Wednesday, August 31, 2005

『69 -sixty nine-』

日曜日の夜のことなので、もう3日前になってしまうのだけれど、久しぶりにDVDをレンタルしてきて映画を観たんだ。村上龍さん原作の映画化で話題になった『69』ね。

劇場公開されていた頃、おれはこの映画を観ることに少なからず抵抗があった。原作となった同名の小説のテイストを壊されたくないという思いが強かったからね。

村上龍さんの『69』は、本当に素晴らしい小説だった。
1969年、当時高校生だった龍さん自身の実体験をもとに構成された自伝的小説。
大学紛争が全盛だった時代。ベトナム戦争に反対する若者たちが「ラブアンドピース」を謳った時代。ツェッペリンやサイモンとガーファンクルのレコードを聴き、巨匠ゴダールの映画に触れる中で、新しいカルチャーが踊り始めた、そんな時代。
佐世保に暮らす高校生のケン、そして切れ者の相方アダマの2人が中心となって、映画・音楽・ダンスすべてが渾然一体となったフェスティバルを長崎の地でやってしまおうと動き出す。そのうちにケンは、愛しのレディ・ジェーンの気を惹く為に、そしてなにより今を楽しむ為に、学校の屋上をバリケード封鎖しようと考える。アダマやイワサ、他にも多くの仲間がケンの語る壮大なアイデアに乗っかって、彼らは夏休みのある日の夜、学校に忍び込むんだ。

当たり前のことだけれど、おれは1969年という時代を生きていない。
今となっては、その時代をもう一度生きることなど誰にも出来ないし、当時の空気を吸うことだって出来ない。だから、当時を懐かしむといった思いもなければ、その当時が良い時代だったのかどうかも分からない。シンプルな感覚としては、今の方が、きっと圧倒的に恵まれた、良い時代なんだろうと思っていたりもする。
でもね、それでも伝わってくるんだ。1969年という時代の空気のようなものが。そして同時に、高校生という時期だからこその、青春の瑞々しさ、馬鹿らしくてくだらなくて、でもストレートで溢れんばかりのエネルギーが、この小説には詰まっているんだ。

単純におもしろく、腹を抱えて笑えるような小説でもあるけれど、それだけじゃない。
小説としての質も高く、どこか気持ちがくすぐったくなるような、良質の作品なんだ。

そんな『69』の映画化。
結論から言うと、とても良い映画だった。
原作のテイストが忠実に再現されていて、原作が醸し出していた「1969年」という時代の匂いが、当時を知らないおれにも伝わってくるような作品に仕上がっていた。宮藤官九郎の脚本も良く、原作のユーモアを上手くアレンジしながら、その核となるテイストはきちんと大切に残すような、そんな構成になっていたように思う。
オープニングもお洒落で魅力的なものだし、ケンの嘘の使い方も上手いね。
(原作では、語り手であるケンがよく嘘をつくんだ。「というのは嘘で」というフレーズが、何度となく出てくる。この「嘘をつく」という行為自体が、作品世界のなかで極めて重要で、そこにこそケンの、そして『69』という世界の魅力があるんだ。)

おもしろいよ。
単純に笑えるだけじゃなくて、普段は心の奥の方にしまってあるなにかをちょっとくすぐられるような、なぜかちょっぴり嬉しくなるような、そんな映画だ。

シンプルで単純な楽しさを、繊細に丁寧に構成しようという姿勢が、おれは好きです。

Tuesday, August 30, 2005

敗戦

残念ながら、岡山への切符は掴み損ねてしまった。
千葉代表 7-22 東京代表

悔しい。勝って、本戦に行きたかった。
いろんなバックボーンを持つ人間が集まって、2ヶ月近く前から準備をしてきたけれど、この敗戦をもって、今年のチームは終了することになる。メンバーそれぞれに置かれた環境も異なる中で、決して十分な練習を積めた訳ではなかったし、今回の結果も、必ずしも満足できるものではなかったけれど、それでも今回の関東予選に参加したことは、本当に刺激的な経験になった。

