9月23日から26日までの4日間にかけて、パートナーを連れて北海道にいた。
11月3日に秩父宮ラグビー場で行われる東日本クラブトップリーグ決勝。個人的にも、実に4年振りとなる秩父宮への切符を賭けたゲームが、札幌の月寒ラグビー場で組まれていたんだ。相手は、昨年度3位の北海道バーバリアンズ。春の八幡平遠征に次いで、今回が2度目の遠征となったのだけれど、まさか公式戦が北海道で開催されることになるとは、タマリバに加入する時には思ってもいなかった。でも、26日は休暇を取って4連休にした上で、パートナーを連れた3泊4日のツアーを組むことが出来たので、結果的にはとても良い機会になった。
9月25日(日) vs北海道バーバリアンズ(12:00 K.O.@月寒ラグビー場)
結果はというと、34-21の辛勝。際どいゲームだった。
10-18とリードされた状態で前半を折り返したことからも分かる通り、思うように自分達のラグビーが出来なかった。北海道バーバリアンズのメンバーには、4人の外国人選手が名を連ねていたのだけれど、密集での彼らの執拗なプレーシャーによって、特に前半の40分は、完全にペースを狂わされてしまった。後半に入ると運動量とプレーの精度で相手を上回ってきて、流れを手繰り寄せることが出来たけれど、全体的には反省材料の多いゲームだったね。
ただ、個人的な出来は、それほど悪くなかったかもしれない。なにより、春からずっとチームの課題として取り組んでいる「ダブルタックル」の意識を、ゲームの中である程度プレーに落とし込むことが出来たような気がする。昨年までの社会人ラグビーでは、基本中の基本にあたるプレーだと思うけれど、それを組織防御として体系化することは、チームとしてきちんと練習に取り組まないと、非常に難しいからね。
まあとにかく、勝ってよかった。次は11月3日、4年振りの秩父宮ラグビー場だね。
さて、ここから話は別の話題へと移っていく。
試合翌日の26日、パートナーを連れて、ずっと行きたかった場所を訪れたんだ。
昨日も少しだけ書いたけれど、彫刻家イサム・ノグチによる構想・設計のもと、20年近い歳月を経て、2005年7月1日にようやくオープンした、札幌のモエレ沼公園。
"http://www.sapporo-park.or.jp/moere/"
イサム・ノグチの彫刻が、おれは好きだ。
決して多くの作品を知っている訳ではないけれど、彼の彫刻は、どの作品もスマートで、丁寧で、きりっとしている。どの作品も、どこか優しい感じがする。そしてどの作品も、掛け値なしに美しいものばかりだ。
モエレ沼公園は、そのイサム・ノグチによって設計された「彫刻」としての公園。
ありきたりの表現だけれど、公園にして「彫刻」なんだ。
素晴らしかった。
189haという広大な敷地のすべてが綿密にデザインされ、最も美しい組み合わせで配置されているような、そんな公園だった。イサム・ノグチという彫刻家のことが、また改めて好きになった。
広大な公園を彩る様々なオブジェや施設、小高い丘やカラマツの林。
それらは、それ自身が既に彫刻的な美しさを持ち併せながら、それらが全体として織り成す遠景が公園全体をひとつの作品へと昇華していくように、絶妙な構成で公園に組み込まれていた。
広大な公園のなかをゆっくり歩く。そこにはどこか、角度を変えながら、様々な方向から彫刻を眺めるような、そんな感じさえする。見る方向によって彫刻の味わいが異なるように、そして、素晴らしい彫刻はどの方向から見ても素晴らしいのと同じように、モエレ沼公園は、自分の立つ場所を変えれば別の趣きがあり、そしてどの方向から眺めても、その遠景は息を飲むほど綺麗だ。
そして、もっと単純な素晴らしさもある。
例えば、芝生の緑の美しさ。そこにある空気の透明感。広さ、そして楽しさ。
それは必ずしもモエレ沼公園に限ったことではなく、北海道という土地の性格もあるかもしれないけれど、そうした土地柄が最大限に生かされたデザインになっている、ということは言えるかもしれない。それにしても、こうしたプリミティブな美しさというのは、ちょっと東京では成立し得ないものだと思う。
イサム・ノグチの設計図にはきっと、そこに生きる人間の姿もあったんだね。
モエレ沼公園は、そんなことを思わせるような魅力でいっぱいだった。
「モエレ山」と呼ばれる標高62mの山が公園内にあるのだけれど、このモエレ山を登っていって、中腹辺りに差し掛かった時に、前を歩いていたおっさんが言ったんだ。
「空が近くなってきた」
なぜだか嬉しくなったよ。
その感覚こそが、きっとこの公園の命とも言えるものなんだ。
Wednesday, September 28, 2005
Moerenuma Park
書きたいことがたくさんあるけれど、ちょっと時間がなくて。
イサム・ノグチによって設計された札幌のモエレ沼公園で撮った写真を載せてみます。本当は先に言葉にしたかったけれど。
右側にあるlinksの "23 -Fukatsu's Photos-" からね。
イサム・ノグチによって設計された札幌のモエレ沼公園で撮った写真を載せてみます。本当は先に言葉にしたかったけれど。
右側にあるlinksの "23 -Fukatsu's Photos-" からね。
Monday, September 19, 2005
ふりだし
ラグビー漬けの3連休。
最高のチャンスだったのだけれど、3日間の出来は全然だったね。
17日(土) 練習試合 vs 早稲田大C @早大上井草G
結果から言うと、24-31での敗戦。タマリバは春シーズンにも同じ相手に12-14で敗れていて、今回のゲームには雪辱を期して臨んだのだけれど、勝利には至らなかった。タマリバは日本選手権で早稲田Aと戦い、勝利することを目標に練習をしているけれど、残念ながら現時点では、目標とするレベルには全然至っていない、という事実を突きつけられるゲームになってしまった。
「タマリバ」というチームの問題だけじゃない。おれ自身が、全然足りていなかった。ATTもDEFも、プレーの精度も判断力も、全然足りてないね。確かに、Cとはいえ相手は決して弱くなかったし、むしろ細かい部分まで徹底的に鍛え上げられた非常に良いチームだったけれど、やっぱり学生のCチームに負けちゃ駄目だね。
ただ、タマリバにとっては本当に収穫の多いゲームになった。現時点でのチームとしての課題が、明確に浮き彫りになったからね。特にディフェンスでは、改めてその難しさを実感した。早稲田のようにスピードと展開力のあるチームとのゲームはなかなか経験できないので、この経験を確実にチームの糧にしたい。
そしておれは、それと同時にとにかく「個人」だ。個人のスキル・能力を高めていかなければ、他の14人に迷惑をかけてしまう。自分の責任をきちんと果たす為に、練習から考え直していかないと駄目だね。チームがおれに要求している仕事は、とても単純なこと。確実なディフェンスと、ペネトレート。たった2つなんだ。その2つを確実に、高い精度で、どのような状況下でも出来るように、とにかく練習するしかない。
いつも同じ結論になってしまうけれど。
18日(日) 練習 @学習院大G (17:30-20:30)
19日(月) 練習 @立教大G (10:30-13:00)
2日間とも、早稲田Cとのゲームで浮き彫りになった反省点を意識したメニュー。
ディフェンスにおける原則の確認と、ダブルタックルの徹底。
意識を持つだけで、はっきりと動き方が変わっていって、得るものも多く、なによりやっていて楽しい練習になった。練習を取り纏めて、ポイントを指摘してくれたのはLOの桑江なのだけれど、彼は「眼」がすごく良いね。一連のプレーを眺めながら、その中で意図とずれた動きが起こった時に、それを察知して、どこに「ずれ」があったのかを見極める能力が非常に高くて、正直驚いてしまった。もちろん、単純に「眼」が良いだけではなくて、その背景には「ラグビーの原則に対する高い理解力」というベースがあるのだけれど、そういう選手の言葉は、聞いていてすごく面白いね。
また色んなことを教えてもらって、吸収していこう。
ちなみに19日は立教大との合同練習で、15分×2のADをしたのだけれど、個人的には最悪の出来だった。目も当てられないくらいだった。ミスの連続。何度こうしてふりだしに戻っているだろう。ハンドリングが悪いのは最初から分かっているのだから、集中力が途切れたり欠けてしまったら、ミスするのは当たり前だよね。
次の週末は、いよいよ北海道遠征。
東日本クラブ選手権決勝への切符を賭けて、北海道バーバリアンズとのゲームだ。
帯広にいる大学の後輩も観に来てくれるので、締まったプレーをしたいです。
最高のチャンスだったのだけれど、3日間の出来は全然だったね。
17日(土) 練習試合 vs 早稲田大C @早大上井草G
結果から言うと、24-31での敗戦。タマリバは春シーズンにも同じ相手に12-14で敗れていて、今回のゲームには雪辱を期して臨んだのだけれど、勝利には至らなかった。タマリバは日本選手権で早稲田Aと戦い、勝利することを目標に練習をしているけれど、残念ながら現時点では、目標とするレベルには全然至っていない、という事実を突きつけられるゲームになってしまった。
「タマリバ」というチームの問題だけじゃない。おれ自身が、全然足りていなかった。ATTもDEFも、プレーの精度も判断力も、全然足りてないね。確かに、Cとはいえ相手は決して弱くなかったし、むしろ細かい部分まで徹底的に鍛え上げられた非常に良いチームだったけれど、やっぱり学生のCチームに負けちゃ駄目だね。
ただ、タマリバにとっては本当に収穫の多いゲームになった。現時点でのチームとしての課題が、明確に浮き彫りになったからね。特にディフェンスでは、改めてその難しさを実感した。早稲田のようにスピードと展開力のあるチームとのゲームはなかなか経験できないので、この経験を確実にチームの糧にしたい。
そしておれは、それと同時にとにかく「個人」だ。個人のスキル・能力を高めていかなければ、他の14人に迷惑をかけてしまう。自分の責任をきちんと果たす為に、練習から考え直していかないと駄目だね。チームがおれに要求している仕事は、とても単純なこと。確実なディフェンスと、ペネトレート。たった2つなんだ。その2つを確実に、高い精度で、どのような状況下でも出来るように、とにかく練習するしかない。
いつも同じ結論になってしまうけれど。
18日(日) 練習 @学習院大G (17:30-20:30)
19日(月) 練習 @立教大G (10:30-13:00)
2日間とも、早稲田Cとのゲームで浮き彫りになった反省点を意識したメニュー。
ディフェンスにおける原則の確認と、ダブルタックルの徹底。
意識を持つだけで、はっきりと動き方が変わっていって、得るものも多く、なによりやっていて楽しい練習になった。練習を取り纏めて、ポイントを指摘してくれたのはLOの桑江なのだけれど、彼は「眼」がすごく良いね。一連のプレーを眺めながら、その中で意図とずれた動きが起こった時に、それを察知して、どこに「ずれ」があったのかを見極める能力が非常に高くて、正直驚いてしまった。もちろん、単純に「眼」が良いだけではなくて、その背景には「ラグビーの原則に対する高い理解力」というベースがあるのだけれど、そういう選手の言葉は、聞いていてすごく面白いね。
また色んなことを教えてもらって、吸収していこう。
ちなみに19日は立教大との合同練習で、15分×2のADをしたのだけれど、個人的には最悪の出来だった。目も当てられないくらいだった。ミスの連続。何度こうしてふりだしに戻っているだろう。ハンドリングが悪いのは最初から分かっているのだから、集中力が途切れたり欠けてしまったら、ミスするのは当たり前だよね。
次の週末は、いよいよ北海道遠征。
東日本クラブ選手権決勝への切符を賭けて、北海道バーバリアンズとのゲームだ。
帯広にいる大学の後輩も観に来てくれるので、締まったプレーをしたいです。
Friday, September 16, 2005
発想の順序
かけっこをするな、と言われるのはいやだ。
先の衆議院総選挙が自民党の大勝に終わって、巷には本当にいろいろな考えや主張が渦巻いている。選挙の総括や、今後の日本の行方についても、様々な立場からの見解が各種メディアを賑わせている。とても興味深く、国民の関心の高い選挙だったので、その結末に誰もが思うところあるような、そんな感じがするね。
そうした中で民主党では、岡田代表の後任を決定する党代表選挙が17日に実施される。大幅に議席を失ったとはいえ、最大野党の民主党にとっては、今後を占う上での重要な決断の場だ。今日の報道ステーションには、立候補を表明した2人の政治家が揃って出演し、それぞれの展望を語っていた。
