Saturday, April 30, 2005

深い皺 —『永遠のハバナ』感想

生きるというのは、朝太陽が登って、夜沈むまでの1日を生きる、ということなんだ。
絶望ばかりじゃないかもしれない。でも、希望だってそこらに転がってるわけじゃない。
そんなハバナで、生きてる。
必死にじゃない。悲壮感もない。ただ、真摯に生きてる。
生きることを当たり前としない世界でのその真摯さこそが、きっと心をとらえるんだ。

『永遠のハバナ』を観た、おれの感想です。
コピーを書こうと思ったんだけど、かなり難しいね。

とっても、いい映画です。
キューバに暮らす老人たちの皮膚に刻み込まれた、深い皺。すごく印象的だった。うまく言葉にできないけれど、あの皺を今の日本で刻むことはできないだろうと思ってしまう、そんな皺だった。

Friday, April 29, 2005

偽りの希望

今読んでいる、村上龍さんのエッセイ。
『蔓延する偽りの希望 —すべての男は消耗品である。Vol.6』
このなかに、「きっかけ」という言葉について書かれた章があるんだけれど、そこで書かれていることは、まさに心に突き刺さってくるものだった。

龍さんは、「きっかけ」という言葉がなにかを隠蔽している、という感覚を持っていたらしい。
その感覚というのは、「きっかけ」という言葉の持つ、どこか肯定的なニュアンスから始まる。「出会いのきっかけ」「成功のきっかけ」という言い方は成立しても、「別れのきっかけ」「転落のきっかけ」という言い方はどこか不自然で、成立しない。ここから龍さんは、「きっかけ」というのは単なる物事の原因ではなく、そこからポジティブななにかが生まれることが暗に前提されている、というふうに考えていく。そして、もうひとつのポイントとして、「きっかけ」という言葉にが往々にして「そもそもの」という前置詞とセットで用いられることに注目する。そして、このことが意味するのは、日本においてポジティブななにかが起こるためには、必ず「そもそものきっかけ」が必要とされる、ということなのだと捉える。
では、そのとき「そもそものきっかけ」という言葉がなにを隠蔽するのか。
そう考えた末の結論として、エッセイのなかで語られているものが、心に突き刺ってきたんだ。

成功者は、努力して成功する、という真実を隠蔽する。
才能ある人間はチャンスを掴むことが出来る、という真実を隠蔽する。
魅力ある人間と親しくなる為には、自分にも魅力が必要だ、という真実を隠蔽する。

この言葉を目にして、あまりの真実にはっとしてしまった。
「そもそものきっかけ」という言葉の裏に横たわる、誰にでも手に入る場所に転がっていて、たまたまそれを拾った人間が幸せになったような、そんなニュアンス。そうしたニュアンスというのは、突出した個人というものを前提としない日本社会において、効果的なアナウンスメントを果たしていた、という結論に至っては、ちょっとまいってしまうほどに正しいと思った。

考えてみれば、「きっかけ」という言葉を、おれもよく使う。
その言葉ひとつに、どれほどの背景があり、知っていながら目を背けようとしている世界があったりするのだろう。
言葉というのは、とても怖く、とても正直だ。

きっかけがいらない時代を生きていく、という気概が、おれなんかまだ全然だね。

Thursday, April 28, 2005

Priority

「郵政民営化って、ほんとどうでもいいよね。」
朝のニュースを見ていて、のりこが言った言葉です。

なにげない日常の中で、ふと発せられた言葉なんだけれど、ちょっと考えてしまった。
たぶん言いたかったのは、プライオリティが違う、ということ。郵政民営化の是非ではなくて、政策としてのプライオリティ。彼女にそのことを考えさせるきっかけとなったのは、もちろん尼崎の脱線事故であり、福岡の震災であり、スマトラの大津波であり、新潟の大地震なのだけれど。
尼崎の脱線事故のニュースをひとしきり見た後、彼女は言った。
「福岡の震災のことなんて、もう忘れられてるよね。」
尼崎が契機となって思い出される惨事の数々。福岡にしても、ようやく仮設住宅が出来てきたような状況だと聞く。忘れられるのは、恐ろしく早い。メディアは「その後」を捉えようとはしない。本当に知ろうとする人間が、自分で追い続けないことには、本当はそれこそが最も重要なはずの「その後」というのが、残念ながら見えてこないよね。
そうした状況のもとで、すっと閣議決定されていく、郵政民営化法案。おそらく彼女が言いたかったのは、状況は、世界は日々刻々と変化しているのに、政策のプライオリティは全然変わらないね、ってことなんじゃないか。

郵政民営化に関して言うと、政策の是非というのは、経済学的な観点からはほぼ結論が出ていると思う。
金融ビックバンという自由化の波が押し寄せるなかで、国家として民間金融を実施する意味はどこにもないと思う。時代にそぐわないし、なにより非効率だ。郵便にしても、ユニバーサルサービスの維持が声高に主張されているけれど、郵便局がなくなっても正直まったく不自由しない。過疎地におけるサービスレベルの低下が問題にされるけれど、そこにニーズがあれば、まちがいなく民間業者が参入するはずだ。過疎地ゆえにコストがかかるのは、資本主義社会において避けられない。これからの時代というのは、そういうリスクを取ったうえで、なお過疎地に住むか、ということを個人が自由に選択すればよい、という方向性だと思う。人によっては、そういう社会に対する一定の寂しさはあるかもしれないけれど、だからと言って時代の流れは変わらない。少なくともおれは、方向性としては嫌いじゃないかな。
話を戻すと、郵政民営化というのは、政策的な論点はほぼ出尽くしていると思う。どうでもいいということはなくて、やるべきだというのは決まっている。でも、ここでひとつの疑問が出てくる。それは、そもそもの民営化の目的というのは、いったいなんだったのか、ということ。
郵政民営化の議論の始まりは、基本的には財政改革のはずだ。そこにはふたつの論点があって、ひとつは国家による金融サービス・郵便サービスというのがきわめて非効率だということ。生活インフラとしての民間サービスが脆弱な時代には、国家としてコストを負担してでもこうしたサービスを国民に提供することは有効だったのだけれど、今は民間企業が十分にその役割を担うことが出来る。それでもなお、国家がコスト負担をしてサービスを継続する意味というのは、既になくなったということだと思う。
そしてもうひとつは、郵貯で集めた個人金融資産が、財政投融資という形で、公団・公社等に流れている、ということ。いわゆる入り口論というやつで、公団・公社の無駄遣いをなくす為に、そもそも郵貯という資金の入り口を改革することによって、財政投融資という資金の流れを断ち切る、ということだよね。郵政民営化のポイントは、この2点に集約されると思う。