自分のプレーに対する他人の意見や感想、評価といったものを、久しぶりに聞いた気がする。そのことがすごく新鮮だったし、嬉しかった。そして、思うところが多かった。
細かいプレーのひとつひとつ、べき論のようなものじゃない。もっと根本的な部分に語り掛けてくるような言葉を、本当にたくさんもらったんだ。
自信を持ってグラウンドに立っているように見えた、と言ってくれた人がいた。
楽しそうじゃなかったかな、とつぶやいた後輩もいた。
感じ方は人それぞれ。
そして、そういう言葉のひとつひとつが、新鮮ななにかをもって心に響く。
自分では見ることが出来ない自分の姿が、いろんな人間の言葉の端々に垣間見えるようで、そういう形で「自分」というものを鋭く突きつけられることにどきどきしたし、おれにとってそれは、なによりの収穫だった。
グラウンドでは、人間性はごまかせないね。

プレーのことは、細かくは書かない。
ATT、DEFともに致命的なミスがあった。相変わらず良くないところは変わってないね。クラブラグビーに身を転じて、どうしても練習時間は限られてしまうけれど、毎週末の貴重な時間を濃密なものにして、少しずつでも上手くなっていきたい。まだまだ全然、ってレベルだと自分でも思います。


ちなみに試合後は、そのままタマリバの練習に参加してきた。
来週からは、タマリバクラブの2005年のシーズンがついに始まる。9月4日、曼荼羅クラブとの開幕戦。場所は三ツ沢球技場。クラブリーグの公式戦にこれほどの素晴らしい環境が用意されたことに、本当に感謝したい。国体の試合終了後にダブルヘッダーで練習することにしたのは、この試合に意地でも出たかったからなんだ。
さすがに3時間も練習するとは思っていなかったけどね。

Saturday, August 27, 2005

ラグビーができる

1週間ぶりの更新。
富士登山以来、ずっと風邪を引いていたのだけれど、やっぱり身体的に安定していないと書けないね。

昨日から、国体のラグビー関東予選が始まっている。
千葉県代表のCTBとして、1回戦は神奈川代表との試合だった。

結果からいうと、22-17の辛勝。
台風一過の酷暑もあって、30分ハーフとは思えないほどタフなゲームになった。終盤に認定トライを奪われたりもして、ゲーム展開も決して楽なものではなかったけれど、なんとか勝利を掴むことが出来て、とりあえずほっとしている。チームの根幹をなす社会人チームのメンバー数人が中心となって、タイトなプレーでチームを引っ張ってくれたことが大きかったと思う。

日曜は、東京代表との2回戦。このゲームに勝利すれば、岡山で行われる本戦への出場権を手にすることになる。厳しいゲームになると思うけれど、実力的に劣っているとは思わない。愚直に、ひたむきにプレーして、きちんと勝利をものにしたいね。

それから。
以前にも書いたけれど、千葉県代表は、昨年まで所属していた社会人チームのメンバー数名と、おれのようなOBが若干名、それに習志野自衛隊のメンバーが加わって構成されている。関東予選への参加にあたっては、協会からも一定の支援があるのだけれど、それに加えて、千葉代表にメンバーを派遣している社会人チームからの手厚い支援があって、そのことに対して、改めて新鮮な驚きを覚えるんだ。
前日のゲームのDVDが各自に配布され、自分のプレーをチェックできる。相手チームの1回戦の試合ぶりも、同じくDVDで確認できる。試合の前後には、補食としてバナナや、ゼリータイプの栄養補助食品が用意されているし、トレーナーも派遣してもらっていて、選手のコンディショニングにも気を遣ってもらっている。
もちろんそれは、基本的におれの為じゃない。社会人チームから参加してくれているメンバーのコンディショニングを気遣ってのことであって、それはトップリーグを目指すクラブとしては、当然の対応なのかもしれない。
でもさ、やっぱりすごいと思うよ。
おれのように、クラブラグビーへと身を転じた人間には、それがどれほど恵まれたことなのかが、痛いほどに分かるからね。
バナナやゼリーだけじゃない。もっとシンプルな素晴らしさが、そこらじゅうにあるんだ。
照明の完備された人工芝のグラウンドで、日々練習が出来る。
そしてゲームの舞台として、江戸川陸上競技場という、素晴らしい天然芝のグラウンドが用意されている。
そんなことのひとつひとつが、特に下位リーグを戦う大多数のクラブラガーにとって、手の届かない向こう側の出来事なんだ。

