Thursday, October 22, 2015

私的オールブラックス戦プレビュー

昨日久しぶりにblogをアップしたことで、自分だけの淡い記憶としてそっと残しておくつもりだった「私的スコットランド戦プレビュー」にもアクセスが流れていたようだ。結果的には予想と全く異なる展開になってしまい、非常に恥ずかしい限りだが、もう一度やってみることにしよう。南アの視点を想像しながら、「私的オールブラックス戦プレビュー」を。

スタート地点は、スプリングボクスの「今」だ。ゲームプランの出発点は、常に「自分たち」だと思っている。相手から入ってしまった時点で、既に相手の土俵なのだから。

南アのチーム状態は確実に上がってきている。最大の要因はもちろんジャパン戦に違いないのだけれど、ジャパン戦とそれ以降で南アが変えたのは何だろうか。
もちろん、デュプレアだ。SHのスターターにデュプレアが入ることで、ゲーム全体の構成力が格段に高まった。構成力というのは、ゲームプランの遂行能力というよりも、大局的な洞察力と局面での判断力の総和といったイメージで俺としては捉えている。ゲームプランは大切だが、どこまで行ってもプランでしかない。グラウンドにおけるベスト・チョイスは、必ずしもプランと一致しなかったりもする。そういう意味では、やや抽象的な表現になってしまうが、デュプレアがリードすることで、タフ・ファイトの南アに「老獪」という新たな武器が加わった。ウェールズ戦を見ても、チームのデュプレアに対する信頼感が伝わってくる。タイトなディフェンスも戻ってきている。またいつもの妄想で申し訳ないが、俺がコーチだったらミーティングでのメッセージは決まっている。
「ジャパン戦とそれ以降では、もう別のチームだ。あの日以降、君たちは4試合でわずか2トライしか奪われていない。平均失点はわずか10点。誇るべきタイトファイトだ。それでもメディアの誰ひとりとして、日本に敗れたチームが王者に勝つとは思っていないだろう。でも、NZはまだ厳しい試合を1つもしていない。俺たちは負けて失うものはないのに、勝てる流れも、勝つ準備も出来ている。歴史に名を刻めるお前たちがうらやましいよ。」
いやまあ、HCのメイヤーはもっと直球で檄を飛ばすのかもしれないけれど。

こういう流れの時は、自分に立ち返るのが鉄則だ。自分たちがすべきことに、ただ集中する。
南アにとってそれは、相手に恐怖心とフィジカルな痛みを徹底的に植えつけるディフェンスと、デュプレアに対するあくなき信頼ということになるだろう。ゲームメイクなんて、デュプレアに任せてしまえばいい。SOのポラードとのコンビで、この2人がすべてリードしてくれる。あとの13人はただ野獣であればいい。こう書いてしまうと、これほどまでに複雑化したラグビーにおける戦略の重要性を無視した議論だと怒られてしまいそうだが、戦略面での緻密な分析と準備など、当然してくるに決まっている。このレベルの選手たちは、忘れたくても忘れられないほどに、戦略の意味も、個々のプレーに対するアジャストの仕方も、身体が覚えているから大丈夫だ。

とはいえ、本音を言うと、オールブラックスを分析できるほどの蓄積が残念ながら俺の中にないだけだったりもする。そもそも、オールブラックスのゲームも2試合(ジョージア戦、そしてフランス戦)しか観ていないので、イメージも具体的なソースも限られてくる。それでもなんとか考えてみると、NZはどことなく、ブレイクダウンにあまり人を割かないイメージがある。非常に良い意味で、スマートなラグビーだと思う。一方の南アは、アタックもディフェンスも、ブレイクダウンでは思い切り勝負してしまうのがいいんじゃないか。アタックはPick&Goのようなプレーも積極的に織り交ぜながら、「密集近辺」というよりも「密集そのものでの戦い」を執拗に繰り返していくのが効果的ではないかと思う。マイボールでもカウンターラックのように押し込んで、ラックの真上というかど真ん中をピックしていくような。まあ、あくまでイメージだけど。最近では「リサイクルベース」というのがアタックの主流になってきているが、もうそういう言葉はどうでもいい。俺たちは「パンチベース」だと。そういう開き直ったアタックを見せてほしい。ディフェンスも同様で、絡めると思ったら絡みにいこうぜと。アライメントもパンチもどちらも重要だが、悩んだらパンチを優先しようぜと。こういう匙加減でゲームを組んでいくのが、南アにとってはよいのかなという気がする。

書いているうちに、もはやプレビューでも何でもない個人的かつ希望的観測になってきてしまった。
まあでも、それでいいかな。こうして想像を膨らませながら観るラグビーもまた格別だ。

オールブラックスは本当に素晴らしく、圧倒的な強さを持っていると思う。
でも、2011年W杯の決勝だって、誰がもフランスでは歯が立たないと予想していたんだ。
最後にメイヤーに代わって、届くことのないメッセージを勝手に書き残しておこう。
「W杯の歴史にアップセットは存在する。でも、一度も苦しまずに優勝したチームは存在しない。」

Wednesday, October 21, 2015

rugby respects people, people respects rugby.

ちょっと煮え切らないものがあるので、書いてみたい。
オーストラリアvsスコットランド戦における「誤審」のことを。

まずはシンプルに、事実だけを整理してみよう。
34-32でスコットランドがリードしたまま迎えた後半38分。最後までゲームの行方が分からないぎりぎりの状況の中、スコットランドが不遇にもノックオンオフサイドを取られてしまう。結果的にこれがオーストラリアの逆転PGとなって勝負は決したのだけれど、映像による事後検証の結果、オーストラリアの選手が事前にボールに触れていたことが明らかになった。つまり、ファクトベースではミスジャッジだった。スコットランドの選手たちは、笛の直後にグラウンド上でTMOを要求したが、トライに至るような場面ではなかったために、レフリーのジュベールは要求を受け入れなかった。スコットランドにとっては悲劇的だったノーサイドの直後、ジュベールは足早にグラウンドを去り、その姿勢も多くの批判を浴びた。そして最終的に、World Rugbyはジュベールの判断がミスジャッジだったと公式に認める声明を発表した。これが一連の顛末だ。

その上で、俺のポジションも明確にしておきたい。
確かにミスジャッジだった。これは映像が残っている以上、否定しがたい事実だ。でも、あくまでミスジャッジであり、アンフェアなジャッジではなかったと思う。それでも「プアなジャッジだった」という批判はあるかもしれないが、仮にそうだとしても、この日のグラウンドはジュベールに委ねられていた。この事実は変わらない。また、スコットランドのTMO要求を受け入れなかったのも、ルールに即った対応として正当に認められるべきスタンスだと思う。ジュベールにグラウンドで両軍の奮闘を讃えてもらいたかった、というのは俺も多くの人と同じ感覚だ。ただ、World Rugbyの公式声明については、正直に言って、なくてもよかったのかなと思っている。理由はシンプルで、ジュベールはもう既に十分な辱め(制裁)を受けていたと思うからだ。

ラグビージャーナリストの村上晃一さんは、Blogの中で書いている。
http://www.jsports.co.jp/rugby/loverugby/post-2314/

「おそらく、この問題を長引かせないために早めに発表したと思われる。それはレフリーを守る意味も含まれているだろう。(中略)今回の発表は良かったと感じている。間違いは認め、今後のレフリング技術のレベルアップに生かすべきだと思うからだ。」

断言するが、レフリング技術の向上と今回の声明は関係ない。あの声明がなくても、ジュベールは心に消せない傷を負ったんだ。誰も裁定をせず、永遠の闇として白黒がつけられないままにあの瞬間が葬られたとしても、ジュベール自身の心には、「彼にとっての真実」がいつまでも残るはずだ。実際にボールに触れてしまったオーストラリアのSHフィップスが、一切を語らなかったとしても指に残る感触を消すことができないのと同じように。

ジュベールは今後、ノックオンのたびに胸のどこかに疼きを覚えることになるのかもしれない。ナショナルマッチ、それも4年に一度のW杯で、ラスト2分をわずか2点差で迎えたQuarter Finalの笛を吹く人間の矜持というのは、きっとそういうものだと思う。それで十分じゃないか。もうカタはついた。これ以上、ジュベールに何を期待しようというのか。レフリング全体の向上を語るのであれば、ジュベールという一個人をスケープゴートにする必要はないはずだ。

