Saturday, March 12, 2022

聞かれない言葉。語られない言葉。

Stories can break the dignity of people, but stories can also repair that broken dignity. 物語は時に人間の尊厳を傷つけるが、それを修復できるのもまた物語である。)

 Chimamanda Ngozi Adichie(作家)

 

翻訳家の村井理子さんが連載されているブログ『村井さんちの生活』を知ったのは、今は休刊となってしまった雑誌『考える人』の編集長だった河野通和さんのメールマガジンがきっかけでした。河野さんが発行されていたメールマガジンは驚くほどのクオリティと深い洞察に満ちていて、20173月末に新潮社を退社されてメルマガ編集長も交代となった時のショックは今でも覚えています。

 

それはともかく、このメルマガの中では「考える人Web」上の連載記事のアクセスランキングが掲載されていて、村井さんのブログはいつも上位にランクされているのですが、その中でも特に印象深く記憶に刻まれているのが「言ってくれればよかったのに」というもので、当時小学校4年生だった息子さん(双子の弟)との日常の一幕が綴られた本当に素敵なエッセイです。

 

いつの頃からか、どことなく元気がない感じの日々が増えてきた息子さん。担任の先生からも日頃の様子を聞いて、想像よりも深刻な状況なのだと思い悩んだ末に、村井さんは作業療法士の方に相談することになるのですが、その時の面談を通じて、息子さんが抱えていた悩みに気づくんです。


その日のことを、おそらく今も心のどこかで少し後悔されているであろう著者の村井さんのことを思えば、安易に「素敵なエッセイ」と表現してしまうのも若干憚られるのですが、それでもやはり、村井さんの優しさが沁みるように伝わってきて、何度読み返しても心を打つものがあります。私も今、中学1年生の娘、小学3年生の息子と共に暮らしているので、同じような感覚がいつも心の片隅にあったりするんですよね。きちんと聞けなかったことへの悔いとでもいうようなものが。

 

聞くという行為は、本当に難しいのだと思います。

村井さんのエピソードが示唆するのは、レセプターが開かれていなければ、言葉は聞かれることなく通り過ぎていくのだということです。誤解のないように断っておくと、私自身は「聞けなかった自身」への悔恨を率直に綴る村井さんの姿勢に非常に惹かれますし、成長期の双子を必死に育てる親(特に母親)の苦労と苦悩は想像に難くないので、育児の過程である種のサインを掬い取れずに見落としてしまうことなど、誰にとっても日常茶飯事なのだと思っています。そして、このエピソードを読んでなお、というよりもこのブログを通じてより一層、村井さんのことを素敵な方だなと感じます。むしろ、生きるという行為は、こういう小さな(そして時には決して小さくもない)掬い落としの連続でしかないのかもしれないと思うだけで。


ただ、そういう瞬間に自覚的であるか否かというのは、大きな違いなのかもしれません。教育学者であり作家の上間陽子さんは著書『海をあげる』の中で「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」と書いていますが、この言葉が問いかけるコミュニケーションの本質は、本当に繊細で、また時に残酷なまでに真実なのだと思います。上間さんは非常に辛い境遇を生きる多くの若い女性へのインタビュー形式での社会調査を重ねられてきた方で、著書を読めば「深く聞く」ということの意味と意義に誰もが圧倒されます。その上間さんでさえ、「あの頃の自分には聞くことができなかった」と思うような幾多の過去があるのだというほどに、きちんと聞くこと、そして「聞くべきことを聞く」ということは、決して容易ではないのだと思います。


仕事でも同じですよね。法人営業として社内外の多くの方と接する毎日ですが、日々思わずにはいられません。「今日の自分は、相手のストーリーをどこまで深く聞くことが出来たのだろうか」と。

Wednesday, January 26, 2022

「問い」が変える景色

きっかけは、実はLinkedInでした。
 
昨年秋に何気なくWallを流し読みしていたら、どなたか忘れましたがある社員がシェアしていたWebinarの案内がふと目に留まったんです。 『不動産ビッグデータをAutoAIでお手軽分析してみた』という1時間のイベントで、不動産ビッグデータを取り扱っているTORUS社に協力いただいて、AutoAIで簡易的にデータ分析の導入を紹介するものだったのですが、AutoAIをお客様にも紹介していながら、どの程度のことが実際に可能なのかをクリアに理解できていなかった私は、個人的に興味が沸々と湧いてきて、すぐに参加登録をしたんです。
 
