Monday, September 25, 2006
Profitではなくて
村上龍さん編集長のメールマガジン「JMM」を読んでいるのだけれど、9/25(月)の連載のあとがきに、興味深いコメントがあった。JMMというメディアの運営が利益を生まない状況を語った龍さんに対して、龍さんと共著も出版している伊藤穣一さんが語った言葉だ。ちょっと長くなるけれど、JMMから引用してみたい。
『「インターネットはあまりに民主的なメディアなので儲からないし、儲けようと思うのは間違いだ。儲からなくても、つまりprofitがなくても、JMMによって、村上さんは、またJMMそのものも、valueを獲得している。それが大事なんじゃないかな」というようなニュアンスのことを言われて、目が覚めたような気がしました。』
(JMM [Japan Mail Media] No.394 Monday Editionより)
Value, not Profit.
この違いに敏感でいたい。伊藤穣一さんがこの言葉を発する時に、あるいは村上龍さんがこの言葉を受け止めた時に、きっと彼らには”value"に対する自身の軸があったはずだ。valueはとても個人的で、プライベートで、それゆえにアイデンティティの根幹に関わってくるものだと思う。「なにをvalueと位置づけるのか」という問いそのものが既に、その人間の本質を内包しており、更に言えば、その問いに対する姿勢こそが「生き方」と言われるものだろう。
valueは時に、profitへと還元される。"profitable value"として、そこから派生するprofitの総量をもって、valueが計測されていく。
でも、どこかでprofitに落とし込めない地平があるはずだ。
どこまでいってもprofitに還元できない最後の上澄みのようなvalue、きっとそれは、今のおれが最も切実に追いかけているものなんだ。
『「インターネットはあまりに民主的なメディアなので儲からないし、儲けようと思うのは間違いだ。儲からなくても、つまりprofitがなくても、JMMによって、村上さんは、またJMMそのものも、valueを獲得している。それが大事なんじゃないかな」というようなニュアンスのことを言われて、目が覚めたような気がしました。』
(JMM [Japan Mail Media] No.394 Monday Editionより)
Value, not Profit.
この違いに敏感でいたい。伊藤穣一さんがこの言葉を発する時に、あるいは村上龍さんがこの言葉を受け止めた時に、きっと彼らには”value"に対する自身の軸があったはずだ。valueはとても個人的で、プライベートで、それゆえにアイデンティティの根幹に関わってくるものだと思う。「なにをvalueと位置づけるのか」という問いそのものが既に、その人間の本質を内包しており、更に言えば、その問いに対する姿勢こそが「生き方」と言われるものだろう。
valueは時に、profitへと還元される。"profitable value"として、そこから派生するprofitの総量をもって、valueが計測されていく。
でも、どこかでprofitに落とし込めない地平があるはずだ。
どこまでいってもprofitに還元できない最後の上澄みのようなvalue、きっとそれは、今のおれが最も切実に追いかけているものなんだ。
Sunday, September 24, 2006
レンジファインダー
いつものようにタマリバの練習を終えた後、新宿に向かった。
中古カメラを探しに行こうと思って。
最初に買った一眼レフカメラ「Nikon FM10」はとても使い易く、初心者のおれにとって全く不自由のないカメラなので、気に入って毎週末鞄に入れて持ち歩いている。なんだか照れ臭くてなかなか出来ないのだけれど、自分にとって気になる風景や街並に出遭った時に、いつでもシャッターを切るようにしたいと思って。レンズは35-70/F3.5の安価なズームレンズ一本しかないけれど、今のおれにはこれだけで十分だ。
ただ、一眼レフカメラは、どうしても本体が大きいんだ。FM10は一眼レフの中ではかなりコンパクトな部類だと思うけれど、それでも例えば通勤鞄に忍ばせておいて、移動時間や帰り道に写真を撮ろうと思っても、さすがに通勤鞄に入るサイズではない。それから、シャッター音が少し大きい。音自体はとても気に入っているのだけれど、街中や電車で他人を撮ったりすると、結構目立ってしまうと思う。
そんな訳で、もっと気軽に携行出来て、シャッター音の小さなカメラが欲しくて、新宿駅西口側にある中古カメラショップに初めて行ってみたんだ。
求めるものを考えると、コンパクトカメラが適切だったのかもしれない。
カメラを持って街に繰り出して、気に向いた瞬間にシャッターを切っていくには、最も向いているような気もしていた。高性能なコンパクトカメラだと、おれには十分すぎるくらいの機能を備えているし、影響されやすいおれは、森山大道さんが主に利用しているというRicoh GR21なんかが気になったりもしてね。
でも、実際に店頭にずらっと並んだ中古カメラを見較べて、色々な機種を実際に触らせてもらって、販売員の方の説明を詳しく聞いているうちに、どうしようもなくレンジファインダーカメラというものに心を奪われてしまった。
コンパクトなデザインと手頃な価格で最初に目に留まったのは、Zolkyというロシア製のカメラだった。ショーケースから出してもらって、説明を受けながら実際にシャッターを切ってみる。二重像を重ねていくレンジファインダー独特の焦点の合わせ方が面白く、また戦後間もない頃に作られた機械式のカメラで、電池なしで全て動かせる精緻な設計に、思わず虜になってしまった。
ただ、Zolkyは二重像が薄くて焦点が合わせづらく、若干難ありだったので、販売員の方に他の手頃なカメラをリストアップしてもらい、とにかく触って、覗いて、シャッターを切ってみた。ショップの方には随分手間をかけさせてしまったけれど、実際に幾つものカメラを手に持ってみると、ショーケースの向こうに眺めている時とは印象が全く違って、それが純粋に楽しかった。
それで、随分考えた末に、1台のカメラを買ったんだ。
Leica ⅡCというレンジファインダー、それから50mm/F3.5の標準レンズね。
中古品のなかでも極めて安価なものを選択したとはいえ、決して安い買い物ではなかったけれど、本当に嬉しかった。なにせ1948年に製造されたカメラなので、当然傷も多いし、スローシャッター機能もなければ露出計もない、本当にベーシックなものだけれど、とにかく愛着の沸くカメラだったんだ。外観の傷などはむしろ「戦後」を生き抜いた格好良さに見えてしまうくらいだ。
操作はちょっと難しそうだけれど、少しずつ慣れていきたい。
きちんと使いこなせるようにして、モノクロームの写真を沢山撮ってみたい。
中古カメラを探しに行こうと思って。
最初に買った一眼レフカメラ「Nikon FM10」はとても使い易く、初心者のおれにとって全く不自由のないカメラなので、気に入って毎週末鞄に入れて持ち歩いている。なんだか照れ臭くてなかなか出来ないのだけれど、自分にとって気になる風景や街並に出遭った時に、いつでもシャッターを切るようにしたいと思って。レンズは35-70/F3.5の安価なズームレンズ一本しかないけれど、今のおれにはこれだけで十分だ。
ただ、一眼レフカメラは、どうしても本体が大きいんだ。FM10は一眼レフの中ではかなりコンパクトな部類だと思うけれど、それでも例えば通勤鞄に忍ばせておいて、移動時間や帰り道に写真を撮ろうと思っても、さすがに通勤鞄に入るサイズではない。それから、シャッター音が少し大きい。音自体はとても気に入っているのだけれど、街中や電車で他人を撮ったりすると、結構目立ってしまうと思う。
そんな訳で、もっと気軽に携行出来て、シャッター音の小さなカメラが欲しくて、新宿駅西口側にある中古カメラショップに初めて行ってみたんだ。
求めるものを考えると、コンパクトカメラが適切だったのかもしれない。
カメラを持って街に繰り出して、気に向いた瞬間にシャッターを切っていくには、最も向いているような気もしていた。高性能なコンパクトカメラだと、おれには十分すぎるくらいの機能を備えているし、影響されやすいおれは、森山大道さんが主に利用しているというRicoh GR21なんかが気になったりもしてね。
でも、実際に店頭にずらっと並んだ中古カメラを見較べて、色々な機種を実際に触らせてもらって、販売員の方の説明を詳しく聞いているうちに、どうしようもなくレンジファインダーカメラというものに心を奪われてしまった。
コンパクトなデザインと手頃な価格で最初に目に留まったのは、Zolkyというロシア製のカメラだった。ショーケースから出してもらって、説明を受けながら実際にシャッターを切ってみる。二重像を重ねていくレンジファインダー独特の焦点の合わせ方が面白く、また戦後間もない頃に作られた機械式のカメラで、電池なしで全て動かせる精緻な設計に、思わず虜になってしまった。