「レフリーも人間であり、人間はミスをするものだ。」
よく耳にする台詞だ。でも、レフリーの人間性に人間的な眼差しを向けて、「ラグビーに人間の笛を」というのであれば、当事者であるジュベール自身の心に、もっと思いを巡らせてもいいはずだ。

今回のミスジャッジは非常にセンシティブな状況下だったこともあり、多くのコメントや論評が目に入ってくるが、ジュベールの内面にフォーカスした議論は全く見られない。

人間性へのあくなき尊厳をベースに考えるならば、最も大切なのは「徹底的に潰さない」ことだと思うんだ。結論をつけて、オフィシャルにミスだったという烙印まで与えることに、どうしても意味を見出せない。プレーヤーも、ファンも、協会関係者なども含めた全ての人間が、自分の心に問いかけて、自分の中でカタをつければいいじゃないか。

俺は人間的にラグビーを楽しみたいので、例えばあの瞬間、ファンが「バカヤロウ、ジュベール!」と野次を投げ飛ばしても、「それがラグビー」というスタンスだ。むしろ、そんな光景を味わい深いとさえ思う。右手に掴んだビール缶を握りつぶして、誰にともなく怒りをぶちまける。そんなファンだって、ラグビーのことは大好きだ。スコットランドを心から愛する人たちだからこそ、沸々と燃え上がる怒りを止められない。それで、いいと思うんだ。

でも、パブに流れついて仲間としこたま飲んで、思いつく限りの文句を吐いた後、ふと考える。
もっと辛いのは、スコットランド代表として戦ったメンバー自身なんだよな、と。
誇るべきスコットランドの英雄たちは、ラグビーに携わる人間を心から愛していて、ラグビーの文化を大切にする集団だからこそ、この辛い現実を黙って受け入れていくことになるんだよな、と。
その時には、もう仕方ないじゃないか。そうして、ファンも自分自身の中で、カタをつけていく。いつまでも引き摺って正解に頓着するのは、野暮だと思うんだ。


その上で、もう1つの人間性についても触れてみたい。

今回のケースで、TMOを求める心理はよく分かる。なぜなら、テクニカルに可能だからだ。「映像があって、実際にTMOという制度が存在するのに、なぜ適用しないのか」、そう考えるのは人間の性そのもので、十分に予想された反応だと思っている。それでも、ジュベールがこのシーンでTMOを採用しなかったのは、ルールに則っている以上、議論の対象外だろう。本当の問題は、こうしたケースを鑑みて、ラグビーは今後TMOをどのように位置づけるのか、ということだ。

俺の率直な感覚でいえば、TMOなきラグビーへの回帰は、もう世界が受け入れないと思う。つまりは、ミニマムで現状維持であって、その適用領域を拡大するか否かという議論になってくるような気がする。TMOの頻発によってゲーム全体のテンポが奪われているとの指摘もあるが、TMOが「公平性の担保」のみでなく、いまやエンターテイメントの側面を持っているのも紛れもない事実だろう。それに、事実を知りたいという「人間の性」を封じ込められるとも思えない。本質的にパンドラの箱のようなものなんだ。今回のノックオンオフサイドの特徴は、映像があれば「解釈を介さずに、ほぼ一意に判定される」という点にあるが、こういう類のプレーは、基本的にTMOとの相性がいいはずだ。この手のプレーを対象とするか否かが焦点の1つで、自分自身のスタンスはまだ明確に決めかねているが、いずれにせよ難しい議論だと思う。

でも、それでも、2019年に日本で笛を吹いてくれるのは、やっぱり人間だ。
ラグビーに、そしてグラウンドに立っている全ての人たちに、心からリスペクトを。

Wednesday, September 23, 2015

私的スコットランド戦プレビュー

スコットランド戦は、日本時間で本日(9/23)の夜。
さてと、ちょっと予想してみようかな。
いや、正確には希望的観測に基づく推論なのだけれど。

まず、スコットランド。
おそらくは極めてオーソドックスなラグビーをしてくるんじゃないか。複雑に仕込まれたプレーというよりも、シンプルに強さを出すことを考えてくるような気がする。ジャパンを意識するとなると、アジリティとエリアの2つを奪い取るのが基本的な戦略になってくるだろう。アジリティという観点では、パワープレイ。いわゆる重馬場の勝負。モール等もそうだが、ブレイクダウン全般に拘ってくるのではないか。そして、ボールを下げないアタック。ジャパンはディフェンスの出足が早いので、特に前半はボールを下げずに、個として強いプレーヤーをシンプルに当ててくると思う。ジャパンが中3日という点もふまえ、徹底的に削りにかかるというのが、私の個人的な見立てだ。ただ、これはおそらくジャパンからすると守りやすい。よって、結果的には我慢比べになっていくかもしれない。
もう1点のエリアマネジメントについては、「五郎丸に蹴らせない」というのがまずはポイントになってくるだろう。つまり、五郎丸にハイボールを上げるか、もしくは少なくとも彼の正面には蹴らない。キック自体は、特に自陣では多用してくるような気がするが、どのような種類のキックを、どこに落としてくるかは見所の1つだろう。南アの敗因の1つは、五郎丸のキックによって自陣での時間帯が想定よりも長くなり、かつそこでペナルティが続いたことだとおそらく考えていて、ブレイクダウンでの徹底勝負を厭わないといっても、自陣ではNo Penaltyが最優先になってくるはずだ。

対するジャパン。
おそらくロースコアゲームになるという覚悟をしていると思う。なぜなら、スコットランドのようなチームが、対戦相手に対する最大限のリスペクトと周到な準備をもってゲームに臨んでくるということの意味を、誰もが知っているからだ。ただ、それでもジャパンは特に気負うことなく、ベストパフォーマンスで戦ってくれると思う。もうこのゲームは、最初から格など関係ない。
ディフェンスは、南ア戦でかなり計算できている。ここはプランを細かくアジャストしていくというよりも、選手交替を含めて、80分間をいかに我慢するかがポイントだと思う。その意味では、やはりエリアマネジメントが肝だ。キックの効果的な活用は、ジャパンにとっても生命線になる。
アタックは、予想するのが難しい。天候にも依存するだろう。ただ、クイックテンポの重要性は当然ながら変わらない。サインプレーは、まだ隠し球を持っているような気がするけれど。ちなみに、個人的に注目しているキーマンはセンターの田村だ。小野の軽傷がなかったとしても、かなり面白い人選ではないかと思っている。なぜなら、(おそらく、非常によい意味で)ふてぶてしいからだ。こういうゲームは、15人全員が真摯に自分たちのスタイルに集中しながらも、どこか不敵なプレーヤーがいた方がいい。時にそれは、リーチでも五郎丸でも、あるいは田中でもないだろう。

前半、まずはジャパンがスコアで先行する。心からそう願っている。
早い時間帯にトライを奪えればベストだが、ペナルティでも何でもいい。そして、10-3くらいのイメージで前半を折り返す。2トライまで行ければ、前半で15点が見えてくるが、まずは10点がターゲット。
こうなったら、ジャパンだ。スコットランドはスターターのうち12人が初のW杯出場。ビハインドでハーフタイムを折り返すと、若さが強引さに変わる。もちろん、そこをコントロールする老獪なリーダーが、チーム内にはいるはずだ。でも、後半10分を越えてきた頃に、リーダーシップでの統率が徐々に切れてくる。戦略的パワープレイが焦燥的パワープレイにその様相を変えた頃が、福岡で勝負するタイミングだ。ここからきっと、ゲームは大きく動き出す。

もう、ここまで来ると予想でさえなくなってきた。
いずれにせよ、きっとジャパンは「特別でない」ゲームをして、誰もがもはや特別と思わないような展開で、勝利の雄叫びを上げてくれるはずだ。

Sunday, August 31, 2014

コーディングレス、そしてコーダー。

Fujitsu Software Interdevelop Designerに関する日経記事がきっかけで、という訳でもないのだけれど、コーディングという行為について、コードを書いたことがない素人が思うことを。