そうしたら、これがもう本当に面白くて。
 
TORUSが扱う不動産謄本というのはオープンデータで、取得には多少のコストを要するものの、誰でもアクセスできる情報なのですが、それを網羅的かつヒストリカルに蓄積していくと、想像も及ばないほど幅広いコンテキストで、極めて具体的かつ多様なインサイトを導出できるのだという事実を知って、わずか1時間のWebinarが驚きの連続だったんです。このイベントでは、TORUSの創業者でもある木村社長が自ら登記簿謄本のリアルな活用シーンをデモで紹介されていて、Startupの機動力とダイナミズムも伝わってくるんですよね。やはり刺激を受けずにはいられない。
 
その頃の私は、担当するお客様との間で、「データビジネス」という切り口でのディスカッションにまさに着手していました。断っておきますが、これはお客様が自らの言葉で検討テーマとして挙げられたもので、私が仕掛けたものではありません。こちらがプロアクティブにコンセプト・セリングをかけていって、お客様が明確には意識されていなかった潜在的なニーズを喚起できたのであれば格好良いのですが、現実は正反対です。私には特段の知見もなく、ただ何かご提案できないかなと思いながら社内のSMEを頼って、何度か通っていた程度でしかないんですよね。
 
そうした中で、年の瀬も迫った頃のお客様コール終了後、ふと思い当たります。
TORUS様を引き合わせてみたいなと。
 
金融業におけるデータ利活用のビジネス的な見識もなければ、不動産という全くの別業界にあるBAUの課題やニーズ、あるいは潜在的なポテンシャルについても、自分自身では理解が及ばないことばかりで、 次の一手を見出すのに苦慮していた私は、TORUS様の専門性と業界理解を頼りながら、金融×不動産という文脈でなにかが生まれたりしないかなと、ある意味では無責任に考えていました。オチを明確にイメージできないままで・・・。
 
というのは、ちょっと長すぎる導入なのですが、本当に書きたいことはその先なんです。つい先日、TORUS木村社長に実際に登壇いただいて、お客様とのディスカッションを行ったのですが、非常にフランクかつ闊達な議論が展開する中で、お客様がふとした拍子におっしゃったんです。
 
「私たちは決済データを持っているが、顧客の資産の全貌は見られないんです。」
 
直後、1拍ほどの小さな間を置いて、木村社長が応じます。
その言葉に私は感銘を受けました。
 
「もし、それが見られたら・・・?」
 
木村社長はTORUSを創業された実業家としての知識と経験を振りかざすこともなければ、目の前のお客様の言葉を大上段の立場から論評することもなく、わずか一言の「問い」で返したんです。 その後のお客様との会話がより一層の広がりを見せたのは、言うまでもありません。
 
誰もチャレンジしたことのない不動産ビッグデータという事業に打って出て、自ら潜在マーケットを開拓された木村社長にとって、それは極めて自然なことだったのかもしれません。 従来は存在さえしなかった、少なくとも可視化されていなかったマーケットニーズを掘り起こしたのは、必ずしも謄本データというキラーコンテンツだけではなく、可能性に目を向ける「問い」の力もあったのではないでしょうか。
 
今、IBMは変革の只中にあって、Technology Skillの重要性がより一層高まってきていますよね。「所属や立場によらず、誰もがテクノロジーを語れ」と。 一方で、私自身の個人的な思いを素直に吐露するならば、語る能力、プレゼンテーションのスキルばかりに意識が傾倒している嫌いもあるのではないかなと、常々感じてもいます。 本当に大切なのは、むしろ聴くことなのかもしれないのに。良い「問い」をお客様に投げかけることができた瞬間に、初めてお客様は本当の意味で「自らの言葉」を語ってくれるのかもしれないのに、と。
 
そんな訳で、ここ最近、私が最も大切にしているキラークエスチョンはただ1つです。
「自分はきちんと問えているだろうか」 
 
幼い頃から各方面で「口から産まれてきた男」と呼ばれて育ったようなAKYの人間の戯言ではあるんですけどね。

Monday, July 20, 2020

勝手に事業部通信 Vol.20(20/07/20)

"No grand idea was ever born in a conference, but a lot of foolish ideas have died there."
(素晴らしいアイデアが会議で生まれたことなどないが、数多のくだらないアイデアは会議で死滅していった。ー スコット・フィッツジェラルド(作家、1896-1940))

