Thursday, August 16, 2012
『昭和16年夏の敗戦』
ずっと気になっていながら、なぜだか手に取っていなかった。
そういう本が、数え切れないほどある。
昨日、日本橋丸善をふらついていて、ふと思い立った。ちょうど『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』を読了した直後だったのが影響したのかもしれない。そう、今こそ読まなければいけない。そう直感して、2Fの文庫本コーナーに向かった。
そして、レジで支払いを済ませた頃にふと気づいた。
そういえば8月15日じゃないか、って。
それが本書。猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』だ。
本との出会いも、人との出会いのように不思議なものがあると、つくづく思う。
その意味でも本来は昨晩読了したかったのだけれど、残念ながら1日遅れとなってしまった。ただ、間違いなく言えることがある。
読んでよかった。
昭和16年夏の敗戦。つまり、1941年だ。
玉音放送が流れた昭和20年夏、その4年前の敗戦ということになる。
昭和15年9月30日、勅令により内閣総理大臣直轄の組織として「総力戦研究所」が開設される。翌16年4月、第一期研究生として召集されたのは、官僚27名(文官22名、武官5名)、民間8名、皇族1名の総勢36名。全員が30代半ばまでの若手、各分野で10年近い現場経験を持った一線級のエリートだった。
7月12日。研究生に「第一回総力戦机上演習第二期演習情況及課題」が提示される。この「机上演習」こそが画期的だった。つまり、シミュレーション。具体的な事実、当時の機密資料も含む本物のデータに基づいて、与えられたシナリオから想定される展開を予測する。36名の研究生は、<模擬内閣>を組閣して各々の役職を定め、<閣議>の場で徹底的に議論を戦わせる。そして、<模擬内閣>として導いた政策判断を所員(つまり教官)にぶつける。
重要なのは、この第一回机上演習で与えられたテーマだ。
「英米の対青国(日本)輸出禁止という経済封鎖に直面した場合、南方(オランダの植民地であるインドネシアのボルネオ、スマトラ島など)の資源を武力で確保するという方向で切り抜けたら、どうなるか」
石油に代表される資源を輸入に依存していた日本の南進政策、それは必然的に「日米開戦」を意味していた。つまり36名の若き研究員は、日本の運命を決することになる12月8日を前にして、日米が開戦すればどうなるのかを、ひたすらに考え、シミュレーションしていたということだ。そして、その結論は明らかだった。
8月27日、<模擬内閣>は第三次近衛内閣の閣僚を前に、これまでの机上演習から導いた結論を報告する。そして、その報告が終わると、当時陸軍相だった東條英機は立ち上がり、彼らに語りかけた。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。(中略)なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」
その後の現実は、誰もが知るとおりだ。
ただ、驚くべきことにその現実は、総力戦研究所で展開されたシミュレーションの結果とあまりにも酷似していた。そう、昭和16年夏の敗戦と。
それが何を意味しているのか。
日米開戦とは、そして東條英機とは何だったのか。
昭和16年夏の敗戦をもって、昭和20年夏の敗戦を回避できなかった日本とは。
そういうことが、非常に鋭く、綿密な取材に基づいた厚みを持って綴られている。
やはり、今、読んでよかった。
Wednesday, August 15, 2012
『墨を読む』
俺が幼い頃は、父親は本を読まなかった。
自宅で読書に耽っている姿は、ほとんど記憶にない。
