ランディさんのブログはいつも読んでるけど、今日のコメントにはとても惹かれた。
『中道』
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000826.html
なにかにつけて、善悪で判断しようとする態度というのは、ちょっと違うと思う。
お互いの立っている地点が違う、というただそれだけの事実に、善悪はないような気がする。
ランディさんが先日のトークショーの中で語っていた「当事者性」というのは、このことに繋がっていくのかもしれない。歴史認識であれ、社会的弱者の問題であれ、もっと下世話な身の上話であれ、構造は同じことで、自分にはどうしたって「当事者」として立つことのできない地平、というのが存在するのは厳然たる事実。その事実をきちんと受け入れ、そのことを認める生き方をする、ということなんだと思う。それは、どうしようもなく事実であって、そしてそのこと自体に善も悪もないのだから。
なぜ彼らの苦しみや怒りが分からないの?
なぜ弱者であり被害者である彼らに共感できないの?
例えばこう問われた時に、やっぱりどこかで思ってしまう。
想像することは出来るけれど、本当の意味での共感は出来ないんじゃないか、って。
もちろん事実を知ろうとすることは大切だと思うし、事実から目を背けようとするのは、決していいことではないと思うけれど、その結果として「理解」や「共感」を強要されるのは、とても怖いことだと思うんだ。
事実にきちんと目を向ける。でも、その先はあくまで自分自身が持ちうる「当事者性」という位置からしか判断できない。
この厳然たる事実を、きちんと事実として認めた上で、そこから様々な立場へと思いをめぐらせていくこと。
中道って、そういうことなのかなって。
ちょっと抽象的になっちゃったね。
最後に、おれが心をうたれたコラムをもうひとつだけ。
同じくランディさんのブログからです。
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000629.html