ただ、Zolkyは二重像が薄くて焦点が合わせづらく、若干難ありだったので、販売員の方に他の手頃なカメラをリストアップしてもらい、とにかく触って、覗いて、シャッターを切ってみた。ショップの方には随分手間をかけさせてしまったけれど、実際に幾つものカメラを手に持ってみると、ショーケースの向こうに眺めている時とは印象が全く違って、それが純粋に楽しかった。
それで、随分考えた末に、1台のカメラを買ったんだ。
Leica ⅡCというレンジファインダー、それから50mm/F3.5の標準レンズね。
中古品のなかでも極めて安価なものを選択したとはいえ、決して安い買い物ではなかったけれど、本当に嬉しかった。なにせ1948年に製造されたカメラなので、当然傷も多いし、スローシャッター機能もなければ露出計もない、本当にベーシックなものだけれど、とにかく愛着の沸くカメラだったんだ。外観の傷などはむしろ「戦後」を生き抜いた格好良さに見えてしまうくらいだ。
操作はちょっと難しそうだけれど、少しずつ慣れていきたい。
きちんと使いこなせるようにして、モノクロームの写真を沢山撮ってみたい。
Saturday, September 23, 2006
欲望, リアリティ, 感動
森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』読了。
写真を学ぶ学生に向けて行われた森山さんの4回の講義、そして学生との質疑応答を纏めた作品。森山大道という写真家の飾らない姿が垣間見えて、非常に読み応えのある内容だった。
写真に興味がなくても、きっと感じるものがあると思う。
写真というひとつの表現の枠組みを越えて、心を揺すぶる魅力と迫力があった。
おれなんてまだ何もしていないのだなあと、写真を生きてきた森山さんの語る言葉が迫ってくる。刺激的に、でもどこか焦燥感と悔しさのような感触を伴って。
印象に残った言葉がある。
『オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね。個人の勝手な欲望から生まれたものにリアリティを見たときに、初めて人は感動してくれるんだよ。そこがなくて作ったものは結局伝わらないと思う。』
(森山大道『昼の学校 夜の学校』、184頁)
他者の感性を否定するのではない。
あくまで自分自身の感性に対する、ぶれることのない自信と信頼。
自分が惹かれる世界の姿にストレートに対峙していく、ある種の誠実。
それが、非常に印象的だった。
そして読み終えた時には、無性に写真を撮りたくなってしまうんだ。
写真を学ぶ学生に向けて行われた森山さんの4回の講義、そして学生との質疑応答を纏めた作品。森山大道という写真家の飾らない姿が垣間見えて、非常に読み応えのある内容だった。
写真に興味がなくても、きっと感じるものがあると思う。
写真というひとつの表現の枠組みを越えて、心を揺すぶる魅力と迫力があった。
おれなんてまだ何もしていないのだなあと、写真を生きてきた森山さんの語る言葉が迫ってくる。刺激的に、でもどこか焦燥感と悔しさのような感触を伴って。
印象に残った言葉がある。
『オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね。個人の勝手な欲望から生まれたものにリアリティを見たときに、初めて人は感動してくれるんだよ。そこがなくて作ったものは結局伝わらないと思う。』
(森山大道『昼の学校 夜の学校』、184頁)
他者の感性を否定するのではない。
あくまで自分自身の感性に対する、ぶれることのない自信と信頼。
自分が惹かれる世界の姿にストレートに対峙していく、ある種の誠実。
それが、非常に印象的だった。
そして読み終えた時には、無性に写真を撮りたくなってしまうんだ。
Saturday, September 16, 2006
『瞬間の記憶』
いつものようにラグビーの練習を終えた後、映画を観に行った。
『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』
http://www.longride.jp/hcb/
ロバート・キャパらと共にフォト・ジャーナリスト集団「マグナム・フォト」を創設したメンバーであり、20世紀を代表する天才写真家のひとりであるアンリ・カルティエ=ブレッソンが、自らの写真を語ったドキュメンタリーだ。
素晴らしかった。
いや、むしろ現在形で書いた方がしっくりくるかもしれない。
素晴らしい。
スクリーンに映し出される写真のひとつひとつが、すべてにおいて狂いなく、乱れなく、完全に構成されている。ほんのわずかな瞬間にしか表出することのない世界、それは裏返せば、その瞬間には確かに存在していた世界の姿であって、ブレッソンによって切り取られたその「瞬間」の姿は、観る人間の心の中に様々な「響き」を残していく。響きを静謐のなかに確かなダイナミズムが息づいていて、その美しいイメージは、まだ頭を離れない。
様々な写真のなかでも、特にポートレートの数々には改めて心を奪われた。
デュシャン、マン・レイ、カミュ、トルーマン・カポーティ、サルトルといった蒼々たる人間たちの持つ本質的な魅力、ふとした表情のなかにこそ浮かび上がってくるようなものが見事なまでに捉えられていて、どれも素晴らしかったのだけれど、敢えて特筆するとすれば、マリリン・モンローのポートレート。うまく言葉にできないけれど、スクリーンの世界とは違ったマリリン・モンローの魅力、隠すことの出来ないオーラのようなものが、その1枚に確かに閉じ込められていた。マリリン・モンローという人は紛れもなく「スター」だったのだなあと、その美しさに感動してしまった。
観てよかった。
同時代の空気を吸ってみたかったと、ちょっとだけ思ってしまったけれど。
『写真は、短刀の一刺し。絵画は瞑想だ。』
アンリ・カルティエ=ブレッソン
『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』
http://www.longride.jp/hcb/
ロバート・キャパらと共にフォト・ジャーナリスト集団「マグナム・フォト」を創設したメンバーであり、20世紀を代表する天才写真家のひとりであるアンリ・カルティエ=ブレッソンが、自らの写真を語ったドキュメンタリーだ。
素晴らしかった。
いや、むしろ現在形で書いた方がしっくりくるかもしれない。
素晴らしい。
スクリーンに映し出される写真のひとつひとつが、すべてにおいて狂いなく、乱れなく、完全に構成されている。ほんのわずかな瞬間にしか表出することのない世界、それは裏返せば、その瞬間には確かに存在していた世界の姿であって、ブレッソンによって切り取られたその「瞬間」の姿は、観る人間の心の中に様々な「響き」を残していく。響きを静謐のなかに確かなダイナミズムが息づいていて、その美しいイメージは、まだ頭を離れない。
様々な写真のなかでも、特にポートレートの数々には改めて心を奪われた。
デュシャン、マン・レイ、カミュ、トルーマン・カポーティ、サルトルといった蒼々たる人間たちの持つ本質的な魅力、ふとした表情のなかにこそ浮かび上がってくるようなものが見事なまでに捉えられていて、どれも素晴らしかったのだけれど、敢えて特筆するとすれば、マリリン・モンローのポートレート。うまく言葉にできないけれど、スクリーンの世界とは違ったマリリン・モンローの魅力、隠すことの出来ないオーラのようなものが、その1枚に確かに閉じ込められていた。マリリン・モンローという人は紛れもなく「スター」だったのだなあと、その美しさに感動してしまった。
観てよかった。
同時代の空気を吸ってみたかったと、ちょっとだけ思ってしまったけれど。
『写真は、短刀の一刺し。絵画は瞑想だ。』
アンリ・カルティエ=ブレッソン
Wednesday, September 13, 2006
詩について
寺山修司さんの『詩的自叙伝 行為としての詩学』ほぼ読了。
ちょっと飛ばし読みしちゃったけれど。
詩というものに対する造詣のまったくないおれにとって、その意味するところをイメージできない部分も少なからずあったけれど、総じて読み応えのある作品だった。
「行為としての詩」といい、「印刷された文字の世界から詩を取り戻す」という時に、おれは「グラウンドにおける詩」ということを思ってしまった。ある時代の、ある瞬間において、例えばトイレの落書きが詩になり得るとするならば、今までおれがいたグラウンドにも、詩と呼んでいい言葉があったのではないか。もう少し厳密に言えば、グラウンドにおいて発せられた言葉や、あるいは言葉にならないなにかが、その発現の瞬間においては詩的でさえあったのではないか。
学生時代のラグビーを思い返すと、そんな瞬間は、きっとあったのだと思う。学生時代だけではないのかもしれないけれど、特に学生時代のラグビーには、そんな匂いがあったような気がする。詩を読もうなんてこれっぽっちも考えない人間の集団が醸し出していた泥臭さであったり、弱さであったり、せこさであったり、ずるさであったり、あるいはそういう自分に対する悔しさであったり、強さへのあこがれであったり、必死さや愚直さであったり、そういった諸々の混ざり合った瞬間が、たとえほんのわずかであったとしても「詩」として存在したことがあったと思うんだ。