そんな父が、ある頃から本を読むようになった。市の図書館に通い、何冊かの本を借りてきては、枕元に置いて読むという生活スタイルになっていった。それが正確にいつ頃だったかは思い出せないが、少なくとも40歳を過ぎてからだったような気がする。(自信はないけれど。)
さて、本書はそんな父の書棚に並んでいたものだ。
幾つかは、学生時代に俺が買って実家に送ってあった本もあったけれど、本書を買った記憶はない。今の状態になる前に、父が自ら買って読んだのだろう。なんとなく気になったので、返事のできない父の右肩に手を置いて、一言「持っていくよ」と声をかけて、鞄のポケットに入れて帰ってきた。
書家、篠田桃紅。その書に短文が添えられているけれど、メインはやはり書だ。
鋭くて、美しい。文字とはこうして芸術になるのか。
小さな文庫本で見て感想を書くのも失礼かもしれないけれど。
素直にいいなあと思うものが、本当に沢山あった。いい本だと思います。
Monday, August 13, 2012
心を開く建築
父はずっと自宅を事務所に建築設計士をしていた。
約2年前に病気をして、右半身麻痺と言語障害が残ってしまい、今は車椅子。寂しいけれど、母が廃業の手続きをすることになった。
言葉を失った父は今、考えていることを表現できない。
ただ、何かを考えている。目がそう語っているからね。
帰省する時に、何か気持ちが開くものを持っていこうと思った。
モノに対する執着心が全くない人なので、ちょっと悩んだのだけれど、最終的に選んだのが本書だ。坂茂。紙や竹、布といった有機的な素材を用いた建築を数多く生み出してきた日本を代表する建築家の作品集だ。
そうしたら、驚くほどの反応があった。
分厚い作品集の頁を、多少ぎこちない左手で1枚ずつ繰って、本当に食い入るように坂茂の建築を見つめていた。その姿を見ていて、父の好奇心が全くもって枯れていないということが、はっきりと分かった。
坂茂の建築は、俺も好きだ。自分が好きだから選んだということもある。
建築を生業とした親に育てられながら、建築を表現する言葉を持っていないことが本当に情けないけれど、坂茂の建築は、現代的でありながら、冷たくない感じがする。クールすぎないというのかな。寂しくない。包装された状態で、中身を確認せずに買った1冊だけれど、素晴らしい内容で本当に嬉しかった。
実は、横浜の自宅にも置いておきたくなったくらいです。
Saturday, August 11, 2012
『理不尽に勝つ』
平尾誠二さんといえば、神戸製鋼の黄金時代を築いた名プレーヤー。ラグビーを知らない人にも広く知られているという意味でも、日本ラグビー界において稀有な存在だ。現役引退後は神戸製鋼GM、ジャパン監督として日本ラグビーを牽引しながら、一方ではクールな知性を武器に、多方面で幅広く活動されている。
平尾さんは著書も多くて、俺自身も何冊か読んでいるのだけれど、当然ながらラグビーを正面から扱ったものが多い。プレーヤーとしてのみならず、指導者としての豊富な経験をバックグラウンドとして、様々な切り口から多面的にラグビーが捉えられていて、興味深い著作が幾つかある。ただ、本書に関して言えば、ラグビーそのものというよりも、ラグビーをコアのエッセンスとした「平尾式人生訓」といった感じの方が近いかもしれない。その意味では、ラグビーと縁遠い人にも読みやすい1冊だ。
平尾さんというのは、「理」の人なのかなという気がしている。
例えば本書のタイトルにもなっている「理不尽」というものが立ち塞がってきた時に、「気合」や「根性」でとにかく乗り越えようとするのではなくて、「理不尽の先に、何があるのか」「今、理不尽に立ち向かうことの意義や意味は、どこにあるのか」といったように、そこに理不尽が存在することの「理」を突き詰めることで、自身をモティベートしていくタイプなのかもしれない。ただそれは、「気合」や「根性」ありきではないというだけで、決して「気合」や「根性」を否定するものではない。ここが重要だ。
