Monday, August 15, 2005

STOMP所感

STOMP Japan Tour 2005 ―
後輩の薦めで、STOMPの日本公演を観に行ってきた。
その後輩が「どうですか?」ってメールをくれるまで、STOMPというパフォーマンス・グループのことをおれは知らなかったのだけれど、いい機会だと思ったし、今までのおれにはなかった角度からの刺激があるんじゃないかという期待感もあって、誘いに乗ってみたんだ。

台詞のない舞台。
モップやバケツ、シガレットケースやビニール袋、そして自らの身体。あらゆるものから生み出される様々な音だけで構成されたパフォーマンス。
叩く。打ち付ける。擦る。振リまわす。掃く。壊す。揺する。
それぞれのモノに対して、いろんなアプローチで作用を働かせ、そこから響き出す音を重ね合わせて、リズムとビートを創り出していく。
ざっと言うなら、そんなパフォーマンス・グループがSTOMPだ。

結論から言うと、クオリティの高いパフォーマンスで、凄く良かった。
パフォーマーとしての完成度が高く、迫力と躍動感があって、単純に楽しかった。

2時間近い彼らのパフォーマンスを観ていて、思ったことがある。
ひとつは、コミュニケーションという作業は、本来とてもフィジカルなものだということ。
STOMPの舞台には、基本的に台詞が存在しない。つまり、8人のメンバーは、舞台上で会話を交わすことがない。もちろん全くのゼロではないし、ある程度シチュエーションが練り込まれていて、身振りやちょっとしたサインでその意図を明示するようなシーンは幾つか存在する。でも、基本的には「音」がすべてだ。1人がモップで床を掃く。その擦れる音に合わせて、別の1人もモップを動かす。そうしてモップの擦れる音が連鎖的に響き出すと、今度は誰かがモップの柄を床に打ち付ける。今度は別のエネルギーを持った打撃音が鳴り響いて、また別のリズムを創り出していく。

それが「コミュニケーション」という作業を強烈に感じさせるんだ。

コミュニケーションという作業が、言語に偏りすぎているのかもしれない。もっとフィジカルな、身体に直接訴えかけるようなものが、原初のコミュニケーションなのかなって、そんなことを思ったりした。そして、ちょっと話は逸れてしまうけれど、そういうコミュニケーションの身体性を意識させる世界がもうひとつあるとすれば、それがスポーツなのかもしれないね。

もうひとつは、都市における「音」ということ。
都市がいかに「音」を埋没させているだろう、と思わずにはいられなかった。

以前から気になっていた渋谷という街の騒音。軒を連ねる店のどれもが、大音量の音楽ともいえない音楽を垂れ流す。駅前に街宣車を停めて、マイク片手にがなり立てる右翼グループ。およそ考えられる限りの騒音がすべて集まった感じだよね。

STOMPの公演の中に、紙袋・ビニール袋・紙コップなんかを組み合わせて3人でリズムを合わせるシーンがあった。2時間の公演の中では比較的小粒な、送りバントのようなシーンだったのだけれど、個人的には印象に残っているんだ。持ち帰りのハンバーガーを詰めるような紙袋から、音のセッションが始まるわけ。センター街の道端にごろごろ転がっているような、なんでもない紙袋からね。
音は、あるいは音のきっかけは、きっと身の廻りのあらゆるところにあるんだ。それはSTOMPのキーメッセージでもあると思う。彼らがいわゆる日用品から音を創っていくのは、ひとつには「音をおれたちの日常に返す」ということじゃないかと、おれは勝手に考えているからね。

都市は、そこに生きる人間の日常から、そんな音を奪っているんじゃないか。
この日のSTOMPのパフォーマンスを観て、漠然とそんなことを考えてしまった。


観て良かった。彼らのパフォーマンスがすごく刺激的だった。
ただ、本当のところを言うと、ぞくっとはしなかったね。
感覚的なことになってしまうけれど、鳥肌というのは、もうひとつ奥の方かもしれない。