随分遅くなってしまったけれど、撮る方ね。
もう1ヶ月近く前になるけれど、2つのカメラを買ったんだ。
ひとつは、マニュアルフォーカス一眼レフのフィルムカメラ「Nikon FM10」。
比較的安価な一眼レフの入門機で、一眼レフ特有の物々しさがないのがいいね。
そしてもうひとつは、実はポラロイドカメラ。
日本ポラロイド(株)の「One600 Pro」というやつで、一応Series最上位のモデルだ。
これがどちらも、ものすごく楽しいんだ。
自分でも驚いてしまうくらい、撮ることが楽しくて堪らない。
量販店の店員はもしかすると、「何故今更この2台なのか」と思ったかもしれない。
でもね、実際に撮ってみると、フィルムカメラには、デジタルカメラでは絶対に味わうことの出来ない魅力がたくさん詰まっているんだ。そして、フルマニュアルというのがまた味わい深い。自分の手でひとつひとつ焦点を合わせ、絞りとシャッタースピードで露光を調節して、丁寧にシャッターを切っていく感覚がたまらない。ひとつひとつの写真を自分自身の手で産み落としていくようで、デジタルカメラの写真では感じることのない「愛着」が湧き上がってくるね。
つい昨日のことだけれど、初めて撮った36枚のフィルムが現像されてきたんだ。
部屋の中、パートナー、神田のスタバ、小伝馬町、いろいろなものを撮った。
当然思うような仕上がりのものばかりではなくて、焦点の合っていない写真や手ブレした写真もたくさんあったけれど、それでもすごく嬉しかった。
現像代はちょっと痛いけれど、ファインダーを通して覗いた「自分にとっての世界」がアナログの写真となって像を結ぶ、というその魅力は、ちょっと代えがたいものだね。
また、写真を撮りに行こう。
タマリバの練習が終わった後の、土曜日の昼下がりに。
Sunday, June 25, 2006
Friday, June 23, 2006
photograph
久しぶりの更新。
最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。
まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。
ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。
もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。
そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。
アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。
長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。
最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。
まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。
ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。
もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。
そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。
アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。
長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。
Sunday, June 04, 2006
写真という表現
昨日のことだけれど、TV東京の『美の巨人たち』に衝撃を受けた。
写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソン。その写真が本当に素晴らしかったんだ。
TVディスプレイを通してさえ心を打たれた写真が幾つもあった。
流れる時間の中では上手くつかまえることの出来ない、或いは気づくことさえもない「瞬間の」美しさを、シャッターで切り取ることで、繊細かつ洗練されたイメージとして表現してみせたような彼の写真には、とにかく心を打つものがあった。
写真という表現にこれほど惹かれたのは初めてかもしれない。
放送終了後に、思わずアマゾンで彼の写真集を買ってしまった。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
届くのが楽しみで仕方がないね。
そして今は、自分でも写真を撮りたくて堪らないです。
写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソン。その写真が本当に素晴らしかったんだ。
TVディスプレイを通してさえ心を打たれた写真が幾つもあった。
流れる時間の中では上手くつかまえることの出来ない、或いは気づくことさえもない「瞬間の」美しさを、シャッターで切り取ることで、繊細かつ洗練されたイメージとして表現してみせたような彼の写真には、とにかく心を打つものがあった。
写真という表現にこれほど惹かれたのは初めてかもしれない。
放送終了後に、思わずアマゾンで彼の写真集を買ってしまった。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
届くのが楽しみで仕方がないね。
そして今は、自分でも写真を撮りたくて堪らないです。
途方に暮れる思想
保坂和志さんのエッセイ集『途方に暮れて、人生論』読了。
保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。
読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。
読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。
保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。
読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。
読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。
Sunday, May 28, 2006
最悪のゲーム
タマリバクラブの今シーズン2試合目となる練習試合があった。
5月28日(日)vs高麗クラブ(14:00 K.O. @三鷹大沢グラウンド)
昨日の雨もあって最悪のグランドコンディションだったけれど、多くのメンバーが意識を高く持ってプレーしていて、53-12での勝利となった。
そんな中で、自分自身のプレーの出来は、本当に最悪だった。
あまりに酷い。居ない方がましなくらいだった。メンバーの皆に申し訳ない。
ラグビーのことをこのブログで書くのは、当分やめようと思う。
書いている場合じゃないということが、今日のゲームではっきりしたので。
5月28日(日)vs高麗クラブ(14:00 K.O. @三鷹大沢グラウンド)
昨日の雨もあって最悪のグランドコンディションだったけれど、多くのメンバーが意識を高く持ってプレーしていて、53-12での勝利となった。
そんな中で、自分自身のプレーの出来は、本当に最悪だった。
あまりに酷い。居ない方がましなくらいだった。メンバーの皆に申し訳ない。
ラグビーのことをこのブログで書くのは、当分やめようと思う。
書いている場合じゃないということが、今日のゲームではっきりしたので。
Saturday, May 27, 2006
ただそこに在る
随分遅くなってしまったけれど、八丈島でのことを書き残しておきたい。
八丈島には、2つの山がある。
瓢箪型の島の北に八丈富士、そして南には三原山。
南北にそびえるこの2つの山によって、八丈島は型作られているんだ。
どちらも標高700m~800m程度で、決して高い山ではないけれど、独特の魅力を持った味わい深い山だね。2日間をかけてパートナーと山道を歩き廻ったのだけれど、八丈という島の魅力がそこには凝縮されていたように思う。2日間でかなりの距離を歩いたので、パートナーは持ってきた靴を履き潰してしまうほどだったけれど。
三原山登山道の入り口を左に折れて、そこから唐滝川に沿って山道を登っていくと、奥まった緑の中に綺麗な沼がある。硫黄沼という名の小さな沼だ。
エメラルドグリーンの見事な水面。沼の奥には硫黄滝というささやかな滝があって、硫黄沼へと澱みなく流れ落ちているのだけれど、その空間には水音ひとつしない。緑に囲まれたほんのわずかな空間は、凛として静かで、水面に広がるエメラルドグリーンの透明感を際立たせている。登山道からほんの少しだけ左に外れたところにあるのだけれど、この硫黄沼一帯だけは、全体の空間から独立して、それとして存在しているような感じで、気持ちをすごく落ち着かせてくれる。
登山道の本筋に戻ってさらに登っていくと、もうひとつの見処がある。それが、唐滝という八丈島で最も大きな滝だ。
40m弱の岩壁を降り落ちてくる滝の流れは、力強さよりもむしろ繊細さを醸している。滝壷に至るまでに、流れは小さな飛沫となって飛散して、霧吹きのように岩壁にやさしく広がっていく。そうして絶えることのないシャワーを浴びて、岩壁には苔が繁茂し、その苔の緑が唐滝の美しさの大切な一要素になっている。
硫黄沼にも言えることだけれど、唐滝も「静か」だ。流れが、というよりも、空間そのものが、と言った方が近いと思うけれど、唐滝の流れを含むその一帯がどこか静かで、落ち着いていて、自然の優しさが浮き上がっている。