平尾さんは言う。人間は生まれながらにして不公平な存在である以上、どこかに必ず理不尽が存在するのは当然だ。でも、その理不尽こそが人を育てるのだ、と。それが本書のキーメッセージであり、その基本的なスタンスのもとで、平尾さん自身がいかにして理不尽と向き合い、そして乗り越えてきたのかが綴られている。
でも、誤解を恐れずに想像するならば、おそらく平尾さんは、本書のために自身の経験を再構成されているようなところがあるのではないだろうか。つまり、「理不尽に勝つ」というメッセージが先にあって、その立ち位置を定めた上で、改めて自身の経歴を振り返っているような、そんな感じが多少しなくもない。そして俺としては、「理不尽に勝つ」というよりも、「理不尽と感じない」という方が実感に近かったのではないだろうかと、勝手ながら想像している。
理不尽だと明確に意識しながら毎日を過ごすのは、結構な苦行だと思う。例えば自分に後輩がいたとして、毎日が理不尽の連続でしかないと嘆いていたとする。俺だったら、「逃げてしまってもいいんじゃないか」と言ってあげたい。「理不尽の先にしか幸せはないのだから、理不尽から逃げるなよ」とは、正直ちょっと言いづらい。本当に理不尽だったら、逃げる選択肢を残しておいていいんじゃないか。「乗り越えられない自分は、やはりダメなのか」といったように、不必要に自分を追い込むこともないと思う。でも、場合によっては「それって、考え方を変えると理不尽でもないのかもしれないね」というケースはあるような気がして、これだとちょっと事情は変わってくる。
だからきっと、本当のコアメッセージは、「理不尽に勝つ」というよりも、「理不尽でなくしてしまう」ということなんじゃないか。平尾さん自身も、きっとそういう「理不尽の消化」をしてこられたのではないだろうか。
なんとなくだけれど、勝手ながらそういう想像をしています。
Wednesday, August 08, 2012
『アフリカの奇跡』
ケニアでマカダミアナッツ工場を起業・経営して、マカダミアナッツ業界で世界5位、年商約30億円を誇るアフリカ有数の食品加工メーカーに育て上げた日本人がいる。
小石川高校ラグビー部出身。10歳の頃に左目を失明していた隻眼ラガーマンは、まさしく魂の赴くままに、日本を取り囲む大海を軽々と飛び越えて、アフリカの大地で自分自身の人生を煌々と燃やし続ける。そして70歳を過ぎた今も、そのバイタリティが発する強烈な輝きを失うことなく、日々挑戦を続けられている。
それが本書の著者、佐藤芳之さん。
もう本当に魅力的すぎる。ラグビー部というだけでも、ぐっと来てしまうのに。
一応書いておくと、本書は経営の指南書ではない。
日本とは文化的・社会的背景が全く異なるケニアの地で、現地人のモチベーションを巧みに引き出しながら、「アフリカ人の自立のため」の工場経営を常に意識していたという佐藤さんの経営手法は、当然ながら非常に興味深い。アフリカビジネスが注目されている今、その経営から学ぶべき点は多い。でも、やっぱり経営の本じゃない。
本書は、ヒトがメインの本だ。
「ヒトがする経営」ではなくて、「経営するヒト」の本。この順序は大切だ。
だからこそ、本書は圧倒的に面白い。佐藤さんの人間的な魅力が詰まっていて、その器の大きさは、読む側の心を強く揺すぶってくれる。
本書と並んで平積みされている多くのビジネス書は、昨今のトレンドもあって、非常に「小さなこと」を殊更クローズアップしているものが多い。「ダンドリ力」「気配り力」「質問力」といった調子で、「大切だけれど、小手先でしかないもの」が蔓延している。でも結局のところ、そんなことではないのだというのが、本書を読めばよく分かる。
最後は「器」、これに尽きるなあと。
ページを繰るたびに、素晴らしい言葉が随所に転がっている。
是非読んでみてほしい。
チマチマしたくない人に。そして、あまねく全てのラガーマンに。
最後に、本書の末尾に添えられたジェームス・ディーンの言葉を書き留めて。
"Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today."
