久しぶりの更新。しばらくネットのない生活だったからね。
GWの連休を利用して、実はちょっとした旅行に行ってきた。
行き先は、高野山。5日の午前中に到着し、まずは金剛峯寺を訪ねる。そこから一の橋を越えて参拝道を歩き、弘法大師が現身のまま御入定されたといわれる奥の院へと足を運ぶ。その後は、蓮花定院という宿坊にて一泊するという流れで、全体としてなかなか思うところ多い旅行になった。
高野山を訪ねるのは、実は初めて。ふたりでお寺や神社に行くことはたまにあり、靖国神社の御朱印帳を持参しては、各地の朱印を集めているのだけれど、個人的に仏教や神道への関心が強いわけではなくて。このタイミングで高野山を訪ねることになったのも、自分の強い意志というよりは、そういう誘いがあったから、というのが正直なところだ。
でも、実際に行ってみると、とても刺激的でよいものだった。
まずは金剛峯寺の建築物としての魅力。鶯張りの廊下、四季を描いた襖絵、見事に装飾を施された欄間、岩を並べて雌雄の龍に見立てた石庭。観るべきところは非常に多く、単純に素晴らしかった。建築物としての価値というのは、門外漢のおれにはよく分からない。でも、1,200年近くも前に作られた建築物が今もこうして現代人の心に響くというのは、本当にすごいことだと思う。
ひととおり金剛峯寺を見学し、本尊に手を合わせると、奥の院へと続く参拝道を歩きはじめる。参拝道の両岸には多くの宿坊寺院がみられるのだけれど、その数は50近いとのこと。金剛峯寺というものの裾野の広さというか、弘法大師の教えの伝播力がいかに大きなものだったかというのがよく分かる。そんなことを考えながら、左右をきょろきょろしながら歩みを進めていくと、一の橋を越えて奥の院墓地へと入っていく。この墓地がまたすごい。恥ずかしながら訪ねるまで知らなかったのだけれど、ここには織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人のお墓があるだけでなく、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、親鸞上人、石田三成のお墓もある。さらには、多くの企業が物故者を祀るお墓を持っているし、太平洋戦争で亡くなった戦闘員や現地の人間を祀るお墓もある。挙げていけばきりがないけれど、それほどの数の人々が、弘法大師のもとで祀られているという事実は、けっこうなものだよね。髪の毛1本、爪の1枚でも高野山に埋めることによって、死後そこが魂の還る処となる、と伝えられているのだと、この日泊まった宿坊で教えてもらった。多くの戦国武将が、弘法大師のもとに還るべく、高野山に分骨したということは、とりもなおさず、弘法大師の存在とその教えが、日本においてどれほど魂の救済に寄与してきたのかを物語っているのだと思う。
奥の院墓地を進んでいって、中の橋という橋を越える。すると、いちばん奥にあるのが弘法大師御廟。ここで弘法大師は即身成仏となったらしい。即身成仏となったとされる空間には、奥の白壁に弘法大師の影が映り遺っているとされている。雑念ばかりで修行の足りないおれには到底見えるべくもないけれど、ある域に到達した人間には見えるのかもしれない、という異様な雰囲気が漂っている。いや、「異様」という言葉は正確ではないかもしれない。厳かな、というほうが近いかもしれないね。灯籠の橙色と数え切れないほどの小さな仏像に囲まれた独特の空間。仏教に興味のない人であっても、あそこはいちど訪れる価値があると思う。
ひととおり高野山金剛峯寺を廻った後は、この日の宿である蓮花定院にて夕刻のお勤めに参加し、精進料理を食べる。
宿坊に泊まるのも実は初めてだ。蓮花定院では、夕刻と翌朝にお勤めがある。夕刻のお勤めでは、最初に5分ほどお経を読み上げた後、そのまま何の前触れもなく瞑想に入る。瞑想の時間は実は決まっていないそうで、後で聞いた話では、お勤めをしている修行僧が少しでも仏に近づいたような感覚を持てたのであれば、そこで終わりにするらしい。この日は結局、40分近く瞑想をしていた。このアバウトな感覚もすごいと思うけれど、時間を決めずに40分間瞑想する、というのは、やってみるとなかなかに大変だ。おれはまず、最初の5分で足が痛くて正座を崩した。まあ、正座は必須ではないので、これはよしとしておく。その後、さらに5分ほど経った頃には「いつまでやるんだろう」という疑念ばかりになる。20分を過ぎた後は、胡座にも関わらず足が痛くなり、さらに睡魔も襲ってきて、身体が左右に揺れてしまう。(自分の名誉の為に書いておくと、決して寝てはいないけれど。)最終的には、「早く終わってくれ」という祈りすら生まれてきて、「仏を感じる」瞬間などあったものじゃない。ほんと、ひどいもんです。雑念ばかりの自分を省みて、改めて3人の修行僧に脱帽。
精進料理も、きちんと食べたのは初めてかもしれない。少なくとも記憶にはないね。蓮花定院のものは、思った以上に量があって驚いた。山菜や香の物は普段好んで食べるものではないけれど、抜群に美味しかった。それから、高野豆腐ね。他にも天麩羅あり、胡麻豆腐ありで、全体としてかなり満足できるものだった。
食事の時に、隣のおっさんが住職のお母さんに質問をしていた。
「空海さんに相当するような坊さんというと、誰がいるんですか」
住職のお母さんは、「比較はできないけれど、ああいう人は他にはいないし、もう出てこないだろう」と返し、おっさんは空海の凄さを知った満足を浮かべて広間を去っていった。
おれは思うのだけれど、空海のような坊さんが今後現れることはないだろうし、現れる必要もない。当時と今では時代が違う。当時はきっと、魂の救済という装置が必要だったんだと思う。農作物の出来に依存せざるを得ない庶民の生活。収穫のかなりの部分を国に納め、生活は苦しかったはずだ。医療も発達していない。日々を生きることが決して楽でない時代。そうしたなかでも、生きる。こういう時代において、おそらく誰もが同じ思いを抱くんじゃないか。例えば、生きたその先になにがあるのか。「生きる意味」であったり、「死後の魂のゆくえ」であったり、そうしたものへの問いかけというのは、きっと広く共有されていたのだと思う。そこに差し伸べられた最も尊い救済こそが、弘法大師様だったのかもしれない。
今は、違う。万人への救い、というのは最初から成立しない。産業の発達、医療の進歩によって実現された豊かな生活。そうした状況下にあって、生き続ける、ということはある程度まで容易になってきている。(実際に容易だとは思ってないけれど。)そして自由主義のもと、自分の人生は自分で選び取る時代になった。価値観は多様だ。だから、100人いれば、100の救済がなければいけない。現代に空海が現れない、っていうのはそういうことだ。
でも、だからと言って空海の凄さはまったく変わらない。本当に偉大な方だったのだろうと改めて思う。1,200年という時を経た現代においても、相当の数の人間が金剛峯寺に足を運び、奥の院墓地を訪ね、魂の救済の道を追い続けているという事実がそれを証明している。1,200年語り継がれる、というのは、1,200年経った今も語り尽くせない、ということでもある。それほど空海の教えは深いものだったのだろうし、やっぱり普遍性を持っていたのだと思う。
基本的におれは、宗教に対する関心も理解も薄い。そして、少なくとも今は、特定の宗教というものを必要としていない。宗教的な立場をあまり意識することのない日本で生活し、この方向は当分変わらないだろうと思う。
そんなおれだけど、改めて宗教というものの力を考えさせられた一日でした。