今日は残念なニュースがふたつあった。
ひとつは、イブライム・フェレールが亡くなったこと。
キューバの伝説的な老音楽家たちがライ・クーダーのもとに結集して生まれたプロジェクト"Buena Vista Social Club"のボーカリスト。
国交なき国のカーネギーホールで実現された彼らのコンサートの映像は、同名のドキュメンタリー映画のなかに収められている。深い皺を刻んだ彼らの表情は一様に輝いていて、純粋に格好良く、その佇まいにはどこか身震いしてしまうような魅力があった。イブライム・フェレールはその中心にいて、歌声には、その顔の深い皺に違わぬ奥行きがあった。享年78歳。DVDを観て虜になって、即座にCDを買いに行ったのはつい最近のことのように思う。おれにとって、その死はちょっと早すぎたね。
ささやかながら、黙祷を捧げます。
その最後の表情が安らかなものであってほしいと思っています。
もうひとつは、がらりと趣が変わるけれど、郵政民営化法案の否決。
郵貯という巨大国家金融を解体する千載一遇のチャンスのはずだったんだ。
結果的に、参議院では予想を上回る大差で法案は否決されたのだけれど、おれには反対派議員がこれほど強硬に郵政民営化を拒む理由というものが、最後まで分からなかった。彼らによって語られた理由はとても合理的だとは思えなかったし、その主張のほとんどは、議論におけるスタート地点が既に間違っているように感じた。
でも、郵政民営化そのものを議論する前に、まずは国会議員であるということの当然の前提というものを、改めて考えてみる必要があるんじゃないか。
国会議員の最大にしてほとんど唯一の任務は、世論を政治に正しく反映させることだと思う。必ずしもそれが最善の手段かどうかは分からないけれど、民主主義とはそういうものだし、国家の基本法たる日本国憲法は、はっきりと民主主義を標榜している。民主主義の精神、あるいはその意思決定プロセスに対する議論は当然あり得ると思うけれど、現行制度下においては、民主主義は常に尊重されるべきだ。
こうした民主主義の精神の下にあって問われるのは、有権者との「契約」に責任を持ってこれを遵守すること、そしてもうひとつは「国民への信頼」ということだと思う。
有権者との間の「契約」というのは、言うまでもなく選挙公約だ。選挙公約が有権者との「契約」であるという認識すら持たない議員は、そもそも存在意義がない。もちろん、契約が正しく履行されないことに対して明確な拒否メッセージを発しない有権者の側にも一定の責任はあると思うけれど。
「国民への信頼」というのは、民主主義が必ずしも衆愚政治に帰結しないということを担保する重要な条件だと思う。結果として衆愚政治に堕することはあるかもしれないけれど、民主主義が成立し得る重要な条件のひとつは、有権者の合理的判断力を信頼することであり、また国民の能力を過小評価しないことだと思う。
こうして考えていくと、法案そのものの是非を問う以前に、幾つかの疑問が生じる。
ひとつは、公約をどう考えるのか、ということ。
その政治手法、法案の具体的内容は別にしても、この1点において、小泉純一郎は正しいと思う。郵政民営化は、明確に小泉政権の公約だった。確かに小泉は、その他の公約を幾つか反故にしている。例えば、国債30兆円枠などは、ほとんど議論されることもなく、いとも簡単に破棄されることになった。しかし、だからと言って、郵政民営化が「公約」であるという事実の重みは変わることがない。公約は「絶対に」履行されなければならない、という民主主義の基本中の基本に対して、反対派の議員はどう考えていたのだろう。
こうした態度は、もうひとつの「国民への信頼」へと繋がっていく。公約の重要性に対する認識の欠落は、とりもなおさず、有権者に対する冒涜を意味している。そして、突きつめていけば、それは民主主義そのものへの冒涜でもあると思う。
郵政民営化の是非を巡る今回の政争が奇しくも露呈したのは、日本における民主主義がほとんど死にかかっている、ということだと思う。このことは、郵政民営化法案の行方以上に、決定的に重要だった。
でも、それだけではない。
それに加えて、当然ながら、郵政民営化法案そのものも極めて重要なものだった。
民営化に対して強硬に反対する理由は、どうしても理解できない。
民間に出来ることを、なぜ国家がする必要があるのだろう。民営化によって国民の生活基盤が破壊される、という主張は明確に嘘だ。まず、「国民」という言葉自体が、ある種の嘘を内包している。都市部に暮らす人間は、実態としてほとんど民営化の影響を受けないだろう。「国民」という言葉が本当に意味している層を、具体的に明示すべきだ。過疎地域におけるサービスレベルの低下がたびたび主張されるけれど、これは民間の実力を明らかに過小評価している。日本に対する誇りを声高に唱える国会議員自身が、日本企業の持つ実力に対する信頼を欠いていると思う。
郵貯・簡保という巨大国家金融の存在は、日本の金融業界の在り方を大きく歪めてしまっている。グローバリゼーションと自由競争という大きな流れは変えられない。それは善悪の問題ではなく、資本主義社会の必然の帰結だ。そうであるなら、考えるべきは、そうした国際社会の潮流の中で、いかに制度を柔軟に対応させていくか、ということだと思う。「保守」ということを誤解してはいけない。環境や時代背景が日々刻々と変化する中で、本当に守るべきものを守り通す為には、変化に柔軟に対応できなければならない。その意味で、「革新」こそが保守の本流のはずだ。
結果的に法案は否決されて、衆議院は即日解散された。
法案の否決はとても残念だけれど、解散は当然の帰結だよね。
報道ステーションの中で古館さんが「衆議院総選挙にかかるコストは500億円とも言われる。こうした情勢下にあって、このタイミングでの解散というのはどうだったのか」といったコメントをしていたけれど、もしも日本における民主主義の復権にこの解散が寄与するのであれば、500億円なんて安いものです。
少なくともおれは、そういう気持ちで次の選挙に臨もうと思っています。