新型コロナウィルス感染症の危機が全世界的に拡大する中で、社会のあり方そのものが変革を迫られている今日この頃。"New Normal"という言葉がバズワードのように語られ、その流れの中でテクノロジーへの期待がより一層強まっていく傾向を肌で感じる瞬間は、日々明らかに増えてきています。IT業界を牽引すべき立場に身を置くものとして、私たちがすべきことも、出来ることも、今まで以上に大きくなっていくのは間違いないと思います。

そのような大きな時代の変化にライブで向き合いながら、ふと思う瞬間はないでしょうか。テクノロジーは、どこまで人間を変えていけるのだろうかと。レイ・カーツワイルが2045年のシンギュラリティ到来を予測したのは2005年ですが、あれから15年を経た今、New Normalへと向かっていく私たちの社会において、技術と人間はどのように関わっていくのでしょうか。

そんなことを書いてみたくなったきっかけは、2つの興味深いストーリーです。

稲盛和夫が創業した日本を代表する優良企業の1つ、京セラ。ご存知の方もいるかもしれませんが、IBMがCloud Pak for Data(CP4D)を活用したデータ分析基盤の提供を通じて、AIの積極的な活用を支援しています。京セラでは2017年から「生産性倍増プロジェクト」を立ち上げ、データを活用した大幅な業務変革へのチャレンジを推進されているのですが、その中でAIの本格活用に踏み出す契機となったのは、ファインセラミックの製造工程改革だったそうです。

この分野で生産性を大きく引き上げるための最大のチャレンジは、不良品の発生率でした。ファインセラミックは焼成の過程で2割ほど縮んでしまうため、収縮率を正確に予測することが歩留まり改善のキーファクターで、従来は熟練工が40年の歴史の中で積み上げてきた勘と経験に依拠していました。形式知にならないような匠の技をベースに、チューニングを重ねることで、確かな品質を作り上げてきた訳です。

ところがこうした暗黙知を、匙加減のようなものまで含めて徹底的にデータ化して、新たに構築した予測モデルに分析させてみると、いきなり6%も歩留まり率が改善したといいます。40年の歴史でも成し得なかったレベルを、データは汗ひとつ見せることなく揚々と飛び越えていったんです。データの持つ本当の力に圧倒された京セラ社内では、次なるAIのユースケースのアイデアが続々と湧き上がってくるようになります。

その一方で、これと全く正反対の発想に活路を見出す人たちもいます。つまり、テクノロジーでは到達し得ない地平ですね。その代表格は、大村達郎という人かもしれません。決して有名人ではないですが、緊急事態宣言下の不自由な社会環境の中にあった5月、UberEats配達員として月収100万円を達成した「知られざるプロフェッショナル」です。彼は元々バイク便を手掛けるT-servのメッセンジャーだったのですが、彼が入社した頃のT-servではGoogle Mapの利用が禁止されていて、ボロボロになるまで紙の地図を使ったそうです。その理由が、シンプルながら非常に面白い。「自分の頭の中で地図を描けるヤツが、一番荷物を届けるのが早い」のだと。つまり、Google Mapなんか使っていたら、最速で荷物は届けられないというんです。テクノロジーでBetterにはなれるかもしれない。でも、テクノロジーなんかに頼っていては、Very Bestには決してなれないと。大村さんのインタビューを読んでいけば、それも当然だと思います。Google Mapに配送先の住所入力を行っているメッセンジャーを横目に、彼はもうバイクのエンジンをふかして走り出しているのですから。頭の中の最短ルートを取るために。

シンギュラリティの文脈においては、よく「人間 vs AI」といった対立軸で物事が語られたりします。AIは人間の仕事を奪うのかとか、所詮はソフトウェアでしかないAIに真の思考などないのだとか。でも、現実の世界には2つの異なる表情があるんです。
まだAIの技術がMaturity Carveの頂点に達したとは決して言えない今この瞬間においてさえ、AIは、あるいはデータは、ある場面では人間を容易に超えていく。そしてその隣で、AIに助けを乞う愚か者を嘲笑うように、熟練のメッセンジャーは誰よりも速く23区という現代の迷宮を駆け抜けていく。

そんなことを取り止めもなく考えていると、ふとした瞬間に、次の質問が脳裏に浮かんできます。私たちは、そのどちらに向かおうとしているのだろうか。例えば営業は、本当に後者だと言い切れるのだろうかと。テクノロジーが決して超えることのないレベルを維持するプロフェッショナルとして。

