Wednesday, May 04, 2005

尼崎の事故に思う

尼崎の悲惨な事故をきっかけとして、JR西日本の企業体質がクローズアップされている。

ここ数日のニュースをみても、問題とされる対応は幾つもある。例えば、事故直後の、原因が不明確な段階で置き石説に言及したこと。その後の事故調査委員会の現場検証の結果、粉砕痕は跳ね上がったバラスト(敷石)によるものであることが判明し、置き石の可能性は事実上消滅した。あるいは、直前の伊丹駅でのオーバーランに関して、実際には40mのところを8mと虚偽報告していたこと。脱線の可能性がある速度として当初言及していた「130km/h以上」という数字も、実際には乗客がゼロの場合の理論値に過ぎなかったこと。組織防衛が優先されたと思うしかないような対応は、枚挙にいとまがない。
そうした状況のなかで、また新たな事実が浮かび上がってきた。
ひとつは、脱線した快速電車に通勤途中のJR西日本の運転士2名が乗車していたにも関わらず、救助活動をせずにそのまま出勤していたということ。そしてもうひとつは、事故を起こした快速電車の車掌に対して、JR西日本が「スピードの出し過ぎを感じなかった」という報告を強要していた疑いのあることが分かった、ということ。

企業って、何の為にあるのだろう。
107名もの命が失われたというのに、なお組織防衛と隠蔽に動くJR西日本の体質は、ほとんど信じられない。きっと現場には、被害者や家族の方を目の前にして、心の底から謝罪し、振り絞れる限りの誠意をもって対応しようとしている人間がいることだと思う。被害に遭われた方や、その関係者の方の悲痛は計り知れない。ある朝、なんの前触れもなく、友や家族がいなくなる。JR西日本の経営陣にだって、もし自分の家族や親友が乗っていたら、というくらいの想像力はあるだろう。もう戻ってこない107の命。その厳然たる事実の重みに、なによりもまず向き合おうとする、というのが当然の態度だったと思う。
正直にいって、こういうのは、本当にむなしい。

JR西日本のこうした隠蔽体質、あるいは組織防衛に走ろうとする姿勢というのは、ひとことで言うなら、サービスカンパニーという認識がない、ということだと思う。JR西日本は、お客様に「速くて快適な移動」というサービスを提供するサービスカンパニーのはずだ。サービスを売る企業は、サービスを享受いただくお客様の側に、絶対に顔を向ける。お客様は満足が得られるからこそサービスを買うのであって、どうすれば満足していただけるか、という問いに対する答えは、お客様の中にしかないからだ。JR西日本が、被害者や家族の方よりも先に、自社の存続に目を向けたという事実がまさに、彼らがサービスカンパニーたりえないということを示しているのだと思う。

でも、なぜだろう。
ひとつには、競争しなくてよかった、という事実があるかもしれない。鉄道業界というのは、基本的に外資の参入がない。外資参入の是非は置いておくとして、そのことが意味するのは、日本という範囲でのみ競争すればよい、という事実。さらに、例えば小売業や製造業と比較して、新規参入が極めて難しい、ということも言えると思う。阪急との競争激化と言われるが、他業界の熾烈な競争とは比較にならないと思う。この点は、放送業界と似ているよね。こういう業界は、自分たちが「なにに」守られているのか、ということに余程自覚的でない限り、組織としての新陳代謝が遅れ、旧態依然の風土が残りやすいのではないかと思う。例えば、「日本語」という言語に守られてCNNやBBCと競争せずに済み、放送免許の存在によって新規参入による新陳代謝から守られているフジテレビは、まさにこの問題を露呈していたんじゃないか。まあ、このあたりは龍さんの影響受け過ぎだけどね。

遅ればせながら規制緩和がようやく進んで、まさに外資との熾烈な競争を繰り広げている金融業界と比較すると、その違いは際立ってみえるかもしれないね。