Tuesday, May 24, 2005

科学哲学

今日は、改めて科学哲学のことを書いてみようと思う。
昨日も書いたけれど、学生時代、おれは科学哲学を専攻していた。実際には「専攻していた」だけで、きちんと勉強したとはとても言えないけれど、でも、自分の意志で選んだ学科だった。3,000人以上いる同期のうち、わずか7人しか進まなかった分野だけど、本当に興味があったんだ。

きっかけは、1冊の本だった。
名古屋で寮に入って予備校生活をしていた頃、朝日新聞の書評欄に紹介されていたある本のタイトルが、目にとまった。
それが、大森荘蔵さんの『時は流れず』という著作。
時は流れない。このタイトルが、気になって仕方なかった。流れないとしたら、時はどう移ろうのだろう。おれには全然分からなかった。
書店を探したけれど、大森さんの著作を置いている書店はなかなか見つからなかった。でも、どうしても諦めらなくて取り寄せてもらった。確か2週間ほどして、ようやく手元に届いたんじゃなかったかな。
もう、むさぼるように読んだ。生まれて初めて哲学の本をすごいと思った。残念ながら細かな内容はきちんと覚えていないけれど、ひとつの問題を厳密に考え抜く、ということの迫力を知ったんだ。
その後、大森さんが東大で科学哲学を教えていたのだと知って、ここに行きたいと思った。新聞の書評は大抵、誰が読むのかよく分からないような本ばかりを紹介していて、基本的におもしろくないのだけれど、あの時の朝日新聞の書評は、ちょこっとだけ、おれの方向を変えることになったんだ。

それで、科学哲学。
こいつを考える時は、ひとつの疑問から始めると分かりやすい。
それは、「科学と宗教はなにが違うんだろう」ということ。
科学は、客観的な事実に基づいており、広く正しいと信じられている。宗教はというと、例えばキリスト教であれば聖書の教えに基づいており、信者の間では正しいと信じられているけれど、客観的事実とは考えられていない。
この差は、どこから来るのだろう。
どちらにも、正しいと主張する根拠はある。科学であれば、科学理論だよね。宗教であれば、聖書であったり、コーランであったりするのかもしれない。ただ、聖書はイエスの教えであり、コーランはムハンマドの教え。それは「客観的」なものじゃないとされている。
それなら、科学理論は客観的に正しいのか、というのが次の問題になる。科学理論が正しい、と言われる根拠のひとつは、例えば「実験」だよね。実験を繰り返すことで、理論に裏付けを与えることができる。でも、この実験というやつが実はかなり怪しい。10回やってみて、10回とも同じ結果だったとしても、11回目が同じだという保証がどこにもない。条件が同じであれば、11回目の結果も同じだと思ってしまうのだけれど、そもそもまったく同じ条件での実験は、絶対に2回できない。だってまず、時間が違う。たぶん湿度や、気温だって違うだろう。そんなもの実験には関係ない、と言いたくなるけれど、厳密に考えていくと、なにが影響しているのか、本当のところは誰にも分からない。
さらに言うと、ある実験結果からなんらかの結論を導き出すプロセスにも、実は問題があったりする。
面白い話がある。ものが燃えるのは、酸素があるからだよね。だから、金属を燃やすと、酸化して質量が増える。これは現代では、子供でも知っている常識だ。でも、科学の歴史を遡ると、実はこれとまったく違う理論が信じられていたことがあるんだ。フロギストン説といって、ものが燃えるのは、物質内にあるフロギストン(燃素)が放出するからだ、と考えられていた。でも、この理論だと当然ながら、こんな疑問が湧いてくる。もし燃焼がフロギストンの放出であるなら、ものが燃えたとき、なぜ質量が増えるのか、って。これに対するフロギストン説の説明がすごい。「フロギストンは、マイナスの質量を持っているので、放出すると重くなるんだ」って言うわけ。
この説は、17世紀にあったものらしいので、意外と最近だよね。要するに、実験というのも、そこから導かれる結論は案外まちがっていたりする、ということ。

こうやって延々と考えていくと、科学の根拠というやつが、結局わからなくなってしまう。そう信じている、というだけであれば、宗教と変わらないじゃないか、と思えてくる。よく分からないので、気持ち悪くて寝付きが悪くなり、仕方ないのでもう一度考えてみる。
そんなことをやっているのが、「科学哲学」というわけです。
実際に論理的につきつめていくと、科学の根拠なんて、爪の先ほども残らないのかもしれない。ただひとつ大切なのは、だからと言って科学には価値がない、ということには全然ならない、ということだよね。

久しぶりに整理しながら書いてみると、やっぱりよく分からないよね。