同期と珍しく食事をして、また終電。
終電に乗ると、blogを書きたくなります。
東京で午後から予定されていた社内会議のために、少し早めに新幹線で移動。日本橋まで足を延ばして、1人で鶏料理「ぼんぼり」のランチを食べていると、店内に流れてきたのは川村結花さんのカバーによる『夜空ノムコウ』だった。
この曲を書いたシンガーソングライター、知ってますか。
ちなみに作詞はスガシカオです。
カウンターで食事をしていたのが自分ひとりだったこともあって、妙にしんみりしてしまった。学生の頃、今ではさっぱり使われなくなったMDで何度も聴いた川村結花さんのカバーも懐かしくて。『unforgettable』とか、すごく好きだったのを思い出します。
「あの頃の未来に、僕等は立っているのかな」とスガシカオは問いかけるけれど、あの頃の自分には未来なんてなかった。本当に、ただ「今」しかなくて、今を必死に生きていた。言葉にしてしまうと恥ずかしいけれど、本当にそんな感じだった。とにかく喰らいついていかなければ、明日は自分のロッカーがなくなっているかもしれない。大柄な男の身体ひとつと、多少の荷物が収まる程度のほんの小さなロッカーを守るために、毎日がバトルだった。
小さなロッカーが、当時の自分には全てだった。
そして掛けられたネームプレートは、ある種の自己証明だった。
おれ、まだここにいます、って。
もっと必死に生きられる。
フィジカルな世界よりも多少分かりづらいけれど、自分の居場所はやっぱり、自分で掻き分けて、掴んで、喰らいついて、そして繋ぎとめるものだ。
居場所は、そこにずっとある訳じゃない。
スガシカオのように感傷はできない。妥協も感傷もしている余裕さえなかった当時が、今の自分の原点のはずなんだ。20代の貴重な時間を捧げて学び取ったはずのことを、簡単に忘れていてはいけない。
妥協している暇さえないような人生を。
妥協しない、ではなくて。
Friday, February 19, 2010
Wednesday, February 10, 2010
No Excuse
Twitterでつぶやかれた孫正義さんの言葉。
『言い訳は、解決への執念を鈍らせる。』
まさしくその通りだと思う。
「執念」という言葉の選択が、孫正義さんのイメージにとてもしっくりと馴染む。
自分の日々の言葉を思い返すと、幾つ言い訳があるだろう。特にステークホルダーが多岐に渡る仕事をしていると、前提であったはずのことが、いつしか「できない理由」へとすり替わっていく。
前提を理由にしてはいけない。
学生時代にラグビーで学んだことだ。
同じことを繰り返さないためのプロセスを、日々同じように繰り返す。
これもラグビーで学んだ。
もう学んでるはずなんだ。
砂場ではなく、駒場のグラウンドで。
『言い訳は、解決への執念を鈍らせる。』
まさしくその通りだと思う。
「執念」という言葉の選択が、孫正義さんのイメージにとてもしっくりと馴染む。
自分の日々の言葉を思い返すと、幾つ言い訳があるだろう。特にステークホルダーが多岐に渡る仕事をしていると、前提であったはずのことが、いつしか「できない理由」へとすり替わっていく。
前提を理由にしてはいけない。
学生時代にラグビーで学んだことだ。
同じことを繰り返さないためのプロセスを、日々同じように繰り返す。
これもラグビーで学んだ。
もう学んでるはずなんだ。
砂場ではなく、駒場のグラウンドで。
Friday, February 05, 2010
confidence
毎朝楽しみにしているメールマガジン「ハロー!株式」で見つけた名言を。
人を信じよ、しかしその百倍も自らを信じよ。― 手塚治虫
学生時代に肌身で知ったことがある。
自信を持つのは簡単じゃない。より正確には、自信を裏付けるのは簡単じゃない。
恐怖や不安、苦悩や絶望の淵に足が掛かり、心が折れそうになった時に、それでも最後まで自分を支え、拠って立つべき根拠として自らを奮い立たせてくれるもの。
自信とはつまり、そういうものだと思う。
生半可な自信など役に立たない。自尊を守れない自信に何の価値があるのか。
だからこそ、本来の意味での自信を持つのは容易ではない。
努力というと誤解を招くかもしれないが、自分自身の寄る辺を確立するための不断のプロセスがあって初めて、自信は裏付けを持つのだと思う。
そしてそれは、きっと一般的に想像されるような苦行ではないんだ。苦行でないからこそ、苦しいことに向かっていけるのだと思う。このニュアンスが重要なところだ。
手塚治虫さんは、人よりも百倍も濃厚なプロセスを生きていたのだろう。
この短い言葉の裏に、その熱く深い裏付けを感じずにはいられない。
人を信じよ、しかしその百倍も自らを信じよ。― 手塚治虫
学生時代に肌身で知ったことがある。
自信を持つのは簡単じゃない。より正確には、自信を裏付けるのは簡単じゃない。
恐怖や不安、苦悩や絶望の淵に足が掛かり、心が折れそうになった時に、それでも最後まで自分を支え、拠って立つべき根拠として自らを奮い立たせてくれるもの。
自信とはつまり、そういうものだと思う。
生半可な自信など役に立たない。自尊を守れない自信に何の価値があるのか。
だからこそ、本来の意味での自信を持つのは容易ではない。
努力というと誤解を招くかもしれないが、自分自身の寄る辺を確立するための不断のプロセスがあって初めて、自信は裏付けを持つのだと思う。
そしてそれは、きっと一般的に想像されるような苦行ではないんだ。苦行でないからこそ、苦しいことに向かっていけるのだと思う。このニュアンスが重要なところだ。
