今読んでいる、村上龍さんのエッセイ。
『蔓延する偽りの希望 —すべての男は消耗品である。Vol.6』
このなかに、「きっかけ」という言葉について書かれた章があるんだけれど、そこで書かれていることは、まさに心に突き刺さってくるものだった。
龍さんは、「きっかけ」という言葉がなにかを隠蔽している、という感覚を持っていたらしい。
その感覚というのは、「きっかけ」という言葉の持つ、どこか肯定的なニュアンスから始まる。「出会いのきっかけ」「成功のきっかけ」という言い方は成立しても、「別れのきっかけ」「転落のきっかけ」という言い方はどこか不自然で、成立しない。ここから龍さんは、「きっかけ」というのは単なる物事の原因ではなく、そこからポジティブななにかが生まれることが暗に前提されている、というふうに考えていく。そして、もうひとつのポイントとして、「きっかけ」という言葉にが往々にして「そもそもの」という前置詞とセットで用いられることに注目する。そして、このことが意味するのは、日本においてポジティブななにかが起こるためには、必ず「そもそものきっかけ」が必要とされる、ということなのだと捉える。
では、そのとき「そもそものきっかけ」という言葉がなにを隠蔽するのか。
そう考えた末の結論として、エッセイのなかで語られているものが、心に突き刺ってきたんだ。
成功者は、努力して成功する、という真実を隠蔽する。
才能ある人間はチャンスを掴むことが出来る、という真実を隠蔽する。
魅力ある人間と親しくなる為には、自分にも魅力が必要だ、という真実を隠蔽する。
この言葉を目にして、あまりの真実にはっとしてしまった。
「そもそものきっかけ」という言葉の裏に横たわる、誰にでも手に入る場所に転がっていて、たまたまそれを拾った人間が幸せになったような、そんなニュアンス。そうしたニュアンスというのは、突出した個人というものを前提としない日本社会において、効果的なアナウンスメントを果たしていた、という結論に至っては、ちょっとまいってしまうほどに正しいと思った。
考えてみれば、「きっかけ」という言葉を、おれもよく使う。
その言葉ひとつに、どれほどの背景があり、知っていながら目を背けようとしている世界があったりするのだろう。
言葉というのは、とても怖く、とても正直だ。
きっかけがいらない時代を生きていく、という気概が、おれなんかまだ全然だね。