「ブルース・リーになる試験はない。」
ー 山田玲司『非属の才能』(光文社新書)
先日、NHKである聾学校を取り扱ったドキュメンタリーを見る機会がありました。
聾学校という存在は当然知っていながら、これまで聾唖の方と接する機会は殆どないまま生きてきた私にとって、実際の聾学校での日常は全てのシーンが驚きの連続でした。
番組の中で描き出されていたのは、耳の不自由な子ども達にとっては「ごくありふれた日常」なのかもしれません。でも、ありふれた日常を安心して生きるためには、居場所が必要なんですよね。
子ども達を教える先生も、彼らと同じように音のない世界を生きてきた人生の先輩。きっと、子ども達にとって必要なのが「居場所」なのだということを、誰よりもよく分かってあげられる先生なのだと思います。
そんな素晴らしい先生に支えられ、「安心して、そこにいていいんだよ」と言ってもらえる場所があることで、子ども達は逞しく成長していきます。もちろん、ドキュメンタリーで映像化されるのは生活のほんの1コマで、映像の外側にある日常に想いを馳せる時に、軽々しく安易な言葉でまとめてしまってはいけないのだと思っていますが・・・。
「もし音が聞こえるようになる薬を神様がくれるとしたら、あなたは飲みたいですか」
子ども達に問いかけられた質問です。興味深いことに、半数の子は「飲みたくない」と答えたそうです。今の自分でいい。今の自分が好きだから、と。
飲みたいと答えた子の言葉も、心に響きます。「自分は音のない世界のことを知っている。だから次は、音のある世界のことも知ってみたい。」
飾り気のない素直な自己肯定。聾唖の子ども達のように、ある意味で明確なハンディキャップを抱えて生きる人にとって、安心して「所属」できることの意味と価値はどれほど大きいだろうと感じずにはいられませんでした。
でも、ふと思うんです。それって聾唖の子ども達だけでなく、誰にとっても言えることなんじゃないかなと。老若男女を問わず、学生/社会人の別を問わず、所属への安心は、自分を生きるための出発点なのかもしれません。
一方で、「非属」という考え方もあります。実はここ最近、個人的にずっと考え続けていることです。(元々属すのは苦手なタイプなので・・・。)
山田玲司さんは有名な漫画家ですが、漫画家の言葉は基本的に面白いものが多いんです。それは多くの場合、「自分たちはマイノリティである」という意識から来ているように感じます。
要するに、同調圧力への抵抗なんですよね。人と同じである必要はないと。誰も分かってくれなくても、自分が本当にやりたいことに忠実に生きればいいんだよと。
才能があるから非属が許されるのではなく、非属そのものが才能を作るのだと、山田さんは言います。より正確には、誰もが持っている自分自身の能力/個性を削り落さないための姿勢こそが非属である、ということかもしれません。
所属と非属。一見すると、相反する概念ですよね。
聾学校という場所に所属することで、小さな瞬間の中に「受け入れられる喜び」を抱きながら日常を過ごす子ども達。
学校なんて同調圧力の塊のような場所であって、その狭い世界で受け入れられるために自分を削る必要はないという漫画家。
2つの全く異なるタイプの心の叫びから、私たちは何を見出していけばいいのかなと、そんなことをこの1ヶ月近くぼんやりと考えています。まあ、考えてどうなる訳でもないんですけど。
でも、本当はこの2つは矛盾しないんだと思うんです。
会社での生活においても、いや、もっと身近に所属する事業部や営業部、更には担当チームといった単位で、まずは所属への安心感があってほしい。
その上で、こういう大きな組織/チームであっても、自分のスタイルを持って、自分らしく仕事ができて、「まあ、あれがあいつのスタンスなんだよな」みたいな小さな居場所があって。
表現を変えると、非属のままで属すことの許される場所。そういうのも悪くないんじゃないかなと、個人的には思うんです。
所属を支えるのは、きっと関心です。
「誰かは見てくれている」というのが、つまりは安心感ですから。
非属を支えるのは、きっと寛容です。
非属な人たちはマイノリティであり、寛容がなければ時に潰れてしまいます。
でも、もう一歩踏み込んでみると、寛容は関心から始まるような気がするんです。自分とは異なる価値観への興味があって初めて、人は寛容になれるのではないかなと。
隣の人の仕事に、関心を。
実はそういう小さな一歩から、何かが変わっていくのかもしれないですよね。
Thursday, September 27, 2018
Tuesday, September 25, 2018
勝手に事業部通信 Vol.4 (6/30/18)
「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい」
ー 森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)
発端は、1990年9月15日付の朝日新聞(地方版)に掲載された興味深い記事だったそうです。
< 老人の自殺、17年間ゼロ ここが違う徳島・海部町 >
この記事に注目したのが、当時慶應大学大学院修士課程で自殺予防因子の研究をしていた岡檀さん。彼女は実際に海部町を訪れてフィールドワークを行い、海部町の何が違うのか、自分自身の目で調査を始めます。その後、彼女の研究成果は『生き心地の良い町』(講談社)という名著となって世に知られることになり、これに感銘を受けた精神科医の森川すいめいさんが、改めて岡さんの足跡を辿るように海部町へと向かいます。
日本全国の自殺率を市区町村別に見ると、最も自殺率の低い上位10地区のうち、9つは「島」なのだそうです。物理的に海に囲まれた、ある意味では閉じた空間ですよね。
そして、トップ10で唯一の島ではない地域というのが、実は徳島県の海部町なんです。これだけでも、好奇心がくすぐられてたまらない。
森川さんは精神科医として「生きやすさ」ということをずっと考えていたそうです。自殺率の低さがすなわち生きやすさかどうかは分からないけれど、ひとが自殺まで追い込まれない町にはきっと、何かヒントがあるのでは。
こうして始まった学術的にもあまり類例のない自殺希少地域のフィールドワーク。岡さん、森川さんという2人がそこで見たものは、何だったのか。ちょっと興味、沸いてきませんか。
全てをこの場で紹介できないのですが、海部町には興味深い特徴が幾つもあるんです。
例えば、人口の決して多くない小さな町ゆえに、隣近所はほとんど皆が知ったもの同士。噂はすぐに町中に広がります。でも、実は皆が非常に緊密に繋がっているかというとそうではなくて、挨拶程度の間柄が大半なのだそうです。
逆に言えば、誰にでも挨拶はするんです。挨拶程度の緩いつながりが多方面に広がっていて、誰かが何かで困ったときに、どこかには助けてくれる人がいるんです。
海部町の人は、困っている人がいたら、相手がどう思うかを考える前に助けます。大切なのは、自分がどうしたいかなのだと。そして、見返りなど誰も考えていない。「助けっぱなし、助けられっぱなし」なのだそうです。
また、「できることは助ける、できないことは相談する」「困っていることが解決するまでかかわる」という2つの考え方も町中に根付いているといいます。
つまり「それ、私の仕事じゃないんで」という考え方は海部町にはないんですよね。人間関係は「密ではなく疎」なのに、困っているひとは決して放置しないんです。
第2四半期も終わって、週明けから2018年も下半期に突入ですが、ここで一度仕切り直して、組織やチームの形をもう一度考え直してみる時に、海部町には大切なヒントが詰まっているような気が(個人的には)しています。
コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、多様な考え方があるのが自然なことなので、一概に正解がある訳ではないのだと思うのですが、例えば、挨拶程度の緩やかなつながりでも、人は孤独感から救われたり、助けられるのだいうことは知っておいても良いのかなと思います。ベタな繋がりじゃなくても、まずは挨拶からでもいいのかもしれないですね。
ー 森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)
発端は、1990年9月15日付の朝日新聞(地方版)に掲載された興味深い記事だったそうです。
< 老人の自殺、17年間ゼロ ここが違う徳島・海部町 >
この記事に注目したのが、当時慶應大学大学院修士課程で自殺予防因子の研究をしていた岡檀さん。彼女は実際に海部町を訪れてフィールドワークを行い、海部町の何が違うのか、自分自身の目で調査を始めます。その後、彼女の研究成果は『生き心地の良い町』(講談社)という名著となって世に知られることになり、これに感銘を受けた精神科医の森川すいめいさんが、改めて岡さんの足跡を辿るように海部町へと向かいます。
日本全国の自殺率を市区町村別に見ると、最も自殺率の低い上位10地区のうち、9つは「島」なのだそうです。物理的に海に囲まれた、ある意味では閉じた空間ですよね。
そして、トップ10で唯一の島ではない地域というのが、実は徳島県の海部町なんです。これだけでも、好奇心がくすぐられてたまらない。
森川さんは精神科医として「生きやすさ」ということをずっと考えていたそうです。自殺率の低さがすなわち生きやすさかどうかは分からないけれど、ひとが自殺まで追い込まれない町にはきっと、何かヒントがあるのでは。
こうして始まった学術的にもあまり類例のない自殺希少地域のフィールドワーク。岡さん、森川さんという2人がそこで見たものは、何だったのか。ちょっと興味、沸いてきませんか。
全てをこの場で紹介できないのですが、海部町には興味深い特徴が幾つもあるんです。
例えば、人口の決して多くない小さな町ゆえに、隣近所はほとんど皆が知ったもの同士。噂はすぐに町中に広がります。でも、実は皆が非常に緊密に繋がっているかというとそうではなくて、挨拶程度の間柄が大半なのだそうです。
逆に言えば、誰にでも挨拶はするんです。挨拶程度の緩いつながりが多方面に広がっていて、誰かが何かで困ったときに、どこかには助けてくれる人がいるんです。
海部町の人は、困っている人がいたら、相手がどう思うかを考える前に助けます。大切なのは、自分がどうしたいかなのだと。そして、見返りなど誰も考えていない。「助けっぱなし、助けられっぱなし」なのだそうです。
また、「できることは助ける、できないことは相談する」「困っていることが解決するまでかかわる」という2つの考え方も町中に根付いているといいます。
つまり「それ、私の仕事じゃないんで」という考え方は海部町にはないんですよね。人間関係は「密ではなく疎」なのに、困っているひとは決して放置しないんです。
第2四半期も終わって、週明けから2018年も下半期に突入ですが、ここで一度仕切り直して、組織やチームの形をもう一度考え直してみる時に、海部町には大切なヒントが詰まっているような気が(個人的には)しています。
コミュニケーションのスタイルは人それぞれで、多様な考え方があるのが自然なことなので、一概に正解がある訳ではないのだと思うのですが、例えば、挨拶程度の緩やかなつながりでも、人は孤独感から救われたり、助けられるのだいうことは知っておいても良いのかなと思います。ベタな繋がりじゃなくても、まずは挨拶からでもいいのかもしれないですね。
Monday, September 24, 2018
勝手に事業部通信 Vol.3 (5/26/18)
「ルールに従っとるのがフェアだという人がありますが、そんなもんフェアじゃありません。ルールは人間が作ったものであります。だからそれによって善悪を決めるのはジャスティスのジャストであります。」 ー 大西鐵之祐(元ラグビー日本代表監督/早稲田大学最終講義より)
コンプライアンスなんて、本当につまらない概念だ。
そう思ったことがある人は、実際には少なくないのではないでしょうか。正直に白状すると、私もその1人です。ただ、コンプライアンスを軽視している訳ではありません。私が思うのは、「コンプライアンスを遵守していれば、それで事足りている」という発想のつまらなさです。
ここ最近、巷間を騒がせている日大アメフト部の問題。fbなどを眺めていても、様々な批判や論評、コメントで溢れ返っています。
あまりにもスポーツの原点から乖離した悪質なタックルであり、その後の(タックルをした)当事者による謝罪、また監督・コーチの記者会見に至るまで、どこまでも哀しい顛末に誰もが胸を痛めているように思います。将来を嘱望された若きアスリートをあれほどまでに追い込んでしまう組織。たとえ指示があったとしても、最後の一線で踏み止まることができなかった選手。そして、自らの非を公の場で謝罪した選手さえ守ってあげられない指導陣。今でも競技スポーツの世界に携わっている身としては、この悲しい問題そのものを、これ以上語りたくありません。
ただ、私としては思うんです。ちょっとだけ視点を変えてみると、これと同じような構図は世間の至るところに蔓延しているのではないかと。
誰かの指示があったから、その通りに行動する。そういうルールだから、単純に従う。本当に大切にすべき価値観よりも、空気が優先される。どれもrootは同じですよね。「自分の頭で考えずに、誰かに判断を依存する」という意味で。
国内トップクラスのアメフトのゲームで起きてしまった不幸な事故だったから、世間からの批判を集中砲火のように浴びているだけで、自分自身の日常の小さな瞬間に、同じようなrootが全くないと言い切れる人間が、一体どれほどいるのだろうかと思わずにはいられません。人なんて、究極、そんなに強くないですからね。
往年の日本ラグビー黄金期にあって名将と呼ばれた大西鐵之祐さんは、その著書の中でも語っています。ジャストとフェアは違うと。
本当のフェアネスは、ルールに従うこと(合法性/just)ではない。
たとえ合法であったとしても、人間への尊厳に照らして自ら考え、魂が「No」だと言えば踏み止まる。ルールのような誰かの価値観ではなく、自分の責任と判断で、人間性を常に優先する姿勢こそがフェアネスだというんです。
コンプライアンスを遵守することは、合法性という観点で決して軽視されてはいけないと思います。でも一方で、コンプライアンスを遵守していれば良いというのは、思考の放棄ではないかとも思うんです。
そして、思考を止めてしまった先にあるのは、あの不幸な事件にあるものと相似形なのかもしれないと。
