Tuesday, September 13, 2005

格差を考える

ずっと疑問に思っていたことがある。
日本社会における「格差」って、本当に拡大しているのだろうか。
拡大しているとすれば、それはどの程度なのだろうか。

不本意ながら、最近ほとんど本を読まない日々が続いているのだけれど、そうした日々の中で、少しずつゆっくりと読み進めている本があるんだ。
玄田有史さんの『仕事のなかの曖昧な不安』という作品。
以前にも書いたけれど、玄田さんは労働経済学の専門家で、代表作の『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』など、日本における労働環境を新たな視点で捉え直す試みで、一躍有名になった研究者だ。最近では、東京大学社会科学研究所の「希望学」プロジェクトに参画しながら、現代における「希望」をテーマに様々な活動をされているようで、その試みにおれは、ずっと興味を持っていたんだ。

『仕事のなかの曖昧な不安』においては、統計的な分析を活用して、データが語る日本の労働市場の現実を、徹底的に正確に突き詰めていく、という知的作業が展開されるのだけれど、これがとても面白く、刺激的だ。
例えば、フリーターやニートの増加ということを考えてみる。
雑誌やメディア、それに会社での日常的な会話などでも、「若者の就業意識の変化」なんてことがよく言われる。最近の若者は仕事に対するこだわりが薄く、ちょっと厳しいことを言われたり、嫌なことがあったりすると、すぐに会社を辞めてしまう。仕事に対する責任感が希薄で、自己実現の場を仕事以外に求めようとする傾向が強まっている。こうしたことが日常的に語られたりする。

でもそれは、どの程度「本当」なのだろうか。
こうした疑問を考える手掛かりとして、玄田さんは徹底的にデータを活用していく。

若年層の離職率は、戦後どのように推移してきたのか。
若年層を対象とした意識調査の結果からは、何が読み取れるか。
正社員での採用を希望する割合に、変化はみられるのか。
入社3年以内に離職する人の割合は、過去と比較して高まっているのか。
失業率と若年層の離職率には、なんらかの関連性があるのか。

こういった様々な観点から、精緻にデータを追っていく。データが語る日本社会の労働環境の現実を突きつめていく。すると、一般に言われているのとは全く様相の異なる別の姿が浮かび上がってくる。

分析データや統計的手法、組み上げられた論理の詳細について細かくは触れない。けれど、玄田さんのそういう厳密なロジックに基づいた思考はとても新鮮で、示唆に富んでおり、知的好奇心を刺激するものだった。


日本は、世界で最も従業員の解雇が困難な国家のひとつだ。
企業による従業員の解雇を明確に規制する法はないが、過去の判例によって企業は幾重にも縛られており、経営判断としての正当性を十分な説得力を持って説明できない限り、実際に企業が従業員を解雇することは極めて難しい。仮に解雇に踏み切ったとしても、被解雇者による訴訟リスク、平気で社員の首を切るといった風評の流布のような社会的信用リスク、企業イメージの低下といった様々なリスクに企業は晒されることになるだろう。
雑誌やメディアではよく、中高年のリストラが社会問題として取り上げられる。しかし、いわゆる中高年にあたる45歳~54歳の大学卒ホワイトカラー層に関してデータを分析していくと、実際にはほとんど解雇されていないという現実が見えてくる。失業率の上昇が問題視されるが、最も深刻な状態にあるのは中高年ではなくて、実は20代、30代といった若年層だ。若年層の失業率は、日本は先進国でも最悪のレベルに達しているが、こうした事実が問題として取り上げられることはほとんどない。

戦後の高度経済成長時代において企業は、右肩上がりの業績に支えられて着実に雇用を創出してきた。拡大する需要に対応する為に、常に新たな労働力を確保する必要があった。しかしながら、90年代に入ると状況は一変する。バブル経済が崩壊し、日本は長期にわたる景気停滞局面を迎えることになる。
不況に直面した企業においては、収益力を維持する為に、徹底的なコストカットが経営上の至上課題となる。様々なエリアでコスト削減の施策が断行されることになるが、その中でも最大の問題となったのが、言うまでもなく人件費だった。

日本において、従業員の解雇は決して容易ではない。そうした状況下にあって、企業が抱える労働力の調整を行う為には、実質的に2つの選択肢しかなかった。定年退職による自然減、そして新規採用の抑制だ。経済全体が拡大していた頃には、実はもうひとつの選択肢があった。それは、体力のある中小企業に労働力を振り向ける、ということだ。出向や転籍という形式を取って、中小企業にスキルをもった人材を移していく。日本の発展を支えた多くの中小企業は、慢性的な労働力不足という問題を抱えており、人材の流動化を志向する大企業との間でニーズが一致した。しかし、90年代の不況期においては、中小企業の側にも労働力需要がなくなっていた。不況の煽りを受けて、大企業の人材を受け入れるだけの経営体力を失っていた。