それで、本題はその先なのだけれど、候補者の1人、菅直人さんが番組の中で、自民党の大勝を評してこう言っていたんだ。
「1人のホリエモンと100人のホームレス、という流れが鮮明になった」って。
最近この手の論調は増えてきているような気がする。自民党の予想以上の勝利に対する反動もあるのかもしれない。小泉自民党の政治に対する批判的な見解として、最も人口に膾炙しているもののひとつは「弱者を切り捨てる政治」という主張だよね。(もうひとつは、「立場の異なる人間を排除する独裁的手法」ってやつだね。)
本当は政治についてあまり書きたくはないのだけれど、菅直人のこの発言に代表されるような主張を耳にする度に、おれはちょっと立ち止まってしまうんだ。
考える順序が違うんじゃないか、って。
100人のホームレスを生み出す政策に対しては、2つの反論が考えられる。
ひとつは「競争のルールが間違っている」という考え方だ。そもそも競争原理至上主義に傾きすぎている、という発想も、大きくはこの中に含まれるかもしれない。端的に言ってしまうと、そもそも100人ものホームレスを生み出さないような社会環境、あるいは競争のルールを整備すべきだ、という発想だ。
そして、もうひとつの反論は「セーフティネットが構築されていない」というものだ。競争の落伍者とされる人々に対して、社会全体として一定の支援を担保すべきなのに、その点が無視されているか、あるいは不十分な対応しか取られていない。この立場に立てば、100人のホームレスが生み出されるのは、落伍者をホームレスにしない為のセーフティネットが日本社会に欠如しているからだ、ということになる。
「100人のホームレス」という現実に対するこの2つの反論は、似ているようで、実際にはそのアプローチが全く異なる。発想の順序が、はっきりと逆なんだ。
そしておれは、かけっこをするな、という反論には、どうしても賛成できないんだ。
皆が同じようなタイミングでゴールするように、ハンデをつけてかけっこをするのは平等ではないと思う。人それぞれに持って生まれた能力は違う。格差が存在するのは当たり前だ。競争というのはそういうものだし、自由主義国家を標榜する以上、それは避けることの出来ない、ある意味では残酷な現実だと思う。
かけっこが苦手な子は、どうしたっている。
でも、かけっここそが自分を輝かせる唯一の舞台だっていうやつもいる。
大切なのは、最後に皆で手を繋いで、横一線でゴールすることじゃないと思う。本当に大切なのは、かけっこでビリだったやつが、勝負できる別の舞台を見つける為の手助けをしてあげることなんじゃないか。
運動会が嫌いで休んでしまうやつの机に、例えば絵筆を置いてみることじゃないか。
書いていて思ったけれど、もしかするとセーフティネットというのは、本質的には極めて個人的なものなのかもしれない。誰もが一定のレベルで救済されるようなセーフティネットというのは、そもそも成立し得ないのかもしれない。でも、そこへのチャレンジことが、きっと今後の社会を考える上での最大の課題なのだと思う。
すごく難しいことだと思うけれど。
先の衆議院総選挙が自民党の大勝に終わって、巷には本当にいろいろな考えや主張が渦巻いている。選挙の総括や、今後の日本の行方についても、様々な立場からの見解が各種メディアを賑わせている。とても興味深く、国民の関心の高い選挙だったので、その結末に誰もが思うところあるような、そんな感じがするね。
そうした中で民主党では、岡田代表の後任を決定する党代表選挙が17日に実施される。大幅に議席を失ったとはいえ、最大野党の民主党にとっては、今後を占う上での重要な決断の場だ。今日の報道ステーションには、立候補を表明した2人の政治家が揃って出演し、それぞれの展望を語っていた。
それで、本題はその先なのだけれど、候補者の1人、菅直人さんが番組の中で、自民党の大勝を評してこう言っていたんだ。
「1人のホリエモンと100人のホームレス、という流れが鮮明になった」って。
最近この手の論調は増えてきているような気がする。自民党の予想以上の勝利に対する反動もあるのかもしれない。小泉自民党の政治に対する批判的な見解として、最も人口に膾炙しているもののひとつは「弱者を切り捨てる政治」という主張だよね。(もうひとつは、「立場の異なる人間を排除する独裁的手法」ってやつだね。)
本当は政治についてあまり書きたくはないのだけれど、菅直人のこの発言に代表されるような主張を耳にする度に、おれはちょっと立ち止まってしまうんだ。
考える順序が違うんじゃないか、って。
100人のホームレスを生み出す政策に対しては、2つの反論が考えられる。
ひとつは「競争のルールが間違っている」という考え方だ。そもそも競争原理至上主義に傾きすぎている、という発想も、大きくはこの中に含まれるかもしれない。端的に言ってしまうと、そもそも100人ものホームレスを生み出さないような社会環境、あるいは競争のルールを整備すべきだ、という発想だ。
そして、もうひとつの反論は「セーフティネットが構築されていない」というものだ。競争の落伍者とされる人々に対して、社会全体として一定の支援を担保すべきなのに、その点が無視されているか、あるいは不十分な対応しか取られていない。この立場に立てば、100人のホームレスが生み出されるのは、落伍者をホームレスにしない為のセーフティネットが日本社会に欠如しているからだ、ということになる。
「100人のホームレス」という現実に対するこの2つの反論は、似ているようで、実際にはそのアプローチが全く異なる。発想の順序が、はっきりと逆なんだ。
そしておれは、かけっこをするな、という反論には、どうしても賛成できないんだ。
皆が同じようなタイミングでゴールするように、ハンデをつけてかけっこをするのは平等ではないと思う。人それぞれに持って生まれた能力は違う。格差が存在するのは当たり前だ。競争というのはそういうものだし、自由主義国家を標榜する以上、それは避けることの出来ない、ある意味では残酷な現実だと思う。
かけっこが苦手な子は、どうしたっている。
でも、かけっここそが自分を輝かせる唯一の舞台だっていうやつもいる。
大切なのは、最後に皆で手を繋いで、横一線でゴールすることじゃないと思う。本当に大切なのは、かけっこでビリだったやつが、勝負できる別の舞台を見つける為の手助けをしてあげることなんじゃないか。
運動会が嫌いで休んでしまうやつの机に、例えば絵筆を置いてみることじゃないか。
書いていて思ったけれど、もしかするとセーフティネットというのは、本質的には極めて個人的なものなのかもしれない。誰もが一定のレベルで救済されるようなセーフティネットというのは、そもそも成立し得ないのかもしれない。でも、そこへのチャレンジことが、きっと今後の社会を考える上での最大の課題なのだと思う。
すごく難しいことだと思うけれど。
Tuesday, September 13, 2005
格差を考える
ずっと疑問に思っていたことがある。
日本社会における「格差」って、本当に拡大しているのだろうか。
拡大しているとすれば、それはどの程度なのだろうか。
不本意ながら、最近ほとんど本を読まない日々が続いているのだけれど、そうした日々の中で、少しずつゆっくりと読み進めている本があるんだ。
玄田有史さんの『仕事のなかの曖昧な不安』という作品。
以前にも書いたけれど、玄田さんは労働経済学の専門家で、代表作の『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』など、日本における労働環境を新たな視点で捉え直す試みで、一躍有名になった研究者だ。最近では、東京大学社会科学研究所の「希望学」プロジェクトに参画しながら、現代における「希望」をテーマに様々な活動をされているようで、その試みにおれは、ずっと興味を持っていたんだ。
『仕事のなかの曖昧な不安』においては、統計的な分析を活用して、データが語る日本の労働市場の現実を、徹底的に正確に突き詰めていく、という知的作業が展開されるのだけれど、これがとても面白く、刺激的だ。
例えば、フリーターやニートの増加ということを考えてみる。
雑誌やメディア、それに会社での日常的な会話などでも、「若者の就業意識の変化」なんてことがよく言われる。最近の若者は仕事に対するこだわりが薄く、ちょっと厳しいことを言われたり、嫌なことがあったりすると、すぐに会社を辞めてしまう。仕事に対する責任感が希薄で、自己実現の場を仕事以外に求めようとする傾向が強まっている。こうしたことが日常的に語られたりする。
でもそれは、どの程度「本当」なのだろうか。
こうした疑問を考える手掛かりとして、玄田さんは徹底的にデータを活用していく。
若年層の離職率は、戦後どのように推移してきたのか。
若年層を対象とした意識調査の結果からは、何が読み取れるか。
正社員での採用を希望する割合に、変化はみられるのか。
入社3年以内に離職する人の割合は、過去と比較して高まっているのか。
失業率と若年層の離職率には、なんらかの関連性があるのか。
こういった様々な観点から、精緻にデータを追っていく。データが語る日本社会の労働環境の現実を突きつめていく。すると、一般に言われているのとは全く様相の異なる別の姿が浮かび上がってくる。
分析データや統計的手法、組み上げられた論理の詳細について細かくは触れない。けれど、玄田さんのそういう厳密なロジックに基づいた思考はとても新鮮で、示唆に富んでおり、知的好奇心を刺激するものだった。
日本は、世界で最も従業員の解雇が困難な国家のひとつだ。
企業による従業員の解雇を明確に規制する法はないが、過去の判例によって企業は幾重にも縛られており、経営判断としての正当性を十分な説得力を持って説明できない限り、実際に企業が従業員を解雇することは極めて難しい。仮に解雇に踏み切ったとしても、被解雇者による訴訟リスク、平気で社員の首を切るといった風評の流布のような社会的信用リスク、企業イメージの低下といった様々なリスクに企業は晒されることになるだろう。
雑誌やメディアではよく、中高年のリストラが社会問題として取り上げられる。しかし、いわゆる中高年にあたる45歳~54歳の大学卒ホワイトカラー層に関してデータを分析していくと、実際にはほとんど解雇されていないという現実が見えてくる。失業率の上昇が問題視されるが、最も深刻な状態にあるのは中高年ではなくて、実は20代、30代といった若年層だ。若年層の失業率は、日本は先進国でも最悪のレベルに達しているが、こうした事実が問題として取り上げられることはほとんどない。
戦後の高度経済成長時代において企業は、右肩上がりの業績に支えられて着実に雇用を創出してきた。拡大する需要に対応する為に、常に新たな労働力を確保する必要があった。しかしながら、90年代に入ると状況は一変する。バブル経済が崩壊し、日本は長期にわたる景気停滞局面を迎えることになる。
不況に直面した企業においては、収益力を維持する為に、徹底的なコストカットが経営上の至上課題となる。様々なエリアでコスト削減の施策が断行されることになるが、その中でも最大の問題となったのが、言うまでもなく人件費だった。
日本において、従業員の解雇は決して容易ではない。そうした状況下にあって、企業が抱える労働力の調整を行う為には、実質的に2つの選択肢しかなかった。定年退職による自然減、そして新規採用の抑制だ。経済全体が拡大していた頃には、実はもうひとつの選択肢があった。それは、体力のある中小企業に労働力を振り向ける、ということだ。出向や転籍という形式を取って、中小企業にスキルをもった人材を移していく。日本の発展を支えた多くの中小企業は、慢性的な労働力不足という問題を抱えており、人材の流動化を志向する大企業との間でニーズが一致した。しかし、90年代の不況期においては、中小企業の側にも労働力需要がなくなっていた。不況の煽りを受けて、大企業の人材を受け入れるだけの経営体力を失っていた。
こうした流れの中で、企業による新規採用は大幅に縮小され、就職活動は年々厳しさを増していった。結果として、本当に希望していた企業・職種を勝ち取ることが出来ず、妥協の末に2次希望、3次希望で決着するケースが増加していく。入社後に、自分がイメージしていた仕事に就くチャンスそのものが大幅に減少していき、思うようなスキルアップを図ることが困難なケースが恒常化していった。
