昨日のことだけれど、ちょっと嬉しくなることがあった。
ふだんはそれほど遅くない時間に会社を出ているのだけれど、昨日はどうしても処理すべき仕事を溜め込んでいて、深夜まで会社を離れることが出来なかった。24時を廻ったあたりで業務を終えて、急いで最寄駅に向かう。そして、そこから最終電車を乗り継いで家へと帰ったのだけれど、途中で3回ほど乗り換えをしなければならないんだ。最終電車で帰ることなど滅多にないので、乗り継ぎの仕方や時間を何度も確認したのだけれど、3回の乗り換えの中の1つ、北千住駅での乗り換えの時間が、実際には2分しかないことが分かったんだ。上野から常磐線快速の松戸行き最終電車に乗って、北千住で降りるのが1時2分。そこから千代田線のホームに向かい、1時4分に北千住発の各駅停車松戸行き最終電車に乗らなければいけない。
絶対に1時4分の電車を逃したくなかったおれは、北千住で常磐線の快速を降りると、千代田線のホームに向かって急いだ。申し訳ないと思いながらも、通路の人混みを掻き分けて、前に少しでもスペースが出来たら走ってね。そして、北千住駅で発車時刻を待っている最終電車に乗り込んだんだ。
でも、電車は発車しない。
電光掲示板の時間は1時5分になっているのに、発車しようとしないんだ。
その時に、ホームから駅員さんのナレーションが聞こえてくる。
「常磐線からの乗り換えが終わり次第発車いたしますので、今暫くお待ちください」って。
最終電車に乗り過ごすことのないように、駅員が気を利かせてくれていたんだ。もう次の電車がない「最終電車」だからこそ、1時4分発という決められたダイヤに則って運行するのではなくて、幅を持たせたルールの運用をしてくれた。東京での生活も今年で9年目になるけれど、時刻表通りに運行しない電車に出会ったのは初めてのことだった。
急いで乗り込もうとした乗客の目の前で扉が閉まっても、絶対に扉を開けないのが東京の電車だと思っていた。可能な限りダイヤに忠実な運行をすることが最大にして唯一の価値であるような雰囲気があり、不可避な要因が働かない限り、発車時刻を意図的に遅らせるような対応が出来る組織だとは思っていなかった。
ダイヤ通りに運行する方が楽だ。
ルールという後ろ盾に従うことは、日本的な文脈の中ではローリスクな選択だという発想は未だ根強く残っていて、特に鉄道会社のような組織は、その最たる例だと思っていた。
だからこそ、意外だった。そして、ちょっと嬉しかった。
Sunday, November 27, 2005
Friday, November 25, 2005
希少性の原則
今読んでいる本の中で、興味深いエピソードが紹介されていた。
著者の村上龍さんが何度かヨーロッパに出向いた際に、エールフランスのファーストクラスとビジネスクラスが、いつも満席だったという。JALやANAが満席だったことはなく、特にファーストは空席ばかりだったにも関わらず、エールフランスが常に満席だったのは、喫煙コーナーがあるからではないか、という話だった。
龍さんは、こう続ける。
長距離の国際線における全席禁煙の流れは自然なもので、基本的に正しい対応だろう。そうした状況下においてJALやANAは、アメリカンスタンダードこそが世界標準であるという考え方のもと、全席禁煙という方向性に歩調を合わせた。しかしながら、欧米の大多数の航空会社が選択しなかった「喫煙コーナー」を作ることで、エールフランスは乗客率を伸ばした。そこには「希少性」という経済学の基本的な要因が働いている。JALやANAは、アメリカンスタンダードに無批判に準拠することで、経営上の戦術的選択肢を盲目的に1つ失い、また市場における「希少性」を喪失した。
このエピソードが紹介されている龍さんのエッセイ集『アウェーで戦うために』が出版されたのは2000年12月であり、現在の状況はおそらく違うだろう。海外経験のほとんどないおれは、恥ずかしながら航空会社の現在をよく知らないけれど、日々刻々と変化する市場環境の中で、航空会社各社は、他社との差別化戦略を積極的に展開しているはずだ。現代の情報化社会において、5年という歳月は長い。
ただ、このエピソードが示唆するものは変わらない。
希少性の原則、ってやつだ。
