嬉しいです。後ろには、夢がありません。

Thursday, October 22, 2015

私的オールブラックス戦プレビュー

昨日久しぶりにblogをアップしたことで、自分だけの淡い記憶としてそっと残しておくつもりだった「私的スコットランド戦プレビュー」にもアクセスが流れていたようだ。結果的には予想と全く異なる展開になってしまい、非常に恥ずかしい限りだが、もう一度やってみることにしよう。南アの視点を想像しながら、「私的オールブラックス戦プレビュー」を。

スタート地点は、スプリングボクスの「今」だ。ゲームプランの出発点は、常に「自分たち」だと思っている。相手から入ってしまった時点で、既に相手の土俵なのだから。

南アのチーム状態は確実に上がってきている。最大の要因はもちろんジャパン戦に違いないのだけれど、ジャパン戦とそれ以降で南アが変えたのは何だろうか。
もちろん、デュプレアだ。SHのスターターにデュプレアが入ることで、ゲーム全体の構成力が格段に高まった。構成力というのは、ゲームプランの遂行能力というよりも、大局的な洞察力と局面での判断力の総和といったイメージで俺としては捉えている。ゲームプランは大切だが、どこまで行ってもプランでしかない。グラウンドにおけるベスト・チョイスは、必ずしもプランと一致しなかったりもする。そういう意味では、やや抽象的な表現になってしまうが、デュプレアがリードすることで、タフ・ファイトの南アに「老獪」という新たな武器が加わった。ウェールズ戦を見ても、チームのデュプレアに対する信頼感が伝わってくる。タイトなディフェンスも戻ってきている。またいつもの妄想で申し訳ないが、俺がコーチだったらミーティングでのメッセージは決まっている。
「ジャパン戦とそれ以降では、もう別のチームだ。あの日以降、君たちは4試合でわずか2トライしか奪われていない。平均失点はわずか10点。誇るべきタイトファイトだ。それでもメディアの誰ひとりとして、日本に敗れたチームが王者に勝つとは思っていないだろう。でも、NZはまだ厳しい試合を1つもしていない。俺たちは負けて失うものはないのに、勝てる流れも、勝つ準備も出来ている。歴史に名を刻めるお前たちがうらやましいよ。」
いやまあ、HCのメイヤーはもっと直球で檄を飛ばすのかもしれないけれど。

こういう流れの時は、自分に立ち返るのが鉄則だ。自分たちがすべきことに、ただ集中する。
南アにとってそれは、相手に恐怖心とフィジカルな痛みを徹底的に植えつけるディフェンスと、デュプレアに対するあくなき信頼ということになるだろう。ゲームメイクなんて、デュプレアに任せてしまえばいい。SOのポラードとのコンビで、この2人がすべてリードしてくれる。あとの13人はただ野獣であればいい。こう書いてしまうと、これほどまでに複雑化したラグビーにおける戦略の重要性を無視した議論だと怒られてしまいそうだが、戦略面での緻密な分析と準備など、当然してくるに決まっている。このレベルの選手たちは、忘れたくても忘れられないほどに、戦略の意味も、個々のプレーに対するアジャストの仕方も、身体が覚えているから大丈夫だ。

とはいえ、本音を言うと、オールブラックスを分析できるほどの蓄積が残念ながら俺の中にないだけだったりもする。そもそも、オールブラックスのゲームも2試合(ジョージア戦、そしてフランス戦)しか観ていないので、イメージも具体的なソースも限られてくる。それでもなんとか考えてみると、NZはどことなく、ブレイクダウンにあまり人を割かないイメージがある。非常に良い意味で、スマートなラグビーだと思う。一方の南アは、アタックもディフェンスも、ブレイクダウンでは思い切り勝負してしまうのがいいんじゃないか。アタックはPick&Goのようなプレーも積極的に織り交ぜながら、「密集近辺」というよりも「密集そのものでの戦い」を執拗に繰り返していくのが効果的ではないかと思う。マイボールでもカウンターラックのように押し込んで、ラックの真上というかど真ん中をピックしていくような。まあ、あくまでイメージだけど。最近では「リサイクルベース」というのがアタックの主流になってきているが、もうそういう言葉はどうでもいい。俺たちは「パンチベース」だと。そういう開き直ったアタックを見せてほしい。ディフェンスも同様で、絡めると思ったら絡みにいこうぜと。アライメントもパンチもどちらも重要だが、悩んだらパンチを優先しようぜと。こういう匙加減でゲームを組んでいくのが、南アにとってはよいのかなという気がする。