Sunday, August 05, 2012
クーリエ。そしてブータン。
久しぶりにクーリエも買ってみた。
特別付録CD『一度は聴いておきたい最高の作曲家10人(The Greatest 10 Composers)』なんかもあって、かなり楽しめる1冊だ。読み応えがありすぎて、なかなか通読できないのだけれど、クーリエは(雑誌、編集部ブログ共に)いつも新鮮な驚きがあって面白い。
例えば、『ブータンは本当に「幸せな国」なのか』というレポートがある。GNH(国民総幸福量)という独自の指標を掲げるアジアの小国、ブータン。2005年の国勢調査において、97%の国民が「幸せ」と回答したことは有名だが、その調査がどのようなものだったかは殆ど知られていない。編集部ブログ(http://courrier.jp/blog/?p=12123)から引用してみよう。
『この質問は、自分の幸福度を「とても幸せ」「幸せ」「あまり幸せでない」の3つから選ぶという単純なものでした。5段階でもなく、4段階でもないというところが一つのポイントです。「ふつう」を選びたい人は、「幸せ」を選ぶしかないようです。
(中略)97%というのは、じつは「とても幸せ(very happy)」と「幸せ(happy)」の両方の回答をあわせた割合です。』
その後、2010年の国勢調査では全く異なる調査方法が採用され、結果として「幸せ」な国民の割合は41%にまで激減している。そのカラクリは、編集部ブログに詳しいけれど、こうしたことひとつを取ってみても、メディア・バイアスは相当なものがある。
本誌記事はそんなブータンの実情を、写真を交えながら豊富な文量で紹介していて、なかなか考えされられるものがある。「難民キャンプ」「反政府武装勢力」といった、一般的なブータンの印象とマッチしない言葉が、今、どういう意味を持っているのかということを、正面から語っている良記事だと思う。
なんてことを、付録CDを聴きながら書いてみたのだけれど、このCDもなかなか聴き応えがあっていいですよ。(まあ、クラシックはほぼ門外漢だけど・・・。)
特別付録CD『一度は聴いておきたい最高の作曲家10人(The Greatest 10 Composers)』なんかもあって、かなり楽しめる1冊だ。読み応えがありすぎて、なかなか通読できないのだけれど、クーリエは(雑誌、編集部ブログ共に)いつも新鮮な驚きがあって面白い。
例えば、『ブータンは本当に「幸せな国」なのか』というレポートがある。GNH(国民総幸福量)という独自の指標を掲げるアジアの小国、ブータン。2005年の国勢調査において、97%の国民が「幸せ」と回答したことは有名だが、その調査がどのようなものだったかは殆ど知られていない。編集部ブログ(http://courrier.jp/blog/?p=12123)から引用してみよう。
『この質問は、自分の幸福度を「とても幸せ」「幸せ」「あまり幸せでない」の3つから選ぶという単純なものでした。5段階でもなく、4段階でもないというところが一つのポイントです。「ふつう」を選びたい人は、「幸せ」を選ぶしかないようです。
(中略)97%というのは、じつは「とても幸せ(very happy)」と「幸せ(happy)」の両方の回答をあわせた割合です。』
その後、2010年の国勢調査では全く異なる調査方法が採用され、結果として「幸せ」な国民の割合は41%にまで激減している。そのカラクリは、編集部ブログに詳しいけれど、こうしたことひとつを取ってみても、メディア・バイアスは相当なものがある。
本誌記事はそんなブータンの実情を、写真を交えながら豊富な文量で紹介していて、なかなか考えされられるものがある。「難民キャンプ」「反政府武装勢力」といった、一般的なブータンの印象とマッチしない言葉が、今、どういう意味を持っているのかということを、正面から語っている良記事だと思う。
なんてことを、付録CDを聴きながら書いてみたのだけれど、このCDもなかなか聴き応えがあっていいですよ。(まあ、クラシックはほぼ門外漢だけど・・・。)
Friday, August 03, 2012
『俳句いきなり入門』
ひそかに、俳句を書いてみようと思ったことがある。
Facebookでも2回ほど書いてみた。いや、正確には2回目は季語がない川柳なので、1回しか書いていないかな。誰に語りかけるでもなく、ふと思い立って書き留めてみたつもりなのだけれど、実はパートナーは心の中で思っていたそうだ。
「やめてくれ」って(笑)。
さて、本書はやや異端の俳句入門書だ。
なかなか変わり種のイベント、公開句会「東京マッハ」の司会を務める千野帽子さんが、俳句の世界の魅力を、独特の切り口で綴っている。