翌日、今度は八丈富士に登る。標高は854mと三原山よりも若干高く、思っていた以上に登り甲斐のある山だった。山頂からは八丈島を一望でき、豊かな緑に包まれた山道には八丈島の魅力が詰まっていて、純粋に登山として楽しめる。そういう意味でもやはり、八丈富士は島のいちばんの名所と言っていいだろう。
八丈富士の最大の魅力は、なんと言っても緑生い茂る火口だ。山頂まで辿り着くと、そこからお鉢巡りをするのだけれど、眼下の火口は、青々とした草木で一面覆い尽くされている。この日の山頂はガスで霞がかっていて、視界は開けていなかったけれど、むしろそのガスの白みがどこか神々しくもあり、「山神様」とでもいうものがいたとするならば、きっとそれはこういうことなのかもしれない、なんて思ったりもする。うまく表現できないけれど、山の神というのはひとつの人格のようなものではなくて、「山」という空間そのものなんじゃないかと。大袈裟に言ってしまうと、そんな感じだね。
八丈富士のお鉢にはちゃんとルートもあって、中を探索していくことが出来る。特に行き着く先もなく、火口の中心に辿り着く前に、途中でルートは途絶えてしまうのだけれど、そこに広がる植物はとても力強く、生命力に満ちている感じだ。緑で埋め尽くされた火口を見たのは初めてだったけれど、遠くから望む限りは見ることのない場所に、これほどの自然が息づいているというのは、新鮮な驚きだった。
硫黄沼、そして唐滝を廻った時には、パートナーとおれ以外に誰もいなかった。
さすがに八丈富士にはそれなりの数の登山者がいたけれど、もしも登る人間がいなければ、火口に広がる樹木の緑は誰にも見られることがない。
そのことが、おれにはすごく印象的だった。
自然というのは「ただそこに在る」のだなあ、と。誰の承認を求めることもなく。
美しいと云う誰かがそこに居なかったとしても、自然はただそこに在って、美しい。
それはきっと、自然の強さなのだろう。
八丈島には、2つの山がある。
瓢箪型の島の北に八丈富士、そして南には三原山。
南北にそびえるこの2つの山によって、八丈島は型作られているんだ。
どちらも標高700m~800m程度で、決して高い山ではないけれど、独特の魅力を持った味わい深い山だね。2日間をかけてパートナーと山道を歩き廻ったのだけれど、八丈という島の魅力がそこには凝縮されていたように思う。2日間でかなりの距離を歩いたので、パートナーは持ってきた靴を履き潰してしまうほどだったけれど。
三原山登山道の入り口を左に折れて、そこから唐滝川に沿って山道を登っていくと、奥まった緑の中に綺麗な沼がある。硫黄沼という名の小さな沼だ。
エメラルドグリーンの見事な水面。沼の奥には硫黄滝というささやかな滝があって、硫黄沼へと澱みなく流れ落ちているのだけれど、その空間には水音ひとつしない。緑に囲まれたほんのわずかな空間は、凛として静かで、水面に広がるエメラルドグリーンの透明感を際立たせている。登山道からほんの少しだけ左に外れたところにあるのだけれど、この硫黄沼一帯だけは、全体の空間から独立して、それとして存在しているような感じで、気持ちをすごく落ち着かせてくれる。
登山道の本筋に戻ってさらに登っていくと、もうひとつの見処がある。それが、唐滝という八丈島で最も大きな滝だ。
40m弱の岩壁を降り落ちてくる滝の流れは、力強さよりもむしろ繊細さを醸している。滝壷に至るまでに、流れは小さな飛沫となって飛散して、霧吹きのように岩壁にやさしく広がっていく。そうして絶えることのないシャワーを浴びて、岩壁には苔が繁茂し、その苔の緑が唐滝の美しさの大切な一要素になっている。
硫黄沼にも言えることだけれど、唐滝も「静か」だ。流れが、というよりも、空間そのものが、と言った方が近いと思うけれど、唐滝の流れを含むその一帯がどこか静かで、落ち着いていて、自然の優しさが浮き上がっている。
翌日、今度は八丈富士に登る。標高は854mと三原山よりも若干高く、思っていた以上に登り甲斐のある山だった。山頂からは八丈島を一望でき、豊かな緑に包まれた山道には八丈島の魅力が詰まっていて、純粋に登山として楽しめる。そういう意味でもやはり、八丈富士は島のいちばんの名所と言っていいだろう。
八丈富士の最大の魅力は、なんと言っても緑生い茂る火口だ。山頂まで辿り着くと、そこからお鉢巡りをするのだけれど、眼下の火口は、青々とした草木で一面覆い尽くされている。この日の山頂はガスで霞がかっていて、視界は開けていなかったけれど、むしろそのガスの白みがどこか神々しくもあり、「山神様」とでもいうものがいたとするならば、きっとそれはこういうことなのかもしれない、なんて思ったりもする。うまく表現できないけれど、山の神というのはひとつの人格のようなものではなくて、「山」という空間そのものなんじゃないかと。大袈裟に言ってしまうと、そんな感じだね。
八丈富士のお鉢にはちゃんとルートもあって、中を探索していくことが出来る。特に行き着く先もなく、火口の中心に辿り着く前に、途中でルートは途絶えてしまうのだけれど、そこに広がる植物はとても力強く、生命力に満ちている感じだ。緑で埋め尽くされた火口を見たのは初めてだったけれど、遠くから望む限りは見ることのない場所に、これほどの自然が息づいているというのは、新鮮な驚きだった。
硫黄沼、そして唐滝を廻った時には、パートナーとおれ以外に誰もいなかった。
さすがに八丈富士にはそれなりの数の登山者がいたけれど、もしも登る人間がいなければ、火口に広がる樹木の緑は誰にも見られることがない。
そのことが、おれにはすごく印象的だった。
自然というのは「ただそこに在る」のだなあ、と。誰の承認を求めることもなく。
美しいと云う誰かがそこに居なかったとしても、自然はただそこに在って、美しい。
それはきっと、自然の強さなのだろう。
Tuesday, May 16, 2006
やさしさに包まれたなら
植村花菜さんというシンガーのことが、とても好きになりました。
初めて聴いたのは、八丈島から羽田へと戻るANAの飛行機。
ほんの1時間ばかりのフライトで、何気なく耳に当てたヘッドホンのラジオから流れてきたのが、荒井由美の名曲「やさしさに包まれたなら」のカバーだったんだ。
素晴らしかった。本当に素敵な歌声だと思いました。
上手いとか力強いとかテクニカルだとか、そういうことではなくてね、歌声そのものが良いです。声そのものが既に表現であるような、そんな歌声。
目にうっすらと涙が溜まる時のように、じんわりと心に沁み入ってきて。
荒井由美さんのこの曲をカバーすることになったのはきっと、彼女の天運だと思う。
勝手にそう思ってしまうくらいに、その声と曲がうまく溶け合っているね。
そして関係ないけれど、とても可愛い。
シングル、買ってみようかな。
http://www.uemurakana.com/index2.html
初めて聴いたのは、八丈島から羽田へと戻るANAの飛行機。
ほんの1時間ばかりのフライトで、何気なく耳に当てたヘッドホンのラジオから流れてきたのが、荒井由美の名曲「やさしさに包まれたなら」のカバーだったんだ。
素晴らしかった。本当に素敵な歌声だと思いました。
上手いとか力強いとかテクニカルだとか、そういうことではなくてね、歌声そのものが良いです。声そのものが既に表現であるような、そんな歌声。
目にうっすらと涙が溜まる時のように、じんわりと心に沁み入ってきて。
荒井由美さんのこの曲をカバーすることになったのはきっと、彼女の天運だと思う。
勝手にそう思ってしまうくらいに、その声と曲がうまく溶け合っているね。
そして関係ないけれど、とても可愛い。
シングル、買ってみようかな。
http://www.uemurakana.com/index2.html
Friday, April 28, 2006
八丈の海に潜る
随分久しぶりに、プライベートでの旅行に行ってきたんだ。
ちょっとした休暇を取って、3泊4日での小旅行。行き先は、八丈島。
今回の旅行の中で自分なりに感じたことを、この場に書き綴ることにします。
4月28日(金)
10時30分羽田発の飛行機に乗り込み、11時40分くらいには八丈島に到着していた。もっと遠い印象があったのだけれど、実際にはわずか1時間程度で辿り着ける訳で、移動は本当にあっという間だった。機内で軽く眠っていたら、起きた時にはもう島に到着している感じだ。
八丈島空港に降り立つ。最初に感じたのは、気候的には、普段暮らしている東京の街とさほど変わらないということ。若干暖かい程度で、特段の差はないように感じた。ただし、あくまでそれは初日の印象だ。実際には4日間の旅を通じて、気候的な違いをはっきりと感じることが出来た。
パンフレットの言葉を借りるならば「亜熱帯」。八丈は、やっぱり亜熱帯の島なんだ。
単純に、植物が違う。椰子の木が至るところに生い茂っており、他にも名前を知らない植物が数多く見られ、ちょっとした南国の心地がする。全般的な印象として、非常にカラフルな植生だ。また、空気の張りつめ具合や透明感といったものも、所謂「都内」とは明らかに違う。(八丈島も東京都なので、書き方は正確ではないけれど。)
12時頃にホテルに到着すると、まずはダイビングが出来るところを探すことにした。翌日から天気は下り坂という予報だったので、初日の午後に潜るのが一番楽しめるのではないかと思ったんだ。フロントにお願いして、午後で受付可能な体験ダイビングのツアーを紹介してもらい、なんとか14時からのツアーに予約を取ることが出来た。ツアーの時間は全体で約1時間半ということで、さすがに短いような気もしたけれど、折角の機会なので、お願いすることにしたんだ。
14時までの空いた時間で、昼飯を食べに行く。ホテルから15分ほど歩いて向かった先は、「一休庵」という蕎麦屋。八丈島では「明日葉蕎麦」が名物と聞いて、この機会に食べてみようと思ったんだ。明日葉を練り込んだ細麺の蕎麦で、特別美味いということもなかったけれど、きちんと葉の味を感じる麺で、悪くはなかったかな。
