Wednesday, August 01, 2012

グラウンドレベル

ロンドン五輪を全く見ていないので、本当は何かを書くのも憚られるのだけれど、思うところあって、女子サッカーの南アフリカ戦におけるドロー狙いのことを。
基本的に想像なので、事実に反することもあるかもしれないけれど。

一億総監督とはよく言ったもので、誰もが上からの視点で語っている気がする。
五輪はメダルが全てであり、当然の戦略だという人がいる。一方で、常に全力で臨むのが代表チームであり、意図的にドローを狙うのはフェアじゃないという人もいる。考え方は人それぞれで、正解がある訳でもない。ただ、大きくはこの2つに集約されるほぼ全ての言説が、サッカー女子日本代表チームの「あるべき姿」を「上から」、あるいは「論じる立場から」なされているように感じて、どうしても違和感を覚えてしまう。

こういう時、俺はいつもグラウンドレベルを想像する。自分自身は、残念ながら国際レベルでのぎりぎりの勝負を経験していないけれど、選手の側に立って、当事者として戦う人間の内面を想像することはできる。勿論それはあくまで想像で、正しくないかもしれない。でも、トップアスリート達の繰り広げる戦いに対して、そんな視点からの楽しみ方があってもいいんじゃないかと、常に思っている。

スターティングメンバーは、7人が入れ替わったそうだ。この7人も、4年間という時間の全てをこの一瞬のために捧げてきた人間だと思う。オリンピックでのボールタッチは、トータルでどのくらいの数になるのか分からないけれど、その1つひとつのボールタッチを最高のものにするために、4年間という時間を惜しみなく捧げることができるのがトップアスリートであり、五輪のピッチに立つ資格を掴み取るというのは、きっとそういうことなのだと思う。

ドローを狙って戦う。それは大局的に見れば、考えられる選択肢だったのだろう。そして、それがチームの方針であれば、メダル獲得という最大の目標のために、求められるベストを尽くす。まさしくプロフェッショナルの姿勢だと思う。
ただ、これは断言してもいい。7人の選手にとって、この90分というのは、ようやく「本物のピッチ」で、その機会を逃せばもう一度掴み取るチャンスは二度と来ないかもしれないような、そんな機会だったはずなんだ。彼女達だって、まさに人生そのものを懸けてロンドンに乗り込んだトップアスリートなのだから。

この90分間で、4年間の己を全て注ぎ込んだ最高のパスを。一寸の集中力の乱れもなく、完全に研ぎ澄まされた最高のシュートを。ボールタッチがない時にも、自分、そしてチームを最も輝かせる可能性を探して、最高の無駄走りを。
ピッチの上の選手達は、そう心に誓っていたはずだ。少なくとも俺は、それが選手の性だと思っている。相手が格下であるとか、既に決勝リーグ進出が決まっていたとか、そんなことは関係ない。自分自身が積み上げてきたものを、最高の形で表現したい。それができれば、その先には最高の結果が必ず待っているはずだ。そういう思いで戦いの舞台に臨むのは、自然なことじゃないか。

ただ、「ベストを尽くす」というのは必ずしも「邁進」でもなければ、「ガムシャラ」でもない。(大会全体を通じて)チームが置かれたポジション、相手との力関係、得失点差や累積カードといったバックデータを冷静に見つめた上で、その瞬間の「ベスト」というものを見極めることが必要になる。今回のポイントは、つまりそういうことなのだと、俺は思っている。
「ゲーム展開によっては、ドローでも」
この短いフレーズの意味するところは、実際にはかなり深いんじゃないか。
そのフレーズが監督にとって、そして選手にとって意味するところを、もっと丁寧に想像してみてもいいんじゃないか。更には、選手にとって意味することを知ってなお、選手達は大局のためにプロフェッショナルのプレーをしてくれると信じてメッセージを出した監督の思いを。そういう中で、ドローのゲームをマネージした選手達のことを。

正解なんてなくても。