手塚治虫さんは、人よりも百倍も濃厚なプロセスを生きていたのだろう。
この短い言葉の裏に、その熱く深い裏付けを感じずにはいられない。
Wednesday, February 03, 2010
シナリオ
iPhoneアプリから初めての更新。
これで書ければ、更新しやすくなるかも。
東京駅から、最終の新幹線で名古屋に向かっている。最終電車というのは、それだけでどこか感傷的なところがあって、どうしても1日を振り返ってしまう。勿論それは、悪いことではないけれど。
毎日色々なことがあるけれど、思惑通りに進むことは殆どなくて、いつも自分の算段を越えたところで物事が動いていく。営業の仕事をしているとよく「シナリオ」という言葉が使われるのだけれど、シナリオ通りに事が進まないのは、シナリオの練り込みが足りないのかもしれない。
「シナリオ通りの人生はつまらない。」
どこかで聞いたようなフレーズだ。
きっとそうだろう。
でも、シナリオを描こうとさえしない人生だって、きっとつまらない。
うまく描けなくても、自分の進む道筋は自分で描きたい。外れてばかりのシナリオだったとしても、描き続ける意志を放棄したくはない。
スタートはいつだって、ドラフト版のシナリオなのだから。
これで書ければ、更新しやすくなるかも。
東京駅から、最終の新幹線で名古屋に向かっている。最終電車というのは、それだけでどこか感傷的なところがあって、どうしても1日を振り返ってしまう。勿論それは、悪いことではないけれど。
毎日色々なことがあるけれど、思惑通りに進むことは殆どなくて、いつも自分の算段を越えたところで物事が動いていく。営業の仕事をしているとよく「シナリオ」という言葉が使われるのだけれど、シナリオ通りに事が進まないのは、シナリオの練り込みが足りないのかもしれない。
「シナリオ通りの人生はつまらない。」
どこかで聞いたようなフレーズだ。
きっとそうだろう。
でも、シナリオを描こうとさえしない人生だって、きっとつまらない。
うまく描けなくても、自分の進む道筋は自分で描きたい。外れてばかりのシナリオだったとしても、描き続ける意志を放棄したくはない。
スタートはいつだって、ドラフト版のシナリオなのだから。
Tuesday, February 02, 2010
英語
久しぶりの更新。
随分書いていなかったなぁ。
つい最近のことだけれど、英語の勉強を再開した。
何度も挫折しているのだけれど、もう一度きちんと挑戦しようと思っている。
毎日英語に触れるつもりで、特にリスニングを改善していきたい。
本当は、英語で読んでみたい本が沢山あるのだけれど、ずっと怠っていた。
最近は小説を読む量が随分減ってしまったけれど、学生の頃、ポール・オースターの『幽霊たち(Ghosts)』を原語で読みたくて、ペーパーバックを買った記憶がある。
読み切れなかったなぁ・・・。
NYで活躍する大学ラグビー部の同期の言葉で、とても印象的だったものがある。
随分前のことだけれど、彼の一時帰国の折に、東京で仲間が集まって呑んだのだが、broken Englishでも十分にアメリカ人との交流はできるし、心を通わせることができるはずだと語る仲間の1人に、こう応じたんだ。
「でもそれは、ある一線を越えない。」
表現は正確ではないが、発言の主旨ははっきりと覚えている。
そしてその時に、そうだよなぁと素直に感じ入ってしまったことも。
言葉では表すことのできないことは、きっと沢山あるだろう。
でも、言葉でしか表すことのできないものだって、沢山あるはずだ。
言語化を志向することで初めて気づく非言語の領域。
その深さと繊細さを伝えることができるのは、結局のところ言葉かもしれない。
そこまで辿り着けなくてもまずはいいので、もう一度、英語を勉強してみよう。
1年後にはポール・オースターを読みこなせるように。
随分書いていなかったなぁ。
つい最近のことだけれど、英語の勉強を再開した。
何度も挫折しているのだけれど、もう一度きちんと挑戦しようと思っている。
毎日英語に触れるつもりで、特にリスニングを改善していきたい。
本当は、英語で読んでみたい本が沢山あるのだけれど、ずっと怠っていた。
最近は小説を読む量が随分減ってしまったけれど、学生の頃、ポール・オースターの『幽霊たち(Ghosts)』を原語で読みたくて、ペーパーバックを買った記憶がある。
読み切れなかったなぁ・・・。
NYで活躍する大学ラグビー部の同期の言葉で、とても印象的だったものがある。
随分前のことだけれど、彼の一時帰国の折に、東京で仲間が集まって呑んだのだが、broken Englishでも十分にアメリカ人との交流はできるし、心を通わせることができるはずだと語る仲間の1人に、こう応じたんだ。
「でもそれは、ある一線を越えない。」
表現は正確ではないが、発言の主旨ははっきりと覚えている。
そしてその時に、そうだよなぁと素直に感じ入ってしまったことも。
言葉では表すことのできないことは、きっと沢山あるだろう。
でも、言葉でしか表すことのできないものだって、沢山あるはずだ。
言語化を志向することで初めて気づく非言語の領域。
その深さと繊細さを伝えることができるのは、結局のところ言葉かもしれない。
そこまで辿り着けなくてもまずはいいので、もう一度、英語を勉強してみよう。
1年後にはポール・オースターを読みこなせるように。
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