例えばIT業界では、まさに希少性で勝負する独立系のベンダーが乱立している。ニッチな分野に特化して、お客様に最適なソリューションを提供する比較的小規模の企業が、IT業界全体の成長を支えている。
IT業界は、業界全体でみれば年間数%程度のプラス成長を続けているが、実は大手と呼ばれるベンダーは軒並みマイナス成長で、シェア・ロスの状況が続いている。理由は明確で、様々なお客様のニーズに対して、大手ベンダーが最適なソリューションを提供できなかった、ということに尽きると思う。
バブル崩壊後の厳しい経済環境において、多くの企業では経費削減が最大の経営課題だった。その為の施策として、企業は投資の抑制を図ったのだが、ITに関して言えば、企業として必要なITの機能要件を絞り込み、投資の対象範囲を限定することで、IT投資を必要最小限に抑えようという流れが鮮明になった。
機能要件が限定されれば、その分野に特化したソリューションを持ったベンダーは有利だ。総合力では勝負できないけれど、お客様の個別のニーズにきめ細かく対応することで、最適解を提供できるベンダーが、確実にニッチなエリアを拾っていった。大手ベンダーはあらゆる分野の製品ラインアップを揃えることで、あるいは他社とのパートナーシップを強化することで、「何でも出来ます」という路線を選択した。でも、お客様の痒いところに手は届かなかった。ニッチに対する細やかな対応力では、独立系ベンダーの方が遥かに上手だった、ということだと思う。
IT業界におけるこうした流れは、希少性を持つものが存在価値を、あるいは存在する場所を見出していく、ということのひとつの例になるかもしれない。
そして、長々と書いてしまったけれど、おれにとってのポイントはこの先にある。
それは、自分自身が、一個人としての希少性を獲得できるか、ということ。
例えばグラウンドの中に、あるいは営業の現場の中に、更にはこのブログの中に。
そして、それらすべてを包括する「日々」の中に、おれの「希少性」ってやつを織り込んでいけるかどうか。龍さんのエッセイを読んで、そんなことを漠然と考えています。
著者の村上龍さんが何度かヨーロッパに出向いた際に、エールフランスのファーストクラスとビジネスクラスが、いつも満席だったという。JALやANAが満席だったことはなく、特にファーストは空席ばかりだったにも関わらず、エールフランスが常に満席だったのは、喫煙コーナーがあるからではないか、という話だった。
龍さんは、こう続ける。
長距離の国際線における全席禁煙の流れは自然なもので、基本的に正しい対応だろう。そうした状況下においてJALやANAは、アメリカンスタンダードこそが世界標準であるという考え方のもと、全席禁煙という方向性に歩調を合わせた。しかしながら、欧米の大多数の航空会社が選択しなかった「喫煙コーナー」を作ることで、エールフランスは乗客率を伸ばした。そこには「希少性」という経済学の基本的な要因が働いている。JALやANAは、アメリカンスタンダードに無批判に準拠することで、経営上の戦術的選択肢を盲目的に1つ失い、また市場における「希少性」を喪失した。
このエピソードが紹介されている龍さんのエッセイ集『アウェーで戦うために』が出版されたのは2000年12月であり、現在の状況はおそらく違うだろう。海外経験のほとんどないおれは、恥ずかしながら航空会社の現在をよく知らないけれど、日々刻々と変化する市場環境の中で、航空会社各社は、他社との差別化戦略を積極的に展開しているはずだ。現代の情報化社会において、5年という歳月は長い。
ただ、このエピソードが示唆するものは変わらない。
希少性の原則、ってやつだ。
例えばIT業界では、まさに希少性で勝負する独立系のベンダーが乱立している。ニッチな分野に特化して、お客様に最適なソリューションを提供する比較的小規模の企業が、IT業界全体の成長を支えている。
IT業界は、業界全体でみれば年間数%程度のプラス成長を続けているが、実は大手と呼ばれるベンダーは軒並みマイナス成長で、シェア・ロスの状況が続いている。理由は明確で、様々なお客様のニーズに対して、大手ベンダーが最適なソリューションを提供できなかった、ということに尽きると思う。