基幹業務を対象に、一定の日本語書式で作成された設計書からプログラムを自動生成するソフトウェアで、システム開発費の4割を占めるプログラミング費用が不要になるという日経記事は、様々な意味で反響があったようで、ざっと検索した限り、概ねネガティブな評価が多いようだ。テストデータの生成も可能といった点をポジティブに捉えたコメントも一部あるものの、「設計書作成が実質的にプログラミングと変わらない」、「この怪しいツールの後始末で大量のSEが泣かされる」といった酷評が総じて目立っている印象だ。まあでも、それ自体はどうでもいい。考えたいのは、このツールの実用性ではないからだ。そんなものは、1年もすれば歴史が証明することになるのだから。

俺が思うのは、それでも「コーディングレス」というのは1つの志向性であり続けるのかなということだ。イノベーションは、往々にして非効率や不便、あるいは素人からみた困難や分かりづらさが起点となって生まれる訳で、現在のシステム開発における「コーディング」という行為に、イノベーションの種がないとは思えない。一方で、コードがビジネスをある程度まで規定するようになっている昨今、業務ニーズと戦略さえあれば、コーディングレスでアプリケーションを作成できる世界というのは、ITの理想郷として、ずっと存在するのかなという気がする。その実現が、数年後なのか、十数年後なのか、あるいは数十年後なのかは分からないけれど。

でも、ここでもう1つの観点が頭をもたげてくる。
日経のヘッドラインは、プログラマーという職種の今後にどこか消耗戦の雰囲気を想起させたけれど、どちらかというと、プログラマーの重要性は今後むしろ高まっていくのではないだろうか。いや、こう書くとやや誤解を招くかもしれない。より正確には、ハイスキルなごく一部のプログラマーの存在感が、(この世界における)他の職種を圧倒していくのかなというのが、なんとなく感じていることだ。

コーディングレスといっても、バックエンドでコードを自動生成する訳で、誰かがコードを書いているという事実は変わらない。コードを自動生成するためのコードを、より高い次元で、より生産的かつ効率的な方式で、より美しく、より汎用的に書ける人間がどうしても必要になってくる。宇宙の果てを考えると、果ての先が分からなくなるのと同じように、コーディングレスの世界を考えていくと、バックエンドに不可知の領域が横たわっているのは当然で、あまりにこの志向性が強くなりすぎると、最終的にはバックエンドを司る人間が、かなりのパワーを持つことになるような気がしないでもない。

そういえば先日、ある業界イベントで"Infrastructure as a Code"という考え方について、40分ほどの講演を聴いてきた。オープンソースの構成管理ツールであるShefを活用して、システム基盤をソフトウェア的に管理するというものだ。Shefでは、Recipeと呼ばれる基盤の構成情報をRubyプログラムで記述して、サーバーに自動実行させるのだけれど、プログラムに管理させるということは、プログラムの品質が管理品質に直結するということだ。まあ、俺自身はエンジニアでもないので、そこに求められるプログラムのレベルもよく分からないけれど、Shefに限らず、ソフトウェアで諸々の挙動が制御されていく世界では、機能的に(そしておそらくは、それ自体としても)美しいコードを書ける本物の職人が、極めて重要になっていくはずだ。

Fujitsuの取り組みがどう転ぶかは、静かに見守っていればいい。
でも、コーダーは大切にした方がいい。少なくとも、世界を握るかもしれない特別なコーダーと、その卵のことは。

Wednesday, August 20, 2014

『The DevOps』、水天宮前を歩きながら。

The DevOps 逆転だ!究極の継続的デリバリー
  • 作者: ジーン キム,ケビン ベア,ジョージ スパッフォード,長尾 高弘,榊原 彰
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2014-08-18

  • 朝。地下鉄に揺られて会社に向かい、水天宮前で降りるといつもの光景が待っている。
    改札を出て比較的長めの動く歩道を越えると、必ずぶつかるのが渋滞だ。そこから先、4B出口までの階段が狭すぎてボトルネックになっている。そんな訳で駅員さんは毎朝、動く歩道の終端で通勤者を誘導している。「申し訳ありませんが、左側に大きく迂回ください」って。終端付近で渋滞してしまうと、動く歩道から降りられず危ないからだ。

    でも、ダメなんだよ。毎朝、心の中でひとり呟いてしまう。
    出口では解決しないんだ。動く歩道の入口をコントロールして、流量制限しないと。階段幅は、急には広がらないのだから。

    さて、本書だ。
    書評を書くのは随分久しぶりだが、個人的になかなか興味深かったので紹介したい。
    パーツ・インターナショナル社の社運を賭けた新システム開発、「フェニックス・プロジェクト」をめぐる幾多の困難を、新任VP(Vice President)としてIT運用を担うビルが乗り越えていく物語。有名な『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著)のシステム開発版と思ってもらえば、ほぼ問題ない。ITプロジェクトにまつわる典型的な問題を、小説という形式の中でデフォルメすることで、分かりやすい形で提示した著作だ。それでもIT特有の用語が多く、業界関係者でなければ読みづらい部分はあるかもしれないが、一方で、システム開発に携わった経験がある人間にとっては、楽しく読める内容になっていると思う。ちなみに、書店で見かけて購入を決めた理由の1つは監修者だ。個人的にもお世話になっている榊原彰さんと来れば、買わない訳にはいかない。それにしても、こうした著作の監修までされているのには少々驚いた。

    この形式の先駆的著作といえば、やはりなんといっても『ザ・ゴール』なのだが、本書のストーリー自体においても、『ザ・ゴール』でエリヤフ・ゴールドラットが提示した制約条件理論が、その中核となっている。主人公のビルにとっての事実上のメンターとして、彼を成功へと導くエリックは、「4つの仕事」、「3つの道」というフレームワークを道標として、プロジェクトにおけるボトルネックを見極め、適切にコントロールすることで、スループットを最大化させるために示唆を与えていく。詳細は本書を読んでもらいたいが、極めて合理的な考え方だと思う。『ザ・ゴール』の制約条件理論が、必ずしも工場の製造工程だけに該当するものではないのは、まったくもって自然なことだ。システム開発を工場とのアナロジーで考えるのも、目新しいアプローチでは決してなく、極めてオーソドックスなものだと思っている。その意味で本書の価値は、理論的な側面からの斬新性にある訳ではない。どちらかというと、エンターテイメント性と分かりやすさだろう。

    ただ、本書を読んでいて、改めて考えてしまった。
    ゴールドラットの制約条件理論がシステム開発にも十分に適用できるように、システム開発における改善アプローチは組織運営全般にも適用できるのではないかと。
    この物語が提示する課題認識に共通するものは、日常の中にいくらでも感じ取ることができる。ボトルネックに手をつけなければ、それ以外の部分をどれほど改善してもスループットは上がらない。一方で、特定のワークセンター(あるいはキーパーソン)がボトルネックとなる理由の一端は、「自分がいなければ廻らない状況」を彼ら自身が(意図的かどうかは別として)作り出してしまっているからだ。ボトルネックのリソースは、徹底してスループットを最大化するための活動に費やされなければならない。どれも、至るところに転がっている話じゃないか。開発じゃなくても、たとえば営業活動でも同じように。

    本書の主題はシステム開発プロジェクトであり、この流れの中でキーワードとなるのがDevOpsだ。Dev(elopment)Op(eration)s、つまり「開発と運用の一体化」だ。もちろん、曲がりなりにもこの業界で仕事をしている1人として、DevOpsというコンセプトには非常に興味を持っている。「IT業界ではお馴染みのバズワードじゃないのか」といった向きもあるのもしれないが、とやかく御託を並べるのは一旦先送りにして、素直に乗っかってみたいと個人的には感じている。理由はシンプル。それが本質的にはプロダクトでもテクノロジーでもなく、「人間のふるまい」にフォーカスしたコンセプトなのかなと思うからだ。結局のところ、人間が一番面白い。いつだって、中心にあるのは人間そのものだ。

    ただ、本当に考えたいのはDevOpsというよりも、"Something like DevOps"なのかもしれない。
    組織で生きている以上、組織を考えない訳にはいかないからね。水天宮前の階段のように、解消できないボトルネックばかりではないはずだ。


    ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
  • 作者: エリヤフ・ゴールドラット,三本木 亮
  • 出版社: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2001-05-18