書いているうちに、もはやプレビューでも何でもない個人的かつ希望的観測になってきてしまった。
まあでも、それでいいかな。こうして想像を膨らませながら観るラグビーもまた格別だ。

オールブラックスは本当に素晴らしく、圧倒的な強さを持っていると思う。
でも、2011年W杯の決勝だって、誰がもフランスでは歯が立たないと予想していたんだ。
最後にメイヤーに代わって、届くことのないメッセージを勝手に書き残しておこう。
「W杯の歴史にアップセットは存在する。でも、一度も苦しまずに優勝したチームは存在しない。」

Wednesday, October 21, 2015

rugby respects people, people respects rugby.

ちょっと煮え切らないものがあるので、書いてみたい。
オーストラリアvsスコットランド戦における「誤審」のことを。

まずはシンプルに、事実だけを整理してみよう。
34-32でスコットランドがリードしたまま迎えた後半38分。最後までゲームの行方が分からないぎりぎりの状況の中、スコットランドが不遇にもノックオンオフサイドを取られてしまう。結果的にこれがオーストラリアの逆転PGとなって勝負は決したのだけれど、映像による事後検証の結果、オーストラリアの選手が事前にボールに触れていたことが明らかになった。つまり、ファクトベースではミスジャッジだった。スコットランドの選手たちは、笛の直後にグラウンド上でTMOを要求したが、トライに至るような場面ではなかったために、レフリーのジュベールは要求を受け入れなかった。スコットランドにとっては悲劇的だったノーサイドの直後、ジュベールは足早にグラウンドを去り、その姿勢も多くの批判を浴びた。そして最終的に、World Rugbyはジュベールの判断がミスジャッジだったと公式に認める声明を発表した。これが一連の顛末だ。

その上で、俺のポジションも明確にしておきたい。
確かにミスジャッジだった。これは映像が残っている以上、否定しがたい事実だ。でも、あくまでミスジャッジであり、アンフェアなジャッジではなかったと思う。それでも「プアなジャッジだった」という批判はあるかもしれないが、仮にそうだとしても、この日のグラウンドはジュベールに委ねられていた。この事実は変わらない。また、スコットランドのTMO要求を受け入れなかったのも、ルールに即った対応として正当に認められるべきスタンスだと思う。ジュベールにグラウンドで両軍の奮闘を讃えてもらいたかった、というのは俺も多くの人と同じ感覚だ。ただ、World Rugbyの公式声明については、正直に言って、なくてもよかったのかなと思っている。理由はシンプルで、ジュベールはもう既に十分な辱め(制裁)を受けていたと思うからだ。

ラグビージャーナリストの村上晃一さんは、Blogの中で書いている。
http://www.jsports.co.jp/rugby/loverugby/post-2314/

「おそらく、この問題を長引かせないために早めに発表したと思われる。それはレフリーを守る意味も含まれているだろう。(中略)今回の発表は良かったと感じている。間違いは認め、今後のレフリング技術のレベルアップに生かすべきだと思うからだ。」

断言するが、レフリング技術の向上と今回の声明は関係ない。あの声明がなくても、ジュベールは心に消せない傷を負ったんだ。誰も裁定をせず、永遠の闇として白黒がつけられないままにあの瞬間が葬られたとしても、ジュベール自身の心には、「彼にとっての真実」がいつまでも残るはずだ。実際にボールに触れてしまったオーストラリアのSHフィップスが、一切を語らなかったとしても指に残る感触を消すことができないのと同じように。