バブル崩壊後の厳しい経済環境において、多くの企業では経費削減が最大の経営課題だった。その為の施策として、企業は投資の抑制を図ったのだが、ITに関して言えば、企業として必要なITの機能要件を絞り込み、投資の対象範囲を限定することで、IT投資を必要最小限に抑えようという流れが鮮明になった。
機能要件が限定されれば、その分野に特化したソリューションを持ったベンダーは有利だ。総合力では勝負できないけれど、お客様の個別のニーズにきめ細かく対応することで、最適解を提供できるベンダーが、確実にニッチなエリアを拾っていった。大手ベンダーはあらゆる分野の製品ラインアップを揃えることで、あるいは他社とのパートナーシップを強化することで、「何でも出来ます」という路線を選択した。でも、お客様の痒いところに手は届かなかった。ニッチに対する細やかな対応力では、独立系ベンダーの方が遥かに上手だった、ということだと思う。
IT業界におけるこうした流れは、希少性を持つものが存在価値を、あるいは存在する場所を見出していく、ということのひとつの例になるかもしれない。
そして、長々と書いてしまったけれど、おれにとってのポイントはこの先にある。
それは、自分自身が、一個人としての希少性を獲得できるか、ということ。
例えばグラウンドの中に、あるいは営業の現場の中に、更にはこのブログの中に。
そして、それらすべてを包括する「日々」の中に、おれの「希少性」ってやつを織り込んでいけるかどうか。龍さんのエッセイを読んで、そんなことを漠然と考えています。
Tuesday, November 22, 2005
「最悪」じゃなくて
11月3日に行われた秩父宮での東日本トップクラブリーグ決勝以来となるゲーム。
タマリバ vs 関東学院大C @釜利谷G(12:00K.O.)
相手は2.5本目くらいのメンバーだと事前に聞いていたのだけれど、おそらくは3本目だと思う。それでも、リーグ戦の優勝争いが佳境を迎えるこの時期に、3本目とはいえゲームを組んでもらえたのは大きい。大学の強豪校とゲームを組めるチャンスも決して多くはないので、その意味でも貴重なゲームだったと思う。
結果はというと、39-12での勝利。
ゲーム全般でみれば、特に危なげなく勝利できたと思う。
ただ、出来が良かった訳じゃない。特にこのゲームでは、残念ながら、個人としてのパフォーマンスが問題だった。
最近いつも同じことを繰り返している気がする。練習でも試合でも、自分の課題として浮き彫りになるのはいつも同じだ。パスを正確に放れない。ラインディフェンスが上手く出来ない。タックルの瞬間に一歩踏み込むことが出来ない。そういう諸々のことが、悔しいけれど改善されていない。今回のゲームでは、特にディフェンスについて、その事実を改めて突きつけられることになった。
いつも同じだ。
例えば普段の練習後。練習を終えて、帰りの電車の中でいつも反省する。
「今日の練習の出来は最悪だった」って。
最近では、自分が納得出来るだけのパフォーマンスを発揮して練習を終えることが、一度だってなかったような気さえする。
でも、今回のゲームを終えて、はっきりと分かった。
今までの出来が最悪だった訳ではなくて、最初からその程度の実力なんだ。
悔しいけれど、それが現実。
「最悪」という言葉には、自分の能力は本当はもっと高いけれど、たまたまそれを出せなかっただけだ、といったニュアンスがある。でも、それはきっと違う。一度きりの練習、一度きりのゲームの中で、パフォーマンスをきちんと発揮できないことこそが、自分の今の限界なのだと思う。
正直言って、状況は厳しい。
2月の選手権までに残された時間は決して多くはない。今のレベルのままでその日を迎えたならば、きっとチームはおれを信頼しないと思う。チームの求めているレベルに対して、はっきりと達していないからね。
上手くなりたい。もともとタマリバに入ることを決めた最大の理由は、上手くなる為のラグビーを出来るチームだと思ったからだ。チームのメンバーに信頼されるように、そして日本選手権の舞台に立って、自分のベスト・パフォーマンスを発揮できるように、その瞬間の為に、もっと上手くなりたい。
タマリバ vs 関東学院大C @釜利谷G(12:00K.O.)
