Sunday, October 29, 2006

瑞々しさをつかむ

村上龍さんの小説『ラブ&ポップ』読了。

龍さんの小説を読むのは久しぶりだったけれど、相変わらず素晴らしかった。
援助交際を扱った小説で、発表当時はセンセーショナルな作品として話題になったような記憶がある。庵野秀明監督作品として映画化もされていて、龍さんの数多い著作のなかでも認知度の特に高い作品のひとつではないかと思うけれど、そういったことではなくて、この作品は純粋に魅力的であり、繊細で瑞々しく、丁寧で構成力に富んでいて、つまりは単純に良い小説だった。

自分が高校生の頃は、どうだっただろう。
がちがちに頭が固くて、意固地で、青くて、今以上に何も知らなくて、この小説に登場する4人の女子高生たちのような繊細で研ぎ澄まされた感性に対する眼差しは持っていなかったのだろうと思う。ラグビー部の仲間と過ごす毎日が楽しくて、ただそのことばかりを考えていたからね。

同じ制服を着て、似たような化粧と髪型で街を歩く女子高生の集団を眺めているうちに、「女子高生」という言葉だけでは語れない多様な感性が、ひとつの象徴的なイメージとなって自分の中で固定化され、収斂されていく。それはきっと、殆ど全ての人間にとって、ある程度は避けられない無自覚的な意識の作用なのだと思うけれど、それだけでは、やっぱりどこか寂しい。例えばこの小説に描かれた4人の女子高生の瑞々しさやデリカシー、自分を取り囲む世界への眼差しのようなものを、勝手な解釈で一般化して、固定的な概念に埋没させてしまうのは、想像力の怠慢だよね。結局は、自分自身の無自覚的な認識に対して、はっきりと自覚的に、意識的に抗い続けていくしかないのだと思う。

村上龍さんという人はたぶん、ずっとそうして日々を生きているんだろう。

Monday, October 23, 2006

誰も知らない

柳楽優弥少年がカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したことで話題となった、是枝裕和監督の映画『誰も知らない』をDVDで観た。

ありきたりな感想になってしまうけれど、切ない映画だった。
「情」に飢え、渇望する4人の子供達の姿が痛ましく、そして切ない。
親の愛情、仲間の友情、街の人情。情にも様々な形があると思うけれど、最も身近な存在であるはずの母親の愛情が、ニグレクトによって奪われてしまった4人の子供達は、決定的に情に飢えていた。
彼らが降り注がれる情にもっと恵まれていたならば、と思う。
ラストカットにささやかな希望の一端が垣間見えるのかもしれないけれど。

それから。
この映画も観ていて、もうひとつ感じたことがある。
それは、とても写真的だということ。
静かに流れるスライドショーに、物語を載せたような印象だった。
ひとつひとつのカットの構図と対象の配置、或いはフレームに注がれる光と画面の色調、そういった様々な要素が極めて写真に近いと感じた。繊細で美しいカットが幾つもあって、そのやさしさが物語の切なさと相まって、独特の作品世界を創り出していた。写真もそうだけれど、すべてのベースは光なのだなあと、映像に魅入りながら、光の美しさに思った。

三鷹戦

10月22日(日)東日本トップクラブリーグ第4戦
タマリバ 46-7 三鷹オールカマーズ(12:00K.O. @岩崎電気グラウンド)

リーグ戦の最終戦、まずはきちんと白星をつかんだ。
次は11月12日、秩父宮での決勝戦。相手はもちろん北海道バーバリアンズだ。
やるべきことは2つだけ。
まずはレギュラーをつかむこと。そして、試合で圧倒すること。

日曜のゲームでも、やはり課題が残った。
ずっと分かっていながら修正できない点があるんだ。プレーしていて、「違う」ということは明確に意識できるのだけれど、身体が反応しない。今の自分にとっての最大の課題は、そのギャップを埋めることだね。残っているチャンスは今週末のYC&AC戦を残すのみだけれど、少しでも自分のイメージに近づけるように、目的意識を持ってゲームに臨みたい。大西さんが昔よく言っていたように、動物的に。