ありがとうございます。
江戸川でプレーできる環境を与えてもらったことに、本当に感謝しています。

Saturday, August 20, 2005

名言#2

ネットで拾った名言を。

自分がこうして欲しいと思うのと同じことを、他の人々にしてはいけない。
なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないかも知れないのだから。
バーナード・ショウ

良い言葉には、足すべきものがないね。

皮膚のコード

田口ランディさんのエッセイ集『できればムカつかずに生きたい』、ほぼ読了。
一部のエッセイを飛ばしてしまったので、「ほぼ」なんだけどね。

田口ランディという人が、基本的に好きだ。
「分からない」ということに対して真摯であろうとする姿勢が、きっと好きなんだと思う。

エッセイの中でランディさんはこんなことを言っている。

私を私として成り立たせているのは、皮膚の内と外で生じる猛烈な「違和」によってである。皮膚は世界の違和にさらされていて、それを常に刺激として脳に送り、脳はそれをフィードバックしているから「私」という個体の存在を意識できる。
(田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』280p)


皮膚は、自分と自分でないものとの境界。
オセロの黒を辿っていくと、結局白を辿ってしまうように、「自分でないもの」の違和を辿ることによって、「自分」というものを確認していく。
でもその時、自分でないものに対しては、結局は「分からない」というスタンスを貫く。
ここが、ランディさんの最大の魅力だ。

分かったつもりにならない。
たとえ相手が肉親であっても、親友であっても、簡単に分かったつもりにならない。
彼女の父親は「おまえほど冷たい女はいない」と言うそうだけれど、その言葉とは裏腹に、こういう態度は極めて真摯だと思うし、きっと彼女の父親も、どこかそう思っているんじゃないかと、おれは勝手に想像している。

世界の違和にさらされた皮膚が、脳に対して送るフィードバックは、きっと皮膚によって違う。それこそがさ、きっと皮膚の存在する意味なんだよ。外部の刺激をダイレクトに受容するんじゃなくて、「皮膚」という変換コードを通すことこそが、きっと世界の多様性なんだと思う。そう考えるなら、皮膚感覚に優れている、というのは、言葉を変えれば、自分の皮膚に織り込まれた変換コードを正確に見据えている、ということなのかもしれないね。それは同時に、他者の皮膚に埋め込まれたコードに対しては「想像する他はない」という態度を貫くことでもあると思う。

そんなわけで、田口ランディは皮膚感覚に優れた作家だと思うわけです。

Wednesday, August 17, 2005

富士登山

10年以上振りに合宿のない夏休み。
休み慣れていなくて、計画的にはいかなかったけれど、富士山を踏破してきた。
ラグビー、STOMP、ラグビー、映画、富士登山。
13日からの5連休も、こんな感じであっという間に終わってしまったけれど、富士登山はとても価値ある体験になった。高山病はしんどかったけれど、初めて目にした雲海、そして山頂から拝んだ御来光は本当に見事なものだったよ。

このことは、機をみてまた書こうと思います。

Monday, August 15, 2005

STOMP所感

STOMP Japan Tour 2005 ―
後輩の薦めで、STOMPの日本公演を観に行ってきた。
その後輩が「どうですか?」ってメールをくれるまで、STOMPというパフォーマンス・グループのことをおれは知らなかったのだけれど、いい機会だと思ったし、今までのおれにはなかった角度からの刺激があるんじゃないかという期待感もあって、誘いに乗ってみたんだ。

台詞のない舞台。
モップやバケツ、シガレットケースやビニール袋、そして自らの身体。あらゆるものから生み出される様々な音だけで構成されたパフォーマンス。
叩く。打ち付ける。擦る。振リまわす。掃く。壊す。揺する。
それぞれのモノに対して、いろんなアプローチで作用を働かせ、そこから響き出す音を重ね合わせて、リズムとビートを創り出していく。
ざっと言うなら、そんなパフォーマンス・グループがSTOMPだ。