相手は2.5本目くらいのメンバーだと事前に聞いていたのだけれど、おそらくは3本目だと思う。それでも、リーグ戦の優勝争いが佳境を迎えるこの時期に、3本目とはいえゲームを組んでもらえたのは大きい。大学の強豪校とゲームを組めるチャンスも決して多くはないので、その意味でも貴重なゲームだったと思う。
結果はというと、39-12での勝利。
ゲーム全般でみれば、特に危なげなく勝利できたと思う。
ただ、出来が良かった訳じゃない。特にこのゲームでは、残念ながら、個人としてのパフォーマンスが問題だった。
最近いつも同じことを繰り返している気がする。練習でも試合でも、自分の課題として浮き彫りになるのはいつも同じだ。パスを正確に放れない。ラインディフェンスが上手く出来ない。タックルの瞬間に一歩踏み込むことが出来ない。そういう諸々のことが、悔しいけれど改善されていない。今回のゲームでは、特にディフェンスについて、その事実を改めて突きつけられることになった。
いつも同じだ。
例えば普段の練習後。練習を終えて、帰りの電車の中でいつも反省する。
「今日の練習の出来は最悪だった」って。
最近では、自分が納得出来るだけのパフォーマンスを発揮して練習を終えることが、一度だってなかったような気さえする。
でも、今回のゲームを終えて、はっきりと分かった。
今までの出来が最悪だった訳ではなくて、最初からその程度の実力なんだ。
悔しいけれど、それが現実。
「最悪」という言葉には、自分の能力は本当はもっと高いけれど、たまたまそれを出せなかっただけだ、といったニュアンスがある。でも、それはきっと違う。一度きりの練習、一度きりのゲームの中で、パフォーマンスをきちんと発揮できないことこそが、自分の今の限界なのだと思う。
正直言って、状況は厳しい。
2月の選手権までに残された時間は決して多くはない。今のレベルのままでその日を迎えたならば、きっとチームはおれを信頼しないと思う。チームの求めているレベルに対して、はっきりと達していないからね。
上手くなりたい。もともとタマリバに入ることを決めた最大の理由は、上手くなる為のラグビーを出来るチームだと思ったからだ。チームのメンバーに信頼されるように、そして日本選手権の舞台に立って、自分のベスト・パフォーマンスを発揮できるように、その瞬間の為に、もっと上手くなりたい。
Tuesday, November 15, 2005
こぼれ落ちるもの
随分久しぶりに田口ランディさんのブログに目を通した。
「不眠に悩むコヨーテ」
http://bluecoyote.exblog.jp/
ランディさんは以前、「田口ランディのアメーバ的日常」というブログを連載していたのだけれど、ある時突然に、1ヶ月近くの休載に入った。その後、8月の下旬に再開されたのが、この「不眠に悩むコヨーテ」というブログなのだけれど、実は再開された直後から、おれはランディさんのブログにそれほど目を通さなくなってしまった。
「アメーバ的日常」は、幾多の読むに堪えないブログが増殖している中で、個人的に最も好きなブログのひとつだった。ランディさんの剥き出しの思考の跡が垣間見えて、非常に刺激的だったし、なにより新鮮だった。彼女が「ブログに書く」ということの価値をはっきりと感じ取れる、そんなブログだった。
「不眠に悩むコヨーテ」が始まった頃、その雰囲気の違いに凄く違和感を感じた。同じ人間の書いたものとは思えないくらいに、そこで語られる言葉そのものが変化しているような気がした。言葉というのは人であり、それはつまり、田口ランディという人のある種の変化なのかなと、直感的におれは思った。
変化という事実に善悪はなく、おれは今でも田口ランディさんに対して、ある種の敬意を抱いている。ただ、「不眠に悩むコヨーテ」で語られた言葉の世界は、少なくともおれにとって、従来とは違うどこか立ち寄りづらい雰囲気を醸し出していた。
目を通す回数が減っていったのは、その感触を拭い去れなかったからだと思う。