Saturday, October 21, 2006

空中庭園

角田光代さんの小説が原作の映画『空中庭園』を観た。
つい最近、小説を読み終えた後輩が連絡をくれたのをきっかけに、どうしても観たくなって。ちょうど今の気分にもマッチしていたからね。

原作となった小説『空中庭園』が、おれはとても好きだ。
この小説のよさは、距離感と温度。京橋家というひとつの家族を構成する人間たちの距離感と、そこに見えたり隠れたり、あるいは隠し切れなかったりする心の温度が、とても丁寧に描かれている。とてもやさしい小説だと思う。

それで、映画について。
おれ個人の感想としては、映像が語り過ぎている気がするかな。制作者側の意図が透けてみえてしまう部分が、逆にノイズになっているように感じた。それでも小泉今日子、鈴木杏、大楠道代といった女優が肝となるシーンを見事に演じ切っていることで、特に後段は見応えのある作品になっていると思う。
作品のなかに登場するコウという少年がおれは好きで、映画の中での描かれ方に期待を持っていたのだけれど、若干イメージが違ったのは残念だった。もう少し乾いた雰囲気があって、モノクロームの写真のようなイメージだったんだけどね。ミーナから建築物の写真を大量に譲り受けるシーンがなかったのも、ちょっと残念だった。映画全体の中では脇のストーリーかもしれないけれど、コウの建築物への志向のなかに、彼のやさしさと切なさが垣間見えるような、そんな印象を持っていたからね。

もういちど、小説読み返してみようかな。

Thursday, October 19, 2006

記憶

今日はなんだかしんみりしてしまう1日だった。
随分久しぶりに「いつかのメリークリスマス」なんかをかけてしまったりしてね。

そんな時に、実家の母から連絡があった。
昨日、叔父さんが亡くなったそうだ。
恥ずかしながら顔も思い出すことが出来ないけれど、刃物職人だった。
「信光」と銘打たれた包丁。
実家で使っていたことが朧気に、でも確かな感覚を伴って思い出されます。

滅多にないくらい早く帰宅して、近所を歩いた。
カメラを首にぶら下げて、すっかり日が暮れた後の街を数枚撮った。
シャッターを切るたびに、少しだけ自分の内側が洗われていくような気がするんだ。
パレットの、絵の具が乗っていないスペースが、ちょっとだけ増えていくように。
いくら洗っても、混ざってぐちゃぐちゃになって、固まった絵の具は取れなくて、綺麗さっぱりとはいかないけれど。

おれは基本的に、昔のことを覚えていない。
保育園や小学校の記憶はほとんど皆無に等しく、高校の卒業旅行でさえ断片的な記憶しかない。幼少期の記憶の欠落は異常なほどで、本当に何も覚えていない。唯一覚えているのは、保育園の頃に、マーチングバンドの練習で先生に怒られて、3時のおやつが無しになってしまったことくらいだ。それ以外に覚えている数少ない記憶も、実際には物心がついた後、親や友達との会話をベースに自我が再構成した部分が少なくないのではないかと思っている。

きっとこれからも、今までと同じように多くのものが記憶からこぼれ落ちていくだろう。
そのことが哀しい訳ではないんだ。勿論全く哀しみがないといえば嘘になるけれど、失うことのない記憶だってあるはずだし、失いながら、別のなにかを記憶に留めて、そうやってしか生きられないからね。
おれが撮った写真の中には、何かが残ってくれるのかな。

Monday, October 09, 2006

豪徳寺

タマリバの練習を終えた後、豪徳寺を訪ねた。
学生時代の5年間を過ごしたこの街も、訪れるのは5年振りだ。

小田急線のホームに降り立って、駅の改札を出た途端、驚いてしまった。
駅前の一角が、当時とまったく違う街並になってしまっていたんだ。
マクドナルド。タリーズ。サンマルクカフェ。デニーズ。当時はなかったチェーン店が駅前に乱立していた。その一方で、当時よく晩飯を食べたキッチン南海は潰れてしまっていた。自転車の駐輪場が経堂へと向かう線路沿いに整備されて、路面の舗装も大幅に進んでいて、総じて綺麗になっていたように思う。
ただ、なんだか匂いがなくなってしまった。
どの街も同じような風景になっていく。経堂でなく、梅が丘でない豪徳寺があってもいいじゃないかと、おれなんかは思うのだけれど、時代の必然なのだろうか。路地を少し分け入っていけば、当時とそれほど変わらない懐かしい街並が残っているのだけれど、プラスチックのような質感の覆いかぶさるエリアは、時間の経過とともに、今後もっと広がっていくことだろう。少し寂しかったりもするけれど。

