村上龍さんの中期の小説『ライン』、読了。
自分の中のある枠組みの中に閉じて、その中で作品を書き続けている作家は少なくないと思う。読む側としては、期待値から大きくずれないという安心感もあるだろうし、一定の娯楽的価値は提示されるのだけれど、そこに新しさを感じることはない。
最近でいうと、例えば石田衣良なんかは典型的だ。
彼の出世作でもあり、ベストセラーとなった『池袋ウエストゲートパーク』は、スピード感と瑞々しさがあって、おもしろい小説だった。その後、この作品はシリーズ化され、続編が次々に発表されているのだけれど、どれをとってもそれなりに安定していて、一定の娯楽的なおもしろさを持ち併せている。
でもそれらは、ほとんど決定的なほどに、新しくないんだ。
IWGPシリーズは、その優れたキャラクター設定ゆえに、大きくは外れない。作品世界の枠組みがきちんと定まっていて、構成そのものが既に読者の期待値のある一定の部分を満たしている。マコトやタカシといったメインキャラクターの存在感は際立っていて、都度ストーリーが異なるとはいえ、読者の期待を裏切ることはない。
しかし、逆にそれこそが、石田衣良という作家の現時点での限界を感じさせてしまう。
IWGPという枠組みの中で書けることは、もうほとんどないと思う。少なくとも、新しい何かを書く余地は多くないはずだ。今後もIWGPシリーズを書き続けていくとすれば、それは同時に、石田衣良という作家の中に「新しい枠組み」を創リ出すエネルギーが枯渇していることを、図らずも示してしまうんじゃないかな。
それで、村上龍。
龍さんの恐ろしさは、絶えることなく提示されるその「新しさ」にこそある。小説のコアの部分にある問題意識や感性は、同時期の作品である程度共有されているケースもみられるけれど、作品それぞれの枠組みが、いつも決定的に違う。
『ライン』は、まさにその「新しさ」が際立っている作品だった。
正直に言って、あまりに良すぎて感想が書けない。
その斬新さの中に横たわる圧倒的な作品世界を、きちんと消化できていない。
ある種の歪みや空虚さを抱えた人間たちが、図らずも織り成していく「ライン」には、目を背けられないような何かがあるんだ。でもそれを表現する言葉を、残念ながら今のおれは持っていないんだ。
きっとこの小説は、何ヵ月後か、あるいは何年後になるのか分からないけれど、もう一度読むことになるんじゃないかという気がします。