思考と判断は決して止めない。そして、決して誰かに委ねない。(よくアメフトと混同される)ラグビー人の1人として、そんなことを思う毎日です。
コンプライアンスなんて、本当につまらない概念だ。
そう思ったことがある人は、実際には少なくないのではないでしょうか。正直に白状すると、私もその1人です。ただ、コンプライアンスを軽視している訳ではありません。私が思うのは、「コンプライアンスを遵守していれば、それで事足りている」という発想のつまらなさです。
ここ最近、巷間を騒がせている日大アメフト部の問題。fbなどを眺めていても、様々な批判や論評、コメントで溢れ返っています。
あまりにもスポーツの原点から乖離した悪質なタックルであり、その後の(タックルをした)当事者による謝罪、また監督・コーチの記者会見に至るまで、どこまでも哀しい顛末に誰もが胸を痛めているように思います。将来を嘱望された若きアスリートをあれほどまでに追い込んでしまう組織。たとえ指示があったとしても、最後の一線で踏み止まることができなかった選手。そして、自らの非を公の場で謝罪した選手さえ守ってあげられない指導陣。今でも競技スポーツの世界に携わっている身としては、この悲しい問題そのものを、これ以上語りたくありません。
ただ、私としては思うんです。ちょっとだけ視点を変えてみると、これと同じような構図は世間の至るところに蔓延しているのではないかと。
誰かの指示があったから、その通りに行動する。そういうルールだから、単純に従う。本当に大切にすべき価値観よりも、空気が優先される。どれもrootは同じですよね。「自分の頭で考えずに、誰かに判断を依存する」という意味で。
国内トップクラスのアメフトのゲームで起きてしまった不幸な事故だったから、世間からの批判を集中砲火のように浴びているだけで、自分自身の日常の小さな瞬間に、同じようなrootが全くないと言い切れる人間が、一体どれほどいるのだろうかと思わずにはいられません。人なんて、究極、そんなに強くないですからね。
往年の日本ラグビー黄金期にあって名将と呼ばれた大西鐵之祐さんは、その著書の中でも語っています。ジャストとフェアは違うと。
本当のフェアネスは、ルールに従うこと(合法性/just)ではない。
たとえ合法であったとしても、人間への尊厳に照らして自ら考え、魂が「No」だと言えば踏み止まる。ルールのような誰かの価値観ではなく、自分の責任と判断で、人間性を常に優先する姿勢こそがフェアネスだというんです。
コンプライアンスを遵守することは、合法性という観点で決して軽視されてはいけないと思います。でも一方で、コンプライアンスを遵守していれば良いというのは、思考の放棄ではないかとも思うんです。
そして、思考を止めてしまった先にあるのは、あの不幸な事件にあるものと相似形なのかもしれないと。
思考と判断は決して止めない。そして、決して誰かに委ねない。(よくアメフトと混同される)ラグビー人の1人として、そんなことを思う毎日です。
Sunday, September 23, 2018
勝手に事業部通信 Vol.2 (5/2/18)
2003年度 Jリーグ2nd Stage 第10節。
ジェフ市原 ○ 2-1 ● ベガルタ仙台 @仙台スタジアム
(得点者/ 仙台: 岩本 輝雄 (55分), 市原: 佐藤 勇人 (60分, 87分))
このシーズンのJ1 2nd Stageは歴史に残る激闘で、最終第15節はWikipediaにも残されているほどなのですが、それに先立っての第10節、ジェフ市原vsベガルタ仙台の試合終了後に、忘れられない名言が生まれていたことを、皆さんはご存知でしょうか。
「2点を取ったのは佐藤でも勇人でもなく、ジェフというチームが挙げたものだ。私はそう考えている。」 ー イビチャ・オシム
--
私たちの事業部でも3月末に組織変更があり、4月から新たな体制がスタートしています。
これから日々を積み重ねていく中で、事業部全体としてもそうですが、組織の中でこういうサブチームが次々に生まれてきたら、きっと仕事は楽しいんじゃないかなと個人的には思ったりします。
想像ですが、きっと佐藤選手はチームで然るべき祝福を受けていたと思うんです。「ナイスゴール!お前の決定力がチームを救ったよ」と。個人としてのスキルとパフォーマンスなくして、チームの成長も、成功もないですから。
でも、その上で2点を挙げたのはジェフだとオシムは言うんです。つまり、個人を讃える文化と本物のチームワークは矛盾しないんですよね。
来週からGWが始まりますが、連休中に頭を巡らせてみたい個人的なテーマになりそうです。こういうチームというのは、どうすれば作っていけるのかなと。
結局のところ、事業部のカルチャーであれ、チームの雰囲気であれ、組織の空気を作っていくのはそこにいる個人でしかないので、まずは一個人としての自分を見つめ直してみようと思います。
まあ、半分くらいは今年から携わっているラグビー部のカルチャーをどうやって醸成していけるかな、という問題意識だったりもするのですが・・・。
GWでゆっくり休めそうな人もいれば、業務の都合上カレンダー通りの方もいると思いますので、勝手なことは言えませんが、日々チームで仕事をしている私たちが、一旦日常を離れて「一個人」としてリフレッシュして、普段とはちょっと違う視点で日常を振り返ってみたりして、また改めてチームとしての日常が始まった時に、すっきりした気持ちで「個人が個人を讃えつつ、チームとしてプロセスと成果を共有できる空気」が箱崎の22Fを満たしていたら、やっぱりいいなあと思います。
それでは皆様、良い連休を。
ジェフ市原 ○ 2-1 ● ベガルタ仙台 @仙台スタジアム
(得点者/ 仙台: 岩本 輝雄 (55分), 市原: 佐藤 勇人 (60分, 87分))
このシーズンのJ1 2nd Stageは歴史に残る激闘で、最終第15節はWikipediaにも残されているほどなのですが、それに先立っての第10節、ジェフ市原vsベガルタ仙台の試合終了後に、忘れられない名言が生まれていたことを、皆さんはご存知でしょうか。
「2点を取ったのは佐藤でも勇人でもなく、ジェフというチームが挙げたものだ。私はそう考えている。」 ー イビチャ・オシム
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私たちの事業部でも3月末に組織変更があり、4月から新たな体制がスタートしています。
これから日々を積み重ねていく中で、事業部全体としてもそうですが、組織の中でこういうサブチームが次々に生まれてきたら、きっと仕事は楽しいんじゃないかなと個人的には思ったりします。
想像ですが、きっと佐藤選手はチームで然るべき祝福を受けていたと思うんです。「ナイスゴール!お前の決定力がチームを救ったよ」と。個人としてのスキルとパフォーマンスなくして、チームの成長も、成功もないですから。
でも、その上で2点を挙げたのはジェフだとオシムは言うんです。つまり、個人を讃える文化と本物のチームワークは矛盾しないんですよね。
来週からGWが始まりますが、連休中に頭を巡らせてみたい個人的なテーマになりそうです。こういうチームというのは、どうすれば作っていけるのかなと。
結局のところ、事業部のカルチャーであれ、チームの雰囲気であれ、組織の空気を作っていくのはそこにいる個人でしかないので、まずは一個人としての自分を見つめ直してみようと思います。
まあ、半分くらいは今年から携わっているラグビー部のカルチャーをどうやって醸成していけるかな、という問題意識だったりもするのですが・・・。
GWでゆっくり休めそうな人もいれば、業務の都合上カレンダー通りの方もいると思いますので、勝手なことは言えませんが、日々チームで仕事をしている私たちが、一旦日常を離れて「一個人」としてリフレッシュして、普段とはちょっと違う視点で日常を振り返ってみたりして、また改めてチームとしての日常が始まった時に、すっきりした気持ちで「個人が個人を讃えつつ、チームとしてプロセスと成果を共有できる空気」が箱崎の22Fを満たしていたら、やっぱりいいなあと思います。
それでは皆様、良い連休を。
Saturday, September 22, 2018
勝手に事業部通信 Vol.1 (4/10/18)
ふりむくな、ふりむくな、後ろには夢がない。 ー 寺山修司『さらばハイセイコー』より
4月4日、水曜日。
遠くIBM Germanyから来てくれたSalvatore Romeoというイタリア生まれのSMEと一緒に、丸の内のお客様をコールしてきました。
時刻は午前11時。有意義なコールを終えたばかりの、JPタワーの車寄せ。この後、箱崎で予定しているお客様とのワークショップは13時スタート。
まずはランチでも、なんて考えていると、ふと聞かれたんです。「日本に行くなら桜を見てきなよって友達に言われてさ。どこか良い場所あるかな」って。"Sakura"は9,000kmも彼方のドイツでもやはり有名なんですね。
さてと、桜のシーズン。今年は寂しい別れも多くありました。
でも、一方で新たな出会いもあって、もう後ろを振り向くことも、その必要性も、私の中ではなくなっています。
私たちの事業部にも、2人の新入社員が来てくれました。もう覚えてもらえましたか。4/1から、私たちの仲間です。22Fで見かけたら、気軽に声をかけてあげてください。
2人のアドバイザーと共に、私も一緒になって5人で成長していきたいと思っています。一緒に輪に加わってくれる方がいるなら、いつでも大歓迎です。
後ろには夢がないけれど、この5人には前しかありませんので。
そういえば、最近こんなことがありました。
私は今年から大学ラグビーのヘッドコーチをしているのですが、キャプテンを中心とした首脳陣が課していたウェイト・トレーニングの目標値を3月末までに達成できなかった選手が、5人いたんです。
主将は2月にシーズンインした際、「目標に届かなければ、一定期間の練習参加を禁止する」とチームに宣言していました。でも、本当にノルマ未達成の選手が5人も出るとはおそらく考えていなかった。
貴重な戦力を5人失う。本当は一緒にグラウンドに立ってほしい。でも、俺たちは簡単な気持ちでこの宣言をした訳じゃない。深い葛藤が、首脳陣メンバーを苦しめて。
その後、チームはどうなったと思いますか。
あるいは、皆さんならこの状況でどうすべきだと思いますか。
決めたことを安易に撤回すれば、リーダーの言葉は重みを失う。そうかもしれません。
一方で、結果はともかく一生懸命やってきたヤツらだったのだとしたら、過去の宣言にこだわらなくてもいいんじゃないか。当然、そんなアプローチもあるかもしれません。
でも、私としては思うんです。どちらにしても過去のことだと。
5人に改めて伝えるメッセージは、「達成できなかった過去」ではなくて「達成できれば叶うかもしれない明日」なんじゃないかなと。ペナルティを課すにしても、あるいは撤回するにしても。
新入社員の2人とは、「前にあるもの」を共有したいと思います。
事業部の皆さんからも、2人が明日きっと経験することを話してもらえれば嬉しいです。後ろには、夢がありません。
4月4日、水曜日。
遠くIBM Germanyから来てくれたSalvatore Romeoというイタリア生まれのSMEと一緒に、丸の内のお客様をコールしてきました。
時刻は午前11時。有意義なコールを終えたばかりの、JPタワーの車寄せ。この後、箱崎で予定しているお客様とのワークショップは13時スタート。
まずはランチでも、なんて考えていると、ふと聞かれたんです。「日本に行くなら桜を見てきなよって友達に言われてさ。どこか良い場所あるかな」って。"Sakura"は9,000kmも彼方のドイツでもやはり有名なんですね。
さてと、桜のシーズン。今年は寂しい別れも多くありました。
でも、一方で新たな出会いもあって、もう後ろを振り向くことも、その必要性も、私の中ではなくなっています。
私たちの事業部にも、2人の新入社員が来てくれました。もう覚えてもらえましたか。4/1から、私たちの仲間です。22Fで見かけたら、気軽に声をかけてあげてください。
2人のアドバイザーと共に、私も一緒になって5人で成長していきたいと思っています。一緒に輪に加わってくれる方がいるなら、いつでも大歓迎です。
後ろには夢がないけれど、この5人には前しかありませんので。
そういえば、最近こんなことがありました。
私は今年から大学ラグビーのヘッドコーチをしているのですが、キャプテンを中心とした首脳陣が課していたウェイト・トレーニングの目標値を3月末までに達成できなかった選手が、5人いたんです。
主将は2月にシーズンインした際、「目標に届かなければ、一定期間の練習参加を禁止する」とチームに宣言していました。でも、本当にノルマ未達成の選手が5人も出るとはおそらく考えていなかった。
貴重な戦力を5人失う。本当は一緒にグラウンドに立ってほしい。でも、俺たちは簡単な気持ちでこの宣言をした訳じゃない。深い葛藤が、首脳陣メンバーを苦しめて。
その後、チームはどうなったと思いますか。
あるいは、皆さんならこの状況でどうすべきだと思いますか。
決めたことを安易に撤回すれば、リーダーの言葉は重みを失う。そうかもしれません。
一方で、結果はともかく一生懸命やってきたヤツらだったのだとしたら、過去の宣言にこだわらなくてもいいんじゃないか。当然、そんなアプローチもあるかもしれません。
でも、私としては思うんです。どちらにしても過去のことだと。
5人に改めて伝えるメッセージは、「達成できなかった過去」ではなくて「達成できれば叶うかもしれない明日」なんじゃないかなと。ペナルティを課すにしても、あるいは撤回するにしても。
新入社員の2人とは、「前にあるもの」を共有したいと思います。
事業部の皆さんからも、2人が明日きっと経験することを話してもらえれば嬉しいです。後ろには、夢がありません。
Thursday, October 22, 2015
私的オールブラックス戦プレビュー
昨日久しぶりにblogをアップしたことで、自分だけの淡い記憶としてそっと残しておくつもりだった「私的スコットランド戦プレビュー」にもアクセスが流れていたようだ。結果的には予想と全く異なる展開になってしまい、非常に恥ずかしい限りだが、もう一度やってみることにしよう。南アの視点を想像しながら、「私的オールブラックス戦プレビュー」を。