まず、基本的に句作の入門書ではない。著者によれば、俳句を支えているのは作者ではなく、読者なのだそうだ。句会があるから、俳句を作る。そして、句会の魅力は投句よりも選句にある。本書は一貫して、そのスタンスで書かれている。
句会か。考えたこともなかった。
でも、本書を読んでいると、これが面白そうに思えてくる。
何が面白いか。俳句の意味というのは、作者のちっぽけな自我によって規定されるものではなくて、作者の意図を越えて、読む側の想像力が十七音の外側に無限の広がっていくことで、新たな意味が常に発見されていく。そのプロセスこそが面白いのだというのが、本書のメッセージだ。句会とは、そのための舞台なのだ。
俳句とは「自分の言いたいこと」を表現するものではないと、著者は言う。
『俳句は自分の意図にではなく言葉に従って作るものだ。だから自分で思いつかない表現が出てくる。自分の発想の外側に着陸できる。坪内稔典さんも言うとおり、感動したから書くんじゃなくて、書いたから感動するのだ。』
『「自分の意図をわかってもらう」ためなら、なぜ十七音でリズムも決まってて季語も切れも必要なこんな縛りだらけの形式を選ぶのだろう。ふつうにもっと長い文章書けばいいじゃん。』
なるほど。興味深い指摘だ。
言葉が先にあるのか。そう思いながら俳句を読んだことは一度もなかった。
これからは、多少なりとも俳句の読み方が変わってくるかもしれない。
Wednesday, August 01, 2012
グラウンドレベル
ロンドン五輪を全く見ていないので、本当は何かを書くのも憚られるのだけれど、思うところあって、女子サッカーの南アフリカ戦におけるドロー狙いのことを。
基本的に想像なので、事実に反することもあるかもしれないけれど。
一億総監督とはよく言ったもので、誰もが上からの視点で語っている気がする。
五輪はメダルが全てであり、当然の戦略だという人がいる。一方で、常に全力で臨むのが代表チームであり、意図的にドローを狙うのはフェアじゃないという人もいる。考え方は人それぞれで、正解がある訳でもない。ただ、大きくはこの2つに集約されるほぼ全ての言説が、サッカー女子日本代表チームの「あるべき姿」を「上から」、あるいは「論じる立場から」なされているように感じて、どうしても違和感を覚えてしまう。
こういう時、俺はいつもグラウンドレベルを想像する。自分自身は、残念ながら国際レベルでのぎりぎりの勝負を経験していないけれど、選手の側に立って、当事者として戦う人間の内面を想像することはできる。勿論それはあくまで想像で、正しくないかもしれない。でも、トップアスリート達の繰り広げる戦いに対して、そんな視点からの楽しみ方があってもいいんじゃないかと、常に思っている。
スターティングメンバーは、7人が入れ替わったそうだ。この7人も、4年間という時間の全てをこの一瞬のために捧げてきた人間だと思う。オリンピックでのボールタッチは、トータルでどのくらいの数になるのか分からないけれど、その1つひとつのボールタッチを最高のものにするために、4年間という時間を惜しみなく捧げることができるのがトップアスリートであり、五輪のピッチに立つ資格を掴み取るというのは、きっとそういうことなのだと思う。
ドローを狙って戦う。それは大局的に見れば、考えられる選択肢だったのだろう。そして、それがチームの方針であれば、メダル獲得という最大の目標のために、求められるベストを尽くす。まさしくプロフェッショナルの姿勢だと思う。
ただ、これは断言してもいい。7人の選手にとって、この90分というのは、ようやく「本物のピッチ」で、その機会を逃せばもう一度掴み取るチャンスは二度と来ないかもしれないような、そんな機会だったはずなんだ。彼女達だって、まさに人生そのものを懸けてロンドンに乗り込んだトップアスリートなのだから。
この90分間で、4年間の己を全て注ぎ込んだ最高のパスを。一寸の集中力の乱れもなく、完全に研ぎ澄まされた最高のシュートを。ボールタッチがない時にも、自分、そしてチームを最も輝かせる可能性を探して、最高の無駄走りを。
ピッチの上の選手達は、そう心に誓っていたはずだ。少なくとも俺は、それが選手の性だと思っている。相手が格下であるとか、既に決勝リーグ進出が決まっていたとか、そんなことは関係ない。自分自身が積み上げてきたものを、最高の形で表現したい。それができれば、その先には最高の結果が必ず待っているはずだ。そういう思いで戦いの舞台に臨むのは、自然なことじゃないか。