  • 継続的デリバリー 信頼できるソフトウェアリリースのためのビルド・テスト・デプロイメントの自動化
  • 作者: David Farley,Jez Humble,和智 右桂,高木 正弘
  • 出版社: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2012-03-14


  • Saturday, April 19, 2014

    到達する場所は、きっと違う。

    アーティストになれる人、なれない人 (magazinehouse pocket)

  • 作者: 宮島 達男
  • 出版社: マガジンハウス
  • 発売日: 2013/9/24

  • 書店をふらついていたら、偶然目に留まった1冊。
    宮島達男×大竹伸朗とあったら、やっぱり買ってしまう。ほとんど知らない現代アートの世界にあって、以前からどことなく好きなんです。この2人の作品が。

    書籍としてのクオリティは、それほどでもないかもしれない。対談集というのは、基本的にやや散らかってしまうもので、致し方ない部分もあるかなと。
    ただ、大竹伸朗の素晴らしい言葉に出会えただけで、俺としては満足している。わずか1つのフレーズにこそ価値があるような書籍があっても、いいじゃないか。
     俺、そんな場所を目指してます。 

    人から何か言われてやめてしまうとしたら、そこまでだということです。(中略)ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。(中略)だけど、大事なことは、その『持って生まれたもの』がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。『持って生まれたもの』がなかったとしても、もしそれを50年間弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。

    Sunday, March 16, 2014

    お勧めの本を。

    久しぶりに、本のことでも。
    2014年も既に3ヶ月が経とうとしているけれど、なかなかいい本と巡り合えている。HONZで活動していた頃の積み残しなんかも、ゆっくりと読み進めていて、あの頃のおかげで自分の幅が広がったなあと痛感している。今更感をかなぐり捨てて、旧刊を手に取る頻度も増えてきて。
    まあでも、読むペースは相変わらずで、なかなか上がらない。通読しようと思い過ぎているのかも。速読。乱読。拾い読み。色々と読み方はあるにせよ、娯楽としての読書において、あまりに効率ばかりを追求するのも本末転倒な感じがするので、ほどほどでいいのかも。

    そんな訳で、この2ヶ月ほどで読んだ本から、お勧めの3冊を紹介したい。

    まずは、国際社会における人道援助の現実に迫った衝撃的なノンフィクション。

    クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実
  • 作者: リンダ ポルマン, Linda Polman, 大平 剛
  • 出版社: 東洋経済新報社 (2012/12)
  • 発売日: 2012/12

  • 人道援助というものを、ヒューマニズムだけで考えることは、もはやできない。人道という名目のもとで投入されたカネや援助物資が、結果的に内戦を助長・長期化させてしまうことがあるという冷酷な現実。あまりに悲劇的な歴史の実例。でも、目を背けてはいけないのだと思う。非常に考えさせられる1冊だというのは、間違いない。

    フェアトレードのおかしな真実――僕は本当に良いビジネスを探す旅に出た
  • 作者: コナー・ウッドマン, 松本 裕
  • 出版社: 英治出版
  • 発売日: 2013/8/20

  • 本書にも、ある意味では『クライシス・キャラバン』が指摘する課題と同じような構造が垣間見える。書影にもあるように、原題は『Unfair Trade』。フェアトレードの制度設計が、必ずしも発展途上国の1次生産者を保護していないという現実を、様々な事例から検証していくノンフィクションだ。このこと自体は既に広く知られているものだと思うけれど、本書は単純なフェアトレード批判に終始している訳ではなく、幾つかの事例を通して、フェアネスのあるべき形を模索しようともしている。

    トップ・シークレット・アメリカ: 最高機密に覆われる国家
  • 作者: デイナ プリースト, ウィリアム アーキン, Dana Priest, William M. Arkin, 玉置 悟
  • 出版社: 草思社
  • 発売日: 2013/10/23

  • 9.11が変えたアメリカの安全保障。膨大な予算が最高機密情報網に惜しみなく投入され、誰もその全体像を把握できないほどの規模とスピードで、組織体系が膨張していく。「テロとの闘い」というある種の「錦の御旗」のもとで、運用が追いつかないことが自明にもかかわらず、その膨張に歯止めがかかることはない。「トップシークレット・アメリカ」は、何を守っているのか。いや、そもそも本当の意味で守れているのか。コストだけではない「制度としての欠陥」に、今更ながら驚かされる。

    Monday, January 13, 2014

    大学ラグビー決勝。

    ラグビー大学選手権決勝。
    帝京大 41―34 早稲田大(13:00K.O. @国立競技場)

    タマリバ時代の仲間3人と久しぶりに再会して、皆でTVでの観戦となった。
    個人的な印象だけでいえば、帝京大の完勝だと思う。最終スコアは7点差といっても、実際には危なげない勝利だった。早稲田大の関係者には申し訳ないけれど、底力の差はもっとあるのではないだろうか。ただ、これが選手権決勝だ。きっとそれは、"One of them"では語れないゲームなのだと思う。「それでも帝京大は終始落ち着いていた」とか、「慌てる様子もなかった」といった論評が既に多々見られているけれど、このゲームが特別だというのは、帝京大にとっても変わらない。彼らもきっと死に物狂いだったと思う。でも、それでいいじゃないか。冷静と狂気は、必ずしも相反しないのだから。

    ただ思うのは、そういうアンビバレントな状態を上手にマネージする術として、帝京大は1つひとつのプレーと戦術から入っていくアプローチを明確に志向しているような気がする。「狂えよ」という思想がまずあって、その先に「コントロールされた狂気とは、どのようなプレーなのか」というように発想が展開していくのではなくて、とにかくまずは執拗にプレーのクオリティを追求する。ヒット、そしてブレイクダウン。1mの戦いに、フィジカルと技術の双方から具体的にこだわっていく。そこが自分たちの寄って立つ場所だと分かっているからこそ、譲らない。その「譲らなさ」がいつしか冷静と狂気のアンビバレンツを超えていく。帝京大のチーム作りでは、その根幹において、こうした展開が志向されているような気がする。

    早稲田大にとっては、やはり中盤でのペナルティが痛かった。前半の反則数は、両チーム共に5つと変わらない。後半に至っては、帝京大の方が明らかに反則数が多かった。ただ、問題は数ではなくてフェーズ、そしてエリアだ。早稲田大が前半に犯した5つの反則のうち、3つくらいは中盤エリアでのもので、これだけで自陣22mラインの内側でプレーせざるを得ない時間帯が大幅に増えてしまった。スクラムの反則についてはちょっとコメントできないが、このあたりがもう少しコントロールされていれば、もっと面白いゲーム展開になっていたような気がする。

    アタックに関して言えば、準決勝の筑波大戦よりも遥かによかったと思う。筑波大戦を観た時には、正直に言って、「早稲田大からは、もはやストレートランは消えたのか」と思ってしまうほど、ライン展開に魅力を感じなかったのだが、今回の決勝では、例えばWTBの荻野選手が見せたようなプレー、つまりラインの展開力というよりも、小さなダミーと積極性でどんどん切りに行くようなアタックが見えてきて、これが奏功していたような感じがする。WTBを大外で使うというのはある意味では定型化されたラグビー観でしかなくて、結局のところ、「個が活きる場所がどこにあるのか」をベースに構成されたアタックの方が、相手にとっては遥かに脅威なのだと思う。1人のラグビーファンとして素直な気持ちを語るならば、来シーズンはそんなアタックをもっと見せてもらいたいなあと思っている。

    まあでも、やはり決勝戦だ。総じていいゲームだった。
    タマリバ時代の仲間で、今は日本ラグビー協会の仕事をしている勝田から、色々な視点でゲームに対するコメントを聴かせてもらえたのも、個人的にはすごく楽しかった。ラグビーの見方や着眼点も人それぞれで、様々なバックボーンを持った人間とラグビーを話していると、それだけで新たな気づきがあるものだ。タマリバ時代の出会いに、改めて感謝しないと。