そのことが、ちょっと懐かしかった。
最後に、この作品から拾った名言を。
『想像力の欠如、それは欠如を想像しないことである。』(67頁)
ちょっと飛ばし読みしちゃったけれど。
詩というものに対する造詣のまったくないおれにとって、その意味するところをイメージできない部分も少なからずあったけれど、総じて読み応えのある作品だった。
「行為としての詩」といい、「印刷された文字の世界から詩を取り戻す」という時に、おれは「グラウンドにおける詩」ということを思ってしまった。ある時代の、ある瞬間において、例えばトイレの落書きが詩になり得るとするならば、今までおれがいたグラウンドにも、詩と呼んでいい言葉があったのではないか。もう少し厳密に言えば、グラウンドにおいて発せられた言葉や、あるいは言葉にならないなにかが、その発現の瞬間においては詩的でさえあったのではないか。
学生時代のラグビーを思い返すと、そんな瞬間は、きっとあったのだと思う。学生時代だけではないのかもしれないけれど、特に学生時代のラグビーには、そんな匂いがあったような気がする。詩を読もうなんてこれっぽっちも考えない人間の集団が醸し出していた泥臭さであったり、弱さであったり、せこさであったり、ずるさであったり、あるいはそういう自分に対する悔しさであったり、強さへのあこがれであったり、必死さや愚直さであったり、そういった諸々の混ざり合った瞬間が、たとえほんのわずかであったとしても「詩」として存在したことがあったと思うんだ。
そのことが、ちょっと懐かしかった。
最後に、この作品から拾った名言を。
『想像力の欠如、それは欠如を想像しないことである。』(67頁)
Sunday, September 10, 2006
バーバ戦
9月10日(日)、東日本トップクラブリーグ緒戦。
タマリバ 27-18 北海道バーバリアンズ
まずは勝てて良かった。
負けなかったことだけが、このゲームの収穫。
自分自身のパフォーマンスは全然で、課題が幾つも浮き彫りになってしまった。
また、やり直します。次は9月17日(日)、香港クラブだね。
それから。
長井さんと宗一郎さんが観に来てくれたことがすごく嬉しかった。
また一緒にやりましょう。楽しみにしてますので。
タマリバ 27-18 北海道バーバリアンズ
まずは勝てて良かった。
負けなかったことだけが、このゲームの収穫。
自分自身のパフォーマンスは全然で、課題が幾つも浮き彫りになってしまった。
また、やり直します。次は9月17日(日)、香港クラブだね。
それから。
長井さんと宗一郎さんが観に来てくれたことがすごく嬉しかった。
また一緒にやりましょう。楽しみにしてますので。
Saturday, September 09, 2006
開幕戦
2006-2007のシーズンがいよいよ始まる。
9月10日(日) vs 北海道バーバリアンズ(14:00K.O. @三ツ沢公園球技場)
東日本クラブトップリーグの開幕戦だ。
難敵。でも、絶対に勝たないといけないゲーム。
今出来ることをすべてやる。ただそれだけが、明日の目標です。
9月10日(日) vs 北海道バーバリアンズ(14:00K.O. @三ツ沢公園球技場)
東日本クラブトップリーグの開幕戦だ。
難敵。でも、絶対に勝たないといけないゲーム。
今出来ることをすべてやる。ただそれだけが、明日の目標です。
ふまじめなやさしさ
昨日ちらっと書いたアラーキーこと荒木経惟さんの写真集のことを書いておきたい。
『さっちん』
タイトルの通り、さっちんという少年を撮った写真集。
第1回太陽賞受賞作「さっちん」を一部含めて再編集したものだそうだ。
とにかく見てみてほしい。本当に素晴らしい作品ばかりだ。
パワフルで、生き生きしていて、エネルギーが満ち溢れていて。生きた少年の匂いがつまっているじゃないか。その瑞々しい感性が、写真から飛び出してきそうだ。
それだけじゃない。
さっちんという1人の少年に向けられた眼差しに込められた、そのやさしさ。人間性や生きることへの全肯定の眼差しが、びしびしと伝わってくるんだ。
荒木経惟さんという写真家のことを、おれは尊敬してやまない。
本当にやさしい人なのだと思う。子供だけじゃない。ソープ嬢を撮っても、裸の妊婦を撮っても、疲れたサラリーマンを撮っても、エキゾチックに、刺激的に撮られた作品であったとしても、アラーキーの写真は、やっぱりどこかやさしい。
そのことをおれは、「ふまじめなやさしさ」と呼んでいる。
アラーキーの写真には、ふまじめなやさしさが溢れているね。
そのやさしさもふまじめさも、おれは大好きだし、本当に素晴らしいと思います。
最後に、心に残ったあとがきの言葉を引用しておきたい。
『生きるっていうのはね、やっぱり、跳ねるとか、ヴィヴィッドであるとか、声が大きいとかってことだから。少年たちがさ、フレームから画面からはみ出てるでしょう、飛び出てるでしょう、そういうことなんだよね。』
(『のぶちんが「さっちん」を語る―あとがきにかえて』より)
『さっちん』
タイトルの通り、さっちんという少年を撮った写真集。
第1回太陽賞受賞作「さっちん」を一部含めて再編集したものだそうだ。
とにかく見てみてほしい。本当に素晴らしい作品ばかりだ。
パワフルで、生き生きしていて、エネルギーが満ち溢れていて。生きた少年の匂いがつまっているじゃないか。その瑞々しい感性が、写真から飛び出してきそうだ。
それだけじゃない。
さっちんという1人の少年に向けられた眼差しに込められた、そのやさしさ。人間性や生きることへの全肯定の眼差しが、びしびしと伝わってくるんだ。
荒木経惟さんという写真家のことを、おれは尊敬してやまない。
本当にやさしい人なのだと思う。子供だけじゃない。ソープ嬢を撮っても、裸の妊婦を撮っても、疲れたサラリーマンを撮っても、エキゾチックに、刺激的に撮られた作品であったとしても、アラーキーの写真は、やっぱりどこかやさしい。
そのことをおれは、「ふまじめなやさしさ」と呼んでいる。
アラーキーの写真には、ふまじめなやさしさが溢れているね。
そのやさしさもふまじめさも、おれは大好きだし、本当に素晴らしいと思います。
最後に、心に残ったあとがきの言葉を引用しておきたい。
『生きるっていうのはね、やっぱり、跳ねるとか、ヴィヴィッドであるとか、声が大きいとかってことだから。少年たちがさ、フレームから画面からはみ出てるでしょう、飛び出てるでしょう、そういうことなんだよね。』
(『のぶちんが「さっちん」を語る―あとがきにかえて』より)
Friday, September 01, 2006
アンチテーゼ
随分書いていなかったので、書き方を忘れてしまった。
なんでもそうかもしれないけれど、日々続けていないことはすぐに出来なくなるね。
銀座の本屋で写真集のコーナーをふらついていたら、一冊の本が目に留まった。
写真家の森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』という対話集。
森山大道という写真家に興味を持っていたことあって、何気なく手にとってみたのだけれど、その帯に書かれた言葉がとても印象的だったんだ。
『量のない質はない、ただもうそれだけです。』
どきっとした。同時に、なんだか嬉しかった。そしてなにより、凄いと思った。
写真だけじゃない。洪水のように押し寄せる情報の波を受けて、方法論と効率ばかりが語られる世界そのものへのアンチテーゼのようで、言葉の迫力に思わず息を呑んでしまった。自分の身体で、眼で、手足で、とにかく世界にぶつかってきたのだというその静かな気概が、その言葉を通しておれ自身に飛び込んでくるような感覚だった。
あー、おれも撮ろう。もっとたくさん。
撮りたいと思った瞬間に必ずシャッターを切れるように。
そして今度本屋さんに行く時は、あの本を絶対に買おう。
今日はアラーキーの写真集を買ってしまったので。
なんでもそうかもしれないけれど、日々続けていないことはすぐに出来なくなるね。
銀座の本屋で写真集のコーナーをふらついていたら、一冊の本が目に留まった。
写真家の森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』という対話集。
森山大道という写真家に興味を持っていたことあって、何気なく手にとってみたのだけれど、その帯に書かれた言葉がとても印象的だったんだ。
『量のない質はない、ただもうそれだけです。』
どきっとした。同時に、なんだか嬉しかった。そしてなにより、凄いと思った。
写真だけじゃない。洪水のように押し寄せる情報の波を受けて、方法論と効率ばかりが語られる世界そのものへのアンチテーゼのようで、言葉の迫力に思わず息を呑んでしまった。自分の身体で、眼で、手足で、とにかく世界にぶつかってきたのだというその静かな気概が、その言葉を通しておれ自身に飛び込んでくるような感覚だった。