スタート地点は、スプリングボクスの「今」だ。ゲームプランの出発点は、常に「自分たち」だと思っている。相手から入ってしまった時点で、既に相手の土俵なのだから。
南アのチーム状態は確実に上がってきている。最大の要因はもちろんジャパン戦に違いないのだけれど、ジャパン戦とそれ以降で南アが変えたのは何だろうか。
もちろん、デュプレアだ。SHのスターターにデュプレアが入ることで、ゲーム全体の構成力が格段に高まった。構成力というのは、ゲームプランの遂行能力というよりも、大局的な洞察力と局面での判断力の総和といったイメージで俺としては捉えている。ゲームプランは大切だが、どこまで行ってもプランでしかない。グラウンドにおけるベスト・チョイスは、必ずしもプランと一致しなかったりもする。そういう意味では、やや抽象的な表現になってしまうが、デュプレアがリードすることで、タフ・ファイトの南アに「老獪」という新たな武器が加わった。ウェールズ戦を見ても、チームのデュプレアに対する信頼感が伝わってくる。タイトなディフェンスも戻ってきている。またいつもの妄想で申し訳ないが、俺がコーチだったらミーティングでのメッセージは決まっている。
「ジャパン戦とそれ以降では、もう別のチームだ。あの日以降、君たちは4試合でわずか2トライしか奪われていない。平均失点はわずか10点。誇るべきタイトファイトだ。それでもメディアの誰ひとりとして、日本に敗れたチームが王者に勝つとは思っていないだろう。でも、NZはまだ厳しい試合を1つもしていない。俺たちは負けて失うものはないのに、勝てる流れも、勝つ準備も出来ている。歴史に名を刻めるお前たちがうらやましいよ。」
いやまあ、HCのメイヤーはもっと直球で檄を飛ばすのかもしれないけれど。
こういう流れの時は、自分に立ち返るのが鉄則だ。自分たちがすべきことに、ただ集中する。
南アにとってそれは、相手に恐怖心とフィジカルな痛みを徹底的に植えつけるディフェンスと、デュプレアに対するあくなき信頼ということになるだろう。ゲームメイクなんて、デュプレアに任せてしまえばいい。SOのポラードとのコンビで、この2人がすべてリードしてくれる。あとの13人はただ野獣であればいい。こう書いてしまうと、これほどまでに複雑化したラグビーにおける戦略の重要性を無視した議論だと怒られてしまいそうだが、戦略面での緻密な分析と準備など、当然してくるに決まっている。このレベルの選手たちは、忘れたくても忘れられないほどに、戦略の意味も、個々のプレーに対するアジャストの仕方も、身体が覚えているから大丈夫だ。
とはいえ、本音を言うと、オールブラックスを分析できるほどの蓄積が残念ながら俺の中にないだけだったりもする。そもそも、オールブラックスのゲームも2試合(ジョージア戦、そしてフランス戦)しか観ていないので、イメージも具体的なソースも限られてくる。それでもなんとか考えてみると、NZはどことなく、ブレイクダウンにあまり人を割かないイメージがある。非常に良い意味で、スマートなラグビーだと思う。一方の南アは、アタックもディフェンスも、ブレイクダウンでは思い切り勝負してしまうのがいいんじゃないか。アタックはPick&Goのようなプレーも積極的に織り交ぜながら、「密集近辺」というよりも「密集そのものでの戦い」を執拗に繰り返していくのが効果的ではないかと思う。マイボールでもカウンターラックのように押し込んで、ラックの真上というかど真ん中をピックしていくような。まあ、あくまでイメージだけど。最近では「リサイクルベース」というのがアタックの主流になってきているが、もうそういう言葉はどうでもいい。俺たちは「パンチベース」だと。そういう開き直ったアタックを見せてほしい。ディフェンスも同様で、絡めると思ったら絡みにいこうぜと。アライメントもパンチもどちらも重要だが、悩んだらパンチを優先しようぜと。こういう匙加減でゲームを組んでいくのが、南アにとってはよいのかなという気がする。
書いているうちに、もはやプレビューでも何でもない個人的かつ希望的観測になってきてしまった。
まあでも、それでいいかな。こうして想像を膨らませながら観るラグビーもまた格別だ。
オールブラックスは本当に素晴らしく、圧倒的な強さを持っていると思う。
でも、2011年W杯の決勝だって、誰がもフランスでは歯が立たないと予想していたんだ。
最後にメイヤーに代わって、届くことのないメッセージを勝手に書き残しておこう。
「W杯の歴史にアップセットは存在する。でも、一度も苦しまずに優勝したチームは存在しない。」
スタート地点は、スプリングボクスの「今」だ。ゲームプランの出発点は、常に「自分たち」だと思っている。相手から入ってしまった時点で、既に相手の土俵なのだから。
南アのチーム状態は確実に上がってきている。最大の要因はもちろんジャパン戦に違いないのだけれど、ジャパン戦とそれ以降で南アが変えたのは何だろうか。
もちろん、デュプレアだ。SHのスターターにデュプレアが入ることで、ゲーム全体の構成力が格段に高まった。構成力というのは、ゲームプランの遂行能力というよりも、大局的な洞察力と局面での判断力の総和といったイメージで俺としては捉えている。ゲームプランは大切だが、どこまで行ってもプランでしかない。グラウンドにおけるベスト・チョイスは、必ずしもプランと一致しなかったりもする。そういう意味では、やや抽象的な表現になってしまうが、デュプレアがリードすることで、タフ・ファイトの南アに「老獪」という新たな武器が加わった。ウェールズ戦を見ても、チームのデュプレアに対する信頼感が伝わってくる。タイトなディフェンスも戻ってきている。またいつもの妄想で申し訳ないが、俺がコーチだったらミーティングでのメッセージは決まっている。
「ジャパン戦とそれ以降では、もう別のチームだ。あの日以降、君たちは4試合でわずか2トライしか奪われていない。平均失点はわずか10点。誇るべきタイトファイトだ。それでもメディアの誰ひとりとして、日本に敗れたチームが王者に勝つとは思っていないだろう。でも、NZはまだ厳しい試合を1つもしていない。俺たちは負けて失うものはないのに、勝てる流れも、勝つ準備も出来ている。歴史に名を刻めるお前たちがうらやましいよ。」
いやまあ、HCのメイヤーはもっと直球で檄を飛ばすのかもしれないけれど。
こういう流れの時は、自分に立ち返るのが鉄則だ。自分たちがすべきことに、ただ集中する。
南アにとってそれは、相手に恐怖心とフィジカルな痛みを徹底的に植えつけるディフェンスと、デュプレアに対するあくなき信頼ということになるだろう。ゲームメイクなんて、デュプレアに任せてしまえばいい。SOのポラードとのコンビで、この2人がすべてリードしてくれる。あとの13人はただ野獣であればいい。こう書いてしまうと、これほどまでに複雑化したラグビーにおける戦略の重要性を無視した議論だと怒られてしまいそうだが、戦略面での緻密な分析と準備など、当然してくるに決まっている。このレベルの選手たちは、忘れたくても忘れられないほどに、戦略の意味も、個々のプレーに対するアジャストの仕方も、身体が覚えているから大丈夫だ。
とはいえ、本音を言うと、オールブラックスを分析できるほどの蓄積が残念ながら俺の中にないだけだったりもする。そもそも、オールブラックスのゲームも2試合(ジョージア戦、そしてフランス戦)しか観ていないので、イメージも具体的なソースも限られてくる。それでもなんとか考えてみると、NZはどことなく、ブレイクダウンにあまり人を割かないイメージがある。非常に良い意味で、スマートなラグビーだと思う。一方の南アは、アタックもディフェンスも、ブレイクダウンでは思い切り勝負してしまうのがいいんじゃないか。アタックはPick&Goのようなプレーも積極的に織り交ぜながら、「密集近辺」というよりも「密集そのものでの戦い」を執拗に繰り返していくのが効果的ではないかと思う。マイボールでもカウンターラックのように押し込んで、ラックの真上というかど真ん中をピックしていくような。まあ、あくまでイメージだけど。最近では「リサイクルベース」というのがアタックの主流になってきているが、もうそういう言葉はどうでもいい。俺たちは「パンチベース」だと。そういう開き直ったアタックを見せてほしい。ディフェンスも同様で、絡めると思ったら絡みにいこうぜと。アライメントもパンチもどちらも重要だが、悩んだらパンチを優先しようぜと。こういう匙加減でゲームを組んでいくのが、南アにとってはよいのかなという気がする。
書いているうちに、もはやプレビューでも何でもない個人的かつ希望的観測になってきてしまった。
まあでも、それでいいかな。こうして想像を膨らませながら観るラグビーもまた格別だ。
オールブラックスは本当に素晴らしく、圧倒的な強さを持っていると思う。
でも、2011年W杯の決勝だって、誰がもフランスでは歯が立たないと予想していたんだ。
最後にメイヤーに代わって、届くことのないメッセージを勝手に書き残しておこう。
「W杯の歴史にアップセットは存在する。でも、一度も苦しまずに優勝したチームは存在しない。」
Wednesday, October 21, 2015
rugby respects people, people respects rugby.
ちょっと煮え切らないものがあるので、書いてみたい。
オーストラリアvsスコットランド戦における「誤審」のことを。
まずはシンプルに、事実だけを整理してみよう。
34-32でスコットランドがリードしたまま迎えた後半38分。最後までゲームの行方が分からないぎりぎりの状況の中、スコットランドが不遇にもノックオンオフサイドを取られてしまう。結果的にこれがオーストラリアの逆転PGとなって勝負は決したのだけれど、映像による事後検証の結果、オーストラリアの選手が事前にボールに触れていたことが明らかになった。つまり、ファクトベースではミスジャッジだった。スコットランドの選手たちは、笛の直後にグラウンド上でTMOを要求したが、トライに至るような場面ではなかったために、レフリーのジュベールは要求を受け入れなかった。スコットランドにとっては悲劇的だったノーサイドの直後、ジュベールは足早にグラウンドを去り、その姿勢も多くの批判を浴びた。そして最終的に、World Rugbyはジュベールの判断がミスジャッジだったと公式に認める声明を発表した。これが一連の顛末だ。
その上で、俺のポジションも明確にしておきたい。
確かにミスジャッジだった。これは映像が残っている以上、否定しがたい事実だ。でも、あくまでミスジャッジであり、アンフェアなジャッジではなかったと思う。それでも「プアなジャッジだった」という批判はあるかもしれないが、仮にそうだとしても、この日のグラウンドはジュベールに委ねられていた。この事実は変わらない。また、スコットランドのTMO要求を受け入れなかったのも、ルールに即った対応として正当に認められるべきスタンスだと思う。ジュベールにグラウンドで両軍の奮闘を讃えてもらいたかった、というのは俺も多くの人と同じ感覚だ。ただ、World Rugbyの公式声明については、正直に言って、なくてもよかったのかなと思っている。理由はシンプルで、ジュベールはもう既に十分な辱め(制裁)を受けていたと思うからだ。
ラグビージャーナリストの村上晃一さんは、Blogの中で書いている。
http://www.jsports.co.jp/rugby/loverugby/post-2314/
「おそらく、この問題を長引かせないために早めに発表したと思われる。それはレフリーを守る意味も含まれているだろう。(中略)今回の発表は良かったと感じている。間違いは認め、今後のレフリング技術のレベルアップに生かすべきだと思うからだ。」
断言するが、レフリング技術の向上と今回の声明は関係ない。あの声明がなくても、ジュベールは心に消せない傷を負ったんだ。誰も裁定をせず、永遠の闇として白黒がつけられないままにあの瞬間が葬られたとしても、ジュベール自身の心には、「彼にとっての真実」がいつまでも残るはずだ。実際にボールに触れてしまったオーストラリアのSHフィップスが、一切を語らなかったとしても指に残る感触を消すことができないのと同じように。
ジュベールは今後、ノックオンのたびに胸のどこかに疼きを覚えることになるのかもしれない。ナショナルマッチ、それも4年に一度のW杯で、ラスト2分をわずか2点差で迎えたQuarter Finalの笛を吹く人間の矜持というのは、きっとそういうものだと思う。それで十分じゃないか。もうカタはついた。これ以上、ジュベールに何を期待しようというのか。レフリング全体の向上を語るのであれば、ジュベールという一個人をスケープゴートにする必要はないはずだ。
「レフリーも人間であり、人間はミスをするものだ。」
よく耳にする台詞だ。でも、レフリーの人間性に人間的な眼差しを向けて、「ラグビーに人間の笛を」というのであれば、当事者であるジュベール自身の心に、もっと思いを巡らせてもいいはずだ。
今回のミスジャッジは非常にセンシティブな状況下だったこともあり、多くのコメントや論評が目に入ってくるが、ジュベールの内面にフォーカスした議論は全く見られない。
人間性へのあくなき尊厳をベースに考えるならば、最も大切なのは「徹底的に潰さない」ことだと思うんだ。結論をつけて、オフィシャルにミスだったという烙印まで与えることに、どうしても意味を見出せない。プレーヤーも、ファンも、協会関係者なども含めた全ての人間が、自分の心に問いかけて、自分の中でカタをつければいいじゃないか。
俺は人間的にラグビーを楽しみたいので、例えばあの瞬間、ファンが「バカヤロウ、ジュベール!」と野次を投げ飛ばしても、「それがラグビー」というスタンスだ。むしろ、そんな光景を味わい深いとさえ思う。右手に掴んだビール缶を握りつぶして、誰にともなく怒りをぶちまける。そんなファンだって、ラグビーのことは大好きだ。スコットランドを心から愛する人たちだからこそ、沸々と燃え上がる怒りを止められない。それで、いいと思うんだ。
でも、パブに流れついて仲間としこたま飲んで、思いつく限りの文句を吐いた後、ふと考える。
もっと辛いのは、スコットランド代表として戦ったメンバー自身なんだよな、と。
誇るべきスコットランドの英雄たちは、ラグビーに携わる人間を心から愛していて、ラグビーの文化を大切にする集団だからこそ、この辛い現実を黙って受け入れていくことになるんだよな、と。
その時には、もう仕方ないじゃないか。そうして、ファンも自分自身の中で、カタをつけていく。いつまでも引き摺って正解に頓着するのは、野暮だと思うんだ。