なぜこんなことを言っているのかというと、本来論がなくなっているんだよね。
「民営化」という言葉だけが残っていく。「民営化」することは本来の目的じゃない。山崎元さんがJMMというメールメディアの中で書いていたけれど、効率化によるコスト削減、という目的が果たされれば、別に運営の仕方は国営でも民営でも構わない。ただ一般的には、民営化することによって市場原理が適切に機能する為、効率化は実現されやすいはずだ、と言っているにすぎない。
にもかかわらず、自民党内の反対派に大幅に歩み寄る形で「民営化」という言葉だけが残され、本来論が見失われようとしている。まあ本当のところを言えば、それでも民営化することの意味はあるのかもしれないし、こうして断定的に書くほどには、おれは法案を理解しようという努力が出来ていないけれど。

随分長くなってしまったけれど、ここでようやく最初のポイントに戻ることになる。
プライオリティの問題。
プライオリティが明確にされない、というのは、そもそも国家の存在理由が曖昧になってきているからなんじゃないか。例えば、ひとつの存在理由として、全国民の生活の安全を保証する、ということを考えてみる。そうすると、そこから必然的に、国家として国民に提供すべきサービスは決まってくるはずだ。それこそが、政策のプライオリティとなるものだと思う。そう考えると、プライオリティを明示しない(出来ない)という現状というのは、国家の存在理由として、全国民が共有できるものがもうなくなってしまったんじゃないかと、そう思ったんだ。そもそも「国民」という言葉が怪しい。「国民」というのはいったい誰なのか、というのがよく分からない。市場主義のもとでの競争が進んで、それまで「国民」という言葉で一括りにされていた集団の内部が、多様化してきている。だから、そのどこにターゲティングした政策なのかを明確に示さないことには、プライオリティが定義できないんじゃないか。

そして、このことの肝は、こういう状態に陥っている組織は、必ずしも「国家」だけじゃない、ということだと思ってます。

Wednesday, April 27, 2005

風船のなか

「書く」というのは、もどかしい。

書く為には、まず1行目を書かなければいけない。
でも、1行目を書くのは、とても難しい。
書こうと思っていることはたくさんあるのに、書けない。どうしても、最初の1行目が出てこない。こうして書いていると、そんな日の繰り返しだ。不思議なもので、1行目が決まると、流れるように書けたりもする。特に変わったことを書く必要はなくて、書き終えた後に、振り返って1行目を読み返しても、特別なことがあるわけじゃない。

なのに、1行目が書けないんだ。

時には、1行目を書く為に1時間以上かかったりもする。このくらいのボリュームの文章であれば、1行目の為に費やす時間の比率は、本当に大きいよね。
いつも、不思議だなって思います。
ある1点でしか割ることの出来ない風船に水が入っているとして、その1点に刺すべき針こそが、「1行目」という感じ。その針さえ通せれば、水は自然と流れ出るのにね。こういうところが書くことのもどかしさで、つまりは自分のなかの感情であったり考えであったり、意志であったり、そういうものが文字になるまでに非常な時間がかかる、ということです。

でも、書き続けようと思ってます。

考えてみると、風船のなかになにが入っているのかなんて、正確には知ることなしに針を刺してることが、けっこうあるかもしれない。風船の中身を確かめて、さらして、そのことに自覚的であろうとする、というのは、書く理由になるかもしれないね。

Sunday, April 24, 2005

身体のちから

ひょんなきっかけから、今まで気に留まることのなかったところに目を向けてみる。

先日、渋谷シネ・ラ・セットで映画「PEEP "TV" SHOW」を観た時に、1枚のチラシが目にとまり、持って帰った。
映画『永遠のハバナ』のブローシャー。
”ゲバラもジョン・レノンも、もういない。でも、私たちの人生は、ここにある。"
この言葉を目にしたら、手に取るでしょ。この映画は、近く見に行こうと思ってます。
http://www.action-inc.co.jp/suitehabana/

家に帰って、上映してる映画館を調べたところ、同じく渋谷のユーロスペースで上映されていることを知ったんだけど、実はそのユーロスペースのHPで、『永遠のハバナ』とは別に、気になる映画をひとつ見つけてしまったんだ。
それが、"Rosas in Films"という作品群。

Rosasというのは、芸術監督であり振付家でもあるアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルを中心として、ベルギーを拠点に活動を続けるコンテンポラリー・ダンスのリーディング・カンパニーらしい。この映画のことを知るまで、おれはその存在すら知らなかった。ローザスは舞台での活動のみでなく、いくつもの映像作品を発表しているそうで、"Rosas in Films"というのは、このローザスの映像作品群7作品を一挙に公開する試みだったんだ。
そして、その中のひとつ"Counter Phrases"という作品を、今日観てきた、というわけ。ついこの間まで、まさか自分がコンテンポラリー・ダンスを観に行くことになるとは思ってなかったよ。

ただ、正確に言うと、「コンテンポラリー・ダンス」という世界に惹かれてこの作品が目に留まった、というわけじゃない。この作品を観たいと思った本当の理由は、実はダンスではなくて、音楽。この作品は、10人の作曲家による10曲のそれぞれにダンスが組み合わされるんだけど、その10人の中にSteve Reichがいたことが、最大のきっかけだった。
Steve Reichは、おれが最も好きな音楽家のひとりだからね。

"Counter Phrases"を観て思ったのは、おれにはダンスを評価する基準がない、ということ。別に評価しなくても、単純に楽しめればそれでよいのだろうけど、「ローザス」というものの価値は、正直言って、今のおれにはつかめなかった。映像作品としてのおもしろさは随所にみられたけどね。
ただ、Reichの曲に関して言うなら、掛け値なしによかった。それ以外の曲がそれほどだったこともあるけれど、8番目の作品としてReichの曲が始まった瞬間に、作品の緊張感ががらりと変わった。それまでのりこの隣で寝ていたお客さんが、このタイミングで起きたそうだから、あながちおれだけの感覚ではないんじゃないかと思う。"Dance Pattern"という曲。その後すぐにHMVで探したけれど、残念ながら見つからなかったよ。