ジュベールは今後、ノックオンのたびに胸のどこかに疼きを覚えることになるのかもしれない。ナショナルマッチ、それも4年に一度のW杯で、ラスト2分をわずか2点差で迎えたQuarter Finalの笛を吹く人間の矜持というのは、きっとそういうものだと思う。それで十分じゃないか。もうカタはついた。これ以上、ジュベールに何を期待しようというのか。レフリング全体の向上を語るのであれば、ジュベールという一個人をスケープゴートにする必要はないはずだ。

「レフリーも人間であり、人間はミスをするものだ。」
よく耳にする台詞だ。でも、レフリーの人間性に人間的な眼差しを向けて、「ラグビーに人間の笛を」というのであれば、当事者であるジュベール自身の心に、もっと思いを巡らせてもいいはずだ。

今回のミスジャッジは非常にセンシティブな状況下だったこともあり、多くのコメントや論評が目に入ってくるが、ジュベールの内面にフォーカスした議論は全く見られない。

人間性へのあくなき尊厳をベースに考えるならば、最も大切なのは「徹底的に潰さない」ことだと思うんだ。結論をつけて、オフィシャルにミスだったという烙印まで与えることに、どうしても意味を見出せない。プレーヤーも、ファンも、協会関係者なども含めた全ての人間が、自分の心に問いかけて、自分の中でカタをつければいいじゃないか。

俺は人間的にラグビーを楽しみたいので、例えばあの瞬間、ファンが「バカヤロウ、ジュベール!」と野次を投げ飛ばしても、「それがラグビー」というスタンスだ。むしろ、そんな光景を味わい深いとさえ思う。右手に掴んだビール缶を握りつぶして、誰にともなく怒りをぶちまける。そんなファンだって、ラグビーのことは大好きだ。スコットランドを心から愛する人たちだからこそ、沸々と燃え上がる怒りを止められない。それで、いいと思うんだ。

でも、パブに流れついて仲間としこたま飲んで、思いつく限りの文句を吐いた後、ふと考える。
もっと辛いのは、スコットランド代表として戦ったメンバー自身なんだよな、と。
誇るべきスコットランドの英雄たちは、ラグビーに携わる人間を心から愛していて、ラグビーの文化を大切にする集団だからこそ、この辛い現実を黙って受け入れていくことになるんだよな、と。
その時には、もう仕方ないじゃないか。そうして、ファンも自分自身の中で、カタをつけていく。いつまでも引き摺って正解に頓着するのは、野暮だと思うんだ。


その上で、もう1つの人間性についても触れてみたい。

今回のケースで、TMOを求める心理はよく分かる。なぜなら、テクニカルに可能だからだ。「映像があって、実際にTMOという制度が存在するのに、なぜ適用しないのか」、そう考えるのは人間の性そのもので、十分に予想された反応だと思っている。それでも、ジュベールがこのシーンでTMOを採用しなかったのは、ルールに則っている以上、議論の対象外だろう。本当の問題は、こうしたケースを鑑みて、ラグビーは今後TMOをどのように位置づけるのか、ということだ。

俺の率直な感覚でいえば、TMOなきラグビーへの回帰は、もう世界が受け入れないと思う。つまりは、ミニマムで現状維持であって、その適用領域を拡大するか否かという議論になってくるような気がする。TMOの頻発によってゲーム全体のテンポが奪われているとの指摘もあるが、TMOが「公平性の担保」のみでなく、いまやエンターテイメントの側面を持っているのも紛れもない事実だろう。それに、事実を知りたいという「人間の性」を封じ込められるとも思えない。本質的にパンドラの箱のようなものなんだ。今回のノックオンオフサイドの特徴は、映像があれば「解釈を介さずに、ほぼ一意に判定される」という点にあるが、こういう類のプレーは、基本的にTMOとの相性がいいはずだ。この手のプレーを対象とするか否かが焦点の1つで、自分自身のスタンスはまだ明確に決めかねているが、いずれにせよ難しい議論だと思う。