その上で、もう1つの人間性についても触れてみたい。
今回のケースで、TMOを求める心理はよく分かる。なぜなら、テクニカルに可能だからだ。「映像があって、実際にTMOという制度が存在するのに、なぜ適用しないのか」、そう考えるのは人間の性そのもので、十分に予想された反応だと思っている。それでも、ジュベールがこのシーンでTMOを採用しなかったのは、ルールに則っている以上、議論の対象外だろう。本当の問題は、こうしたケースを鑑みて、ラグビーは今後TMOをどのように位置づけるのか、ということだ。
俺の率直な感覚でいえば、TMOなきラグビーへの回帰は、もう世界が受け入れないと思う。つまりは、ミニマムで現状維持であって、その適用領域を拡大するか否かという議論になってくるような気がする。TMOの頻発によってゲーム全体のテンポが奪われているとの指摘もあるが、TMOが「公平性の担保」のみでなく、いまやエンターテイメントの側面を持っているのも紛れもない事実だろう。それに、事実を知りたいという「人間の性」を封じ込められるとも思えない。本質的にパンドラの箱のようなものなんだ。今回のノックオンオフサイドの特徴は、映像があれば「解釈を介さずに、ほぼ一意に判定される」という点にあるが、こういう類のプレーは、基本的にTMOとの相性がいいはずだ。この手のプレーを対象とするか否かが焦点の1つで、自分自身のスタンスはまだ明確に決めかねているが、いずれにせよ難しい議論だと思う。
でも、それでも、2019年に日本で笛を吹いてくれるのは、やっぱり人間だ。
ラグビーに、そしてグラウンドに立っている全ての人たちに、心からリスペクトを。
オーストラリアvsスコットランド戦における「誤審」のことを。
まずはシンプルに、事実だけを整理してみよう。
34-32でスコットランドがリードしたまま迎えた後半38分。最後までゲームの行方が分からないぎりぎりの状況の中、スコットランドが不遇にもノックオンオフサイドを取られてしまう。結果的にこれがオーストラリアの逆転PGとなって勝負は決したのだけれど、映像による事後検証の結果、オーストラリアの選手が事前にボールに触れていたことが明らかになった。つまり、ファクトベースではミスジャッジだった。スコットランドの選手たちは、笛の直後にグラウンド上でTMOを要求したが、トライに至るような場面ではなかったために、レフリーのジュベールは要求を受け入れなかった。スコットランドにとっては悲劇的だったノーサイドの直後、ジュベールは足早にグラウンドを去り、その姿勢も多くの批判を浴びた。そして最終的に、World Rugbyはジュベールの判断がミスジャッジだったと公式に認める声明を発表した。これが一連の顛末だ。
その上で、俺のポジションも明確にしておきたい。
確かにミスジャッジだった。これは映像が残っている以上、否定しがたい事実だ。でも、あくまでミスジャッジであり、アンフェアなジャッジではなかったと思う。それでも「プアなジャッジだった」という批判はあるかもしれないが、仮にそうだとしても、この日のグラウンドはジュベールに委ねられていた。この事実は変わらない。また、スコットランドのTMO要求を受け入れなかったのも、ルールに即った対応として正当に認められるべきスタンスだと思う。ジュベールにグラウンドで両軍の奮闘を讃えてもらいたかった、というのは俺も多くの人と同じ感覚だ。ただ、World Rugbyの公式声明については、正直に言って、なくてもよかったのかなと思っている。理由はシンプルで、ジュベールはもう既に十分な辱め(制裁)を受けていたと思うからだ。
ラグビージャーナリストの村上晃一さんは、Blogの中で書いている。
http://www.jsports.co.jp/rugby/loverugby/post-2314/
「おそらく、この問題を長引かせないために早めに発表したと思われる。それはレフリーを守る意味も含まれているだろう。(中略)今回の発表は良かったと感じている。間違いは認め、今後のレフリング技術のレベルアップに生かすべきだと思うからだ。」
断言するが、レフリング技術の向上と今回の声明は関係ない。あの声明がなくても、ジュベールは心に消せない傷を負ったんだ。誰も裁定をせず、永遠の闇として白黒がつけられないままにあの瞬間が葬られたとしても、ジュベール自身の心には、「彼にとっての真実」がいつまでも残るはずだ。実際にボールに触れてしまったオーストラリアのSHフィップスが、一切を語らなかったとしても指に残る感触を消すことができないのと同じように。
ジュベールは今後、ノックオンのたびに胸のどこかに疼きを覚えることになるのかもしれない。ナショナルマッチ、それも4年に一度のW杯で、ラスト2分をわずか2点差で迎えたQuarter Finalの笛を吹く人間の矜持というのは、きっとそういうものだと思う。それで十分じゃないか。もうカタはついた。これ以上、ジュベールに何を期待しようというのか。レフリング全体の向上を語るのであれば、ジュベールという一個人をスケープゴートにする必要はないはずだ。
「レフリーも人間であり、人間はミスをするものだ。」
よく耳にする台詞だ。でも、レフリーの人間性に人間的な眼差しを向けて、「ラグビーに人間の笛を」というのであれば、当事者であるジュベール自身の心に、もっと思いを巡らせてもいいはずだ。
今回のミスジャッジは非常にセンシティブな状況下だったこともあり、多くのコメントや論評が目に入ってくるが、ジュベールの内面にフォーカスした議論は全く見られない。
人間性へのあくなき尊厳をベースに考えるならば、最も大切なのは「徹底的に潰さない」ことだと思うんだ。結論をつけて、オフィシャルにミスだったという烙印まで与えることに、どうしても意味を見出せない。プレーヤーも、ファンも、協会関係者なども含めた全ての人間が、自分の心に問いかけて、自分の中でカタをつければいいじゃないか。
俺は人間的にラグビーを楽しみたいので、例えばあの瞬間、ファンが「バカヤロウ、ジュベール!」と野次を投げ飛ばしても、「それがラグビー」というスタンスだ。むしろ、そんな光景を味わい深いとさえ思う。右手に掴んだビール缶を握りつぶして、誰にともなく怒りをぶちまける。そんなファンだって、ラグビーのことは大好きだ。スコットランドを心から愛する人たちだからこそ、沸々と燃え上がる怒りを止められない。それで、いいと思うんだ。
でも、パブに流れついて仲間としこたま飲んで、思いつく限りの文句を吐いた後、ふと考える。
もっと辛いのは、スコットランド代表として戦ったメンバー自身なんだよな、と。
誇るべきスコットランドの英雄たちは、ラグビーに携わる人間を心から愛していて、ラグビーの文化を大切にする集団だからこそ、この辛い現実を黙って受け入れていくことになるんだよな、と。
その時には、もう仕方ないじゃないか。そうして、ファンも自分自身の中で、カタをつけていく。いつまでも引き摺って正解に頓着するのは、野暮だと思うんだ。
その上で、もう1つの人間性についても触れてみたい。
今回のケースで、TMOを求める心理はよく分かる。なぜなら、テクニカルに可能だからだ。「映像があって、実際にTMOという制度が存在するのに、なぜ適用しないのか」、そう考えるのは人間の性そのもので、十分に予想された反応だと思っている。それでも、ジュベールがこのシーンでTMOを採用しなかったのは、ルールに則っている以上、議論の対象外だろう。本当の問題は、こうしたケースを鑑みて、ラグビーは今後TMOをどのように位置づけるのか、ということだ。
俺の率直な感覚でいえば、TMOなきラグビーへの回帰は、もう世界が受け入れないと思う。つまりは、ミニマムで現状維持であって、その適用領域を拡大するか否かという議論になってくるような気がする。TMOの頻発によってゲーム全体のテンポが奪われているとの指摘もあるが、TMOが「公平性の担保」のみでなく、いまやエンターテイメントの側面を持っているのも紛れもない事実だろう。それに、事実を知りたいという「人間の性」を封じ込められるとも思えない。本質的にパンドラの箱のようなものなんだ。今回のノックオンオフサイドの特徴は、映像があれば「解釈を介さずに、ほぼ一意に判定される」という点にあるが、こういう類のプレーは、基本的にTMOとの相性がいいはずだ。この手のプレーを対象とするか否かが焦点の1つで、自分自身のスタンスはまだ明確に決めかねているが、いずれにせよ難しい議論だと思う。
でも、それでも、2019年に日本で笛を吹いてくれるのは、やっぱり人間だ。
ラグビーに、そしてグラウンドに立っている全ての人たちに、心からリスペクトを。
Wednesday, September 23, 2015
私的スコットランド戦プレビュー
スコットランド戦は、日本時間で本日(9/23)の夜。
さてと、ちょっと予想してみようかな。
いや、正確には希望的観測に基づく推論なのだけれど。
まず、スコットランド。
おそらくは極めてオーソドックスなラグビーをしてくるんじゃないか。複雑に仕込まれたプレーというよりも、シンプルに強さを出すことを考えてくるような気がする。ジャパンを意識するとなると、アジリティとエリアの2つを奪い取るのが基本的な戦略になってくるだろう。アジリティという観点では、パワープレイ。いわゆる重馬場の勝負。モール等もそうだが、ブレイクダウン全般に拘ってくるのではないか。そして、ボールを下げないアタック。ジャパンはディフェンスの出足が早いので、特に前半はボールを下げずに、個として強いプレーヤーをシンプルに当ててくると思う。ジャパンが中3日という点もふまえ、徹底的に削りにかかるというのが、私の個人的な見立てだ。ただ、これはおそらくジャパンからすると守りやすい。よって、結果的には我慢比べになっていくかもしれない。
もう1点のエリアマネジメントについては、「五郎丸に蹴らせない」というのがまずはポイントになってくるだろう。つまり、五郎丸にハイボールを上げるか、もしくは少なくとも彼の正面には蹴らない。キック自体は、特に自陣では多用してくるような気がするが、どのような種類のキックを、どこに落としてくるかは見所の1つだろう。南アの敗因の1つは、五郎丸のキックによって自陣での時間帯が想定よりも長くなり、かつそこでペナルティが続いたことだとおそらく考えていて、ブレイクダウンでの徹底勝負を厭わないといっても、自陣ではNo Penaltyが最優先になってくるはずだ。
対するジャパン。
おそらくロースコアゲームになるという覚悟をしていると思う。なぜなら、スコットランドのようなチームが、対戦相手に対する最大限のリスペクトと周到な準備をもってゲームに臨んでくるということの意味を、誰もが知っているからだ。ただ、それでもジャパンは特に気負うことなく、ベストパフォーマンスで戦ってくれると思う。もうこのゲームは、最初から格など関係ない。
ディフェンスは、南ア戦でかなり計算できている。ここはプランを細かくアジャストしていくというよりも、選手交替を含めて、80分間をいかに我慢するかがポイントだと思う。その意味では、やはりエリアマネジメントが肝だ。キックの効果的な活用は、ジャパンにとっても生命線になる。
アタックは、予想するのが難しい。天候にも依存するだろう。ただ、クイックテンポの重要性は当然ながら変わらない。サインプレーは、まだ隠し球を持っているような気がするけれど。ちなみに、個人的に注目しているキーマンはセンターの田村だ。小野の軽傷がなかったとしても、かなり面白い人選ではないかと思っている。なぜなら、(おそらく、非常によい意味で)ふてぶてしいからだ。こういうゲームは、15人全員が真摯に自分たちのスタイルに集中しながらも、どこか不敵なプレーヤーがいた方がいい。時にそれは、リーチでも五郎丸でも、あるいは田中でもないだろう。
前半、まずはジャパンがスコアで先行する。心からそう願っている。
早い時間帯にトライを奪えればベストだが、ペナルティでも何でもいい。そして、10-3くらいのイメージで前半を折り返す。2トライまで行ければ、前半で15点が見えてくるが、まずは10点がターゲット。
こうなったら、ジャパンだ。スコットランドはスターターのうち12人が初のW杯出場。ビハインドでハーフタイムを折り返すと、若さが強引さに変わる。もちろん、そこをコントロールする老獪なリーダーが、チーム内にはいるはずだ。でも、後半10分を越えてきた頃に、リーダーシップでの統率が徐々に切れてくる。戦略的パワープレイが焦燥的パワープレイにその様相を変えた頃が、福岡で勝負するタイミングだ。ここからきっと、ゲームは大きく動き出す。
もう、ここまで来ると予想でさえなくなってきた。
いずれにせよ、きっとジャパンは「特別でない」ゲームをして、誰もがもはや特別と思わないような展開で、勝利の雄叫びを上げてくれるはずだ。
さてと、ちょっと予想してみようかな。
いや、正確には希望的観測に基づく推論なのだけれど。
まず、スコットランド。
おそらくは極めてオーソドックスなラグビーをしてくるんじゃないか。複雑に仕込まれたプレーというよりも、シンプルに強さを出すことを考えてくるような気がする。ジャパンを意識するとなると、アジリティとエリアの2つを奪い取るのが基本的な戦略になってくるだろう。アジリティという観点では、パワープレイ。いわゆる重馬場の勝負。モール等もそうだが、ブレイクダウン全般に拘ってくるのではないか。そして、ボールを下げないアタック。ジャパンはディフェンスの出足が早いので、特に前半はボールを下げずに、個として強いプレーヤーをシンプルに当ててくると思う。ジャパンが中3日という点もふまえ、徹底的に削りにかかるというのが、私の個人的な見立てだ。ただ、これはおそらくジャパンからすると守りやすい。よって、結果的には我慢比べになっていくかもしれない。
もう1点のエリアマネジメントについては、「五郎丸に蹴らせない」というのがまずはポイントになってくるだろう。つまり、五郎丸にハイボールを上げるか、もしくは少なくとも彼の正面には蹴らない。キック自体は、特に自陣では多用してくるような気がするが、どのような種類のキックを、どこに落としてくるかは見所の1つだろう。南アの敗因の1つは、五郎丸のキックによって自陣での時間帯が想定よりも長くなり、かつそこでペナルティが続いたことだとおそらく考えていて、ブレイクダウンでの徹底勝負を厭わないといっても、自陣ではNo Penaltyが最優先になってくるはずだ。