昼飯を済ませると、いよいよ体験ダイビング。"Project Wave"という会社のツアーで、迎えに来てくれたインストラクターの2人に連れられて、早速八丈島の海に向かった。実際に始まってみると、午後に潜るのはパートナーとおれの2人だけだったので、自分達のペースで動くことが出来て、その意味では非常に気楽で良かったね。
パートナーは過去に2度ダイビングの経験があるが、おれは今回が初めてだった。彼女はAUS、沖縄と潜ってきた経験から「初めて潜る場所はとても重要」といつも口にしていたけれど、八丈島が選択として良かったのかどうかは、おれには分からない。
インストラクターの指示のもと、ウェットスーツに着替えると、早速水に浸かって簡単に説明を受けていく。マスク、フィン、タンクといった装備を身に付けた後、呼吸の仕方や耳抜きといった基本的なガイドを受けると、いよいよインストラクターに寄り添いながら、八丈島の海に潜っていった。事前の説明は本当にラフなもので、若干心配ではあったけれど、実際に潜ってみると特に問題なく楽しむことが出来た。
海の中ではマンツーマンでインストラクターが寄り添って、進行方向や深さをコントロールしていく。自分ですることは呼吸と耳抜き、あとは顔の向きを変えることくらいだ。珊瑚やイソギンチャク、様々な熱帯魚を見ながらおよそ30分、八丈の海を味わっていく。熱帯魚の数はそれほど多くなかったけれど、カラフルで綺麗だった。
さて、所感。
陸からは見ることの出来ない海の景色は悪くなかった。
ただ、おれが最も強く感じたのは「不自由感」とでもいうものだった。
せいぜい5m程度の深さまで潜る為に、人間はあれほどの装備を必要としてしまういう事実。それでもなお海中を見たいという人間の好奇心にも驚くけれど、実際に装備を身に付けてみて初めて体感したあの不自由さには、少し思うところがあった。
単純にスーツの窮屈さや呼吸の問題もあると思う。また、インストラクターに自分の身の全てを預けるような体験コースだったことで、自分の意思で動くことの出来ない不自由もあった。加えて、言葉を発することが出来ないコミュニケーションの制約。海ゆえの不自由は非常に多く、それは当然のことだと思う。でも、その不自由を背負ってさえ、人間が辿り着けるのは、大海原の中の、本当に手の届きそうなところにある、わずかばかりのエリアだったりするのだからね。
ダイビングは五感の制約がとても大きい。聴覚、嗅覚、触覚といった比較的身体に対してダイレクトな感覚が閉じられていて、楽しみのほぼ全てが視覚に依拠している。
だからこそ、潜る海で決してしまう部分は強いのかもしれない。その意味では、八丈の海の表情は、それほど強い魅力を持って迫っては来なかったのかな、とも思う。
体験ダイビングではなく、きちんとライセンスを取得して、経験を重ねていけば違うのかもしれない。自分の意思で動き、自分の意思で海を堪能する。海の美しさを自分から探していく過程というのは、きっと楽しいだろうと思うけれど。
なにぶん初めての体験で、新鮮な楽しさは勿論あったけれど、今回のツアーに関して言うと、個人的には微妙な感じが残ってしまったね。本格的にライセンスを取得するとなると、現段階ではちょっと悩んでしまうかな。
ダイビングの後は、ホテルに戻って夕食。島寿司やお刺身といった海の幸中心の晩飯を食べると、食後は翌日のプランを決めたりしながら、部屋でゆっくりと過ごした。
そして翌日以降は、八丈島のもうひとつの自然、山を廻っていくことになります。
八丈島の景色を、おれの視点から。(海の写真はないけれど。)
http://www.23hq.com/Fukatsu/album/637324
ちょっとした休暇を取って、3泊4日での小旅行。行き先は、八丈島。
今回の旅行の中で自分なりに感じたことを、この場に書き綴ることにします。
4月28日(金)
10時30分羽田発の飛行機に乗り込み、11時40分くらいには八丈島に到着していた。もっと遠い印象があったのだけれど、実際にはわずか1時間程度で辿り着ける訳で、移動は本当にあっという間だった。機内で軽く眠っていたら、起きた時にはもう島に到着している感じだ。
八丈島空港に降り立つ。最初に感じたのは、気候的には、普段暮らしている東京の街とさほど変わらないということ。若干暖かい程度で、特段の差はないように感じた。ただし、あくまでそれは初日の印象だ。実際には4日間の旅を通じて、気候的な違いをはっきりと感じることが出来た。
パンフレットの言葉を借りるならば「亜熱帯」。八丈は、やっぱり亜熱帯の島なんだ。
単純に、植物が違う。椰子の木が至るところに生い茂っており、他にも名前を知らない植物が数多く見られ、ちょっとした南国の心地がする。全般的な印象として、非常にカラフルな植生だ。また、空気の張りつめ具合や透明感といったものも、所謂「都内」とは明らかに違う。(八丈島も東京都なので、書き方は正確ではないけれど。)
12時頃にホテルに到着すると、まずはダイビングが出来るところを探すことにした。翌日から天気は下り坂という予報だったので、初日の午後に潜るのが一番楽しめるのではないかと思ったんだ。フロントにお願いして、午後で受付可能な体験ダイビングのツアーを紹介してもらい、なんとか14時からのツアーに予約を取ることが出来た。ツアーの時間は全体で約1時間半ということで、さすがに短いような気もしたけれど、折角の機会なので、お願いすることにしたんだ。
14時までの空いた時間で、昼飯を食べに行く。ホテルから15分ほど歩いて向かった先は、「一休庵」という蕎麦屋。八丈島では「明日葉蕎麦」が名物と聞いて、この機会に食べてみようと思ったんだ。明日葉を練り込んだ細麺の蕎麦で、特別美味いということもなかったけれど、きちんと葉の味を感じる麺で、悪くはなかったかな。
昼飯を済ませると、いよいよ体験ダイビング。"Project Wave"という会社のツアーで、迎えに来てくれたインストラクターの2人に連れられて、早速八丈島の海に向かった。実際に始まってみると、午後に潜るのはパートナーとおれの2人だけだったので、自分達のペースで動くことが出来て、その意味では非常に気楽で良かったね。
パートナーは過去に2度ダイビングの経験があるが、おれは今回が初めてだった。彼女はAUS、沖縄と潜ってきた経験から「初めて潜る場所はとても重要」といつも口にしていたけれど、八丈島が選択として良かったのかどうかは、おれには分からない。
インストラクターの指示のもと、ウェットスーツに着替えると、早速水に浸かって簡単に説明を受けていく。マスク、フィン、タンクといった装備を身に付けた後、呼吸の仕方や耳抜きといった基本的なガイドを受けると、いよいよインストラクターに寄り添いながら、八丈島の海に潜っていった。事前の説明は本当にラフなもので、若干心配ではあったけれど、実際に潜ってみると特に問題なく楽しむことが出来た。
海の中ではマンツーマンでインストラクターが寄り添って、進行方向や深さをコントロールしていく。自分ですることは呼吸と耳抜き、あとは顔の向きを変えることくらいだ。珊瑚やイソギンチャク、様々な熱帯魚を見ながらおよそ30分、八丈の海を味わっていく。熱帯魚の数はそれほど多くなかったけれど、カラフルで綺麗だった。
さて、所感。
陸からは見ることの出来ない海の景色は悪くなかった。
ただ、おれが最も強く感じたのは「不自由感」とでもいうものだった。
せいぜい5m程度の深さまで潜る為に、人間はあれほどの装備を必要としてしまういう事実。それでもなお海中を見たいという人間の好奇心にも驚くけれど、実際に装備を身に付けてみて初めて体感したあの不自由さには、少し思うところがあった。
単純にスーツの窮屈さや呼吸の問題もあると思う。また、インストラクターに自分の身の全てを預けるような体験コースだったことで、自分の意思で動くことの出来ない不自由もあった。加えて、言葉を発することが出来ないコミュニケーションの制約。海ゆえの不自由は非常に多く、それは当然のことだと思う。でも、その不自由を背負ってさえ、人間が辿り着けるのは、大海原の中の、本当に手の届きそうなところにある、わずかばかりのエリアだったりするのだからね。
ダイビングは五感の制約がとても大きい。聴覚、嗅覚、触覚といった比較的身体に対してダイレクトな感覚が閉じられていて、楽しみのほぼ全てが視覚に依拠している。
だからこそ、潜る海で決してしまう部分は強いのかもしれない。その意味では、八丈の海の表情は、それほど強い魅力を持って迫っては来なかったのかな、とも思う。
体験ダイビングではなく、きちんとライセンスを取得して、経験を重ねていけば違うのかもしれない。自分の意思で動き、自分の意思で海を堪能する。海の美しさを自分から探していく過程というのは、きっと楽しいだろうと思うけれど。
なにぶん初めての体験で、新鮮な楽しさは勿論あったけれど、今回のツアーに関して言うと、個人的には微妙な感じが残ってしまったね。本格的にライセンスを取得するとなると、現段階ではちょっと悩んでしまうかな。
ダイビングの後は、ホテルに戻って夕食。島寿司やお刺身といった海の幸中心の晩飯を食べると、食後は翌日のプランを決めたりしながら、部屋でゆっくりと過ごした。
そして翌日以降は、八丈島のもうひとつの自然、山を廻っていくことになります。
八丈島の景色を、おれの視点から。(海の写真はないけれど。)
http://www.23hq.com/Fukatsu/album/637324
Monday, April 24, 2006
失敗について
私は実験において失敗など一度たりともしていない。
これでは電球は光らないという発見を、今までに2万回してきたのだ。
成功するまで続けず、途中で諦めてしまえば、それで失敗である。
学生時代、買った文庫本の栞に松下幸之助のこの言葉が書かれていたんだ。
当時、豪徳寺に借りていた木造アパートの柱にセロハンテープで貼ってました。
今でも素晴らしい言葉だと思う。そう生きていきたいよね。