でも、それでも、2019年に日本で笛を吹いてくれるのは、やっぱり人間だ。
ラグビーに、そしてグラウンドに立っている全ての人たちに、心からリスペクトを。

Wednesday, September 23, 2015

私的スコットランド戦プレビュー

スコットランド戦は、日本時間で本日(9/23)の夜。
さてと、ちょっと予想してみようかな。
いや、正確には希望的観測に基づく推論なのだけれど。

まず、スコットランド。
おそらくは極めてオーソドックスなラグビーをしてくるんじゃないか。複雑に仕込まれたプレーというよりも、シンプルに強さを出すことを考えてくるような気がする。ジャパンを意識するとなると、アジリティとエリアの2つを奪い取るのが基本的な戦略になってくるだろう。アジリティという観点では、パワープレイ。いわゆる重馬場の勝負。モール等もそうだが、ブレイクダウン全般に拘ってくるのではないか。そして、ボールを下げないアタック。ジャパンはディフェンスの出足が早いので、特に前半はボールを下げずに、個として強いプレーヤーをシンプルに当ててくると思う。ジャパンが中3日という点もふまえ、徹底的に削りにかかるというのが、私の個人的な見立てだ。ただ、これはおそらくジャパンからすると守りやすい。よって、結果的には我慢比べになっていくかもしれない。
もう1点のエリアマネジメントについては、「五郎丸に蹴らせない」というのがまずはポイントになってくるだろう。つまり、五郎丸にハイボールを上げるか、もしくは少なくとも彼の正面には蹴らない。キック自体は、特に自陣では多用してくるような気がするが、どのような種類のキックを、どこに落としてくるかは見所の1つだろう。南アの敗因の1つは、五郎丸のキックによって自陣での時間帯が想定よりも長くなり、かつそこでペナルティが続いたことだとおそらく考えていて、ブレイクダウンでの徹底勝負を厭わないといっても、自陣ではNo Penaltyが最優先になってくるはずだ。

対するジャパン。
おそらくロースコアゲームになるという覚悟をしていると思う。なぜなら、スコットランドのようなチームが、対戦相手に対する最大限のリスペクトと周到な準備をもってゲームに臨んでくるということの意味を、誰もが知っているからだ。ただ、それでもジャパンは特に気負うことなく、ベストパフォーマンスで戦ってくれると思う。もうこのゲームは、最初から格など関係ない。
ディフェンスは、南ア戦でかなり計算できている。ここはプランを細かくアジャストしていくというよりも、選手交替を含めて、80分間をいかに我慢するかがポイントだと思う。その意味では、やはりエリアマネジメントが肝だ。キックの効果的な活用は、ジャパンにとっても生命線になる。
アタックは、予想するのが難しい。天候にも依存するだろう。ただ、クイックテンポの重要性は当然ながら変わらない。サインプレーは、まだ隠し球を持っているような気がするけれど。ちなみに、個人的に注目しているキーマンはセンターの田村だ。小野の軽傷がなかったとしても、かなり面白い人選ではないかと思っている。なぜなら、(おそらく、非常によい意味で)ふてぶてしいからだ。こういうゲームは、15人全員が真摯に自分たちのスタイルに集中しながらも、どこか不敵なプレーヤーがいた方がいい。時にそれは、リーチでも五郎丸でも、あるいは田中でもないだろう。