Cafe Djangoにも立ち寄った。学生時代に何度か足を運んだ喫茶店。
ここは変わっていなかった。マスターの表情も5年前と変わりなく、昔からの空気が店内に上手に閉じ込められているような感覚だった。豪徳寺が誇るお洒落な喫茶店だと勝手に思っているのだけれど、相変わらず上品で居心地の良い空間だった。
昔はバニラリキュールをほんの少し加えたエスプレッソがあったんだ。初めて飲んだ時の感激が忘れられず、メニューを探したのだけれど、今はもう扱っていなかった。絶妙な香りとほのかな甘みがあって、本当に美味しい珈琲だったので、楽しみにしていたのだが、ちょっと残念。マスターにその話をしたら、「よく覚えてますね」と懐かしそうな笑顔で応じてくれた。人柄の伝わる優しい表情。とても嬉しかった。
またいつか、立ち寄ろう。数ヵ月後かもしれないし、数年後かもしれないけれど。
http://www3.ocn.ne.jp/~flower/django.html

Sunday, October 08, 2006

公式戦 #2

10月8日(日)東日本トップクラブリーグ第2戦
タマリバ 74-23 高麗クラブ(13:00K.O. @水戸ツインフィールド)

後半からの出場。ベンチスタートは久しぶりだけれど、居心地が悪いね。
まだCTBとして信頼感がないということだと肝に銘じて、今後も練習していきたい。
グラウンドの外側から観たあの前半を忘れずに。

Tuesday, October 03, 2006

スナップ

スナップ写真を少しずつ撮り溜めている。
今はスナップを撮ることが単純に楽しくて、写真のことが頭から離れない。


毎週末、タマリバの練習を終えた後は、カメラを持って街に出るようにしている。
Nikonの一眼レフを肩から下げて、中古のLeicaをジーンズのポケットに突っ込んで。
撮りたいと思った瞬間にシャッターを切るのは思った以上に難しい。技術的な問題も当然ながら多々あるのだけれど、それ以上に、どこかで自分自身にブレーキをかけてしまっているのだと思う。
自分を護りながら撮っているような感覚。何を護っているのかは分からないけれど。
その先に行けたらきっと、写真を撮ることがもっと楽しくなるような気がします。

次はどこに行こうかな。

http://app.tabblo.com/studio/person/fukatsus/
既に気づいてくれた人も幾人かいるけれど、Linkにも追加したので是非。

Wednesday, September 27, 2006

Monday, September 25, 2006

Profitではなくて

村上龍さん編集長のメールマガジン「JMM」を読んでいるのだけれど、9/25(月)の連載のあとがきに、興味深いコメントがあった。JMMというメディアの運営が利益を生まない状況を語った龍さんに対して、龍さんと共著も出版している伊藤穣一さんが語った言葉だ。ちょっと長くなるけれど、JMMから引用してみたい。

『「インターネットはあまりに民主的なメディアなので儲からないし、儲けようと思うのは間違いだ。儲からなくても、つまりprofitがなくても、JMMによって、村上さんは、またJMMそのものも、valueを獲得している。それが大事なんじゃないかな」というようなニュアンスのことを言われて、目が覚めたような気がしました。』
(JMM [Japan Mail Media] No.394 Monday Editionより)

Value, not Profit.
この違いに敏感でいたい。伊藤穣一さんがこの言葉を発する時に、あるいは村上龍さんがこの言葉を受け止めた時に、きっと彼らには”value"に対する自身の軸があったはずだ。valueはとても個人的で、プライベートで、それゆえにアイデンティティの根幹に関わってくるものだと思う。「なにをvalueと位置づけるのか」という問いそのものが既に、その人間の本質を内包しており、更に言えば、その問いに対する姿勢こそが「生き方」と言われるものだろう。

valueは時に、profitへと還元される。"profitable value"として、そこから派生するprofitの総量をもって、valueが計測されていく。
でも、どこかでprofitに落とし込めない地平があるはずだ。
どこまでいってもprofitに還元できない最後の上澄みのようなvalue、きっとそれは、今のおれが最も切実に追いかけているものなんだ。