これでは電球は光らないという発見を、今までに2万回してきたのだ。
トーマス・アルヴァ・エジソン
成功するまで続けず、途中で諦めてしまえば、それで失敗である。
松下幸之助
学生時代、買った文庫本の栞に松下幸之助のこの言葉が書かれていたんだ。
当時、豪徳寺に借りていた木造アパートの柱にセロハンテープで貼ってました。
今でも素晴らしい言葉だと思う。そう生きていきたいよね。
Sunday, April 23, 2006
自分の今を知る
4/23(日)練習 16:00-18:00 @酒井スポーツ広場
小田急線の本厚木駅からバスで5分。相模川の河川敷に広がる芝生のグラウンドに10数名のメンバーが集まって、約2時間の練習を行った。今日の練習場所は本当に直前まで確保できていなかったのだけれど、よく見つかったと思う。確かにアクセスは不便な場所だけれど、クラブチームにとってグラウンドは死活問題だからね。こうしてグラウンド確保に奔走してくれる人達の存在があって、初めてラグビーできます。
ありがとう。
これからも、神様がいるからきっと大丈夫。(これは私信だけれど。)
今日の練習は、個人的には楽しかった。
参加人数が少なく、ほぼタッチフット主体の練習になったけれど、少ない人数ゆえに考えざるを得ない要素が沢山あって、そのことが練習の価値を高めてくれた。
この日の練習でも、少なくない数のミスをした。下手だなーと自分でも思う。
悔しいけれど、仕方ないね。それが今の自分のレベルだから。
今日感じたのは、自分のスキルや判断力のレベルを、自分自身できちんと把握してプレーするということ。例えば、タイトなプレッシャーの中でのパススキルは、プレーにゆとりを与え、判断する時間をより長く確保できる。パススキルに自信がある人間は、より相手DFに近い間合いまでパスの判断を猶予できる。それはつまり、プレーの選択肢を幅広く残しておけるということで、ゆえに相手DFは狙いを絞れない。
しかし、その前提はスキルだ。
ぎりぎりの間合いでもパスをつなげるという自信がどうしても必要になる。
自分のスキルを把握するということはつまり、パスの判断を猶予できるデッドラインを自覚してプレーすることだと思う。自分のスキルをベースに、確実な判断をすることで、プレーの精度は上がっていくはずだ。逆に自分自身の判断のラインを認識しない人間は、それゆえにミスをしてしまう。
もちろん、この判断のラインをより相手DFの懐に近い位置に持つ為に、日々の練習の中でチャレンジしていくことは重要なことだと思う。でも、前提となる「今」のレベルを知らなければ、ミスはきっと繰り返されるだろうし、自分が「何に」チャレンジしているのかさえも、きっと分からないだろう。
とにかく、ミスをしない。
とてもシンプルで、でも非常に難しいこの目標に、少しずつ近づいていきたい。
その為に、ミスの原因を自分で突き詰めるというのは、きっとそういうことなんだね。
小田急線の本厚木駅からバスで5分。相模川の河川敷に広がる芝生のグラウンドに10数名のメンバーが集まって、約2時間の練習を行った。今日の練習場所は本当に直前まで確保できていなかったのだけれど、よく見つかったと思う。確かにアクセスは不便な場所だけれど、クラブチームにとってグラウンドは死活問題だからね。こうしてグラウンド確保に奔走してくれる人達の存在があって、初めてラグビーできます。
ありがとう。
これからも、神様がいるからきっと大丈夫。(これは私信だけれど。)
今日の練習は、個人的には楽しかった。
参加人数が少なく、ほぼタッチフット主体の練習になったけれど、少ない人数ゆえに考えざるを得ない要素が沢山あって、そのことが練習の価値を高めてくれた。
この日の練習でも、少なくない数のミスをした。下手だなーと自分でも思う。
悔しいけれど、仕方ないね。それが今の自分のレベルだから。
今日感じたのは、自分のスキルや判断力のレベルを、自分自身できちんと把握してプレーするということ。例えば、タイトなプレッシャーの中でのパススキルは、プレーにゆとりを与え、判断する時間をより長く確保できる。パススキルに自信がある人間は、より相手DFに近い間合いまでパスの判断を猶予できる。それはつまり、プレーの選択肢を幅広く残しておけるということで、ゆえに相手DFは狙いを絞れない。
しかし、その前提はスキルだ。
ぎりぎりの間合いでもパスをつなげるという自信がどうしても必要になる。
自分のスキルを把握するということはつまり、パスの判断を猶予できるデッドラインを自覚してプレーすることだと思う。自分のスキルをベースに、確実な判断をすることで、プレーの精度は上がっていくはずだ。逆に自分自身の判断のラインを認識しない人間は、それゆえにミスをしてしまう。
もちろん、この判断のラインをより相手DFの懐に近い位置に持つ為に、日々の練習の中でチャレンジしていくことは重要なことだと思う。でも、前提となる「今」のレベルを知らなければ、ミスはきっと繰り返されるだろうし、自分が「何に」チャレンジしているのかさえも、きっと分からないだろう。
とにかく、ミスをしない。
とてもシンプルで、でも非常に難しいこの目標に、少しずつ近づいていきたい。
その為に、ミスの原因を自分で突き詰めるというのは、きっとそういうことなんだね。
春の目標
4月22日(土)練習 9:00-11:00 @辰巳の森ラグビー場
相変わらず自分のプレーの精度が低い。ミス、そしてミス。いつも同じだ。
練習に参加する人数。周囲のプレーヤーのレベル。チーム全体としての練習の質。今シーズンから新加入のメンバーとの意思疎通。すべて関係ない。
ただ、自分が下手くそなだけだ。
自分にとっての春の目標を、2つに絞ります。
この場に書き残すことで、自分の意識に刻み込みたい。
この2つを決して忘れずに、残された春シーズンの練習に臨みたいと思います。
1.ミスをしない
集中力、あるいは意識の持ち方をちょっと変えるだけで防げるミスが幾つもある。
決して高度な練習をしている訳ではなく、今起きているミスの殆どは、自分の内側に理由を含んでいるものだと思う。とにかく、そいつをゼロにしたい。
ゼロにしようと常に意識する。そして、それでも起きるミスの原因を徹底的に反省し、練習の中で消していく。そのプロセスを、グラウンドにおける自分の標準にする。
これが出来なければ、今のおれを誰も信用しないと思うんだ。
もともと上手くないんだから。
2.タックルを踏み込む
学生の頃、タックル練習でよく「飛び込め」と言われた。
今考えれば、全く違う。タックルは飛び込んだら終わりだ。踏み込まないといけない。
タマリバでは「Up, Watch, Up」を合言葉にしている。まず相手との間合いを詰める。そこでウォッチして、相手の動きに反応する。そして、相手が自分のタックルレンジに入ったところで、前に踏み込んで倒す。基本的なことだけれど、タマリバではこれをチームの決めごととして、全体練習のメニューの中で常に意識づけが図られている。
Upは出来る。Watchも出来ると思う。でも、最後のUpが出来ない。
この最後の踏み込みこそが、昨年から持ち越している、おれの最大の課題です。
春はとにかく前に出たい。
目的を持った失敗を重ねて、何度も繰り返して、自分のタックルを身に付けたい。
たった2つだけです。
目的意識を持ち、自分の課題を常に意識して、上手くなる為の練習をしていきたい。
相変わらず自分のプレーの精度が低い。ミス、そしてミス。いつも同じだ。
練習に参加する人数。周囲のプレーヤーのレベル。チーム全体としての練習の質。今シーズンから新加入のメンバーとの意思疎通。すべて関係ない。
ただ、自分が下手くそなだけだ。
自分にとっての春の目標を、2つに絞ります。
この場に書き残すことで、自分の意識に刻み込みたい。
この2つを決して忘れずに、残された春シーズンの練習に臨みたいと思います。
1.ミスをしない
集中力、あるいは意識の持ち方をちょっと変えるだけで防げるミスが幾つもある。
決して高度な練習をしている訳ではなく、今起きているミスの殆どは、自分の内側に理由を含んでいるものだと思う。とにかく、そいつをゼロにしたい。
ゼロにしようと常に意識する。そして、それでも起きるミスの原因を徹底的に反省し、練習の中で消していく。そのプロセスを、グラウンドにおける自分の標準にする。
これが出来なければ、今のおれを誰も信用しないと思うんだ。
もともと上手くないんだから。
2.タックルを踏み込む
学生の頃、タックル練習でよく「飛び込め」と言われた。
今考えれば、全く違う。タックルは飛び込んだら終わりだ。踏み込まないといけない。
タマリバでは「Up, Watch, Up」を合言葉にしている。まず相手との間合いを詰める。そこでウォッチして、相手の動きに反応する。そして、相手が自分のタックルレンジに入ったところで、前に踏み込んで倒す。基本的なことだけれど、タマリバではこれをチームの決めごととして、全体練習のメニューの中で常に意識づけが図られている。
Upは出来る。Watchも出来ると思う。でも、最後のUpが出来ない。
この最後の踏み込みこそが、昨年から持ち越している、おれの最大の課題です。
春はとにかく前に出たい。
目的を持った失敗を重ねて、何度も繰り返して、自分のタックルを身に付けたい。
たった2つだけです。
目的意識を持ち、自分の課題を常に意識して、上手くなる為の練習をしていきたい。
Sunday, April 16, 2006
召喚と憑依
昨年10月以来となる、人生2度目のタップダンス鑑賞。
セヴィアン・グローバーというタップダンサーのソロ公演だ。
Savion Glover in CLASSICAL SAVION @東京国際フォーラム Hall C
タップダンスの世界については、恥ずかしながら全く知らない。
パートナーの薦めのもと、生まれて初めてライブ・ステージに足を運んだ前回。あの時の熊谷和徳のタップ "TAP ME CRAZY" が、タップダンスについておれの知っているほぼ全てだ。そんな訳で、恥ずかしながらセヴィアン・グローバーというタップダンサーのことも、実は何ひとつ知らなかった。