前半、まずはジャパンがスコアで先行する。心からそう願っている。
早い時間帯にトライを奪えればベストだが、ペナルティでも何でもいい。そして、10-3くらいのイメージで前半を折り返す。2トライまで行ければ、前半で15点が見えてくるが、まずは10点がターゲット。
こうなったら、ジャパンだ。スコットランドはスターターのうち12人が初のW杯出場。ビハインドでハーフタイムを折り返すと、若さが強引さに変わる。もちろん、そこをコントロールする老獪なリーダーが、チーム内にはいるはずだ。でも、後半10分を越えてきた頃に、リーダーシップでの統率が徐々に切れてくる。戦略的パワープレイが焦燥的パワープレイにその様相を変えた頃が、福岡で勝負するタイミングだ。ここからきっと、ゲームは大きく動き出す。

もう、ここまで来ると予想でさえなくなってきた。
いずれにせよ、きっとジャパンは「特別でない」ゲームをして、誰もがもはや特別と思わないような展開で、勝利の雄叫びを上げてくれるはずだ。

Sunday, August 31, 2014

コーディングレス、そしてコーダー。

Fujitsu Software Interdevelop Designerに関する日経記事がきっかけで、という訳でもないのだけれど、コーディングという行為について、コードを書いたことがない素人が思うことを。

基幹業務を対象に、一定の日本語書式で作成された設計書からプログラムを自動生成するソフトウェアで、システム開発費の4割を占めるプログラミング費用が不要になるという日経記事は、様々な意味で反響があったようで、ざっと検索した限り、概ねネガティブな評価が多いようだ。テストデータの生成も可能といった点をポジティブに捉えたコメントも一部あるものの、「設計書作成が実質的にプログラミングと変わらない」、「この怪しいツールの後始末で大量のSEが泣かされる」といった酷評が総じて目立っている印象だ。まあでも、それ自体はどうでもいい。考えたいのは、このツールの実用性ではないからだ。そんなものは、1年もすれば歴史が証明することになるのだから。

俺が思うのは、それでも「コーディングレス」というのは1つの志向性であり続けるのかなということだ。イノベーションは、往々にして非効率や不便、あるいは素人からみた困難や分かりづらさが起点となって生まれる訳で、現在のシステム開発における「コーディング」という行為に、イノベーションの種がないとは思えない。一方で、コードがビジネスをある程度まで規定するようになっている昨今、業務ニーズと戦略さえあれば、コーディングレスでアプリケーションを作成できる世界というのは、ITの理想郷として、ずっと存在するのかなという気がする。その実現が、数年後なのか、十数年後なのか、あるいは数十年後なのかは分からないけれど。

でも、ここでもう1つの観点が頭をもたげてくる。
日経のヘッドラインは、プログラマーという職種の今後にどこか消耗戦の雰囲気を想起させたけれど、どちらかというと、プログラマーの重要性は今後むしろ高まっていくのではないだろうか。いや、こう書くとやや誤解を招くかもしれない。より正確には、ハイスキルなごく一部のプログラマーの存在感が、(この世界における)他の職種を圧倒していくのかなというのが、なんとなく感じていることだ。

コーディングレスといっても、バックエンドでコードを自動生成する訳で、誰かがコードを書いているという事実は変わらない。コードを自動生成するためのコードを、より高い次元で、より生産的かつ効率的な方式で、より美しく、より汎用的に書ける人間がどうしても必要になってくる。宇宙の果てを考えると、果ての先が分からなくなるのと同じように、コーディングレスの世界を考えていくと、バックエンドに不可知の領域が横たわっているのは当然で、あまりにこの志向性が強くなりすぎると、最終的にはバックエンドを司る人間が、かなりのパワーを持つことになるような気がしないでもない。

そういえば先日、ある業界イベントで"Infrastructure as a Code"という考え方について、40分ほどの講演を聴いてきた。オープンソースの構成管理ツールであるShefを活用して、システム基盤をソフトウェア的に管理するというものだ。Shefでは、Recipeと呼ばれる基盤の構成情報をRubyプログラムで記述して、サーバーに自動実行させるのだけれど、プログラムに管理させるということは、プログラムの品質が管理品質に直結するということだ。まあ、俺自身はエンジニアでもないので、そこに求められるプログラムのレベルもよく分からないけれど、Shefに限らず、ソフトウェアで諸々の挙動が制御されていく世界では、機能的に(そしておそらくは、それ自体としても)美しいコードを書ける本物の職人が、極めて重要になっていくはずだ。