あー、おれも撮ろう。もっとたくさん。
撮りたいと思った瞬間に必ずシャッターを切れるように。
そして今度本屋さんに行く時は、あの本を絶対に買おう。
今日はアラーキーの写真集を買ってしまったので。
Wednesday, July 26, 2006
アフォリズム
辺見庸さんの『いま、抗暴のときに』(講談社文庫)から。
闇を撃つのは光じゃなくて、もっと濃い闇なんだよ。心はそうつぶやく。闇に分け入るか、闇に肉薄する言葉をもつことだ、と自分にいいきかせる。(94頁)
辺見庸さんは、ここ数年間ずっと頭の片隅で存在が揺らめいていた作家だ。
『もの食う人びと』というノンフィクション作品のことを新聞の書評かなにかで知って、以来いつか読もうとずっと思っていたのだけれど、書店で著作を見掛けると、何故だかいつも手に取るのが憚られてしまう、そんな作家だった。
数年を経た今、このタイミングで手に取ったのも、なにかの縁かもしれない。
最初に手にしたのは『もの食う人びと』ではなかったけれど。
『永遠の不服従のために』をつい先日読了し、今はその続編『いま、抗暴のときに』を読んでいる。辺見庸さんは、言葉に「質感」のある作家だ。乾ききった言葉ではなく、あるいは清流のような澄み切った言葉でもなく、血潮のような独特の「濃度」を持った言葉を重ねてくる。その思想信条に対する賛否は別として、言葉に凄みを感じさせる作家であり、読む側の心をざわつかせるような何かがある。
一連の著作を読み終えた時には、改めて所感を書いてみたい。
闇を撃つのは光じゃなくて、もっと濃い闇なんだよ。心はそうつぶやく。闇に分け入るか、闇に肉薄する言葉をもつことだ、と自分にいいきかせる。(94頁)
辺見庸さんは、ここ数年間ずっと頭の片隅で存在が揺らめいていた作家だ。
『もの食う人びと』というノンフィクション作品のことを新聞の書評かなにかで知って、以来いつか読もうとずっと思っていたのだけれど、書店で著作を見掛けると、何故だかいつも手に取るのが憚られてしまう、そんな作家だった。
数年を経た今、このタイミングで手に取ったのも、なにかの縁かもしれない。
最初に手にしたのは『もの食う人びと』ではなかったけれど。
『永遠の不服従のために』をつい先日読了し、今はその続編『いま、抗暴のときに』を読んでいる。辺見庸さんは、言葉に「質感」のある作家だ。乾ききった言葉ではなく、あるいは清流のような澄み切った言葉でもなく、血潮のような独特の「濃度」を持った言葉を重ねてくる。その思想信条に対する賛否は別として、言葉に凄みを感じさせる作家であり、読む側の心をざわつかせるような何かがある。
一連の著作を読み終えた時には、改めて所感を書いてみたい。
Sunday, July 23, 2006
photograph #3
想像力の絶望的なまでの怠慢-
「世界報道写真展2006」を見た直後の正直な感想だ。
滅多にないオフの日曜日、どう過ごそうかパートナーと相談しながら、2人でインターネットをうろついていたら、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催されているこの写真展が目に留まった。
いいタイミングで出会うものだね。
見つけた瞬間に、今の自分にとって見ておくべき写真展だと思った。
ひとつは、純粋に写真に対する興味が尽きないこと。
ある場所のある瞬間に世界に確かにあった風景というものが、シャッターを通して様々な切り取られ方で提示されるそのことに、非常に興味があった。興味があった、という書き方は(実際に展示された写真の中の世界を考えるならば)不謹慎かもしれないけれど、突き放した言い方をすれば、写真はどこまで行っても写真でしかない。現実そのものではあり得ないのだと思う。しかし、むしろそれ故に、写真が描き出す世界が心を強く揺すぶる、ということもあるんじゃないか。
そういう写真に対する渇望のようなものが、心のどこかにあったのだと思う。
もうひとつは、それが報道写真だということ。
戦争。テロ。ゲリラ。ハリケーン。津波。飢餓。そういった紛れもない世界の「現実」に対して、「自分がどう認識しているのか」ということを自己認識しておきたかった。
レバノンが空爆されている。誰もが知っている事実だ。新聞に書いてある。
ただ、中近東の小国で、今この瞬間も爆撃が行われている、というその事実を、自分自身がどのように考え、自己の内側に落とし込んでいるのか。それは必ずしも明晰ではなく、むしろ、自分と世界との距離感は曖昧模糊としているんじゃないか。
辺見庸さんの『永遠の不服従のために』をつい最近読んで、強い衝撃を受けたことも手伝って、そんな気持ちが拭えなかったというのも大きかったけれど。
実際に展示された数々の報道写真の感想は、ちょっと表現し難い。
凄まじいばかりの写真に、何度も声を失った。個々の写真が切り出す凄絶な世界の表情について、今の自分にはとても書けそうにない。
ただひとつ、正直な感想として胸に浮かんだのが「想像力の怠慢」ということだった。
辺見庸さんの指摘する通りかもしれない。
あの写真を前にして、初めて衝撃を受けるのだから。
今この瞬間にも、世界のどこかで実際に起こっている事実に対して、「人間」としての想像力さえあったならば、その場に生きる人間を、肌感覚を持った生身の存在としてイメージすることが出来たならば、どれほど違っていただろう。
想像力が絶望的なまでに貧困であることを知って、今更ながらショックだった。
両手を失った父親が着るシャツのボタンを閉じる少年の姿が忘れられない。
「世界報道写真展2006」を見た直後の正直な感想だ。
滅多にないオフの日曜日、どう過ごそうかパートナーと相談しながら、2人でインターネットをうろついていたら、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催されているこの写真展が目に留まった。
いいタイミングで出会うものだね。
見つけた瞬間に、今の自分にとって見ておくべき写真展だと思った。
ひとつは、純粋に写真に対する興味が尽きないこと。
ある場所のある瞬間に世界に確かにあった風景というものが、シャッターを通して様々な切り取られ方で提示されるそのことに、非常に興味があった。興味があった、という書き方は(実際に展示された写真の中の世界を考えるならば)不謹慎かもしれないけれど、突き放した言い方をすれば、写真はどこまで行っても写真でしかない。現実そのものではあり得ないのだと思う。しかし、むしろそれ故に、写真が描き出す世界が心を強く揺すぶる、ということもあるんじゃないか。
そういう写真に対する渇望のようなものが、心のどこかにあったのだと思う。
もうひとつは、それが報道写真だということ。
戦争。テロ。ゲリラ。ハリケーン。津波。飢餓。そういった紛れもない世界の「現実」に対して、「自分がどう認識しているのか」ということを自己認識しておきたかった。
レバノンが空爆されている。誰もが知っている事実だ。新聞に書いてある。
ただ、中近東の小国で、今この瞬間も爆撃が行われている、というその事実を、自分自身がどのように考え、自己の内側に落とし込んでいるのか。それは必ずしも明晰ではなく、むしろ、自分と世界との距離感は曖昧模糊としているんじゃないか。
辺見庸さんの『永遠の不服従のために』をつい最近読んで、強い衝撃を受けたことも手伝って、そんな気持ちが拭えなかったというのも大きかったけれど。
実際に展示された数々の報道写真の感想は、ちょっと表現し難い。
凄まじいばかりの写真に、何度も声を失った。個々の写真が切り出す凄絶な世界の表情について、今の自分にはとても書けそうにない。
ただひとつ、正直な感想として胸に浮かんだのが「想像力の怠慢」ということだった。
辺見庸さんの指摘する通りかもしれない。
あの写真を前にして、初めて衝撃を受けるのだから。
今この瞬間にも、世界のどこかで実際に起こっている事実に対して、「人間」としての想像力さえあったならば、その場に生きる人間を、肌感覚を持った生身の存在としてイメージすることが出来たならば、どれほど違っていただろう。
想像力が絶望的なまでに貧困であることを知って、今更ながらショックだった。
両手を失った父親が着るシャツのボタンを閉じる少年の姿が忘れられない。
Sunday, June 25, 2006
photograph #2
随分遅くなってしまったけれど、撮る方ね。
もう1ヶ月近く前になるけれど、2つのカメラを買ったんだ。
ひとつは、マニュアルフォーカス一眼レフのフィルムカメラ「Nikon FM10」。
比較的安価な一眼レフの入門機で、一眼レフ特有の物々しさがないのがいいね。
そしてもうひとつは、実はポラロイドカメラ。
日本ポラロイド(株)の「One600 Pro」というやつで、一応Series最上位のモデルだ。
これがどちらも、ものすごく楽しいんだ。
自分でも驚いてしまうくらい、撮ることが楽しくて堪らない。
量販店の店員はもしかすると、「何故今更この2台なのか」と思ったかもしれない。