Sunday, September 24, 2006

レンジファインダー

いつものようにタマリバの練習を終えた後、新宿に向かった。
中古カメラを探しに行こうと思って。

最初に買った一眼レフカメラ「Nikon FM10」はとても使い易く、初心者のおれにとって全く不自由のないカメラなので、気に入って毎週末鞄に入れて持ち歩いている。なんだか照れ臭くてなかなか出来ないのだけれど、自分にとって気になる風景や街並に出遭った時に、いつでもシャッターを切るようにしたいと思って。レンズは35-70/F3.5の安価なズームレンズ一本しかないけれど、今のおれにはこれだけで十分だ。

ただ、一眼レフカメラは、どうしても本体が大きいんだ。FM10は一眼レフの中ではかなりコンパクトな部類だと思うけれど、それでも例えば通勤鞄に忍ばせておいて、移動時間や帰り道に写真を撮ろうと思っても、さすがに通勤鞄に入るサイズではない。それから、シャッター音が少し大きい。音自体はとても気に入っているのだけれど、街中や電車で他人を撮ったりすると、結構目立ってしまうと思う。
そんな訳で、もっと気軽に携行出来て、シャッター音の小さなカメラが欲しくて、新宿駅西口側にある中古カメラショップに初めて行ってみたんだ。

求めるものを考えると、コンパクトカメラが適切だったのかもしれない。
カメラを持って街に繰り出して、気に向いた瞬間にシャッターを切っていくには、最も向いているような気もしていた。高性能なコンパクトカメラだと、おれには十分すぎるくらいの機能を備えているし、影響されやすいおれは、森山大道さんが主に利用しているというRicoh GR21なんかが気になったりもしてね。

でも、実際に店頭にずらっと並んだ中古カメラを見較べて、色々な機種を実際に触らせてもらって、販売員の方の説明を詳しく聞いているうちに、どうしようもなくレンジファインダーカメラというものに心を奪われてしまった。

コンパクトなデザインと手頃な価格で最初に目に留まったのは、Zolkyというロシア製のカメラだった。ショーケースから出してもらって、説明を受けながら実際にシャッターを切ってみる。二重像を重ねていくレンジファインダー独特の焦点の合わせ方が面白く、また戦後間もない頃に作られた機械式のカメラで、電池なしで全て動かせる精緻な設計に、思わず虜になってしまった。
ただ、Zolkyは二重像が薄くて焦点が合わせづらく、若干難ありだったので、販売員の方に他の手頃なカメラをリストアップしてもらい、とにかく触って、覗いて、シャッターを切ってみた。ショップの方には随分手間をかけさせてしまったけれど、実際に幾つものカメラを手に持ってみると、ショーケースの向こうに眺めている時とは印象が全く違って、それが純粋に楽しかった。

それで、随分考えた末に、1台のカメラを買ったんだ。
Leica ⅡCというレンジファインダー、それから50mm/F3.5の標準レンズね。
中古品のなかでも極めて安価なものを選択したとはいえ、決して安い買い物ではなかったけれど、本当に嬉しかった。なにせ1948年に製造されたカメラなので、当然傷も多いし、スローシャッター機能もなければ露出計もない、本当にベーシックなものだけれど、とにかく愛着の沸くカメラだったんだ。外観の傷などはむしろ「戦後」を生き抜いた格好良さに見えてしまうくらいだ。

操作はちょっと難しそうだけれど、少しずつ慣れていきたい。
きちんと使いこなせるようにして、モノクロームの写真を沢山撮ってみたい。

Saturday, September 23, 2006

欲望, リアリティ, 感動

森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』読了。
写真を学ぶ学生に向けて行われた森山さんの4回の講義、そして学生との質疑応答を纏めた作品。森山大道という写真家の飾らない姿が垣間見えて、非常に読み応えのある内容だった。