セヴィアン・グローバーは、1996年のブロードウェイ・ミュージカル「ノイズ&ファンク(Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk)」でのトニー賞受賞以降、数々の賞を獲得してタップ界の頂点に君臨しており、「タップの神」と呼ばれているそうだ。そのセヴィアン・グローバーによる今回の日本公演 "Savion Glover in CLASSICAL SAVION" は、クラシック音楽とタップダンスとのコラボレーション・ステージで、13人で編成されたオーケストラの奏でるクラシックの名曲に、彼が踏むタップのリズムを融合させていく形式で構成されている。2005年1月のNY公演においてこの新作が演じられた際に、観衆から大絶賛を浴びたそうだ。
さて、東京国際フォーラムで行われた日本公演。
2時間弱のパフォーマンスが終わると、大多数の観衆が立ち上がり、スタンディング・オベーションが起こった。アンコールはなかったけれど、最前列の観客と握手を交わすセヴィアンの姿には悲鳴のような声も降り注いでいた。
でも、隣で一緒に鑑賞していたパートナーは席を立たなかった。
そしておれ自身も、どこか満たされない感覚を残したまま2時間を終えてしまった。
ちなみに、社会人ラグビー時代の後輩とその彼女も一緒だったのだけれど、彼ら2人も同じような感想を口にしていた。その意味では、必ずしもおれの個人的な感覚だけの問題ではないような気がしている。
たった2回のタップ鑑賞だけれど、これほど違うとは思わなかった。
熊谷和徳とセヴィアン・グローバー、2人のタップの方向性は明らかに違うと感じた。
セヴィアン・グローバーは「召喚」のタップだ。
彼の中には、自分が演じるべきタップが確立している。観衆の前で彼が踏むべきステップは、彼の自我の世界の中で完成し、完結しているように感じる。洗練され、磨き上げられた技術と彼自身の感性をベースに、セヴィアンとして「セヴィアン」たることを表現する為のパフォーマンスは、すべてセヴィアン・グローバーという人間の自我の中で構成され、それが観衆に対して突きつけられるような感覚だ。
彼にとっての音楽は、自身のパフォーマンスを最大限に高める触媒のようであり、音楽に溶け合っていくというよりも、ステップを踏む上で彼の求める音楽を、彼自身が呼び出していくイメージの方が近い。無音の状態のもとにあって、セヴィアンの自我の中で演じるべきタップのリズムが決められていく。そして彼が小さくステップを踏み始めると、そのリズムはオーケストラへと波及していく。「分かるだろう、このリズムが呼び出す音の世界が」といった具合に、彼によって音が「召喚」される。
だから彼は、ステージにおいて決して自分をゼロにしない。常に「1」だ。そして、その「1」の世界は、きっとセヴィアン・グローバーという人間にしか創り上げることの出来ない「極み」の世界なのだと思う。残念ながら、今のおれにはそれを感じ取る感性はなかったけれど。
対照的に、熊谷のタップは「憑依」のタップだ。
熊谷は時に、ステージにおいて自分をゼロにする。少なくとも彼の表情は、そういう世界観を見事なまでに体現している。熊谷のタップには、セヴィアン・グローバーのように強烈に自我を突きつけてくる感覚はない。そうではなくて、何かが彼の中に降りてきて、取り憑いて、そしてその憑依した何かが彼の身体を借りてステップを創り出していくような、そういう独特の雰囲気が漂っている。
だから、熊谷のアウトプットはきっと定まらない。緻密なレッスンによる定められた公演であったとしても、少なくとも観衆の前で繰り広げられる世界には、定まらない感覚がどこかに潜んでいる。熊谷にとっての音楽はきっと、ある種のインプットだ。音楽だけではない。その場の空気、観衆の表情や気配。ちょっとした囁きや小さな雑音。そういったあらゆるものが、ゼロになった熊谷に取り憑いて、憑依することで新しい何かが創り出される。ある瞬間に存在する、オンリーワンの世界をインプットに、熊谷和徳というタップダンサー自身が触媒となって、新しいひとつの表現が構成される。
それこそが、たった1度しか観たことはないけれど、おれにとっての熊谷和徳の魅力であり、直感的には、彼以外のタップダンサーが持ち得ない、彼ゆえの世界なのだと思っている。セヴィアンのタップとは、まさしく正反対の志向だろう。
セヴィアン・グローバーの公演は、残念ながら満ち足りないものが残った。
しかし、セヴィアン・グローバーという、ひとつの方向性で頂点に君臨する人間のパフォーマンスを観たことで、自分がタップに求めていたものが明確になった。
もう一度、改めて熊谷和徳のタップを観たいです。そして、突き抜けてほしい。
セヴィアン・グローバーというタップダンサーのソロ公演だ。
Savion Glover in CLASSICAL SAVION @東京国際フォーラム Hall C
タップダンスの世界については、恥ずかしながら全く知らない。
パートナーの薦めのもと、生まれて初めてライブ・ステージに足を運んだ前回。あの時の熊谷和徳のタップ "TAP ME CRAZY" が、タップダンスについておれの知っているほぼ全てだ。そんな訳で、恥ずかしながらセヴィアン・グローバーというタップダンサーのことも、実は何ひとつ知らなかった。
セヴィアン・グローバーは、1996年のブロードウェイ・ミュージカル「ノイズ&ファンク(Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk)」でのトニー賞受賞以降、数々の賞を獲得してタップ界の頂点に君臨しており、「タップの神」と呼ばれているそうだ。そのセヴィアン・グローバーによる今回の日本公演 "Savion Glover in CLASSICAL SAVION" は、クラシック音楽とタップダンスとのコラボレーション・ステージで、13人で編成されたオーケストラの奏でるクラシックの名曲に、彼が踏むタップのリズムを融合させていく形式で構成されている。2005年1月のNY公演においてこの新作が演じられた際に、観衆から大絶賛を浴びたそうだ。
さて、東京国際フォーラムで行われた日本公演。
2時間弱のパフォーマンスが終わると、大多数の観衆が立ち上がり、スタンディング・オベーションが起こった。アンコールはなかったけれど、最前列の観客と握手を交わすセヴィアンの姿には悲鳴のような声も降り注いでいた。
でも、隣で一緒に鑑賞していたパートナーは席を立たなかった。
そしておれ自身も、どこか満たされない感覚を残したまま2時間を終えてしまった。
ちなみに、社会人ラグビー時代の後輩とその彼女も一緒だったのだけれど、彼ら2人も同じような感想を口にしていた。その意味では、必ずしもおれの個人的な感覚だけの問題ではないような気がしている。
たった2回のタップ鑑賞だけれど、これほど違うとは思わなかった。
熊谷和徳とセヴィアン・グローバー、2人のタップの方向性は明らかに違うと感じた。
セヴィアン・グローバーは「召喚」のタップだ。
彼の中には、自分が演じるべきタップが確立している。観衆の前で彼が踏むべきステップは、彼の自我の世界の中で完成し、完結しているように感じる。洗練され、磨き上げられた技術と彼自身の感性をベースに、セヴィアンとして「セヴィアン」たることを表現する為のパフォーマンスは、すべてセヴィアン・グローバーという人間の自我の中で構成され、それが観衆に対して突きつけられるような感覚だ。
彼にとっての音楽は、自身のパフォーマンスを最大限に高める触媒のようであり、音楽に溶け合っていくというよりも、ステップを踏む上で彼の求める音楽を、彼自身が呼び出していくイメージの方が近い。無音の状態のもとにあって、セヴィアンの自我の中で演じるべきタップのリズムが決められていく。そして彼が小さくステップを踏み始めると、そのリズムはオーケストラへと波及していく。「分かるだろう、このリズムが呼び出す音の世界が」といった具合に、彼によって音が「召喚」される。
だから彼は、ステージにおいて決して自分をゼロにしない。常に「1」だ。そして、その「1」の世界は、きっとセヴィアン・グローバーという人間にしか創り上げることの出来ない「極み」の世界なのだと思う。残念ながら、今のおれにはそれを感じ取る感性はなかったけれど。
対照的に、熊谷のタップは「憑依」のタップだ。
熊谷は時に、ステージにおいて自分をゼロにする。少なくとも彼の表情は、そういう世界観を見事なまでに体現している。熊谷のタップには、セヴィアン・グローバーのように強烈に自我を突きつけてくる感覚はない。そうではなくて、何かが彼の中に降りてきて、取り憑いて、そしてその憑依した何かが彼の身体を借りてステップを創り出していくような、そういう独特の雰囲気が漂っている。
だから、熊谷のアウトプットはきっと定まらない。緻密なレッスンによる定められた公演であったとしても、少なくとも観衆の前で繰り広げられる世界には、定まらない感覚がどこかに潜んでいる。熊谷にとっての音楽はきっと、ある種のインプットだ。音楽だけではない。その場の空気、観衆の表情や気配。ちょっとした囁きや小さな雑音。そういったあらゆるものが、ゼロになった熊谷に取り憑いて、憑依することで新しい何かが創り出される。ある瞬間に存在する、オンリーワンの世界をインプットに、熊谷和徳というタップダンサー自身が触媒となって、新しいひとつの表現が構成される。
それこそが、たった1度しか観たことはないけれど、おれにとっての熊谷和徳の魅力であり、直感的には、彼以外のタップダンサーが持ち得ない、彼ゆえの世界なのだと思っている。セヴィアンのタップとは、まさしく正反対の志向だろう。
セヴィアン・グローバーの公演は、残念ながら満ち足りないものが残った。
