Tuesday, July 19, 2005

『ハバナ・モード』読了

村上龍さんの最新エッセイ集『ハバナ・モード』、読了。
20年以上も連載の続いている「すべての男は消耗品である」シリーズのVol.7ね。

改めて書くまでもなく、抜群に良い作品。
龍さんのエッセイは、初期の頃の作品も良いものが多いけれど、ここ数年の作品の方が圧倒的におもしろいと思う。初期の頃のように、イメージを鋭利なイメージのまま言葉にしていったようなエッセイは少なくなったかもしれないけれど、とどまることのない問題意識と、それに対する思考の厚み、次々に提起される世界の切り取り方、そういったものは初期の作品を完全に凌駕していると思う。

この作品の中で、利根川進さんの言葉に触れている章がある。
昨年8月に刊行された対談集『人生における成功者の定義と条件』において、利根川さんが語った言葉だ。

「本当にむずかしくて重要なのは、問いを考えることだ」

決められた問いに対する答えを探すことは、ある程度訓練すれば誰にでも出来る。でも、「問い」そのものを考えることは、簡単には出来ない。問いを考える為には、そもそも何が分からないのかを分かっていなければいけないからね。
問いは、誰もが立てられるものじゃない。問いを立てる為には、問いを立てるに足るだけの前提知識や経験が必要となる。そうした前提を獲得する為には、相当の労力が必要だし、問い続けるスタミナも必要になる。なにより、圧倒的なまでの知的好奇心と「分からない」ということへの徹底的なこだわりがなければ、「問う」という姿勢は不可能だと思う。

翻ってみると、龍さんのエッセイにはまさに「問い」が溢れている。
そして、そのことにおれはいつも驚かされてしまう。
「問う」という姿勢、あるいは態度が、龍さんの生き方そのものになっているような、そんな雰囲気がエッセイから滲み出ている。

龍さんの考え方や、発想の仕方に対して違和感を感じる人は少なくないかもしれない。エッセイの中で語られる様々な事柄に対して取りうるスタンスは、それこそ人それぞれのものだと思うし、そのこと自体は特に問題ではなく、むしろ当然のことだと思う。ただ、このエッセイにおいて設問されている数々の「問い」そのものは、有無を言わせぬ迫力を持っているし、「問い」として非常に有効なものばかりだ。このエッセイに限らず、ここ数年の龍さんのエッセイの最大の魅力は、まさにこの点にこそあるのかもしれない。

それから、今回の作品について言うと、まず「ハバナ・モード」という言葉自体が抜群に良いよね。「ハバナ・モード」というのは、龍さんの言葉を借りると「何とかなるだろうという曖昧でポジティブな前提と、このままではどうしようもないという絶望との乖離の中にあって、その2つの矛盾を混在させ、限りなくゼロに近い可能性に少しでも近づく為に、不断の努力をする」態度、といったことになるかな。ちょっと分かりづらいかもしれないけれど、龍さんはこのことをして「危機に瀕した国家や個人が取りうるおそらく唯一の基本戦略だと思う」と書いている。「危機感」というキーワードを読み解く上で、非常に重要なファクターになってくると思う。

とにかく、相変わらず珠玉のエッセイ集であることは間違いないね。
読了したおれの次の課題は、「『ハバナ・モード』を生きられるか」ということになると思います。