「郵政民営化って、ほんとどうでもいいよね。」
朝のニュースを見ていて、のりこが言った言葉です。
なにげない日常の中で、ふと発せられた言葉なんだけれど、ちょっと考えてしまった。
たぶん言いたかったのは、プライオリティが違う、ということ。郵政民営化の是非ではなくて、政策としてのプライオリティ。彼女にそのことを考えさせるきっかけとなったのは、もちろん尼崎の脱線事故であり、福岡の震災であり、スマトラの大津波であり、新潟の大地震なのだけれど。
尼崎の脱線事故のニュースをひとしきり見た後、彼女は言った。
「福岡の震災のことなんて、もう忘れられてるよね。」
尼崎が契機となって思い出される惨事の数々。福岡にしても、ようやく仮設住宅が出来てきたような状況だと聞く。忘れられるのは、恐ろしく早い。メディアは「その後」を捉えようとはしない。本当に知ろうとする人間が、自分で追い続けないことには、本当はそれこそが最も重要なはずの「その後」というのが、残念ながら見えてこないよね。
そうした状況のもとで、すっと閣議決定されていく、郵政民営化法案。おそらく彼女が言いたかったのは、状況は、世界は日々刻々と変化しているのに、政策のプライオリティは全然変わらないね、ってことなんじゃないか。
郵政民営化に関して言うと、政策の是非というのは、経済学的な観点からはほぼ結論が出ていると思う。
金融ビックバンという自由化の波が押し寄せるなかで、国家として民間金融を実施する意味はどこにもないと思う。時代にそぐわないし、なにより非効率だ。郵便にしても、ユニバーサルサービスの維持が声高に主張されているけれど、郵便局がなくなっても正直まったく不自由しない。過疎地におけるサービスレベルの低下が問題にされるけれど、そこにニーズがあれば、まちがいなく民間業者が参入するはずだ。過疎地ゆえにコストがかかるのは、資本主義社会において避けられない。これからの時代というのは、そういうリスクを取ったうえで、なお過疎地に住むか、ということを個人が自由に選択すればよい、という方向性だと思う。人によっては、そういう社会に対する一定の寂しさはあるかもしれないけれど、だからと言って時代の流れは変わらない。少なくともおれは、方向性としては嫌いじゃないかな。
話を戻すと、郵政民営化というのは、政策的な論点はほぼ出尽くしていると思う。どうでもいいということはなくて、やるべきだというのは決まっている。でも、ここでひとつの疑問が出てくる。それは、そもそもの民営化の目的というのは、いったいなんだったのか、ということ。
郵政民営化の議論の始まりは、基本的には財政改革のはずだ。そこにはふたつの論点があって、ひとつは国家による金融サービス・郵便サービスというのがきわめて非効率だということ。生活インフラとしての民間サービスが脆弱な時代には、国家としてコストを負担してでもこうしたサービスを国民に提供することは有効だったのだけれど、今は民間企業が十分にその役割を担うことが出来る。それでもなお、国家がコスト負担をしてサービスを継続する意味というのは、既になくなったということだと思う。
そしてもうひとつは、郵貯で集めた個人金融資産が、財政投融資という形で、公団・公社等に流れている、ということ。いわゆる入り口論というやつで、公団・公社の無駄遣いをなくす為に、そもそも郵貯という資金の入り口を改革することによって、財政投融資という資金の流れを断ち切る、ということだよね。郵政民営化のポイントは、この2点に集約されると思う。
なぜこんなことを言っているのかというと、本来論がなくなっているんだよね。
「民営化」という言葉だけが残っていく。「民営化」することは本来の目的じゃない。山崎元さんがJMMというメールメディアの中で書いていたけれど、効率化によるコスト削減、という目的が果たされれば、別に運営の仕方は国営でも民営でも構わない。ただ一般的には、民営化することによって市場原理が適切に機能する為、効率化は実現されやすいはずだ、と言っているにすぎない。
にもかかわらず、自民党内の反対派に大幅に歩み寄る形で「民営化」という言葉だけが残され、本来論が見失われようとしている。まあ本当のところを言えば、それでも民営化することの意味はあるのかもしれないし、こうして断定的に書くほどには、おれは法案を理解しようという努力が出来ていないけれど。
随分長くなってしまったけれど、ここでようやく最初のポイントに戻ることになる。
プライオリティの問題。
プライオリティが明確にされない、というのは、そもそも国家の存在理由が曖昧になってきているからなんじゃないか。例えば、ひとつの存在理由として、全国民の生活の安全を保証する、ということを考えてみる。そうすると、そこから必然的に、国家として国民に提供すべきサービスは決まってくるはずだ。それこそが、政策のプライオリティとなるものだと思う。そう考えると、プライオリティを明示しない(出来ない)という現状というのは、国家の存在理由として、全国民が共有できるものがもうなくなってしまったんじゃないかと、そう思ったんだ。そもそも「国民」という言葉が怪しい。「国民」というのはいったい誰なのか、というのがよく分からない。市場主義のもとでの競争が進んで、それまで「国民」という言葉で一括りにされていた集団の内部が、多様化してきている。だから、そのどこにターゲティングした政策なのかを明確に示さないことには、プライオリティが定義できないんじゃないか。
そして、このことの肝は、こういう状態に陥っている組織は、必ずしも「国家」だけじゃない、ということだと思ってます。