テクロノジーの真価と価値をきちんと見つめて、その意味と本質をお客様にお届けする活動を通じて、社会全体に貢献していくのが本来求められる営業の姿なのだとしたら、私たちが忘れてはいけないのは、結局のところ考え続けることなのかもしれないですね。大村達郎というメッセンジャーが、最高のルートをいつだって自分の頭で考え抜いているように。ただ、私たちの仕事はメッセンジャーではないので、「何を届けるか」を考えることから全てが始まっていくような気がします。

Monday, January 27, 2020

日野の戦い - ウィニング・カルチャーのために

昨日に引き続いて、トップリーグ第3節。
日野自動車vsトヨタ自動車のことも書いておきたい。

ファイナルスコアは31-61。地力に勝るトヨタが後半の40分で一気にギアを上げて日野を退けた。1人挙げるならば、やはりFBのウィリー・ルルー。素晴らしいパフォーマンスだった。人によって見方は異なるかもしれないが、俺が個人的に素晴らしいと感じるのは球持ちの長さと、そして球離れの良さだ。一見すると相反する特性なのだが、この2つを共存させられるBKプレーヤーというのは、例外なく良い選手だ。ランニングコースと緩急に常に判断と工夫があり、最終的なチョイスの瞬間を人よりも0.5秒引き延ばすことができる。このわずか0.5秒の価値は、ある程度のレベルでラグビーをしてきた人間であれば誰もが理解するはずだ。藤島大さんだったらこう書くかもしれない。
"ラグビーの本当の楽しさを知りたければ、ルルーの隣を走ればいい" なんてね。

とはいえ、本当に書きたいのはトヨタではなく、日野の方だ。この日の日野自動車を見ていて、チームが成長するプロセスのことを思ったからだ。まだ時間はかかるかもしれないけれど、今の日野は非常に重要な階段を越えようとしているのではないか。いや、階段というよりもむしろ崖というべきなのかもしれないが、とにかくStep by Stepでチーム強化を進めていく先に、一度どこかで大きく飛び越えないといけない断崖のようなものがある。そして現実は常に冷酷で、相当数のチームはこの断崖を前にして足が止まる。あるいは、飛び越える準備を完遂する覚悟さえ持てずに退却してしまう。でも、日野自動車は思い切り向き合っていこうとしているように感じられて、個人的には心を掴まれた。

日野のスターターは錚々たる顔ぶれだ。久富雄一。浅原拓真。北川俊澄。佐々木隆道。堀江恭佑。リザーブにも木津武士や中園真司がいる。彼らの特徴は何か。彼らが日野に持ち込み、更にはチームカルチャーの根幹部分に埋め込もうとしているものは何か。部外者の俺が断言するのも気が引けるが、突き詰めてしまえば、解は1つしかないはずだ。そう、「ウィニング・カルチャー」以外にあり得ない。彼らが年齢的にピークを越えつつあるとしても、今でも日野というチームで輝きを放っているのは、彼らは「勝つための道筋」を経験的に知っていて、そのビジョンを胸に「勝つための戦い」をしているからだ。トヨタ相手に14-19で折り返した前半40分が示した最大の価値はその点にあると、俺は思っている。

トップリーグでプレーする機会を勝ち取る人間というのは、例外なく身体能力に優れたアスリートだ。大学卒業までのラグビーキャリアにおいても、基本的に勝ち続けてきた人間が多い。でも、そういう人間でもどこかで壁にぶつかる。「負けたくて試合してるヤツなんていない」と言葉で語るのは簡単だが、このレベルの人間たちでさえ、本当の意味で「負けない心」を失うことなく戦い続けられる選手ばかりではないのが現実だ。戦うステージを駆け上がっていくというのは、つまりはそういうことだ。これは自分自身の経験を通して、身をもって学んだことでもある。言葉で繕うことのできない弱さを克服する戦い。それは極めてタフな日常の連続だ。その時に、リーダーや仲間が果たす役割は限りなく大きい。「自分のポテンシャルをムダに捨てるんじゃねえよ」とストレートに言ってくれるリーダーの存在は、絶対にチームを変えていく。1人だけで戦い切れるほど、トップリーグが簡単なリーグではないのは明らかだ。これも、IBMラグビー部が俺に教えてくれたことの1つだ。