対するジャパン。
おそらくロースコアゲームになるという覚悟をしていると思う。なぜなら、スコットランドのようなチームが、対戦相手に対する最大限のリスペクトと周到な準備をもってゲームに臨んでくるということの意味を、誰もが知っているからだ。ただ、それでもジャパンは特に気負うことなく、ベストパフォーマンスで戦ってくれると思う。もうこのゲームは、最初から格など関係ない。
ディフェンスは、南ア戦でかなり計算できている。ここはプランを細かくアジャストしていくというよりも、選手交替を含めて、80分間をいかに我慢するかがポイントだと思う。その意味では、やはりエリアマネジメントが肝だ。キックの効果的な活用は、ジャパンにとっても生命線になる。
アタックは、予想するのが難しい。天候にも依存するだろう。ただ、クイックテンポの重要性は当然ながら変わらない。サインプレーは、まだ隠し球を持っているような気がするけれど。ちなみに、個人的に注目しているキーマンはセンターの田村だ。小野の軽傷がなかったとしても、かなり面白い人選ではないかと思っている。なぜなら、(おそらく、非常によい意味で)ふてぶてしいからだ。こういうゲームは、15人全員が真摯に自分たちのスタイルに集中しながらも、どこか不敵なプレーヤーがいた方がいい。時にそれは、リーチでも五郎丸でも、あるいは田中でもないだろう。
前半、まずはジャパンがスコアで先行する。心からそう願っている。
早い時間帯にトライを奪えればベストだが、ペナルティでも何でもいい。そして、10-3くらいのイメージで前半を折り返す。2トライまで行ければ、前半で15点が見えてくるが、まずは10点がターゲット。
こうなったら、ジャパンだ。スコットランドはスターターのうち12人が初のW杯出場。ビハインドでハーフタイムを折り返すと、若さが強引さに変わる。もちろん、そこをコントロールする老獪なリーダーが、チーム内にはいるはずだ。でも、後半10分を越えてきた頃に、リーダーシップでの統率が徐々に切れてくる。戦略的パワープレイが焦燥的パワープレイにその様相を変えた頃が、福岡で勝負するタイミングだ。ここからきっと、ゲームは大きく動き出す。
もう、ここまで来ると予想でさえなくなってきた。
いずれにせよ、きっとジャパンは「特別でない」ゲームをして、誰もがもはや特別と思わないような展開で、勝利の雄叫びを上げてくれるはずだ。
Sunday, August 31, 2014
コーディングレス、そしてコーダー。
Fujitsu Software Interdevelop Designerに関する日経記事がきっかけで、という訳でもないのだけれど、コーディングという行為について、コードを書いたことがない素人が思うことを。
基幹業務を対象に、一定の日本語書式で作成された設計書からプログラムを自動生成するソフトウェアで、システム開発費の4割を占めるプログラミング費用が不要になるという日経記事は、様々な意味で反響があったようで、ざっと検索した限り、概ねネガティブな評価が多いようだ。テストデータの生成も可能といった点をポジティブに捉えたコメントも一部あるものの、「設計書作成が実質的にプログラミングと変わらない」、「この怪しいツールの後始末で大量のSEが泣かされる」といった酷評が総じて目立っている印象だ。まあでも、それ自体はどうでもいい。考えたいのは、このツールの実用性ではないからだ。そんなものは、1年もすれば歴史が証明することになるのだから。
俺が思うのは、それでも「コーディングレス」というのは1つの志向性であり続けるのかなということだ。イノベーションは、往々にして非効率や不便、あるいは素人からみた困難や分かりづらさが起点となって生まれる訳で、現在のシステム開発における「コーディング」という行為に、イノベーションの種がないとは思えない。一方で、コードがビジネスをある程度まで規定するようになっている昨今、業務ニーズと戦略さえあれば、コーディングレスでアプリケーションを作成できる世界というのは、ITの理想郷として、ずっと存在するのかなという気がする。その実現が、数年後なのか、十数年後なのか、あるいは数十年後なのかは分からないけれど。
でも、ここでもう1つの観点が頭をもたげてくる。
日経のヘッドラインは、プログラマーという職種の今後にどこか消耗戦の雰囲気を想起させたけれど、どちらかというと、プログラマーの重要性は今後むしろ高まっていくのではないだろうか。いや、こう書くとやや誤解を招くかもしれない。より正確には、ハイスキルなごく一部のプログラマーの存在感が、(この世界における)他の職種を圧倒していくのかなというのが、なんとなく感じていることだ。
コーディングレスといっても、バックエンドでコードを自動生成する訳で、誰かがコードを書いているという事実は変わらない。コードを自動生成するためのコードを、より高い次元で、より生産的かつ効率的な方式で、より美しく、より汎用的に書ける人間がどうしても必要になってくる。宇宙の果てを考えると、果ての先が分からなくなるのと同じように、コーディングレスの世界を考えていくと、バックエンドに不可知の領域が横たわっているのは当然で、あまりにこの志向性が強くなりすぎると、最終的にはバックエンドを司る人間が、かなりのパワーを持つことになるような気がしないでもない。
そういえば先日、ある業界イベントで"Infrastructure as a Code"という考え方について、40分ほどの講演を聴いてきた。オープンソースの構成管理ツールであるShefを活用して、システム基盤をソフトウェア的に管理するというものだ。Shefでは、Recipeと呼ばれる基盤の構成情報をRubyプログラムで記述して、サーバーに自動実行させるのだけれど、プログラムに管理させるということは、プログラムの品質が管理品質に直結するということだ。まあ、俺自身はエンジニアでもないので、そこに求められるプログラムのレベルもよく分からないけれど、Shefに限らず、ソフトウェアで諸々の挙動が制御されていく世界では、機能的に(そしておそらくは、それ自体としても)美しいコードを書ける本物の職人が、極めて重要になっていくはずだ。
Fujitsuの取り組みがどう転ぶかは、静かに見守っていればいい。
でも、コーダーは大切にした方がいい。少なくとも、世界を握るかもしれない特別なコーダーと、その卵のことは。
基幹業務を対象に、一定の日本語書式で作成された設計書からプログラムを自動生成するソフトウェアで、システム開発費の4割を占めるプログラミング費用が不要になるという日経記事は、様々な意味で反響があったようで、ざっと検索した限り、概ねネガティブな評価が多いようだ。テストデータの生成も可能といった点をポジティブに捉えたコメントも一部あるものの、「設計書作成が実質的にプログラミングと変わらない」、「この怪しいツールの後始末で大量のSEが泣かされる」といった酷評が総じて目立っている印象だ。まあでも、それ自体はどうでもいい。考えたいのは、このツールの実用性ではないからだ。そんなものは、1年もすれば歴史が証明することになるのだから。
俺が思うのは、それでも「コーディングレス」というのは1つの志向性であり続けるのかなということだ。イノベーションは、往々にして非効率や不便、あるいは素人からみた困難や分かりづらさが起点となって生まれる訳で、現在のシステム開発における「コーディング」という行為に、イノベーションの種がないとは思えない。一方で、コードがビジネスをある程度まで規定するようになっている昨今、業務ニーズと戦略さえあれば、コーディングレスでアプリケーションを作成できる世界というのは、ITの理想郷として、ずっと存在するのかなという気がする。その実現が、数年後なのか、十数年後なのか、あるいは数十年後なのかは分からないけれど。
でも、ここでもう1つの観点が頭をもたげてくる。
日経のヘッドラインは、プログラマーという職種の今後にどこか消耗戦の雰囲気を想起させたけれど、どちらかというと、プログラマーの重要性は今後むしろ高まっていくのではないだろうか。いや、こう書くとやや誤解を招くかもしれない。より正確には、ハイスキルなごく一部のプログラマーの存在感が、(この世界における)他の職種を圧倒していくのかなというのが、なんとなく感じていることだ。
コーディングレスといっても、バックエンドでコードを自動生成する訳で、誰かがコードを書いているという事実は変わらない。コードを自動生成するためのコードを、より高い次元で、より生産的かつ効率的な方式で、より美しく、より汎用的に書ける人間がどうしても必要になってくる。宇宙の果てを考えると、果ての先が分からなくなるのと同じように、コーディングレスの世界を考えていくと、バックエンドに不可知の領域が横たわっているのは当然で、あまりにこの志向性が強くなりすぎると、最終的にはバックエンドを司る人間が、かなりのパワーを持つことになるような気がしないでもない。
そういえば先日、ある業界イベントで"Infrastructure as a Code"という考え方について、40分ほどの講演を聴いてきた。オープンソースの構成管理ツールであるShefを活用して、システム基盤をソフトウェア的に管理するというものだ。Shefでは、Recipeと呼ばれる基盤の構成情報をRubyプログラムで記述して、サーバーに自動実行させるのだけれど、プログラムに管理させるということは、プログラムの品質が管理品質に直結するということだ。まあ、俺自身はエンジニアでもないので、そこに求められるプログラムのレベルもよく分からないけれど、Shefに限らず、ソフトウェアで諸々の挙動が制御されていく世界では、機能的に(そしておそらくは、それ自体としても)美しいコードを書ける本物の職人が、極めて重要になっていくはずだ。
Fujitsuの取り組みがどう転ぶかは、静かに見守っていればいい。
でも、コーダーは大切にした方がいい。少なくとも、世界を握るかもしれない特別なコーダーと、その卵のことは。
Wednesday, August 20, 2014
『The DevOps』、水天宮前を歩きながら。
朝。地下鉄に揺られて会社に向かい、水天宮前で降りるといつもの光景が待っている。
改札を出て比較的長めの動く歩道を越えると、必ずぶつかるのが渋滞だ。そこから先、4B出口までの階段が狭すぎてボトルネックになっている。そんな訳で駅員さんは毎朝、動く歩道の終端で通勤者を誘導している。「申し訳ありませんが、左側に大きく迂回ください」って。終端付近で渋滞してしまうと、動く歩道から降りられず危ないからだ。
でも、ダメなんだよ。毎朝、心の中でひとり呟いてしまう。
出口では解決しないんだ。動く歩道の入口をコントロールして、流量制限しないと。階段幅は、急には広がらないのだから。
さて、本書だ。
書評を書くのは随分久しぶりだが、個人的になかなか興味深かったので紹介したい。
パーツ・インターナショナル社の社運を賭けた新システム開発、「フェニックス・プロジェクト」をめぐる幾多の困難を、新任VP(Vice President)としてIT運用を担うビルが乗り越えていく物語。有名な『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著)のシステム開発版と思ってもらえば、ほぼ問題ない。ITプロジェクトにまつわる典型的な問題を、小説という形式の中でデフォルメすることで、分かりやすい形で提示した著作だ。それでもIT特有の用語が多く、業界関係者でなければ読みづらい部分はあるかもしれないが、一方で、システム開発に携わった経験がある人間にとっては、楽しく読める内容になっていると思う。ちなみに、書店で見かけて購入を決めた理由の1つは監修者だ。個人的にもお世話になっている榊原彰さんと来れば、買わない訳にはいかない。それにしても、こうした著作の監修までされているのには少々驚いた。
この形式の先駆的著作といえば、やはりなんといっても『ザ・ゴール』なのだが、本書のストーリー自体においても、『ザ・ゴール』でエリヤフ・ゴールドラットが提示した制約条件理論が、その中核となっている。主人公のビルにとっての事実上のメンターとして、彼を成功へと導くエリックは、「4つの仕事」、「3つの道」というフレームワークを道標として、プロジェクトにおけるボトルネックを見極め、適切にコントロールすることで、スループットを最大化させるために示唆を与えていく。詳細は本書を読んでもらいたいが、極めて合理的な考え方だと思う。『ザ・ゴール』の制約条件理論が、必ずしも工場の製造工程だけに該当するものではないのは、まったくもって自然なことだ。システム開発を工場とのアナロジーで考えるのも、目新しいアプローチでは決してなく、極めてオーソドックスなものだと思っている。その意味で本書の価値は、理論的な側面からの斬新性にある訳ではない。どちらかというと、エンターテイメント性と分かりやすさだろう。
ただ、本書を読んでいて、改めて考えてしまった。
ゴールドラットの制約条件理論がシステム開発にも十分に適用できるように、システム開発における改善アプローチは組織運営全般にも適用できるのではないかと。
この物語が提示する課題認識に共通するものは、日常の中にいくらでも感じ取ることができる。ボトルネックに手をつけなければ、それ以外の部分をどれほど改善してもスループットは上がらない。一方で、特定のワークセンター(あるいはキーパーソン)がボトルネックとなる理由の一端は、「自分がいなければ廻らない状況」を彼ら自身が(意図的かどうかは別として)作り出してしまっているからだ。ボトルネックのリソースは、徹底してスループットを最大化するための活動に費やされなければならない。どれも、至るところに転がっている話じゃないか。開発じゃなくても、たとえば営業活動でも同じように。
本書の主題はシステム開発プロジェクトであり、この流れの中でキーワードとなるのがDevOpsだ。Dev(elopment)Op(eration)s、つまり「開発と運用の一体化」だ。もちろん、曲がりなりにもこの業界で仕事をしている1人として、DevOpsというコンセプトには非常に興味を持っている。「IT業界ではお馴染みのバズワードじゃないのか」といった向きもあるのもしれないが、とやかく御託を並べるのは一旦先送りにして、素直に乗っかってみたいと個人的には感じている。理由はシンプル。それが本質的にはプロダクトでもテクノロジーでもなく、「人間のふるまい」にフォーカスしたコンセプトなのかなと思うからだ。結局のところ、人間が一番面白い。いつだって、中心にあるのは人間そのものだ。