Fujitsuの取り組みがどう転ぶかは、静かに見守っていればいい。
でも、コーダーは大切にした方がいい。少なくとも、世界を握るかもしれない特別なコーダーと、その卵のことは。

Wednesday, August 20, 2014

『The DevOps』、水天宮前を歩きながら。

The DevOps 逆転だ!究極の継続的デリバリー
  • 作者: ジーン キム,ケビン ベア,ジョージ スパッフォード,長尾 高弘,榊原 彰
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2014-08-18

  • 朝。地下鉄に揺られて会社に向かい、水天宮前で降りるといつもの光景が待っている。
    改札を出て比較的長めの動く歩道を越えると、必ずぶつかるのが渋滞だ。そこから先、4B出口までの階段が狭すぎてボトルネックになっている。そんな訳で駅員さんは毎朝、動く歩道の終端で通勤者を誘導している。「申し訳ありませんが、左側に大きく迂回ください」って。終端付近で渋滞してしまうと、動く歩道から降りられず危ないからだ。

    でも、ダメなんだよ。毎朝、心の中でひとり呟いてしまう。
    出口では解決しないんだ。動く歩道の入口をコントロールして、流量制限しないと。階段幅は、急には広がらないのだから。

    さて、本書だ。
    書評を書くのは随分久しぶりだが、個人的になかなか興味深かったので紹介したい。
    パーツ・インターナショナル社の社運を賭けた新システム開発、「フェニックス・プロジェクト」をめぐる幾多の困難を、新任VP(Vice President)としてIT運用を担うビルが乗り越えていく物語。有名な『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著)のシステム開発版と思ってもらえば、ほぼ問題ない。ITプロジェクトにまつわる典型的な問題を、小説という形式の中でデフォルメすることで、分かりやすい形で提示した著作だ。それでもIT特有の用語が多く、業界関係者でなければ読みづらい部分はあるかもしれないが、一方で、システム開発に携わった経験がある人間にとっては、楽しく読める内容になっていると思う。ちなみに、書店で見かけて購入を決めた理由の1つは監修者だ。個人的にもお世話になっている榊原彰さんと来れば、買わない訳にはいかない。それにしても、こうした著作の監修までされているのには少々驚いた。

    この形式の先駆的著作といえば、やはりなんといっても『ザ・ゴール』なのだが、本書のストーリー自体においても、『ザ・ゴール』でエリヤフ・ゴールドラットが提示した制約条件理論が、その中核となっている。主人公のビルにとっての事実上のメンターとして、彼を成功へと導くエリックは、「4つの仕事」、「3つの道」というフレームワークを道標として、プロジェクトにおけるボトルネックを見極め、適切にコントロールすることで、スループットを最大化させるために示唆を与えていく。詳細は本書を読んでもらいたいが、極めて合理的な考え方だと思う。『ザ・ゴール』の制約条件理論が、必ずしも工場の製造工程だけに該当するものではないのは、まったくもって自然なことだ。システム開発を工場とのアナロジーで考えるのも、目新しいアプローチでは決してなく、極めてオーソドックスなものだと思っている。その意味で本書の価値は、理論的な側面からの斬新性にある訳ではない。どちらかというと、エンターテイメント性と分かりやすさだろう。

    ただ、本書を読んでいて、改めて考えてしまった。
    ゴールドラットの制約条件理論がシステム開発にも十分に適用できるように、システム開発における改善アプローチは組織運営全般にも適用できるのではないかと。
    この物語が提示する課題認識に共通するものは、日常の中にいくらでも感じ取ることができる。ボトルネックに手をつけなければ、それ以外の部分をどれほど改善してもスループットは上がらない。一方で、特定のワークセンター(あるいはキーパーソン)がボトルネックとなる理由の一端は、「自分がいなければ廻らない状況」を彼ら自身が(意図的かどうかは別として)作り出してしまっているからだ。ボトルネックのリソースは、徹底してスループットを最大化するための活動に費やされなければならない。どれも、至るところに転がっている話じゃないか。開発じゃなくても、たとえば営業活動でも同じように。