日野は勝つためのラグビーをした。佐々木隆道のプレーはウィニング・カルチャーを持つリーダーの生き様そのものだった。それでも今は、前半40分かもしれない。そして、今シーズンのスターターを占める多くのメンバーは、いずれ若手の台頭と共に出番を減らしていくことになるのかもしれない。でもそれは、ウィニング・カルチャーを埋め込むために必要な時間なのかなという気がする。そして俺としては、そうやって勝負し続けるチームも、個人も、基本的に大好きだ。

戦う場所があるというのは、それだけで幸福だ。
その幸福の意味を知っているから、彼らは必死で戦うのだと思う。

Sunday, January 26, 2020

特別な存在について - 神戸製鋼vsサントリー

今、トップリーグが本当に面白い。
開幕からの3節で幾つかの試合を見ているが、総じて熱戦が多く、レベルも明らかに上がってきている。各チームにインターナショナルレベルの選手がこれほど充実してくると、見所は尽きることがなく、どの試合を見ていても心を震わせるものがある。サンウルブズもこれから2020シーズンの舞台に臨むことになるが、ラグビーを愛するものとしてはどちらも目が離せない。ここから先が本当に楽しみだ。

ところで、この週末に行われた神戸製鋼vsサントリーを見ていて、個人的に感じたことを書いてみたい。
試合自体は事前に予想された通り非常にハイレベルの攻防となったが、結果的には昨年度覇者の神戸製鋼が見事なゲームマネジメントを見せて、勝利を手繰り寄せた。もうこのレベルに来ると、特定の1つの要素でゲーム全体を語ることなど不可能なのだけれど、印象的だったのは大駒の機能だ。具体的に言えば、神戸にはブロディ・レタリック、サントリーにはサム・ケレビという圧倒的存在がいるのだけれど、チームの中での機能と役割を考えた時に、ある意味では対照的に感じる部分があった。

レタリックは、特にこの日はパスで魅せていた。破壊力のあるキャリーは間違いなく特別な武器なのだが、このゲームでレタリックが示した凄さは単純な突破力というよりも、もっとベーシックな部分にあった。例えばポジショニングの速さや、プレッシャー下でもスモールゲインを確実に獲得してくれる信頼感。そして何よりも判断の正確性。相手からすれば「レタリックのマークは絶対に外す訳にはいかない」という状況の中で、こうした個人スキルの高さが遺憾なく発揮されて、その結果として周囲のプレーヤーが存分に活かされているような印象だった。

一方のケレビ。大きな構造で言えば、ケレビにも同様の部分があり、グラウンド中央のワイドスペースでボールを受ければDFは1枚ではとても止まらない。その結果、ケレビをマークするディフェンダーの両隣にもプレッシャーがかかって、どうしてもDFラインの中に部分的な偏りが生まれてしまう。そこにボールを運んでゲインを切っていくサントリーのスタイルは、有効に機能していたと思う。例えば、この日WTBの中靍が幾度となく見せた快走を生んだ背景には、間違いなくインサイドのケレビの存在感があったはずだ。でも、俺としては少々惜しい感じがした。スコアに直接繋がるポテンシャルを持った形でケレビ自身が使われることは、このゲームでは殆どなかったからだ。実際には、この日のサントリーが本当に必要としていたのは、神戸の厚いディフェンスを切り崩してスコアまで持っていけるランナーであり、その1st Choiceは間違いなくケレビだったと思うのだけれど。

この観点で言うと、個人的に思い出されるのは、先日の大学ラグビー選手権決勝の構造だ。もちろんトップリーグ、それも神戸製鋼やサントリーのレベルとは根本的に異なるので一概に比較はできないが、あの試合で早稲田大が見せたCTB中野の使い方は非常に興味深いものだった。中野の破壊力は間違いなく大学ラグビーでは傑出していて、彼が大学選手権の準決勝から復帰してきたのは早稲田にとって決定的に重要なファクターだったはずだ。アシスタントコーチの後藤翔太さんはRugby Japan 365のコラムの中で「(中野の復帰は)確かに大きかったのですが、それはボーナスという感じです。チーム全体のアタックのスピードが上がったところに、(中野)将伍があのサイズとパワーで入って行くから破壊力が余計に上がった。」と語っているけれど、どう考えてもメディア向けの発言だろう。「中野がいるなら使う」というムーブ、あるいは「中野がいないと機能しないアタック戦略」というものが間違いなく存在する。彼はそういうレベルの存在で、その圧倒的な個性を単なるボーナスで終わらせるほど早稲田首脳陣は雑なプランニングはしないはずだ。