それから、ひとつ思ったことがある。
この作品のなかには"in Silence"という、曲がなくてダンスのみのシーンが2つあるんだけど、そこがなかなか印象的で。なにかというと、ダンスという身体表現が際立つ気がしたんだ。例えば、ブレスの音がくっきりと残る。手足を振った時の、空気の切れる音や、地面を蹴る音、そういうものが浮き上がってくる。身体でつくられた音、という感じがきちんとして、「身体」ということのちからをいちばん感じたシーンだったね。

というわけで、近いうちに、もういちどユーロスペースに足を運ぼうと思ってます。
『永遠のハバナ』は、はずせない。

Saturday, April 23, 2005

すいか

今日は、たくさんの人に出会い、たくさんのことを教えてもらった。
そして、改めて思った。
ラグビーって、すごいね。

きっかけは、先輩の祐造さんが中心となって始めたクラブ、「駒場すいか畑」。女の子や子供を交えながら、皆で週末にタグラグビーをしてるクラブなんだけど、その活動に初めて参加したんだ。「すいか畑」はもう1年くらい活動してるんじゃないかと思う。おれたちが学生時代の大半の時間を過ごした駒場のグランドで、結構な人数を集めて活動の輪を広げていることは聞こえてきてたけれど、今まではなかなか参加する機会がなくて。
今日は東瀬谷中学校のラグビー部の子たちが駒場に来てくれて、30人近い人数だったんじゃないかな。その他にも、「すいか畑」のメンバーやWMM(学生時代の先輩・仲間が作り上げたクラブチーム)の選手、祐造さんの高校時代の同級生の方も来ていて、トータルではたぶん50人以上だったんじゃないかと思う。
今日まではお互いにまったく知らなかった人たちが、これだけ駒場に集まって、いっしょにグランドを走りまわる。
そのことがおれは本当にうれしかったし、なにより楽しかった。
さらに、今日うれしかったのはそれだけじゃなくて、今日の駒場には、刺激的なゲストが来てくれてたんだよね。
ひとりは、リコー主将の田沼さん。
そしてもうひとりが、プロラガーの勝野さん。
シーズン中の週末にこうして駒場に足を運んでくれた田沼さんは、やっぱり本当にラグビー好きなんだって思った。車と同じナンバーを背中に着けてジャパンで活躍する姿を、秩父宮に見に行きたいと思ってます。
勝野さんとも、少しだけど会話が出来てよかった。話している中で、小寺さんや小川さんのことが話題になったりして。ふたりは、昨シーズンまでおれがプレーしていたチームの先輩。小川さんは一線を退いてしまったけれど、小寺さんは今でもバトルしてます。ラグビーやってると、こうやって思わぬ方向から繋がっていくからおもしろいよね。

タグラグビーに話を戻すと、中学生のみんなはとても元気で、すばしっこくて、うまかった。すごくちっちゃいけれど、抜群のステップ切っちゃうやつとかもいて。でも、それ以上に驚いたのは、女の子が廻りの子と全然遜色ないプレーをしてたこと。おれのチームにもケーティさん、マーイちゃんってふたりの女の子がいたけど(ケーティさんは「女の子」って感じじゃないね)、トライも決めちゃうし、かなり活躍してました。

それから、マリエ様がいた。楽しかったから、こうして書いてるとどんどん思い出すね。「すいか畑」では、お互いの名前を呼んでもらう為に、ガムテープに自分の名前を書いて、それぞれのジャージに貼るんだけど、この子のテープには「マリエ様だ!」って、かわいい字で書いてあった。だから、マリエ様。
彼女は、女子ラグビーの日本代表を目指しているんだって。終わった後で、祐造さんから聞きました。彼女の動きはかなり速くて、トライも何度も決めてた。そこらの男より全然うまいね。実は、タグのゲームを始める前のボール遊びで、いちど彼女と組んでエクササイズをしたんだけど、全然ボールを落とさなかった。まわりは結構落としてたのに、うまいなって思ったよ。
しかも、とてもかわいい。
日本代表、なってほしいです。

うちのチームには、タクマってやつがいた。カキウチってやつとふたりで大活躍。
タクマは全ゲームが終わった後、みんなの前でこう言った。
「最初は個人だったけど、だんだんチームになってきて、うまくいくようになって、よかった。」

いろんな人がいた。サトリさんといって、川合さんの兄貴をよく知ってる、という人がいて、ひとしきり会話が弾んだ。直接会話はできなかったけれど、祐造さんの高校の後輩で、ERで働く研修医という方もいた。絵里子さんにも、久しぶりに会った。(機会があれば、今日の写真を見せてほしいです。)
こういうすべてを、祐造さんと、ラグビーボールがつないでくれた。
本当に、楽しかった。

祐造さん、ありがとうございました。
今度は赤津さん、誘わないとね。

『半島を出よ』読了

敬愛してやまない村上龍さんの最新刊『半島を出よ』、読了。

この小説を読んで改めて思ったのは、想像力/創造力というのは、ゼロから産み出されるものではないんだ、ということ。そこには圧倒的な情報と知性と経験知に裏づけられたベースが存在しているんだ、ということ。そして、想像/創造というのは、きわめて緻密な作業なんだ、ということ。

龍さんの圧倒的な取材力は、他の作家を完全に凌駕していると思う。
ほとんど信じられないほどに、想像力のベースが圧倒的だ。

小説の舞台となるのは、2011年4月。
その頃日本は国家財政の破綻によって預金封鎖が現実のものとなり、その後のインフレにより、国際社会における信用力を大幅に低下させてしまう。国際社会におけるポジションを規定するうえで、国家としての経済力がある種の前提となっていた、という当然の事実を直視しない日本は、その経済力を大幅に毀損しながらなお、国際社会における外交的戦略を修正できない。
そういう状況の中で、北朝鮮で極秘作戦が企てられる。その作戦とは、反金正日の革命軍を装った特殊部隊を福岡に潜入させ、そのまま福岡を占領するというもので、9人の特殊部隊による福岡ドームの占拠の後、後続隊が合流して、福岡は彼らの統治下に入ってしまう。
その時日本はどう対応し、北朝鮮の特殊部隊はなにを考えたのか。経済破綻の状況下でホームレスをしていたやつらはなにを思い、どう動いたのか。
そういったことが、きわめて緻密に描かれている。