    本書の主題はシステム開発プロジェクトであり、この流れの中でキーワードとなるのがDevOpsだ。Dev(elopment)Op(eration)s、つまり「開発と運用の一体化」だ。もちろん、曲がりなりにもこの業界で仕事をしている1人として、DevOpsというコンセプトには非常に興味を持っている。「IT業界ではお馴染みのバズワードじゃないのか」といった向きもあるのもしれないが、とやかく御託を並べるのは一旦先送りにして、素直に乗っかってみたいと個人的には感じている。理由はシンプル。それが本質的にはプロダクトでもテクノロジーでもなく、「人間のふるまい」にフォーカスしたコンセプトなのかなと思うからだ。結局のところ、人間が一番面白い。いつだって、中心にあるのは人間そのものだ。

    ただ、本当に考えたいのはDevOpsというよりも、"Something like DevOps"なのかもしれない。
    組織で生きている以上、組織を考えない訳にはいかないからね。水天宮前の階段のように、解消できないボトルネックばかりではないはずだ。


    ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
  • 作者: エリヤフ・ゴールドラット,三本木 亮
  • 出版社: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2001-05-18

  • 継続的デリバリー 信頼できるソフトウェアリリースのためのビルド・テスト・デプロイメントの自動化
  • 作者: David Farley,Jez Humble,和智 右桂,高木 正弘
  • 出版社: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2012-03-14


  • Saturday, April 19, 2014

    到達する場所は、きっと違う。

    アーティストになれる人、なれない人 (magazinehouse pocket)

  • 作者: 宮島 達男
  • 出版社: マガジンハウス
  • 発売日: 2013/9/24

  • 書店をふらついていたら、偶然目に留まった1冊。
    宮島達男×大竹伸朗とあったら、やっぱり買ってしまう。ほとんど知らない現代アートの世界にあって、以前からどことなく好きなんです。この2人の作品が。

    書籍としてのクオリティは、それほどでもないかもしれない。対談集というのは、基本的にやや散らかってしまうもので、致し方ない部分もあるかなと。
    ただ、大竹伸朗の素晴らしい言葉に出会えただけで、俺としては満足している。わずか1つのフレーズにこそ価値があるような書籍があっても、いいじゃないか。
     俺、そんな場所を目指してます。 

    人から何か言われてやめてしまうとしたら、そこまでだということです。(中略)ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。(中略)だけど、大事なことは、その『持って生まれたもの』がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。『持って生まれたもの』がなかったとしても、もしそれを50年間弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。

    Sunday, March 16, 2014

    お勧めの本を。

    久しぶりに、本のことでも。
    2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
    まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。

    そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。

    まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。

    クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実
  • 作者: リンダ ポルマン, Linda Polman, 大平 剛
  • 出版社: 東洋経済新報社 (2012/12)
  • 発売日: 2012/12

  • 人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。

    フェアトレードのおかしな真実――僕は本当に良いビジネスを探す旅に出た
  • 作者: コナー・ウッドマン, 松本 裕
  • 出版社: 英治出版
  • 発売日: 2013/8/20

  • 本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。

    トップ・シークレット・アメリカ: 最高機密に覆われる国家
  • 作者: デイナ プリースト, ウィリアム アーキン, Dana Priest, William M. Arkin, 玉置 悟
  • 出版社: 草思社
  • 発売日: 2013/10/23

  • 9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。

    Monday, January 13, 2014

    大学ラグビー決勝。

    ラグビー大学選手権決勝。
    帝京大 41―34 早稲田大(13:00K.O. @国立競技場)

