Thursday, June 16, 2005

Japanese

パートナーのアトリエを作っていて、思ったことがある。
それは、「日本語」という特殊性と、閉鎖性。

アトリエには、"Flickr"というフォトシェアリング・ツールを使っている。Flickrを選んだのは、Bloggerに写真を載せることが出来るからだ。実はBloggerは、写真を表示させる機能を標準では備えていないので、Flickrであったり、Helloであったり、そういった別のツールを使う必要が生じてくるんだよね。過去に載せた数少ない写真は、Helloというツールを使って載せたのだけれど、困ったことに、こいつはMacでは動作しない。それで、自宅のMacからでも写真を載せることが出来るようにと思って、Flickrのアカウントを作ったんだ。とはいいながら、基本的にこのブログは文章のみでいこうと思っているのだけれど。

そんな訳で、Flickrを使い始めてみたのだけれど、実際に使ってみると、想像以上によいツールだった。もともとはBloggerに写真を載せることが目的だったのだけれど、フォトシェアリングには想像していた以上のおもしろさがあるような気がしてきて。
例えばFlickrなら、同じ興味を持っている人、同じ音楽を聴く人、あるいは同じ地域に住んでいる人、そういった人を探していって、その人の撮った写真にアクセスしたり、コメントを残したり、そういったことが可能だ。あるいは、写真にタグをつけておけば、キーワード検索で、あるテーマの写真を片っ端から拾ってくることも出来る。Contactといって、ブログでいう「読者」にあたるようなものもあったりする。
でね、ちょっとそういうので遊んでみたりしていたのだけれど、そこで「日本語」というのがひとつの壁になるんだ。というのは、すごく単純なことだけれど、Flickrは英語のツールなので、圧倒的に英語圏のユーザーが多いんだよね。もちろん「写真」そのものには言語は関係ないけれど、フォトシェアリングから発展していくコミュニケーションの大部分は、英語によるものだろうと思う。
実はこれは、Bloggerも同じなんだ。Bloggerは最近インターフェースが日本語対応して、日本人にも使いやすくなったけれど、既存のアカウントのほとんどは英語圏の人間のものだと思う。だから、日本語をベースにして広げていくのは難しいよね。

おれ自身は、不特定多数のアクセスを集めたいとは全然思っていないけれど、「日本語」というだけでコミュニケーションに一定の制限が生まれるという事実は、とても重要だと思う。このインパクトはほとんど圧倒的だ。
「日本語」という言語は、ごく限られた範囲でしか理解されない。それは言い方を変えれば、ごく限られた範囲でしか勝負できないということでもあると思う。そして、これにはふたつの側面があるんだよね。
ひとつは、自分の勝負できる場所が単純に制限される、ということ。
もうひとつは、逆に日本語が使えない人間には上がってこれない勝負の舞台もある、ということ。
例えば、営業なんかはまさにそうだよね。日本でトップセールスだったとしても、英語が使えない限り、その営業スキルをもって世界での勝負に繰り出していくことはできない。その一方で、日本のセールスマンは、海外のセールスマンとの競争から守られているよね。彼らが日本語を話せない、という単純な事実によって。

BloggerやFlickrといったツールを使っていると、やっぱりそのことに若干のもどかしさを覚えるんだ。「日本語」というただそれだけの事実によって、こうしたツールが持つ魅力の少なくともある部分は、大幅に失われてしまっているような気がして。それは結局のところ、日本語が本質的に持っている特殊性であり、閉鎖性なのかもしれない。
それでもおれは、日本語で書き続けるし、日本語でしか書けない。
ただ、「日本語で書く」というのがどういうことなのかは忘れちゃいけないと、そう思ってます。