Friday, December 23, 2005

エッセイ

銀座の画廊へと転職すべく、採用試験の課題としてパートナーが書いたエッセイ。
画廊のオーナーは、突然こんなことを主張されて驚いたと思うけれど。


『名前』

今読み進めている「パズルの迷宮」(フアン・ボーニャ著)の中にこんな一節がある。

"実際のところ人は誰しも、誰かに言ってもらえるまで、
自分の名前を知らないものなのさ"

はっとした。そしてその言葉は、すとんと私の心の中に落ちてきた。

人はこの世に生まれてすぐ、多くは親から自分の名前を聞かされる。
私自身も記憶にはないが、初めはその「単語」が自分を指すものであるという
認識は、全くなかったはずである。何度も呼び続けられるうち、その「単語」が
自分自身を指す「名前」だということに、気づいていくのだろう。

そこで不図考えた。
もしも生まれ落ちてすぐ、同時に複数、例えば3つの名前で呼ばれたら、
3つの人格ができるのであろうか。
別々の国籍をもつ両親に育てられた子供は、同時に2つの国の言葉を
話せるようになる。
だがやはりその時も、与えられる「名前」は1つだ。
成長するに従い、それぞれの環境においてそれぞれの言い回し、あだ名などで
呼ばれることはあると思うが、「本名」は1つである。
しかし、その場その場で呼ばれる名前によって、自分の意識が変わることがある。
○○の時はこういう自分、△△の時はこういう自分という風に、
無意識のうちに自らの言葉遣いや雰囲気が変わっていることが。
「名前」には、そんな不思議な力があるように思う。

私のつたない感覚からくる結論を言えば、
もしも生まれ落ちてからずっと3つの名前で呼び続けられたら、
3つの人格ができあがる、ということになる。

「自分」というものは、とても曖昧でもろいものである。
自分の芯を通っている一本の糸の色は絶対的かもしれないが、
その周りを彩る色は、幾らでも変化する。

よく「本当の自分」という言葉を目にするが、
これはとても危うい言葉であるように思う。
それを考え出したら、それこそ出口のない迷宮に迷い込んでしまう。
「自分」というものは「唯一」だと認識しているからこそ、
そういう辛い思いに苛まれてしまうのではないか。
確かに、自分らしくないと明確に感じる種類のものもある。
それは大切にしなければならない。
ただ、それを絞りすぎてしまうと、いつの間にか答えのない問題と
永遠に顔を突き合わせることになる。
それは、とても力のいる作業である。

そんな時は誰かに別の名前をつけてもらい、
それで呼んでもらってみたらどうだろう。
案外自分の芯の近くに隠れていた感情が、素直に出てくるかもしれない。
他者から見た自分というものは、結構真を突いているものである。
その中で、どうしても嫌だと思うもの以外は、
全て自分であったりするのではないだろうか。
優子、真希、もも、カトリーヌ、ステファニー、タスリム。
誰かにそう呼ばれてしっくりいけば、全部自分の名前なのかもしれない。

名前について、そんなことを考えた。

オルテガ・イ・ガセットはその自我論の中でこう言っている。
「私とは、私とそれを包囲する状況である」と。