俺があの試合で一番感じたのは、中野を意図的にショートサイドで機能させるシークエンスだ。そして、そこにNo.8の丸尾をセットで配置する。あれは明らかに意図を持って仕掛けた戦略的なプレーだったはずだ。結果的に、早稲田大が挙げたトライの最初の3つはいずれも中野がキーファクターになっていた。つまり、早稲田が前半から流れを掴んだ要因は、特別な選手が戻ってきたというだけでなく、「特別な選手にどこで特別な仕事をさせるか」を考え抜いていたことにあったのだと、俺としては思っている。

神戸製鋼vsサントリーの一戦に戻ろう。それでもケレビはやはり世界屈指のCTBであり、テレビ越しにも強烈な存在感とオーラがあった。個のプレーヤーとしてのパフォーマンスは、本当に素晴らしいと思う。でも、例えばワイド展開の中でケレビをカットして大外にボールを動かすようなシーンを見た時に、ケレビの圧力がDFのスライドを遅らせて、そこを鋭く外側のランナーが切り裂く形は見事だと思う一方、その後のラックにケレビがコミットした後、そのままライン際にケレビを残して逆サイドにボールが大きく振られていくシークエンスを眺めていると、ちょっと勿体ない気がしてしまったのも事実だ。例えば、そこからまたアタック・ディレクションを切り替えてショートサイドでケレビを使うようなオプションがあっても良かったのかなと、俺としては思っている。その程度のことで大きく崩れるほど神戸のディフェンスは脆くはないけれど、でも、どのレベルであってもある程度の普遍性を持った事実というのはあるものだ。特別な選手に特別な仕事をできる場を与えることができれば、相手にとっては常に脅威なのだから。

Monday, December 30, 2019

改めて、多様性のことを。 (勝手に事業部通信 Vol.19)

「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)

ダイバーシティやLGBTといった言葉を耳にする機会は、社内でも明らかに増えてきた感じがするここ最近ですが、ラグビー日本代表の活躍で"ONE TEAM"が一躍流行語になったりと、様々な個性が1つに結束するチームワークの大切さが毎日どこかのメディアで謳われている今だからこそ、考えてみたいことがあります。多様性って、そもそも何なのかなと。

人種的にも社会的・文化的にも多様な背景を持つ人間が同じ場所に集まり、年齢や性別を超えて活動していれば、お互いが分かり合うための時間がどうしても必要です。誰もが暗黙のうちに共有している「常識」というのが、そもそもないのだから当然ですよね。自分の常識を相手は共有していない。そして、相手が何を常識と考えているかも分からない。そのことをお互いが理解して、「常識」ではなく「違い」を前提としたコミュニケーションを重ねていくことでしか本来の相互理解が成立しないのが、つまりは「多様な社会」なのではないでしょうか。

本音のところでは面倒だなと感じる人もいると思います。空気で会話しないスタイルですから。
でも、多様性を認めるというのは、ある部分では「そういうのが面倒な人たち」の存在も前提にする、ということだと思います。

要するに、多様性ってオーバーヘッドなんです。ただ違う人が集まることではなくて、相互理解のためにオーバーヘッドをかけていく。そこが本質ではないでしょうか。ちなみにこれがラグビー日本代表だと「今年だけでも240日間にも及んだ合宿」ということになるのですが、結局のところ「多様な人間たちが集まれば、自然と多様性が強みになる」なんて都合の良い話はないんですよね。

ところで、会社の多様性って何なのでしょうか。人種や性差だけではないはずですよね。というよりも、実際には自分の周りには「小さな違いばかり」というのがリアルなんじゃないかと思ってしまいます。例えば私が所属するチームには「担当しているお客様」の違いがあります。メガバンクと地銀、あるいはノンバンクでは当然ながら全く違います。あるいはシステム部とユーザー部のどちらを担当しているかによって、すべきこともできることも大きく違ってきます。

それだけではありません。エグゼクティブ/ライン/スタッフの違い。これまでの業務経験の違い。アクセスしている情報の違い。どれもが人それぞれで異なるのに、多様性という言葉の中でこうした小さな違いが意識されることは、必ずしも多くありません。むしろ、ダイバーシティを声高に叫び、"ONE TEAM"の重要性を喧伝する中で、(社会という)誰かが決めたフォーカスポイントに縛られて、本当に大切にすべき多様性がどこかに置き去りにされていくような。