    うん、やっぱりラグビーは面白い。
    間違いなく、世界で最も面白いスポーツだ。

    Sunday, January 05, 2014

    『コンテナ物語』

    昨年7月に勤務先で異動になってから、激減したものがある。
    それは、本にふれる量。読書量そのものも大幅に、もう悲しくなるほどに減ってしまったのだけれど、それだけではなくて、例えば書店に足を向けること自体が激減した。勤務形態の変化もあって、それまで毎週欠かさずに覗いていた日本橋丸善さえすっかりご無沙汰になってしまい、静かに読み続けているHONZと、その他幾つかの書評サイト程度しか、自分の中で本へのアクセスをキープできなかった。
    そのことは、ちょっと後悔している。

    そんな訳で、「失われた6ヶ月を取り戻すつもりで」ということでもないのだけれど、この年末年始は、久しぶりに幾つかの本を読んだ。2013年12月中に読み始めていた本もあって、旧年中に読了できなかったのは多少残念ではあるのだけれど、結果的にそれが、本年の「読了初」をかなり幸福なものにしてくれたので、まあいいかなと思っている。

    元旦の夜を満たしてくれた本年の1冊目は、昨年から通勤鞄に忍ばせていた本書だ。

    コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

  • 作者: マルク・レビンソン, 村井 章子
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2007/1/18

  • さすが成毛眞さんの「オールタイムベスト10」にランクインする名著。最近ではdankogaiもレビューを書いているが、間違いなくお勧めできる1冊だ。コンテナの発明が、ロジスティクスの分野にもたらした革命と、それが真の意味で革命となるまでの軌跡が、非常に精緻に綴られている。なかなか集中して読む機会が取れなかったのだが、一旦読み始めたら、もう一気にページを繰ってしまった。

    本書を読んで感じたのは、dankogaiのいう「パンドラの箱」というやつは、結局は一度空いてしまえばもう元に戻ることはない、ということだ。コンテナリゼーションによるロジスティクスの標準化、効率化、自動化、省力化はまさに革命的で、コンテナが本格的に登場する以前の世界では考えられなかった決定的なコスト削減を実現することになるのだが、同時にそれは、従来型スキームの崩壊を意味していた。例えばコンテナに仕事を奪われることになった港湾労働者達の組合や、海上輸送における価格統制、港湾開発予算の策定と回収スキーム、鉄道やトラックといった他の輸送形態との競争と協業。こうしたあらゆる領域で、まさに「スキーム」が崩壊し、再構成されていく。後世からみれば必然の流れであったとしても、当事者たちの抵抗は本当に凄まじい。そして、もう一方の当事者、つまり革命を仕掛ける側の人間たちも、必ずしも順調に新たなスキームを立ち上げられた訳ではなくて、数限りない失敗を繰り返し、少なくない人間達が、「従来型」の人間達とは異なる形で、身を滅ぼしたりもしている。それでも、コンテナリゼーションはもはや不可逆のトレンドだった。時に停滞があったとしても、頑強なレジスタンスの壁に何度となく跳ね返されたとしても、もう戻れない。

    イノベーションというのは結局のところ、そういうものなのかもしれない。
    それは、たとえその波に綺麗に乗れないと分かっていても、抵抗の先に未来がないものであり、推進者の類稀なる行動力と(結果としての)栄枯盛衰によってしかその種を実らせることができないものなのかもしれない。

    Saturday, January 04, 2014

    Our year

    三が日が終わろうとしている。
    新たな1年も既に3日が過ぎ去ってしまったということだけれど、そもそもベースの価値観として、「特別でない毎日を、特別なものにするために、毎日を過ごす」ことが大切だと考えている俺としては、突き詰めて言ってしまうと、三が日さえ特別なものという訳でもなくて。この3日間に限らず、2014年という1年間を、「365回の今日の連続」と捉えて、今日を大切にしていきたいと思っている。

    まあでも、そうは言いながらも、今年の抱負というか、「今、思うこと」を言葉にしてみようかなと。

    昨年の暮れ、ある親友に宛てた年賀状を書いていてふと浮かんだ言葉がある。
    "Our year"、「俺たちの年」というやつだ。
    昨年末に突然浮かんできたというよりも、実際にはここ1~2年間はずっと頭の片隅にあったことなのだけれど、一個人としての自分自身をもっと成長させることもさることながら、ここ最近、「俺たち」で何かをしていきたい、という思いが少しずつ強くなってきている。俺たち、というのは言葉を変えると「世代」だ。この世代で、動かしていきたい。最も身近には仕事(更には、その延長としての会社)を、ということなのだけれど、それだけではなくて、プライベートの活動であったり、コミュニティであったり、様々な場所でそう感じることが増えてきた。

    昔は、「世代」という意識が全くなかった。もう10年以上も昔のことなので記憶が曖昧だが、「若者には、もはや『世代』という感覚がない。なぜならば、世代で(「別世代」という)共通敵と戦う時代ではなくなったからだ」といったような主旨のエッセイを読んだことがある。おそらくは村上龍のエッセイだったと思うのだけれど、当時の俺は、その言葉を比較的素直に受け入れていた。いや、受け入れていたというよりも、実際には「熱病」に近かったのかもしれない。世代という概念そのものを否定する感性に、どこか魅力を感じていたのだと思う。

    それなのに今、当時から10数年の月日を経て、30代後半に差し掛かってきた俺は、親友に宛てた年賀状に書いている。"Our year"だと。俺たちの1年にしようぜと。それって何なのかなと、久しぶりに帰省した愛知の実家で、家族との年末年始をゆっくりと過ごしながら、自分なりにつらつらと考えていた。

    そして一旦の着地点として行き着いた結論は、ごく当然のことだった。
    「世代」というのは、共通敵との対峙によって確立されるものではなくて、仲間の延長概念なのだと。同じ頃に産まれて、同じような場所で過ごしてきた仲間であったり、まさに今、同じ場所で生きている仲間がいて、そういう仲間への意識を敷衍していくと、自分の知らない別の場所にも、自分と同じ頃に産まれて、大きな意味では自分と同じような葛藤を抱いている人がいるのだという当たり前の事実に行き着いていって、そうして気づいた時には、小さな仲間意識だったものが、世代という意識の種とでもいうようなものになっていくのではないだろうか。

    共通敵は、いなくてもいい。
    社会学者がよく言うような「大きな物語」なんて、なくてもいい。
    同じ頃に、同じような場所で、同じように自分自身と向き合ってきた仲間がいて、そういう仲間と"Our year"を積み重ねていくことが出来たならば、それだけでいいじゃないか。たとえ今の居場所が人それぞれであっても、そういう仲間は間違いなくいるのだから。

    そして、そういう仲間に恵まれただけでも、すごく幸せなことなのだから。

    Sunday, November 03, 2013

    何をミスとするのか

    昨晩は寝つきが悪かったので、あきらめて色々と考えてみた。
    ジャパンとオールブラックスとの一戦のことを。
    録画観戦なので、秩父宮で直接観られた方からすると肌感覚で違う部分があるかもしれないけれど、とりあえず個人的な感想として綴ってみようかなと。

    「ミスをしたら、勝てない」
    ゲーム全体の印象としては、つまるところ、そう感じた人が多かったのではないだろうか。もちろん、ミスが全てではないのは明らかだけれど、一方で、単純なミスがそのまま失点に繋がってしまい、自ら流れを手放してしまったのも事実だ。そのこと自体は、やはり惜しまれてならない。

    ただ、このゲームを観ていると、思わずにはいられなかった。
    「そもそも、何をもってミスとするのか」ということを。

    具体的に、想像してみたい。
    ハーフタイムを終えて迎えた後半のピッチ。自分たちよりもサイズに優れた格上を相手に、22点差を追う展開。劣勢でも、チームはタイトにプレーしていたとする。まずは3トライ・3ゴールの射程圏に入りたい。そのためには、辛くても仕掛けよう。テンポを上げて、フェーズに拘って。でも、簡単じゃない。我慢のポイントで、FWが枯れてくる。でも、今なんだ。ラックの最後尾に顔をのぞかせたボールをハーフが掻き出して、これ以上ないテンポで走り込んできたペネトレーターにパスアウト。でも、そのフェーズで彼は孤立して、ボールを奪われてしまう。