ただ、本当に考えたいのはDevOpsというよりも、"Something like DevOps"なのかもしれない。
組織で生きている以上、組織を考えない訳にはいかないからね。水天宮前の階段のように、解消できないボトルネックばかりではないはずだ。
Saturday, April 19, 2014
到達する場所は、きっと違う。
書店をふらついていたら、偶然目に留まった1冊。
宮島達男×大竹伸朗とあったら、やっぱり買ってしまう。ほとんど知らない現代アートの世界にあって、以前からどことなく好きなんです。この2人の作品が。
書籍としてのクオリティは、それほどでもないかもしれない。対談集というのは、基本的にやや散らかってしまうもので、致し方ない部分もあるかなと。
ただ、大竹伸朗の素晴らしい言葉に出会えただけで、俺としては満足している。わずか1つのフレーズにこそ価値があるような書籍があっても、いいじゃないか。
俺、そんな場所を目指してます。
人から何か言われてやめてしまうとしたら、そこまでだということです。(中略)ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。(中略)だけど、大事なことは、その『持って生まれたもの』がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。『持って生まれたもの』がなかったとしても、もしそれを50年間弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。
Sunday, March 16, 2014
お勧めの本を。
久しぶりに、本のことでも。
2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。
そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。
まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。

作者: リンダ ポルマン, Linda Polman, 大平 剛
出版社: 東洋経済新報社 (2012/12)
発売日: 2012/12
人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。

作者: コナー・ウッドマン, 松本 裕
出版社: 英治出版
発売日: 2013/8/20
本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。

作者: デイナ プリースト, ウィリアム アーキン, Dana Priest, William M. Arkin, 玉置 悟
出版社: 草思社
発売日: 2013/10/23
9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。
2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。
そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。
まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。
人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。
本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。
9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。
Monday, January 13, 2014
大学ラグビー決勝。
ラグビー大学選手権決勝。
帝京大 41―34 早稲田大(13:00K.O. @国立競技場)
タマリバ時代の仲間3人と久しぶりに再会して、皆でTVでの観戦となった。
個人的な印象だけでいえば、帝京大の完勝だと思う。最終スコアは7点差といっても、実際には危なげない勝利だった。早稲田大の関係者には申し訳ないけれど、底力の差はもっとあるのではないだろうか。ただ、これが選手権決勝だ。きっとそれは、"One of them"では語れないゲームなのだと思う。「それでも帝京大は終始落ち着いていた」とか、「慌てる様子もなかった」といった論評が既に多々見られているけれど、このゲームが特別だというのは、帝京大にとっても変わらない。彼らもきっと死に物狂いだったと思う。でも、それでいいじゃないか。冷静と狂気は、必ずしも相反しないのだから。
ただ思うのは、そういうアンビバレントな状態を上手にマネージする術として、帝京大は1つひとつのプレーと戦術から入っていくアプローチを明確に志向しているような気がする。「狂えよ」という思想がまずあって、その先に「コントロールされた狂気とは、どのようなプレーなのか」というように発想が展開していくのではなくて、とにかくまずは執拗にプレーのクオリティを追求する。ヒット、そしてブレイクダウン。1mの戦いに、フィジカルと技術の双方から具体的にこだわっていく。そこが自分たちの寄って立つ場所だと分かっているからこそ、譲らない。その「譲らなさ」がいつしか冷静と狂気のアンビバレンツを超えていく。帝京大のチーム作りでは、その根幹において、こうした展開が志向されているような気がする。
早稲田大にとっては、やはり中盤でのペナルティが痛かった。前半の反則数は、両チーム共に5つと変わらない。後半に至っては、帝京大の方が明らかに反則数が多かった。ただ、問題は数ではなくてフェーズ、そしてエリアだ。早稲田大が前半に犯した5つの反則のうち、3つくらいは中盤エリアでのもので、これだけで自陣22mラインの内側でプレーせざるを得ない時間帯が大幅に増えてしまった。スクラムの反則についてはちょっとコメントできないが、このあたりがもう少しコントロールされていれば、もっと面白いゲーム展開になっていたような気がする。
アタックに関して言えば、準決勝の筑波大戦よりも遥かによかったと思う。筑波大戦を観た時には、正直に言って、「早稲田大からは、もはやストレートランは消えたのか」と思ってしまうほど、ライン展開に魅力を感じなかったのだが、今回の決勝では、例えばWTBの荻野選手が見せたようなプレー、つまりラインの展開力というよりも、小さなダミーと積極性でどんどん切りに行くようなアタックが見えてきて、これが奏功していたような感じがする。WTBを大外で使うというのはある意味では定型化されたラグビー観でしかなくて、結局のところ、「個が活きる場所がどこにあるのか」をベースに構成されたアタックの方が、相手にとっては遥かに脅威なのだと思う。1人のラグビーファンとして素直な気持ちを語るならば、来シーズンはそんなアタックをもっと見せてもらいたいなあと思っている。
まあでも、やはり決勝戦だ。総じていいゲームだった。
タマリバ時代の仲間で、今は日本ラグビー協会の仕事をしている勝田から、色々な視点でゲームに対するコメントを聴かせてもらえたのも、個人的にはすごく楽しかった。ラグビーの見方や着眼点も人それぞれで、様々なバックボーンを持った人間とラグビーを話していると、それだけで新たな気づきがあるものだ。タマリバ時代の出会いに、改めて感謝しないと。
うん、やっぱりラグビーは面白い。
間違いなく、世界で最も面白いスポーツだ。
帝京大 41―34 早稲田大(13:00K.O. @国立競技場)
タマリバ時代の仲間3人と久しぶりに再会して、皆でTVでの観戦となった。
個人的な印象だけでいえば、帝京大の完勝だと思う。最終スコアは7点差といっても、実際には危なげない勝利だった。早稲田大の関係者には申し訳ないけれど、底力の差はもっとあるのではないだろうか。ただ、これが選手権決勝だ。きっとそれは、"One of them"では語れないゲームなのだと思う。「それでも帝京大は終始落ち着いていた」とか、「慌てる様子もなかった」といった論評が既に多々見られているけれど、このゲームが特別だというのは、帝京大にとっても変わらない。彼らもきっと死に物狂いだったと思う。でも、それでいいじゃないか。冷静と狂気は、必ずしも相反しないのだから。
ただ思うのは、そういうアンビバレントな状態を上手にマネージする術として、帝京大は1つひとつのプレーと戦術から入っていくアプローチを明確に志向しているような気がする。「狂えよ」という思想がまずあって、その先に「コントロールされた狂気とは、どのようなプレーなのか」というように発想が展開していくのではなくて、とにかくまずは執拗にプレーのクオリティを追求する。ヒット、そしてブレイクダウン。1mの戦いに、フィジカルと技術の双方から具体的にこだわっていく。そこが自分たちの寄って立つ場所だと分かっているからこそ、譲らない。その「譲らなさ」がいつしか冷静と狂気のアンビバレンツを超えていく。帝京大のチーム作りでは、その根幹において、こうした展開が志向されているような気がする。
早稲田大にとっては、やはり中盤でのペナルティが痛かった。前半の反則数は、両チーム共に5つと変わらない。後半に至っては、帝京大の方が明らかに反則数が多かった。ただ、問題は数ではなくてフェーズ、そしてエリアだ。早稲田大が前半に犯した5つの反則のうち、3つくらいは中盤エリアでのもので、これだけで自陣22mラインの内側でプレーせざるを得ない時間帯が大幅に増えてしまった。スクラムの反則についてはちょっとコメントできないが、このあたりがもう少しコントロールされていれば、もっと面白いゲーム展開になっていたような気がする。
アタックに関して言えば、準決勝の筑波大戦よりも遥かによかったと思う。筑波大戦を観た時には、正直に言って、「早稲田大からは、もはやストレートランは消えたのか」と思ってしまうほど、ライン展開に魅力を感じなかったのだが、今回の決勝では、例えばWTBの荻野選手が見せたようなプレー、つまりラインの展開力というよりも、小さなダミーと積極性でどんどん切りに行くようなアタックが見えてきて、これが奏功していたような感じがする。WTBを大外で使うというのはある意味では定型化されたラグビー観でしかなくて、結局のところ、「個が活きる場所がどこにあるのか」をベースに構成されたアタックの方が、相手にとっては遥かに脅威なのだと思う。1人のラグビーファンとして素直な気持ちを語るならば、来シーズンはそんなアタックをもっと見せてもらいたいなあと思っている。
まあでも、やはり決勝戦だ。総じていいゲームだった。
タマリバ時代の仲間で、今は日本ラグビー協会の仕事をしている勝田から、色々な視点でゲームに対するコメントを聴かせてもらえたのも、個人的にはすごく楽しかった。ラグビーの見方や着眼点も人それぞれで、様々なバックボーンを持った人間とラグビーを話していると、それだけで新たな気づきがあるものだ。タマリバ時代の出会いに、改めて感謝しないと。
うん、やっぱりラグビーは面白い。
間違いなく、世界で最も面白いスポーツだ。
Sunday, January 05, 2014
『コンテナ物語』
昨年7月に勤務先で異動になってから、激減したものがある。
それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
そのことは、ちょっと後悔している。
そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。
元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。

作者: マルク・レビンソン, 村井 章子
出版社: 日経BP社
発売日: 2007/1/18
さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。
本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。
イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。
それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
そのことは、ちょっと後悔している。
そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。
元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。
さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。
本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。
イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。
Saturday, January 04, 2014
Our year
三が日が終わろうとしている。
新たな1年も既に3日が過ぎ去ってしまったということだけれど、そもそもベースの価値観として、「特別でない毎日を、特別なものにするために、毎日を過ごす」ことが大切だと考えている俺としては、突き詰めて言ってしまうと、三が日さえ特別なものという訳でもなくて。この3日間に限らず、2014年という1年間を、「365回の今日の連続」と捉えて、今日を大切にしていきたいと思っている。
まあでも、そうは言いながらも、今年の抱負というか、「今、思うこと」を言葉にしてみようかなと。
昨年の暮れ、ある親友に宛てた年賀状を書いていてふと浮かんだ言葉がある。
"Our year"、「俺たちの年」というやつだ。
昨年末に突然浮かんできたというよりも、実際にはここ1~2年間はずっと頭の片隅にあったことなのだけれど、一個人としての自分自身をもっと成長させることもさることながら、ここ最近、「俺たち」で何かをしていきたい、という思いが少しずつ強くなってきている。俺たち、というのは言葉を変えると「世代」だ。この世代で、動かしていきたい。最も身近には仕事(更には、その延長としての会社)を、ということなのだけれど、それだけではなくて、プライベートの活動であったり、コミュニティであったり、様々な場所でそう感じることが増えてきた。