もうすぐ2019年も終わって、新たな1年へと向かっていく訳ですけど、2020年は面倒がらずに話したいですね。多様性が本当の意味でパワーになる瞬間というのはきっと、オーバーヘッドのちょっと先なんだと思います。ビジネスの現場にいれば、短期的な目標に追われることも、ゴールへの最短距離を走るしかないことも当然ありますが、それでも常に「違い」を受け入れて、時間を惜しまずに向き合っていく空気を作っていきたいですね。

ちなみに、"AKY(あえて空気読まず)"という隠れた名曲を持つトモフスキーという(おそらく職場の誰も知らないような)ミュージシャンのことが好きだというのは、ちょっとした私の違いです。

皆様、良いお年をお迎えください。

Sunday, November 03, 2019

RWC 2019 - 感動の終幕。そして今、思うことを。








興奮、歓喜、そして感動。
心震わされる44日間は本当にあっという間だった。改めて、今回のラグビーW杯においてアジア初となる日本開催が実現したことに心から感謝したい。この素晴らしく感動的な瞬間を夢見て、10年以上前からW杯招致活動に尽力されてきた多くの関係者の熱意と献身的な努力を思うと、もう本当に言葉がない。予選プール4連勝で初の決勝トーナメント進出を成し遂げたジャパンの躍進が本大会全体を多いに盛り上げたのは勿論のことだけれど、ラグビーW杯という国際イベントを成功裏に運営するためには、数え切れないほど多くの人間のサポートがあったのだということは、ずっと忘れずにいたい。

決勝トーナメントは、文字通り全ての試合が最高だった。
スコアだけでは表現できない均衡と緊張。興奮と熱狂。極限状態ゆえのプレッシャーと苦悩。同様に、極限状態で研ぎ澄まされた感性が導く圧巻のパフォーマンス。Quarter Final以降の全てのゲームは、そういう諸々が常に繊細なバランスの中で揺らめいて、グラウンド上で起きる全てのことから一瞬たりとも目を離すことができないような、本当に濃密なゲームばかりだった。最終的に、イングランドを破って通算3度目となるウェブ・エリス・カップの栄冠を手にした南アフリカ(SA)には、心からの賛辞を贈りたい。ジャパンを破ってブライトンの雪辱を晴らしたあの一戦を経て、セミファイナル、そしてファイナルとずっと進化し続けたSAは、本当に素晴らしいチームだった

本当は、今回のファイナルだけでも書きたいことは山ほどあるのだけれど、とりあえず今この瞬間は、今回のRWC 2019を通して俺自身が感じたことを総括してみたい。なぜならば、今回のW杯が教えてくれたこと、あるいはこの44日間が観る側の人間の胸に突きつけてくるものを、単なる「感動」の一語で片付けてしまうことなど到底出来ないからだ。

まず第一に、メンタリティとチームマネジメント。
今大会で言えば、ジャパンの躍進自体がそうだった。開幕戦の緊張。失うものなく、ただシンプルにフォーカスすれば良かったアイルランド戦。自信を過信としないモチベーション・コントロールが求められる難しい局面を、積み上げてきた地力で凌駕したサモア戦。そして、おそらくジャパンの完成形で戦おうという意識、自分たちの強みへの明確なフォーカスを結果に繋げたスコットランド戦。1つひとつのゲームで、その瞬間のモメンタムの中で、チームの置かれた状況をふまえてチーム・パフォーマンスが最大化されるようにメンタリティのベクトルをセットしていく。インターナショナル・レベルにおいても、この部分の重要性が極めて大きいということが、今大会を特徴づける側面の1つだと思う。その意味では、ジャパン史上初の挑戦となったQuarter FinalでのSAとの再戦も、この文脈から読み解いていくことが出来る。この4年間、ベスト8を目標に戦ってきたジャパンに対して、SAの選手たちは、メディアから「W杯での目標」を問われることさえなかっただろう。SAにとって、優勝以外のゴールなど最初から存在しない。それこそが、ジャパンを寄せ付けなかったSAの本物の強さであり、こういう部分も極限のゲームにおいては非常に大きなファクターとなってくる。アイルランドを完膚なきまでに封じ込めたNZが、セミファイナルでは鉄壁のイングランドを前に翼をもがれ、自分たちが支配してきた自由な空を見失う。そして、そのイングランドさえも、ファイナルではまさに完成形と言っていいフルスロットルのSAの圧力に屈し、自分たちの強みを存分に発揮することができないまま散ることになる。結局のところ、それがW杯という舞台なのだと思う。いつも同じことを書いているが、W杯とは人間の戦いなのだ。