しかし、セヴィアン・グローバーという、ひとつの方向性で頂点に君臨する人間のパフォーマンスを観たことで、自分がタップに求めていたものが明確になった。
もう一度、改めて熊谷和徳のタップを観たいです。そして、突き抜けてほしい。
Sunday, April 09, 2006
背伸びしない
久しぶりに劇場で映画を観た。
三谷幸喜監督の最新作『THE有頂天ホテル』ね。
大晦日の夜、あるホテルで繰り広げられる様々な人間模様をコメディタッチで描いた作品。それぞれの事情やバックグラウンドを持つ人間達が、「ホテル」という舞台の中で、意図せざる奇妙な偶然の流れに翻弄されながら複雑に絡み合っていく。誰かの行為が、本人の与り知らないところで別の誰かの救いとなったり、あるいは他人の心の葛藤に向き合うことで、自分自身の心の葛藤が浮き彫りにされたり、そうやって織り成されていく小さなドラマが全編に渡ってうまく散りばめられている。
信頼できる後輩の評価とはちょっと違うのだけれど、個人的には良い映画だと思う。
この映画のメッセージは極めてシンプルなもので、つまりは「自分に嘘をつかない」ということが全てだ。「嘘」と言うと言い過ぎかも知れないけれど、自分自身の思いに正面から向き合おうとしない、ということがある種の嘘であるならば、概ねこのフレーズにエッセンスは集約されると思う。
それぞれの登場人物が抱える思いや葛藤は異なるけれど、皆どこかで自分を押し隠している。背伸びをしている人間もいれば、着飾る人間もいる。卑屈になるやつや、自分の弱さを認められないやつもいる。事情は皆違う。当然ながら、それぞれにとっての救いは個人的なもので、誰しもに共通する救いが提示される訳ではない。夢に向かう自信を取り戻して救いを得る人間がいれば、夢の次に向かった世界で真摯に生きてきたその生き方を素直に認められることで救いを得る人間もいる。
そういう世界観は、悪くないと思うんだ。
ホテルという舞台設定。
日常の生活空間とは違う、ちょっと背伸びした世界。それでいて、家という日常空間にいる時のように安らげる場所であって欲しいと願うホテルマンの「おかえりなさいませ」という一言が、背伸びのない世界への肯定へと導いていく。
そして、コメディ。
他人の背伸びは、傍から見れば思わず笑ってしまうな滑稽なものだったりもする。各人各様の思いの中から生まれる「背伸びした自分」というものを、コメディの形式で優しく笑い飛ばすことで、人間らしさを演出していくような感覚。
というとちょっと言い過ぎではあるけれど、人間味ある良い映画だと思います。
三谷幸喜監督の最新作『THE有頂天ホテル』ね。
大晦日の夜、あるホテルで繰り広げられる様々な人間模様をコメディタッチで描いた作品。それぞれの事情やバックグラウンドを持つ人間達が、「ホテル」という舞台の中で、意図せざる奇妙な偶然の流れに翻弄されながら複雑に絡み合っていく。誰かの行為が、本人の与り知らないところで別の誰かの救いとなったり、あるいは他人の心の葛藤に向き合うことで、自分自身の心の葛藤が浮き彫りにされたり、そうやって織り成されていく小さなドラマが全編に渡ってうまく散りばめられている。
信頼できる後輩の評価とはちょっと違うのだけれど、個人的には良い映画だと思う。
この映画のメッセージは極めてシンプルなもので、つまりは「自分に嘘をつかない」ということが全てだ。「嘘」と言うと言い過ぎかも知れないけれど、自分自身の思いに正面から向き合おうとしない、ということがある種の嘘であるならば、概ねこのフレーズにエッセンスは集約されると思う。
それぞれの登場人物が抱える思いや葛藤は異なるけれど、皆どこかで自分を押し隠している。背伸びをしている人間もいれば、着飾る人間もいる。卑屈になるやつや、自分の弱さを認められないやつもいる。事情は皆違う。当然ながら、それぞれにとっての救いは個人的なもので、誰しもに共通する救いが提示される訳ではない。夢に向かう自信を取り戻して救いを得る人間がいれば、夢の次に向かった世界で真摯に生きてきたその生き方を素直に認められることで救いを得る人間もいる。
そういう世界観は、悪くないと思うんだ。
ホテルという舞台設定。
日常の生活空間とは違う、ちょっと背伸びした世界。それでいて、家という日常空間にいる時のように安らげる場所であって欲しいと願うホテルマンの「おかえりなさいませ」という一言が、背伸びのない世界への肯定へと導いていく。
そして、コメディ。
他人の背伸びは、傍から見れば思わず笑ってしまうな滑稽なものだったりもする。各人各様の思いの中から生まれる「背伸びした自分」というものを、コメディの形式で優しく笑い飛ばすことで、人間らしさを演出していくような感覚。
というとちょっと言い過ぎではあるけれど、人間味ある良い映画だと思います。
Monday, April 03, 2006
神奈川セブンス
4月2日(日)神奈川セブンス@保土ヶ谷ラグビー場
香港10'sを終えて帰国したメンバーも合流して、タマリバクラブとしては今シーズン最初となる公式戦に参加した。毎年この時期に行われる神奈川セブンスだ。
三菱重工相模原、栗田工業、キヤノンといった社会人チームに加え、学生からは関東学院大学、クラブチームからは湘南フジクラブも参加して、全16チームで行われる7人制のトーナメント。タマリバからはA、Bの2チームがエントリーしたのだけれど、おれ自身はBチームのゲームキャプテンを務めることになった。
試合の結果としては、残念なものになってしまった。
Bチームは1回戦で三菱重工相模原に負けてしまった。先制トライを奪い、僅差で前半を折り返したものの、後半に入ると開いてしまった。その後に行われた三菱重工横浜との敗者戦には圧勝したけれど、1回戦敗退というのは変わらないからね。なんとかもう少し重工相模原に喰い下がってみせたかった。
Aチームは、1回戦こそ三菱重工横浜相手に60点近くを奪って完封したものの、2回戦で三菱重工相模原に逆転負けを喫してしまった。チームとしての練習不足は否めないけれど、なんとなく歯車が噛み合わないままゲームが終わってしまった。来週にはYCACセブンスという由緒ある大会が控えているので、限られた時間の中で各自が修正点を考えて、チームとしてのコンディションを高めていくしかないね。
さて、Bチーム。
この大会をBチームでプレーしたことは、結果的には自分にとってよかった。
Aチームには司令塔としてゲームをコントロールできる人間がいる。黙っていても豊富な運動量でチームを支えてくれるFWの選手がいる。それを考えると、Aチームの方が圧倒的にプレーしやすい。でも一方で、そういう選手に頼り切ってしまう部分があることも事実なんだ。ゲームメーカーの動きを感じてさえいれば、彼らが相手のDFを崩してくれる。フィットネスが落ちて苦しい状況でも、彼らが指示を出してチームを引っ張ってくれる。存在感のある選手に対してのそうした「依存」は、程度の差こそあれ、Aチームの選手にも少なくない割合で見られるものだと思う。
Bにはないからね。依存する先がそもそもない。
むしろゲームキャプテンとして、自分がチームを鼓舞していかなければならない。
それは今の自分にとって、いい経験となったと思う。
もちろん、納得できるレベルまで出来た訳では全然ないのだけれど、Bチームのメンバー10人が、それぞれに現在置かれている状況の中で一生懸命にプレーしてくれたことが、ゲームキャプテンとして嬉しかった。
それにしても、今日改めて思ったけれど、セブンスは苦手です。
香港10'sを終えて帰国したメンバーも合流して、タマリバクラブとしては今シーズン最初となる公式戦に参加した。毎年この時期に行われる神奈川セブンスだ。
三菱重工相模原、栗田工業、キヤノンといった社会人チームに加え、学生からは関東学院大学、クラブチームからは湘南フジクラブも参加して、全16チームで行われる7人制のトーナメント。タマリバからはA、Bの2チームがエントリーしたのだけれど、おれ自身はBチームのゲームキャプテンを務めることになった。
試合の結果としては、残念なものになってしまった。
Bチームは1回戦で三菱重工相模原に負けてしまった。先制トライを奪い、僅差で前半を折り返したものの、後半に入ると開いてしまった。その後に行われた三菱重工横浜との敗者戦には圧勝したけれど、1回戦敗退というのは変わらないからね。なんとかもう少し重工相模原に喰い下がってみせたかった。
Aチームは、1回戦こそ三菱重工横浜相手に60点近くを奪って完封したものの、2回戦で三菱重工相模原に逆転負けを喫してしまった。チームとしての練習不足は否めないけれど、なんとなく歯車が噛み合わないままゲームが終わってしまった。来週にはYCACセブンスという由緒ある大会が控えているので、限られた時間の中で各自が修正点を考えて、チームとしてのコンディションを高めていくしかないね。
さて、Bチーム。
この大会をBチームでプレーしたことは、結果的には自分にとってよかった。
Aチームには司令塔としてゲームをコントロールできる人間がいる。黙っていても豊富な運動量でチームを支えてくれるFWの選手がいる。それを考えると、Aチームの方が圧倒的にプレーしやすい。でも一方で、そういう選手に頼り切ってしまう部分があることも事実なんだ。ゲームメーカーの動きを感じてさえいれば、彼らが相手のDFを崩してくれる。フィットネスが落ちて苦しい状況でも、彼らが指示を出してチームを引っ張ってくれる。存在感のある選手に対してのそうした「依存」は、程度の差こそあれ、Aチームの選手にも少なくない割合で見られるものだと思う。
Bにはないからね。依存する先がそもそもない。
むしろゲームキャプテンとして、自分がチームを鼓舞していかなければならない。
それは今の自分にとって、いい経験となったと思う。
もちろん、納得できるレベルまで出来た訳では全然ないのだけれど、Bチームのメンバー10人が、それぞれに現在置かれている状況の中で一生懸命にプレーしてくれたことが、ゲームキャプテンとして嬉しかった。
