Wednesday, July 13, 2005

Context

『SPEED』を読み終えて次に手に取ったのは、やっぱりまた村上龍さん。
まだ出たばかりの新刊エッセイ集『ハバナ・モード』ってやつね。

全体を通しての感想は、読み終えた時に改めて書こうと思う。まだ3分の1くらいしか読み進めていないけれど、思わず唸ってしまう観点や指摘に溢れていて、相変わらず刺激的な作品であることは間違いない。
ただ、既に読んだ数章の中で、特に考えさせられる指摘があったので、そのことだけは忘れないうちに書いておこうと思って。

もう随分前のことのように感じるけれど、昨年の暮れに、ライブドアによる近鉄球団買収の意向表明を発端として、IT企業のプロ野球への参入が話題となった。近鉄とオリックスの合併によって生まれた新規参入枠をライブドアと楽天が争い、結果的には楽天がプロ野球界への参入を果たすことになった。また、ダイエーの経営問題に端を発した事業再編のひとつとして、福岡ダイエーホークスがソフトバンクに売却された。こうした一連の経緯は、その頃、連日のようにメディアを賑わせていたよね。

あの時、大手既成メディアの報道は、基本的に旧態依然のプロ野球界vsライブドア、あるいはライブドアvs楽天、といった対立軸を設定して、誰が勝者となるのか、という議論ばかりをしていた。そして、ライブドアや楽天といった企業は、旧体質に風穴を開ける救世主のような報道のされ方だったように思う。彼らが日本の閉塞感の少なくともある部分を打ち破ってくれるんじゃないか。そんな期待感のようなものが、その当時のメディアにおける報道の基調となっていた。

でも、『ハバナ・モード』の中の「幻の改革と変化」という章において、龍さんはまったく異なる指摘をしているんだ。ここは大切なので、正確に引用したい。
(ブログにおけるこうした引用に著作権上の問題がある場合には、即座に削除するので、知ってる人がいたら教えてください。)

彼らのようないわゆるITの勝ち組でさえも、プロ野球のような人気衰退媒体に頼るしかないという現実は、破壊や革新を待ち望む子どもや若者にさらなる閉塞を生むことになった。もうフロンティアはないのだというメッセージを送っているのと同じだから、その罪は深い。(村上龍 『ハバナ・モード』 38p)


プロ野球界に新風を巻き起こしたはずの彼らは、若者にさらなる閉塞を生み出した。
この指摘には、思わず唸ってしまった。
その当時のメディアに、こういう観点での議論は一切なかったと思う。分かりやすい対立軸を設定することでしか、起きている事象に向かうことが出来なかった。それは言い換えるなら、「改革」や「革新」、あるいは「閉塞」という言葉に対して、メディアがその正確な定義を持っていなかった、ということかもしれない。これはメディアだけの問題ではなくて、受け手側である日本人のほとんどが、こうした観点を持ち合わせていなかったんじゃないかと思う。
誤解のないように書いておくけれど、龍さんの指摘こそが真実を語っている、と言いたい訳じゃない。龍さんの指摘は、あくまで龍さん個人のものだし、それに同意する人もいれば、拒絶する人もいると思う。いろいろな考え方や判断があっていいし、あってしかるべきだ。おれが言いたいのは、なにかを議論する時に、正確な文脈で、正確な定義を持って語ろうとする態度というのが、決定的に重要だということなんだ。

龍さんは、自分の中に「文脈」を持っている人なのだと、改めて感じた。
文脈というのは、事象の裏に横たわる流れのようなもの。
龍さんは、これまで常識的なレベルで成立していた曖昧な文脈を越えて、その先に自分自身の文脈を構築し、その文脈において世界を切り取っているのだと思う。
そして、「文脈を持つ」ということは、正確な定義をもとに、厳密に今を切り取ろうとする態度の中にしか、きっとないんだ。

そしてこれこそが、たぶん村上龍さんという作家の最大の価値だと思うんだ。