それだけではない。長引く不況にあって経営状態の悪化した多くの企業は、社員のスキル育成に投資する余力を少しずつ失っていた。本来ならば若手社員に与えられるべき研修・OJTの機会といったものも、コスト削減の煽りを受け、減少していく。会社が社員のスキル育成に投資できない。企業のこうした姿勢が引き起こしたのは、スキルを必要とする仕事、やりがいのある仕事が経験豊かな中高年に振り分けられる、ということだった。過去に大量採用された世代が中高年となると、自分達には出来ない体力のいる仕事、あるいは単純な事務的作業ばかりが若年層に押し付けられ、結果的に若年層が「やりがいのある仕事」に就くチャンスは、極めて限定的なものになってしまった。
こうした全ての結果として、若年層の離職率は高まっているのだ。
このことが意味しているのは、「中高年の既得権を守る為に、若年層の雇用機会が犠牲になった」ということなんだ。本来であれば若年層に振り分けられるべき就業機会そのものが、中高年の解雇が困難な状況下にあって、その雇用確保という名目の下、確実に奪われていった。
玄田さんは、統計的手法を効果的に活用しながら、こうして論旨を展開していく。
フリーターやニートの問題も、こうした観点で捉え直すと、別の様相を呈してくる。それは必ずしも若年層における就業意識の変化が問題ではなくて、もっと根本的な、日本社会の構造的問題が改めて浮き彫りになってくるんだ。
断っておくけれど、だからと言ってフリーターやニートを肯定するつもりは、おれにはない。正確に言えば、肯定も否定もしない。ただ、リスキーな選択だとは思う。同じ頃、同世代の人間の誰もがスキルアップの為に日々努力しているのだから、それは当然のことだよね。それでも、リスクを認識してなお、それを受け入れてフリーターやニートを選択する人間に対して、否定する理由はどこにもないと思う。自分の信念を持って、リスクを取って生きることは格好良いし、そこには一筋の希望がきっとあるような気がする。そうしたリスクを認識することなく、何気なくフリーターやニートを選択するのは、単純に馬鹿げていると思うけれど。
でもとにかく、玄田さんのこうした発想は、おれにとってすごく新鮮で、とても興味深いものだった。示唆に富んでいて、知的刺激が詰まっていた。
例えばフリーターやニートの問題は、本質的にはきっと、極めて個人的な問題だと思う。100人のフリーターに対峙した時、かけるべき言葉はきっと100通りなければいけない。でも、別の視点から考察すると、日本社会の持つ構造的問題として捉え直すことが出来るということが、今までの自分にはなかった発想で、刺激的だった。そして、一般的に語られる常識のバイアスを排除して、徹底的なデータ分析の結果にその論拠を求める姿勢も、非常に好感の持てるものだったと思う。
随分長くなってしまったけれど、ここでようやく最初の疑問に戻ることになる。
日本社会における「格差」ってやつね。
実は『仕事のなかの曖昧な不安』の中に、この問題について言及している箇所があるんだ。それによると、どうやら研究者の見解も様々のようで、「日本社会において格差は拡大しているのか」についての論争は、未だ決着していないようだ。賛否両論があり、それぞれが統計的な手法を用いて説得性のある議論を展開しようと試みているが、明確な結論を導いて断定できる種類の問題ではないのかもしれない。
先の衆議院選において社民党の福島瑞穂は、選挙期間中ずっと「格差拡大社会の是正」ということを一貫して主張し続けていた。彼女の考える「格差」というのは何を意味しているのだろう。所得の格差だろうか。その場合、統計的分析に基づいた明確な根拠は存在するのだろうか。格差を考える指標は、所得以外にはないのだろうか。例えば、所得格差を生み出す要因のひとつが「機会格差」だという可能性はないのだろうか。そもそも「格差社会の是正」といった時に、どういった観点から「格差」を捉えることが最も公平なのだろうか。
最近ずっと、そんなことを考えていたんだ。
それで、考えた末の結論はというと・・・、結局よく分かりません。
日本社会における「格差」って、本当に拡大しているのだろうか。
拡大しているとすれば、それはどの程度なのだろうか。
不本意ながら、最近ほとんど本を読まない日々が続いているのだけれど、そうした日々の中で、少しずつゆっくりと読み進めている本があるんだ。
玄田有史さんの『仕事のなかの曖昧な不安』という作品。
以前にも書いたけれど、玄田さんは労働経済学の専門家で、代表作の『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』など、日本における労働環境を新たな視点で捉え直す試みで、一躍有名になった研究者だ。最近では、東京大学社会科学研究所の「希望学」プロジェクトに参画しながら、現代における「希望」をテーマに様々な活動をされているようで、その試みにおれは、ずっと興味を持っていたんだ。
『仕事のなかの曖昧な不安』においては、統計的な分析を活用して、データが語る日本の労働市場の現実を、徹底的に正確に突き詰めていく、という知的作業が展開されるのだけれど、これがとても面白く、刺激的だ。
例えば、フリーターやニートの増加ということを考えてみる。
雑誌やメディア、それに会社での日常的な会話などでも、「若者の就業意識の変化」なんてことがよく言われる。最近の若者は仕事に対するこだわりが薄く、ちょっと厳しいことを言われたり、嫌なことがあったりすると、すぐに会社を辞めてしまう。仕事に対する責任感が希薄で、自己実現の場を仕事以外に求めようとする傾向が強まっている。こうしたことが日常的に語られたりする。
でもそれは、どの程度「本当」なのだろうか。
こうした疑問を考える手掛かりとして、玄田さんは徹底的にデータを活用していく。
若年層の離職率は、戦後どのように推移してきたのか。
若年層を対象とした意識調査の結果からは、何が読み取れるか。
正社員での採用を希望する割合に、変化はみられるのか。
入社3年以内に離職する人の割合は、過去と比較して高まっているのか。
失業率と若年層の離職率には、なんらかの関連性があるのか。
こういった様々な観点から、精緻にデータを追っていく。データが語る日本社会の労働環境の現実を突きつめていく。すると、一般に言われているのとは全く様相の異なる別の姿が浮かび上がってくる。
分析データや統計的手法、組み上げられた論理の詳細について細かくは触れない。けれど、玄田さんのそういう厳密なロジックに基づいた思考はとても新鮮で、示唆に富んでおり、知的好奇心を刺激するものだった。
日本は、世界で最も従業員の解雇が困難な国家のひとつだ。
企業による従業員の解雇を明確に規制する法はないが、過去の判例によって企業は幾重にも縛られており、経営判断としての正当性を十分な説得力を持って説明できない限り、実際に企業が従業員を解雇することは極めて難しい。仮に解雇に踏み切ったとしても、被解雇者による訴訟リスク、平気で社員の首を切るといった風評の流布のような社会的信用リスク、企業イメージの低下といった様々なリスクに企業は晒されることになるだろう。
雑誌やメディアではよく、中高年のリストラが社会問題として取り上げられる。しかし、いわゆる中高年にあたる45歳~54歳の大学卒ホワイトカラー層に関してデータを分析していくと、実際にはほとんど解雇されていないという現実が見えてくる。失業率の上昇が問題視されるが、最も深刻な状態にあるのは中高年ではなくて、実は20代、30代といった若年層だ。若年層の失業率は、日本は先進国でも最悪のレベルに達しているが、こうした事実が問題として取り上げられることはほとんどない。
戦後の高度経済成長時代において企業は、右肩上がりの業績に支えられて着実に雇用を創出してきた。拡大する需要に対応する為に、常に新たな労働力を確保する必要があった。しかしながら、90年代に入ると状況は一変する。バブル経済が崩壊し、日本は長期にわたる景気停滞局面を迎えることになる。
不況に直面した企業においては、収益力を維持する為に、徹底的なコストカットが経営上の至上課題となる。様々なエリアでコスト削減の施策が断行されることになるが、その中でも最大の問題となったのが、言うまでもなく人件費だった。
日本において、従業員の解雇は決して容易ではない。そうした状況下にあって、企業が抱える労働力の調整を行う為には、実質的に2つの選択肢しかなかった。定年退職による自然減、そして新規採用の抑制だ。経済全体が拡大していた頃には、実はもうひとつの選択肢があった。それは、体力のある中小企業に労働力を振り向ける、ということだ。出向や転籍という形式を取って、中小企業にスキルをもった人材を移していく。日本の発展を支えた多くの中小企業は、慢性的な労働力不足という問題を抱えており、人材の流動化を志向する大企業との間でニーズが一致した。しかし、90年代の不況期においては、中小企業の側にも労働力需要がなくなっていた。不況の煽りを受けて、大企業の人材を受け入れるだけの経営体力を失っていた。
こうした流れの中で、企業による新規採用は大幅に縮小され、就職活動は年々厳しさを増していった。結果として、本当に希望していた企業・職種を勝ち取ることが出来ず、妥協の末に2次希望、3次希望で決着するケースが増加していく。入社後に、自分がイメージしていた仕事に就くチャンスそのものが大幅に減少していき、思うようなスキルアップを図ることが困難なケースが恒常化していった。
それだけではない。長引く不況にあって経営状態の悪化した多くの企業は、社員のスキル育成に投資する余力を少しずつ失っていた。本来ならば若手社員に与えられるべき研修・OJTの機会といったものも、コスト削減の煽りを受け、減少していく。会社が社員のスキル育成に投資できない。企業のこうした姿勢が引き起こしたのは、スキルを必要とする仕事、やりがいのある仕事が経験豊かな中高年に振り分けられる、ということだった。過去に大量採用された世代が中高年となると、自分達には出来ない体力のいる仕事、あるいは単純な事務的作業ばかりが若年層に押し付けられ、結果的に若年層が「やりがいのある仕事」に就くチャンスは、極めて限定的なものになってしまった。
こうした全ての結果として、若年層の離職率は高まっているのだ。
このことが意味しているのは、「中高年の既得権を守る為に、若年層の雇用機会が犠牲になった」ということなんだ。本来であれば若年層に振り分けられるべき就業機会そのものが、中高年の解雇が困難な状況下にあって、その雇用確保という名目の下、確実に奪われていった。
玄田さんは、統計的手法を効果的に活用しながら、こうして論旨を展開していく。
フリーターやニートの問題も、こうした観点で捉え直すと、別の様相を呈してくる。それは必ずしも若年層における就業意識の変化が問題ではなくて、もっと根本的な、日本社会の構造的問題が改めて浮き彫りになってくるんだ。
断っておくけれど、だからと言ってフリーターやニートを肯定するつもりは、おれにはない。正確に言えば、肯定も否定もしない。ただ、リスキーな選択だとは思う。同じ頃、同世代の人間の誰もがスキルアップの為に日々努力しているのだから、それは当然のことだよね。それでも、リスクを認識してなお、それを受け入れてフリーターやニートを選択する人間に対して、否定する理由はどこにもないと思う。自分の信念を持って、リスクを取って生きることは格好良いし、そこには一筋の希望がきっとあるような気がする。そうしたリスクを認識することなく、何気なくフリーターやニートを選択するのは、単純に馬鹿げていると思うけれど。
でもとにかく、玄田さんのこうした発想は、おれにとってすごく新鮮で、とても興味深いものだった。示唆に富んでいて、知的刺激が詰まっていた。
例えばフリーターやニートの問題は、本質的にはきっと、極めて個人的な問題だと思う。100人のフリーターに対峙した時、かけるべき言葉はきっと100通りなければいけない。でも、別の視点から考察すると、日本社会の持つ構造的問題として捉え直すことが出来るということが、今までの自分にはなかった発想で、刺激的だった。そして、一般的に語られる常識のバイアスを排除して、徹底的なデータ分析の結果にその論拠を求める姿勢も、非常に好感の持てるものだったと思う。
随分長くなってしまったけれど、ここでようやく最初の疑問に戻ることになる。
日本社会における「格差」ってやつね。
実は『仕事のなかの曖昧な不安』の中に、この問題について言及している箇所があるんだ。それによると、どうやら研究者の見解も様々のようで、「日本社会において格差は拡大しているのか」についての論争は、未だ決着していないようだ。賛否両論があり、それぞれが統計的な手法を用いて説得性のある議論を展開しようと試みているが、明確な結論を導いて断定できる種類の問題ではないのかもしれない。