それから約2ヶ月。
久しぶりに目を通してみると、「不眠に悩むコヨーテ」が始まった頃ほどには違和感を感じなくなっていた。言葉の選択や、思考の流れといった点で、「アメーバ的日常」の頃には見られなかったものも少なくないけれど、相変わらず示唆に富んだブログだと思うし、剥き出しに近い状態の思考と感情が入り乱れながら、ひとつの物語へと収斂していく過程が刻まれていて、刺激的なものも多かった。
特に響いたのは、中澤新一さんの「直感を生きる」という言葉。
「全感覚的に、直感的に世界を把握する能力を取り戻せ」という、その発想だった。
http://bluecoyote.exblog.jp/1605866
日常を生きるうえで、ほとんど無自覚に前提としてしまっている西洋的な論理思考の枠組み、あるいは対立的な物事の捉え方というのは、決して自明のものではなくて、むしろ時に生命力を枯らせてしまう、という指摘には唸ってしまった。
その指摘が新しかったからじゃない。
「生命力を枯らす」という言葉に、ランディさんの魂のようなものを感じたからだ。
直感を生きるランディさんの原点が、こんな言葉ひとつにも、顔を覗かせているね。
ちなみに、最近おれは「こぼれ落ちるもの」ということを考えている。
実はちょうど今、ゲーム理論に関する本を読んでいるのだけれど、ゲーム理論というのはひとつの思考モデルだよね。一定の前提と決められたルールのもとで、合理的判断に基づいて行動すると仮定されたプレーヤーが、実際にどのような選択をするのかを導き出す為の「思考の枠組み」と言えばいいかもしれない。
ゲーム理論に限らない。
思考モデルとでも言うべきものは、それこそ至るところに転がっている。本屋に寄って、ビジネス書の棚を眺めれば、物事の考え方や整理の仕方をパターン化して、思考モデルとして提示してくれる書籍が、数え切れないほど並んでいるはずだ。
モデルというのは、つまりは鋳型だ。
有効性に対する判断は様々あるだろうが、モデルが導く結論やアウトプットが完全でないということを批判するのは、そもそも意味がないと思う。クッキーの型をいくつ準備したところで、あらゆる形のクッキーを焼けるわけじゃないのと同じことだ。モデルというのは、最初からそういうものとして考えるべきで、むしろある種のクッキーをきちんと焼けるのならば、そのことの有効性を評価すればよいと思う。
ただ、おれが考えているのは、そこから「こぼれ落ちるもの」なんだ。
モデルを批判的に捉える、というのは、モデルには落とし込めないものの存在に光を当てることなんじゃないか。それが何かということに対して、今のおれは明確な答えを持っていないけれど、例えばそれは、「直感を生きる」という生き方であったり、ランディさんの言う「生命力」であったりするのかもしれないね。
「不眠に悩むコヨーテ」
http://bluecoyote.exblog.jp/
ランディさんは以前、「田口ランディのアメーバ的日常」というブログを連載していたのだけれど、ある時突然に、1ヶ月近くの休載に入った。その後、8月の下旬に再開されたのが、この「不眠に悩むコヨーテ」というブログなのだけれど、実は再開された直後から、おれはランディさんのブログにそれほど目を通さなくなってしまった。
「アメーバ的日常」は、幾多の読むに堪えないブログが増殖している中で、個人的に最も好きなブログのひとつだった。ランディさんの剥き出しの思考の跡が垣間見えて、非常に刺激的だったし、なにより新鮮だった。彼女が「ブログに書く」ということの価値をはっきりと感じ取れる、そんなブログだった。
「不眠に悩むコヨーテ」が始まった頃、その雰囲気の違いに凄く違和感を感じた。同じ人間の書いたものとは思えないくらいに、そこで語られる言葉そのものが変化しているような気がした。言葉というのは人であり、それはつまり、田口ランディという人のある種の変化なのかなと、直感的におれは思った。