人間の戦いという意味では、ベテランの存在というのも今大会では目を引くことが多かった。ジャパンでいえば、田中史朗だ。後半の重要な局面で登場して、その瞬間に求められるゲームコントロールを、豊富な経験に裏付けられた絶妙な手綱捌きでリードしてくれる田中の存在が、チーム全体をどれほど救ったことだろうか。そして、忘れてはいけないトンプソン・ルーク。姫野もムーアも、稲垣や具智元も、ジャパンのFWはもう誰もが素晴らしかったが、やはりトンプソンは外せない。38歳であれだけの仕事量をこなし、比較的経験の浅い若手メンバーも鼓舞し続ける献身的なリーダー。この2人の存在感は、今回のジャパンを総括する上で決して外すことができないキーファクターだ。その意味では、例えばSAにはフランソワ・ステインがいた。2006年代表デビューの32歳。迫力満点のプロップ、「ビースト」ことムタワリラも初キャップは2008年のベテランだ。こういう選手の存在感は、大舞台では実はチームの安定、あるいは冷静と情熱の舵取りにおいて大きな影響力を持ったりするものだ。逆の意味で、セミファイナルで涙を飲んだABsは、チーム全体が若さの側に振れ過ぎたという評価を耳にすることも少なくない。ジョーディ・バレットは可能性に溢れた素晴らしい選手だが、どうしてもベン・スミスにいてほしい瞬間というものがある。例えば、そういうことだ。他にも、大会全体でみれば残念ながら大きな注目を受けるまでには至らなかったかもしれないが、例えばオーストラリアのアダム・アシュリークーパーや、サモアのトゥシ・ピシなども見事なパフォーマンスで健在ぶりをアピールしていたのは、個人的には嬉しかった。

もう一点、具体的なプレーに関して言えば、やはりブレイクダウンの攻防だ。これは、セミファイナル、そしてファイナルと続く一連の戦いの中で、個人的に最も考えさせられたポイントでもある。

イングランドがNZを見事に制圧した準決勝。イングランドの勝因、そしてNZの敗因を分析する論評は数多く、またこのレベルの戦いにおいてわずか1つの原因で全てを語り尽くすことなど到底不可能なのだけれど、俺が見ていて最も印象的だったことの1つはイングランドの「寄りの速さ」だった。アタックの局面において、キャリーに対する2nd Arrivalのプレーヤーが極めて早く、キャリアーが孤立する局面が殆どなかったように記憶している。ABsは非常にスマートであるが故に、あそこまで2nd Arrivalが早いとラックでバトルせずに、アライメントを優先するのだけれど、それが結果としてイングランドのテンポの遠因にもなっていた。ボールを下げずに、ブレイクダウンでは一切絡ませない。この起点が止まらないために、NZのアライメントをイングランドのテンポと激しさが凌駕する。もちろんイングランドが見せた圧巻のプレッシャー・ディフェンスも素晴らしく、ゲーム全体で見ればABsらしさを完全に封じ込めた「ディフェンスの勝利」ということもできるのだが、俺としては、あのブレイクダウンの攻防が生命線の1つだと考えていて、ファイナルでSAがブレイクダウンをどう仕掛けるのかは、当然ながら非常に気になっていた。そして、ファイナル。SAはやはりSAだった。タックル自体は勿論のこと、ブレイクダウンも圧力で押し返す。SHのデクラークあたりがDFラインを押し上げて、アタックがたまらずインサイドに潜れば、強力なFW陣がパワフルかつ正確なタックルで仕留めていく。外まで綺麗にアライメントすることよりも、インサイドの圧を優先して、そこを支配すれば外側はどうにでもなるのだと言わんばかりの迫力が、80分を通して貫徹されていた。この2試合で起きたことは、おそらく今後の世界のラグビーの潮流に少なからぬ影響を与えていくような気がしている。

RWCの魅力は本当に語り尽くせないほどで、こうして書き連ねていても、自分自身の言葉の足りなさを思うばかりだが、この44日間がくれた感動を、今度は自分自身のラグビーに生かしていきたい。HCとして携わる東大ラグビー部の未来にも、そしていつも一緒にTVでラグビーを観てくれる我が子の未来にも。