でもね、実際に撮ってみると、フィルムカメラには、デジタルカメラでは絶対に味わうことの出来ない魅力がたくさん詰まっているんだ。そして、フルマニュアルというのがまた味わい深い。自分の手でひとつひとつ焦点を合わせ、絞りとシャッタースピードで露光を調節して、丁寧にシャッターを切っていく感覚がたまらない。ひとつひとつの写真を自分自身の手で産み落としていくようで、デジタルカメラの写真では感じることのない「愛着」が湧き上がってくるね。
つい昨日のことだけれど、初めて撮った36枚のフィルムが現像されてきたんだ。
部屋の中、パートナー、神田のスタバ、小伝馬町、いろいろなものを撮った。
当然思うような仕上がりのものばかりではなくて、焦点の合っていない写真や手ブレした写真もたくさんあったけれど、それでもすごく嬉しかった。
現像代はちょっと痛いけれど、ファインダーを通して覗いた「自分にとっての世界」がアナログの写真となって像を結ぶ、というその魅力は、ちょっと代えがたいものだね。
また、写真を撮りに行こう。
タマリバの練習が終わった後の、土曜日の昼下がりに。
もう1ヶ月近く前になるけれど、2つのカメラを買ったんだ。
ひとつは、マニュアルフォーカス一眼レフのフィルムカメラ「Nikon FM10」。
比較的安価な一眼レフの入門機で、一眼レフ特有の物々しさがないのがいいね。
そしてもうひとつは、実はポラロイドカメラ。
日本ポラロイド(株)の「One600 Pro」というやつで、一応Series最上位のモデルだ。
これがどちらも、ものすごく楽しいんだ。
自分でも驚いてしまうくらい、撮ることが楽しくて堪らない。
量販店の店員はもしかすると、「何故今更この2台なのか」と思ったかもしれない。
でもね、実際に撮ってみると、フィルムカメラには、デジタルカメラでは絶対に味わうことの出来ない魅力がたくさん詰まっているんだ。そして、フルマニュアルというのがまた味わい深い。自分の手でひとつひとつ焦点を合わせ、絞りとシャッタースピードで露光を調節して、丁寧にシャッターを切っていく感覚がたまらない。ひとつひとつの写真を自分自身の手で産み落としていくようで、デジタルカメラの写真では感じることのない「愛着」が湧き上がってくるね。
つい昨日のことだけれど、初めて撮った36枚のフィルムが現像されてきたんだ。
部屋の中、パートナー、神田のスタバ、小伝馬町、いろいろなものを撮った。
当然思うような仕上がりのものばかりではなくて、焦点の合っていない写真や手ブレした写真もたくさんあったけれど、それでもすごく嬉しかった。
現像代はちょっと痛いけれど、ファインダーを通して覗いた「自分にとっての世界」がアナログの写真となって像を結ぶ、というその魅力は、ちょっと代えがたいものだね。
また、写真を撮りに行こう。
タマリバの練習が終わった後の、土曜日の昼下がりに。
Friday, June 23, 2006
photograph
久しぶりの更新。
最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。
まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。
ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。
もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。
そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。
アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。
長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。
最近、写真というものに心をとらわれている。
観ることに対しても、撮ることに対しても、沸き起こる好奇心が止まらない感じだ。
まず、観ること。
この2週間ほどの間に、自分にとって2つの大きな感動があった。
ひとつは、注文していたアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集が届いたこと。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
ヨーロッパ各国において、ある場所の、ある瞬間にのみ存在した世界の姿が、200ページ以上に渡ってモノクロームの作品として映し出されている。
その写真はどれも、息を呑むほどに素晴らしかった。
「瞬間」の中にしかないものを、シャッターを通じてフィルムの中に閉じ込めてみせた。アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見ていると、そんな感じがする。誰もが見落としてしまいそうな「瞬間」の中に、ひっそりと丁寧に隠し込まれた美しさ、あるいは世界の迫力といったものを、ブレッソンは「写真」という瞬間の表現の中で、これ以上ないほどに完璧な形式を持って示しているように思ってしまう。
その魅力をうまく言葉に出来ないけれど、写真という表現にこれほど感動したのは、おそらく初めてのことじゃないかと思う。それは、とても嬉しいことだった。
もうひとつは、アラーキーこと写真家の荒木経惟さんの著作を読んだこと。
集英社新書にて刊行されている『天才アラーキー 写真ノ方法』ってやつだ。
あとがきにある通り、アラーキーが、おそらく酒でも呑みながら語った言葉の数々を文章に起こすことで生まれた著作で、語り口調そのままに、一般にイメージされるアラーキーの雰囲気を上手く残した仕上がりになっている。もちろん、アラーキーの作品も幾つか挿し込まれていて、語られる写真への想いとリンクしている。
この作品は、ここ最近読んだ本の中で、最も心に訴えかけるものだった。
とにかく、アラーキーの人間味に尽きる。アラーキーといえば破天荒な振る舞いと大胆なヌードのイメージが強いけれど、この作品を読んでいると、荒木経惟という写真家の人間的な発想、或いは人間に対するやさしさに満ちた眼差しが伝わってくるね。
そして当然ながら、写真も魅力的だ。
アラーキーの写真には、自身が著作の中で語っているように、過去・現在・未来と繋がる時間の流れが織り込まれているように感じる。例えば老婆を撮ったならば、その老婆の過去の人生における経験や思い出、明日からの生活に対する思い、喜びや悲しみといった全てがその写真の中につまっているような、そんな感じだ。その意味では、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とは対照的と言えるかもしれない。
そしてアラーキーの写真には、どこか匂いがある。温度や息遣いといったものさえも、フィルムの中に残っているような気がしてくる。刺激的に、攻撃的に撮られた写真も少なくないけれど、最後はどこか人間的で、暖かさを漂わせているんだ。
アンリ・カルティエ・ブレッソンと荒木経惟。
2人の写真家は全くタイプが異なっていて、カメラという同じ道具を用いても、シャッターを通じて切り取る世界の表情はお互いに対照的で、全然違うものになっている。
そのことに気づいて、今、写真を観ることが楽しくて堪らない。
長くなったので、撮ることについて書くのは今度にします。
カメラを買った、ってだけなんだけどね。
Sunday, June 04, 2006
写真という表現
昨日のことだけれど、TV東京の『美の巨人たち』に衝撃を受けた。
写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソン。その写真が本当に素晴らしかったんだ。
TVディスプレイを通してさえ心を打たれた写真が幾つもあった。
流れる時間の中では上手くつかまえることの出来ない、或いは気づくことさえもない「瞬間の」美しさを、シャッターで切り取ることで、繊細かつ洗練されたイメージとして表現してみせたような彼の写真には、とにかく心を打つものがあった。
写真という表現にこれほど惹かれたのは初めてかもしれない。
放送終了後に、思わずアマゾンで彼の写真集を買ってしまった。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
届くのが楽しみで仕方がないね。
そして今は、自分でも写真を撮りたくて堪らないです。
写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソン。その写真が本当に素晴らしかったんだ。
TVディスプレイを通してさえ心を打たれた写真が幾つもあった。
流れる時間の中では上手くつかまえることの出来ない、或いは気づくことさえもない「瞬間の」美しさを、シャッターで切り取ることで、繊細かつ洗練されたイメージとして表現してみせたような彼の写真には、とにかく心を打つものがあった。
写真という表現にこれほど惹かれたのは初めてかもしれない。