こうした流れの中で、企業による新規採用は大幅に縮小され、就職活動は年々厳しさを増していった。結果として、本当に希望していた企業・職種を勝ち取ることが出来ず、妥協の末に2次希望、3次希望で決着するケースが増加していく。入社後に、自分がイメージしていた仕事に就くチャンスそのものが大幅に減少していき、思うようなスキルアップを図ることが困難なケースが恒常化していった。

それだけではない。長引く不況にあって経営状態の悪化した多くの企業は、社員のスキル育成に投資する余力を少しずつ失っていた。本来ならば若手社員に与えられるべき研修・OJTの機会といったものも、コスト削減の煽りを受け、減少していく。会社が社員のスキル育成に投資できない。企業のこうした姿勢が引き起こしたのは、スキルを必要とする仕事、やりがいのある仕事が経験豊かな中高年に振り分けられる、ということだった。過去に大量採用された世代が中高年となると、自分達には出来ない体力のいる仕事、あるいは単純な事務的作業ばかりが若年層に押し付けられ、結果的に若年層が「やりがいのある仕事」に就くチャンスは、極めて限定的なものになってしまった。

こうした全ての結果として、若年層の離職率は高まっているのだ。
このことが意味しているのは、「中高年の既得権を守る為に、若年層の雇用機会が犠牲になった」ということなんだ。本来であれば若年層に振り分けられるべき就業機会そのものが、中高年の解雇が困難な状況下にあって、その雇用確保という名目の下、確実に奪われていった。

玄田さんは、統計的手法を効果的に活用しながら、こうして論旨を展開していく。
フリーターやニートの問題も、こうした観点で捉え直すと、別の様相を呈してくる。それは必ずしも若年層における就業意識の変化が問題ではなくて、もっと根本的な、日本社会の構造的問題が改めて浮き彫りになってくるんだ。

断っておくけれど、だからと言ってフリーターやニートを肯定するつもりは、おれにはない。正確に言えば、肯定も否定もしない。ただ、リスキーな選択だとは思う。同じ頃、同世代の人間の誰もがスキルアップの為に日々努力しているのだから、それは当然のことだよね。それでも、リスクを認識してなお、それを受け入れてフリーターやニートを選択する人間に対して、否定する理由はどこにもないと思う。自分の信念を持って、リスクを取って生きることは格好良いし、そこには一筋の希望がきっとあるような気がする。そうしたリスクを認識することなく、何気なくフリーターやニートを選択するのは、単純に馬鹿げていると思うけれど。

でもとにかく、玄田さんのこうした発想は、おれにとってすごく新鮮で、とても興味深いものだった。示唆に富んでいて、知的刺激が詰まっていた。
例えばフリーターやニートの問題は、本質的にはきっと、極めて個人的な問題だと思う。100人のフリーターに対峙した時、かけるべき言葉はきっと100通りなければいけない。でも、別の視点から考察すると、日本社会の持つ構造的問題として捉え直すことが出来るということが、今までの自分にはなかった発想で、刺激的だった。そして、一般的に語られる常識のバイアスを排除して、徹底的なデータ分析の結果にその論拠を求める姿勢も、非常に好感の持てるものだったと思う。


随分長くなってしまったけれど、ここでようやく最初の疑問に戻ることになる。
日本社会における「格差」ってやつね。
実は『仕事のなかの曖昧な不安』の中に、この問題について言及している箇所があるんだ。それによると、どうやら研究者の見解も様々のようで、「日本社会において格差は拡大しているのか」についての論争は、未だ決着していないようだ。賛否両論があり、それぞれが統計的な手法を用いて説得性のある議論を展開しようと試みているが、明確な結論を導いて断定できる種類の問題ではないのかもしれない。

先の衆議院選において社民党の福島瑞穂は、選挙期間中ずっと「格差拡大社会の是正」ということを一貫して主張し続けていた。彼女の考える「格差」というのは何を意味しているのだろう。所得の格差だろうか。その場合、統計的分析に基づいた明確な根拠は存在するのだろうか。格差を考える指標は、所得以外にはないのだろうか。例えば、所得格差を生み出す要因のひとつが「機会格差」だという可能性はないのだろうか。そもそも「格差社会の是正」といった時に、どういった観点から「格差」を捉えることが最も公平なのだろうか。


最近ずっと、そんなことを考えていたんだ。
それで、考えた末の結論はというと・・・、結局よく分かりません。