結論から言うと、クオリティの高いパフォーマンスで、凄く良かった。
パフォーマーとしての完成度が高く、迫力と躍動感があって、単純に楽しかった。

2時間近い彼らのパフォーマンスを観ていて、思ったことがある。
ひとつは、コミュニケーションという作業は、本来とてもフィジカルなものだということ。
STOMPの舞台には、基本的に台詞が存在しない。つまり、8人のメンバーは、舞台上で会話を交わすことがない。もちろん全くのゼロではないし、ある程度シチュエーションが練り込まれていて、身振りやちょっとしたサインでその意図を明示するようなシーンは幾つか存在する。でも、基本的には「音」がすべてだ。1人がモップで床を掃く。その擦れる音に合わせて、別の1人もモップを動かす。そうしてモップの擦れる音が連鎖的に響き出すと、今度は誰かがモップの柄を床に打ち付ける。今度は別のエネルギーを持った打撃音が鳴り響いて、また別のリズムを創り出していく。

それが「コミュニケーション」という作業を強烈に感じさせるんだ。

コミュニケーションという作業が、言語に偏りすぎているのかもしれない。もっとフィジカルな、身体に直接訴えかけるようなものが、原初のコミュニケーションなのかなって、そんなことを思ったりした。そして、ちょっと話は逸れてしまうけれど、そういうコミュニケーションの身体性を意識させる世界がもうひとつあるとすれば、それがスポーツなのかもしれないね。

もうひとつは、都市における「音」ということ。
都市がいかに「音」を埋没させているだろう、と思わずにはいられなかった。

以前から気になっていた渋谷という街の騒音。軒を連ねる店のどれもが、大音量の音楽ともいえない音楽を垂れ流す。駅前に街宣車を停めて、マイク片手にがなり立てる右翼グループ。およそ考えられる限りの騒音がすべて集まった感じだよね。

STOMPの公演の中に、紙袋・ビニール袋・紙コップなんかを組み合わせて3人でリズムを合わせるシーンがあった。2時間の公演の中では比較的小粒な、送りバントのようなシーンだったのだけれど、個人的には印象に残っているんだ。持ち帰りのハンバーガーを詰めるような紙袋から、音のセッションが始まるわけ。センター街の道端にごろごろ転がっているような、なんでもない紙袋からね。
音は、あるいは音のきっかけは、きっと身の廻りのあらゆるところにあるんだ。それはSTOMPのキーメッセージでもあると思う。彼らがいわゆる日用品から音を創っていくのは、ひとつには「音をおれたちの日常に返す」ということじゃないかと、おれは勝手に考えているからね。

都市は、そこに生きる人間の日常から、そんな音を奪っているんじゃないか。
この日のSTOMPのパフォーマンスを観て、漠然とそんなことを考えてしまった。


観て良かった。彼らのパフォーマンスがすごく刺激的だった。
ただ、本当のところを言うと、ぞくっとはしなかったね。
感覚的なことになってしまうけれど、鳥肌というのは、もうひとつ奥の方かもしれない。

Saturday, August 13, 2005

新しいということ ― 『ライン』読了

村上龍さんの中期の小説『ライン』、読了。

自分の中のある枠組みの中に閉じて、その中で作品を書き続けている作家は少なくないと思う。読む側としては、期待値から大きくずれないという安心感もあるだろうし、一定の娯楽的価値は提示されるのだけれど、そこに新しさを感じることはない。

最近でいうと、例えば石田衣良なんかは典型的だ。

彼の出世作でもあり、ベストセラーとなった『池袋ウエストゲートパーク』は、スピード感と瑞々しさがあって、おもしろい小説だった。その後、この作品はシリーズ化され、続編が次々に発表されているのだけれど、どれをとってもそれなりに安定していて、一定の娯楽的なおもしろさを持ち併せている。
でもそれらは、ほとんど決定的なほどに、新しくないんだ。
IWGPシリーズは、その優れたキャラクター設定ゆえに、大きくは外れない。作品世界の枠組みがきちんと定まっていて、構成そのものが既に読者の期待値のある一定の部分を満たしている。マコトやタカシといったメインキャラクターの存在感は際立っていて、都度ストーリーが異なるとはいえ、読者の期待を裏切ることはない。