それにしても、今日改めて思ったけれど、セブンスは苦手です。
Friday, March 31, 2006
パワーが出ない
何故だか分からないけれど、左半身の筋力が突然落ちてしまった。
特段思い当たるふしは何もないのに、右半身の半分くらいしかパワーが出ない。
アームカールもショルダープレスも、本当に半分しか上がらなくなってしまった。
そんな訳で、ちょっと困っています。
特段思い当たるふしは何もないのに、右半身の半分くらいしかパワーが出ない。
アームカールもショルダープレスも、本当に半分しか上がらなくなってしまった。
そんな訳で、ちょっと困っています。
Saturday, March 25, 2006
色を塗る
パートナーに触発されて、カンバスに色を塗ってみた。
画廊で働くうちのパートナーは、自分でも絵を描き溜めている。自宅の一室をアトリエにして、ケントパネルにアクリル絵の具でイメージを描いていくのだけれど、仕事帰りの疲れた身体でも、驚くほどの集中力でいつも机に向かっている。この1年間ほどで、100枚近くの絵を描いているのだから、絵を描くことが本当に好きなのだと思う。
描き続ける中で、彼女の好奇心であったり、描くことへのこだわりは日に日に高まっていて、最近では遂にカンバスに絵を描くようになった。そして、ずっと欲しがっていたイーゼルもようやく買い揃えることが出来て、アトリエとして使っている4畳半の小部屋は、今では完全にアーティスティックな空間となった。
カンバスとイーゼル。
この2つが揃うと、絵筆を持ったことのない人間でも、描いてみたくなるよね。
だから、真っ白なカンバスを1枚だけもらって、やってみることにしたんだ。
断っておくけれど、絵を描いた訳ではないんだ。
真っ白なカンバス全体に、青のアクリル絵の具で色を塗っていっただけだ。
カンバスに絵を描く時には、まず下塗りをして、その上に色を重ねていくそうなのだけれど、おれがやってみたのはその「下塗り」にあたる作業だ。パレットに青の絵の具を落とし、メディウムと少量の水を混ぜ合わせて適度な軟らかさにする。そして、平刷毛で丁寧に延ばしながら、カンバスを塗っていくんだ。
そしたら、思った以上におもしろかった。
カンバスの上で刷毛を滑らせていくだけの作業がこれほど楽しいとは思わなかった。
不思議と心が落ち着いていく。ちょっと大仰な言い方をすると、ある種のカタルシスのような感覚があって非常に心地よく、同時に新鮮な驚きがあった。
やってみるものだね。
ただの下塗りの青だけれど、上手くは描けない。平刷毛を思うように扱うことはとても難しいし、青一色であっても、その濃淡や深みはイメージ通りに作り出せない。それでも、刷毛の動かし方や絵の具の延び具合が生み出す「1点もの」のムラにどこか愛着さえ沸いてきて、自分の気持ちがクリアになっていくような感覚があるんだ。
ただそれだけのことが楽しいのだから、数多くの色を自在に重ね併せて、自分の中のイメージを具現化していく作業というのは、きっとどこか特別な感覚なのだろう。
残念ながらおれにその能力はないけれど、また「下塗り」はしてみたい。
画廊で働くうちのパートナーは、自分でも絵を描き溜めている。自宅の一室をアトリエにして、ケントパネルにアクリル絵の具でイメージを描いていくのだけれど、仕事帰りの疲れた身体でも、驚くほどの集中力でいつも机に向かっている。この1年間ほどで、100枚近くの絵を描いているのだから、絵を描くことが本当に好きなのだと思う。
描き続ける中で、彼女の好奇心であったり、描くことへのこだわりは日に日に高まっていて、最近では遂にカンバスに絵を描くようになった。そして、ずっと欲しがっていたイーゼルもようやく買い揃えることが出来て、アトリエとして使っている4畳半の小部屋は、今では完全にアーティスティックな空間となった。
カンバスとイーゼル。
この2つが揃うと、絵筆を持ったことのない人間でも、描いてみたくなるよね。
だから、真っ白なカンバスを1枚だけもらって、やってみることにしたんだ。
断っておくけれど、絵を描いた訳ではないんだ。
真っ白なカンバス全体に、青のアクリル絵の具で色を塗っていっただけだ。
カンバスに絵を描く時には、まず下塗りをして、その上に色を重ねていくそうなのだけれど、おれがやってみたのはその「下塗り」にあたる作業だ。パレットに青の絵の具を落とし、メディウムと少量の水を混ぜ合わせて適度な軟らかさにする。そして、平刷毛で丁寧に延ばしながら、カンバスを塗っていくんだ。
そしたら、思った以上におもしろかった。
カンバスの上で刷毛を滑らせていくだけの作業がこれほど楽しいとは思わなかった。
不思議と心が落ち着いていく。ちょっと大仰な言い方をすると、ある種のカタルシスのような感覚があって非常に心地よく、同時に新鮮な驚きがあった。
やってみるものだね。
ただの下塗りの青だけれど、上手くは描けない。平刷毛を思うように扱うことはとても難しいし、青一色であっても、その濃淡や深みはイメージ通りに作り出せない。それでも、刷毛の動かし方や絵の具の延び具合が生み出す「1点もの」のムラにどこか愛着さえ沸いてきて、自分の気持ちがクリアになっていくような感覚があるんだ。
ただそれだけのことが楽しいのだから、数多くの色を自在に重ね併せて、自分の中のイメージを具現化していく作業というのは、きっとどこか特別な感覚なのだろう。
残念ながらおれにその能力はないけれど、また「下塗り」はしてみたい。
Sunday, March 12, 2006
岩盤浴
生まれて初めて岩盤浴なるものを体験した。
六本木ロアビル5階にあるストーンスパ「磊の温泉」というところね。
http://www.i-ismspa.com/top.html
低温のサウナに敷き詰められた温かい石の上で寝そべっているだけなのだけれど、非常に気持ちよいです。15分程度入ったら、水分補給をしながら10分ほど休憩して、また15分の入浴。これを2~3回繰り返すと、身体中から汗が噴き出してくる。
室内にはリラクゼーション音楽が耳障りでない音量で静かに流れていて、心地よい寛ぎ空間となっているので、大量の汗を噴き出しながらも、思わず眠ってしまいそうになる。石のベッドは寝心地が悪そうだと最初は思ったけれど、実際に寝転がってみると、多少ごつごつするくらいで、すぐに慣れてしまう。
疲れも取れそうです。
流れ出る汗を感じながら、「疲労というのは物質かもしれない」なんて考えたりして。
練習や試合の後に、ゆっくり時間をかけて行くのもいいかもしれないね。
ちなみに、今日の練習はいまひとつだった。
昨年からずっと同じことだけれど、単純なミスが多かったね。
香港10'sのメンバーがYCACとのゲームで不参加だったので、人数も少なかったのだけれど、主力の彼らがいないだけで、途端に練習のクオリティが下がってしまう。裏を返せば、普段の練習の質を高めるという点において、キーマンとなる数人の選手のパフォーマンスにどれほど依存しているか、ということだよね。
自分自身のパフォーマンスは、自分自身の自覚で持っていかないと。
六本木ロアビル5階にあるストーンスパ「磊の温泉」というところね。
http://www.i-ismspa.com/top.html
低温のサウナに敷き詰められた温かい石の上で寝そべっているだけなのだけれど、非常に気持ちよいです。15分程度入ったら、水分補給をしながら10分ほど休憩して、また15分の入浴。これを2~3回繰り返すと、身体中から汗が噴き出してくる。
室内にはリラクゼーション音楽が耳障りでない音量で静かに流れていて、心地よい寛ぎ空間となっているので、大量の汗を噴き出しながらも、思わず眠ってしまいそうになる。石のベッドは寝心地が悪そうだと最初は思ったけれど、実際に寝転がってみると、多少ごつごつするくらいで、すぐに慣れてしまう。
疲れも取れそうです。
流れ出る汗を感じながら、「疲労というのは物質かもしれない」なんて考えたりして。
練習や試合の後に、ゆっくり時間をかけて行くのもいいかもしれないね。
ちなみに、今日の練習はいまひとつだった。
昨年からずっと同じことだけれど、単純なミスが多かったね。
香港10'sのメンバーがYCACとのゲームで不参加だったので、人数も少なかったのだけれど、主力の彼らがいないだけで、途端に練習のクオリティが下がってしまう。裏を返せば、普段の練習の質を高めるという点において、キーマンとなる数人の選手のパフォーマンスにどれほど依存しているか、ということだよね。
自分自身のパフォーマンスは、自分自身の自覚で持っていかないと。
Saturday, March 11, 2006
逃げない
WMMの先輩に教えてもらった言葉に心をとられてしまった。
『スラムダンク勝利学』の辻秀一さんによるメンタル・トレーニングの講義の中で語られたものだそうだ。とても興味深い内容なので、以下に転載させていただこうかと。
達成したい「目標」に向けて頑張るプロセスには、
カラダにも、ココロにも「負荷」がかかるのが常。
筋トレにしたって、勉強にしたって、
結果を出す為には苦しいプロセスを踏まなきゃならない。
でも、中にはどうしても「逃げて」しまう人がいる。
特に「ココロ」の負荷から逃げることって実は多い。
だって、他人にはバレないから。
何も実行できていなくたって、頑張るフリをしていれば良いから。
一生懸命な素振りをしてれば良いから。
筋トレや練習をサボったら、すぐにバレる。
でも、ちょっと他の事を考えて集中していなくても、
外側の態度に出なければ、他人にはバレにくい。
このココロのサボり=「逃げ」には4つのタイプがある。
①「今」やることから逃げる
明日からやるさ。そうさ、僕はやらなきゃいけないってことは分かってる。
でも今日はどうしてもできない事情があるのさ。明日から絶対やるって。
②「目標」自体を無くす
あんなの目指して頑張ってどうするのさ?意味無いっしょ。
そんなことよりもっとタメになることがあるはずさ!