    誰のミスだろうか。そもそも、ミスだろうか。
    孤立したランナーのミスなのか。サポートが遅れたファースト・アライバル・プレーヤーのミスなのか。実はアライバルさえ出来なかったフローター、あるいはボールキープに意識を切り替えることができなかった近場のバックスのミスだろうか。もしかすると、孤立するリスクがある選手にパスアウトしたハーフの判断ミスかもしれないのだろうか。

    この日のジャパンがそうだった、と言いたい訳ではない。あくまで想像のシーンだ。でも、この試合を観ていて俺は、「ミスに対する目線」ということを考えずにはいられなかった。

    ノックオン。ハイパントのキャッチミス。確かに惜しまれるし、残念ではあるのだけれど、個人的には「たぶん、そこじゃない」という気がしている。田中史朗は、FWが枯れていても、消耗度が脳裏にインプットされていても、自分の理想のパスを出そうとしたのではないかなと。ヘンドリック・ツイはスクラム、ラインアウトで仲間が必死のファイトをしていることを十分承知の上で、ブレイクダウンに言い訳をしようとはしなかったのではないかと。例えばそういう勝手な想像を、どうしてもしてしまうのだ。今のジャパンは、ミスに対する目線をよりシビアにしていくチームのはずだから。

    NZのディフェンダーは、孤立したジャパンのランナーをきちんと仕留めると、ほぼ確実にターンオーバーに持っていく。彼らにとって、このシチュエーションでボールを奪うのは当然のことで、「ここで奪えないようならば、それはミスである」という目線が当たり前のように共有されている。現場に行っていなくても、きっと間違いないだろう。プレーがそう物語っていたからだ。

    自分にとってのラグビー観も、そうやって捉え直していきたい。
    ミスしたら、勝てない。でもきっと、それだけでは思考停止なんだ。
    ミスに対する目線をどこに持つのか。
    そこに思想と、日々の練習に裏付けられた確かな信念が必要なんだね。

    Sunday, October 20, 2013

    アタックの生命線

    学習院大とのゲームには、本当に多くのポイントが詰まっているのだけれど、もう1つだけ書いてみたい。今年のチームが標榜する"Attack"について。

    前半9分40秒頃。ハーフウェイライン左サイドのマイボールLO。1次攻撃で7番を使ってグラウンド中央でラックにすると、そのまま順目に展開。12番が綺麗なタイミングで放った柔らかいパスがFBに渡ると、20m近くのビッグゲインとなって、右サイドライン際で再度ラックフェーズ。ここで、ラックからボールを捌こうとしたSHに対して、ライン際のショートサイドにいた相手の4番が飛び出してきて、パスモーションに入ったSHを浴びせ倒す。結果的にはオフサイドだったので、チームはタッチに蹴り出して、敵陣ゴール前でマイボールLOのチャンスを得た。

    このシーンは、おそらくチームで総括されていないのではないだろうか。このシーンを繰り返しチェックした部員は、何人いるだろう。マイボールのPKを得たのだから、まずはOK。その後のラインアウトの方が重要。そして結果的に、ここからの一連でチームはトライを挙げたのだから、基本的にはナイスアタック。そう感じている選手も少なくないのかな、という気がしている。

    でも、考えてみる価値はあるんじゃないか。
    仮に今、一部で戦う青学大や成蹊大と戦っていたとして、20mを越えるロングゲインを許した直後のラックで、自分たちはオフサイドできるだろうか、って。

    あの時、ライン際からオフサイドで飛び出してきたのは、相手の4番だ。彼は最初のLOではフローターで、順目を押さえやすかったのは事実だけれど、突進するこちらのFBを必死に追いかけて、そのまま20m後方のラックサイドにポジショニングした。一方で、このラックで仕事をした味方のフォワードは何人いただろうか。ゼロだ。1人もいない。20m以上ラインが押し上がっているのに、そのラックに誰も到達していないんだ。こちらの両LOは、どこにいただろうか。1次フェーズで突っ込んだ7番はともかく、6番はどこにいるんだ。1次のラックは、ほとんどスイーパー不要でクリーンに捌けているはずなのに。SHの到達も、遅い。このフェーズを活かすのが今年のチームの命綱だと思っているならば、相手のオフサイドなど関係なく捌くべきボールだ。ラックからボールがこぼれ出た瞬間に、ダイブでも何でも構わないから、絶対にパスアウトしてほしい。いや、しないといけない。そういうフェーズだったはずなんだ。

    もちろん、SHだけを責められない。相手の4番がオフサイドできた理由を考える必要がある。これも、俺の中でははっきりしている。20m以上ゲインした直後でさえ、ラックを前で組めていないために、オフサイドラインが下がらないんだ。ラックの最後尾が、まったく動かない。だから学習院大は、ピンチの局面においても、きちんとスタートを切れる。時にそれがオフサイドであっても。

    残されたゲームは、あと3つ。
    誰もが今年の”Attack”を体現したいと思っているはずだ。でも、その時に生命線となるのはきっと、SOのパスでもなければ、サインの精度や選択でもない。

    ブレイクダウン。特にラックへの反応力と集中力。
    いや、もっと単純でいい。まずは、誰よりも早くラックに到達すること。
    ただこれだけを考えればいいと、俺は思います。

    「小さな瞬間」に全力を

    再び対抗戦のことを。
    もう1ヶ月前のゲームなのだけれど、学習院大との開幕戦をチェックしてみた。
    次のゲームが一橋大ということを考えると、最も参考にしやすいのかなと。
    そうしたら、色々と見えてきた。

    今シーズンのチーム目標を考えると、絶対に負けられないという決意を胸に臨んだ開幕戦だったのだと思うけれど、ファイナルスコアは20-26。前半を20-21の僅差で折り返すも、後半3分に追加点を許してしまい、そのまま逃げ切られてしまった。このゲームは、選手たちの中でどのように総括され、そして今、この惜敗から何を得ようとしているのかなあ。もしかすると、先日の明学戦以上に、今、見返した方がいいゲームなのかもしれないと、俺は思うのだけれど。

    ゲーム全体をみれば、前半7分に失ったトライがターニングポイントだったかもしれない。自陣10mよりやや後方、左サイドの相手ボールLO。相手スローが乱れた後のこぼれ球を確保して展開すると、グラウンド中央あたりでラック。これをSHがクイックにパスアウトすると、SOから右オープンにキックする。でも、このボールをカウンターされて、最後は相手WTBがライン際で上げたショートパントの処理をミスしてそのまま拾われ、ポール下まで運ばれてトライとなった。

    キック処理のミスは、結果論。惜しまれるけれど、どうでもいい。
    それよりも、チームで意見交換はされたのかなあ。

    あのトライがポール下でなければ、前半が20-19だったかもしれないことについて。

    相手のWTBが突進したのは、左のライン際。ショートパントの落下地点も、こぼれ球を拾った場所も、もちろんライン際。でも彼は、やすやすと正面にトライした。
    理由もはっきりしている。こちらのSOが蹴ったボールを受けた相手ランナーが1次ディフェンスを切った時点で劣勢のフェーズになることが分かっていながら、誰1人として、「次に埋めるべきスペース」へとコースを切り替えていなかったからだ。いや、コースだけじゃない。そもそも、誰1人として「全力で」追いかけていなかった。最後にポール下まで戻ってきた左WTBに、正面でトライさせないという意地は、全く見られなかったけれど、それだけじゃない。そのはるか前に、1次防御を切られた瞬間のチームの反応力で、既に勝負はついていた。
    絶対に負けられないゲームの、前半7分に。

    今、俺はコーチでも何でもないけれど、チームのことは好きだから、悔しくてたまらない。明学戦をみて感じたショックと同じものが、あの瞬間にも既にあったんだ。そのことが惜しまれてならない。あの場面でトップギアが入らないというのは、誰よりも選手自身が、自分達の可能性を信じ切れていないということになってしまうのだから。

    正面にトライさせなかったとしても、ゴールは入っていたかもしれない。20-19で迎えても、結果がどうだったかは分からない。でも俺は、もう勝手に確信している。あの瞬間に「本当のベスト」を尽くせるようになるだけで、そういう「小さな瞬間」に本気でこだわっていくだけで、チームは劇的に強くなるということを。

