Friday, April 08, 2005

きわどさ

「PEEP "TV" SHOW」という映画を観て思ったんだけど、おれにはけっこうきわどいところがあるかもしれない。
きわどい、というのは、自分にとってのリアルにぶれが生じるような感覚、というか。
そういう感じは実は初めてだったので、自分ののなかにその「きわどさ」をきちんと落とし込めていないけれど。

この映画のことを知ったのは、ランディさんのブログがきっかけ。
http://blog.ameba.jp/randy/
実は上映後にランディさんのトークイベントがあって、すごく楽しみにしてたんだ。

ランディさんが語ったのは、「当事者性」ということ。
精神病だったり、リストカットだったり、9.11だったり、この世界には数えきれないほどの困難や、問題や、苦しみや、悲劇や、そういったことが存在するなかで、その場にいない人間は結局のところ「当事者」になりえない、ということ。あくまで「傍にいる」あるいは「外から見ている」という意味での当事者性しか持ち得ない、ということ。そして、結局のところ当事者ではない、というその事実から生まれる罪悪感。
ランディさんは、それがまさに「人間」ってことなんだと、そう言ってました。

高校生の頃、おれもそんなことをよく考えてた。
おれが育つ過程においては、家族の不幸もなく、両親の離婚もなく、リストカットの衝動も、鬱状態も、陰湿ないじめ体験も、なんにもなかったんだけど、そのことに対する恥ずかしさというか、自分がなにも当事者として経験していない、ということの罪悪感があって。
ランディさんは、そういう当事者性しか持ち得ない、ということは、善悪の問題ではなくて、ただそうだというだけだ、って。
その言葉は正しいと思ったし、そのことをきちんと言うランディさんは素敵だと思う。
でもね、当事者性は持ち得なくても、想像することは出来ると思うんだ。
おれが自分に対して恥ずかしさを感じてたのは、「当事者性」ということに対する想像力が足りてない、って感覚だったんじゃないかって。
だってさ、別のなにかを対象にすれば、まさに自分自身が当事者たること、というのが必ずあるはずなんだ。そこから「当事者性」ということを考える、というのがまさに知性だと思うし、それこそが想像力のベースだと思うから。

そして、「想像力」ということについては、今もやっぱり、感じてます。
当事者性を持たない世界に対して、自分の持ちうる当事者性の立場からではなく、自分の持ち得る「当事者性」ということそのものから考える、ということ。うまく書けないんだけど、それが想像力のベースなのかな、って思ってます。