変化という事実に善悪はなく、おれは今でも田口ランディさんに対して、ある種の敬意を抱いている。ただ、「不眠に悩むコヨーテ」で語られた言葉の世界は、少なくともおれにとって、従来とは違うどこか立ち寄りづらい雰囲気を醸し出していた。
目を通す回数が減っていったのは、その感触を拭い去れなかったからだと思う。
それから約2ヶ月。
久しぶりに目を通してみると、「不眠に悩むコヨーテ」が始まった頃ほどには違和感を感じなくなっていた。言葉の選択や、思考の流れといった点で、「アメーバ的日常」の頃には見られなかったものも少なくないけれど、相変わらず示唆に富んだブログだと思うし、剥き出しに近い状態の思考と感情が入り乱れながら、ひとつの物語へと収斂していく過程が刻まれていて、刺激的なものも多かった。
特に響いたのは、中澤新一さんの「直感を生きる」という言葉。
「全感覚的に、直感的に世界を把握する能力を取り戻せ」という、その発想だった。
http://bluecoyote.exblog.jp/1605866
日常を生きるうえで、ほとんど無自覚に前提としてしまっている西洋的な論理思考の枠組み、あるいは対立的な物事の捉え方というのは、決して自明のものではなくて、むしろ時に生命力を枯らせてしまう、という指摘には唸ってしまった。
その指摘が新しかったからじゃない。
「生命力を枯らす」という言葉に、ランディさんの魂のようなものを感じたからだ。
直感を生きるランディさんの原点が、こんな言葉ひとつにも、顔を覗かせているね。
ちなみに、最近おれは「こぼれ落ちるもの」ということを考えている。
実はちょうど今、ゲーム理論に関する本を読んでいるのだけれど、ゲーム理論というのはひとつの思考モデルだよね。一定の前提と決められたルールのもとで、合理的判断に基づいて行動すると仮定されたプレーヤーが、実際にどのような選択をするのかを導き出す為の「思考の枠組み」と言えばいいかもしれない。
ゲーム理論に限らない。
思考モデルとでも言うべきものは、それこそ至るところに転がっている。本屋に寄って、ビジネス書の棚を眺めれば、物事の考え方や整理の仕方をパターン化して、思考モデルとして提示してくれる書籍が、数え切れないほど並んでいるはずだ。
モデルというのは、つまりは鋳型だ。
有効性に対する判断は様々あるだろうが、モデルが導く結論やアウトプットが完全でないということを批判するのは、そもそも意味がないと思う。クッキーの型をいくつ準備したところで、あらゆる形のクッキーを焼けるわけじゃないのと同じことだ。モデルというのは、最初からそういうものとして考えるべきで、むしろある種のクッキーをきちんと焼けるのならば、そのことの有効性を評価すればよいと思う。
ただ、おれが考えているのは、そこから「こぼれ落ちるもの」なんだ。
モデルを批判的に捉える、というのは、モデルには落とし込めないものの存在に光を当てることなんじゃないか。それが何かということに対して、今のおれは明確な答えを持っていないけれど、例えばそれは、「直感を生きる」という生き方であったり、ランディさんの言う「生命力」であったりするのかもしれないね。
Saturday, November 12, 2005
神様について
心に響いたマハトマ・ガンディーの言葉。
我々が今日のことに気をつかえば、明日のことは神が気をつかってくれる。
今日を一生懸命に過ごして、明日を神様に委ねる。でも、夜が明けて朝が訪れた時、明日だったはずの瞬間は、もう「今日」になっているんだ。だから、明日に気をつかってくれる神様には、本当は最後まで出会えないのかもしれない。
神様が生きているのは、届くことのない時間。
結局のところ、明日は生きられない。生きているのは、いつだって今日だ。
だから本当は、自分が存在できる唯一の瞬間である「今日」に対して、自分自身が気を遣い続けるしかないのだと思うし、それしか出来ることはないのだとも思う。
そしておれは、神様のそういうところが結構好きだったりします。