③考えない
とにかく目の前のことを集中して、ツライことも、楽しいことも忘れて、
無我夢中でやればいいんでしょ。筋トレだって、練習だって、勉強だって、
意味なんかよく分からないけど、こなせば良いんでしょ。
④我慢する
やっぱり世の中根性っすよ。耐えればいいんでしょ。苦しいけど。
でも、何でこんなことやり始めたんだっけな~?ま、あとちょっとで終わるし、いいか。
もうお分かりのように、以上のような「逃げ」をしていたら、
成長は無いし、結果(パフォーマンス)も伴わない。
はっとした。心のど真ん中を射抜かれてしまった。
今まで自分はどれほど逃げてきただろう。「逃げている」という事実にどれほど自覚的であっただろうかと考えた時、本当に恥ずかしくなってしまった。
逃げてちゃ駄目だね。せっかく生きているのだから。自分の可能性に挑戦できる環境でラグビーを続けることを選択したのは、他ならぬ自分自身なのだから。
3月12日(土)、明日からタマリバの新しいシーズンが本格的に始まる。
新主将によって語られた今年度のシーズン・テーマは「こだわり」。
グラウンドの上では勿論のこと、日常生活を含めて細部まで徹底的に拘り抜こうと。
それはつまり、「逃げない」ということだと思うんだ。
限られた時間の中でもっと自分を成長させる為に、自分の気持ちにきちんと正面切って向き合うことをテーマとして、新たな1年間をスタートさせたいと思います。
『スラムダンク勝利学』の辻秀一さんによるメンタル・トレーニングの講義の中で語られたものだそうだ。とても興味深い内容なので、以下に転載させていただこうかと。
達成したい「目標」に向けて頑張るプロセスには、
カラダにも、ココロにも「負荷」がかかるのが常。
筋トレにしたって、勉強にしたって、
結果を出す為には苦しいプロセスを踏まなきゃならない。
でも、中にはどうしても「逃げて」しまう人がいる。
特に「ココロ」の負荷から逃げることって実は多い。
だって、他人にはバレないから。
何も実行できていなくたって、頑張るフリをしていれば良いから。
一生懸命な素振りをしてれば良いから。
筋トレや練習をサボったら、すぐにバレる。
でも、ちょっと他の事を考えて集中していなくても、
外側の態度に出なければ、他人にはバレにくい。
このココロのサボり=「逃げ」には4つのタイプがある。
①「今」やることから逃げる
明日からやるさ。そうさ、僕はやらなきゃいけないってことは分かってる。
でも今日はどうしてもできない事情があるのさ。明日から絶対やるって。
②「目標」自体を無くす
あんなの目指して頑張ってどうするのさ?意味無いっしょ。
そんなことよりもっとタメになることがあるはずさ!
③考えない
とにかく目の前のことを集中して、ツライことも、楽しいことも忘れて、
無我夢中でやればいいんでしょ。筋トレだって、練習だって、勉強だって、
意味なんかよく分からないけど、こなせば良いんでしょ。
④我慢する
やっぱり世の中根性っすよ。耐えればいいんでしょ。苦しいけど。
でも、何でこんなことやり始めたんだっけな~?ま、あとちょっとで終わるし、いいか。
もうお分かりのように、以上のような「逃げ」をしていたら、
成長は無いし、結果(パフォーマンス)も伴わない。
はっとした。心のど真ん中を射抜かれてしまった。
今まで自分はどれほど逃げてきただろう。「逃げている」という事実にどれほど自覚的であっただろうかと考えた時、本当に恥ずかしくなってしまった。
逃げてちゃ駄目だね。せっかく生きているのだから。自分の可能性に挑戦できる環境でラグビーを続けることを選択したのは、他ならぬ自分自身なのだから。
3月12日(土)、明日からタマリバの新しいシーズンが本格的に始まる。
新主将によって語られた今年度のシーズン・テーマは「こだわり」。
グラウンドの上では勿論のこと、日常生活を含めて細部まで徹底的に拘り抜こうと。
それはつまり、「逃げない」ということだと思うんだ。
限られた時間の中でもっと自分を成長させる為に、自分の気持ちにきちんと正面切って向き合うことをテーマとして、新たな1年間をスタートさせたいと思います。
Monday, March 06, 2006
長谷川潔
長谷川潔という銅版画家がいる。
ちょっとした経緯があって気になっていた作家なのだけれど、タイミングよくNHKの「日曜美術館」で取り上げてくれたので、20:00からの再放送を自宅で見たんだ。
おれの感想を一言で言うなら「静謐」。静かすぎるほどに静かだ。
静物画と呼ばれる作品は巷に多数あるけれど、これほどまでに静かな作品世界を創り上げた作家は少ないのではないかと思う。そしてその世界観は、どこかはかない。
例えば、ひとつの林檎を描くとする。林檎の表面には艶やかさがあり、自然が創り出すカーブには生命力が溢れており、きっと表皮の内側には瑞々しさがある。
長谷川潔の作品は、違う。
生命を泥臭く捉えるのではなくて、ひとつの「理」と捉える独特の感覚に満ちている。
洗練され研ぎ澄まされた感性で、理をひとつずつ切り抜いていくような、その独特の雰囲気がとても興味深く、魅力的だと感じた。
横浜美術館で「長谷川潔展」が行われているそうなので、行ってみようかな。
http://www.yma.city.yokohama.jp/
ちょっとした経緯があって気になっていた作家なのだけれど、タイミングよくNHKの「日曜美術館」で取り上げてくれたので、20:00からの再放送を自宅で見たんだ。
おれの感想を一言で言うなら「静謐」。静かすぎるほどに静かだ。
静物画と呼ばれる作品は巷に多数あるけれど、これほどまでに静かな作品世界を創り上げた作家は少ないのではないかと思う。そしてその世界観は、どこかはかない。
例えば、ひとつの林檎を描くとする。林檎の表面には艶やかさがあり、自然が創り出すカーブには生命力が溢れており、きっと表皮の内側には瑞々しさがある。
長谷川潔の作品は、違う。
生命を泥臭く捉えるのではなくて、ひとつの「理」と捉える独特の感覚に満ちている。
洗練され研ぎ澄まされた感性で、理をひとつずつ切り抜いていくような、その独特の雰囲気がとても興味深く、魅力的だと感じた。
横浜美術館で「長谷川潔展」が行われているそうなので、行ってみようかな。
http://www.yma.city.yokohama.jp/
Monday, February 27, 2006
プラネタリウム
作ってみたんだ。
http://shop.gakken.co.jp/otonanokagaku/magazine/vol09.html
大人の科学マガジンの付録なのだけれど、かなり良いです。
思った以上に綺麗な星空が投影されます。
彼女のいない大学生が部屋にひとつ置いておいたらいいかもしれない。
いや、それだとちょっと作為的かなー。
http://shop.gakken.co.jp/otonanokagaku/magazine/vol09.html
大人の科学マガジンの付録なのだけれど、かなり良いです。
思った以上に綺麗な星空が投影されます。
彼女のいない大学生が部屋にひとつ置いておいたらいいかもしれない。
いや、それだとちょっと作為的かなー。
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