昔は、「世代」という意識が全くなかった。もう10年以上も昔のことなので記憶が曖昧だが、「若者には、もはや『世代』という感覚がない。なぜならば、世代で(「別世代」という)共通敵と戦う時代ではなくなったからだ」といったような主旨のエッセイを読んだことがある。おそらくは村上龍のエッセイだったと思うのだけれど、当時の俺は、その言葉を比較的素直に受け入れていた。いや、受け入れていたというよりも、実際には「熱病」に近かったのかもしれない。世代という概念そのものを否定する感性に、どこか魅力を感じていたのだと思う。
それなのに今、当時から10数年の月日を経て、30代後半に差し掛かってきた俺は、親友に宛てた年賀状に書いている。"Our year"だと。俺たちの1年にしようぜと。それって何なのかなと、久しぶりに帰省した愛知の実家で、家族との年末年始をゆっくりと過ごしながら、自分なりにつらつらと考えていた。
そして一旦の着地点として行き着いた結論は、ごく当然のことだった。
「世代」というのは、共通敵との対峙によって確立されるものではなくて、仲間の延長概念なのだと。同じ頃に産まれて、同じような場所で過ごしてきた仲間であったり、まさに今、同じ場所で生きている仲間がいて、そういう仲間への意識を敷衍していくと、自分の知らない別の場所にも、自分と同じ頃に産まれて、大きな意味では自分と同じような葛藤を抱いている人がいるのだという当たり前の事実に行き着いていって、そうして気づいた時には、小さな仲間意識だったものが、世代という意識の種とでもいうようなものになっていくのではないだろうか。
共通敵は、いなくてもいい。
社会学者がよく言うような「大きな物語」なんて、なくてもいい。
同じ頃に、同じような場所で、同じように自分自身と向き合ってきた仲間がいて、そういう仲間と"Our year"を積み重ねていくことが出来たならば、それだけでいいじゃないか。たとえ今の居場所が人それぞれであっても、そういう仲間は間違いなくいるのだから。
そして、そういう仲間に恵まれただけでも、すごく幸せなことなのだから。
新たな1年も既に3日が過ぎ去ってしまったということだけれど、そもそもベースの価値観として、「特別でない毎日を、特別なものにするために、毎日を過ごす」ことが大切だと考えている俺としては、突き詰めて言ってしまうと、三が日さえ特別なものという訳でもなくて。この3日間に限らず、2014年という1年間を、「365回の今日の連続」と捉えて、今日を大切にしていきたいと思っている。
まあでも、そうは言いながらも、今年の抱負というか、「今、思うこと」を言葉にしてみようかなと。
昨年の暮れ、ある親友に宛てた年賀状を書いていてふと浮かんだ言葉がある。
"Our year"、「俺たちの年」というやつだ。
昨年末に突然浮かんできたというよりも、実際にはここ1~2年間はずっと頭の片隅にあったことなのだけれど、一個人としての自分自身をもっと成長させることもさることながら、ここ最近、「俺たち」で何かをしていきたい、という思いが少しずつ強くなってきている。俺たち、というのは言葉を変えると「世代」だ。この世代で、動かしていきたい。最も身近には仕事(更には、その延長としての会社)を、ということなのだけれど、それだけではなくて、プライベートの活動であったり、コミュニティであったり、様々な場所でそう感じることが増えてきた。
昔は、「世代」という意識が全くなかった。もう10年以上も昔のことなので記憶が曖昧だが、「若者には、もはや『世代』という感覚がない。なぜならば、世代で(「別世代」という)共通敵と戦う時代ではなくなったからだ」といったような主旨のエッセイを読んだことがある。おそらくは村上龍のエッセイだったと思うのだけれど、当時の俺は、その言葉を比較的素直に受け入れていた。いや、受け入れていたというよりも、実際には「熱病」に近かったのかもしれない。世代という概念そのものを否定する感性に、どこか魅力を感じていたのだと思う。
それなのに今、当時から10数年の月日を経て、30代後半に差し掛かってきた俺は、親友に宛てた年賀状に書いている。"Our year"だと。俺たちの1年にしようぜと。それって何なのかなと、久しぶりに帰省した愛知の実家で、家族との年末年始をゆっくりと過ごしながら、自分なりにつらつらと考えていた。
そして一旦の着地点として行き着いた結論は、ごく当然のことだった。
「世代」というのは、共通敵との対峙によって確立されるものではなくて、仲間の延長概念なのだと。同じ頃に産まれて、同じような場所で過ごしてきた仲間であったり、まさに今、同じ場所で生きている仲間がいて、そういう仲間への意識を敷衍していくと、自分の知らない別の場所にも、自分と同じ頃に産まれて、大きな意味では自分と同じような葛藤を抱いている人がいるのだという当たり前の事実に行き着いていって、そうして気づいた時には、小さな仲間意識だったものが、世代という意識の種とでもいうようなものになっていくのではないだろうか。
共通敵は、いなくてもいい。
社会学者がよく言うような「大きな物語」なんて、なくてもいい。
同じ頃に、同じような場所で、同じように自分自身と向き合ってきた仲間がいて、そういう仲間と"Our year"を積み重ねていくことが出来たならば、それだけでいいじゃないか。たとえ今の居場所が人それぞれであっても、そういう仲間は間違いなくいるのだから。
そして、そういう仲間に恵まれただけでも、すごく幸せなことなのだから。
Sunday, November 03, 2013
何をミスとするのか
昨晩は寝つきが悪かったので、あきらめて色々と考えてみた。
ジャパンとオールブラックスとの一戦のことを。
録画観戦なので、秩父宮で直接観られた方からすると肌感覚で違う部分があるかもしれないけれど、とりあえず個人的な感想として綴ってみようかなと。
「ミスをしたら、勝てない」
ゲーム全体の印象としては、つまるところ、そう感じた人が多かったのではないだろうか。もちろん、ミスが全てではないのは明らかだけれど、一方で、単純なミスがそのまま失点に繋がってしまい、自ら流れを手放してしまったのも事実だ。そのこと自体は、やはり惜しまれてならない。
ただ、このゲームを観ていると、思わずにはいられなかった。
「そもそも、何をもってミスとするのか」ということを。
具体的に、想像してみたい。
ハーフタイムを終えて迎えた後半のピッチ。自分たちよりもサイズに優れた格上を相手に、22点差を追う展開。劣勢でも、チームはタイトにプレーしていたとする。まずは3トライ・3ゴールの射程圏に入りたい。そのためには、辛くても仕掛けよう。テンポを上げて、フェーズに拘って。でも、簡単じゃない。我慢のポイントで、FWが枯れてくる。でも、今なんだ。ラックの最後尾に顔をのぞかせたボールをハーフが掻き出して、これ以上ないテンポで走り込んできたペネトレーターにパスアウト。でも、そのフェーズで彼は孤立して、ボールを奪われてしまう。
誰のミスだろうか。そもそも、ミスだろうか。
孤立したランナーのミスなのか。サポートが遅れたファースト・アライバル・プレーヤーのミスなのか。実はアライバルさえ出来なかったフローター、あるいはボールキープに意識を切り替えることができなかった近場のバックスのミスだろうか。もしかすると、孤立するリスクがある選手にパスアウトしたハーフの判断ミスかもしれないのだろうか。
この日のジャパンがそうだった、と言いたい訳ではない。あくまで想像のシーンだ。でも、この試合を観ていて俺は、「ミスに対する目線」ということを考えずにはいられなかった。
ノックオン。ハイパントのキャッチミス。確かに惜しまれるし、残念ではあるのだけれど、個人的には「たぶん、そこじゃない」という気がしている。田中史朗は、FWが枯れていても、消耗度が脳裏にインプットされていても、自分の理想のパスを出そうとしたのではないかなと。ヘンドリック・ツイはスクラム、ラインアウトで仲間が必死のファイトをしていることを十分承知の上で、ブレイクダウンに言い訳をしようとはしなかったのではないかと。例えばそういう勝手な想像を、どうしてもしてしまうのだ。今のジャパンは、ミスに対する目線をよりシビアにしていくチームのはずだから。
NZのディフェンダーは、孤立したジャパンのランナーをきちんと仕留めると、ほぼ確実にターンオーバーに持っていく。彼らにとって、このシチュエーションでボールを奪うのは当然のことで、「ここで奪えないようならば、それはミスである」という目線が当たり前のように共有されている。現場に行っていなくても、きっと間違いないだろう。プレーがそう物語っていたからだ。
自分にとってのラグビー観も、そうやって捉え直していきたい。
ミスしたら、勝てない。でもきっと、それだけでは思考停止なんだ。
ミスに対する目線をどこに持つのか。
そこに思想と、日々の練習に裏付けられた確かな信念が必要なんだね。
ジャパンとオールブラックスとの一戦のことを。
録画観戦なので、秩父宮で直接観られた方からすると肌感覚で違う部分があるかもしれないけれど、とりあえず個人的な感想として綴ってみようかなと。
「ミスをしたら、勝てない」
ゲーム全体の印象としては、つまるところ、そう感じた人が多かったのではないだろうか。もちろん、ミスが全てではないのは明らかだけれど、一方で、単純なミスがそのまま失点に繋がってしまい、自ら流れを手放してしまったのも事実だ。そのこと自体は、やはり惜しまれてならない。
ただ、このゲームを観ていると、思わずにはいられなかった。
「そもそも、何をもってミスとするのか」ということを。
具体的に、想像してみたい。
ハーフタイムを終えて迎えた後半のピッチ。自分たちよりもサイズに優れた格上を相手に、22点差を追う展開。劣勢でも、チームはタイトにプレーしていたとする。まずは3トライ・3ゴールの射程圏に入りたい。そのためには、辛くても仕掛けよう。テンポを上げて、フェーズに拘って。でも、簡単じゃない。我慢のポイントで、FWが枯れてくる。でも、今なんだ。ラックの最後尾に顔をのぞかせたボールをハーフが掻き出して、これ以上ないテンポで走り込んできたペネトレーターにパスアウト。でも、そのフェーズで彼は孤立して、ボールを奪われてしまう。
誰のミスだろうか。そもそも、ミスだろうか。
孤立したランナーのミスなのか。サポートが遅れたファースト・アライバル・プレーヤーのミスなのか。実はアライバルさえ出来なかったフローター、あるいはボールキープに意識を切り替えることができなかった近場のバックスのミスだろうか。もしかすると、孤立するリスクがある選手にパスアウトしたハーフの判断ミスかもしれないのだろうか。
この日のジャパンがそうだった、と言いたい訳ではない。あくまで想像のシーンだ。でも、この試合を観ていて俺は、「ミスに対する目線」ということを考えずにはいられなかった。
ノックオン。ハイパントのキャッチミス。確かに惜しまれるし、残念ではあるのだけれど、個人的には「たぶん、そこじゃない」という気がしている。田中史朗は、FWが枯れていても、消耗度が脳裏にインプットされていても、自分の理想のパスを出そうとしたのではないかなと。ヘンドリック・ツイはスクラム、ラインアウトで仲間が必死のファイトをしていることを十分承知の上で、ブレイクダウンに言い訳をしようとはしなかったのではないかと。例えばそういう勝手な想像を、どうしてもしてしまうのだ。今のジャパンは、ミスに対する目線をよりシビアにしていくチームのはずだから。
NZのディフェンダーは、孤立したジャパンのランナーをきちんと仕留めると、ほぼ確実にターンオーバーに持っていく。彼らにとって、このシチュエーションでボールを奪うのは当然のことで、「ここで奪えないようならば、それはミスである」という目線が当たり前のように共有されている。現場に行っていなくても、きっと間違いないだろう。プレーがそう物語っていたからだ。
自分にとってのラグビー観も、そうやって捉え直していきたい。
ミスしたら、勝てない。でもきっと、それだけでは思考停止なんだ。
ミスに対する目線をどこに持つのか。
そこに思想と、日々の練習に裏付けられた確かな信念が必要なんだね。
Sunday, October 20, 2013
アタックの生命線
学習院大とのゲームには、本当に多くのポイントが詰まっているのだけれど、もう1つだけ書いてみたい。今年のチームが標榜する"Attack"について。
前半9分40秒頃。ハーフウェイライン左サイドのマイボールLO。1次攻撃で7番を使ってグラウンド中央でラックにすると、そのまま順目に展開。12番が綺麗なタイミングで放った柔らかいパスがFBに渡ると、20m近くのビッグゲインとなって、右サイドライン際で再度ラックフェーズ。ここで、ラックからボールを捌こうとしたSHに対して、ライン際のショートサイドにいた相手の4番が飛び出してきて、パスモーションに入ったSHを浴びせ倒す。結果的にはオフサイドだったので、チームはタッチに蹴り出して、敵陣ゴール前でマイボールLOのチャンスを得た。
このシーンは、おそらくチームで総括されていないのではないだろうか。このシーンを繰り返しチェックした部員は、何人いるだろう。マイボールのPKを得たのだから、まずはOK。その後のラインアウトの方が重要。そして結果的に、ここからの一連でチームはトライを挙げたのだから、基本的にはナイスアタック。そう感じている選手も少なくないのかな、という気がしている。
でも、考えてみる価値はあるんじゃないか。
仮に今、一部で戦う青学大や成蹊大と戦っていたとして、20mを越えるロングゲインを許した直後のラックで、自分たちはオフサイドできるだろうか、って。
あの時、ライン際からオフサイドで飛び出してきたのは、相手の4番だ。彼は最初のLOではフローターで、順目を押さえやすかったのは事実だけれど、突進するこちらのFBを必死に追いかけて、そのまま20m後方のラックサイドにポジショニングした。一方で、このラックで仕事をした味方のフォワードは何人いただろうか。ゼロだ。1人もいない。20m以上ラインが押し上がっているのに、そのラックに誰も到達していないんだ。こちらの両LOは、どこにいただろうか。1次フェーズで突っ込んだ7番はともかく、6番はどこにいるんだ。1次のラックは、ほとんどスイーパー不要でクリーンに捌けているはずなのに。SHの到達も、遅い。このフェーズを活かすのが今年のチームの命綱だと思っているならば、相手のオフサイドなど関係なく捌くべきボールだ。ラックからボールがこぼれ出た瞬間に、ダイブでも何でも構わないから、絶対にパスアウトしてほしい。いや、しないといけない。そういうフェーズだったはずなんだ。