    明学戦 #2

    昨日チェックした対抗戦のことが、まだ気になっている。
    いまやコーチでも何でもない、ただのOBの戯言になってしまうけれど。

    キックオフ直後の前半1分。
    相手のオフサイドで得たPKをタッチに蹴り出して、敵陣左ゴール前ラインアウト。やや後方でマイボールをキャッチすると、モールを組んだ次の瞬間、ショートサイドに控えたNo.8にパスをして突破を図るサインプレー。彼が力強く相手ディフェンダーにヒットすると、更に左サイドにFWが持ち出して、いきなりの先制トライになった。

    これも率直に書いてしまうと、この一連をビデオで見て最初に感じたのは、実はとても強い疑問符だった。サインプレーの選択に、という訳ではない。サインプレーでNo.8が仕掛けることが分かっていながら、彼へのサポートがあまりに遅かったからだ。そして、最終的にトライになったピック&ゴーのタイミングが、自分の理想よりも1テンポ遅かったからだ。

    今日は、チームはオフかなあ。ミーティングは、明日だろうか。
    このプレーは、今シーズンのチームにとって、どのように総括されていくのだろうか。
    No.8の彼は力強いヒット、そしてドライブを見せていた。これは、個人プレー。でもここに、彼が対面にヒットした瞬間、後方からトップギアで肩をぶち込んで、彼の身体もろとも押し込むロックがいると、ユニットプレーになる。スロワーとしてライン際に残っていたフッカーが、彼と相手ディフェンダーとの接点が生まれる場所を見極めて、ヒットの次の瞬間、相手がもう密集の左サイドからは頭をねじ込めないほどタイトなサポートを見せてくれると、初めてサインプレーになる。
    そして、この3人が「チームの約束」をきっちりと果たしてくれることを信じて、既にボールアウトされたモールからFWが一斉にブレイクして、このラックに命をかけてくれた時に、この一連は本物のチームプレーになる。

    強い個人を核にしたチームプレーはきっと、もう1つ上のレベルの相手であってもゲインラインを切ってくれるはずだ。でも、そのもうちょっと先も、きっとあって。それが、最後のピック。あれがもう1テンポ早かったならば、もう1つ上のレベルの相手からも「トライ」を狙えるんじゃないかなあ。ボールの白い腹がラックの最後尾に顔をのぞかせた次の瞬間、そこからもう消え去っているようなそんなタイミングで、ピックしてほしいんだ。この時、今度は「チームプレーによって個が活かされる」というもう1つ別のループが、グラウンドに生まれるんじゃないかなあ。

    完全に妄想のようなものかもしれないけれど、チームの中でそんな会話がされていたら、俺としてはとてもうれしい。そして、「でもそのピックって、常にグラウンドのボールを最速で拾う意識ですべてのメニューをこなしてないと、たぶん出来ないよなあ」なんて台詞がロッカールームに転がっていたら、もっとうれしい。

    明学戦 #1

    ビデオでチェックした対抗戦のことを。
    前半終了時のスコアは、8-31。
    ハーフタイムの時点で、このスコアはどう受け止められていたのかなあ。

    後半3分。自陣右サイドのLOモールからSHが上げたハイパントは、FWが最もラッシュしやすいはずの場所にまっすぐ落ちたのだけれど、チェイサーが入れ違いになってしまい、カウンターを受けてしまう。するすると相手の11番にDFを切られるも、インゴール直前でカバーディフェンスが何とか引っ掛かり、相手のノックオンでなんとか救われて。

    でも俺は、本当のことを言うと、ちょっとショックだった。
    キックチェースのディフェンスが整備されていなかったことに、ではない。ゴールラインに向かって突進する相手ランナーの背中を追って、本気で戻ろうとする仲間がほとんど誰もいなかったことに。カバーに走ったバックスがきっとトライライン目前で止めてくれると信じて、そこで出来るはずのポイントサイドを誰よりも早くカバーしようとスタートダッシュを切っていたフォワードが誰もいなかったことに。8-31で迎えた後半3分に

    あの瞬間、誰よりも必死に自陣トライライン目前で出来るはずのラックを信じて、そこにカウンターラックを仕掛けようとするロックを見たい。相手SHがポイントに到達する前に、もう順目で地面に手をついてスタートの構えを取っているフランカーを見たい。そういうやつらがいることを知っているからこそ、全く逆サイドからでも死ぬ気で走ってくるオープンWTBを見たい。
    勝ちたい心というのはきっと、そういうことだと思うんです。

    いいプレーもたくさんあって。決して落ち込んでばかりいる必要もなくて。
    でも、相手だって勝ちたいのは同じだから。
    残りの試合で、目の色を変えて走リ出すヤツがきっと、このチームをもっと成長させてくれるのだと思います。ゲームに出られないメンバーも、マネージャーやトレーナーも、きっとそんな姿を見たいはずなんです。

    Thursday, August 15, 2013

    子ども靴業界のプロジェクトX。『開発チームは、なぜ最強ブランド「瞬足」を生み出せたのか?』

    開発チームは、なぜ最強ブランド「瞬足」を生み出せたのか?―苦境からの大逆転! 子どもの2人に1人が履く奇跡のシューズ誕生物語

  • 作者: アキレス株式会社「瞬足」開発チーム
  • 出版社: U-CAN
  • 発売日: 2013/7/12

  • イノベーションの必要性が叫ばれて久しい昨今の産業界だが、この言葉を耳にすると、ITのように最先端のテクノロジーを駆使した業界ばかりを思い浮かべてしまうものだ。でも実際には、思いもよらないほど身近なところにも、その種は眠っているらしい。なにせ、テクノロジーの匂いもしなければ、新たな潜在ニーズが喚起されることも一見なさそうな「子ども靴」というプロダクトに、業界地図を大きく塗り替えるような見事なイノベーションがあったのだから。

    本書は、幼い子どもを持つ親御さんには言わずと知れた子ども靴の人気ブランド「瞬足」が生まれ、そして大きく育っていく軌跡を綴ったビジネス書だ。製造したのは、株式会社アキレス。社名を聞いてもピンと来ないかもしれないが、スポーツ靴ブランド「SPALDING」を展開している企業だと聞けば、身近に感じるのではないだろうか。実際にはシューズ専門メーカーという訳ではなくて、創業以来のプラスチック加工技術をコアとして、車輌内装用資材や建築資材といった産業資材を幅広く取り扱っている。シューズ事業においても、インジェクション(射出成型法)と呼ばれる世界トップレベルの技術力を武器として成長してきた企業だ。

    そのアキレスが、2003年に発売を開始した子ども靴ブランドが「瞬足」だ。これがジリ貧状態の続いていた子ども靴業界において、異例の大ヒットとなった。その凄さは、この10年間で瞬足ブランドが達成した数字をみれば一目瞭然。これまでの販売累計はなんと4,000万足、発売後10年を経た今でも年間販売数600万足を誇っている。2012年時点で、瞬足のメインターゲットである子ども(3~12歳)の数は、日本全国でおよそ1,000万人強なので、およそ2人に1人の子どもが瞬足を履いていることになる。「通学履きでは年間150万足が限界」という業界の常識を大きく越えて、今なお子供たちから絶大な支持を集めているのだ。

    「瞬足」の特徴といえば、なんといっても「左右非対称ソール」だろう。実際のソールを見ていただきたいのだが、左右どちらの靴も、履いた時の左側部分(ソール画像でみると向かって右側)にスパイクが埋め込まれているのが分かるはずだ。運動会のかけっこで子供たちが走るトラックは、ほぼ全て左回りだということに着目した開発チームが、コーナーリングの際に体重がかかるソールの左側にグリップを効かせてはどうかと発案した。運動会という年に一度の晴れ舞台で、子供たちがコーナーをスムーズに転ばず走れるように。そんな想いから生まれた常識破りの構造が、業界を大きく変革するイノベーションになった。

    ただし、「瞬足」はあくまで「通学履き」だ。特別な日だけ履くようなモノじゃない。毎日履いて、学校に通ってもらうための靴として開発されている。それなのに、左右非対称。ビジネスという観点でみれば、ここが面白いポイントだと思う。日常的にはごく普通のソールとして機能しながら、運動会の日だけは特別なグリップが助けてくれる魔法のシューズ。その柔軟な発想力には驚かされる。