先の衆議院選において社民党の福島瑞穂は、選挙期間中ずっと「格差拡大社会の是正」ということを一貫して主張し続けていた。彼女の考える「格差」というのは何を意味しているのだろう。所得の格差だろうか。その場合、統計的分析に基づいた明確な根拠は存在するのだろうか。格差を考える指標は、所得以外にはないのだろうか。例えば、所得格差を生み出す要因のひとつが「機会格差」だという可能性はないのだろうか。そもそも「格差社会の是正」といった時に、どういった観点から「格差」を捉えることが最も公平なのだろうか。
最近ずっと、そんなことを考えていたんだ。
それで、考えた末の結論はというと・・・、結局よく分かりません。
Sunday, September 11, 2005
vs 明治大学B
勝つには勝ったけれど、ひどいゲームだった。
書きたくないくらい。
正確なスコアは覚えていないけれど、50ー35くらい。失点多すぎだよね。
個人的にも、序盤にタックルミスを2つした。前半の最初に流れを作れなかったのは、そのタックルミスから地域を大きく失ったことがかなり響いたんだ。他のメンバーに本当に申し訳ない。
あーあ。またやり直しだわ。
それにしても最近、ラグビー以外のことをあまり書いてないね。
書きたくないくらい。
正確なスコアは覚えていないけれど、50ー35くらい。失点多すぎだよね。
個人的にも、序盤にタックルミスを2つした。前半の最初に流れを作れなかったのは、そのタックルミスから地域を大きく失ったことがかなり響いたんだ。他のメンバーに本当に申し訳ない。
あーあ。またやり直しだわ。
それにしても最近、ラグビー以外のことをあまり書いてないね。
Monday, September 05, 2005
懐かしい空気
タマリバクラブの2005年シーズンが、ついに幕を開けた。
9月4日 14:00K.O. タマリバクラブ vs 曼荼羅クラブ @三ツ沢球技場
家を出る時から、どこか懐かしい感じがしたんだ。
学生時代以来、4年振りにメンバーとして戦うラグビーの公式戦だからね。
チームネクタイを締めて、横浜行きの電車に乗り込む。
三ツ沢のグラウンドに着いて、芝に触れてみる。
ロッカールームの雰囲気。ウォームアップの緊張感。独特の張り詰めた空気。
懐かしかった。
タマリバのロッカールームは、東大の雰囲気にちょっと似ている。
全体的に飛び交う言葉が少なくて、表情が引き締まっていて、メンバーのそれぞれが静かに自分の中に入っていくような感じだ。
昨年までの社会人ラグビーは、公式戦のベンチに入ることのないまま引退してしまったので、メンバーの肌の感覚までは分からないところもあるけれど、基本的にもっとくだけていた。入部したばかりの頃、練習試合とはいえ、試合前でもメンバーがラフな感じだったことにすごく驚いたのを思い出す。もちろん、ウォーミングアップに向かう頃には、皆がきっちりと雰囲気を作ってくるあたりは、流石だけれど。
あの独特な空気の先を求めて、練習をしているんだ。
クラブラグビーは、社会人のトップレベルと比較すればレベルも高くない。ラグビー界における注目度だって低いだろう。
でもさ、ここが今のおれの場所なんだ。
十分に魅力的な、真剣にラグビーが出来る舞台だ。
嬉しかった。
結果はというと、66-7での勝利。
まず緒戦、チームとしても個人としても、きちんと勝つことが出来たのは良かった。
ただ、点数とは裏腹に、プレーの質はまだまだだったね。
個人的には、1トライは取れたけれど、それ以外は修正すべきところばかりだ。相変わらずだけれど、ハンドリングは特に悪いね。これはとにかく練習するしかない。
DEFは、少し待ちすぎている気がする。タマリバには、DEFの勘が飛び抜けていい選手が2人いるので、今後シーズンを深めていく中で、少しずつでも、その感覚を盗んでいければと思っている。
次は9月25日の北海道バーバリアンズ。
札幌市月寒でのゲームになるけれど、今から楽しみで仕方ない。帯広の後輩も見に来てくれるので、質の高いプレーが出来るようにきちんと準備していきたい。
それにはまず来週だね。
土曜日には八幡山で明治B、Cとのゲームが控えている。
今日のゲームで浮かび上がった課題を忘れず、タイトでひたむきなプレーを続けて、絶対に勝ちたいと思っています。
9月4日 14:00K.O. タマリバクラブ vs 曼荼羅クラブ @三ツ沢球技場
家を出る時から、どこか懐かしい感じがしたんだ。
学生時代以来、4年振りにメンバーとして戦うラグビーの公式戦だからね。
チームネクタイを締めて、横浜行きの電車に乗り込む。
三ツ沢のグラウンドに着いて、芝に触れてみる。
ロッカールームの雰囲気。ウォームアップの緊張感。独特の張り詰めた空気。
懐かしかった。
タマリバのロッカールームは、東大の雰囲気にちょっと似ている。
全体的に飛び交う言葉が少なくて、表情が引き締まっていて、メンバーのそれぞれが静かに自分の中に入っていくような感じだ。
昨年までの社会人ラグビーは、公式戦のベンチに入ることのないまま引退してしまったので、メンバーの肌の感覚までは分からないところもあるけれど、基本的にもっとくだけていた。入部したばかりの頃、練習試合とはいえ、試合前でもメンバーがラフな感じだったことにすごく驚いたのを思い出す。もちろん、ウォーミングアップに向かう頃には、皆がきっちりと雰囲気を作ってくるあたりは、流石だけれど。
あの独特な空気の先を求めて、練習をしているんだ。
クラブラグビーは、社会人のトップレベルと比較すればレベルも高くない。ラグビー界における注目度だって低いだろう。
でもさ、ここが今のおれの場所なんだ。
十分に魅力的な、真剣にラグビーが出来る舞台だ。
嬉しかった。
結果はというと、66-7での勝利。
まず緒戦、チームとしても個人としても、きちんと勝つことが出来たのは良かった。
ただ、点数とは裏腹に、プレーの質はまだまだだったね。
個人的には、1トライは取れたけれど、それ以外は修正すべきところばかりだ。相変わらずだけれど、ハンドリングは特に悪いね。これはとにかく練習するしかない。
DEFは、少し待ちすぎている気がする。タマリバには、DEFの勘が飛び抜けていい選手が2人いるので、今後シーズンを深めていく中で、少しずつでも、その感覚を盗んでいければと思っている。
次は9月25日の北海道バーバリアンズ。
札幌市月寒でのゲームになるけれど、今から楽しみで仕方ない。帯広の後輩も見に来てくれるので、質の高いプレーが出来るようにきちんと準備していきたい。
それにはまず来週だね。
土曜日には八幡山で明治B、Cとのゲームが控えている。
今日のゲームで浮かび上がった課題を忘れず、タイトでひたむきなプレーを続けて、絶対に勝ちたいと思っています。
Wednesday, August 31, 2005
『69 -sixty nine-』
日曜日の夜のことなので、もう3日前になってしまうのだけれど、久しぶりにDVDをレンタルしてきて映画を観たんだ。村上龍さん原作の映画化で話題になった『69』ね。
劇場公開されていた頃、おれはこの映画を観ることに少なからず抵抗があった。原作となった同名の小説のテイストを壊されたくないという思いが強かったからね。
村上龍さんの『69』は、本当に素晴らしい小説だった。
1969年、当時高校生だった龍さん自身の実体験をもとに構成された自伝的小説。
大学紛争が全盛だった時代。ベトナム戦争に反対する若者たちが「ラブアンドピース」を謳った時代。ツェッペリンやサイモンとガーファンクルのレコードを聴き、巨匠ゴダールの映画に触れる中で、新しいカルチャーが踊り始めた、そんな時代。
佐世保に暮らす高校生のケン、そして切れ者の相方アダマの2人が中心となって、映画・音楽・ダンスすべてが渾然一体となったフェスティバルを長崎の地でやってしまおうと動き出す。そのうちにケンは、愛しのレディ・ジェーンの気を惹く為に、そしてなにより今を楽しむ為に、学校の屋上をバリケード封鎖しようと考える。アダマやイワサ、他にも多くの仲間がケンの語る壮大なアイデアに乗っかって、彼らは夏休みのある日の夜、学校に忍び込むんだ。
当たり前のことだけれど、おれは1969年という時代を生きていない。
今となっては、その時代をもう一度生きることなど誰にも出来ないし、当時の空気を吸うことだって出来ない。だから、当時を懐かしむといった思いもなければ、その当時が良い時代だったのかどうかも分からない。シンプルな感覚としては、今の方が、きっと圧倒的に恵まれた、良い時代なんだろうと思っていたりもする。
でもね、それでも伝わってくるんだ。1969年という時代の空気のようなものが。そして同時に、高校生という時期だからこその、青春の瑞々しさ、馬鹿らしくてくだらなくて、でもストレートで溢れんばかりのエネルギーが、この小説には詰まっているんだ。
単純におもしろく、腹を抱えて笑えるような小説でもあるけれど、それだけじゃない。
小説としての質も高く、どこか気持ちがくすぐったくなるような、良質の作品なんだ。
そんな『69』の映画化。
結論から言うと、とても良い映画だった。
原作のテイストが忠実に再現されていて、原作が醸し出していた「1969年」という時代の匂いが、当時を知らないおれにも伝わってくるような作品に仕上がっていた。宮藤官九郎の脚本も良く、原作のユーモアを上手くアレンジしながら、その核となるテイストはきちんと大切に残すような、そんな構成になっていたように思う。
オープニングもお洒落で魅力的なものだし、ケンの嘘の使い方も上手いね。
(原作では、語り手であるケンがよく嘘をつくんだ。「というのは嘘で」というフレーズが、何度となく出てくる。この「嘘をつく」という行為自体が、作品世界のなかで極めて重要で、そこにこそケンの、そして『69』という世界の魅力があるんだ。)
おもしろいよ。
単純に笑えるだけじゃなくて、普段は心の奥の方にしまってあるなにかをちょっとくすぐられるような、なぜかちょっぴり嬉しくなるような、そんな映画だ。
シンプルで単純な楽しさを、繊細に丁寧に構成しようという姿勢が、おれは好きです。
劇場公開されていた頃、おれはこの映画を観ることに少なからず抵抗があった。原作となった同名の小説のテイストを壊されたくないという思いが強かったからね。
村上龍さんの『69』は、本当に素晴らしい小説だった。
1969年、当時高校生だった龍さん自身の実体験をもとに構成された自伝的小説。
大学紛争が全盛だった時代。ベトナム戦争に反対する若者たちが「ラブアンドピース」を謳った時代。ツェッペリンやサイモンとガーファンクルのレコードを聴き、巨匠ゴダールの映画に触れる中で、新しいカルチャーが踊り始めた、そんな時代。
佐世保に暮らす高校生のケン、そして切れ者の相方アダマの2人が中心となって、映画・音楽・ダンスすべてが渾然一体となったフェスティバルを長崎の地でやってしまおうと動き出す。そのうちにケンは、愛しのレディ・ジェーンの気を惹く為に、そしてなにより今を楽しむ為に、学校の屋上をバリケード封鎖しようと考える。アダマやイワサ、他にも多くの仲間がケンの語る壮大なアイデアに乗っかって、彼らは夏休みのある日の夜、学校に忍び込むんだ。
当たり前のことだけれど、おれは1969年という時代を生きていない。
今となっては、その時代をもう一度生きることなど誰にも出来ないし、当時の空気を吸うことだって出来ない。だから、当時を懐かしむといった思いもなければ、その当時が良い時代だったのかどうかも分からない。シンプルな感覚としては、今の方が、きっと圧倒的に恵まれた、良い時代なんだろうと思っていたりもする。
でもね、それでも伝わってくるんだ。1969年という時代の空気のようなものが。そして同時に、高校生という時期だからこその、青春の瑞々しさ、馬鹿らしくてくだらなくて、でもストレートで溢れんばかりのエネルギーが、この小説には詰まっているんだ。
単純におもしろく、腹を抱えて笑えるような小説でもあるけれど、それだけじゃない。
小説としての質も高く、どこか気持ちがくすぐったくなるような、良質の作品なんだ。
そんな『69』の映画化。
結論から言うと、とても良い映画だった。
原作のテイストが忠実に再現されていて、原作が醸し出していた「1969年」という時代の匂いが、当時を知らないおれにも伝わってくるような作品に仕上がっていた。宮藤官九郎の脚本も良く、原作のユーモアを上手くアレンジしながら、その核となるテイストはきちんと大切に残すような、そんな構成になっていたように思う。
オープニングもお洒落で魅力的なものだし、ケンの嘘の使い方も上手いね。