本当に緻密に、繊細に描かれた小説だと思う。
緻密な作業によって初めて示されるものというのが、この小説には満ちあふれている。
たとえば、「日本」というもの。
この小説においては、北朝鮮という外部を想定することによって、強烈な鋭さで浮き彫りにされていくけれど、そこにおける緻密さが、この小説のリアリティの源泉になっているように思う。
さらに、そこで外部としておかれている「北朝鮮」に対しても、可能な限り厳密であろうとする姿勢は、本当にすごいとしか言いようがない。この小説においては北朝鮮の特殊部隊の側からの語り、というのが極めて重要な役割を担っていて、龍さんはそのことについて、あとがきの中で、「書けるわけないが、書かないと始まらない」と思いながら最後まで書いたんだ、と言っている。北朝鮮に生きた人間ではないが、最大限の取材と最大限の知性をもって、最大限の想像力で書こうとした、ってことだと思う。ここまで「当事者性」ということに厳密であろうとする作家というのは、他にちょっと思いつかない。

読んでみてください。
特に海外にいる友達に、読んでみてほしい。日本を外部にしている人たちだからね。
でも、「日本」というのはひとつの要素にすぎなくて、この小説が突きつけてくるものは他にも数多くある。誰かがブログで「当たり前のメッセージだが、当たり前のことを書ける作家は少ない」と書いていたけど、そうかもしれないね。

本当にいい小説でした。

Wednesday, April 20, 2005

アダルト

うちのパートナーは、某企業で需給管理事務の仕事をしてるんだけど、困ったことになってるみたい。

Googleが限定的に提供しているGmailというWebメールのサービスがあって、彼女はこのアカウントを持ってるんだけど、今日のお昼に会社からメールチェックしようとしたら、アクセス制御がされてたらしい。Gmailのアカウントを作成して使い始めてから、まだ1週間くらいかな。当初は使えたみたいだから、おそらく彼女のアクセスログがチェックにひっかかったんじゃないかと思う。
YahooやHotmailといったWebメールはもともと使えなかったらしい。ということは、Gmailはまだ利用者がそれほど多くないので、おそらくその会社で最初に使い出してしまったのが、不幸にも彼女だったのかな、と。
ちなみに、このブログもアクセス制御にひっかかってるみたい。アドレスを教えてからは(当初しばらくは恥ずかしくて、教えてなかった)、会社の空き時間にたまに目を通していたらしく、普通にアクセスできていたらしいんだけど、何日後かに、いつものようにブックマークをたどっていったら、エラーメッセージが出たんだって。

「このサイトへのアクセスは、管理者により制限されています。(ジャンル:アダルト)」

アダルトって、なんだよ。
このブログのどこがアダルトなのか、まったく分からない。
でも、それ以上に困ったことは、会社側からみると、彼女には「アダルトサイトへのアクセス履歴:1」ってなっちゃってることです。
これは、考えてみるとけっこう恥ずかしいよね。
Gmailのこともあるので、どうやらうちのパートナーは、完全にブラックリスト入りみたいです。

それにしても、こういうことはおれが勤めてる会社にはないので、けっこう驚いた。もちろんアクセスログは取ってるはずだし、管理も厳格にされてると思うけれど、どちらかと言うと、情報へのアクセスを高めることによる生産性の向上、というメリットの方に重きが置かれているような気がするので。
Webメールを制限するのは、ウィルスやスパムメールをフィルタリングできないからかな。社内のメールサーバーであれば、明らかに怪しいものはそこでフィルタリングできるけれど、ブラウザから入られるとチェックが行き届かない、ってことなんだろうか。まあ、詳しい仕組みが分からないのでなんとも言えないけれど、そんな推測をしてみると、理解できるところもある。
でも、このブログが制限されるのは、ちょっと理解できないというか、そんなことしちゃうんだ、って感じです。

まあ、いいけどさ。

策3つ

今日もいい言葉に出会いました。
「策には三策あり」

メールマガジンでひろった言葉なので、誰のものかは分からないけれど、ある企業経営者のことばらしく、そのひとはこうも言っていたんだって。
「『万策つきた」という人がいるが、実は万策でなく、単に一策の計画のみの場合が多い」

さらに、3つもの策も考えるのはとてもできない、という人には、こう返したとか。
「ピクニックに行く時には、天気の場合、雨の場合、空模様の怪しい場合、それぞれの支度を考えるでしょう。どうして、そうしないのですか」

営業という仕事でなかなか結果が出ていない中で、改めて自分のゆるさを痛感する言葉だった。
前にも書いたけど、営業に限らず「戦略を考え抜く」っていうのはとても重要なことだと思う。そこで今度は「考え方」だよね。
三策考える、というのは、つまりは複数の前提をおく、ってことだと思う。もちろん、ひとつの前提から導き出される結論だってひとつということはなくて、例えばピクニックの日が雨だとしたら、合羽を持っていくとか、行く場所を変えるとか、そもそも行かないとか、いろんな選択肢があるはず。でも、そもそも雨が降らない、ってケースをきちんと考えておく、ってのがポイントなのかなって。
これは、意外と出来ないことだと思う。