    それにしても、「瞬足」の誕生秘話は味わい深い。
    少子化の波や製造工程のオフショア化に揺れる業界。苦境に立ち向かうために組織横断的に選ばれた「七人の侍」と、起死回生のアイデア。しかし、製造工程はコストとの戦い。作ってくれる工場探しに苦戦する中で、侍の想いに応えてくれた1人の中国人社長。そして、成長へ。
    こうして書いてみると、まさに子ども靴業界の「プロジェクトX」だ。中島みゆきの歌声が、そして田口トモロヲの特徴的なナレーションが今にも聴こえてきそうな感じがする。非常に読みやすい本なのに、心の中で思わず田口トモロヲ風に読んでしまい、読書のペースが上がらないことだけが難点だ。

    ビジネスパーソンにとって、本書には様々な示唆があるはずだ。売上の低迷は、マーケットのせいではないかもしれない。モノを本当の意味でコモディティに貶めてしまうのは、「所詮は差別化できる類のモノじゃない」という先入観そのものかもしれない。高度なマーケティング理論を駆使する専門部隊がいなくても、革新的なテクノロジーに積極投資できるような会社でなかったとしても、身近な世界を変えるイノベーションは可能であり、本当はそれこそが、ビジネスの醍醐味なのかもしれない。

    Saturday, August 10, 2013

    数字で考える

    自分の仕事が変わってきて、ここ2週間ほどバタバタの日々を過ごしている。 
    数字で考えるのが大切だというのはずっと前から分かっていたことなんだけど、得意ではないので、それとなくずっとやり過ごしてきて。それが今、仇になっている。

    数字を細かく追うことは、時として壮大な無駄だと思う。でも一方で、細かくなければ分からないことがあるのも事実で、大袈裟に言ってしまえば「神は細部に宿る」ということもある。

    喰わず嫌いもそろそろ限界かも。
    壮大な無駄に対する諦念ばかりが口を衝いて出てきてしまう今日この頃だけれど、その前に、まずは大枠でも数字つかめよと。
    今しないといけないことは、きっとそういうことなんです。

    『ねこ背は治る!』(reborn)

    ねこ背は治る! ──知るだけで体が改善する「4つの意識」
    ねこ背は治る! ──知るだけで体が改善する「4つの意識」

  • 作者: 小池 義孝, , 小池 義孝のAmazon著者ページを見る, 検索結果, 著者セントラルはこちら, さわたり しげお
  • 出版社: 自由国民社
  • 発売日: 2011/10/28

  • 本は基本的に何でも読むけれど、今日は軽めのものを。
    私、今晩をもって生まれ変わります。rebornです。酷い猫背に別れを告げて。
    これまでプロフェッショナルのトレーナーに支えていただいたこともあったのに、今更このレベルかよと言われそうだけれど(苦笑)、今日からでも身体の基本的なことを意識できた方がいいからね。

    Tuesday, July 30, 2013

    『半沢直樹』

    今日は所属部門の歓送迎会だったのだけれど、TBSドラマ『半沢直樹』が結構な話題になっていた。おれも妻の誘いに乗って一緒に観ているのだけれど、実際のところ、かなり面白い。池井戸潤の原作も売れているようだけれど、3話まで乗せられてしまうと、むしろ先に原作を読んでしまうのが勿体ない気がしてきてしまう。
    でも、実はこのドラマを観ていると、ちょっとだけ気が重くなる部分もあって。会社員の悲哀というか、結構、痛いところを衝いてくる感じがするんです。もちろんドラマなので当然ながら脚色されているにしても、似たようなことは実際の企業社会でもある訳で。例えば「銀行は人事が全て」という渡真利の台詞は、銀行に限った話でもないのだから。

    人事は組織運営の要諦だと思う。人事が全てというのは、ある意味で嘘じゃないとも思う。そうであるならば、人事を巡る人間模様や駆け引きがあるのも当然で、別に白河の清い流れを夢想する気もない。でも、目的を失った「人事のための人事」とでもいうようなものが、そして人事に明け暮れる組織というものが確かにあって、そこに若干の重苦しさを感じてしまう。エンドユーザー、顧客が置き去りにされた壮大な無駄。そうとしか言いようがない不毛な人事戦争は、ドラマだけでもないのだということに。

    オレたちバブル入行組 (文春文庫)
    • 作者: 池井戸 潤, , 池井戸 潤のAmazon著者ページを見る, 検索結果, 著者セントラルはこちら
    • 出版社: 文藝春秋
    • 発売日: 2007/12/6

    オレたち花のバブル組
    • 作者: 池井戸 潤, , 池井戸 潤のAmazon著者ページを見る, 検索結果, 著者セントラルはこちら
    • 出版社: 文藝春秋
    • 発売日: 2008/6/13

    Monday, July 08, 2013

    プログラムの背景

    ちょっと遅くなってしまったけれど、先日開催された社員研修@横浜のことを。

    7月4日(木)、5日(金)の2日間、約4,000人の社員が参加した大規模なプログラムが催された。基本的には研修なのだけれど、感覚的には「イベント」といった方が近いかもしれない。まあ、なかなかの規模だった。膨大なコンテンツがすべて英語だったこともあって、参加する側としても正直かなり疲れたけれど、これくらいの規模になってくると運営側も相当大変だったのではないかと思う。2日間、朝から晩まで各方面に気を廻し続けて、おそらく研修に参加した社員以上にキツイ時間だったはずだ。こうした縁の下を支えてくれる人たちの存在があって、初めて社員は成長の機会を与えられる訳で、まずは何よりも感謝したい。

    4,000人の社員が、2日間にわたって英語で研修を受ける。
    チーム単位でのワークショップでも、英語で資料を作成する。
    ランダムに選ばれたチームは、5分程度のプレゼンテーションをする。もちろん英語で。
    初日、2日目共に、エグゼクティブやら特定の分野の専門家やらの講演をひたすら聴く。
    もはやイングリッシュ・シャワーの世界だ。
    さて、研修効率としてはどうだろうか。

    考えるまでもなく、低いに決まっている。外資系とはいえ、研修効率を全く阻害しないレベルの英語力を備えている社員なんて、ほんの一握りしかいない。コンテンツに対する理解を深めて、短期的にスキルアップを図るならば、すべて日本語の方が圧倒的に効率的だ。プレゼンテーションにしても、そもそも日常業務で英語を使う機会が一切ないような人にとっては、ワークショップの充実度など全く関係なく、ただの英語プレゼン実習になってしまう。スキルアップも何も、あったものじゃない。

    私自身、この2日間で聴いたスピーチについて、どこまで理解できているかと問われると、正直、全く自信がない。ネイティブ・スピーカーは日本人の英語力を基本的に信頼していないはずなので、かなり配慮してゆっくり話してくれているのは間違いないのに、それでもきちんと聴き取れないって、ちょっとマズイよなあと思ってしまった。(大きな声では言えないが、ところどころ睡眠学習になってしまったのも事実だ。)

    そもそも、英語/日本語を問わず、2日程度でスキルは劇的に上がらない。
    もちろん、対象を絞り込んで、現状のレベルに応じたベストフィットのプログラムを組めば、2日間で得られる効果はもっと高いのかもしれない。でも、今回の研修参加者は4,000人。要するにマスが対象だ。4,000人の集団全体が、2日間でぐんと一段レベルアップするというのは、なかなか想像しづらいシチュエーションだ。もちろん、それでもやり方はあるのかもしれないけれど。


    でも、そんなことは主催者側(つまり会社)も分かっているはずなんだ。
    最初から、今回のプログラムでマスが劇的に変わるなんて思っていない。それでもすべて英語の研修を4,000人規模で実施しなければならないと考えた理由があるはずで、そこを掘り下げておかないと、自分自身にとって、今回の研修の意味が相当に薄まってしまうような気がする。

    プログラムのあり方を云々するのは簡単なのだけれど、ゼロから考えるのは難しい。
    「じゃあ、やってみろよ。4,000人のスキルに変革を起こすために、オマエは何をプランできるんだよ」と言われて、対案を出せない時点で、ただの居酒屋トークになってしまいそうだ。

    そんな訳で、横浜線に揺られての帰り道は、つらつらと対案を考えながら。
    そして、実際にやってみると、これがなかなか難しいのです。