Tuesday, September 25, 2007

憑依のタップ -熊谷和徳

昨年の4月以来、約1年半振りとなるタップ鑑賞。
ずっと楽しみにしていた熊谷和徳のソロ公演『TAP SOLO』を観に行った。
場所は、東京国際フォーラムのCホールね。

熊谷和徳のタップをライブで観るのは、今回が2回目となるのだけれど、前回の公演が「コラボレーション」に軸足を置いたパフォーマンスだったのに対して、今回は完全なるソロ公演だ。それがチケットを取りたいと思った最大の理由でもあるのだけれど、「ソロ」という形式こそが熊谷和徳という1人のタップダンサーを特別な存在たらしめるのだという確信めいた思いがあって、タップダンサーとしての彼の魅力が純化され、昇華していく瞬間に思いを巡らせながら、この日を待ち望んでいたんだ。

そんな熊谷和徳のタップ・ソロ公演。
そのパフォーマンスは、期待に違わない本当に素晴らしいものだった。
約1時間半の公演で彼は、その独自の世界観で完全に観衆を呑み込んだ。

ここから先は、完全におれ自身の勝手な解釈になるのだけれど、今回のソロ公演の全体を振り返ってみた時に、おれとしては、全体を貫く1つの大きな流れを感じた。
最初はその流れを、ある意味で脚本的なものと受け止めていた。つまり、タップを1つの媒体と捉えて、その枠組みの中でストーリーテリングをしていく方向性なのだと。

例えば、オープニングのパフォーマンス。
一切の音楽がなく、極めてシンプルなライトに照らされたステージの上に、彼のタップシューズが床板を踏み、擦れる音だけで、ある種の世界が構築されていく。
このオープニングを観ていておれは、「形なきものとの対峙」なのだと考えた。
猛獣のようでもあり、或いは駿馬のようでもあり、獰猛な野生と、人間が失くしてしまった狂気を備えた形なき存在。熊谷のタップによって、形を持たない霧のような何か、でも対峙することさえ覚束ないような圧倒的な迫力とオーラを持った何かが、ステージの上で足音を立てる。小刻みに連続するタップシューズのリズムは、そんな形なき存在の足音だ。熊谷は、戦う訳でもなく、逃げる訳でもなく、その存在と、ただ「対峙」していく。ある意味でそれは、不可視なものとのコミュニケーションかもしれない。

そして、全てを振り絞った渾身の対峙の中で疲弊しきった彼に、夜が訪れる。
青の照明が降り注ぎ、ひそやかな雨音が響き始め、静かに音楽が流れ出す。
ここからが第2のパフォーマンスだ。
この時、おれの脳裏には「夜の酒場」のイメージが想起されてくる。
夜の暗闇と、優しい雨音が、熊谷を包み込んでいく。
彼は救われ、先ほどの対峙が意味していたものを、自分の中に落とし込んでいく。

そして、朝を迎える。
より厳密にイメージを言葉にしようとするならば、夜明けを迎えようとしている。

勿論、あくまでおれ自身のイメージだ。
熊谷和徳の胸の中に、このような世界観や構想は存在していないかもしれない。
いや、間違いなく存在していないのだろう。
それでもおれは、特に公演の前半を通じて、1日に満たないレベルの時間軸と、ある種のストーリー性を持ったパフォーマンスなのかもしれないと勝手に解釈した。
脚本的、というのはそういうことだ。

でも、最後のパフォーマンスを観て、全ての印象が覆った。
結局のところ、この瞬間の為に全てはあったのだと。
それは脚本ではなくて、周到な準備のようなものだったのだと。

ラスト・パフォーマンス。
どこか神々しくもある音楽と照明のもとで、熊谷の表情が明確に変化していく。
初めて熊谷和徳のタップを観た時の感覚が蘇ってくる。
まさに「憑依」のタップだ。
彼自身が踊っているというよりも、彼の身体に憑依した何かが、彼の身体を踊らせているとでもいうような、渾身のタップが繰り広げられていく。全身が繰り出す高速のリズム、飛散する汗の飛沫、しなやかな指先、恍惚と忘我の表情。その全てがどこか神々しく、シャーマニズムの世界を想起させる強烈なパフォーマンスとなって、ステージ全体を支配していくんだ。

憑依というのは、全ての要素が周到に整えられた極めて特殊な状況でしか起こり得ないことなのかもしれない。熊谷和徳はきっと、約1時間半の公演の中で、「憑依」の為の準備を周到に重ねていったんだ。
ひとつひとつ、丁寧に。霊媒師が香を焚くようにね。

素晴らしかった。
彼と同じプロトコルでコミュニケーションできるタップダンサーは、多分いないだろう。
タップの世界を知らない人間にもそう感じさせる圧倒的なパフォーマンスだった。
また観たいです。