なぜ出来ないかを考えたとき、ふたつのポイントがあるような気がする。
ひとつは、希望的観測が入り込むこと。
営業で考えてみるとよく分かる。
経費削減効果のあるものは買ってくれる。製品の機能が優れていれば評価してくれる。こういうのって、そうあってほしい、という希望にすぎないことが往々にしてある。例えば、向こう5年間で3億の経費削減効果があっても、直近の1年を乗り切る為には、5千万の投資を躊躇せざるを得ないかもしれない。いくら製品機能が優れていても、それがお客様にとってのメリットにならなければ意味をなさないのは当然のことだよね。これほど単純でないにしても、同じ構造はいろんなところに蔓延していて、かなり意図的に、自覚的であろうとしないと、すっと心に忍び込んでくるような気がする。
もうひとつは、「前提」というものを固定的に考えがちだということ。
いちど置いた前提というものが、日々変化していることを、つい忘れてしまう。例えばスポーツだったら、それぞれのシーズンでチームの戦力はまったく違う。メンバーの人数、基本スキルのレベル、経験、どれをとっても、前のシーズンとまったく同じということはないと思う。それに、相手チームの状況だって違うはずだし、もっと言えば、チーム運営の予算が変わってたり、さらにはルールが変わってることだってある。それなのに、同じやり方を続けてしまうことって、スポーツには実はよくある。それが「伝統」という言葉のもとに賛美されることが時にあるけど、本当の「伝統」というのは、変えないことじゃない。むしろ、前提が変化している中でもなにかを保ち続ける為に、必要な変化を受け入れること。これこそが「伝統」というものだと思う。

たぶん前提、というのは、あるタイミングとシチュエーションでの前提なんだ。
週間天気予報なんて、全然あたらないんだから。

Sunday, April 17, 2005

ちなみに、

東京都美術館の「アール・デコ展」だけど、かなり良かったです。
http://www.tobikan.jp/museum/art_deco.html

ひときわ良いなって思ったのは、ジャック=エミール・リュールマンというひとの作品。《化粧台「蓮」》と《蜘蛛のテーブル》のふたつは、抜群に良かった。無駄がなくて、すっきりしていて、洗練されているけれど、気取っていなくて。それから、カルティエの作品がいくつかあるんだけど、エジプト風のヴァニティケースをみて、センスが飛び抜けてると思った。考えてみれば当たり前のことだけど、ただ宝石使ってるってだけじゃないね。

正直

気持ちがまとまらない。
本当は、今日行ってきた上野の「アール・デコ展」のことでも書きたいんだけどね。

週末は、いろんなことがあった。
まず土曜日、高校時代のラグビー部の仲間と久しぶりに飲んだ。同期が4人と、後輩が2人。2人の後輩に会ったのは、卒業してから初めてで、すごくなつかしい顔ぶれだった。
ひとりは、実はすぐ近くに住んでることが分かった。会社こそ違うけれど、おれと同じく営業をしてるって。東京はもういいかな、って感じになってきてて、いずれは実家に帰ろうと思う、って言ってた。
営業では、ノルマはきちんとクリアしてるって。すごいことだよね。
おれは、すごいと思うよ。
もうひとりの後輩は、中野近辺でフリーターしてるって。(ごめんな、勝手に書いちゃって。)他のやつがどう思ってるかは知らないけれど、おれが久しぶりに会って思ったのは、元気そうじゃん、ってこと。もう3年、って言ってたけど、きっとこの3年間というのは、結局のところ自分で決めたことだと思うし、これからのことだって、きっと自分で決めていくんだと思うんだ。自分の判断で、自分の責任で、進んでいくことだから、誰に文句を言われる筋合いもないとおれは思うよ。とにかく、元気そうでよかった。また呑みにいこう。

それから、日曜。考えさせられることがふたつあった。
ちょっとここには書かないけれど。
ちなみに、藤井には悪いことしました。東京に帰って来たときには、詫びを入れさせてもらいます。

今こうして書いていて、改めて思うけれど、自分に正直に生きよう、って。
その為には、自分にとっての「正直」がどこにあるのか、というのを見失わないことだと思う。自分にとっての「正直」って、案外分からないからね。

このブログは、自分の正直の場にしたいと思ってます。

Thursday, April 14, 2005

たまねぎ

会社帰り、最寄り駅に着いたところで携帯が鳴ったんだけどね。

「ねえ、玉葱とセロリ買って来て。」
「いいよ。」
「玉葱はタイ産じゃなくて、国産のやつにしてね。」
「・・・・・・なんで?」
「え?農薬がすごいから。」
「・・・・・・じゃあ、タイ以外だったらいいの?」
「だから、国産にしてって言ってるでしょ。」
「・・・・・・了解。」
「・・・・・・もういいよ、買ってこなくて。」

って、こんなつまらないことで食い違っちゃう。なんてくだらないんだろう、って自分でも思うんだけど。
なにかを頼まれた時に、とにかくひとこと言いたいみたい。黙って国産買って帰ればいいのに、じゃあシンガポールならいいのか、とかエクアドルだったら、とか言い出しちゃって。(まあ、エクアドルの玉葱なんて聞いたことないけれど。)
だいたい、あれこれ言ったところで、日常のちょっとした自分の傾向とか、張る必要のまったくない意地とか、そういうものすら制御できないんだよね。

結局スーパーの玉葱は売り切れちゃってて、コンビニに寄ったら「北海道産」しか置いてないんだから、ほんと世話ないです。

善悪の先

ランディさんのブログはいつも読んでるけど、今日のコメントにはとても惹かれた。
『中道』
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000826.html

なにかにつけて、善悪で判断しようとする態度というのは、ちょっと違うと思う。
お互いの立っている地点が違う、というただそれだけの事実に、善悪はないような気がする。
ランディさんが先日のトークショーの中で語っていた「当事者性」というのは、このことに繋がっていくのかもしれない。歴史認識であれ、社会的弱者の問題であれ、もっと下世話な身の上話であれ、構造は同じことで、自分にはどうしたって「当事者」として立つことのできない地平、というのが存在するのは厳然たる事実。その事実をきちんと受け入れ、そのことを認める生き方をする、ということなんだと思う。それは、どうしようもなく事実であって、そしてそのこと自体に善も悪もないのだから。

なぜ彼らの苦しみや怒りが分からないの?
なぜ弱者であり被害者である彼らに共感できないの?