放送終了後に、思わずアマゾンで彼の写真集を買ってしまった。
"Europeans" by Henri Cartier-Bresson
届くのが楽しみで仕方がないね。
そして今は、自分でも写真を撮りたくて堪らないです。
途方に暮れる思想
保坂和志さんのエッセイ集『途方に暮れて、人生論』読了。
保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。
読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。
読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。
保坂和志さんの著作を読むのはこれが初めてだった。
ずっと気になっていながら読むタイミングがなかった、という訳でもなくて、単純に保坂和志という作家をよく知らなかった。もっと言うと、特段の興味もなかった。
この作品を手に取ったのも、全くの偶然だった。
もともとは村上龍さんが新しく対談集を出版したと知って、それを買おうと目黒の本屋さんに行ったのだけれど、残念ながらその本屋では取り扱っていなかった。それで、帰りの電車で読む本の当てがなくなってしまって、どうしたものかと本屋さんをうろついていた時に、たまたま目に飛び込んできたのがこの作品だったんだ。
まず、タイトルが良いよね。『途方に暮れて、人生論』という言葉の響きが絶妙に心をくすぐる。正面切ってぶたれる人生論の押し付けがましさがなく、途方に暮れた末の思索の欠片であるという慎ましやかさが、受け取る側の心をすっと開かせてくれる。そして、透明感のある青を基調としたお洒落な装丁と、帯に書かれた「『希望』なんて、なくたっていい―。」という言葉。そういった全てが自分自身の気分にマッチして、思わず買ってしまったんだ。
読み終えた感想としては、非常に良かった。
東京での生活も今年で10年目になるけれど、この10年の間に得たものと失ったものへの想像力を喚起するとともに、これから何を得ようとして、何を失っていこうとしているのかを考えるヒントを与えてくれる著作だった。
「途方に暮れる」ということの意味も、読めば分かるはずだ。それは絶望や諦念ではなくて、答えのない問いに対して、常識や社会通念といったものに安易に答えを求めず、答えがないことを正面から受け止めて、それでも問い続けるその姿勢そのものであり、むしろそれは、世界に対する極めて肯定的な態度ではないかと思う。
例えば、都市文明ということを考える。都市文明によって日常における利便性や効率性は飛躍的に向上し、様々な享楽に対するアクセシビリティが高まったことは紛れもない事実だろう。そして、それに対するカウンターパートとして、例えば自然環境の破壊であったり、発展途上国の現実と、そのバックボーンとしての先進国による搾取の構図であったり、そうした立場からの文明社会批判が展開される。そこには当然ながら、紛れもなく一定の真実が含まれていると思う。ただ、そこで保坂さんはもう一歩立ち止まって考えてみる。都市文明というのは本来、弱者を護る為にこそ志向されたものではなかったか、と。人間生活を営むうえで必然的に生み出される社会的弱者。それは例えば子供であったり、高齢者であったり、或いは疾病に冒された者であったりするのだけれど、そういった弱者を救済する機能として、都市文明というシステムは創り出されたはずだったのではないか。
こうした複眼的な視点が織り込まれた思考というのは、安易な答えを求めない。文明社会の矛盾に対して、シンプルに批判して自己完結するのではなくて、その先をしぶとく突き詰めていく。そういう「途方もない」生き方や発想の仕方は非常に刺激的であると同時に、巷に溢れる一面的な議論とは一線を画していて、読む人間の頭の片隅に、ちょっとした不安定さを引き起こしてくれる。
保坂さんはこの著作において、自身の主義主張を弄することを目的とせず、ただ「途方に暮れて」思考したその足跡を残しているだけだ。考える、ということを方法論としてでなく、自分自身の思考の軌跡によって暗示していて、その手法はうまく成功していると思う。
読み応えのある作品。
無自覚的に閉じてしまっている感性に、もう一度スイッチを入れるヒントがあるかもしれません。
Sunday, May 28, 2006
最悪のゲーム
タマリバクラブの今シーズン2試合目となる練習試合があった。
5月28日(日)vs高麗クラブ(14:00 K.O. @三鷹大沢グラウンド)
昨日の雨もあって最悪のグランドコンディションだったけれど、多くのメンバーが意識を高く持ってプレーしていて、53-12での勝利となった。
そんな中で、自分自身のプレーの出来は、本当に最悪だった。
あまりに酷い。居ない方がましなくらいだった。メンバーの皆に申し訳ない。
ラグビーのことをこのブログで書くのは、当分やめようと思う。
書いている場合じゃないということが、今日のゲームではっきりしたので。
5月28日(日)vs高麗クラブ(14:00 K.O. @三鷹大沢グラウンド)
昨日の雨もあって最悪のグランドコンディションだったけれど、多くのメンバーが意識を高く持ってプレーしていて、53-12での勝利となった。
そんな中で、自分自身のプレーの出来は、本当に最悪だった。
あまりに酷い。居ない方がましなくらいだった。メンバーの皆に申し訳ない。
ラグビーのことをこのブログで書くのは、当分やめようと思う。
書いている場合じゃないということが、今日のゲームではっきりしたので。
Saturday, May 27, 2006
ただそこに在る
随分遅くなってしまったけれど、八丈島でのことを書き残しておきたい。
八丈島には、2つの山がある。
瓢箪型の島の北に八丈富士、そして南には三原山。
南北にそびえるこの2つの山によって、八丈島は型作られているんだ。
どちらも標高700m~800m程度で、決して高い山ではないけれど、独特の魅力を持った味わい深い山だね。2日間をかけてパートナーと山道を歩き廻ったのだけれど、八丈という島の魅力がそこには凝縮されていたように思う。2日間でかなりの距離を歩いたので、パートナーは持ってきた靴を履き潰してしまうほどだったけれど。
三原山登山道の入り口を左に折れて、そこから唐滝川に沿って山道を登っていくと、奥まった緑の中に綺麗な沼がある。硫黄沼という名の小さな沼だ。
エメラルドグリーンの見事な水面。沼の奥には硫黄滝というささやかな滝があって、硫黄沼へと澱みなく流れ落ちているのだけれど、その空間には水音ひとつしない。緑に囲まれたほんのわずかな空間は、凛として静かで、水面に広がるエメラルドグリーンの透明感を際立たせている。登山道からほんの少しだけ左に外れたところにあるのだけれど、この硫黄沼一帯だけは、全体の空間から独立して、それとして存在しているような感じで、気持ちをすごく落ち着かせてくれる。
登山道の本筋に戻ってさらに登っていくと、もうひとつの見処がある。それが、唐滝という八丈島で最も大きな滝だ。
40m弱の岩壁を降り落ちてくる滝の流れは、力強さよりもむしろ繊細さを醸している。滝壷に至るまでに、流れは小さな飛沫となって飛散して、霧吹きのように岩壁にやさしく広がっていく。そうして絶えることのないシャワーを浴びて、岩壁には苔が繁茂し、その苔の緑が唐滝の美しさの大切な一要素になっている。
硫黄沼にも言えることだけれど、唐滝も「静か」だ。流れが、というよりも、空間そのものが、と言った方が近いと思うけれど、唐滝の流れを含むその一帯がどこか静かで、落ち着いていて、自然の優しさが浮き上がっている。
翌日、今度は八丈富士に登る。標高は854mと三原山よりも若干高く、思っていた以上に登り甲斐のある山だった。山頂からは八丈島を一望でき、豊かな緑に包まれた山道には八丈島の魅力が詰まっていて、純粋に登山として楽しめる。そういう意味でもやはり、八丈富士は島のいちばんの名所と言っていいだろう。
八丈富士の最大の魅力は、なんと言っても緑生い茂る火口だ。山頂まで辿り着くと、そこからお鉢巡りをするのだけれど、眼下の火口は、青々とした草木で一面覆い尽くされている。この日の山頂はガスで霞がかっていて、視界は開けていなかったけれど、むしろそのガスの白みがどこか神々しくもあり、「山神様」とでもいうものがいたとするならば、きっとそれはこういうことなのかもしれない、なんて思ったりもする。うまく表現できないけれど、山の神というのはひとつの人格のようなものではなくて、「山」という空間そのものなんじゃないかと。大袈裟に言ってしまうと、そんな感じだね。
八丈富士のお鉢にはちゃんとルートもあって、中を探索していくことが出来る。特に行き着く先もなく、火口の中心に辿り着く前に、途中でルートは途絶えてしまうのだけれど、そこに広がる植物はとても力強く、生命力に満ちている感じだ。緑で埋め尽くされた火口を見たのは初めてだったけれど、遠くから望む限りは見ることのない場所に、これほどの自然が息づいているというのは、新鮮な驚きだった。