    タマリバ時代の仲間3人と久しぶりに再会して、皆でTVでの観戦となった。
    個人的な印象だけでいえば、帝京大の完勝だと思う。最終スコアは7点差といっても、実際には危なげない勝利だった。早稲田大の関係者には申し訳ないけれど、底力の差はもっとあるのではないだろうか。ただ、これが選手権決勝だ。きっとそれは、"One of them"では語れないゲームなのだと思う。「それでも帝京大は終始落ち着いていた」とか、「慌てる様子もなかった」といった論評が既に多々見られているけれど、このゲームが特別だというのは、帝京大にとっても変わらない。彼らもきっと死に物狂いだったと思う。でも、それでいいじゃないか。冷静と狂気は、必ずしも相反しないのだから。

    ただ思うのは、そういうアンビバレントな状態を上手にマネージする術として、帝京大は1つひとつのプレーと戦術から入っていくアプローチを明確に志向しているような気がする。「狂えよ」という思想がまずあって、その先に「コントロールされた狂気とは、どのようなプレーなのか」というように発想が展開していくのではなくて、とにかくまずは執拗にプレーのクオリティを追求する。ヒット、そしてブレイクダウン。1mの戦いに、フィジカルと技術の双方から具体的にこだわっていく。そこが自分たちの寄って立つ場所だと分かっているからこそ、譲らない。その「譲らなさ」がいつしか冷静と狂気のアンビバレンツを超えていく。帝京大のチーム作りでは、その根幹において、こうした展開が志向されているような気がする。

    早稲田大にとっては、やはり中盤でのペナルティが痛かった。前半の反則数は、両チーム共に5つと変わらない。後半に至っては、帝京大の方が明らかに反則数が多かった。ただ、問題は数ではなくてフェーズ、そしてエリアだ。早稲田大が前半に犯した5つの反則のうち、3つくらいは中盤エリアでのもので、これだけで自陣22mラインの内側でプレーせざるを得ない時間帯が大幅に増えてしまった。スクラムの反則についてはちょっとコメントできないが、このあたりがもう少しコントロールされていれば、もっと面白いゲーム展開になっていたような気がする。

    アタックに関して言えば、準決勝の筑波大戦よりも遥かによかったと思う。筑波大戦を観た時には、正直に言って、「早稲田大からは、もはやストレートランは消えたのか」と思ってしまうほど、ライン展開に魅力を感じなかったのだが、今回の決勝では、例えばWTBの荻野選手が見せたようなプレー、つまりラインの展開力というよりも、小さなダミーと積極性でどんどん切りに行くようなアタックが見えてきて、これが奏功していたような感じがする。WTBを大外で使うというのはある意味では定型化されたラグビー観でしかなくて、結局のところ、「個が活きる場所がどこにあるのか」をベースに構成されたアタックの方が、相手にとっては遥かに脅威なのだと思う。1人のラグビーファンとして素直な気持ちを語るならば、来シーズンはそんなアタックをもっと見せてもらいたいなあと思っている。

    まあでも、やはり決勝戦だ。総じていいゲームだった。
    タマリバ時代の仲間で、今は日本ラグビー協会の仕事をしている勝田から、色々な視点でゲームに対するコメントを聴かせてもらえたのも、個人的にはすごく楽しかった。ラグビーの見方や着眼点も人それぞれで、様々なバックボーンを持った人間とラグビーを話していると、それだけで新たな気づきがあるものだ。タマリバ時代の出会いに、改めて感謝しないと。

    うん、やっぱりラグビーは面白い。
    間違いなく、世界で最も面白いスポーツだ。

    Sunday, January 05, 2014

    『コンテナ物語』

    昨年7月に勤務先で異動になってから、激減したものがある。
    それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
    そのことは、ちょっと後悔している。

    そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。

    元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。

    コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

  • 作者: マルク・レビンソン, 村井 章子
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2007/1/18

  • さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。

    本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。

    イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
    それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。