例えばこう問われた時に、やっぱりどこかで思ってしまう。
想像することは出来るけれど、本当の意味での共感は出来ないんじゃないか、って。
もちろん事実を知ろうとすることは大切だと思うし、事実から目を背けようとするのは、決していいことではないと思うけれど、その結果として「理解」や「共感」を強要されるのは、とても怖いことだと思うんだ。

事実にきちんと目を向ける。でも、その先はあくまで自分自身が持ちうる「当事者性」という位置からしか判断できない。
この厳然たる事実を、きちんと事実として認めた上で、そこから様々な立場へと思いをめぐらせていくこと。
中道って、そういうことなのかなって。
ちょっと抽象的になっちゃったね。

最後に、おれが心をうたれたコラムをもうひとつだけ。
同じくランディさんのブログからです。
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000629.html

Tuesday, April 12, 2005

想像力のベース

昨日の続きなんだけど、思うことがある。
それは、戦略を練り込むためには、想像力が必要だということ。
でも、もうひとつ重要なのは、想像力を働かせる為にはベースとなるものが必要なんじゃないか、ということ。

想像力、というとき、往々にして自由な発想力、というふうに考えがちだけど、ちょっと違うのかなって。なにもないところから、自由に、思いのままに絵を描いていくような、そういうものをすぐに想定してしまうけど、本当はもっと緻密なものなんじゃないかって、最近そんな感じがしてるんだ。
例えば、ビジネスの世界を考えてみる。
先輩の祐造さんがやってる、スポーツ映像分析ソフトの開発。勝手な解釈かもしれないけれど、このビジネスを産み出した祐造さんの想像力は、祐造さん自身の経験知というベースが存在して初めて生まれたものなんじゃないか。学生時代に、自分自身が相手チームのビデオ映像を分析する過程で感じた不都合や非効率。それよりもなによりも「試合に勝つ為に、相手のこと、そして自分自身のことを客観的に分析したい」という思いが誰にであるんだということを、経験的に知っていること。それこそが決定的に重要だったんじゃないかって、そう思うんだよね。これは、大きく捉えれば、肌の感じ。皮膚感覚まで落とし込まれた知。
それから、もうひとつある。それは、いわゆる情報。例えば、Excelの基本的な機能であったり、関数を利用すればどういうことが出来るのか、ということについて知っていること。それがあって初めて、Excelのある機能を応用することで、まったく新しいソフトウェアが開発できるんじゃないか、という可能性がひらけるんじゃないかと。あるいは、他のスポーツ界において現在どのような映像分析手法が採られているかを知っていること(あるいは人に聞いたり、調べたりして学ぶこと)。そのことによって初めて、開発したソフトにどのような機能があれば便利になるのか、ということに想像が向かっていけるんじゃないか。
身近な先輩をみていても、そう感じるんだ。(勝手な想像だけど)
祐造さんのことをおれがすごいなって思うのは、ソフトを開発してしまう想像力だけではなくて、その想像力のベースの圧倒的な広さでもあるんだ。自分の経験のひとつひとつを、確実に自分の知にしていく姿勢であったり、土台となる知識や情報をいろいろなところから引っ張りだそうとするところ、そして実際に引っ張りだしちゃうところなんです。

きっとこれこそが、「想像力のベース」なんだよ。

ここから、自分の今の状況を考えてみる。
昨日書いたとおり、ビジネスの世界でも、戦略を練らないと、勝てない。
せっかく営業してるんだから、なんとか売れる方法を考えて、それに全力で取り組まないといけない。
でも、戦略を練るには「想像力のベース」が必要なんだ。
それはつまり、経験知と、情報。このふたつが、今のおれには圧倒的に足りません。
だから、おれの今の戦略というのは、徹底的に情報に貪欲になる、ということになるんだ。

勉強しなきゃ。このままじゃ、やばいよ。

Monday, April 11, 2005

負け癖

おれは某金融機関様をお客様として営業をしているんだけど、最近改めて思ったことがある。
それは、負け癖がついてしまっている、ということ。

そのことに気づいたのは、土曜日に1ヶ月振りくらいでラグビーをしたのがきっかけ。
練習を終えて、大学時代の同期といっしょに帰路についてる時に、仕事の話になって、ふと思ったんだ。
東大ラグビー部の頃と、状況がそっくりじゃないかって。
おれたちが現役だった当時、東大ラグビー部は1部の最下位という位置にいて、上位校相手に1勝することを目標に日々練習してた。練習は真剣だったし、皆が一生懸命だったけれど、入部以来3年間にわたって、東大はいちども勝てなかった。もちろん、1部の上位校といえば、有力校から素質あるタレントが推薦で集まった強豪ばかりで、才能や経験の差は圧倒的なものがあったということは確かだけれど、それにしても、負け続けていた。
勝ちたかったと思う。誰だって、負け続けるのは嫌だ。
でも、勝てなかった。
その頃のおれは、そのチームで公式戦に出ることも出来ず、Bチームでプレーしていた。3年になってようやくゲームに出られるようになったけれど、それまではAチームは遠い存在だと思ってた。
なにが言いたいかというと、そういう状況の中で、おれは負け癖をつけてしまっていたんだ。

負け癖というのは、負けを正当化しようとすること。
負けたことに対して、もっともな理由をつけようとする。
持って生まれたもともとの運動能力が違う。花園でやってきたやつらとは経験値が圧倒的に違う。グランドだったり、ウェイトルームだったり、専属コーチだったり、そういった環境が違う。例えばそういったことに、負けの理由を求めようとする。

そのことを気づかせてくれたのは、おれが大学2年の頃から東大の指導にあたってくれたコーチの水上さん。
水上さんは、東大ラグビー部に深く根付いてしまっていた「負けの文化」を、根底から覆していってくれた。
水上さんは、教えてくれた。
才能がないことも、経験で劣ることも、すべて前提。理由じゃないはずだ、って。

才能がなくても、経験で圧倒的に劣っても、それでも本気で勝ちたいのなら、その差を埋める方法を徹底的につきつめるべきなんだ。環境が整備されていないのであれば、変えようと働きかけることは当然だけど、同時にその環境下で出来る最大限のことが何なのかを考え抜いて、それを実行するべきなんだ。それはひとことで言うなら、戦略を練り込む、ということだと思う。