硫黄沼、そして唐滝を廻った時には、パートナーとおれ以外に誰もいなかった。
さすがに八丈富士にはそれなりの数の登山者がいたけれど、もしも登る人間がいなければ、火口に広がる樹木の緑は誰にも見られることがない。
そのことが、おれにはすごく印象的だった。
自然というのは「ただそこに在る」のだなあ、と。誰の承認を求めることもなく。
美しいと云う誰かがそこに居なかったとしても、自然はただそこに在って、美しい。
それはきっと、自然の強さなのだろう。
八丈島には、2つの山がある。
瓢箪型の島の北に八丈富士、そして南には三原山。
南北にそびえるこの2つの山によって、八丈島は型作られているんだ。
どちらも標高700m~800m程度で、決して高い山ではないけれど、独特の魅力を持った味わい深い山だね。2日間をかけてパートナーと山道を歩き廻ったのだけれど、八丈という島の魅力がそこには凝縮されていたように思う。2日間でかなりの距離を歩いたので、パートナーは持ってきた靴を履き潰してしまうほどだったけれど。
三原山登山道の入り口を左に折れて、そこから唐滝川に沿って山道を登っていくと、奥まった緑の中に綺麗な沼がある。硫黄沼という名の小さな沼だ。
エメラルドグリーンの見事な水面。沼の奥には硫黄滝というささやかな滝があって、硫黄沼へと澱みなく流れ落ちているのだけれど、その空間には水音ひとつしない。緑に囲まれたほんのわずかな空間は、凛として静かで、水面に広がるエメラルドグリーンの透明感を際立たせている。登山道からほんの少しだけ左に外れたところにあるのだけれど、この硫黄沼一帯だけは、全体の空間から独立して、それとして存在しているような感じで、気持ちをすごく落ち着かせてくれる。
登山道の本筋に戻ってさらに登っていくと、もうひとつの見処がある。それが、唐滝という八丈島で最も大きな滝だ。
40m弱の岩壁を降り落ちてくる滝の流れは、力強さよりもむしろ繊細さを醸している。滝壷に至るまでに、流れは小さな飛沫となって飛散して、霧吹きのように岩壁にやさしく広がっていく。そうして絶えることのないシャワーを浴びて、岩壁には苔が繁茂し、その苔の緑が唐滝の美しさの大切な一要素になっている。
硫黄沼にも言えることだけれど、唐滝も「静か」だ。流れが、というよりも、空間そのものが、と言った方が近いと思うけれど、唐滝の流れを含むその一帯がどこか静かで、落ち着いていて、自然の優しさが浮き上がっている。
翌日、今度は八丈富士に登る。標高は854mと三原山よりも若干高く、思っていた以上に登り甲斐のある山だった。山頂からは八丈島を一望でき、豊かな緑に包まれた山道には八丈島の魅力が詰まっていて、純粋に登山として楽しめる。そういう意味でもやはり、八丈富士は島のいちばんの名所と言っていいだろう。
八丈富士の最大の魅力は、なんと言っても緑生い茂る火口だ。山頂まで辿り着くと、そこからお鉢巡りをするのだけれど、眼下の火口は、青々とした草木で一面覆い尽くされている。この日の山頂はガスで霞がかっていて、視界は開けていなかったけれど、むしろそのガスの白みがどこか神々しくもあり、「山神様」とでもいうものがいたとするならば、きっとそれはこういうことなのかもしれない、なんて思ったりもする。うまく表現できないけれど、山の神というのはひとつの人格のようなものではなくて、「山」という空間そのものなんじゃないかと。大袈裟に言ってしまうと、そんな感じだね。
八丈富士のお鉢にはちゃんとルートもあって、中を探索していくことが出来る。特に行き着く先もなく、火口の中心に辿り着く前に、途中でルートは途絶えてしまうのだけれど、そこに広がる植物はとても力強く、生命力に満ちている感じだ。緑で埋め尽くされた火口を見たのは初めてだったけれど、遠くから望む限りは見ることのない場所に、これほどの自然が息づいているというのは、新鮮な驚きだった。
硫黄沼、そして唐滝を廻った時には、パートナーとおれ以外に誰もいなかった。
さすがに八丈富士にはそれなりの数の登山者がいたけれど、もしも登る人間がいなければ、火口に広がる樹木の緑は誰にも見られることがない。
そのことが、おれにはすごく印象的だった。
自然というのは「ただそこに在る」のだなあ、と。誰の承認を求めることもなく。
美しいと云う誰かがそこに居なかったとしても、自然はただそこに在って、美しい。
それはきっと、自然の強さなのだろう。
Tuesday, May 16, 2006
やさしさに包まれたなら
植村花菜さんというシンガーのことが、とても好きになりました。
初めて聴いたのは、八丈島から羽田へと戻るANAの飛行機。
ほんの1時間ばかりのフライトで、何気なく耳に当てたヘッドホンのラジオから流れてきたのが、荒井由美の名曲「やさしさに包まれたなら」のカバーだったんだ。
素晴らしかった。本当に素敵な歌声だと思いました。
上手いとか力強いとかテクニカルだとか、そういうことではなくてね、歌声そのものが良いです。声そのものが既に表現であるような、そんな歌声。
目にうっすらと涙が溜まる時のように、じんわりと心に沁み入ってきて。
荒井由美さんのこの曲をカバーすることになったのはきっと、彼女の天運だと思う。
勝手にそう思ってしまうくらいに、その声と曲がうまく溶け合っているね。
そして関係ないけれど、とても可愛い。
シングル、買ってみようかな。
http://www.uemurakana.com/index2.html
初めて聴いたのは、八丈島から羽田へと戻るANAの飛行機。
ほんの1時間ばかりのフライトで、何気なく耳に当てたヘッドホンのラジオから流れてきたのが、荒井由美の名曲「やさしさに包まれたなら」のカバーだったんだ。
素晴らしかった。本当に素敵な歌声だと思いました。
上手いとか力強いとかテクニカルだとか、そういうことではなくてね、歌声そのものが良いです。声そのものが既に表現であるような、そんな歌声。
目にうっすらと涙が溜まる時のように、じんわりと心に沁み入ってきて。
荒井由美さんのこの曲をカバーすることになったのはきっと、彼女の天運だと思う。
勝手にそう思ってしまうくらいに、その声と曲がうまく溶け合っているね。
そして関係ないけれど、とても可愛い。
シングル、買ってみようかな。
http://www.uemurakana.com/index2.html
Friday, April 28, 2006
八丈の海に潜る
随分久しぶりに、プライベートでの旅行に行ってきたんだ。
ちょっとした休暇を取って、3泊4日での小旅行。行き先は、八丈島。
今回の旅行の中で自分なりに感じたことを、この場に書き綴ることにします。
4月28日(金)
10時30分羽田発の飛行機に乗り込み、11時40分くらいには八丈島に到着していた。もっと遠い印象があったのだけれど、実際にはわずか1時間程度で辿り着ける訳で、移動は本当にあっという間だった。機内で軽く眠っていたら、起きた時にはもう島に到着している感じだ。
八丈島空港に降り立つ。最初に感じたのは、気候的には、普段暮らしている東京の街とさほど変わらないということ。若干暖かい程度で、特段の差はないように感じた。ただし、あくまでそれは初日の印象だ。実際には4日間の旅を通じて、気候的な違いをはっきりと感じることが出来た。
パンフレットの言葉を借りるならば「亜熱帯」。八丈は、やっぱり亜熱帯の島なんだ。
単純に、植物が違う。椰子の木が至るところに生い茂っており、他にも名前を知らない植物が数多く見られ、ちょっとした南国の心地がする。全般的な印象として、非常にカラフルな植生だ。また、空気の張りつめ具合や透明感といったものも、所謂「都内」とは明らかに違う。(八丈島も東京都なので、書き方は正確ではないけれど。)
12時頃にホテルに到着すると、まずはダイビングが出来るところを探すことにした。翌日から天気は下り坂という予報だったので、初日の午後に潜るのが一番楽しめるのではないかと思ったんだ。フロントにお願いして、午後で受付可能な体験ダイビングのツアーを紹介してもらい、なんとか14時からのツアーに予約を取ることが出来た。ツアーの時間は全体で約1時間半ということで、さすがに短いような気もしたけれど、折角の機会なので、お願いすることにしたんだ。
14時までの空いた時間で、昼飯を食べに行く。ホテルから15分ほど歩いて向かった先は、「一休庵」という蕎麦屋。八丈島では「明日葉蕎麦」が名物と聞いて、この機会に食べてみようと思ったんだ。明日葉を練り込んだ細麺の蕎麦で、特別美味いということもなかったけれど、きちんと葉の味を感じる麺で、悪くはなかったかな。
昼飯を済ませると、いよいよ体験ダイビング。"Project Wave"という会社のツアーで、迎えに来てくれたインストラクターの2人に連れられて、早速八丈島の海に向かった。実際に始まってみると、午後に潜るのはパートナーとおれの2人だけだったので、自分達のペースで動くことが出来て、その意味では非常に気楽で良かったね。
パートナーは過去に2度ダイビングの経験があるが、おれは今回が初めてだった。彼女はAUS、沖縄と潜ってきた経験から「初めて潜る場所はとても重要」といつも口にしていたけれど、八丈島が選択として良かったのかどうかは、おれには分からない。