写真に興味がなくても、きっと感じるものがあると思う。
写真というひとつの表現の枠組みを越えて、心を揺すぶる魅力と迫力があった。
おれなんてまだ何もしていないのだなあと、写真を生きてきた森山さんの語る言葉が迫ってくる。刺激的に、でもどこか焦燥感と悔しさのような感触を伴って。

印象に残った言葉がある。

『オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね。個人の勝手な欲望から生まれたものにリアリティを見たときに、初めて人は感動してくれるんだよ。そこがなくて作ったものは結局伝わらないと思う。』
(森山大道『昼の学校 夜の学校』、184頁)

他者の感性を否定するのではない。
あくまで自分自身の感性に対する、ぶれることのない自信と信頼。
自分が惹かれる世界の姿にストレートに対峙していく、ある種の誠実。
それが、非常に印象的だった。

そして読み終えた時には、無性に写真を撮りたくなってしまうんだ。

Saturday, September 16, 2006

『瞬間の記憶』

いつものようにラグビーの練習を終えた後、映画を観に行った。
『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』
http://www.longride.jp/hcb/
ロバート・キャパらと共にフォト・ジャーナリスト集団「マグナム・フォト」を創設したメンバーであり、20世紀を代表する天才写真家のひとりであるアンリ・カルティエ=ブレッソンが、自らの写真を語ったドキュメンタリーだ。

素晴らしかった。
いや、むしろ現在形で書いた方がしっくりくるかもしれない。
素晴らしい。
スクリーンに映し出される写真のひとつひとつが、すべてにおいて狂いなく、乱れなく、完全に構成されている。ほんのわずかな瞬間にしか表出することのない世界、それは裏返せば、その瞬間には確かに存在していた世界の姿であって、ブレッソンによって切り取られたその「瞬間」の姿は、観る人間の心の中に様々な「響き」を残していく。響きを静謐のなかに確かなダイナミズムが息づいていて、その美しいイメージは、まだ頭を離れない。

様々な写真のなかでも、特にポートレートの数々には改めて心を奪われた。
デュシャン、マン・レイ、カミュ、トルーマン・カポーティ、サルトルといった蒼々たる人間たちの持つ本質的な魅力、ふとした表情のなかにこそ浮かび上がってくるようなものが見事なまでに捉えられていて、どれも素晴らしかったのだけれど、敢えて特筆するとすれば、マリリン・モンローのポートレート。うまく言葉にできないけれど、スクリーンの世界とは違ったマリリン・モンローの魅力、隠すことの出来ないオーラのようなものが、その1枚に確かに閉じ込められていた。マリリン・モンローという人は紛れもなく「スター」だったのだなあと、その美しさに感動してしまった。

観てよかった。
同時代の空気を吸ってみたかったと、ちょっとだけ思ってしまったけれど。


『写真は、短刀の一刺し。絵画は瞑想だ。』
アンリ・カルティエ=ブレッソン

Wednesday, September 13, 2006

詩について

寺山修司さんの『詩的自叙伝 行為としての詩学』ほぼ読了。
ちょっと飛ばし読みしちゃったけれど。
詩というものに対する造詣のまったくないおれにとって、その意味するところをイメージできない部分も少なからずあったけれど、総じて読み応えのある作品だった。

「行為としての詩」といい、「印刷された文字の世界から詩を取り戻す」という時に、おれは「グラウンドにおける詩」ということを思ってしまった。ある時代の、ある瞬間において、例えばトイレの落書きが詩になり得るとするならば、今までおれがいたグラウンドにも、詩と呼んでいい言葉があったのではないか。もう少し厳密に言えば、グラウンドにおいて発せられた言葉や、あるいは言葉にならないなにかが、その発現の瞬間においては詩的でさえあったのではないか。
学生時代のラグビーを思い返すと、そんな瞬間は、きっとあったのだと思う。学生時代だけではないのかもしれないけれど、特に学生時代のラグビーには、そんな匂いがあったような気がする。詩を読もうなんてこれっぽっちも考えない人間の集団が醸し出していた泥臭さであったり、弱さであったり、せこさであったり、ずるさであったり、あるいはそういう自分に対する悔しさであったり、強さへのあこがれであったり、必死さや愚直さであったり、そういった諸々の混ざり合った瞬間が、たとえほんのわずかであったとしても「詩」として存在したことがあったと思うんだ。