しかし、逆にそれこそが、石田衣良という作家の現時点での限界を感じさせてしまう。

IWGPという枠組みの中で書けることは、もうほとんどないと思う。少なくとも、新しい何かを書く余地は多くないはずだ。今後もIWGPシリーズを書き続けていくとすれば、それは同時に、石田衣良という作家の中に「新しい枠組み」を創リ出すエネルギーが枯渇していることを、図らずも示してしまうんじゃないかな。

それで、村上龍。
龍さんの恐ろしさは、絶えることなく提示されるその「新しさ」にこそある。小説のコアの部分にある問題意識や感性は、同時期の作品である程度共有されているケースもみられるけれど、作品それぞれの枠組みが、いつも決定的に違う。
『ライン』は、まさにその「新しさ」が際立っている作品だった。

正直に言って、あまりに良すぎて感想が書けない。
その斬新さの中に横たわる圧倒的な作品世界を、きちんと消化できていない。
ある種の歪みや空虚さを抱えた人間たちが、図らずも織り成していく「ライン」には、目を背けられないような何かがあるんだ。でもそれを表現する言葉を、残念ながら今のおれは持っていないんだ。

きっとこの小説は、何ヵ月後か、あるいは何年後になるのか分からないけれど、もう一度読むことになるんじゃないかという気がします。

イメージ#2

パートナーがイメージを書き溜めている。

Flickrにアップロードした作品も、既に30枚を越えた。Flickrのフリーアカウントは、1ヶ月に利用できるデータ容量が20MBに制限されているのだけれど、6月に開始して以来、2ヶ月連続で容量を使い切っている。やっぱり、好きなんだろうね。

発熱した時に脳裏に浮かんだという「光の粒」をアクリルで描いてくれたので、アップロードしておいた。本当はもうひとつ「モザイク」のイメージもあったのだけれど、それは紙に落とし込めるほどに鮮明ではないらしい。光の粒が溢れ出した後に、サブリミナルのようにさっと浮かんだだけで、絵にしようとした瞬間に、実際に浮かんだはずのイメージとの乖離が浮き彫りになってしまうんだって。

そういうビジュアルな感覚はおれには弱いので、ちょっと羨ましかったりもするね。

http://www.flickr.com/photos/pommedeterre/
(linksの"Flickr photos"からも入れます。)

Monday, August 08, 2005

キューバの歌声と民主主義について

今日は残念なニュースがふたつあった。

ひとつは、イブライム・フェレールが亡くなったこと。
キューバの伝説的な老音楽家たちがライ・クーダーのもとに結集して生まれたプロジェクト"Buena Vista Social Club"のボーカリスト。
国交なき国のカーネギーホールで実現された彼らのコンサートの映像は、同名のドキュメンタリー映画のなかに収められている。深い皺を刻んだ彼らの表情は一様に輝いていて、純粋に格好良く、その佇まいにはどこか身震いしてしまうような魅力があった。イブライム・フェレールはその中心にいて、歌声には、その顔の深い皺に違わぬ奥行きがあった。享年78歳。DVDを観て虜になって、即座にCDを買いに行ったのはつい最近のことのように思う。おれにとって、その死はちょっと早すぎたね。

ささやかながら、黙祷を捧げます。
その最後の表情が安らかなものであってほしいと思っています。


もうひとつは、がらりと趣が変わるけれど、郵政民営化法案の否決。
郵貯という巨大国家金融を解体する千載一遇のチャンスのはずだったんだ。

結果的に、参議院では予想を上回る大差で法案は否決されたのだけれど、おれには反対派議員がこれほど強硬に郵政民営化を拒む理由というものが、最後まで分からなかった。彼らによって語られた理由はとても合理的だとは思えなかったし、その主張のほとんどは、議論におけるスタート地点が既に間違っているように感じた。