インストラクターの指示のもと、ウェットスーツに着替えると、早速水に浸かって簡単に説明を受けていく。マスク、フィン、タンクといった装備を身に付けた後、呼吸の仕方や耳抜きといった基本的なガイドを受けると、いよいよインストラクターに寄り添いながら、八丈島の海に潜っていった。事前の説明は本当にラフなもので、若干心配ではあったけれど、実際に潜ってみると特に問題なく楽しむことが出来た。
海の中ではマンツーマンでインストラクターが寄り添って、進行方向や深さをコントロールしていく。自分ですることは呼吸と耳抜き、あとは顔の向きを変えることくらいだ。珊瑚やイソギンチャク、様々な熱帯魚を見ながらおよそ30分、八丈の海を味わっていく。熱帯魚の数はそれほど多くなかったけれど、カラフルで綺麗だった。
さて、所感。
陸からは見ることの出来ない海の景色は悪くなかった。
ただ、おれが最も強く感じたのは「不自由感」とでもいうものだった。
せいぜい5m程度の深さまで潜る為に、人間はあれほどの装備を必要としてしまういう事実。それでもなお海中を見たいという人間の好奇心にも驚くけれど、実際に装備を身に付けてみて初めて体感したあの不自由さには、少し思うところがあった。
単純にスーツの窮屈さや呼吸の問題もあると思う。また、インストラクターに自分の身の全てを預けるような体験コースだったことで、自分の意思で動くことの出来ない不自由もあった。加えて、言葉を発することが出来ないコミュニケーションの制約。海ゆえの不自由は非常に多く、それは当然のことだと思う。でも、その不自由を背負ってさえ、人間が辿り着けるのは、大海原の中の、本当に手の届きそうなところにある、わずかばかりのエリアだったりするのだからね。
ダイビングは五感の制約がとても大きい。聴覚、嗅覚、触覚といった比較的身体に対してダイレクトな感覚が閉じられていて、楽しみのほぼ全てが視覚に依拠している。
だからこそ、潜る海で決してしまう部分は強いのかもしれない。その意味では、八丈の海の表情は、それほど強い魅力を持って迫っては来なかったのかな、とも思う。
体験ダイビングではなく、きちんとライセンスを取得して、経験を重ねていけば違うのかもしれない。自分の意思で動き、自分の意思で海を堪能する。海の美しさを自分から探していく過程というのは、きっと楽しいだろうと思うけれど。
なにぶん初めての体験で、新鮮な楽しさは勿論あったけれど、今回のツアーに関して言うと、個人的には微妙な感じが残ってしまったね。本格的にライセンスを取得するとなると、現段階ではちょっと悩んでしまうかな。
ダイビングの後は、ホテルに戻って夕食。島寿司やお刺身といった海の幸中心の晩飯を食べると、食後は翌日のプランを決めたりしながら、部屋でゆっくりと過ごした。
そして翌日以降は、八丈島のもうひとつの自然、山を廻っていくことになります。
八丈島の景色を、おれの視点から。(海の写真はないけれど。)
http://www.23hq.com/Fukatsu/album/637324
ちょっとした休暇を取って、3泊4日での小旅行。行き先は、八丈島。
今回の旅行の中で自分なりに感じたことを、この場に書き綴ることにします。
4月28日(金)
10時30分羽田発の飛行機に乗り込み、11時40分くらいには八丈島に到着していた。もっと遠い印象があったのだけれど、実際にはわずか1時間程度で辿り着ける訳で、移動は本当にあっという間だった。機内で軽く眠っていたら、起きた時にはもう島に到着している感じだ。
八丈島空港に降り立つ。最初に感じたのは、気候的には、普段暮らしている東京の街とさほど変わらないということ。若干暖かい程度で、特段の差はないように感じた。ただし、あくまでそれは初日の印象だ。実際には4日間の旅を通じて、気候的な違いをはっきりと感じることが出来た。
パンフレットの言葉を借りるならば「亜熱帯」。八丈は、やっぱり亜熱帯の島なんだ。
単純に、植物が違う。椰子の木が至るところに生い茂っており、他にも名前を知らない植物が数多く見られ、ちょっとした南国の心地がする。全般的な印象として、非常にカラフルな植生だ。また、空気の張りつめ具合や透明感といったものも、所謂「都内」とは明らかに違う。(八丈島も東京都なので、書き方は正確ではないけれど。)
12時頃にホテルに到着すると、まずはダイビングが出来るところを探すことにした。翌日から天気は下り坂という予報だったので、初日の午後に潜るのが一番楽しめるのではないかと思ったんだ。フロントにお願いして、午後で受付可能な体験ダイビングのツアーを紹介してもらい、なんとか14時からのツアーに予約を取ることが出来た。ツアーの時間は全体で約1時間半ということで、さすがに短いような気もしたけれど、折角の機会なので、お願いすることにしたんだ。
14時までの空いた時間で、昼飯を食べに行く。ホテルから15分ほど歩いて向かった先は、「一休庵」という蕎麦屋。八丈島では「明日葉蕎麦」が名物と聞いて、この機会に食べてみようと思ったんだ。明日葉を練り込んだ細麺の蕎麦で、特別美味いということもなかったけれど、きちんと葉の味を感じる麺で、悪くはなかったかな。
昼飯を済ませると、いよいよ体験ダイビング。"Project Wave"という会社のツアーで、迎えに来てくれたインストラクターの2人に連れられて、早速八丈島の海に向かった。実際に始まってみると、午後に潜るのはパートナーとおれの2人だけだったので、自分達のペースで動くことが出来て、その意味では非常に気楽で良かったね。
パートナーは過去に2度ダイビングの経験があるが、おれは今回が初めてだった。彼女はAUS、沖縄と潜ってきた経験から「初めて潜る場所はとても重要」といつも口にしていたけれど、八丈島が選択として良かったのかどうかは、おれには分からない。
インストラクターの指示のもと、ウェットスーツに着替えると、早速水に浸かって簡単に説明を受けていく。マスク、フィン、タンクといった装備を身に付けた後、呼吸の仕方や耳抜きといった基本的なガイドを受けると、いよいよインストラクターに寄り添いながら、八丈島の海に潜っていった。事前の説明は本当にラフなもので、若干心配ではあったけれど、実際に潜ってみると特に問題なく楽しむことが出来た。
海の中ではマンツーマンでインストラクターが寄り添って、進行方向や深さをコントロールしていく。自分ですることは呼吸と耳抜き、あとは顔の向きを変えることくらいだ。珊瑚やイソギンチャク、様々な熱帯魚を見ながらおよそ30分、八丈の海を味わっていく。熱帯魚の数はそれほど多くなかったけれど、カラフルで綺麗だった。
さて、所感。
陸からは見ることの出来ない海の景色は悪くなかった。
ただ、おれが最も強く感じたのは「不自由感」とでもいうものだった。
せいぜい5m程度の深さまで潜る為に、人間はあれほどの装備を必要としてしまういう事実。それでもなお海中を見たいという人間の好奇心にも驚くけれど、実際に装備を身に付けてみて初めて体感したあの不自由さには、少し思うところがあった。
単純にスーツの窮屈さや呼吸の問題もあると思う。また、インストラクターに自分の身の全てを預けるような体験コースだったことで、自分の意思で動くことの出来ない不自由もあった。加えて、言葉を発することが出来ないコミュニケーションの制約。海ゆえの不自由は非常に多く、それは当然のことだと思う。でも、その不自由を背負ってさえ、人間が辿り着けるのは、大海原の中の、本当に手の届きそうなところにある、わずかばかりのエリアだったりするのだからね。
ダイビングは五感の制約がとても大きい。聴覚、嗅覚、触覚といった比較的身体に対してダイレクトな感覚が閉じられていて、楽しみのほぼ全てが視覚に依拠している。
だからこそ、潜る海で決してしまう部分は強いのかもしれない。その意味では、八丈の海の表情は、それほど強い魅力を持って迫っては来なかったのかな、とも思う。
体験ダイビングではなく、きちんとライセンスを取得して、経験を重ねていけば違うのかもしれない。自分の意思で動き、自分の意思で海を堪能する。海の美しさを自分から探していく過程というのは、きっと楽しいだろうと思うけれど。
なにぶん初めての体験で、新鮮な楽しさは勿論あったけれど、今回のツアーに関して言うと、個人的には微妙な感じが残ってしまったね。本格的にライセンスを取得するとなると、現段階ではちょっと悩んでしまうかな。
ダイビングの後は、ホテルに戻って夕食。島寿司やお刺身といった海の幸中心の晩飯を食べると、食後は翌日のプランを決めたりしながら、部屋でゆっくりと過ごした。
そして翌日以降は、八丈島のもうひとつの自然、山を廻っていくことになります。
八丈島の景色を、おれの視点から。(海の写真はないけれど。)
http://www.23hq.com/Fukatsu/album/637324
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