(原作では、語り手であるケンがよく嘘をつくんだ。「というのは嘘で」というフレーズが、何度となく出てくる。この「嘘をつく」という行為自体が、作品世界のなかで極めて重要で、そこにこそケンの、そして『69』という世界の魅力があるんだ。)
おもしろいよ。
単純に笑えるだけじゃなくて、普段は心の奥の方にしまってあるなにかをちょっとくすぐられるような、なぜかちょっぴり嬉しくなるような、そんな映画だ。
シンプルで単純な楽しさを、繊細に丁寧に構成しようという姿勢が、おれは好きです。
Tuesday, August 30, 2005
敗戦
残念ながら、岡山への切符は掴み損ねてしまった。
千葉代表 7-22 東京代表
悔しい。勝って、本戦に行きたかった。
いろんなバックボーンを持つ人間が集まって、2ヶ月近く前から準備をしてきたけれど、この敗戦をもって、今年のチームは終了することになる。メンバーそれぞれに置かれた環境も異なる中で、決して十分な練習を積めた訳ではなかったし、今回の結果も、必ずしも満足できるものではなかったけれど、それでも今回の関東予選に参加したことは、本当に刺激的な経験になった。
自分のプレーに対する他人の意見や感想、評価といったものを、久しぶりに聞いた気がする。そのことがすごく新鮮だったし、嬉しかった。そして、思うところが多かった。
細かいプレーのひとつひとつ、べき論のようなものじゃない。もっと根本的な部分に語り掛けてくるような言葉を、本当にたくさんもらったんだ。
自信を持ってグラウンドに立っているように見えた、と言ってくれた人がいた。
楽しそうじゃなかったかな、とつぶやいた後輩もいた。
感じ方は人それぞれ。
そして、そういう言葉のひとつひとつが、新鮮ななにかをもって心に響く。
自分では見ることが出来ない自分の姿が、いろんな人間の言葉の端々に垣間見えるようで、そういう形で「自分」というものを鋭く突きつけられることにどきどきしたし、おれにとってそれは、なによりの収穫だった。
グラウンドでは、人間性はごまかせないね。
プレーのことは、細かくは書かない。
ATT、DEFともに致命的なミスがあった。相変わらず良くないところは変わってないね。クラブラグビーに身を転じて、どうしても練習時間は限られてしまうけれど、毎週末の貴重な時間を濃密なものにして、少しずつでも上手くなっていきたい。まだまだ全然、ってレベルだと自分でも思います。
ちなみに試合後は、そのままタマリバの練習に参加してきた。
来週からは、タマリバクラブの2005年のシーズンがついに始まる。9月4日、曼荼羅クラブとの開幕戦。場所は三ツ沢球技場。クラブリーグの公式戦にこれほどの素晴らしい環境が用意されたことに、本当に感謝したい。国体の試合終了後にダブルヘッダーで練習することにしたのは、この試合に意地でも出たかったからなんだ。
さすがに3時間も練習するとは思っていなかったけどね。
千葉代表 7-22 東京代表
悔しい。勝って、本戦に行きたかった。
いろんなバックボーンを持つ人間が集まって、2ヶ月近く前から準備をしてきたけれど、この敗戦をもって、今年のチームは終了することになる。メンバーそれぞれに置かれた環境も異なる中で、決して十分な練習を積めた訳ではなかったし、今回の結果も、必ずしも満足できるものではなかったけれど、それでも今回の関東予選に参加したことは、本当に刺激的な経験になった。
自分のプレーに対する他人の意見や感想、評価といったものを、久しぶりに聞いた気がする。そのことがすごく新鮮だったし、嬉しかった。そして、思うところが多かった。
細かいプレーのひとつひとつ、べき論のようなものじゃない。もっと根本的な部分に語り掛けてくるような言葉を、本当にたくさんもらったんだ。
自信を持ってグラウンドに立っているように見えた、と言ってくれた人がいた。
楽しそうじゃなかったかな、とつぶやいた後輩もいた。
感じ方は人それぞれ。
そして、そういう言葉のひとつひとつが、新鮮ななにかをもって心に響く。
自分では見ることが出来ない自分の姿が、いろんな人間の言葉の端々に垣間見えるようで、そういう形で「自分」というものを鋭く突きつけられることにどきどきしたし、おれにとってそれは、なによりの収穫だった。
グラウンドでは、人間性はごまかせないね。
プレーのことは、細かくは書かない。
ATT、DEFともに致命的なミスがあった。相変わらず良くないところは変わってないね。クラブラグビーに身を転じて、どうしても練習時間は限られてしまうけれど、毎週末の貴重な時間を濃密なものにして、少しずつでも上手くなっていきたい。まだまだ全然、ってレベルだと自分でも思います。
ちなみに試合後は、そのままタマリバの練習に参加してきた。
来週からは、タマリバクラブの2005年のシーズンがついに始まる。9月4日、曼荼羅クラブとの開幕戦。場所は三ツ沢球技場。クラブリーグの公式戦にこれほどの素晴らしい環境が用意されたことに、本当に感謝したい。国体の試合終了後にダブルヘッダーで練習することにしたのは、この試合に意地でも出たかったからなんだ。
さすがに3時間も練習するとは思っていなかったけどね。
Saturday, August 27, 2005
ラグビーができる
1週間ぶりの更新。
富士登山以来、ずっと風邪を引いていたのだけれど、やっぱり身体的に安定していないと書けないね。
昨日から、国体のラグビー関東予選が始まっている。
千葉県代表のCTBとして、1回戦は神奈川代表との試合だった。
結果からいうと、22-17の辛勝。
台風一過の酷暑もあって、30分ハーフとは思えないほどタフなゲームになった。終盤に認定トライを奪われたりもして、ゲーム展開も決して楽なものではなかったけれど、なんとか勝利を掴むことが出来て、とりあえずほっとしている。チームの根幹をなす社会人チームのメンバー数人が中心となって、タイトなプレーでチームを引っ張ってくれたことが大きかったと思う。
日曜は、東京代表との2回戦。このゲームに勝利すれば、岡山で行われる本戦への出場権を手にすることになる。厳しいゲームになると思うけれど、実力的に劣っているとは思わない。愚直に、ひたむきにプレーして、きちんと勝利をものにしたいね。
それから。
以前にも書いたけれど、千葉県代表は、昨年まで所属していた社会人チームのメンバー数名と、おれのようなOBが若干名、それに習志野自衛隊のメンバーが加わって構成されている。関東予選への参加にあたっては、協会からも一定の支援があるのだけれど、それに加えて、千葉代表にメンバーを派遣している社会人チームからの手厚い支援があって、そのことに対して、改めて新鮮な驚きを覚えるんだ。
前日のゲームのDVDが各自に配布され、自分のプレーをチェックできる。相手チームの1回戦の試合ぶりも、同じくDVDで確認できる。試合の前後には、補食としてバナナや、ゼリータイプの栄養補助食品が用意されているし、トレーナーも派遣してもらっていて、選手のコンディショニングにも気を遣ってもらっている。
もちろんそれは、基本的におれの為じゃない。社会人チームから参加してくれているメンバーのコンディショニングを気遣ってのことであって、それはトップリーグを目指すクラブとしては、当然の対応なのかもしれない。
でもさ、やっぱりすごいと思うよ。
おれのように、クラブラグビーへと身を転じた人間には、それがどれほど恵まれたことなのかが、痛いほどに分かるからね。
バナナやゼリーだけじゃない。もっとシンプルな素晴らしさが、そこらじゅうにあるんだ。
照明の完備された人工芝のグラウンドで、日々練習が出来る。
そしてゲームの舞台として、江戸川陸上競技場という、素晴らしい天然芝のグラウンドが用意されている。
そんなことのひとつひとつが、特に下位リーグを戦う大多数のクラブラガーにとって、手の届かない向こう側の出来事なんだ。
ありがとうございます。
江戸川でプレーできる環境を与えてもらったことに、本当に感謝しています。
富士登山以来、ずっと風邪を引いていたのだけれど、やっぱり身体的に安定していないと書けないね。
昨日から、国体のラグビー関東予選が始まっている。
千葉県代表のCTBとして、1回戦は神奈川代表との試合だった。
結果からいうと、22-17の辛勝。
台風一過の酷暑もあって、30分ハーフとは思えないほどタフなゲームになった。終盤に認定トライを奪われたりもして、ゲーム展開も決して楽なものではなかったけれど、なんとか勝利を掴むことが出来て、とりあえずほっとしている。チームの根幹をなす社会人チームのメンバー数人が中心となって、タイトなプレーでチームを引っ張ってくれたことが大きかったと思う。
日曜は、東京代表との2回戦。このゲームに勝利すれば、岡山で行われる本戦への出場権を手にすることになる。厳しいゲームになると思うけれど、実力的に劣っているとは思わない。愚直に、ひたむきにプレーして、きちんと勝利をものにしたいね。
それから。
以前にも書いたけれど、千葉県代表は、昨年まで所属していた社会人チームのメンバー数名と、おれのようなOBが若干名、それに習志野自衛隊のメンバーが加わって構成されている。関東予選への参加にあたっては、協会からも一定の支援があるのだけれど、それに加えて、千葉代表にメンバーを派遣している社会人チームからの手厚い支援があって、そのことに対して、改めて新鮮な驚きを覚えるんだ。
前日のゲームのDVDが各自に配布され、自分のプレーをチェックできる。相手チームの1回戦の試合ぶりも、同じくDVDで確認できる。試合の前後には、補食としてバナナや、ゼリータイプの栄養補助食品が用意されているし、トレーナーも派遣してもらっていて、選手のコンディショニングにも気を遣ってもらっている。
もちろんそれは、基本的におれの為じゃない。社会人チームから参加してくれているメンバーのコンディショニングを気遣ってのことであって、それはトップリーグを目指すクラブとしては、当然の対応なのかもしれない。
でもさ、やっぱりすごいと思うよ。
おれのように、クラブラグビーへと身を転じた人間には、それがどれほど恵まれたことなのかが、痛いほどに分かるからね。
バナナやゼリーだけじゃない。もっとシンプルな素晴らしさが、そこらじゅうにあるんだ。
照明の完備された人工芝のグラウンドで、日々練習が出来る。
そしてゲームの舞台として、江戸川陸上競技場という、素晴らしい天然芝のグラウンドが用意されている。
そんなことのひとつひとつが、特に下位リーグを戦う大多数のクラブラガーにとって、手の届かない向こう側の出来事なんだ。
ありがとうございます。
江戸川でプレーできる環境を与えてもらったことに、本当に感謝しています。
Saturday, August 20, 2005
名言#2
ネットで拾った名言を。
自分がこうして欲しいと思うのと同じことを、他の人々にしてはいけない。
なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないかも知れないのだから。
良い言葉には、足すべきものがないね。
自分がこうして欲しいと思うのと同じことを、他の人々にしてはいけない。
なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないかも知れないのだから。
バーナード・ショウ
良い言葉には、足すべきものがないね。
皮膚のコード
田口ランディさんのエッセイ集『できればムカつかずに生きたい』、ほぼ読了。
一部のエッセイを飛ばしてしまったので、「ほぼ」なんだけどね。
田口ランディという人が、基本的に好きだ。
「分からない」ということに対して真摯であろうとする姿勢が、きっと好きなんだと思う。
エッセイの中でランディさんはこんなことを言っている。
私を私として成り立たせているのは、皮膚の内と外で生じる猛烈な「違和」によってである。皮膚は世界の違和にさらされていて、それを常に刺激として脳に送り、脳はそれをフィードバックしているから「私」という個体の存在を意識できる。
皮膚は、自分と自分でないものとの境界。
オセロの黒を辿っていくと、結局白を辿ってしまうように、「自分でないもの」の違和を辿ることによって、「自分」というものを確認していく。
でもその時、自分でないものに対しては、結局は「分からない」というスタンスを貫く。
ここが、ランディさんの最大の魅力だ。
分かったつもりにならない。
たとえ相手が肉親であっても、親友であっても、簡単に分かったつもりにならない。
彼女の父親は「おまえほど冷たい女はいない」と言うそうだけれど、その言葉とは裏腹に、こういう態度は極めて真摯だと思うし、きっと彼女の父親も、どこかそう思っているんじゃないかと、おれは勝手に想像している。