でも、郵政民営化そのものを議論する前に、まずは国会議員であるということの当然の前提というものを、改めて考えてみる必要があるんじゃないか。

国会議員の最大にしてほとんど唯一の任務は、世論を政治に正しく反映させることだと思う。必ずしもそれが最善の手段かどうかは分からないけれど、民主主義とはそういうものだし、国家の基本法たる日本国憲法は、はっきりと民主主義を標榜している。民主主義の精神、あるいはその意思決定プロセスに対する議論は当然あり得ると思うけれど、現行制度下においては、民主主義は常に尊重されるべきだ。

こうした民主主義の精神の下にあって問われるのは、有権者との「契約」に責任を持ってこれを遵守すること、そしてもうひとつは「国民への信頼」ということだと思う。

有権者との間の「契約」というのは、言うまでもなく選挙公約だ。選挙公約が有権者との「契約」であるという認識すら持たない議員は、そもそも存在意義がない。もちろん、契約が正しく履行されないことに対して明確な拒否メッセージを発しない有権者の側にも一定の責任はあると思うけれど。

「国民への信頼」というのは、民主主義が必ずしも衆愚政治に帰結しないということを担保する重要な条件だと思う。結果として衆愚政治に堕することはあるかもしれないけれど、民主主義が成立し得る重要な条件のひとつは、有権者の合理的判断力を信頼することであり、また国民の能力を過小評価しないことだと思う。

こうして考えていくと、法案そのものの是非を問う以前に、幾つかの疑問が生じる。
ひとつは、公約をどう考えるのか、ということ。
その政治手法、法案の具体的内容は別にしても、この1点において、小泉純一郎は正しいと思う。郵政民営化は、明確に小泉政権の公約だった。確かに小泉は、その他の公約を幾つか反故にしている。例えば、国債30兆円枠などは、ほとんど議論されることもなく、いとも簡単に破棄されることになった。しかし、だからと言って、郵政民営化が「公約」であるという事実の重みは変わることがない。公約は「絶対に」履行されなければならない、という民主主義の基本中の基本に対して、反対派の議員はどう考えていたのだろう。
こうした態度は、もうひとつの「国民への信頼」へと繋がっていく。公約の重要性に対する認識の欠落は、とりもなおさず、有権者に対する冒涜を意味している。そして、突きつめていけば、それは民主主義そのものへの冒涜でもあると思う。

郵政民営化の是非を巡る今回の政争が奇しくも露呈したのは、日本における民主主義がほとんど死にかかっている、ということだと思う。このことは、郵政民営化法案の行方以上に、決定的に重要だった。

でも、それだけではない。
それに加えて、当然ながら、郵政民営化法案そのものも極めて重要なものだった。

民営化に対して強硬に反対する理由は、どうしても理解できない。
民間に出来ることを、なぜ国家がする必要があるのだろう。民営化によって国民の生活基盤が破壊される、という主張は明確に嘘だ。まず、「国民」という言葉自体が、ある種の嘘を内包している。都市部に暮らす人間は、実態としてほとんど民営化の影響を受けないだろう。「国民」という言葉が本当に意味している層を、具体的に明示すべきだ。過疎地域におけるサービスレベルの低下がたびたび主張されるけれど、これは民間の実力を明らかに過小評価している。日本に対する誇りを声高に唱える国会議員自身が、日本企業の持つ実力に対する信頼を欠いていると思う。
郵貯・簡保という巨大国家金融の存在は、日本の金融業界の在り方を大きく歪めてしまっている。グローバリゼーションと自由競争という大きな流れは変えられない。それは善悪の問題ではなく、資本主義社会の必然の帰結だ。そうであるなら、考えるべきは、そうした国際社会の潮流の中で、いかに制度を柔軟に対応させていくか、ということだと思う。「保守」ということを誤解してはいけない。環境や時代背景が日々刻々と変化する中で、本当に守るべきものを守り通す為には、変化に柔軟に対応できなければならない。その意味で、「革新」こそが保守の本流のはずだ。