そのことが、ちょっと懐かしかった。

最後に、この作品から拾った名言を。
『想像力の欠如、それは欠如を想像しないことである。』(67頁)

Sunday, September 10, 2006

バーバ戦

9月10日(日)、東日本トップクラブリーグ緒戦。
タマリバ 27-18 北海道バーバリアンズ

まずは勝てて良かった。
負けなかったことだけが、このゲームの収穫。
自分自身のパフォーマンスは全然で、課題が幾つも浮き彫りになってしまった。
また、やり直します。次は9月17日(日)、香港クラブだね。

それから。
長井さんと宗一郎さんが観に来てくれたことがすごく嬉しかった。
また一緒にやりましょう。楽しみにしてますので。

Saturday, September 09, 2006

開幕戦

2006-2007のシーズンがいよいよ始まる。
9月10日(日) vs 北海道バーバリアンズ(14:00K.O. @三ツ沢公園球技場)
東日本クラブトップリーグの開幕戦だ。

難敵。でも、絶対に勝たないといけないゲーム。
今出来ることをすべてやる。ただそれだけが、明日の目標です。

ふまじめなやさしさ

昨日ちらっと書いたアラーキーこと荒木経惟さんの写真集のことを書いておきたい。
『さっちん』
タイトルの通り、さっちんという少年を撮った写真集。
第1回太陽賞受賞作「さっちん」を一部含めて再編集したものだそうだ。

とにかく見てみてほしい。本当に素晴らしい作品ばかりだ。
パワフルで、生き生きしていて、エネルギーが満ち溢れていて。生きた少年の匂いがつまっているじゃないか。その瑞々しい感性が、写真から飛び出してきそうだ。
それだけじゃない。
さっちんという1人の少年に向けられた眼差しに込められた、そのやさしさ。人間性や生きることへの全肯定の眼差しが、びしびしと伝わってくるんだ。

荒木経惟さんという写真家のことを、おれは尊敬してやまない。
本当にやさしい人なのだと思う。子供だけじゃない。ソープ嬢を撮っても、裸の妊婦を撮っても、疲れたサラリーマンを撮っても、エキゾチックに、刺激的に撮られた作品であったとしても、アラーキーの写真は、やっぱりどこかやさしい。
そのことをおれは、「ふまじめなやさしさ」と呼んでいる。
アラーキーの写真には、ふまじめなやさしさが溢れているね。
そのやさしさもふまじめさも、おれは大好きだし、本当に素晴らしいと思います。

最後に、心に残ったあとがきの言葉を引用しておきたい。

『生きるっていうのはね、やっぱり、跳ねるとか、ヴィヴィッドであるとか、声が大きいとかってことだから。少年たちがさ、フレームから画面からはみ出てるでしょう、飛び出てるでしょう、そういうことなんだよね。』
(『のぶちんが「さっちん」を語る―あとがきにかえて』より)

Friday, September 01, 2006

アンチテーゼ

随分書いていなかったので、書き方を忘れてしまった。
なんでもそうかもしれないけれど、日々続けていないことはすぐに出来なくなるね。

銀座の本屋で写真集のコーナーをふらついていたら、一冊の本が目に留まった。
写真家の森山大道さんの『昼の学校 夜の学校』という対話集。
森山大道という写真家に興味を持っていたことあって、何気なく手にとってみたのだけれど、その帯に書かれた言葉がとても印象的だったんだ。

『量のない質はない、ただもうそれだけです。』

どきっとした。同時に、なんだか嬉しかった。そしてなにより、凄いと思った。
写真だけじゃない。洪水のように押し寄せる情報の波を受けて、方法論と効率ばかりが語られる世界そのものへのアンチテーゼのようで、言葉の迫力に思わず息を呑んでしまった。自分の身体で、眼で、手足で、とにかく世界にぶつかってきたのだというその静かな気概が、その言葉を通しておれ自身に飛び込んでくるような感覚だった。
あー、おれも撮ろう。もっとたくさん。
撮りたいと思った瞬間に必ずシャッターを切れるように。