世界の違和にさらされた皮膚が、脳に対して送るフィードバックは、きっと皮膚によって違う。それこそがさ、きっと皮膚の存在する意味なんだよ。外部の刺激をダイレクトに受容するんじゃなくて、「皮膚」という変換コードを通すことこそが、きっと世界の多様性なんだと思う。そう考えるなら、皮膚感覚に優れている、というのは、言葉を変えれば、自分の皮膚に織り込まれた変換コードを正確に見据えている、ということなのかもしれないね。それは同時に、他者の皮膚に埋め込まれたコードに対しては「想像する他はない」という態度を貫くことでもあると思う。
そんなわけで、田口ランディは皮膚感覚に優れた作家だと思うわけです。
一部のエッセイを飛ばしてしまったので、「ほぼ」なんだけどね。
田口ランディという人が、基本的に好きだ。
「分からない」ということに対して真摯であろうとする姿勢が、きっと好きなんだと思う。
エッセイの中でランディさんはこんなことを言っている。
私を私として成り立たせているのは、皮膚の内と外で生じる猛烈な「違和」によってである。皮膚は世界の違和にさらされていて、それを常に刺激として脳に送り、脳はそれをフィードバックしているから「私」という個体の存在を意識できる。
(田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』280p)
皮膚は、自分と自分でないものとの境界。
オセロの黒を辿っていくと、結局白を辿ってしまうように、「自分でないもの」の違和を辿ることによって、「自分」というものを確認していく。
でもその時、自分でないものに対しては、結局は「分からない」というスタンスを貫く。
ここが、ランディさんの最大の魅力だ。
分かったつもりにならない。
たとえ相手が肉親であっても、親友であっても、簡単に分かったつもりにならない。
彼女の父親は「おまえほど冷たい女はいない」と言うそうだけれど、その言葉とは裏腹に、こういう態度は極めて真摯だと思うし、きっと彼女の父親も、どこかそう思っているんじゃないかと、おれは勝手に想像している。
世界の違和にさらされた皮膚が、脳に対して送るフィードバックは、きっと皮膚によって違う。それこそがさ、きっと皮膚の存在する意味なんだよ。外部の刺激をダイレクトに受容するんじゃなくて、「皮膚」という変換コードを通すことこそが、きっと世界の多様性なんだと思う。そう考えるなら、皮膚感覚に優れている、というのは、言葉を変えれば、自分の皮膚に織り込まれた変換コードを正確に見据えている、ということなのかもしれないね。それは同時に、他者の皮膚に埋め込まれたコードに対しては「想像する他はない」という態度を貫くことでもあると思う。
そんなわけで、田口ランディは皮膚感覚に優れた作家だと思うわけです。
Wednesday, August 17, 2005
富士登山
10年以上振りに合宿のない夏休み。
休み慣れていなくて、計画的にはいかなかったけれど、富士山を踏破してきた。
ラグビー、STOMP、ラグビー、映画、富士登山。
13日からの5連休も、こんな感じであっという間に終わってしまったけれど、富士登山はとても価値ある体験になった。高山病はしんどかったけれど、初めて目にした雲海、そして山頂から拝んだ御来光は本当に見事なものだったよ。
このことは、機をみてまた書こうと思います。
休み慣れていなくて、計画的にはいかなかったけれど、富士山を踏破してきた。
ラグビー、STOMP、ラグビー、映画、富士登山。
13日からの5連休も、こんな感じであっという間に終わってしまったけれど、富士登山はとても価値ある体験になった。高山病はしんどかったけれど、初めて目にした雲海、そして山頂から拝んだ御来光は本当に見事なものだったよ。
このことは、機をみてまた書こうと思います。
Monday, August 15, 2005
STOMP所感
STOMP Japan Tour 2005 ―
後輩の薦めで、STOMPの日本公演を観に行ってきた。
その後輩が「どうですか?」ってメールをくれるまで、STOMPというパフォーマンス・グループのことをおれは知らなかったのだけれど、いい機会だと思ったし、今までのおれにはなかった角度からの刺激があるんじゃないかという期待感もあって、誘いに乗ってみたんだ。
台詞のない舞台。
モップやバケツ、シガレットケースやビニール袋、そして自らの身体。あらゆるものから生み出される様々な音だけで構成されたパフォーマンス。
叩く。打ち付ける。擦る。振リまわす。掃く。壊す。揺する。
それぞれのモノに対して、いろんなアプローチで作用を働かせ、そこから響き出す音を重ね合わせて、リズムとビートを創り出していく。
ざっと言うなら、そんなパフォーマンス・グループがSTOMPだ。
結論から言うと、クオリティの高いパフォーマンスで、凄く良かった。
パフォーマーとしての完成度が高く、迫力と躍動感があって、単純に楽しかった。
2時間近い彼らのパフォーマンスを観ていて、思ったことがある。
ひとつは、コミュニケーションという作業は、本来とてもフィジカルなものだということ。
STOMPの舞台には、基本的に台詞が存在しない。つまり、8人のメンバーは、舞台上で会話を交わすことがない。もちろん全くのゼロではないし、ある程度シチュエーションが練り込まれていて、身振りやちょっとしたサインでその意図を明示するようなシーンは幾つか存在する。でも、基本的には「音」がすべてだ。1人がモップで床を掃く。その擦れる音に合わせて、別の1人もモップを動かす。そうしてモップの擦れる音が連鎖的に響き出すと、今度は誰かがモップの柄を床に打ち付ける。今度は別のエネルギーを持った打撃音が鳴り響いて、また別のリズムを創り出していく。
それが「コミュニケーション」という作業を強烈に感じさせるんだ。
コミュニケーションという作業が、言語に偏りすぎているのかもしれない。もっとフィジカルな、身体に直接訴えかけるようなものが、原初のコミュニケーションなのかなって、そんなことを思ったりした。そして、ちょっと話は逸れてしまうけれど、そういうコミュニケーションの身体性を意識させる世界がもうひとつあるとすれば、それがスポーツなのかもしれないね。
もうひとつは、都市における「音」ということ。
都市がいかに「音」を埋没させているだろう、と思わずにはいられなかった。
以前から気になっていた渋谷という街の騒音。軒を連ねる店のどれもが、大音量の音楽ともいえない音楽を垂れ流す。駅前に街宣車を停めて、マイク片手にがなり立てる右翼グループ。およそ考えられる限りの騒音がすべて集まった感じだよね。
STOMPの公演の中に、紙袋・ビニール袋・紙コップなんかを組み合わせて3人でリズムを合わせるシーンがあった。2時間の公演の中では比較的小粒な、送りバントのようなシーンだったのだけれど、個人的には印象に残っているんだ。持ち帰りのハンバーガーを詰めるような紙袋から、音のセッションが始まるわけ。センター街の道端にごろごろ転がっているような、なんでもない紙袋からね。
音は、あるいは音のきっかけは、きっと身の廻りのあらゆるところにあるんだ。それはSTOMPのキーメッセージでもあると思う。彼らがいわゆる日用品から音を創っていくのは、ひとつには「音をおれたちの日常に返す」ということじゃないかと、おれは勝手に考えているからね。
都市は、そこに生きる人間の日常から、そんな音を奪っているんじゃないか。
この日のSTOMPのパフォーマンスを観て、漠然とそんなことを考えてしまった。
観て良かった。彼らのパフォーマンスがすごく刺激的だった。
ただ、本当のところを言うと、ぞくっとはしなかったね。
感覚的なことになってしまうけれど、鳥肌というのは、もうひとつ奥の方かもしれない。
後輩の薦めで、STOMPの日本公演を観に行ってきた。
その後輩が「どうですか?」ってメールをくれるまで、STOMPというパフォーマンス・グループのことをおれは知らなかったのだけれど、いい機会だと思ったし、今までのおれにはなかった角度からの刺激があるんじゃないかという期待感もあって、誘いに乗ってみたんだ。
台詞のない舞台。
モップやバケツ、シガレットケースやビニール袋、そして自らの身体。あらゆるものから生み出される様々な音だけで構成されたパフォーマンス。
叩く。打ち付ける。擦る。振リまわす。掃く。壊す。揺する。
それぞれのモノに対して、いろんなアプローチで作用を働かせ、そこから響き出す音を重ね合わせて、リズムとビートを創り出していく。
ざっと言うなら、そんなパフォーマンス・グループがSTOMPだ。
結論から言うと、クオリティの高いパフォーマンスで、凄く良かった。
パフォーマーとしての完成度が高く、迫力と躍動感があって、単純に楽しかった。
2時間近い彼らのパフォーマンスを観ていて、思ったことがある。
ひとつは、コミュニケーションという作業は、本来とてもフィジカルなものだということ。
STOMPの舞台には、基本的に台詞が存在しない。つまり、8人のメンバーは、舞台上で会話を交わすことがない。もちろん全くのゼロではないし、ある程度シチュエーションが練り込まれていて、身振りやちょっとしたサインでその意図を明示するようなシーンは幾つか存在する。でも、基本的には「音」がすべてだ。1人がモップで床を掃く。その擦れる音に合わせて、別の1人もモップを動かす。そうしてモップの擦れる音が連鎖的に響き出すと、今度は誰かがモップの柄を床に打ち付ける。今度は別のエネルギーを持った打撃音が鳴り響いて、また別のリズムを創り出していく。
それが「コミュニケーション」という作業を強烈に感じさせるんだ。
コミュニケーションという作業が、言語に偏りすぎているのかもしれない。もっとフィジカルな、身体に直接訴えかけるようなものが、原初のコミュニケーションなのかなって、そんなことを思ったりした。そして、ちょっと話は逸れてしまうけれど、そういうコミュニケーションの身体性を意識させる世界がもうひとつあるとすれば、それがスポーツなのかもしれないね。
もうひとつは、都市における「音」ということ。
都市がいかに「音」を埋没させているだろう、と思わずにはいられなかった。
以前から気になっていた渋谷という街の騒音。軒を連ねる店のどれもが、大音量の音楽ともいえない音楽を垂れ流す。駅前に街宣車を停めて、マイク片手にがなり立てる右翼グループ。およそ考えられる限りの騒音がすべて集まった感じだよね。
STOMPの公演の中に、紙袋・ビニール袋・紙コップなんかを組み合わせて3人でリズムを合わせるシーンがあった。2時間の公演の中では比較的小粒な、送りバントのようなシーンだったのだけれど、個人的には印象に残っているんだ。持ち帰りのハンバーガーを詰めるような紙袋から、音のセッションが始まるわけ。センター街の道端にごろごろ転がっているような、なんでもない紙袋からね。
音は、あるいは音のきっかけは、きっと身の廻りのあらゆるところにあるんだ。それはSTOMPのキーメッセージでもあると思う。彼らがいわゆる日用品から音を創っていくのは、ひとつには「音をおれたちの日常に返す」ということじゃないかと、おれは勝手に考えているからね。
都市は、そこに生きる人間の日常から、そんな音を奪っているんじゃないか。
この日のSTOMPのパフォーマンスを観て、漠然とそんなことを考えてしまった。
観て良かった。彼らのパフォーマンスがすごく刺激的だった。
ただ、本当のところを言うと、ぞくっとはしなかったね。
感覚的なことになってしまうけれど、鳥肌というのは、もうひとつ奥の方かもしれない。
Saturday, August 13, 2005
新しいということ ― 『ライン』読了
村上龍さんの中期の小説『ライン』、読了。
自分の中のある枠組みの中に閉じて、その中で作品を書き続けている作家は少なくないと思う。読む側としては、期待値から大きくずれないという安心感もあるだろうし、一定の娯楽的価値は提示されるのだけれど、そこに新しさを感じることはない。
最近でいうと、例えば石田衣良なんかは典型的だ。
彼の出世作でもあり、ベストセラーとなった『池袋ウエストゲートパーク』は、スピード感と瑞々しさがあって、おもしろい小説だった。その後、この作品はシリーズ化され、続編が次々に発表されているのだけれど、どれをとってもそれなりに安定していて、一定の娯楽的なおもしろさを持ち併せている。
でもそれらは、ほとんど決定的なほどに、新しくないんだ。
IWGPシリーズは、その優れたキャラクター設定ゆえに、大きくは外れない。作品世界の枠組みがきちんと定まっていて、構成そのものが既に読者の期待値のある一定の部分を満たしている。マコトやタカシといったメインキャラクターの存在感は際立っていて、都度ストーリーが異なるとはいえ、読者の期待を裏切ることはない。