例えば、ラグビーだったら。
身体の小さい人間は、コンタクトプレーでの消耗度が圧倒的に大きい。でも、ラグビーにおいてコンタクトプレーは避けて通れないので、小さくても確実に止められるタックルを徹底的に練習する。でも、それと同時に、そもそもコンタクトプレーの頻度を可能な限り少なくできないかと考えていく。ディフェンスでのコンタクトは、避けられない。もちろん、ディフェンス場面自体を減らすことが出来ればいいのだけれど、格下のチームが考える方向性じゃない。だからこそ、考える。アタックでのコンタクトをなるべく減らせないか。そのひとつが、キックを有効活用すること。もうひとつは、BKがロングゲインを狙うこと。
ハイパントという戦術の最大のメリットは、この点にこそあると思う。FWをまったくコンタクトさせずに前進させることが出来る。もちろん、キックをすることで、いちどボールをイーブンの状態にしてしまうデメリットはある。確かに、現代のラグビーではPossesion(ボールの保持)が最も優先されていて、ボールを持ち続ければ失点しない、という原則でどのチームも動いている。でも、コンタクトに劣るチームが同じ戦略を取っても、おそらく80分間にわたって、ポゼッションは維持できない。むしろ、ミスによるターンオーバーのリスクが増えるかもしれない。だから、ハイパント。その代わり、キックの落としどころ、チェイスのコース取り、落下地点でのタックルを徹底的に練習する。つまり、イーブンボールの獲得率を上げることで、リスクを減らしていく、ということ。
BKのロングゲイン、というのも同じ。難しいのは最初から分かってる。でも、特に1次攻撃でロングゲインできれば、FWに圧倒的に有利な状況を作れる。さらに、トライまでの継続回数を極力少なくすることで、ミスのリスクを最小に出来る。でも、問題はそこから先。どうやってロングゲインを狙うか。
ロングゲインのポイントは、BKのディフェンスラインを越えた後、FLの網に引っ掛からないこと。その為には、相手FLが届かないコースを走る必要がある。つまり、FLから遠いところを抜く。でも、スピードがない選手は、外で抜けない。カットインすれば、それだけFLに近づく。だから、そのぎりぎりのところを狙うことになる。それは、カットインした時のコースがちょうどまっすぐになるような、そんなカットイン。
これは、ひとりじゃできない。パスをする選手とのコンビネーションが絶対に必要になる。でも、試合で自分の隣にいる選手はいつも同じというわけじゃない。だからこそ、チームとして方針を決めて、皆がカットインの場面になった時に、同じ動きを想像できるように練習を組み立てていく。
こういうことが、つまりは戦略なんだと思う。
もちろん、戦略だけじゃ勝てない。それをグランドでパフォーマンスできなければ、意味がない。でも、戦略を本当の意味で考え抜き、それに自信を持って取り組むことができれば、それはきっとパフォーマンスにつながるはずだし、それは勝負におけるスタート地点だと思う。

水上さんは、東大の負けの歴史を、決して素質や経験のせいにしなかった。
東大が勝てなかったのは、それを前提にした戦略をつきつめ、そのプランを自信を持ってグランドで体現する覚悟がなかったからだ。そのことを、全身全霊を込めて、教えてくれた。

そして翻って、ビジネスの世界を考えた時に、おれが抱えている問題はこれとまったく同じなんだ。
なかなか売れない状況が続くなかで、チームの皆が言い訳を探す。
例えば、厳しい経済環境。あるいは、お客様とのカルチャーの違い。それ以外にも、周囲のメンバーの動きの悪さであったり、製品の価格競争力であったり、負けの正当化に使われるものは、そこらじゅうに転がっている。
でもさ、ここで立ち返らなきゃいけない。
おれは、本当に戦略をつきつめたのか、って。
依然として経済環境に厳しさがあることも、カルチャーの違いも、すべては前提。例えば自分の会社の製品よりもはるかに低価格で勝負してくるコンペがいるとする。それも、前提。大切なのは、そういう前提の中で、取りうる戦略はなにか、ってことなんだ。それを皆で話しあって、考え抜いて、自信を持てるまで練り込んで、行動に落とし込むべきなんだ。そんなこと、学生時代に水上さんが教えてくれていたはずなのに、今頃になって改めて思い知らされるんだね。

ほんと、まだまだです。

Sunday, April 10, 2005

無題

今日はあまり書くことがない。
1)久しぶりに駒場に行ってラグビーしたけど、ここまで走れなくなってるとは思わなかった。
2)トラックバックというものを使ってみようとしたけれど、文字化けしてしまって、うまくできなかった。
3)隅田公園でお花見をした。

Friday, April 08, 2005

きわどさ

「PEEP "TV" SHOW」という映画を観て思ったんだけど、おれにはけっこうきわどいところがあるかもしれない。
きわどい、というのは、自分にとってのリアルにぶれが生じるような感覚、というか。
そういう感じは実は初めてだったので、自分ののなかにその「きわどさ」をきちんと落とし込めていないけれど。

この映画のことを知ったのは、ランディさんのブログがきっかけ。
http://blog.ameba.jp/randy/
実は上映後にランディさんのトークイベントがあって、すごく楽しみにしてたんだ。

ランディさんが語ったのは、「当事者性」ということ。
精神病だったり、リストカットだったり、9.11だったり、この世界には数えきれないほどの困難や、問題や、苦しみや、悲劇や、そういったことが存在するなかで、その場にいない人間は結局のところ「当事者」になりえない、ということ。あくまで「傍にいる」あるいは「外から見ている」という意味での当事者性しか持ち得ない、ということ。そして、結局のところ当事者ではない、というその事実から生まれる罪悪感。
ランディさんは、それがまさに「人間」ってことなんだと、そう言ってました。

高校生の頃、おれもそんなことをよく考えてた。
おれが育つ過程においては、家族の不幸もなく、両親の離婚もなく、リストカットの衝動も、鬱状態も、陰湿ないじめ体験も、なんにもなかったんだけど、そのことに対する恥ずかしさというか、自分がなにも当事者として経験していない、ということの罪悪感があって。
ランディさんは、そういう当事者性しか持ち得ない、ということは、善悪の問題ではなくて、ただそうだというだけだ、って。
その言葉は正しいと思ったし、そのことをきちんと言うランディさんは素敵だと思う。
でもね、当事者性は持ち得なくても、想像することは出来ると思うんだ。
おれが自分に対して恥ずかしさを感じてたのは、「当事者性」ということに対する想像力が足りてない、って感覚だったんじゃないかって。
だってさ、別のなにかを対象にすれば、まさに自分自身が当事者たること、というのが必ずあるはずなんだ。そこから「当事者性」ということを考える、というのがまさに知性だと思うし、それこそが想像力のベースだと思うから。