もちろん、SHだけを責められない。相手の4番がオフサイドできた理由を考える必要がある。これも、俺の中でははっきりしている。20m以上ゲインした直後でさえ、ラックを前で組めていないために、オフサイドラインが下がらないんだ。ラックの最後尾が、まったく動かない。だから学習院大は、ピンチの局面においても、きちんとスタートを切れる。時にそれがオフサイドであっても。
残されたゲームは、あと3つ。
誰もが今年の”Attack”を体現したいと思っているはずだ。でも、その時に生命線となるのはきっと、SOのパスでもなければ、サインの精度や選択でもない。
ブレイクダウン。特にラックへの反応力と集中力。
いや、もっと単純でいい。まずは、誰よりも早くラックに到達すること。
ただこれだけを考えればいいと、俺は思います。
前半9分40秒頃。ハーフウェイライン左サイドのマイボールLO。1次攻撃で7番を使ってグラウンド中央でラックにすると、そのまま順目に展開。12番が綺麗なタイミングで放った柔らかいパスがFBに渡ると、20m近くのビッグゲインとなって、右サイドライン際で再度ラックフェーズ。ここで、ラックからボールを捌こうとしたSHに対して、ライン際のショートサイドにいた相手の4番が飛び出してきて、パスモーションに入ったSHを浴びせ倒す。結果的にはオフサイドだったので、チームはタッチに蹴り出して、敵陣ゴール前でマイボールLOのチャンスを得た。
このシーンは、おそらくチームで総括されていないのではないだろうか。このシーンを繰り返しチェックした部員は、何人いるだろう。マイボールのPKを得たのだから、まずはOK。その後のラインアウトの方が重要。そして結果的に、ここからの一連でチームはトライを挙げたのだから、基本的にはナイスアタック。そう感じている選手も少なくないのかな、という気がしている。
でも、考えてみる価値はあるんじゃないか。
仮に今、一部で戦う青学大や成蹊大と戦っていたとして、20mを越えるロングゲインを許した直後のラックで、自分たちはオフサイドできるだろうか、って。
あの時、ライン際からオフサイドで飛び出してきたのは、相手の4番だ。彼は最初のLOではフローターで、順目を押さえやすかったのは事実だけれど、突進するこちらのFBを必死に追いかけて、そのまま20m後方のラックサイドにポジショニングした。一方で、このラックで仕事をした味方のフォワードは何人いただろうか。ゼロだ。1人もいない。20m以上ラインが押し上がっているのに、そのラックに誰も到達していないんだ。こちらの両LOは、どこにいただろうか。1次フェーズで突っ込んだ7番はともかく、6番はどこにいるんだ。1次のラックは、ほとんどスイーパー不要でクリーンに捌けているはずなのに。SHの到達も、遅い。このフェーズを活かすのが今年のチームの命綱だと思っているならば、相手のオフサイドなど関係なく捌くべきボールだ。ラックからボールがこぼれ出た瞬間に、ダイブでも何でも構わないから、絶対にパスアウトしてほしい。いや、しないといけない。そういうフェーズだったはずなんだ。
もちろん、SHだけを責められない。相手の4番がオフサイドできた理由を考える必要がある。これも、俺の中でははっきりしている。20m以上ゲインした直後でさえ、ラックを前で組めていないために、オフサイドラインが下がらないんだ。ラックの最後尾が、まったく動かない。だから学習院大は、ピンチの局面においても、きちんとスタートを切れる。時にそれがオフサイドであっても。
残されたゲームは、あと3つ。
誰もが今年の”Attack”を体現したいと思っているはずだ。でも、その時に生命線となるのはきっと、SOのパスでもなければ、サインの精度や選択でもない。
ブレイクダウン。特にラックへの反応力と集中力。
いや、もっと単純でいい。まずは、誰よりも早くラックに到達すること。
ただこれだけを考えればいいと、俺は思います。
「小さな瞬間」に全力を
再び対抗戦のことを。
もう1ヶ月前のゲームなのだけれど、学習院大との開幕戦をチェック してみた。
次のゲームが一橋大ということを考えると、最も参考にしやすいの かなと。
そうしたら、色々と見えてきた。
今シーズンのチーム目標を考えると、絶対に負けられないという決 意を胸に臨んだ開幕戦だったのだと思うけれど、ファイナルスコア は20-26。前半を20-21の僅差で折り返すも、後半3分に 追加点を許してしまい、そのまま逃げ切られてしまった。このゲー ムは、選手たちの中でどのように総括され、そして今、この惜敗か ら何を得ようとしているのかなあ。もしかすると、先日の明学戦以 上に、今、見返した方がいいゲームなのかもしれないと、俺は思う のだけれど。
ゲーム全体をみれば、前半7分に失ったトライがターニングポイン トだったかもしれない。自陣10mよりやや後方、左サイドの相手 ボールLO。相手スローが乱れた後のこぼれ球を確保して展開すると、グラウンド中央あたりでラック。これをSHが クイックにパスアウトすると、SOから右オープンにキックする。 でも、このボールをカウンターされて、最後は相手WTBがライン 際で上げたショートパントの処理をミスしてそのまま拾われ、ポー ル下まで運ばれてトライとなった。
キック処理のミスは、結果論。惜しまれるけれど、どうでもいい。
それよりも、チームで意見交換はされたのかなあ。
あのトライがポ ール下でなければ、前半が20-19だったかもしれないことにつ いて。
相手のWTBが突進したのは、左のライン際。ショートパントの落 下地点も、こぼれ球を拾った場所も、もちろんライン際。でも彼は 、やすやすと正面にトライした。
理由もはっきりしている。こちらのSOが蹴ったボールを受けた相 手ランナーが1次ディフェンスを切った時点で劣勢のフェーズにな ることが分かっていながら、誰1人として、「次に埋めるべきスペ ース」へとコースを切り替えていなかったからだ。いや、コースだ けじゃない。そもそも、誰1人として「全力で」追いかけていなか った。最後にポール下まで戻ってきた左WTBに、正面でトライさ せないという意地は、全く見られなかったけれど、それだけじゃな い。そのはるか前に、1次防御を切られた瞬間のチームの反応力で 、既に勝負はついていた。
絶対に負けられないゲームの、前半7分に。
今、俺はコーチでも何でもないけれど、チームのことは好きだから 、悔しくてたまらない。明学戦をみて感じたショックと同じものが 、あの瞬間にも既にあったんだ。そのことが惜しまれてならない。 あの場面でトップギアが入らないというのは、誰よりも選手自身が 、自分達の可能性を信じ切れていないということになってしまうの だから。
正面にトライさせなかったとしても、ゴールは入っていたかもしれ ない。20-19で迎えても、結果がどうだったかは分からない。 でも俺は、もう勝手に確信している。あの瞬間に「本当のベスト」 を尽くせるようになるだけで、そういう「小さな瞬間」に本気でこ だわっていくだけで、チームは劇的に強くなるということを。
もう1ヶ月前のゲームなのだけれど、学習院大との開幕戦をチェック
次のゲームが一橋大ということを考えると、最も参考にしやすいの
そうしたら、色々と見えてきた。
今シーズンのチーム目標を考えると、絶対に負けられないという決
ゲーム全体をみれば、前半7分に失ったトライがターニングポイン
キック処理のミスは、結果論。惜しまれるけれど、どうでもいい。
それよりも、チームで意見交換はされたのかなあ。
あのトライがポ
相手のWTBが突進したのは、左のライン際。ショートパントの落
理由もはっきりしている。こちらのSOが蹴ったボールを受けた相
絶対に負けられないゲームの、前半7分に。
今、俺はコーチでも何でもないけれど、チームのことは好きだから
正面にトライさせなかったとしても、ゴールは入っていたかもしれ
明学戦 #2
昨日チェックした対抗戦のことが、まだ気になっている。
いまやコーチでも何でもない、ただのOBの戯言になってしまうけ れど。
キックオフ直後の前半1分。
相手のオフサイドで得たPKをタッチに蹴り出して、敵陣左ゴール 前ラインアウト。やや後方でマイボールをキャッチすると、モール を組んだ次の瞬間、ショートサイドに控えたNo.8にパスをして 突破を図るサインプレー。彼が力強く相手ディフェンダーにヒット すると、更に左サイドにFWが持ち出して、いきなりの先制トライ になった。
これも率直に書いてしまうと、この一連をビデオで見て最初に感じ たのは、実はとても強い疑問符だった。サインプレーの選択に、と いう訳ではない。サインプレーでNo.8が仕掛けることが分かっ ていながら、彼へのサポートがあまりに遅かったからだ。そして、 最終的にトライになったピック&ゴーのタイミングが、自分の理想 よりも1テンポ遅かったからだ。
今日は、チームはオフかなあ。ミーティングは、明日だろうか。
このプレーは、今シーズンのチームにとって、どのように総括され ていくのだろうか。
No.8の彼は力強いヒット、そしてドライブを見せていた。これ は、個人プレー。でもここに、彼が対面にヒットした瞬間、後方か らトップギアで肩をぶち込んで、彼の身体もろとも押し込むロック がいると、ユニットプレーになる。スロワーとしてライン際に残っ ていたフッカーが、彼と相手ディフェンダーとの接点が生まれる場 所を見極めて、ヒットの次の瞬間、相手がもう密集の左サイドから は頭をねじ込めないほどタイトなサポートを見せてくれると、初め てサインプレーになる。
そして、この3人が「チームの約束」をきっちりと果たしてくれる ことを信じて、既にボールアウトされたモールからFWが一斉にブ レイクして、このラックに命をかけてくれた時に、この一連は本物 のチームプレーになる。
強い個人を核にしたチームプレーはきっと、もう1つ上のレベルの 相手であってもゲインラインを切ってくれるはずだ。でも、そのも うちょっと先も、きっとあって。それが、最後のピック。あれがも う1テンポ早かったならば、もう1つ上のレベルの相手からも「ト ライ」を狙えるんじゃないかなあ。ボールの白い腹がラックの最後 尾に顔をのぞかせた次の瞬間、そこからもう消え去っているような そんなタイミングで、ピックしてほしいんだ。この時、今度は「チ ームプレーによって個が活かされる」というもう1つ別のループが 、グラウンドに生まれるんじゃないかなあ。
完全に妄想のようなものかもしれないけれど、チームの中でそんな 会話がされていたら、俺としてはとてもうれしい。そして、「でも そのピックって、常にグラウンドのボールを最速で拾う意識ですべ てのメニューをこなしてないと、たぶん出来ないよなあ」なんて台 詞がロッカールームに転がっていたら、もっとうれしい。
いまやコーチでも何でもない、ただのOBの戯言になってしまうけ
キックオフ直後の前半1分。
相手のオフサイドで得たPKをタッチに蹴り出して、敵陣左ゴール
これも率直に書いてしまうと、この一連をビデオで見て最初に感じ
今日は、チームはオフかなあ。ミーティングは、明日だろうか。
このプレーは、今シーズンのチームにとって、どのように総括され
No.8の彼は力強いヒット、そしてドライブを見せていた。これ
そして、この3人が「チームの約束」をきっちりと果たしてくれる
強い個人を核にしたチームプレーはきっと、もう1つ上のレベルの
完全に妄想のようなものかもしれないけれど、チームの中でそんな
明学戦 #1
ビデオでチェックした対抗戦のことを。
前半終了時のスコアは、8-31。
ハーフタイムの時点で、このスコアはどう受け止められていたのか なあ。
後半3分。自陣右サイドのLOモールからSHが上げたハイパント は、FWが最もラッシュしやすいはずの場所にまっすぐ落ちたのだ けれど、チェイサーが入れ違いになってしまい、カウンターを受け てしまう。するすると相手の11番にDFを切られるも、インゴー ル直前でカバーディフェンスが何とか引っ掛かり、相手のノックオ ンでなんとか救われて。
でも俺は、本当のことを言うと、ちょっとショックだった。
キックチェースのディフェンスが整備されていなかったことに、で はない。ゴールラインに向かって突進する相手ランナーの背中を追 って、本気で戻ろうとする仲間がほとんど誰もいなかったことに。 カバーに走ったバックスがきっとトライライン目前で止めてくれる と信じて、そこで出来るはずのポイントサイドを誰よりも早くカバーしようとスタートダッシュを切っていた フォワードが誰もいなかったことに。8-31で迎えた後半3分に 。
あの瞬間、誰よりも必死に自陣トライライン目前で出来るはずのラ ックを信じて、そこにカウンターラックを仕掛けようとするロック を見たい。相手SHがポイントに到達する前に、もう順目で地面に 手をついてスタートの構えを取っているフランカーを見たい。そう いうやつらがいることを知っているからこそ、全く逆サイドからで も死ぬ気で走ってくるオープンWTBを見たい。
勝ちたい心というのはきっと、そういうことだと思うんです。
いいプレーもたくさんあって。決して落ち込んでばかりいる必要も なくて。
でも、相手だって勝ちたいのは同じだから。
残りの試合で、目の色を変えて走リ出すヤツがきっと、このチーム をもっと成長させてくれるのだと思います。ゲームに出られないメ ンバーも、マネージャーやトレーナーも、きっとそんな姿を見たい はずなんです。
前半終了時のスコアは、8-31。
ハーフタイムの時点で、このスコアはどう受け止められていたのか
後半3分。自陣右サイドのLOモールからSHが上げたハイパント
でも俺は、本当のことを言うと、ちょっとショックだった。
キックチェースのディフェンスが整備されていなかったことに、で
あの瞬間、誰よりも必死に自陣トライライン目前で出来るはずのラ
勝ちたい心というのはきっと、そういうことだと思うんです。
いいプレーもたくさんあって。決して落ち込んでばかりいる必要も
でも、相手だって勝ちたいのは同じだから。
残りの試合で、目の色を変えて走リ出すヤツがきっと、このチーム
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