敬愛してやまない村上龍さんの最新刊『半島を出よ』、読了。
この小説を読んで改めて思ったのは、想像力/創造力というのは、ゼロから産み出されるものではないんだ、ということ。そこには圧倒的な情報と知性と経験知に裏づけられたベースが存在しているんだ、ということ。そして、想像/創造というのは、きわめて緻密な作業なんだ、ということ。
龍さんの圧倒的な取材力は、他の作家を完全に凌駕していると思う。
ほとんど信じられないほどに、想像力のベースが圧倒的だ。
小説の舞台となるのは、2011年4月。
その頃日本は国家財政の破綻によって預金封鎖が現実のものとなり、その後のインフレにより、国際社会における信用力を大幅に低下させてしまう。国際社会におけるポジションを規定するうえで、国家としての経済力がある種の前提となっていた、という当然の事実を直視しない日本は、その経済力を大幅に毀損しながらなお、国際社会における外交的戦略を修正できない。
そういう状況の中で、北朝鮮で極秘作戦が企てられる。その作戦とは、反金正日の革命軍を装った特殊部隊を福岡に潜入させ、そのまま福岡を占領するというもので、9人の特殊部隊による福岡ドームの占拠の後、後続隊が合流して、福岡は彼らの統治下に入ってしまう。
その時日本はどう対応し、北朝鮮の特殊部隊はなにを考えたのか。経済破綻の状況下でホームレスをしていたやつらはなにを思い、どう動いたのか。
そういったことが、きわめて緻密に描かれている。
本当に緻密に、繊細に描かれた小説だと思う。
緻密な作業によって初めて示されるものというのが、この小説には満ちあふれている。
たとえば、「日本」というもの。
この小説においては、北朝鮮という外部を想定することによって、強烈な鋭さで浮き彫りにされていくけれど、そこにおける緻密さが、この小説のリアリティの源泉になっているように思う。
さらに、そこで外部としておかれている「北朝鮮」に対しても、可能な限り厳密であろうとする姿勢は、本当にすごいとしか言いようがない。この小説においては北朝鮮の特殊部隊の側からの語り、というのが極めて重要な役割を担っていて、龍さんはそのことについて、あとがきの中で、「書けるわけないが、書かないと始まらない」と思いながら最後まで書いたんだ、と言っている。北朝鮮に生きた人間ではないが、最大限の取材と最大限の知性をもって、最大限の想像力で書こうとした、ってことだと思う。ここまで「当事者性」ということに厳密であろうとする作家というのは、他にちょっと思いつかない。
読んでみてください。
特に海外にいる友達に、読んでみてほしい。日本を外部にしている人たちだからね。
でも、「日本」というのはひとつの要素にすぎなくて、この小説が突きつけてくるものは他にも数多くある。誰かがブログで「当たり前のメッセージだが、当たり前のことを書ける作家は少ない」と書いていたけど、そうかもしれないね。
本当にいい小説でした。