ただ、「ベストを尽くす」というのは必ずしも「邁進」でもなければ、「ガムシャラ」でもない。(大会全体を通じて)チームが置かれたポジション、相手との力関係、得失点差や累積カードといったバックデータを冷静に見つめた上で、その瞬間の「ベスト」というものを見極めることが必要になる。今回のポイントは、つまりそういうことなのだと、俺は思っている。
「ゲーム展開によっては、ドローでも」
この短いフレーズの意味するところは、実際にはかなり深いんじゃないか。
そのフレーズが監督にとって、そして選手にとって意味するところを、もっと丁寧に想像してみてもいいんじゃないか。更には、選手にとって意味することを知ってなお、選手達は大局のためにプロフェッショナルのプレーをしてくれると信じてメッセージを出した監督の思いを。そういう中で、ドローのゲームをマネージした選手達のことを。
正解なんてなくても。
基本的に想像なので、事実に反することもあるかもしれないけれど。
一億総監督とはよく言ったもので、誰もが上からの視点で語っている気がする。
五輪はメダルが全てであり、当然の戦略だという人がいる。一方で、常に全力で臨むのが代表チームであり、意図的にドローを狙うのはフェアじゃないという人もいる。考え方は人それぞれで、正解がある訳でもない。ただ、大きくはこの2つに集約されるほぼ全ての言説が、サッカー女子日本代表チームの「あるべき姿」を「上から」、あるいは「論じる立場から」なされているように感じて、どうしても違和感を覚えてしまう。
こういう時、俺はいつもグラウンドレベルを想像する。自分自身は、残念ながら国際レベルでのぎりぎりの勝負を経験していないけれど、選手の側に立って、当事者として戦う人間の内面を想像することはできる。勿論それはあくまで想像で、正しくないかもしれない。でも、トップアスリート達の繰り広げる戦いに対して、そんな視点からの楽しみ方があってもいいんじゃないかと、常に思っている。
スターティングメンバーは、7人が入れ替わったそうだ。この7人も、4年間という時間の全てをこの一瞬のために捧げてきた人間だと思う。オリンピックでのボールタッチは、トータルでどのくらいの数になるのか分からないけれど、その1つひとつのボールタッチを最高のものにするために、4年間という時間を惜しみなく捧げることができるのがトップアスリートであり、五輪のピッチに立つ資格を掴み取るというのは、きっとそういうことなのだと思う。
ドローを狙って戦う。それは大局的に見れば、考えられる選択肢だったのだろう。そして、それがチームの方針であれば、メダル獲得という最大の目標のために、求められるベストを尽くす。まさしくプロフェッショナルの姿勢だと思う。
ただ、これは断言してもいい。7人の選手にとって、この90分というのは、ようやく「本物のピッチ」で、その機会を逃せばもう一度掴み取るチャンスは二度と来ないかもしれないような、そんな機会だったはずなんだ。彼女達だって、まさに人生そのものを懸けてロンドンに乗り込んだトップアスリートなのだから。
この90分間で、4年間の己を全て注ぎ込んだ最高のパスを。一寸の集中力の乱れもなく、完全に研ぎ澄まされた最高のシュートを。ボールタッチがない時にも、自分、そしてチームを最も輝かせる可能性を探して、最高の無駄走りを。
ピッチの上の選手達は、そう心に誓っていたはずだ。少なくとも俺は、それが選手の性だと思っている。相手が格下であるとか、既に決勝リーグ進出が決まっていたとか、そんなことは関係ない。自分自身が積み上げてきたものを、最高の形で表現したい。それができれば、その先には最高の結果が必ず待っているはずだ。そういう思いで戦いの舞台に臨むのは、自然なことじゃないか。
ただ、「ベストを尽くす」というのは必ずしも「邁進」でもなければ、「ガムシャラ」でもない。(大会全体を通じて)チームが置かれたポジション、相手との力関係、得失点差や累積カードといったバックデータを冷静に見つめた上で、その瞬間の「ベスト」というものを見極めることが必要になる。今回のポイントは、つまりそういうことなのだと、俺は思っている。
「ゲーム展開によっては、ドローでも」
この短いフレーズの意味するところは、実際にはかなり深いんじゃないか。
そのフレーズが監督にとって、そして選手にとって意味するところを、もっと丁寧に想像してみてもいいんじゃないか。更には、選手にとって意味することを知ってなお、選手達は大局のためにプロフェッショナルのプレーをしてくれると信じてメッセージを出した監督の思いを。そういう中で、ドローのゲームをマネージした選手達のことを。
正解なんてなくても。
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