Sunday, March 04, 2012

『出でよ、平成の志士たち』

梅津昇一『行動がなければ結果もなし。出でよ、平成の志士たち』(丸善プラネット)
一応、弊社推薦図書ということになるのかな。
官民から集められた40代の幹部候補生に対する私塾「フォーラム21」を主催されている梅津昇一さんの著作。現在87歳だというのだから、そのエネルギーは凄いものがある。

「日本という国家の将来像」を考えることが、フォーラムの目的だという。
ただ率直な感想を書いてしまうと、ある程度のフレームが先に決まっている感じがする。
... 言葉の端々に、著者の価値観・思想が垣間見えるけれど、個人的には、そこで暗黙の前提とされているものへの視座こそが、本当は大切なのかなと思っている。
例えば、「このままでは日本は沈没する」と言う。著者に限らず、よく耳にする台詞だ。でも俺には、「沈没」の定義が分からない。それは、国際経済における存在感の低下だろうか。そうだとすれば、それはGDP/GNIだろうか。あるいは、1人あたりGDP/GNIだろうか。更には別の尺度だろうか。定義なき沈没を憂う、というのはつまり何だろうか。
一方では、「これまでのような経済中心の発想では、日本の真の復活はない」と言う。復活という以上は、以前の日本には栄光があったはずだ。それは経済以外で実現された栄光だろうか。経済による復活でないとすれば、では「日本の沈没」というものも、やはり経済以外の指標で語られるものだろうか。
「国家の風格を論じる」という。日本はいかにして風格ある国家となれるだろうかと。でも、そもそも「国家の風格」とは何だろうか。国際政治の文脈において、決然たる態度を示すことだろうか。あるいはもっと、国民1人ひとりの佇まいや生活様式、文化にこそ求められるものだろうか。更に言えば、そもそも国家に風格は必要なのだろうか。「武士は食わねど高楊枝」が風格だとして、「風格なき豊穣」と天秤にかけられたとしても、人は風格を取るのだろうか。
いや、本当はもっと先の疑問もある。官民の幹部候補生が語るべきは、国家だろうか。むしろ「脱国家」、あるいは「超国家」や「非国家」だったりしないのだろうか。企業を中心とした経済活動がここまで国際化している現代において、国家という枠組みに囚われることなく、よりボーダレスなフレームで議論することは出来ないのだろうか。

俺自身に、その解がある訳ではないけれど、そんな疑問が噴出してくるんだ。
少なくとも、「価値」を表す言葉はもっと掘り下げて定義すべきだと思うなあ。
「沈没」や「風格」というのは、マジックワードだから。