しかし、逆にそれこそが、石田衣良という作家の現時点での限界を感じさせてしまう。
IWGPという枠組みの中で書けることは、もうほとんどないと思う。少なくとも、新しい何かを書く余地は多くないはずだ。今後もIWGPシリーズを書き続けていくとすれば、それは同時に、石田衣良という作家の中に「新しい枠組み」を創リ出すエネルギーが枯渇していることを、図らずも示してしまうんじゃないかな。
それで、村上龍。
龍さんの恐ろしさは、絶えることなく提示されるその「新しさ」にこそある。小説のコアの部分にある問題意識や感性は、同時期の作品である程度共有されているケースもみられるけれど、作品それぞれの枠組みが、いつも決定的に違う。
『ライン』は、まさにその「新しさ」が際立っている作品だった。
正直に言って、あまりに良すぎて感想が書けない。
その斬新さの中に横たわる圧倒的な作品世界を、きちんと消化できていない。
ある種の歪みや空虚さを抱えた人間たちが、図らずも織り成していく「ライン」には、目を背けられないような何かがあるんだ。でもそれを表現する言葉を、残念ながら今のおれは持っていないんだ。
きっとこの小説は、何ヵ月後か、あるいは何年後になるのか分からないけれど、もう一度読むことになるんじゃないかという気がします。
自分の中のある枠組みの中に閉じて、その中で作品を書き続けている作家は少なくないと思う。読む側としては、期待値から大きくずれないという安心感もあるだろうし、一定の娯楽的価値は提示されるのだけれど、そこに新しさを感じることはない。
最近でいうと、例えば石田衣良なんかは典型的だ。
彼の出世作でもあり、ベストセラーとなった『池袋ウエストゲートパーク』は、スピード感と瑞々しさがあって、おもしろい小説だった。その後、この作品はシリーズ化され、続編が次々に発表されているのだけれど、どれをとってもそれなりに安定していて、一定の娯楽的なおもしろさを持ち併せている。
でもそれらは、ほとんど決定的なほどに、新しくないんだ。
IWGPシリーズは、その優れたキャラクター設定ゆえに、大きくは外れない。作品世界の枠組みがきちんと定まっていて、構成そのものが既に読者の期待値のある一定の部分を満たしている。マコトやタカシといったメインキャラクターの存在感は際立っていて、都度ストーリーが異なるとはいえ、読者の期待を裏切ることはない。
しかし、逆にそれこそが、石田衣良という作家の現時点での限界を感じさせてしまう。
IWGPという枠組みの中で書けることは、もうほとんどないと思う。少なくとも、新しい何かを書く余地は多くないはずだ。今後もIWGPシリーズを書き続けていくとすれば、それは同時に、石田衣良という作家の中に「新しい枠組み」を創リ出すエネルギーが枯渇していることを、図らずも示してしまうんじゃないかな。
それで、村上龍。
龍さんの恐ろしさは、絶えることなく提示されるその「新しさ」にこそある。小説のコアの部分にある問題意識や感性は、同時期の作品である程度共有されているケースもみられるけれど、作品それぞれの枠組みが、いつも決定的に違う。
『ライン』は、まさにその「新しさ」が際立っている作品だった。
正直に言って、あまりに良すぎて感想が書けない。
その斬新さの中に横たわる圧倒的な作品世界を、きちんと消化できていない。
ある種の歪みや空虚さを抱えた人間たちが、図らずも織り成していく「ライン」には、目を背けられないような何かがあるんだ。でもそれを表現する言葉を、残念ながら今のおれは持っていないんだ。
きっとこの小説は、何ヵ月後か、あるいは何年後になるのか分からないけれど、もう一度読むことになるんじゃないかという気がします。
イメージ#2
パートナーがイメージを書き溜めている。
Flickrにアップロードした作品も、既に30枚を越えた。Flickrのフリーアカウントは、1ヶ月に利用できるデータ容量が20MBに制限されているのだけれど、6月に開始して以来、2ヶ月連続で容量を使い切っている。やっぱり、好きなんだろうね。
発熱した時に脳裏に浮かんだという「光の粒」をアクリルで描いてくれたので、アップロードしておいた。本当はもうひとつ「モザイク」のイメージもあったのだけれど、それは紙に落とし込めるほどに鮮明ではないらしい。光の粒が溢れ出した後に、サブリミナルのようにさっと浮かんだだけで、絵にしようとした瞬間に、実際に浮かんだはずのイメージとの乖離が浮き彫りになってしまうんだって。
そういうビジュアルな感覚はおれには弱いので、ちょっと羨ましかったりもするね。
http://www.flickr.com/photos/pommedeterre/
(linksの"Flickr photos"からも入れます。)
Flickrにアップロードした作品も、既に30枚を越えた。Flickrのフリーアカウントは、1ヶ月に利用できるデータ容量が20MBに制限されているのだけれど、6月に開始して以来、2ヶ月連続で容量を使い切っている。やっぱり、好きなんだろうね。
発熱した時に脳裏に浮かんだという「光の粒」をアクリルで描いてくれたので、アップロードしておいた。本当はもうひとつ「モザイク」のイメージもあったのだけれど、それは紙に落とし込めるほどに鮮明ではないらしい。光の粒が溢れ出した後に、サブリミナルのようにさっと浮かんだだけで、絵にしようとした瞬間に、実際に浮かんだはずのイメージとの乖離が浮き彫りになってしまうんだって。
そういうビジュアルな感覚はおれには弱いので、ちょっと羨ましかったりもするね。
http://www.flickr.com/photos/pommedeterre/
(linksの"Flickr photos"からも入れます。)
Monday, August 08, 2005
キューバの歌声と民主主義について
今日は残念なニュースがふたつあった。
ひとつは、イブライム・フェレールが亡くなったこと。
キューバの伝説的な老音楽家たちがライ・クーダーのもとに結集して生まれたプロジェクト"Buena Vista Social Club"のボーカリスト。
国交なき国のカーネギーホールで実現された彼らのコンサートの映像は、同名のドキュメンタリー映画のなかに収められている。深い皺を刻んだ彼らの表情は一様に輝いていて、純粋に格好良く、その佇まいにはどこか身震いしてしまうような魅力があった。イブライム・フェレールはその中心にいて、歌声には、その顔の深い皺に違わぬ奥行きがあった。享年78歳。DVDを観て虜になって、即座にCDを買いに行ったのはつい最近のことのように思う。おれにとって、その死はちょっと早すぎたね。
ささやかながら、黙祷を捧げます。
その最後の表情が安らかなものであってほしいと思っています。
もうひとつは、がらりと趣が変わるけれど、郵政民営化法案の否決。
郵貯という巨大国家金融を解体する千載一遇のチャンスのはずだったんだ。
結果的に、参議院では予想を上回る大差で法案は否決されたのだけれど、おれには反対派議員がこれほど強硬に郵政民営化を拒む理由というものが、最後まで分からなかった。彼らによって語られた理由はとても合理的だとは思えなかったし、その主張のほとんどは、議論におけるスタート地点が既に間違っているように感じた。
でも、郵政民営化そのものを議論する前に、まずは国会議員であるということの当然の前提というものを、改めて考えてみる必要があるんじゃないか。
国会議員の最大にしてほとんど唯一の任務は、世論を政治に正しく反映させることだと思う。必ずしもそれが最善の手段かどうかは分からないけれど、民主主義とはそういうものだし、国家の基本法たる日本国憲法は、はっきりと民主主義を標榜している。民主主義の精神、あるいはその意思決定プロセスに対する議論は当然あり得ると思うけれど、現行制度下においては、民主主義は常に尊重されるべきだ。
こうした民主主義の精神の下にあって問われるのは、有権者との「契約」に責任を持ってこれを遵守すること、そしてもうひとつは「国民への信頼」ということだと思う。
有権者との間の「契約」というのは、言うまでもなく選挙公約だ。選挙公約が有権者との「契約」であるという認識すら持たない議員は、そもそも存在意義がない。もちろん、契約が正しく履行されないことに対して明確な拒否メッセージを発しない有権者の側にも一定の責任はあると思うけれど。
「国民への信頼」というのは、民主主義が必ずしも衆愚政治に帰結しないということを担保する重要な条件だと思う。結果として衆愚政治に堕することはあるかもしれないけれど、民主主義が成立し得る重要な条件のひとつは、有権者の合理的判断力を信頼することであり、また国民の能力を過小評価しないことだと思う。
こうして考えていくと、法案そのものの是非を問う以前に、幾つかの疑問が生じる。
ひとつは、公約をどう考えるのか、ということ。
その政治手法、法案の具体的内容は別にしても、この1点において、小泉純一郎は正しいと思う。郵政民営化は、明確に小泉政権の公約だった。確かに小泉は、その他の公約を幾つか反故にしている。例えば、国債30兆円枠などは、ほとんど議論されることもなく、いとも簡単に破棄されることになった。しかし、だからと言って、郵政民営化が「公約」であるという事実の重みは変わることがない。公約は「絶対に」履行されなければならない、という民主主義の基本中の基本に対して、反対派の議員はどう考えていたのだろう。
こうした態度は、もうひとつの「国民への信頼」へと繋がっていく。公約の重要性に対する認識の欠落は、とりもなおさず、有権者に対する冒涜を意味している。そして、突きつめていけば、それは民主主義そのものへの冒涜でもあると思う。
郵政民営化の是非を巡る今回の政争が奇しくも露呈したのは、日本における民主主義がほとんど死にかかっている、ということだと思う。このことは、郵政民営化法案の行方以上に、決定的に重要だった。
でも、それだけではない。
それに加えて、当然ながら、郵政民営化法案そのものも極めて重要なものだった。
民営化に対して強硬に反対する理由は、どうしても理解できない。
民間に出来ることを、なぜ国家がする必要があるのだろう。民営化によって国民の生活基盤が破壊される、という主張は明確に嘘だ。まず、「国民」という言葉自体が、ある種の嘘を内包している。都市部に暮らす人間は、実態としてほとんど民営化の影響を受けないだろう。「国民」という言葉が本当に意味している層を、具体的に明示すべきだ。過疎地域におけるサービスレベルの低下がたびたび主張されるけれど、これは民間の実力を明らかに過小評価している。日本に対する誇りを声高に唱える国会議員自身が、日本企業の持つ実力に対する信頼を欠いていると思う。
郵貯・簡保という巨大国家金融の存在は、日本の金融業界の在り方を大きく歪めてしまっている。グローバリゼーションと自由競争という大きな流れは変えられない。それは善悪の問題ではなく、資本主義社会の必然の帰結だ。そうであるなら、考えるべきは、そうした国際社会の潮流の中で、いかに制度を柔軟に対応させていくか、ということだと思う。「保守」ということを誤解してはいけない。環境や時代背景が日々刻々と変化する中で、本当に守るべきものを守り通す為には、変化に柔軟に対応できなければならない。その意味で、「革新」こそが保守の本流のはずだ。
結果的に法案は否決されて、衆議院は即日解散された。
法案の否決はとても残念だけれど、解散は当然の帰結だよね。
報道ステーションの中で古館さんが「衆議院総選挙にかかるコストは500億円とも言われる。こうした情勢下にあって、このタイミングでの解散というのはどうだったのか」といったコメントをしていたけれど、もしも日本における民主主義の復権にこの解散が寄与するのであれば、500億円なんて安いものです。
少なくともおれは、そういう気持ちで次の選挙に臨もうと思っています。
ひとつは、イブライム・フェレールが亡くなったこと。
キューバの伝説的な老音楽家たちがライ・クーダーのもとに結集して生まれたプロジェクト"Buena Vista Social Club"のボーカリスト。
国交なき国のカーネギーホールで実現された彼らのコンサートの映像は、同名のドキュメンタリー映画のなかに収められている。深い皺を刻んだ彼らの表情は一様に輝いていて、純粋に格好良く、その佇まいにはどこか身震いしてしまうような魅力があった。イブライム・フェレールはその中心にいて、歌声には、その顔の深い皺に違わぬ奥行きがあった。享年78歳。DVDを観て虜になって、即座にCDを買いに行ったのはつい最近のことのように思う。おれにとって、その死はちょっと早すぎたね。
ささやかながら、黙祷を捧げます。
