かけっこをするな、と言われるのはいやだ。
先の衆議院総選挙が自民党の大勝に終わって、巷には本当にいろいろな考えや主張が渦巻いている。選挙の総括や、今後の日本の行方についても、様々な立場からの見解が各種メディアを賑わせている。とても興味深く、国民の関心の高い選挙だったので、その結末に誰もが思うところあるような、そんな感じがするね。
そうした中で民主党では、岡田代表の後任を決定する党代表選挙が17日に実施される。大幅に議席を失ったとはいえ、最大野党の民主党にとっては、今後を占う上での重要な決断の場だ。今日の報道ステーションには、立候補を表明した2人の政治家が揃って出演し、それぞれの展望を語っていた。
それで、本題はその先なのだけれど、候補者の1人、菅直人さんが番組の中で、自民党の大勝を評してこう言っていたんだ。
「1人のホリエモンと100人のホームレス、という流れが鮮明になった」って。
最近この手の論調は増えてきているような気がする。自民党の予想以上の勝利に対する反動もあるのかもしれない。小泉自民党の政治に対する批判的な見解として、最も人口に膾炙しているもののひとつは「弱者を切り捨てる政治」という主張だよね。(もうひとつは、「立場の異なる人間を排除する独裁的手法」ってやつだね。)
本当は政治についてあまり書きたくはないのだけれど、菅直人のこの発言に代表されるような主張を耳にする度に、おれはちょっと立ち止まってしまうんだ。
考える順序が違うんじゃないか、って。
100人のホームレスを生み出す政策に対しては、2つの反論が考えられる。
ひとつは「競争のルールが間違っている」という考え方だ。そもそも競争原理至上主義に傾きすぎている、という発想も、大きくはこの中に含まれるかもしれない。端的に言ってしまうと、そもそも100人ものホームレスを生み出さないような社会環境、あるいは競争のルールを整備すべきだ、という発想だ。
そして、もうひとつの反論は「セーフティネットが構築されていない」というものだ。競争の落伍者とされる人々に対して、社会全体として一定の支援を担保すべきなのに、その点が無視されているか、あるいは不十分な対応しか取られていない。この立場に立てば、100人のホームレスが生み出されるのは、落伍者をホームレスにしない為のセーフティネットが日本社会に欠如しているからだ、ということになる。
「100人のホームレス」という現実に対するこの2つの反論は、似ているようで、実際にはそのアプローチが全く異なる。発想の順序が、はっきりと逆なんだ。
そしておれは、かけっこをするな、という反論には、どうしても賛成できないんだ。
皆が同じようなタイミングでゴールするように、ハンデをつけてかけっこをするのは平等ではないと思う。人それぞれに持って生まれた能力は違う。格差が存在するのは当たり前だ。競争というのはそういうものだし、自由主義国家を標榜する以上、それは避けることの出来ない、ある意味では残酷な現実だと思う。
かけっこが苦手な子は、どうしたっている。
でも、かけっここそが自分を輝かせる唯一の舞台だっていうやつもいる。
大切なのは、最後に皆で手を繋いで、横一線でゴールすることじゃないと思う。本当に大切なのは、かけっこでビリだったやつが、勝負できる別の舞台を見つける為の手助けをしてあげることなんじゃないか。
運動会が嫌いで休んでしまうやつの机に、例えば絵筆を置いてみることじゃないか。
書いていて思ったけれど、もしかするとセーフティネットというのは、本質的には極めて個人的なものなのかもしれない。誰もが一定のレベルで救済されるようなセーフティネットというのは、そもそも成立し得ないのかもしれない。でも、そこへのチャレンジことが、きっと今後の社会を考える上での最大の課題なのだと思う。
すごく難しいことだと思うけれど。