我々が今日のことに気をつかえば、明日のことは神が気をつかってくれる。
今日を一生懸命に過ごして、明日を神様に委ねる。でも、夜が明けて朝が訪れた時、明日だったはずの瞬間は、もう「今日」になっているんだ。だから、明日に気をつかってくれる神様には、本当は最後まで出会えないのかもしれない。
神様が生きているのは、届くことのない時間。
結局のところ、明日は生きられない。生きているのは、いつだって今日だ。
だから本当は、自分が存在できる唯一の瞬間である「今日」に対して、自分自身が気を遣い続けるしかないのだと思うし、それしか出来ることはないのだとも思う。
そしておれは、神様のそういうところが結構好きだったりします。
Monday, November 07, 2005
伸びしろ
書くのが遅くなってしまったけれど、11月3日(木)に秩父宮ラグビー場で行われた東日本トップクラブリーグの決勝戦、29-10でなんとかものにすることができた。北海道バーバリアンズとの試合はいつも苦しい展開ばかりで、今回のゲームも決して上手く進められた訳ではないけれど、とにかく勝利できたことに、まずはほっとしている。
当日は、何人かの友達や先輩が、試合を観に来てくれた。
試合後にメールや電話をくれた友達もいた。
ありがとうございます。
次は1月の全国クラブ選手権。必ず優勝して、日本選手権の切符を掴みます。
さて、試合終了から2日経った昨日、改めて試合のビデオを観ることになった。
結論から言うと、内容はあまりにもひどかったね。
自分自身のプレーも、相変わらず良くなかったけれど、チーム全体としてのプレーの質があまりに低かった。ミスを連発して、自分たちで状況を苦しくしていく。相手FWの中心メンバーである3人の外国人選手に何度も同じようにボールを奪われ、連続攻撃が出来ない。ルーズボールに対するセービングが出来ない。準備していた戦略が想定通りにいかない状況が明らかなのに、ゲーム中に修正していくことが出来ない。
これじゃ、勝てないよね。
目標としている日本選手権では、絶対に勝てない。
練習するしかない。
自分自身、課題が噴出している。チームがおれに求めている仕事は明確なので、それを確実に出来るようにプレーの精度を高めていくしかない。現状のレベルのままだったら、きっとチームはおれを信頼しないだろうと思う。
ラグビーというのは、そういうスポーツだからね。
まだまだ、伸びしろはたくさんあるはずなんだ。
当日は、何人かの友達や先輩が、試合を観に来てくれた。
試合後にメールや電話をくれた友達もいた。
ありがとうございます。
次は1月の全国クラブ選手権。必ず優勝して、日本選手権の切符を掴みます。
さて、試合終了から2日経った昨日、改めて試合のビデオを観ることになった。
結論から言うと、内容はあまりにもひどかったね。
自分自身のプレーも、相変わらず良くなかったけれど、チーム全体としてのプレーの質があまりに低かった。ミスを連発して、自分たちで状況を苦しくしていく。相手FWの中心メンバーである3人の外国人選手に何度も同じようにボールを奪われ、連続攻撃が出来ない。ルーズボールに対するセービングが出来ない。準備していた戦略が想定通りにいかない状況が明らかなのに、ゲーム中に修正していくことが出来ない。
これじゃ、勝てないよね。
目標としている日本選手権では、絶対に勝てない。
練習するしかない。
自分自身、課題が噴出している。チームがおれに求めている仕事は明確なので、それを確実に出来るようにプレーの精度を高めていくしかない。現状のレベルのままだったら、きっとチームはおれを信頼しないだろうと思う。
ラグビーというのは、そういうスポーツだからね。
まだまだ、伸びしろはたくさんあるはずなんだ。
Thursday, November 03, 2005
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