その最後の表情が安らかなものであってほしいと思っています。
もうひとつは、がらりと趣が変わるけれど、郵政民営化法案の否決。
郵貯という巨大国家金融を解体する千載一遇のチャンスのはずだったんだ。
結果的に、参議院では予想を上回る大差で法案は否決されたのだけれど、おれには反対派議員がこれほど強硬に郵政民営化を拒む理由というものが、最後まで分からなかった。彼らによって語られた理由はとても合理的だとは思えなかったし、その主張のほとんどは、議論におけるスタート地点が既に間違っているように感じた。
でも、郵政民営化そのものを議論する前に、まずは国会議員であるということの当然の前提というものを、改めて考えてみる必要があるんじゃないか。
国会議員の最大にしてほとんど唯一の任務は、世論を政治に正しく反映させることだと思う。必ずしもそれが最善の手段かどうかは分からないけれど、民主主義とはそういうものだし、国家の基本法たる日本国憲法は、はっきりと民主主義を標榜している。民主主義の精神、あるいはその意思決定プロセスに対する議論は当然あり得ると思うけれど、現行制度下においては、民主主義は常に尊重されるべきだ。
こうした民主主義の精神の下にあって問われるのは、有権者との「契約」に責任を持ってこれを遵守すること、そしてもうひとつは「国民への信頼」ということだと思う。
有権者との間の「契約」というのは、言うまでもなく選挙公約だ。選挙公約が有権者との「契約」であるという認識すら持たない議員は、そもそも存在意義がない。もちろん、契約が正しく履行されないことに対して明確な拒否メッセージを発しない有権者の側にも一定の責任はあると思うけれど。
「国民への信頼」というのは、民主主義が必ずしも衆愚政治に帰結しないということを担保する重要な条件だと思う。結果として衆愚政治に堕することはあるかもしれないけれど、民主主義が成立し得る重要な条件のひとつは、有権者の合理的判断力を信頼することであり、また国民の能力を過小評価しないことだと思う。
こうして考えていくと、法案そのものの是非を問う以前に、幾つかの疑問が生じる。
ひとつは、公約をどう考えるのか、ということ。
その政治手法、法案の具体的内容は別にしても、この1点において、小泉純一郎は正しいと思う。郵政民営化は、明確に小泉政権の公約だった。確かに小泉は、その他の公約を幾つか反故にしている。例えば、国債30兆円枠などは、ほとんど議論されることもなく、いとも簡単に破棄されることになった。しかし、だからと言って、郵政民営化が「公約」であるという事実の重みは変わることがない。公約は「絶対に」履行されなければならない、という民主主義の基本中の基本に対して、反対派の議員はどう考えていたのだろう。
こうした態度は、もうひとつの「国民への信頼」へと繋がっていく。公約の重要性に対する認識の欠落は、とりもなおさず、有権者に対する冒涜を意味している。そして、突きつめていけば、それは民主主義そのものへの冒涜でもあると思う。
郵政民営化の是非を巡る今回の政争が奇しくも露呈したのは、日本における民主主義がほとんど死にかかっている、ということだと思う。このことは、郵政民営化法案の行方以上に、決定的に重要だった。
でも、それだけではない。
それに加えて、当然ながら、郵政民営化法案そのものも極めて重要なものだった。
民営化に対して強硬に反対する理由は、どうしても理解できない。
民間に出来ることを、なぜ国家がする必要があるのだろう。民営化によって国民の生活基盤が破壊される、という主張は明確に嘘だ。まず、「国民」という言葉自体が、ある種の嘘を内包している。都市部に暮らす人間は、実態としてほとんど民営化の影響を受けないだろう。「国民」という言葉が本当に意味している層を、具体的に明示すべきだ。過疎地域におけるサービスレベルの低下がたびたび主張されるけれど、これは民間の実力を明らかに過小評価している。日本に対する誇りを声高に唱える国会議員自身が、日本企業の持つ実力に対する信頼を欠いていると思う。
郵貯・簡保という巨大国家金融の存在は、日本の金融業界の在り方を大きく歪めてしまっている。グローバリゼーションと自由競争という大きな流れは変えられない。それは善悪の問題ではなく、資本主義社会の必然の帰結だ。そうであるなら、考えるべきは、そうした国際社会の潮流の中で、いかに制度を柔軟に対応させていくか、ということだと思う。「保守」ということを誤解してはいけない。環境や時代背景が日々刻々と変化する中で、本当に守るべきものを守り通す為には、変化に柔軟に対応できなければならない。その意味で、「革新」こそが保守の本流のはずだ。
結果的に法案は否決されて、衆議院は即日解散された。
法案の否決はとても残念だけれど、解散は当然の帰結だよね。
報道ステーションの中で古館さんが「衆議院総選挙にかかるコストは500億円とも言われる。こうした情勢下にあって、このタイミングでの解散というのはどうだったのか」といったコメントをしていたけれど、もしも日本における民主主義の復権にこの解散が寄与するのであれば、500億円なんて安いものです。
少なくともおれは、そういう気持ちで次の選挙に臨もうと思っています。
Sunday, August 07, 2005
光の粒とモザイク
昨晩から、パートナーが38.5℃の熱を出して寝込んでしまった。
氷嚢で頭冷やして、横になって、水分をこまめに摂取して、一晩寝たら体温はぐっと下がったので、とりあえずほっとしている。
でもさ、熱って判断が難しいよね。
うちのパートナーは、普段から病気のことを調べるのが好きなようで、TVやインターネットでまめに知識を詰め込んでいるのだけれど、熱を出して、ベッドに横になっている状況でも、しんどそうな顔をして言うわけ。
「『急な発熱』でインターネット検索して」
実際に検索してみたけれど、「急な発熱」の原因として考えられる病気なんて、それこそ数え切れないほどあるんだ。とてもじゃないけれど、素人のおれに判断できるものではない。幸いなことに、おれの母親は看護婦をしているので、電話でいろいろ確認することは出来るけれど、母親にしても実際に症状を診られる訳ではないし、初期症状だけでは判断に限界があるよね。
おれなんかは、水分と栄養をきちんと摂って、ちゃんと寝れば熱は下がると基本的に思っているので、「原因が分かっても治る訳じゃないので、とにかく寝たら?」って言うのだけれど、彼女はどうしても調べたいみたいで。
翌朝になって、若干熱が下がって楽になると、もう自分でネット検索をしていて、「急な頭痛」「胃痛」「押さえる」なんてキーワードを入力している。「『押さえる』ってなに?」と聞くと、「下腹部を押さえた時に、胃に痛みが出るんだ」なんて説明してくれて。
すごい執念だよね。
やっぱりおれは、寝れば治ると思うんだけどさ。
でも、今回のことで思ったこともある。
パートナーの病気について、おれは「おれ基準」で判断しがちだなって。
(別に病気に限った話ではないかもしれないけれど。)
そもそもおれは、あまり病気をしない方で、病院というやつも好きじゃないので、基本的には自然に治るのを待つようにしている。それが風邪のような軽度のものならよいのだけれど、例えば、本当に救急車を呼ばなければいけないような場合には、もしかしたら判断がひとつ遅れてしまうかもしれない。熱ひとつ考えてみても、それが本当は何の兆候なのかは簡単には判断できないからね。
人間の自然治癒能力はかなりのものだと思っているけれど、そのことを過信してしまうと、重要な場面での判断が微妙にずれてしまうかもしれないね。
熱は下がったとはいえ、パートナーには今日も1日、ゆっくり横になってもらった。
CDを聴きながらベットに寝転んでいたら、光の粒とモザイクが見えた、って。
CDが喚起したのか、病気が喚起したのか分からないけれど、体調が完全に戻ったら、そのイメージを描いてもらおうかなと思っています。
氷嚢で頭冷やして、横になって、水分をこまめに摂取して、一晩寝たら体温はぐっと下がったので、とりあえずほっとしている。
でもさ、熱って判断が難しいよね。
うちのパートナーは、普段から病気のことを調べるのが好きなようで、TVやインターネットでまめに知識を詰め込んでいるのだけれど、熱を出して、ベッドに横になっている状況でも、しんどそうな顔をして言うわけ。
「『急な発熱』でインターネット検索して」
実際に検索してみたけれど、「急な発熱」の原因として考えられる病気なんて、それこそ数え切れないほどあるんだ。とてもじゃないけれど、素人のおれに判断できるものではない。幸いなことに、おれの母親は看護婦をしているので、電話でいろいろ確認することは出来るけれど、母親にしても実際に症状を診られる訳ではないし、初期症状だけでは判断に限界があるよね。
おれなんかは、水分と栄養をきちんと摂って、ちゃんと寝れば熱は下がると基本的に思っているので、「原因が分かっても治る訳じゃないので、とにかく寝たら?」って言うのだけれど、彼女はどうしても調べたいみたいで。
翌朝になって、若干熱が下がって楽になると、もう自分でネット検索をしていて、「急な頭痛」「胃痛」「押さえる」なんてキーワードを入力している。「『押さえる』ってなに?」と聞くと、「下腹部を押さえた時に、胃に痛みが出るんだ」なんて説明してくれて。
すごい執念だよね。
やっぱりおれは、寝れば治ると思うんだけどさ。
でも、今回のことで思ったこともある。
パートナーの病気について、おれは「おれ基準」で判断しがちだなって。
(別に病気に限った話ではないかもしれないけれど。)
そもそもおれは、あまり病気をしない方で、病院というやつも好きじゃないので、基本的には自然に治るのを待つようにしている。それが風邪のような軽度のものならよいのだけれど、例えば、本当に救急車を呼ばなければいけないような場合には、もしかしたら判断がひとつ遅れてしまうかもしれない。熱ひとつ考えてみても、それが本当は何の兆候なのかは簡単には判断できないからね。
人間の自然治癒能力はかなりのものだと思っているけれど、そのことを過信してしまうと、重要な場面での判断が微妙にずれてしまうかもしれないね。
熱は下がったとはいえ、パートナーには今日も1日、ゆっくり横になってもらった。
CDを聴きながらベットに寝転んでいたら、光の粒とモザイクが見えた、って。
CDが喚起したのか、病気が喚起したのか分からないけれど、体調が完全に戻ったら、そのイメージを描いてもらおうかなと思っています。
Tuesday, August 02, 2005
名言
今日出会った名言を、ふたつだけ。
書きたいことはたくさんあるけれど、また機を改めて書くことにします。
希望とは一般に信じられていることとは反対で、あきらめにも等しいものである。
そして、生きることは、あきらめないことである。
天才とは九十九パーセントが発汗であり、残りの一パーセントが霊感である。
玄田有史さんのことは、実は以前から気になっていたんだ。
『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』で一躍有名になったけれど、東京大学社会科学研究所で始まった「希望学プロジェクト」においても、中心メンバーとして活躍されているそうだ。
「ニートのこと・希望のこと」は、その基本的なスタンスが掴める良い文章だった。
近いうちに、一度著作に目を通してみようかなと思っています。
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/think.html
書きたいことはたくさんあるけれど、また機を改めて書くことにします。
希望とは一般に信じられていることとは反対で、あきらめにも等しいものである。
そして、生きることは、あきらめないことである。
― アルベール・カミュ(玄田有史「ニートのこと・希望のこと」より)
天才とは九十九パーセントが発汗であり、残りの一パーセントが霊感である。
― トーマス・エジソン(寺山修司『ポケットに名言を』より)
玄田有史さんのことは、実は以前から気になっていたんだ。
『ニート ― フリーターでもなく失業者でもなく』で一躍有名になったけれど、東京大学社会科学研究所で始まった「希望学プロジェクト」においても、中心メンバーとして活躍されているそうだ。
「ニートのこと・希望のこと」は、その基本的なスタンスが掴める良い文章だった。
近いうちに、一度著作に目を通してみようかなと思っています。
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/think.html
Subscribe to:
Posts (Atom)