そして、「想像力」ということについては、今もやっぱり、感じてます。
当事者性を持たない世界に対して、自分の持ちうる当事者性の立場からではなく、自分の持ち得る「当事者性」ということそのものから考える、ということ。うまく書けないんだけど、それが想像力のベースなのかな、って思ってます。

Wednesday, April 06, 2005

スラムダンク

ずっと楽しみにしてたものが、今日ようやく届きました。
"SWITCH" FEBRUARY 2005 VOL.23 NO.2
スラムダンク、あれから10日後ー

『スラムダンク』1億冊突破への感謝を込めて、作者の井上雄彦さんが旧神奈川県立三崎高校の黒板に描いた『スラムダンク』最終話から10日後の世界。たった3日間だけ公開され、おれがその存在を知った時には既に井上さん自らの手によって黒板消しで消されてしまっていたそのプロジェクトを感じる、ひとつのきっかけ。
インターネットで"SWITCH"を見つけた瞬間のよろこびは、半端じゃなかったよ。

プロジェクトでは、廃校になった三崎高校の23枚の黒板に、10日後の『スラムダンク』が描かれたんだって。”SWITCH"でみることが出来るのはその一部で、残念ながら全てをみることは出来ないけれど、晴子ちゃんに始まって宮城や、三井や、赤木や、そういったキャラクターの姿を目にすることができたのは、やっぱりうれしかった。最後の花道の3コマなんて、本当に抜群だったよ。

でね、このプロジェクトのことで、心に残ったことがあるんだ。
それは、井上さんが黒板に書いた、ということ。
そして、3日後には自らの手で、1コマずつ作品を消していった、ということ。

この時期に廃校と出会ったのは、井上さんの持っている力だと思う。「高校生」という時期の、最高の瞬間を描いた作品の”それから”を描くうえで、これ以上の場所はないような気がする。本当に、自分の目で直接みたかった。
そして最終日、校内放送でイベント終了の放送が流された後で、井上さんが最初の教室から順に、作品を消していったということ。
心の中におそらくずっと大切におかれていた作品の、その後のたとえ1コマでも、残しておきたいと思う気持ちがあってもいいはずなのに、むしろ消すことによって、心の中の置き場所が決まっていくような、勝手ながらそんな印象を抱いた。井上さんの本当のところはおれには分からないけれど、黒板消しで丁寧に消されていったことが、余計に『スラムダンク』の魅力が色あせない、という思いを強くさせているような気がしています。

『スラムダンク』本当に大好きだった。

Monday, April 04, 2005

寛次郎

1日遅れになっちゃったけど、昨日の『日曜美術館』で見た、河合寛次郎。
魅力的なひとでした。

若くして「陶界の一角に突如現れた彗星」と呼ばれながら、33歳にして己の作風に疑問を感じる。
寛次郎は想う。結局は先達の模倣ではないか、と。
その後、3年の時を経て彼はそれまでとは別の地平に辿り着く。それは日々の生活から切り離されるのではなく、生活の中に深く根を張った美で、それこそが「民藝」と呼ばれる世界。
寛次郎は、豊富な言葉を持った人でもあり、民藝をしてこう表現する。

世界にはふたつあるのだと知った。
ひとつは、美を追いかける世界。
もうひとつは、美が追いかける世界。即ち、工芸の世界。

『日曜美術館』で紹介されたその後の寛次郎の作品は、素晴らしいものばかりだったよ。泥刷毛目皿や、三色打薬壷と呼ばれる赤・黒・緑の3色の釉を打ち付けて造られた壷は、うまく言葉に出来ないけれど、泥の匂いと同時に、どこかスマートな部分を併せ持っていて、おれの心に鮮明なイメージを焼き付けていきました。

番組のサブタイトルにもなった寛次郎の言葉も、おれの心にしっかりと残ってます。

「新しい自分を見たいのだ。」

作品の素材とした泥や金属や、そういった全ての中に「新しい自分」が詰まっている。そして、そうした「新しい自分」たちは、早くここから出してくれ、といつも執拗に問いかけてくる。だから私は、そいつらを外に出してやりたいんだ。

寛次郎は、そう考えてたんだって。

いわちん、ここに宝石探して歩いてる先輩がいたよ。

Sunday, April 03, 2005

仲間想い ~スギさん、おめでとう。

スギさんの結婚パーティ、すごかったな。
あの人数の多さにも驚いたけど、とにかく神さんと櫻井さんの企画力がすごくて。
大抵2次会って途中でだれちゃうけど、昨日は全然そういう時間がなかった。氣志團~ケツメイシ~マツケンサンバと続いたダンスナイトは相当なものでした。東大ラグビー部も芸人魂はかなりのものだと思うけど、昨日はちょっと感動しちゃうような代物だったね。
神さんと櫻井さんは、仲間想いだなーって、思った。
勝手な想像だけど、たぶん、スギさんの奥さんはすごく嬉しかったと思う。だって、昨日のパーティ見てたら、スギさんがいい友達に囲まれてるってことが、本当によく分かるから。

スギさん、ご結婚おめでとうございます。


櫻井さんは、おれの友達ではヤマシタにちょっと似てるかもしれない。
ヤマシタは自分の主張がはっきりしていて、言いたいことをはっきり言うタイプ。我が強すぎて周囲とぶつかることも多いけど、すごく仲間想いで、自分にとって一番大切なものは「仲間」だって、本心で言い切れるやつ。最近ヤマシタのそういうところが、なんかおれの心に響きかけてきてて、たまに会うといつも刺激を受けるんだよね。
櫻井さんにも、入部した時から同じような思いを持ってて。櫻井さんは、やっぱり仲間想いだと思うよ。プライドを持ってる人だから、ぶつかることもあるし、自分勝手なとこもある人なのかも知れないけどさー、やっぱりいい先輩だと思う。おれにはないものを、持ってる人だからね。

今年はフルシーズン、走りまくってほしいです。