そして今度本屋さんに行く時は、あの本を絶対に買おう。
今日はアラーキーの写真集を買ってしまったので。

Wednesday, July 26, 2006

アフォリズム

辺見庸さんの『いま、抗暴のときに』(講談社文庫)から。

闇を撃つのは光じゃなくて、もっと濃い闇なんだよ。心はそうつぶやく。闇に分け入るか、闇に肉薄する言葉をもつことだ、と自分にいいきかせる。(94頁)


辺見庸さんは、ここ数年間ずっと頭の片隅で存在が揺らめいていた作家だ。
『もの食う人びと』というノンフィクション作品のことを新聞の書評かなにかで知って、以来いつか読もうとずっと思っていたのだけれど、書店で著作を見掛けると、何故だかいつも手に取るのが憚られてしまう、そんな作家だった。
数年を経た今、このタイミングで手に取ったのも、なにかの縁かもしれない。
最初に手にしたのは『もの食う人びと』ではなかったけれど。

『永遠の不服従のために』をつい先日読了し、今はその続編『いま、抗暴のときに』を読んでいる。辺見庸さんは、言葉に「質感」のある作家だ。乾ききった言葉ではなく、あるいは清流のような澄み切った言葉でもなく、血潮のような独特の「濃度」を持った言葉を重ねてくる。その思想信条に対する賛否は別として、言葉に凄みを感じさせる作家であり、読む側の心をざわつかせるような何かがある。

一連の著作を読み終えた時には、改めて所感を書いてみたい。

Sunday, July 23, 2006

photograph #3

想像力の絶望的なまでの怠慢-
「世界報道写真展2006」を見た直後の正直な感想だ。

滅多にないオフの日曜日、どう過ごそうかパートナーと相談しながら、2人でインターネットをうろついていたら、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催されているこの写真展が目に留まった。
いいタイミングで出会うものだね。
見つけた瞬間に、今の自分にとって見ておくべき写真展だと思った。

ひとつは、純粋に写真に対する興味が尽きないこと。
ある場所のある瞬間に世界に確かにあった風景というものが、シャッターを通して様々な切り取られ方で提示されるそのことに、非常に興味があった。興味があった、という書き方は(実際に展示された写真の中の世界を考えるならば)不謹慎かもしれないけれど、突き放した言い方をすれば、写真はどこまで行っても写真でしかない。現実そのものではあり得ないのだと思う。しかし、むしろそれ故に、写真が描き出す世界が心を強く揺すぶる、ということもあるんじゃないか。
そういう写真に対する渇望のようなものが、心のどこかにあったのだと思う。

もうひとつは、それが報道写真だということ。
戦争。テロ。ゲリラ。ハリケーン。津波。飢餓。そういった紛れもない世界の「現実」に対して、「自分がどう認識しているのか」ということを自己認識しておきたかった。
レバノンが空爆されている。誰もが知っている事実だ。新聞に書いてある。
ただ、中近東の小国で、今この瞬間も爆撃が行われている、というその事実を、自分自身がどのように考え、自己の内側に落とし込んでいるのか。それは必ずしも明晰ではなく、むしろ、自分と世界との距離感は曖昧模糊としているんじゃないか。
辺見庸さんの『永遠の不服従のために』をつい最近読んで、強い衝撃を受けたことも手伝って、そんな気持ちが拭えなかったというのも大きかったけれど。

実際に展示された数々の報道写真の感想は、ちょっと表現し難い。
凄まじいばかりの写真に、何度も声を失った。個々の写真が切り出す凄絶な世界の表情について、今の自分にはとても書けそうにない。
ただひとつ、正直な感想として胸に浮かんだのが「想像力の怠慢」ということだった。

辺見庸さんの指摘する通りかもしれない。
あの写真を前にして、初めて衝撃を受けるのだから。
今この瞬間にも、世界のどこかで実際に起こっている事実に対して、「人間」としての想像力さえあったならば、その場に生きる人間を、肌感覚を持った生身の存在としてイメージすることが出来たならば、どれほど違っていただろう。
想像力が絶望的なまでに貧困であることを知って、今更ながらショックだった。

両手を失った父親が着るシャツのボタンを閉じる少年の姿が忘れられない。