結果的に法案は否決されて、衆議院は即日解散された。
法案の否決はとても残念だけれど、解散は当然の帰結だよね。
報道ステーションの中で古館さんが「衆議院総選挙にかかるコストは500億円とも言われる。こうした情勢下にあって、このタイミングでの解散というのはどうだったのか」といったコメントをしていたけれど、もしも日本における民主主義の復権にこの解散が寄与するのであれば、500億円なんて安いものです。

少なくともおれは、そういう気持ちで次の選挙に臨もうと思っています。

Sunday, August 07, 2005

光の粒とモザイク

昨晩から、パートナーが38.5℃の熱を出して寝込んでしまった。
氷嚢で頭冷やして、横になって、水分をこまめに摂取して、一晩寝たら体温はぐっと下がったので、とりあえずほっとしている。

でもさ、熱って判断が難しいよね。
うちのパートナーは、普段から病気のことを調べるのが好きなようで、TVやインターネットでまめに知識を詰め込んでいるのだけれど、熱を出して、ベッドに横になっている状況でも、しんどそうな顔をして言うわけ。

「『急な発熱』でインターネット検索して」

実際に検索してみたけれど、「急な発熱」の原因として考えられる病気なんて、それこそ数え切れないほどあるんだ。とてもじゃないけれど、素人のおれに判断できるものではない。幸いなことに、おれの母親は看護婦をしているので、電話でいろいろ確認することは出来るけれど、母親にしても実際に症状を診られる訳ではないし、初期症状だけでは判断に限界があるよね。

おれなんかは、水分と栄養をきちんと摂って、ちゃんと寝れば熱は下がると基本的に思っているので、「原因が分かっても治る訳じゃないので、とにかく寝たら?」って言うのだけれど、彼女はどうしても調べたいみたいで。
翌朝になって、若干熱が下がって楽になると、もう自分でネット検索をしていて、「急な頭痛」「胃痛」「押さえる」なんてキーワードを入力している。「『押さえる』ってなに?」と聞くと、「下腹部を押さえた時に、胃に痛みが出るんだ」なんて説明してくれて。
すごい執念だよね。
やっぱりおれは、寝れば治ると思うんだけどさ。

でも、今回のことで思ったこともある。
パートナーの病気について、おれは「おれ基準」で判断しがちだなって。
(別に病気に限った話ではないかもしれないけれど。)
そもそもおれは、あまり病気をしない方で、病院というやつも好きじゃないので、基本的には自然に治るのを待つようにしている。それが風邪のような軽度のものならよいのだけれど、例えば、本当に救急車を呼ばなければいけないような場合には、もしかしたら判断がひとつ遅れてしまうかもしれない。熱ひとつ考えてみても、それが本当は何の兆候なのかは簡単には判断できないからね。
人間の自然治癒能力はかなりのものだと思っているけれど、そのことを過信してしまうと、重要な場面での判断が微妙にずれてしまうかもしれないね。

熱は下がったとはいえ、パートナーには今日も1日、ゆっくり横になってもらった。
CDを聴きながらベットに寝転んでいたら、光の粒とモザイクが見えた、って。
CDが喚起したのか、病気が喚起したのか分からないけれど、体調が完全に戻ったら、そのイメージを描いてもらおうかなと思っています。

無題

書けない。
今週はほとんど書けなかった。書くべきことは、たくさんあったはずなのに。
まあ、そんな日もあるね。

Tuesday, August 02, 2005

名言

今日出会った名言を、ふたつだけ。
書きたいことはたくさんあるけれど、また機を改めて書くことにします。


希望とは一般に信じられていることとは反対で、あきらめにも等しいものである。
そして、生きることは、あきらめないことである。
― アルベール・カミュ(玄田有史「ニートのこと・希望のこと」より)


天才とは九十九パーセントが発汗であり、残りの一パーセントが霊感である。
― トーマス・エジソン(寺山修司『ポケットに名言を』より)


玄田有史さんのことは、実は以前から気になっていたんだ。
『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』で一躍有名になったけれど、東京大学社会科学研究所で始まった「希望学プロジェクト」においても、中心メンバーとして活躍されているそうだ。
「ニートのこと・希望のこと」は、その基本的なスタンスが掴める良い文章だった。
近いうちに、一度著作に目を通してみようかなと思っています。
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/think.html